
そのW 丹波市近郊編(東播磨)

倉谷古墳
神崎郡市川町奥 市川町指定
JR播但線甘地駅の西方・近畿福祉大学へ向かう県道からは、丘陵上にある広いグラウンドと茅葺の復元された竪穴式住居が、
大きな「倉谷古墳公園」の看板文字と共に目に飛 び込んできます。此の奥地区にも城址が在るが分布地図も資料も
無いのでは探索のしようも無く、小峠を超えた福祉大学から諦めて引き返 し古墳公園に寄ってみます。
倉谷古墳は古墳時代中期(五世紀初期)に築かれた直径16m×高さ2mの円墳で、平成4年グラウンド造成工事のため発掘調査されました。墳丘には2基の竪穴式石室が、ほぼ完全な形で残っており箱式石棺、
副葬品の鉄剣・鉄刀・鉄鏃(やじり)等が出土しています。
東山古墳群から城山(貝野城)と妙見山・展望619mピーク H16.5.2
15号墳の玄室 H17.1.23
播磨地方でこの時代に竪穴式石室をもった古墳は少なく、
完全な形で発見された例も他には無いといわれ貴重な遺構は、調査後は公園整備され平成5年、竪穴式住居と共に復元・保存・公開されています。長さ3m・幅1.2m・高さ1mの堅穴式石室は地元産の石を加工せずに積み上げたもので、
底には2〜3cm大程の丸い石が敷き詰められていた様です。石室は東西方向に造られたているので遺骸は頭を西に向けて葬られていたのでしょう。夕陽を見て極楽往生を願う「日相観」
(弥陀の西方浄土に生まれるための行業)思想が既にあったのかは判りませんが(^^ゞ北側には長さ2m・幅0.7mの小型の堅穴式石室が造られています。いずれも盗掘のため天井石は失われているが他は完全な形で残っています。
(現地 倉谷古墳竪穴式石室案内板 市川町教育委員会参照)

城山群集墳 神崎郡神河町寺前城山 神河町の伝説を付記
神崎郡神河町の旧大河内町の城山(寺前城)登山口となる高野山真言宗最明寺背後の山麓に、
古墳時代中後期【6世紀以降に築造されたものと推定されており、大河内町指定の文化
財遺跡として
平成13年3月2日に指定されている】の城山群集墳があって、いずれも横穴式石室を持つ円墳が4基残されています。其のうち1号墳は、ほぼ原型に近い状態に保存されており、発掘調査により弥生式土器や馬具・刀剣・提瓶・鉄鏃等が出土し、
中央公民館に保管されているようです。1号墳は直
径13m 高さ1.7mで、横穴式石室は8.3mx1.32mで無袖ですが封土や石材はほぼ完存し、
天井石は8枚を並べて構成されています。2号墳は直径11m 高さ?mで、横穴式石室は羨道部の長さ2.4m 玄室部3.4mx1.2mで破壊され天井石も無い。封土やや不整形3号墳は直径14m 高さ3mで、
横穴式石室は2.35mx0.83mで封土はほぼ完全に残るが墳頂は凹部となり天井石は無い。4号墳は直径9m 高さ2.2mで、横穴式石室は3.7mx1.6mで封土はほぼ完全に残るが墳頂は凹部となり、天井石は凹部に陥没。
(現地 城山群集墳説明板 市川町教育委員会参照)
城山群集墳1号墳
城山群集墳・2号墳?
合併(H17年11月)して新生・神河町となった旧神埼町の
福本藩陣屋と大河内町の城山山麓には、共に”まむし伝説”が残ります。
城山には寺前城址が有り其の山麓・最明寺付近に城主の構館が在ったのでしょうか。高台の上に建つ重厚な高石垣と長い白壁の寺が居館を想像させます。背後の山の斜面に円墳が残り其の石室が此処に残る「はめむろ」伝説を彷彿させます。
”はめ”とはマムシの事、”むろ”は室で土や石で造った穴倉の事です。話では土牢ですが古墳が点在し城山には露岩が多く、西隣の上岩集落の山には石を切り出したと思われる採石箇所の穴が随所に見られます。
神河町の伝説・其の一 【はめむろ】(旧大河内町)
室町時代の初め・・!赤松円心の家臣が寺前に城を築いていた頃のお話でしょう。その山麓に館を構えていた殿様の奥方はとても気性が荒く、優しさなどはまったく無く、その世話をする女達をいつも扱き使っておりました。
殿様もほとほと手をやいておりましたが其の上とても・やきもちやきでした。そんな女達の中にとても美しく、気立てのいい娘がいて殿様は、その娘の美しさに感心してかわいがりました。やきもちやきの奥方は、
何かにつけて其の娘をいじめていたが其れだけでは気が済まなくなります。とうとうなぐったり・けったりして痛めつけ山の中の土牢に放り込まれ、牢の中の娘は余りの恐しさに身をこわばらせ、牢の隅に小さくなって震えていました。
そのうえ家来には「牢の中にはめ(マムシ)を投げ入れよ」と命じます。かま首をあげたマムシは一斉に飛びかかり悲鳴をあげた娘は、あっという間に息を引きとってしまいました。それいらい・穴ぐらを「はめむろ」と呼び、
辺りには今でも娘の恨みの乗り移ったはめが、たくさん住みついているといいます。
(大河内町観光スポット案内参照)
神河町の伝説・其の二 【まむし谷伝説】(旧神埼町)
播磨地方でも蛇は”ながむし”と呼んで忌み嫌ったり、白蛇を幸運や吉兆と見
・勝利の神として崇め祀ったり、”まむし”が一匹もいない場所として伝説が残っていたりします。神河町の伝説では、まむしが沢山いる場所の伝承も有ります。神河町(旧神
崎町)の
徹心寺には福本藩初代:池田政直から8代徳潤にいたる歴代藩主の墓所がありますが、もう一基・五輪塔の九つ目の台石のみを残すものがあります。
誰を祀ったものか不明ですが此の伝説の主人公となる3代目政森とも・4代目喜以(よしもち)で有ったとか、どちらでもない・・・とか伝説の曖昧さや不確かさは有りますが、
此の福本藩の殿様を供養する為に建てられた五輪塔は積んでも積んでも台石だけを残して崩れてしまうといいます。しかし池田・徳川と両姓のある8代の城主は揃っているので、誰れなのか分からないところが伝説の骨頂というものでしょう!。
参勤交代で高坂峠を越えて丹波路を京都〜江戸に向かっていました。
城山群集墳・3号墳
城山群集墳・4号墳?
殿様の長い留守中に奥方は若い武士との不義をはたらいていた事を、
江戸より帰国した殿様が知るところとなり二人に残酷な仕返しをしました。その方法とは奥方を”まむし攻め”にして殺す計画で、領内の庄屋達に「まむし」を生きたまま集めて出す様に命令を出します。
其の理由がわからずマムシ退治か?・弱った身体をまむし酒で取り戻そうとされるのか?・陣屋の周りの竹薮に放して陣屋に近付けない様にする為?とか噂しあっていました。この時・唯一、私の村には”まむし”がいない、
ときっぱりと断った人もいました。其の人物こそ赤松氏の家臣で、秀吉の播磨侵攻に落城後に帰農した上月氏で、いつも農民の苦しい立場を訴へつづけた上月平左衛門であったと思われています。
やがて御殿に”長持ち”が持ち出され領内から集めたマムシが入れられ、若い奥方が後ろ手に縛られたまま長持ちに入れられ、御殿裏の御蔵ヶ谷に埋められます。このことが有ってから御蔵ヶ谷は”まむし谷”と呼ばれる、
今も沢山のマムシが住みついているといわれます。
(郷土の城ものがたり 兵庫県学校厚生会を参照)

有安古墳
三木市(旧美嚢郡)吉川町有安
有安城への登路が判らなかったが、美嚢川沿いの県道17号線を東条町へ抜けて西脇市から丹波市へと通じる道は何度も利用した事がある。
有安バス停先で”有安古墳”への案内板が有ったのを思い出して有安城探訪ついでに立ち寄って見ます。
地図では中国自動車道で”行き止り”のように立ち消えている最初の車道を右折してコミニュテイセンターへ向かうらしい!道を採ります。17号線がこの分岐の少し先で登り坂になる手前で右折するのが県道314号線で、
此処にも自動車道の高架を潜った先の実楽集落にも実楽古墳があり、古川城へ向かう途中でもあり後ほど立ち寄るつもりです。
有安古墳は中国自動車道トンネルの上
さて道なりに民家側から緩やかな坂道に向かい、墓地の横を抜けて丘陵を目指します。東西に延びる小山塊の北山裾を中国自動車道が走っています。
其の自動車道を北側に越える有安トンネル上の陸橋手前には、周囲をフエンスに囲まれた一角が有り「古墳により侵入禁止」と注意書きが掛かる。此れが有安古墳で東西11.5m・南北13mの円墳か方墳の様です。
橋の手前・トンネル上の大部分が古墳にかかる為、N.T.Pトンネル工法が採られて破壊されることなく保存された6世紀頃の古墳といわれます。墳土からは横穴式や竪穴式の石室や石列遺構等の発掘調査について記された案内説明表示板は無いが、
高くもないマウンドの状態からは石室等は無く、埋葬施設は木棺を直接埋めたものと考えられています。
(吉川町ふるさと再発見パンフレット 吉川町教育委員会参照)

実楽古墳
三木市(旧美嚢郡)吉川町実楽
県道17号線から北谷川沿いに県道314号線を三田・相野方面に向かい、
古川城を目指しますが中国自動車道高架を潜ると”実楽”の地名標識が目に入る。西方には如何にも其処が古墳群だと思わせる丘陵部が有る。民家の直ぐ上・田圃に囲まれた高台の端に実楽古墳は在りました。
吉川町の代表的な古墳として知られる此処・実楽古墳(第2号墳)は,然程大きくはないが墳土も残され,石組の綺麗な横穴式石室を持つ古墳ですが、玄室部だけが残され内部の床石部は遊び場かゴミ捨て場状態です。
実楽古墳・2号墳
内部の石組や奥壁部を撮ろうと思ったらバッテリー切れ、最初に撮った前景が最後の一枚となってしまい、
この後予定の古川城は次回のお楽しみ・・・に取って置いて本日の行動予定は終了してしまった・・・・。
羨道部は無くなり一部の残石と五輪塔の残欠が1〜2基置かれているだけ。
居館や古墳遺構が田畑や河川補修・建築等の石材に転用され壊滅状態になる事を思えば、古墳と確認出来るだけでも感謝すべきか?
田畑の削平で羨道部等の遺構が壊される事も、
里に近い古墳の運命かも?五輪塔や祠が有ると伝説でも残されていそうで愛嬌ですね!
此の古墳も6世紀代の古墳ですが、中国自動車道の建設に伴って第1号墳が調査され,多数の土器や刀・勾玉が出土ています。
実楽遺跡には圃場整備工事に伴い、弥生時代の竪穴式住居跡や多数の弥生式土器も発掘された様です。
(吉川町ふるさと再発見パンフレット 吉川町教育委員会参照)

下ノ山1号墳と四ツ辻古墳群
加東市下滝野(播磨中央公園)

R175を南下して滝野に入り、加古川の流れを堰き止めて河筋を岩のテーブルで埋め尽くす様に、岩礁を露出させた様な闘龍灘の奇岩怪石を眺め県道17号に入る。
北方に連なる丘陵が五峰山・麓の播磨高野とも呼ばれる光明寺へも近い。此処は南北朝期:足利尊氏と弟の直義が戦った光明寺合戦「太平記のふるさと」歴史の舞台となったところで、此処での10日余りの戦いに尊氏軍が撤退しています。
下ノ山1号墳・奥壁から開口する埋もれた羨道部と玄門部の右片袖式
下ノ山1号墳
寺の駐車場からの展望だけでも楽しめますよ。県道筋は滝野駅前陸橋を潜る。車道を挟んだ向かいに加古川流域歴史民俗資料館があり、
加古川水運で活躍したデフオルメオブジェの高瀬舟が見える。「加古川流域の城館」資料がなにかのイベント展示の際・発行されていたが知らず、既に手遅れ!!残念な思いが残る。道なりに進んで分岐は加西市方面を目指せば、
県立播磨中央公園と「滝野温泉ぽかぽ」の表示に従って看板を見て右折し公園内駐車道に入る。
下ノ山古墳群の1号墳・四ッ辻1〜4号墳の見学だけなら第一駐車場を利用するのが良いでしょう。中央公園案内板には下ノ山古墳群と有り、10基程が点在している様で
すが未調査で詳細は不明です。いずれも古墳時代後期(6〜7世紀)のものと考えられている様です。1号墳の所在は、車道沿いのサイクリングランドと第一駐車場の中程・大池の北に位置して示されています。
旧滝野町で唯一:横穴式石室が完在しているのが此の下ノ山1号墳。径約10m・高さ2.7m・幅4m余りの周濠が廻っていたと推測されており、
車道の北側からの墳丘部は封土に完全に覆われて、南の大池に向って石室が開口しています。
下ノ山1号墳全景:周濠が設けられている
下ノ山1号墳:玄室奥壁
入口から直ぐ玄室部で羨道部は殆ど壊滅。
埋もれた入口玄門部付近の詳細は判りませんが、右片袖式で玄室長4m・幅約1.5m。車道と平行して流れる溝谷の南側、池畔の林の中にある。下ノ山古墳1号墳から車道を挟んで溝谷沿いに第一駐車場側の、
大池北西隅にある喫茶店傍から四ッ辻古墳群へと芝生公園に向う。
芝生公園外周を野外ステージに向かう公園管理専用車道を其のまま利用して公園内の最高所を目指して進むほうが判り易いか!!。
丘陵頂部には僅かに円墳の膨らみをもって墳丘が並んでいます。此処に古墳を示す説明は無いので、案外気付かず通り過ぎる人も多い?(古墳に関心を示す人が少ないのかも!!?)。現地には案内板があり此の丘に1〜4号墳が、
丘陵部の裾:案内板近くには発掘調査後に消滅した5〜6号墳が、丘陵の西方にも7〜11号墳が在ったようです。
四ツ辻古墳群は昭和52年
(1977)播磨中央公園の造成中に発見されました。5号墳は径約12m・高さ推定1.8mの円墳で、内部構造は無袖式の横穴式石室をもち、6世紀末期の築造で7世紀前半まで維持されたことが明らかになっています。
6号墳は径10m・高さ0.6m・7世紀前半につくられた円墳で、一部に周溝が巡らされていました。
四ッ辻古墳群1〜4号墳の墳丘が並ぶ
主体部は木棺の周囲に石を置いた程度であることから、横穴式石室を簡略化した形態と考えられます。此の5号墳と6号墳は発掘調査後消失しましたが、丘陵頂部に在る1〜4号墳は芝生が貼られ、
未調査のまま現状保存されています。
(現地:群集墳丘陵裾に「四ッ辻古墳群」5号墳の発掘調査図と共に此の説明案内文が掲げてあります)

鴨池と岩倉古墳群岩倉2号墳 小野市来住町

加西市・加古川市との境界尾根【小野アルプスと呼ばれ、 全山岩山の紅山〜惣山(小野富士)からあざめ峠への縦走は人気の登山ルート】と続く低丘陵尾根の紅山山麓にあって、古墳時代後期(6世紀頃)に築造されたと思われる横穴式石室の古墳13基ばかりの、円墳から成る岩倉古墳群が有ります。
岩倉2号墳:玄門部奥壁
岩倉2号墳:開口部分の巨大な秣石

其の中の一基岩倉古墳群2号墳(小野市史跡)は、小野市最大規模の横穴式石室をもち、南東に開口する石室内部には見事に巨石が積まれ、
ことに現状の入口羨道部の天井に架かる秣石の巨大さが目を惹きます。石室が開口する羨道部に置かれた閉塞石を、殆どの横穴式石室をもつ古墳で見ることは無く?、御蔭で此処も取り外されていて・石室への進入可能になっているのですが、
閉塞石はこの秣石下に有って盗掘・進入を阻んできたのでしょうか!!?。
加古川に沿ってJR加古川線粟生からJR小野町駅に向かい、来住(きすみ)町に入って案内板の鴨池キャンプ場への指示により鴨池の駐車場に着く。
鴨池は男池(おいけ)・女池(めいけ)・皿池から成り、直ぐ近くを流れる加古川の水を灌漑用に使用できなかった小野市の、田園を潤す市内最大規模の灌漑用水池で、
特に毎年10月〜4月頃まで・越冬の為飛来する鴨が多く集まる事で名が知られる男池(約20ヘクタール)を来住の
鴨池の愛称で呼ばれます。嘗てはオオヒシクイ(雁)の渡来では関西随一といわれた男池(鴨池)には、
現在もマガモ・ヒドリガモ・オナガガモ・コガモ・カルガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ等、一頃より数は随分と減った様に云われますが、約2000羽が飛来しているとの事。鴨池は禁猟区となっていますが、当地で許された唯一の鴨の捕獲猟方に「投げ網(突き網)」
【2m程の捕り手(取手)を具えたカスミ網の一種】による猟があります。
鴨池
夜明け・夕暮れに餌を求めて池に飛来する鴨の通り道となっている、周囲の尾根の樹間に待ち伏せて、
頭上を飛ぶ鴨に三角形の又手網を打ち上げて生け捕りにする方法です。加古川から「コミュニティセンタきすみの」・養父寺南方を流れる前谷川が、小川に棲む稀少品種の小魚等を護り育む為、ビオトープ整備されており、
川を遡れば谷間を越え・車道を挟んで鴨池なので、素人目には此処が一番のポイントと思えますが?。全国でも珍しい狩猟方法で小野市好古館内1F天井に・その実物実践状態が展示されています。

古墳レポートに位置の説明上・鴨池を入れましたが此処には享和3年 (1803)銘の高さ40cm程の小さな道標が在り、
車道傍らの明神山には「文政溝の記念碑」が立つが此
れは別項で紹介したいと思います・・・・・・!!。岩倉古墳群2号墳へは女池東南池端から「小野アルプス・きすみの見晴らしの森」」紅山頂上へのハイキング道標に従って進み、
左下方に見える田園の畦を通って向かいの丘陵に向うコースが「きすみの見晴らしの森」惣山へのコース、直進して正面丘陵に向う林道に入ると、やがて南コースと北コースの分岐点に着く。
岩倉2号墳:羨道から玄門部と玄室
岩倉2号墳:奥壁から玄門部(両袖式)と開口する羨道部

北コースに入って直ぐ「岩倉2号墳」への表示板を見て登山コースを外れますが数10m程n所に古墳案内石標柱が立ち、
開口部に入口上に巨石を載せる2号墳が見えます。石室は全長約9.5m程の両袖式で、規模は径約20m程の円墳・羨道部は長さ4.5m・幅1.4m・高さ1.2m、やや持ち送りが見られる玄室部は奥行約5m・幅2.5m・高さ2.8mもあり、
大小2枚の石を積んた奥壁等の残存状態も良好です。
(現地:鴨池・岩倉2号墳の小野市観光協会説明板 及び 「おのふるさと散歩」 を参照)

キツネ塚古墳群
小野市(ひまわりの丘公園内)
キツネ塚と呼ばれる古墳は多く西脇市の水尾城の北麓付近にもあった。しかし此処・小野市のほほ中央付近に位置して、R175号線傍にシンボルタワ
ー(高さ20mのひまわりの塔)がランドマークとして目立つ「ひまわりの丘公園」内に有るキツネ塚古墳群は、県の埋蔵文化財保護の手引きの行政地区マップにも記載が無く!!?、集団で訪れる保育園児や、子供・お母さん方で賑わう「わんぱく広場」と接する芝生広場の南西部に在り、説明板も立てられているが、立ち止まって見るほどの酔狂な人も居ない様子です・・・。
キツネ塚古墳群・1号墳と2号墳
加古川左岸の見晴らしの良い段丘上の約8ヘクタール(甲子園の約2倍)を整備した「ひまわりの丘公園」がある。公園駐車場の東側の田圃・畑には夏・約
10万本と云われる「ひまわり」と秋にはコスモス畑となり、駐車場西には、四季折々の花が咲く花壇の中の小径があり、シンボルタワー・多目的広場・わんぱく広場・芝生公園と続く。
わんぱく広場と芝生公園の間には、二基が並ぶように築造されたキツネ塚古墳群(東側の1号墳・西側の2号墳)はどちらも径約11m・高さ1m程の円墳で、地元ではキツネの棲家となっていたところから、キツネ塚と呼ばれていました。
ひまわりの丘公園「わんぱく広場」傍にあるが近づく人もいない?キツネ塚古墳群

1号墳からは副葬品として須恵器の高坏(たかつき)・坏蓋・堤瓶・ハソウ【瓦に泉と書くが漢字変換出来ない!!
壺形の須恵器で胴部に小さな孔のあいたものをハソウと呼ばれ、小孔に竹等の管を差し込んで、液体を注ぐ為に使用されたものと考えられているようです】等が出土しています。2号墳は説明なく不明ですが、
両古墳が土器を使用していた後期古墳時代(6世紀末〜7世紀初め頃)の築造と見られます。小野市内は後期古墳時代の古墳が400基以上も集中する地域となっています。
(現地:キツネ塚古墳群 説明案内文を参照)
丹波の由緒 本誌
別冊