篠山市編Ⅰ
丹波市編Ⅰ | 丹波市編Ⅱ | 篠山市編Ⅰ | 篠山市編Ⅱ | 篠山市編Ⅲ | 篠山市編Ⅳ | 北播磨編 | 東播磨編 |
稲荷山古墳 篠山市小田中 | 石くど古墳 篠山市熊谷 | 町浦古墳 篠山市追入 | 北条古墳 篠山市細工所 |
新宮古墳と碁石塚 郡家 | 居籠塚古墳 郡家 | 三ノ宮古墳 中村 | 洞中古墳 日置 |
郡家八幡塚古墳 郡家 | 茶ノ木塚古墳 郡家 | 諏訪山古墳 西岡屋 | 四王子古墳 小坂 |
岩井山古墳 小立 | 地蔵山古墳 小立 |
篠山市編Ⅱもご覧ください。■
雲部車塚古墳・山ン谷古墳は篠山市編Ⅲ
稲荷山古墳 篠山市小田中
篠山川右岸(北側)沿いの県道702号で般若寺城 (八上城攻め明智の向城)を北に望み東走し 雲部車塚や北方民家傍の北条古墳を見て細工所でR173号に合流して北に向かい小田中集落内の低丘陵を目指す。「チルドレンミュージアム」を目印に目的位置は「負け嫌い稲荷伝説の
稲荷山古墳羨道部
小田中清五郎稲荷神社背後。神社横から急斜な尾根沿いに続く階段道は下降時滑りやすく注意だが現在(平成19年)は稲荷山古墳石室開口上部からの階段道は「引き返せ」とばかりロープが張られている。稲荷山古墳石室への入室も篠山市教育委員会により禁止の立て札が随分以前より立てられている。
玄室から羨道(玄門部)を見るとT字状が良く判る
神社からのコースにも注意書きがある方が親切!。古墳時代後期(6世紀後半)築造とされる稲荷山古墳は前方後円墳
(明確にはされていないが!!)と推察されているが尾根との明確な分離が見えず、前方後円墳とは確認されていないが前方後円墳の形状からは後円部の東面に石室が開口しており墳丘は全長は約28m・後円部経20m、埋葬施設は横穴式石室で東方に開口しています。
玄室から羨道部左側
石室の形が変わっていて玄室に直角に奥行3.85cm・幅1mの細長い羨道部がある。玄室部は奥行2.5m・幅3.7m・高さ3mと両袖式と呼ぶには
横に長過ぎる!!(全長6.36m)T字形プランの古墳は大変珍しくて全国に約90基兵庫県下で4基(神戸市の高塚山11号墳・朝来市の奥山1号墳他!!?)を数えます。天井中央部分に一枚の巨石が用いられ、四方からの三角持ち送りが見られドーム状を呈しています。
玄室から羨道部右側
此の県内でも貴重な古代遺産・稲荷山古墳が手立てもなく 崩壊の危険に晒される事だけはないよう保存の為の補強対策と一日も早く自由安全に見学出来るよう、対応をお願いしたいところです。稲荷山古墳は大陸様式を伝える貴重な遺構で韓国の漢江流域にある梅竜里(メリョンリ)古墳との関連が指摘されており、渡来人の墳墓とも推察される 篠山市内では今のところこの古墳のみ。
ドーム状の天井部を持つ稲荷山古墳
石材の殆んどは自然石を利用し、玄室の天井部をアーチ状に積み上げるなど大陸からの影響が伺える貴重な古墳で渡来人系の墳墓だろうとも推測されていますが、奈良県明日香村出土の木簡に「旦波國多貴評草上里漢人部□□□
(たんばのくに たきのこおり くさかみのさと あやひとのべ)」とあり注目されている。
(篠山市 昭和45年(1970)10.13指定文化財)
篠山市教育委員会 現地案内板を参照
石くど古墳 篠山市熊谷
篠山産業高校・篠山署から新宮古墳前へ出て鳳鳴高等学校・雲部車塚古墳へ向かう農免道路!を東へ約300m程で熊谷地区の信号のある交差点。
此処から藤岡川に沿って北の山麓に向って進む道は東窟寺・岩谷観音堂
を経て藤岡ダムに向う道なので案内標識も有りますので分かるでしょう。右手前方・のどかな田園風景のなかの一隅に忽然と石積みが見えてきます。これが飛鳥の石舞台古墳を思わせる丹波の石舞台「石くど」です。
丹波の石舞台「石くど」南に開口する羨道部の側壁基部
天正年間(1573-92)の頃 :此の辺りは「樫木の森」と呼ばれており、大きな?円墳だった様です。長い年月の間に封土が流れ落ち、石郭の巨石が完全に露出したもので案内説明板によると非常に珍しいものだとされているが、石室も当初の形が完全に残っていないので石の組合わせに歪が生じ内部は危険な状態なので立入らないよう注意の看板もある。
内部は祠が祀られ、其の裏側の石室空間部にも石材が投げ込まれた様に積まれ?内部を覗きこんでは見たが興味は減衰してしまう。しかし外観からは ・横穴式石室をもつ古墳で三段に積重ねられた玄室
部の奥壁部や巨大な天井石が2枚残り、羨道部分も僅かながら痕跡を残す程度。平地に築造された古墳ですが周濠はもっていなかった様です。
旧家の台所にある「かまど」の”おくどさん”に似ているところから”石くど”と呼ばれますが、”火の雨”が降った時の隠れ場所との伝承が残ります。古墳時代後期(6世紀中頃~)の築造なんでしょうか!。新宮古墳にみる様な周濠はなく、
石室も巨石が使用されていますが無袖式石室で、玄室は高さ約2.5m・長さ約4m、羨道部(入口から玄門部までの通路は約5mほど、全長約10mの”石くど”古墳は篠山市指定史跡で篠山五十三次名所の一つです。
(現地[石くど]案内板 篠山市教育委員会 を参照)
新宮古墳と碁石塚 篠山市郡家字宮の東 昭33・ 8・10 篠山市指定文化財
県道140号の篠山産業高校・篠山警察署・旧篠山歩兵第70連隊前から郡家(東浜谷)交差点を東へ約200m:
田園風景の中に小さな杜があり室町時代中期・応永年間創建(1394-28)といわれる新宮神社があり、神社と杜の全域が昭和33年8月10日・篠山の
文化財に指定された新宮古墳です。
新宮古墳:南の車道を除き田に囲まれて環濠跡を偲ばせる
5世紀後半頃(古墳中期)築造された竪穴式の古墳と考えられ、平地に築造されたものとしては丹波最大級の円墳直径 52.5m・頂上部径17.5m・高さ7mは全国的にも大型。遠目では判らないが神社背後の墳丘は神社含む丘陵全域が円墳だと実感する。周囲の水田畦道の形状等から幅約20m、直径約87.5mの周濠があった痕跡と推定される。古書によると墳頂部に祀られていた新宮大明神の社跡からは江戸時代中期に甲(よろい)・冑(かぶと)や太刀が出土したと
伝えられており、其の規模からは千数百年前の豪族の墳墓として貴重なものといる。大正元年にも石棺まで掘り下げたと言われ今・その石は社殿の軒下に運ばれており、蓋石は社前の溝の橋にしたと記されているが、道路拡張工事等で保管されていた橋の蓋石は・盗難!により持ち去られてしまった様です。墳頂部の平坦な様子からは発掘調査後の状態?…中央付近の 凹角部(窪地)は竪穴式石室の埋葬施設跡だったのでしょうか?。
碁石塚から新宮神社(境内全体が円墳)
県道140号線を挟んで南側の田圃の中にある小円墳は碁石塚(直径18m・高さ3.5m)と呼ばれますが、県道沿いの西にも亀塚があったといわれ、新宮古墳と碁石塚・亀塚の三塚が(正?)三角形に結びつく位置にあり、雲部車塚と同様に陪塚と考えられる。碁石塚にも約6mの周壕があったことがわかっています。其の車塚には陪塚含め直線上に七ッ塚が並んでいたとか?、新宮古墳とは車道と並んで西80m程に郡家八幡塚古墳・車道向かい南側20mに碁石塚・其の南60m田の中には茶ノ木塚がある。他にも遺構や位置は未確認だが付近には居籠塚・王子塚等があるという。東500m程の熊谷には石くど古墳もある。古墳は円墳や前方後円墳等が群集墳として点在する例がほとんどの様?しかも盗掘・開発等で破壊され、分布図記録による位置さえ不明のものもあるんでしょうね。
新宮神社手水鉢の盃状穴
陪塚と考えられる碁石塚には碁石の鎧が埋めてあるとの伝承が残るのですが…!!。此処も約6mの周壕があったとされます。なを神宮神社の鳥居を潜ったところに手水鉢があるが、鉢の縁には信仰の証とされる
珍しい盃状穴を見る。特に四隅が深く穿かれているようです。丹波市にも青垣町の高座神社本殿・社務所に向う参道の分岐(踊り場)からの石垣や足下の石段に遺る。
(現地・新宮神社鳥居横の丹波篠山五十三次ガイド案内板 参照)
郡家八幡塚古墳/茶ノ木塚古墳/居籠塚古墳
郡家八幡塚 郡家字溝前
旧篠山歩兵第70連隊前から郡家(東浜谷)の交差点の遺跡分布図では近く・郡家字橋爪の八幡神社に居籠塚古墳(径23mx高5m)が、交差点を東へ約150m程には平地では丹波最大級の円墳:新宮古墳が、車道を挟んで新宮古墳の陪塚とされる碁石塚がある。此の郡家の交差点と新宮古墳との中程・車道の北側に小さな丘陵があり石段参道の上に小社が祀られている。
郡家八幡塚
高さ4m程の段差の石段参道を二折して神社前の広場に着くと円墳(?方墳)の墳丘部大部分を削平して小社が建てられている様です。コメントに径27mx高さ5m、僅かに削り残された墳頂部付近に石材は無さそうで赤っぽい土砂が露出しているだけ。新宮古墳同様に埋葬施設は竪穴式木棺か石室だったのでしょうか?
茶ノ木塚古墳 郡家字溝前の坪
車道の北側には新宮古墳と並んで西隣約80m程には高さも同じほどの古墳の森が見えています。
茶ノ木塚から新宮神社(神宮古墳)
其処が郡家八幡塚古墳で、新宮古墳とも車道を挟んで南側5~60m程に碁石塚同様に小古墳の墳丘を見せて田圃の中に在るのが茶ノ木塚古墳です。田圃の中の畦道が僅かに登り傾斜して小さな墳丘内に延びていく。墳丘内は削平された方形の墳頂部に数基の墓石が建つ茶ノ木塚古墳は径15mx高さ2.3m程の円墳だったようです。
居籠塚古墳 郡家字溝前
5差路の「郡家」交差点そばに居籠(いがも)神社がある。県道に沿って居籠塚・郡家八幡塚・新宮古墳と横並び、いずれも神社境内に在るため、兵庫県や篠山市の埋蔵文化財分布地図等には郡家八幡塚を居籠塚と記されているのか?確認していないが郡家八幡塚を居籠塚として紹介されている例をみます。
居籠塚:墳丘を半分残して背にする居籠神社
県考古博物館の埋蔵文化財保護の手引き「行政地区マップ」に居籠塚が記されてはいるが「直径23m・高さ5m 八幡神社境内」とのみのコメントだけ。どちらも新宮古墳から近く、同規模の古墳が神社境内にあり、且つ墳丘を大きく切崩し・削平され神社が祀られています。
北側からは僅かに墳形を止め居籠塚と判るが!!?
八幡神社とせず石鳥居の石の扁額に記されている「居籠神社」名が記されていれば、 間違うことは無かったのかも・・?。墳形は壊滅状態だが、残る平坦な墳頂部の円形マウンド、北面に廻ると東西を建物に挟まれた狭い範囲・藪中の墳丘が古墳の所在を示しています。
諏訪山古墳群
篠山市西岡屋字諏訪山
R176号から篠山IC傍を抜けて篠山市街地へ向うと東岡屋の交差点に出る。東北側の迫る低丘陵が権現山で
富ノ山とも飛ノ山と呼ばれ、山頂部一帯は岡屋城(飛ノ山城)があり、天下普請となった篠山城築城時の候補地の一つともなっている。諏訪神社の御神体山として、また白山権現を祀った権現山でもあるが旧陸軍の用地となり其の後:貯水施設が出来、祭祀跡・神社跡・飛ノ山城の城遺構は破壊され改変著しく八上城波多野氏の重臣:渋谷氏の山城遺構も今となっては
諏訪山1号墳
取壊され荒れた空間となった更地の南北端を少し下った藪の中に残る、曲輪の削平段に偲ぶだけですが、幾つかのコースを設定して整備された遊歩道も、訪れる人も城を意識して登ってくる人は殆どいないでしょうね。此の権現山を廻るコースの中に権現山古墳群も取り入れられています。諏訪神社から新たんば荘の在る鞍部手前の民家側から車道を挟んで権現山(富ノ山)とは反対に北側の丘陵に進む遊歩道が古墳群(1~4号墳)を廻って諏訪神社か、
諏訪山2号墳
分岐から100m程の5号墳を経て大膳寺(諏訪神社奥之院との案内標があり、嘗ての諏訪神社の神宮寺と推察されます)境内へ通じています。
遊歩道は直ぐに平坦な尾根筋に出ると早速:権現山1号墳(径18.5mX高2.5m)があります。県考古博物館の埋蔵文化財保護の手引き「行政地区マップ」によるピンスポットでは神社(三白大明神)付近の1~4号墳のうち特に4号墳の位置が少し違うように思えるが、マップの位置付近に古墳は無さそうです。従って整備コースに立つxx号墳を正規のものとし、古墳の規模は上記地区マップ当概資料にあるコメントを参照しておく。
諏訪山2号墳から3号墳
(中央)と三白稲荷社の傍にある4号墳
続いて現れる墳丘が2号墳(径23.5mX高3m)で諏訪山古墳群では最大の規模。墳丘に立つと円形の古墳のマウンドが隙間無く!3号墳(径10mX高1.5m)、4号墳(径17mX2.5m)と三つ並んでいます。4号墳の傍に赤い鳥居が並ぶ三白稲荷神社が負け嫌い稲荷伝説の飛の山三四郎を祀る神社!!。諏訪神社から登ってくる西側参道に赤い鳥居が並ぶ。鳥居に掛かる神号額には「正一位三白大明神」とあり、三白すなわち三四郎の事とされる様です。北方1kmに藤井居館があり其の主郭にも願主:藤井氏により小さな祠に「三白稲荷」が祀られてた。
鳥居の参道を下らず北方に向う遊歩道は5号墳(一辺が18.8mX高3mの方墳の様)に出る。
諏訪山5号墳と市野眞徳翁の墓
市野家の墓所で古墳左(西側)隅に市野眞徳夫妻の墓が傾きがちに建つ。篠山藩士で事故で両手を失いながらも、
腕に筆をくくりつけて「仰青録(藩主:青山家の系譜)」全24巻を書き上げた人という。また直ぐ其処に墓l地と大膳寺の屋根が見えるが、此処は赤穂義士の一人・不破数右衛門の子が此処で出家し
20歳頃まで過したとされます。大膳寺の北方には後藤又兵衛の5代目・6代目の墓もあり歴史・由来を調べて廻れば新たな発見があるかも・・・?
町浦古墳 篠山市追入町浦坪
丹波市からR176号線を篠山市へと、H17年11月27日開通した新鐘ヶ坂トンネルを抜け出た所が追入。春の
野草ユキワリイチゲやユキワリソウが咲き始めた追手神社と、天正期に明智光秀の丹波攻め拠点として築かれた金山城登山口側には追入神社がある。鐘を持って逃げた神が逃込んだ追入と、
壊れた玄室奥壁部から玄門・羨道!部の様子
其の神を追った追手の二つの神社の話が伝わり、
其の神が逃込んだのが此の石室かと想わせるような古墳が追入神社前の民家と畑の中にある。封土が殆ど流れ落ちて失われ、玄室の奥壁部が大きく抜かれた状態の円墳だが古墳の多い丹南町のなかでも最大規模の横穴式石室が露呈している。古墳時代後期(6世紀後半)の築造と思われる。南方側に崩れて狭くなった開口部を
見せている民家側が羨道部です。石室内へ入るには危険な状態になっている。
町浦古墳?全容(石の抜かれた奥壁!側から)
開口している羨道部や抜かれた奥壁から観察してみるが、天井が低くなっている出口 2m強程が羨道部で其の玄門部から幅が僅かな広がりを持つが無袖式
!!で玄室に入る様です。全体的には比較的大きな石で整然と組まれた全長約 9m・高さ約1~1.5m・幅2~2.5m程の横穴式石室で奥壁から6.5m程の幅広い中央付近が玄室部、天井の高さが約1m程と低くなっている出口2m程が羨道部の様です。
洞中古墳(1号墳・2号墳)
篠山町曽地中
世界中にも唯一・此処だけに有るという珍しい天然記念物裸榧(かや)の磯宮八幡神社を過ぎR372号日置東の信号を南へ県道12号(川西篠山線)に入って約1.8km地点に古墳時代中期から後期(5~6世紀)過渡期に築造された洞中古墳がある。遺跡分布図には1~3号墳?まであるが、
洞中古墳(2号墳):前方後円墳
「丹波篠山五十三次 」現地説明板等により、先ず此処・前方後円墳を2号墳、丹波最大級といわれる円墳を1号墳として説明がされていますので其れに準じます!。洞中古墳第1号墳は民家に隣接した山側の畑地にあるので、注意してみれば車道からも見える。1・2号墳共に今まで何度も此の道を往復していたが古墳を意識して立寄る事もなく古坂峠を越え”猪村”を経て猪名川や
洞中古墳(2号墳):羨道部から玄門部
川西池田へ抜けていた。丹波に戻った今こそ:丹波の風土や歴史に触れていきたいと、山や山城は勿論・古墳や各地区の寺社・伝統芸能文化にも触れ”心のふるさと”から”我がふるさと”を体感していきたいと意気込んでいるのですが!!。
洞中古墳第2号墳(町・史跡)は古墳時代中期から後期(6世紀)への過渡期に築造されたものと推定される横穴式石室を持つ
前方後円墳で墳丘の全長は約30m・後円部は径17m・高さ5.5m、前方部幅16m・高さ4mを測る。南西方向に開口する石室は片袖式で
全長10.7m・玄室長5m・同幅1.9mとやや小さく、 近接して2号墳より新しい1号墳があるというが所在も知らず県道12号線に案内標示があり、
洞中古墳(1号墳)円墳の西方に開口部
田圃の奥に見えている2号墳に立ち寄ってみました。西に開口する羨道入口部は埋もれて少し屈み腰で
内部に入ると4m程で天井の高い玄室に入る。玄室内から玄門部を見れば方袖式石室が観察出来ます。1号墳と共に古墳築造の形状的変化を追えることで貴重であるとされます。洞中2号墳の北100m民家と田畑の東隣りにある洞中古墳群第1号墳(町・史跡)は古墳時代後期(6世紀)の築造とされていますが、
第2号墳より新しいものともされています。
洞中古墳(2号墳):片袖式石室の玄室部
横穴式石室を内部主体とする円墳で石室は西方向に開口し巨石を使用した両袖式で丹波地方最大級の石室とされており墳丘径20m・高さ4mの円墳です。
円墳周囲の墳丘はほぼ其の全容を残しているが、墳丘頂部の天井石は露出しており玄室の奥壁は抜かれているのか崩壊したものか?。玄室は長さ約6.5m・幅2.5m・高さ3.5mで落下したと思われる石材・石片が有って石室内部は危険なため、
立入り禁止の柵が有り玄室部には入れません。勿論墳丘上部の天井石(葺石)部もフエンスで囲われています。古墳時代(3世紀末~7世紀)
稲作を中心に農業が急速に発達し、高度な生活文化をもってくると山間部から平地へと移り集落が広がっていった。付近(弥十郎ヶ岳の西山腹から山麓にかけてだろうか?)には数基の古墳や須恵器の窯跡もあり、少し行くと「四十九池」がある。その東南の谷の奧に行基が最後に建てたという
広大な四十九院跡があり、周辺にも古墳が多く点在しているようで、このあたりの古墳群が其のことをよく示しているようです。「四十九院」は、お釈迦様が修行されて仏(如来)となった事から「成仏する為の道場」といい此処で修行して天界にある「兜率天浄土」【兜率天に生まれることで兜率上生とか兜率往生】に成仏すると云われます。 明智光秀の「八上城攻め」の際・籠城した
1号墳を南方から:…〃 フエンス部
波多野方の物資救援にと此の四十九院の坊さん達や三田市側の領民等が兵糧を後川から曽地を通って運んでいた様です。搬送に関わった領民や僧達が捕らえられ殺された話は篠山・三田の両市に伝説が残ります。曽地にも”天正の首塚”があって堂山砦の中でも記したが、其の話は曽地奥砦や四十九院跡から弥十郎ヶ岳ルートを登った時にでも…其の曽地奥砦も其の後は明智方包囲網群の一つとして兵糧搬入・兵の侵入を防ぎ、八上城からの脱出ルートを閉鎖する重要拠点となった事でしょう。今回・洞中古墳に寄ったのも古坂峠から後川砦を訪ねた帰路の寄り道でした。後川から古坂峠(城東トンネル)を抜け篠山市側に降ってくると左右に田園が拡がってきて県道東側に見えて来る古墳が洞中古墳(2号墳)です。其の北方約100m・民家の側に1号墳が在るので立寄ります。2号墳の案内標識近くの農道脇以外・車道に駐車スペースはない。
(現地案内板 及び丹波篠山五十三次ガイド 参照)
北条古墳
篠山町細工所字北条 (兵庫県指定史跡)
雲部車塚古墳の東先・バス停:松ヶ鼻から下篠見へと左に折れて北に向う道の途中、左(西面)手に数段の田圃があり、其の斜面上の民家側に北条古墳が見える。城山城と峰続きの小山域の最高峰:村雲山(331m)から南東へ緩やかに流れ出る小さな舌状尾根の先端部を切断して方形に墳形を整えて造られています。
北条古墳(車道側から)
墳頂部分は開墾されているし北側は土がとられ道路にするなどにより、かなり変形しているが内部施設は粘土槨と考えられ、粘土槨の主体部や其の近辺からは
直刀や壷形埴輪・家型等の形象埴輪・円筒埴輪等の遺物が多く出土し、それら遺物により築造時期は古墳時代中期(5世紀後半)とされます。濠や葺石は見当たらないようだが土取り作業中に埴輪片や刀剣が発見され昭和43年(1968)3月調査され
一辺30mの方墳であることが判明し兵庫県指定(昭和45年3月30日)の史跡になっています。
(現地:北条古墳・県教育委員会案内板 及び丹波篠山五十三次ガイド 参照)
谷田山古墳群【地蔵山古墳と谷田山古墳群】
地蔵山古墳篠山町小立
篠山川を挟んでR173号線と並走する北条古墳前の車道を北に向かって
走ると垂井集落の次に小立集落に入る。左方に迫る丘陵先端部 ・民家の屋根越に古墳の岩室が開口しているのが車道からも見えますよ。教育委員会による地蔵山古墳調査の際・古墳前の雑木が、地元の方や業者も入れて伐採され車道からも古墳が確認される様になった。
集落内の道を岩井山古墳群へ向かう途中に大立山長福寺がる。山門前を過ぎた少し先・南側の丘陵先端部から山に入る踏み跡が有る。
地蔵山古墳の石室(奥壁)
其の登り口の前に岩井山古墳群の群集墳分布図付きの篠山市教育委員会の真新しい案内説明板が立てられています。案内板と正対して田圃と民家があり、其の山側の山腹に巨石を積んだ地蔵山古墳がある。古墳フアンに雲部車塚を知らない人は居ないでしょうが其の他に篠山市では洞中古墳・新宮古墳・石くど等の代表的な古墳が点在する。”取っときの”古墳群をと思い、岩井山古墳群を下見に来たのだが…其の前にある巨大な石室が見える地蔵山古墳に向かう。
地蔵山古墳の石室
北条古墳前を通って垂水集落から小立集落に入ってくると車道からもポッカリと南に向かって開口している大きな岩室が民家の屋根上を通して見えている。場所が長福寺前の岩井山古墳群の案内板前。板橋を渡って尾根に取り付く山道を辿れば谷田山古墳群で山の斜面先端部に有るのが地蔵山古墳です。尾根筋に沿って山道を進むと谷田山古墳の1-4号墳で尾根上に2基の墳丘が見られ、山の西側斜面に沿った20m程の距離で2基の古墳が石室が南に開口して並んでいます。篠山市の埋蔵文化財分布地図等を未だ調べていないので号墳・固有名称を間違っているかもしれないので注意願います。
地蔵山古墳B(xx?号墳:尾根東下側)
先ず山裾の地蔵山古墳。東尾根を辿った最初のものをB ・其の20m程上の古墳をCとしておきます。先ず山裾を田圃に沿って進んで民家裏手の山側にある赤い鳥居の小社の横から山の斜面を登り始めます。此処には既に案内文字は完全に消え、汚れ・朽ちかけた
ただの板となった地蔵山古墳の案内板が立ち、其の上部には車道からみえた古墳の石室がある。地蔵山古墳は最初の写真上左右の通り、巨石を用いた横穴式石室が南に開口しています。石室入口前の細い山道1.5m程の前は急斜面なので羨道が延びていたとは思えないほど、更に上方の有った2基の古墳も同様です。
同 古墳(奥壁)
いずれも奥行は短く直列の無袖式で玄室部を区切るものも、また玄室部分が高くなっているわけでもない巨大な石棺そのものの中に 入っているような横穴式石室で岩井山古墳群とは同時期:古墳時代後期(6-7世紀)のものの様です。入口から奥壁までは、ほぼズン胴で幅約1.5m・奥行約5.5m・高さは約2m。エッ…と思うほど奥行きがない(5.5m程)が左右の壁石は共に4枚・葺石(天井石)は2枚、封土は古墳群の3基共に残土が薄くなっていて円墳の墳丘形状を成していないが 天井石もズレておらず岩の隙間等から光が洩れて射し込んではいない。上方からは入口部分の天井石が露出していて古墳の位置が判る。長福寺側から東尾根を辿る道は此の古墳Aからの道と合流し、西斜面に下る横木を渡して造られた階段道が古墳Bから古墳Cへと通じています。
地蔵山古墳C(xx?号墳:尾根東上側)奥壁
私は古墳Aから少し登った先で西斜面に沿って進んでみた。古墳Bの石室入口が見えてくる。羨道部があったのか?石室前部の 石壁が崩れたものか残石があるが此処も2~3m前で急斜面となる。天井石がもう一枚あって其れが崩落したものか?大きさからみて入口の残石は葺石や側壁の石なのでしょう。封土の土砂が入口部を塞ぎ、内部へも流れ込んで溜まっているようで
全容はよく判らないが同規模の3基の中では高さで(約1.3m程か?)一番小さいもの。匍伏して内部に入り、積もった土砂の土塁先にある奥壁を懐中電灯とフラッシュで撮影し、そのまま後退りして石室を出る。
地蔵山古墳C(xx?号墳:尾根東上側)
踏み跡は20m程先の次ぐの古墳Cに続きます。最期の古墳Cは石室の開口部とほぼ同じほどの巨石を載せて、実に堂々と見えた。天井石は3枚。古墳は3基とも石室内に入れるが、今まで羨道から無袖・方袖・両袖型はともかく玄門部があって天井を高くした玄室に入るのが大方のパターンだったので、羨道部らしいものもなく玄門が無く・奥行が短い長方形の特大の石棺に入ったような錯覚を味わった。2基の古墳上部の尾根筋にも墳丘らしいマウンドを見るが残石を見ない。古墳の多い一帯なので思い過ごしでしょう?。もし・そうで有っても壊滅状態…!!
岩井山古墳 篠山町小立
県道702号で濠に水を湛えた前方後円墳の車塚古墳を過ぎると 城山城のある丘陵南端の山裾・松ヶ鼻を通る。正面には細工所城(荒木城・井串城)の在る山裾を
南北に篠山川が流れR173号線が北方に府県境の板坂峠を越えて南丹市瑞穂町に、南には福住へ出て摂津・能勢方面へ、またR372号を天引峠を越えて園部・亀岡に通じる、要衝の地は古代より
岩井山古墳群:3号墳
京都丹波との文化・政治の交差点だったようで、此処に其の証の様な京都丹波に多い方墳形の北条古墳がある。農耕地に恵まれ住環境もよくて古くから生活が営まれてきた周辺には縄文・弥生時代の遺跡や円墳等が篠山市内でも特に多い地域です。此の北条古墳を左に見て車道を北に向かうと 垂井集落・続いて小立集落があります。左方に迫る丘陵の山腹を見ていると、民家の屋根越に古墳の岩室が開口しているのが車道からも見えます。
岩井山古墳群:4号墳
集落内の道を岩井山古墳群へ向かう途中に大立山長福寺があり、其の山門前を過ぎた南側の丘陵先端部から
山に入る踏み跡が地蔵山古墳への入口です。其の登り口の前に「丹波篠山五十三次」の石標と
岩井山古墳群の群集墳分布図付き、真新しい案内説明板が篠山市教育委員会の手で立てられています。以前は「古墳の森」として公園化し整備されていたようですが3~4枚の古墳案内説明板以外は
朽ちて倒れていたり、判読も出来ないほどに文字が消えている。
岩井山4号墳石室内部(奥壁)
目前の観音堂へ向かう道の先、北側には清滝山(538m)から東南へと枝尾根を延びだす丘陵の先端部を小立集落の県道に落とす急斜面に立地して、
東西に約90m・尾根沿いに南北約200m程の範囲内に10基から成る横穴式石室が点在する古墳群があります。田圃の畦道に添って竹薮へと”ぬかるんだ道”を進む方が楽ですが、猪避けフエンス添いの道は足元準備が不十分でしたら、靴やズボンを汚して半べそ。 小さな神社から墓地横を抜けて、
古墳群上方の4号墳辺りへ出る薄い踏み跡を辿るのも良いでしょう。
岩井山3号墳石室(奥壁から開口部)
地蔵山古墳群ともに其の全ては羨道部を持たず、径5m-10m程度の円墳で南向きに開口する小規模な無袖型の横穴式石室をもつ構造となっており、古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初め)の築造のよる大陸の古墳形式のよるものと考えられています。南向きの急な斜面をカットして墳丘を構築している為か小規模なうえ:封土も洗い流されて薄くなり円墳の墳丘状を成していない。尾根の上部からは墳墓の案内板が見えるので、あそこにも有る!!と判る程度。先ず目に付くのが崖上に開口部を覗かせる岩井山2号墳です。
岩井山2号墳石室(奥壁)
径8m・高さ2m・石室の全長は3.5m・幅は奥壁部で1.25m・中央部及び入口部は1.3m・天井石は3枚で構成されます。2号墳の直ぐ上部には岩井山古墳群の中では一番西側(といっても僅か数m西寄りにあるだけだが!)に築造されている1号墳です。墳丘は径7m・高さ2mの円墳だが石室内部は土砂で埋没している。入口部と西側の石組みが露出しているので凡その規模は判るのかも!。入口部分の幅1.5m・高さ1.4mを測ります。踏み跡を辿って開口部の狭い3号墳にも這いつくばって潜り込んでみます。
岩井山7号墳石室内部(奥壁)
入り込んでみると中は結構広い。懐中電灯に照らし出される奥壁の突起した岩こそ・特筆すべき遺構です。横穴式石室の奥壁に石棚を造り付ける特殊な 構造となっていることから岩井山古墳群の名が広く知られるようになったといいます。3号墳の墳丘は径9m・高さ2.5mで古墳墳中では 最も大きい古墳とされる。石室構造は全長6.87m・高さ1.7m・奥壁幅144m・中央部は1.2mとやゝ窄み(岩が突き出して玄室部と羨道部を分けている様に見える
)気味になっている事からか?両袖型とする文献もあるよう。
岩井山3号墳の石棚
入口部で1.4mの大きさとなり天井石は4枚で構成され、奥壁には石棚を設けています。此の棚は祭器を置く為に使用されたのではないかと 考えられています。長さ1.4m・幅約95cm・厚さ40cmの石棚が奥壁と左右側壁に架設されています。 この石棚の用途については祭祀用の棚・副葬品の陳列棚・石室内の補強・棺台…等々の推測がされていますが未だよくは判っていない様です。
岩井山5号墳石室(奥壁)
篠山市唯一のものらしいが丹波市山南町の野田古墳群にも2段式に積石したものがあったというが破壊されていまは見ることが出来ない。発掘調査時の写真や報告資料は何処かに残されているのでしょ
うが?3号墳の15m上部に4号墳が有り径9m・高さ1.5m・石室全長は5.25m・幅1.27mで奥壁は2段・天井石は2枚の構成です。5号墳は東側列一番下の2号墳より少し上部?に位置して径7m・高さ1.5m・石室の全長4m・幅1m・奥壁は2段・天井石は3枚で構成されています。
岩井山6号墳の石棚
其の上部に見えている6号墳は径8m・高さ2m・石室全長4m・幅1.1m・高1m?、天井石は3枚構成。ほぼ等間隔で7号墳が口を開ける。径8m・高さ2m・石室全長5.7m・幅奥壁部で1.4m ・中央部1.6m・入口部は1.3mで奥壁2段・天井石4枚で構成。8号墳は案内板が倒れ石材が散乱!!石室が露岩の隙間から見えるが崩壊。9号墳も入口部の石材らしい露岩が有るが案内板には古墳でない可能性も 示唆されていた。
岩井山1号墳石室(開口部)
更に上部に【10号墳】がある事が長福寺前の 案内板の分布図を再確認していて判ったが、8号・9号の状態から諦めて引き返したのが間違いだったようです。三角!?持ち送りの工法が見られるという。なを5//6/7号墳は案内板の文字も判読出来ず・分布図を見て廻ったわけではなく、歩き回った順序の記憶と撮影データの順によるもので順序が逆転しているかもしれない?。
(データは現地:岩井山古墳群案内板及び「丹波篠山五十三次ガイド」篠山市教育委員会 資料等を参照)
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