加古川合流地点の古墳と付城  正法寺山(室山!)と三木合戦の付城群
三木合戦の激戦地と付城めぐり Ⅳ
三木歴史の森・付城めぐりⅠH18.02.11~12
三木歴史の森 ・付城めぐりⅡH18.02.19 
三木歴史の森・付城めぐりⅢ H18.03.04
近畿の山城正法寺砦と室山砦 石野氏館 正法寺古墳公園
法界寺山ノ上付城:主郭南西角の横堀


「道の駅みき」の観光協会で「三木てくてくマップ」を手にして車を走らせる。神戸市北区や吉川町付近に別所氏本拠の三木城支城群を少し訪れたが史上に類を見ない長期に亘り 城を包囲しての悲惨な兵糧攻めの行われた三木合戦の付城群についても訪ねてみようと三木合戦の激戦地:平田・大村坂に秀吉方の谷大膳亮衛好の廟所を加佐八幡森公園にある別所氏方の智将淡河弾正定範の墓に参り、美嚢川の三木城に一番近い船着場!と「湯の山街道」等市内の歴史散歩をしながら伊木氏創建の正入寺の山門を潜り、ご住職には君主池田利隆・
正法寺古墳公園の向こうに室山砦跡といわれる正法寺山(室山!)

伊木忠範の墓所や池田信輝・輝政親子や家老:伊木忠次・忠範親子の位牌、此処が嘗て三木城域であった復元古図等が額に飾られた堂内を案内していただいた。君ヶ峰城へは前回失敗した添付写真の撮り直し…西へ向かって法界寺や石野氏棺を訪れた後、美嚢川を挟んで北方に見える室山砦(正法寺山)へ続いて少し戻って別所橋を渡り県道360号(正法寺三木停車場線)を別所町正法寺へ向かう。

 正法寺砦と室山砦 石野氏館

正法寺砦と室山砦
正法寺砦 Ca45m 三木市別所町正法寺
室山砦 正法寺山(室山 ? )152m 別所町正法寺山(城遺構は未確認)

西脇市方面からR175号を南下し小野市:市場東交差点から県道23号→18号(加古川小野線)に出て加古川沿いに走ると美嚢川が加古川に流れ出る合流地点「美の川橋」を渡る。加古川市・小野市・三木市が境界を分ける地点でもあり、
正法寺砦の土塁付曲輪と下段に帯曲輪?

三木市内へと船底の浅い高瀬舟での水運による物資輸送や街道往来の要衝となっていたのでしょう。橋の東詰めから美嚢川沿いに県道360号線に左折すると直ぐ正法寺古墳公園。公園内1号墳越しに見える電波塔の建つ正法寺山に室山砦があった。在地土豪の監視砦か?。天正6年(1578)に始まった三木合戦に於いても此の地点が加古川から三木城からの重要な兵糧搬入路となり別所・毛利方の輸送路確保の為、秀吉軍が其れを阻止する為の監視砦を築いた事は必定?。翌天正7年(1579)兵糧輸送をめぐる激戦となった平田・大村付近では美嚢川に近い鳥町河原の平地にも付城がある。
正法寺山山頂:此処に室山砦が在ったとは?

正法寺山から南東へ延び出す丘陵が県道側まで流れ出る尾根の西裾には法道仙人開基を伝える古刹で播磨西国三十三ヶ所・第23番札所:鉾礼山正法寺(真言宗)がある。元は中腹に堂塔伽藍七院十二の僧坊を構えた寺院で江戸時代には家光をはじめ歴代将軍の御朱印寺として栄え加古川方面からも美嚢川を渡し舟で参拝者がやってきたといいます。明治期に入って衰退し・残されていた建物も昭和48年(1973)の台風で倒壊し残された山麓の金剛院と移築されていた大師堂が現在の正法寺です。
正法寺砦… 県道360号線から正法寺へ向かう 参道車道の東側に突き出してくる低丘陵が県道に落ち込む先端 部は切り取られ崖状になっており車道脇の電柱には”ムロヤマ”の文字が!!。
県道360号正法寺入口付近にある正法寺砦

此処丘陵の東先端部から尾根通しに室山砦へ辿ってみようと取付いた。疎林の中・登り易い露岩部を進むと直ぐ高さ1.5~2m程の長い土塁に行きあたった。 比高僅か20m程だが上方へも岩盤を剥き出した急斜面上に続く土塁は2~30cm程の石積みが残る。猪避けの垣にしては手をかけ過ぎている上に末端の処理がされていないし上段に平坦地がありしかも土塁の高さは低く植林用や畑地にしても 平坦地形の末端処理が土塁では水捌けにも水路にもならない!?…。此の位置が三木市遺跡調査分布図の正法寺砦の比定地?です。
正法寺砦の土塁付曲輪のU字状湾曲部

別所方の砦か秀吉方の付城ではあっても築城・在城主の名も、縄張りや規模等についても一切不明。更に山頂に在ったという室山砦は伝承なのか?記載はなさそうです。少なくとも?三木合戦に限っては別所か秀吉:どちらの陣営であったとしても兵糧輸送上の基地や砦として使用されたもの城名も遺構はなくとも、山頂部に室山砦があり山麓からは確認出来ない加古川からの兵糧搬送の搬入や加西・小野方面等北播磨側から三木城への
土塁曲輪コーナー部:下段帯曲輪からの虎口部?

籠城や 援軍に対する物見台として適所。中腹に在ったという旧正法寺の伽藍・堂宇が駐屯用に利用された事でしょう。正法寺砦から緩やかな雑木藪の斜面を抜けると尾根上の踏み跡は尾根鞍部に続き広い山道が東西から 登ってきてそのまま山頂へ向かい少し傾斜の急な所を登りって巡視用舗装林道に出てくると各局テレビの中継施設が建ちフエンス側に正法寺山(点名:正法寺山山頂は近い。室山3
等三角点152m)の石標柱が埋まる。周囲は雑木に囲まれ眺望はないが此処まで登ってくる舗装林道を
正法寺砦の土塁付曲輪のU字状湾曲部

辿れば展望を楽しみながら古墳公園の方に降って行けそうです。テレビの中継施設や巡視用道路工事等で遺構が消滅したかどうかも疑問です。毛利軍と別所軍が三木城への兵糧輸送のため平田に谷大膳の陣所を攻撃した際・正法寺砦(室山砦)も攻撃されたのなら分かるが…室山砦は揖保郡御津町の室山城と混同されているのでは?。正7年(1579) 兵糧輸送をめぐり平田・大村坂付近で 起こった激戦を思うとき、先ず襲ったのは同じ別所町内に有る尾根末端部の正法寺砦だったら…と思い返してみます。土塁付曲輪の切岸:土中には石積み? 天揖保郡御津町の室山城では輸送ルートも定まらない余りにも遠過ぎる?。
土塁曲輪の上段2~3段の平坦地は放置された畑地?

美嚢川を隔てた南側には石野氏館があるが石野氏は三木合戦の始まった早い時期に秀吉方に降りています。まして陸続きの鳥町河原には同族ながら秀吉方についていた別所重棟が布陣しているので 三木城側に付いた砦であったとしても孤立し重棟等の説得により城塞は放棄されたかも知れない?。今に見る正法寺砦は美嚢川と川沿いに三木に向かう街道に面し双方を警戒するだけの縄張りで尾根上から侵攻には堀切や曲輪も無く無防備です。 幅広く長い土塁付曲輪にも石垣というより土止めの小振りな石積みが所々に見られたが斜面上部の藪の中には未だ2m程の段差をもった 2-3段の平坦地が続いているよう?。此処にも整然と積まれたものではなく土止め程度に部分的な石列らしいものが崩れた底部に多く露出しているのが見られる。
正法寺砦の土塁・下段に細長い帯曲輪

しかし土塁や平坦地形の段差に見る・小振りの石積・石垣の石積み工法は江戸時代以後のものとも考えられ平坦地形は休耕となった畑地・内部の堀状も池跡と考えれば、河川監視の要衝地に在っても付城であったかは疑問?。 しかし付城跡が近世以降に畑地として利用されたか…。折れて延びる土塁線が途中開き・虎口状を呈する箇所も山仕事で切り崩された部分なのかも…。まだ登り始めた尾根末端部で西面の尾根裾に有る現在の正法寺より南部(県道側)の美嚢川寄りです。土塁曲輪の下には3m幅ほどの帯曲輪?が沿っていて西側の正法寺参道車道が見えてくる付近で切れる様で 土塁線は弧を描くように上段の曲輪側まで続きます。数段の曲輪も全て美嚢川を望む南に面して築かれているようで尾根筋を山頂を目指し進んだが雑木藪の広い緩やかな尾根が延びているだけで山側尾根続きに対する防備は皆無!?。途中に在った鞍部からの道を正法寺山からの帰路に下った。竹薮の中の谷筋道は左右の高い崖状の中を抜けて正法寺西方の田圃と民家の間に出て・直ぐ県道360号に出合う。此の山裾の道が県道と合流する辺りに二基の灯籠が建ち神社への 古い参道らしい石段道が斜面に延びている。正法寺西方から山頂に至る尾根筋にあり此の神社か其の上部に旧正法寺があり往時の参道だったのかも知れない?。
(三木市観光協会の歴史イラストガイド・マップ)及び三木市観光協会刊「探訪 三木合戦」等を参照)


石野氏館  三木市別所町石野・大歳神社境内
三木市街地・福井の交差点から県道20号(加古川三田線)を西へ走る。先日連続して訪れたホースランドへの馬像のある高木交差点を過ぎると 法界寺の表示を見る。三木鉄道と平行に走り民家の影に石野駅が見えてくると
県道に沿う幅広土塁

其の駅南の県道20号線側にある小さな鎮守の森が目指す石野氏館。”道の駅みき”に置いてあった三木市観光協会のイラストガイド・マップに「知られざる荒城」とあるのが石野氏の構居跡。三木鉄道石野駅や民家に近く車道脇に位置している方形構居だが曲輪・土塁線が明確で北東隅には櫓台や虎口らしい所も残る。土居が四方を囲む
県道側から北面の幅広土塁

単郭の平坦な神社境内の南丘陵側は破壊され痕跡は残らないが 東西約40m・南北約30m規模で、今も三方には土塁の残欠が残りポツンと大歳神社の小さな鳥居と祠が建っているだけで立木の少ない神域の外は四方が車道と民家に囲まれ此処が神域でなかったら整地され民家か田畑に姿を変えている事でしょう。北方には美嚢川を挟んで室山!(正法寺山)に電波塔が見える。
居館東面の鳥居から北東角の櫓台土塁線

此処には正法寺砦が有り北東の先には三木合戦における兵糧搬送を巡って活路を開くか阻止するか・最初で最後の大激戦が行われた平田・大村坂・加佐の合戦場が見えます。三木合戦頃の石野氏居館には有馬氏・神吉氏・孝橋氏等と同じ赤松一族の石野越中守氏綱がいたと云われる。氏綱は直ぐ東法界寺 山ノ上の宮部継潤(加古川・野村城主)や美嚢川向いには
東北隅には櫓台や居館に入る虎口部?がある

正法寺砦や平田陣所の谷大膳と…着々進む秀吉方の包囲網の中で孤立していき平田や大村坂の合戦となる頃には既に別所氏方から秀吉方に寝返っていたのでしょう。川向こうの合戦場となった鳥町河原には別所重棟の付城があり、重棟から秀吉方に付くように働きかけも有った事でしょう?また氏綱の妻が有馬氏であった事も!。秀吉方に移った元別所方から得る三木城周辺の地形や縄張り・兵糧搬送のルート等情報は戦略に多いに役立った事でしょう。
居館(神社)内から櫓台土塁

三木合戦の終結後は前田利家に仕え小田原の北条攻めに参軍しています。子の氏置も妻方:有馬氏の推挙で徳川家康の直参旗本となり関ヶ原に戦い・元播磨赤松氏の名跡を継いでいます。氏綱は前田家に・子の氏置は家康の:共に御伽衆として 殺伐とした陣内では随分重宝がられ気に入られたのでしょう…芸が身を助けたのか石野氏の家系なのか…!

(三木のてくてくマップ3(三木市観光協会の歴史イラストガイド・マップ)等を参照)


正法寺古墳公園三木市別所町正法寺601番地

県道360号沿いの美嚢川が加古川に流れ出る県道18号線「美嚢川橋」を下方に望む丘稜に 横穴式石室を持つ正法寺古墳群があって古墳公園として整備されています。近くには加古川沿い?にこれも三木市最大規模の前方後円墳・愛宕山古墳がある。正法寺砦に寄ったので其の帰路:古墳群に寄ってみる。車道からも正法寺山(室山?)山頂から流れ出す丘陵末端部にあって円錐形に突き出した墳丘は目立つ。
正法寺古墳1号墳(玄室)

この古墳群は正法寺地区の圃場整備に伴い平成6年6月から平成7年2月にかけて発掘調査が実施され横穴式石室を主体部に持った16基(内調査されたのものは9基)の古墳で構成されています。なかでも1号墳は天井石まで残る良好な状態だが其れ以外は圃場整備の為に取り壊わされたが横穴式石室の形態や変遷を知る上で貴重な資料を得る市内でも数少ない古墳群のため比較的保存良好な古墳2基が移設復元し保存されている。1号墳円錐状に高い墳丘見せて横穴式石室をのぞかせて南に開口させる一番大きな古墳が1号墳で玄室は長さ4.3m・幅2.3m・高さ3m・羨道部は長さ4.1m・幅1.3mあり一見:円墳かと思われたが!周溝から一辺約16mの方墳と推定されています。玄門部は羨道の幅より左右に広い両袖の玄室を造る。側壁は持ち送り気味に築き天井に向かって狭くなっています。
正法寺古墳・1号墳(方墳!)

昭和45年の石室調査記録によると玄室の床面は礫が敷き詰められ 須恵器長頸壷や馬具等の副葬品が出土しています。1-b号墳1号墳の周溝内に築かれた古墳で墳丘や石室上部は失われていますが全長5.7m・玄室長3m・幅1.5m・高さ約1mあり石室は比較的良好な状態で残っています。玄室は羨道部より僅かに広く袖を意識的に造り出し区分している。玄室の側壁に沿って棺台と思われる石が検出され、その位置関係からは少なくとも2体の被葬者が考えられるという。玄門部から須恵器杯や堤瓶等の副葬品も出土しています。
正法寺古墳3号墳(移設復元)

2号墳・3号墳も横穴式石室で比較的良好な状態で残されている石室部を調査後移設し復元されている2号墳(全長6.6m・玄室長3.6m・幅2.1m・高1.6m)の石室の構造は玄室と羨道部を区別する為、羨道の幅よりも右片側に広い方袖の玄室を造っている右片袖式です。玄室のほぼ全面から棺台と思われる石が検出され其の状況から少なくとも3体の被葬者が考えられています。此処からは直刀や飾玉類・須恵器の高杯等の副葬品が出土しています。2号墳と同様に3号墳(玄室長4.8m・幅1.3m・高1.5m)の無袖式石室も移設復元されています。
(現地:正法寺古墳公園の写真パネル付案内板(三木教育委員会)を参照)
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