七ッ塚古墳群 丹波市柏原町大新屋 R175号線(水分れ街道)の佐野から萱刈坂を柏原町へ、またはR176号(丹波の森街道)でJR柏原駅の先で柏原警察と ・石生水分れ公園への分岐となる柏原北交差点手前、GSとスーパーの所で西に折れハローワーク前を直進、新井神社・丹波悠遊の森を目指します。新井神社は高見山城主と領民等との石戸山(石童山)の山権利をめぐる伝承から 日本一の 石の囲碁盤が祀られ、山王社には丹波の名工:中井権次作の木彫の猿 ・・・が置かれていますので、好学?!(後学)の為にも一度見ておいて下さい・・・(^^♪ 七ッ塚古墳群37号墳玄室に残る石棺:七ッ塚22号墳 此処にも横穴式石室の側壁が確認されている大新屋古墳があるらしいが、犬の調教センタか?ドッグ・レース場なのか?板囲いの!!遊園地風サーキット?場が有り、東側は湿気た深い藪に覆われて探す気にもならなかった・・・(^_-)-☆。 今日訪れた東鴨野城の南東には大新屋北古墳と南古墳があるが、石室まで確認されていた北古墳も、 民家裏の斜面と東鴨野城域南山裾の間の畑地に埋まる様に有って、墳頂部も削平・墳丘部は大きく改変され石材があるだけで石室等が残るとされる空間を想わせる部分さえ無さそうです?。「丹波悠遊の森」入口 ・三宝寺参道前とレストラン:野外活動センタへの専用道路側に広い駐車場があるので其処から、高見城山への登山口・野外活動施設への車道を入っていきます。其の車道の側からでも其処此処に古墳の墳丘が見えます。七ッ塚古墳群37号墳 38号墳 (封土・天井石も石室に崩れ落ち・・)三宝寺参道前の駐車場北方には山根古墳群・野外活動施設側入口の駐車場から高見城山への登山口にかけて点在するのが七ッ塚古墳群です。 其の駐車場から南、山の神下池・上池の二つの池が並ぶ東側、新井神社に向かう側道上の丘陵には高見城支城の山の神城があり、南側山麓と山の神上池東一帯には4〜5基の古墳が確認されている山ノ神池古墳群があります。 七ッ塚古墳群は古墳時代後期(6〜7世紀)頃のもので、壊滅・半壊・墳丘さえ定かでない古墳が狭い範囲内に大小織り交ぜて40基程。多過ぎる群集墳の為に個々の古墳名称・号数は特徴をもったもの意外は、古墳の位置確認には専門的なスケール?が必要なのかも知れません。 七ッ塚古墳群37号墳全景七ッ塚古墳群35号墳 素人が「点表示の分布図」を見て探しただけなので、名称:号数の、どれがどれなのか分布詳細図作成時と現状との違いもあってか?特定が困難な状態です (^^ゞ 参考にしている報告書の分布詳細図データの号数と画像が合っていないかもしれませんので、状況等は参考程度にご覧になって、誤りが有る場合はご容赦願います。野外活動施設側入口の駐車場と接する付近には 2〜3の墳丘と石材を覗かせる小さな古墳が見え、前方の栗の木が目立つ林の中に奥壁を抜かれているが一際大きく、巨大な天井石と側壁石組 を見せる石室が37号墳【朽ちかけて外れそうな説明板には「七っ塚古墳群30の内第7号」と書かれている。 山ノ神池古墳群も5基が確認されているが、同様に古い案内標には、七ッ塚古墳群22号墳 22号墳の石室全国遺跡地図?に載せてあるらしい「池上古墳4の内第4号】と書かれている。 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(兵庫県氷上郡教育委員会1996年)による七ッ塚古墳群は、過去の調査による44基のうち消滅したものか?40基が確認されています。第37の位置に該当する一つは、 径18m専用駐車場前の車道から一際目立つ存在です。これ等は七ッ塚古墳群と呼ばれ「丹波悠遊の森」の施設内に点在しており、駐車場からレストラン入口の野外活動施設案内所までに35〜44号墳が分布しています。此の支群域最大規模の37号墳と、 天井石も崩れ、落ち込んではいるが38号墳が横穴式石室を残します。16号墳?29号墳?37号墳は径18m・高さ5m程か!、現:石室は長さ約10m・高さ2〜3m・幅1.5m程は有り、横穴式石室の側壁に約1mもの石材を使用しています。 天井石には更に大きな巨石を使用して構築されていますが、奥壁側が大きく破壊され石材は抜き取られています。 南に開口して羨道部を残しています。石室底も敷石とは別に天井や側壁からの落石?らしい石片が散乱しているようで、 危険なため内部への立入りは禁止されています。37号墳に隣接する35号墳も封土の裾を残していますが、墳頂部には僅かに石室の石材を露出・散在させて半壊、崩壊・盗掘によるものか? 丹波悠遊の森案内板29号墳? 石室跡の凹部を残して石材も持ち去られています。車道に戻って高見城山登山口となる野外活動施設案内所に向かいます。此処から林の中に続く遊歩道を入って間もなくボコボコと群集する墳丘を見ます。 悠遊の森ログハウスから三宝寺にかけて1号墳〜34号墳が分布しています。中でも周囲に小墳を従えて起立する大きな円墳が有り、東に羨道を見せて開口する22号墳は径約12m・高さ4mn墳丘で封土と横穴式石室共に完存している様です。 ライトの先に照らされる深い別世界の様な玄室部を覗いてみたいと思うが、羨道部に深く降り積もった赤土の砂場を這ってまで進む気にはなれず(^^ゞ今回は諦めた。22号墳は奥壁に2枚の板石・天井石4枚が残存、 しかも・後で知ったが玄室内には石棺も残されている様なので、無理?しても玄室に潜り込んで確認しておくべきだったが・・・・・残念!!。 周辺には、半壊状態で石室の羨道部や玄室部・側壁を見せながら、また天井石等が崩落して僅かに石室部の空間を見せているものもある。 流れ込んだ土砂が複雑!!な29号墳?石室16号墳?の玄室部奥壁16号墳?や29号墳等・幾つかは其の隙間から岩室を覗ける。流れ込んだ大量の土砂が内部で更に、蟻地獄の様な地底トンネル状を造っていて、その奥に側壁の石組を見せているものもある。 山林内の谷を挟んで三宝寺側にある1号墳〜10号墳も次回以降にでも廻ってみたいと思っています。(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)山の神池古墳群(池上古墳4号墳) 丹波市柏原町大新屋「丹波悠遊の森」駐車場から西の七ッ塚古墳群ではなく、南の石戸へ抜ける峠越えの山道を今は高見城山等への登山コースに取り入れて歩く人もいないが、近年まで柏原町を校区とする石戸の子供達は峠を越え新井小学校等へ通っていました。 峠付近は藪となり往時の道も消え、歩かれた人には急坂にその様な事を想像も付かないでしょうね。 旧?「池上古墳4号墳」同4号「山ノ神池古墳群2号墳」の石室山道へ向かい程なく二つの池畔を通ります。 二つの池が「山の神下池と上池」です。東側に見える急斜な三角錐状の丘陵末端尾根のピークには高見城関連の支城と考えられる 山の神城が有りました。其の西南山裾・山の神上池東方一帯の緩斜面に5基から成る円墳で構成された山の神池古墳群がありました。全国遺跡地図には「池上古墳」の名称があり、七ッ塚古墳群の37号墳にも有った様な朽ちかけた木標札が、池畔の2号墳(池上古墳としては第4号)の開口する羨道部に倒れていました。 墳丘は径約10m・高さ1.8mの2号墳は北に開口して実測していないが、 山の神池古墳4号墳羨道部は幅約1.5m・高さ1m極端に左側壁が極端に傾斜して「三角持ち送り」状を呈しています。 が、崩れかかってズレているのか?羨道部から奥壁までは6m程・・・・(^^ゞ 2号墳より少し東に無袖式と推定される石室が残る1号墳は、石垣状の石列を残すだけで?其の姿は見られなかった。 山の神池古墳3号墳他の古墳はいずれも墳頂部に凹部があり、盗掘に遭ったものか、円墳の墳状と僅かな石材が散在しているだけ。 1基には小振りの石が堆積していて「葺き石状態で墳丘斜面に有った。(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)片山古墳群北支群(岩屋片山古墳群) 丹波市山南町岩屋字片山 篠山方面からはR176号の大山下交差点で篠山川の川代渓谷沿いに走る県道77号線で、山南町に入ります。川代渓谷を抜け出て、 渓谷の対岸を走っていたJR福知山線と超接近する地点・踏切りを渡って前方の恐竜看板を見て直進すれば見学用無料駐車場。其の西方へ300m程の地点に旧村営久下村発電所跡があり、崖下の河原が丹波竜発見・発掘現場です。 岩屋片山古墳2号墳山南町では最大級の大河土山古墳 ・岩棚のある2号墳で知られる谷川野田古墳群や、此の岩屋片山古墳へ途中の休憩立寄りにいかがですか・・?県道77号線は井原交差点でR175号と合流し南へは西脇市方面・北へは柏原町・氷上町方面へ、直進が県道86号線で小野尻峠を越えて北播磨多可郡方面に向います。井原交差点の手前200程・日吉神社の西角に、イラストの仁王が描かれた「石龕寺」への標示や石標を見て、 北方へ集落に入らず、快適な車道を走ります。岩屋片山古墳2号墳の開放部右手に知的障害者更生施設 「みつみ学苑」が見えており、其の施設背後の丘陵部には「片山古墳群南支群が在り、片山1号墳〜6号墳(全て横穴式石室をもつ円墳)」が有るようです。 施設を抜けて訪ねる程の熱意も専門知識も無く、興味本位の立ち寄りだけでは、気が引けていまだに訪問確認をしておりません。いずれは・・・・と思っていますが今は・・(^^ゞ岩屋片山古墳2号墳:羨道部から玄室石龕寺へ向う上り坂の車道の先に藁屋根の民家と毘沙門堂が見えています。 民家の先の峠の頂上部の右手丘陵側・車道に面して12〜13段ほどの石段があり、其の先に石室が口を開けています。石段は此の石室の羨道部開口部分に直接繋がっています。古墳群は岩屋字片山にあり、「県立考古博物館の埋蔵文化財保護の手引き・行政地区マップ」によると片山古墳群北支群として岩屋片山2号墳と岩屋片山 1号墳の二基が載せてあります。岩屋片山古墳2号墳:玄室から羨道開口部 また「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会(1998年3月)」にも岩屋片山古墳群として2基が確認されていますが、いずれにも簡易なコメント文さえ書き添えてない。しかも藪の中には1号墳と2号墳の間にあって、存在未記入の古墳一基が有ります。3基ともほぼ同規模(径約10〜12m程?・高さ1.5〜2m程)の円墳の様です。 岩屋片山古墳2号墳:奥壁(抜かれている)と天井石1号墳は墳頂部の封土が流出して、 玄室部?の天井石が2枚ばかり露呈しており、玄門部と思える部分に石室内部が覗けそうな、僅かな隙間が有るだけ。 土砂は石室内に流入しているものか、スッカリ埋もれて・羨道部の天井石も落ち込み崩れ、埋もれている様で埋葬施設の規模や様式等は不明です。岩屋片山古墳1号墳:露出する天井石 2枚車道傍の2号墳は西に幅約1.10m・高さ1m程の石室を開口しており、玄室部は石幅分のみ高さ約1.5mで入室は可能です。 羨道部は玄室部との境以外は両壁の基底部分だけを残しているようですが約2.30m程。羨道部が更に先端部を車道側に延ばしているが、 丘陵端の斜面で寸断されているのかどうかは不明です。岩屋片山古墳XX号墳 ?:石材無く石室跡の円形マウンドだけが残る・・・・というのも近年・丹波市のもみじ三山として石龕寺へ観光の訪れる人が多く、ハイキング道として、また観光バス等の乗り入れ等利用の為、 岩屋集落内の旧道を避けてのバイパス道を丘陵裾部に新設されたところですが、旧状況は不明です。玄室部は約5.60m程ですが、奥壁は抜かれ土砂が流入しています。無袖式と思いますが石室側壁は左右共に迫り出してきているので、良く判らず?また、其の為か玄室内両壁に僅かな「持ち送り」が見られる様にも思えてくるのですが・・・!!?。古墳時代後期(6世紀中以後)頃のものと思えます。 岩屋片山古墳XX号墳の墳丘跡?2号墳から1号墳に向う中程北側に墳丘が見え、 近寄ってみると炭焼き釜状に円形に窪んだマウンドがある。石材が全て抜かれているが、分布調査書には未記入の第三のX号古墳の様ですが、1号墳とは車道を挟んだ西側にある盛上がりも、石材が抜かれた古墳では?。 1号墳・2号墳が「全国遺跡地図」等で既に其の存在が知られているので、周辺の調査はされていた筈?なので、思い過ごしなんでしょうね・・・・キッと・・・・・? (氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会:県立考古博物館 行政地区マップ 参照) 大河土山古墳群 丹波市山南町大河2-1(字土山) 昭和62年9月10日 市史跡に指定定 JR福知山線谷川駅から線路に沿った旧県道を東へ約1.5km、大河城の遺構が残る東山裾の山林の中に 大河土山古墳群があります。此処へは鍋倉城(太田城)の在った東山の北山麓を縫って県道 77号線バイパスを通り、篠山川に架かる太田橋の北で福知山線踏切りを渡ると旧県道と合流して、JR下滝駅・丹波竜化石が発見された現場:旧村営久下村発電所の直ぐ傍らを通って、川代渓谷(峡谷)を抜け篠山市に通じています。土山古墳1号墳の開口部土山古墳群へは太田橋北で旧県道と合流する交差点を直進して、 丹波竜発見現場周辺の大きな案内図看板が立てられた横を、谷間の集落に入っていきます。3軒程の民家の西山側に入って直ぐの位置ですが、山道沿いに高い鹿猪避けのフエンスが有るので、 土山古墳1号墳の奥壁民家の北端から山道に入りフエンスを開閉して進むと、道傍に高さ4m・径15m程の円墳を見ます。南へ廻りこむ様に進むと崩壊した羨道部と石室の開口部が姿を覗かせます。 旧山南町最大規模で、古墳時代中〜後期の横穴式石室をもつ1号墳の円墳です。羨道部の側壁上部と天井石は無く、半分埋まっていて開口部までの、羨道部分両サイドに側壁の残存石材が一部分露出しています。 ・・・が石室内の残存状態は良好で・ほぼ原型を留めている様です。 土山古墳1号墳:奥壁から開口部石室部の現状は天井石5枚で構成。全長約9m・高さ2.4m・幅1.3〜1.5m程です。 高さの割りには幅狭く奥行も有るので、入口に立つと細長く感じるが、 さらに垂直に積まれた側壁も、右手の壁は大きく迫り出して膨らんできており、ますます細長い石室になっています。「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書」によると土山古墳群は 5基の円墳から構成されている様です。少し離れている大河城址近くの5号墳を除き、1号墳の西と北方50m程の範囲に存在する筈の2〜4号墳を探してみた。 土山古墳1号墳の墳丘分布位置図からみて民家近くの3号墳が見当らない?ので、2号・4号を廻ったが、 石室跡と思える窪地を中央に載せた墳丘が在り、高さは2m程、2号墳?は径5m程ですが狭い奥壁部の一部に小さな石材が数辺残るだけ。4号墳?の墳丘は大きく径約10m、葺石らしい小さな石材が開口部に散在し、石室跡の窪地にも石材が残るが、 1号墳と比較して・石積されたと思える同程度の大きな石材は見無かった!!? この際:無理しても奥壁・側壁の一部が残る5号墳に藪の斜面を突き進んで探索した方が良かったのかな・・?? (氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書)新郷古墳群A 丹波市氷上町新郷旧兵庫県氷上郡教育委員会による「旧氷上郡内の埋蔵文化財分布調査報告書」の各町編の中には、氷上郡氷上町だけが抜けている。氷上町は過去にも氷上町編だけの、種々の文化財調査資料が発行されている為・・?表記資料は発行されていない様です。全国遺跡地図に記載が有るのかもしれませんが、古墳の名称 :場所位置を示す分布図や、墳墓のデータ不詳のまま、兵庫県考古博物館のWeb「行政地区マップ」により出掛けてみた。 新郷古墳群A-2の玄室:両壁の膨らみか?、持ちおくりが見られるのか!!?県道109号線新郷は黒井城主:赤井(荻野)し発祥の地。其の後谷城・伊尼神社の丘陵北方に、氷上ゴルフ場があり、 県道の小峠に観音堂が在ってゴルフ場入口となっています。この観音堂と県道の間の低い丘が新郷古墳?らしいが猛烈な藪、 石室等は期待薄なので突入は遠慮して、観音堂前からゴルフ場への車道を進む。新郷古墳群A-3:鼠の這い出る隙間はあるが、入室はちょっと無理(^_-)Web「行政地区マップ」には直ぐ西方の丘陵部西斜面の範囲内にNo. 770145-149の新郷古墳群のxx号〜xx号が在る様ですが、一基の古墳も探し当てられなかった。 車道を更に西に進んだカーブの先から、氷上ゴルフ倶楽部の管理棟があるが、 其の間を範囲として770119-126の古墳群が有るという。此の古墳群も東端と思える位置に一基だけ入室可能の石室が完存していたが、車道に沿った斜面をトラバースしながら探してみたが、此処以外に見つけ出せなかった。いずれの古墳群も 「行政地マップ」に古墳ごとの定点位置表示も、古墳ごと説明・摘要欄は空白で全てにコメントも書かれていない。 新郷古墳群A-1玄室:抜かれた奥壁部先ず最初の770119〜・・低丘陵の尾根上にも斜面にも古墳は見出せなかったが、車道に戻り先に進む。 地形図に崩壊記号の有る付近に会社があり、其の西に林が拡がる。 遺跡記号・記載の無い其の間、 車道が大きくカーブする東側一帯には石垣の残る数段の平坦地がある。古墓地跡にしては少し広い様だが、 神社や寺跡なら此の遺跡分布調査の行政地区マップに載っている筈!!。 新郷古墳群A-1:石材の抜かれた奥壁側から羨道部なんの遺構・遺跡表示も無い空白地帯ですが、車道近くに3基の石室を残す径10m以上 ・高さ2m程の古墳が見える。先の表記No.770145-149の古墳群の誤りとも思えず、此れ程の古墳3基が未確認・未調査とも思えません。広範囲に全て新郷古墳xx号の一連番号が付与されている様ですので、 とりあえず「新郷古墳群A」として東側から紹介します。いずれも羨道部を車道側に向け、南に開口する横穴式石室をもつ円墳です。会社の敷地と境する林の東端部に在るA−1は封土が流れ出て、 石室は羨道部の一部を残して天井石が露出しています。新郷古墳群A-2開口部 新郷古墳群A-2の石室内部玄室部は底石を残して取り外され、羨道部も前方(南側)は天井大石が落ち込んで開口部を塞いでいますが、 奥壁側からは左右の壁からの「持ちおくり」が顕著です。車道傍直ぐのA-2はA-3に近い側にあって、A-3とほぼ同規模の墳丘を並べています。南側に開口した羨道部からは、 頭をホンの少し引っ込める程度で石室に入れます (小柄な方だからかな・・!!)。車道が北へカーブしてゆく林の中は樹木が伐採されているので、3基の古墳は良く判ります。 新郷古墳群A-3開口部A-2玄室から羨道部林の西側奥にA-3の径15m程・高さ2.5m程の墳丘が見えます。 墳丘の上部には埋もれた羨道部と玄室部の入口(玄門)天井石と思える岩が露出しており、岩室への小さな隙間があり、土砂が流れ込んで埋まっています。羨道部と思える南側は大きく窪んでもいないので、 岩室部は羨道・玄室共に完存していると思われます?。 ツキ山古墳と栗栖野宝筐印塔 丹波市青垣町栗住野95R175号線(水分れ街道 )から稲継交差点を左折して県道7号(県道483号バイパスの和田山豊岡自動車道を利用して「青垣道の駅」を目標にしても良い )の丹波の森街道を直走る。福知山方面に分岐する 県道109号と右に見て氷上町と青垣町境の丘陵を 左へカーブしながら越えたところが青垣町の栗住野です。ツキ山古墳:開口部は奥壁側 宝林寺の北西方へ約500m程?、入り組んだ丘陵裾を田圃や民家間を抜けて、倉町川【佐治川(加古川)に流れ出る】側に面した 丘陵南端部に位置して存在するツキ山古墳(青垣町指定)と、10m程?の北隣にある栗住野宝筐印塔を訪ねてみます。ツキ山古墳羨道側民家の奥の更に奥!!案内標識も無いので分り難いかも知れませんが・・・・此処に限らず殆どの遺跡 ・遺構の位置・場所の状況は同じようなもので・・・迷いながらもヤッと探し当てた。横穴式石室を持つ円墳として、青垣町内では唐鍬古墳と此のツキ山古墳が、よく原型を留めており、共に?古墳時代中期から 奥壁側から玄門部後期(5世紀〜6世紀頃)の古墳として町指定文化財となっています。 宝林寺の北西約500m程の丘陵上に、県指定文化財・栗住野宝篋印塔が有り、其れと隣あって、一基の中型?(羨道長等は入口が殆ど埋まっていて、玄門部に僅かな岩の隙間があるだけで不明だが、 玄室長約4m程)横穴式石室をもつ古墳があります。 墳丘の封土はかなり流失して、石室部奥壁の岩は抜け上部の天井石が、また羨道側も玄門部の天井岩が露出しています。栗住野石造宝筐印塔は各部の手法・基礎部の装飾様式からみて、 南北朝末 期頃のものと推定されており、昭和45年3月30日:県の指定文化財となっています。 総高約1.26m・凝灰石で造られ宝珠の突端を欠くほかは保存は良好。台石は背面が素面・左右には格狭間を、前面にはコウモリ狭間を・いずれも輪郭を付して彫り込んである。栗住野の宝筐印塔 塔身には蓮華座付き月輪を線刻し、内に金剛界四仏の種子が配されています。笠石の隅飾突起はやや外傾し(南北朝末期とされる根拠か?)、 輪郭をとり、内は前面に月輪が陽刻されています。東芦田にも「ごりんさん」と呼ばれているが古い宝筐印塔がある。此処・西芦田や栗住野芦田氏に関わる供養塔なのでしょうか? (宝筐印塔は平成5年11月 県教育委員会現地説明案内板を参照) 防ヶ谷古墳群 丹波市青垣町西芦田字防ヶ谷先に紹介のツキ山古墳と栗栖野宝筐印塔 の建つ丘陵部から北斜面を降りて、緩やかな谷沿いに奥へと進む林道の先に鹿猪避けフエンスが見える。フエンスのゲートを開閉して進む道は、直ぐに枝尾根の一つに突き上げる急斜面となる。 引き返して山麓を東側へ辿るフエンス沿いの、 踏み跡とも・獣道とも云えない段差や泥濘んだ道?を進むと、別の枝尾根の先にも短い谷があり、これら一帯が防ヶ谷と呼ばれます。 坊ヶ谷1号墳石室が現存する1号墳兵庫県埋蔵遺跡分布図を見るとツキ山古墳のホンの少し先 ・坊ヶ谷に4ッばかりの円墳が有るが、宝筐印塔を訪れた時には探し出せなかった。所在地が西芦田となっていて、栗栖野のツキ山古墳とは同じ古墳群の一つかと思える程に、直ぐ目と鼻の先に有ったとは近過ぎて気付かなかった。 数日後には青垣町に来る事になり再度「坊ヶ谷古墳群」を探す。藪中に延びるフエンスが前回はネットに・・・・いや!!ネックになって見逃していたが、 ゲートからフエンス沿いの東4〜50m程の範囲・内と外側に坊ヶ谷1号墳〜4号墳が遺跡分布図に有り、1号墳は径約10m・高さ2mで石組みからは、 坊ヶ谷4号墳?側壁一枚(現状目視出来る範囲で)残しただけで、 外に剥き出しに広くなっている手前が玄室、石室は羨道部が残存しています。2号墳は径約4mで天井石が一枚斜に石室に落ち込んだ状態で残存している古墳の様?。石室が現存する2号墳 ?3号墳は径約3m・高さ1m。4号墳は径約5m・高さ2.5mは石材も無く、南に開口していた状態の円墳が、石室跡の外周部を土塁状に残しているものの様?です。 高さ2.5mというが測定?の方法を知らないので、此の古墳を指しているのかさえ?、よくは判らないのですが・・・・。(遺跡分布図の各古墳コメントと私の 2〜4号についての補足と写真が合っていないかも知れません? 現地で確認してください) 二間塚古墳 丹波市春日町多利2872(野上野字田中) 県指定史跡(昭和58年3月28日)長期籠城戦となった別所氏の三木城や波多野氏の八上城程ではないが、荻野・赤井氏の丹波黒井城を攻める明智光秀軍の向城・陣城も幾つかは知られます。黒井川を挟んで南に正対する茶臼山城 ・竹田川と合流する東北には伝説の小富士山城。此の二つの陣城を結ぶ中央東側に野上野城を訪ね桂谷寺裏城・野上城・小多利城館・小富士山城への包囲網を確認して多利から日ヶ奥渓谷(丹波比叡:妙見山への登山口)への車道に出てきた。 二間塚古墳舞鶴若狭自動車道沿いに県道 138号線東の山裾側を桂谷寺へ戻る途中、県教育委員会案内板が立つ二間(ふたま)塚古墳を見る。市道(旧県道?)と「かすかべ保育園」の間に、緑の空間に在る小ぶりの墳丘は、周囲を宅地と水田に囲まれて、 開墾により墳墓は改変されている部分もあるが、全長34m・後円部径20m・前方部の幅15mの前方後円墳で、周濠であった痕跡も推定できます。ただ此の時期(6月末)なので雑草の覆われた墳丘は何がなんだかサッパリ・・!!。 丹波市内では山南町奥のR175号「奥交差点」から県道86号に出る北側に独立丘陵(丸山80X50m・高さ20m程)が有り、此の狭い丘陵上に二基の円墳と方墳・前方後円墳【丸山1号墳:全長48m・後円部径 24m・前方部幅20.5m】が同居する古墳群で、此の1号墳に次ぐ規模のものとされます。築造時期や被葬者等は不明ながら5世紀後半から6世紀初頭のものと推定されますが、 内部主体は盗掘により不明ですが、石室が発見されたとも伝えられ、竪穴式石室が有ったものか?詳細は不明。二間塚古墳 一部調査はされているようですが・・・!!。 なを此処より北へ県道筋を約2km程 銅鐸出土地の 野々間遺跡がある。此処にも野々間南城館・野々間北城館・城ヶ腰城等が在り、小富士山城を中心として、京都府三和町方面から三春峠や戸平峠越え、福知山の六人部から竹田川沿いの街道監視というより 街道封鎖の黒井城包囲網が築かれたのかも・・・?(現地案内板<平成2年11月>県教育委員会 を参照) 丹波の由緒 本誌 別冊