小野市の歴史散策…ひまわりと城と古墳と…
兵庫 東播磨 (五万図=北条)
ひまわりと…城と古墳と… H18年04月01日
近畿の山城 池尻城  下司館 垂井城
東播磨の古墳 小野王塚古墳

池尻城・県道側からの遠望

R175号を三木市へは先月以来何度か往復したが小野市と三木市境界近く、万勝寺川の深い渓谷を眼下に見て丘陵を越える辺り「市場東」交差点の西方、小野市南部から市街地に向けて見残した城址を訪ねて再訪します。 以前訪れた小野市内の城はまだまだ有るのですが、 位置や城史の情報収集が進まず 城めぐりだけに訪れる機会が無い。今日は・小野アルプスの惣山(小野富士)に 登るついでの寄り道に、遠回りして池尻城を振り出しに2〜3訪ねてみました。
王塚古墳の周壕(西駐車場側)

R175沿いに走るとシンボル「ひまわりの塔」が見えてくる。小野市の子下市花「ひまわり」が夏には広い畑地一面に大きな花を咲かせ壮観です。地場産の売店やレストラン・花壇や芝生公園があって、 道の駅として休憩に利用させてもらっている。播磨中部丘陵県立自然公園の鴨池を基点に「きすみの見晴らしの森」の展望デッキ〜惣山〜鴨池を、か〜るく散歩するのが本日の主目的です。 市内を走っていて新しく出来た温泉や広渡廃寺歴史公園等の標識を見て次ぎの来訪計画も出来た。


池尻城 下司館 垂井城(垂井構居)

池尻城  xxx 62m  小野市池尻町字水ノ平

R175号「市場東」交差点を左折して県道23号「市場 」交差点に向かい西へ約600m程の下り坂の途中・左(南方)に見える丘陵が池尻城で、車道を挟んで西側道沿いの下に大歳神社の祠が建ち、 東側の登城口に池尻城址の説明案内石標が立つ。 小野市の史跡案内石標の頭部には市花”ひまわり”の絵が付けてあります。大都市神社に一帯は城主の居館跡と云われ、
土塁囲みの大歳神社・右手上が池尻城

民家との境に切岸・土塁残欠と思え、南正面も田畑は随分低い位置にあって 居館であった雰囲気は感じられる!!?。 加古川に沿う南北に山陽播磨と丹波を結び、市の 北端を東西に流れる東条川沿いには 摂津三田から宝塚 ・丹波篠山から 亀岡方面へ京都を結ぶ交通の要衝にある小野市は、源平合戦・南北朝期から
居館跡とされる大歳神社

嘉吉の乱から応仁の乱へと播磨赤松氏と山名氏との合戦が続き、戦国時代に突入し天正期(1573-92)の三木合戦へと戦乱がうち続く。これら戦いの中の生き :滅びていった小さな領主の城を訪ねて小野市内を回ってみます。其の一つが此処・地形的にはR175号が走る南東から北西方の県道23号線側に延びる尾根が落ち込む
池尻町の高地にある大歳神社は居館の風情


末端付近・比高20m程の稜上に三つの曲輪を 並べて形成された池尻城が在って、東端の最高所を主郭として高さ1m程の土塁が築かれているところがあります。 主郭は僅か 16〜18u程の平坦地で其の中程・少し広い4m程の台地は櫓台となっていた様です。雑木藪の中で展望は無いが主郭から北西方へ二曲輪が有る。
主郭東端の土塁

主郭とUの曲輪間は殆んど高低差無く、その間を堀切で仕切っているようですが、 幅広く土橋?通路とも思えなかったが 北面に落ちる短いが急斜な片堀切状には見える。 下段は高低差僅か(10m程か?)だが曲輪又は犬走りが有るのかも?。 其の北西下段のV曲輪には石礎檀があり元禄時代建立の青面金剛碑 (像も種子も刻まれていないが?)が祀られている。段差は少ないが其の西方へは自然地形のまま斜面を末端の田圃に落している様。
池尻城主郭・副郭間に落ちる片堀切?(幅広土橋付き堀切?)

R175号を走っていて南や東に 眺望が拡がっていることは想像出来る。深さ2.5m・幅7〜8m程の堀切は東南に続く尾根を 遮断して主郭と南郭?(中程を 土橋付き堀切りで区分している平坦地形)部は土橋を渡して連絡しています。堀切は中央郭を囲いこむ横堀となって円状に延び南〜西側へは急斜面に沿って斜降しながら大歳神社からの登城口にある城址案内石標の脇に降り立ちます。
土橋付き空掘

北東側は西郭端から主郭へ廻り込む帯曲輪に下りるが、其の東側は比高こそ 10m程?だが急激に落ち込んでいます。下方の脇(勝 ?)寺池が当初からのものなら、田圃が当初から耕地なら池の水を抜いて ”沼田堀”とした防備も考えられます。規模の小さな城ですが高低差の少ない西面を除く城域の地形は結構要害を呈しています。
池尻城・本郭と

帯曲輪から中央郭西端(城址碑から直登すると此処に着く)に出ると、低い段差と荒れた平坦地が藪の末端部へ延びている西郭です。西郭末端の麓が大歳神社で 池尻町の高地に建ち、境内西側の民家の間には南から西にかけて幅広の土塁残欠がみられ、背後(北)の池を含めた境内は 城主の館跡と推定されます。 神社や寺周辺が館跡として、辛うじて居館と詰め城が一体となった防衛ラインの形成が見られ、セットとなって残されている貴重な城館遺構です。
主郭南郭部を分ける土橋付き堀切

市街地開発や整備事業で失なわれる事のないように、先ずは地元のほこり・地元の文化遺産として 語り継ぎ・大切に守り継いで欲しいものです。 城主は不明ですが在地土豪であり、城の縄張りからは中世後期まで存在したと推定されます。天正6年(1578)に始まった三木合戦には 別所氏に従ったため、羽柴秀吉軍に攻め滅ぼされたといわれます。しかし遺構の縄張りからは虎口が確認されていないこと、築城から使用・廃城までの期間が短く、 築城規模が小さくて使用に耐え得る最少限度の加工に止めている事等から、
池尻城:V曲輪の青面金剛石碑

三木合戦時点まで使用されたかどうかは疑問視されており、 おそらくは城を捨て一族で三木城に籠城したと思われます。 山麓の集落には稲継姓が多いと聞く・三木城に籠城後・渡瀬氏や有馬氏に重臣として仕え、 小牧・長久手・関ヶ原に軍功が有ったが天草の乱に討死した稲継宗雄がおり穂壷城(母坪城・稲継城 :丹波市)城主の一族とも、室山砦等・三木城の城砦として 北方の要衝監視警護に当たっていたとも云い、三木周辺の出身者とも考えられます。
(現地池尻城址案内石標 小野市史等を参照)

下司館(下司城)     小野市市場町小字下司

R175「市場東」を西方の折れて県道23号線に入って直ぐ左手(南方)に円い尾根先を見せる低丘陵の末端部に位置する池尻城に寄ったが、県道23号下を北方に抜ける地区内の細い車道をとって 西北約400m程に見えている市場小学校へ向かいます。県道23号は18号線と 交差する「市場町」へ緩く降っていきますが、車道と小学校の間には耕地が拡がっているだけ。
市場保育所の敷地は 三方を溝と水路で囲まれている

小学校前に通じる 車道を挟んで其の南向いにポツンと建つ保育所の、敷地が三方を一段高い段差で囲まれ コの字形に水路と堀状の溝で囲まれています。 此の辺りに下司館(げしやかた)が在ったと云われ「土居垣内」の字名が残ります。東側に続く区画の田圃も北から南面を西へ廻り込んだ溝が保育所横の水路まで延びています。 明治の頃までは船着場が有り 水堀跡が残っていたと云います。加古川から山田川に入り来迎寺前へ遡って来た船が市場小学校・中学校北にある「から池」辺りを舟留りとして、下司館まで水路を引き込み通じていたのかも知れません。 引接山「来迎寺(浄土宗)縁起」及び「源平盛衰記」・「平家物語」によると平安時代末期:治承4年 (1180)奈良の東大寺を焼討ちした平重衝 (清盛の5男)の家臣で播磨福井庄の下司次郎太夫友方(俊方!)の居館とされます。
神戸電鉄と小学校・保育所(中央)周辺

来迎寺は鎌倉時代初期:建久8年(1197)東大寺別所として建てられた名刹:浄土寺(小野市浄谷町・北丘町)を建立した俊乗坊重源上人が 播磨の布教活動の拠点として 此の寺を開基したと伝え、弟子の善阿により伽藍が建立されたと伝えられます。善阿は下司治郎太夫の一族でしたが”東大寺を焼討ち”等?の罪を償うために出家し修行に励んだといわれます。


垂井城(垂井構居・宮脇構居・林山城)     小野市神明町・垂井町字宮脇西!?

R175号市場東交差点を左折して県道23号に入り 直ぐの池尻城と西北方の市場小学校前、市場保育所付近に有ったという下司館跡の遺構らしい様子を垣間見て、 市場町交差点から県道18号を神戸電鉄粟生線・小野駅に向かいます。右手への住吉神社への案内看板が目立つと、 其の左手(西北方)前方の丘陵に有って垂井城 (垂井構居)とされる神明神社へは標識も無く、車では入って行けそうな所も無さそう。 探しながら神戸電鉄のガードを潜ると直ぐ、急斜面に細く狭い舗装道路が入り込んでいますが 「行き止まり?だったか・侵入禁止?」らしい表示が有る様で、そのまま通り過ぎたら直ぐ小野駅前に出た。
垂井城跡地の神明神社南側

小野駅から歩いても10分足らずなので小野一柳藩陣屋跡・好古館から歩いてみます。小野駅前からは初めてだと県道沿いに市民病院側へ、又は県道18号線まで行ってしまいそうだが、 其の手前・民家の間の狭い道を200m程、直進すると坂道の下方に神明神社裏参道入口が見える。左裾を捲くように降る車道?は神社側は切岸を感じさせる高い段差があり、参道の石段を登ると境内の古い石積みのある台地の 上には玉垣が廻らされ、中に二つの社が祀られた神明神社に着く。 二社のうち一つは領主:小野藩一柳家の祈願所として住吉神社・熊野神社と共に神明神社の三氏神を建立しています。小野駅南口から真っ直ぐ延びる車道を挟んで西丘陵に一柳藩陣屋、東側丘陵の南末端部に位置する 台地上に神明神社があるが住宅地内にあって其の丘陵の実感涌かなかった!!…が。
神明神社:南東側の急斜面の参道から

小野一柳藩陣屋跡同様に・南端部を東西に分ける地区内の道を抜けてみて、垂井城(構居 )の東面や南面が 崖状の要害になっている事がわかります。ただ北面は住宅地内の緩やかな 平坦地なので往時の状態を推し量れません。土塁が残っていたともされるようですが、東から参道石段を登り詰めるとゲートボール練習場らしい平坦地が拡がり、其の西端部の草地を南方に嘗ては土塁が築かれていたのでないかと 思えてきます。展望が効けば高台に有り、加古川流域沿いに領地の垂井荘を一望出来る位置にあります。此の曲輪の正面に石積みされた2m程の段差で、本殿や社務所が建つ平坦地があり、殆ど高低差無しで北側の住宅地へ抜け出ます。 垂井構居は赤松氏滅亡の”嘉吉の乱”後・享徳年間(1452-55)頃、在田荘(加西市)の在田氏等と共に播磨守護となった山名氏方に付いて、 勢力拡大を図り守護代:垣屋豊遠の家臣で、加東郡代の野間(石見守?!!)続久の守護使として、垂井荘を本拠としていた国人領主:垂井中務丞が地頭職に就いていたと云い、築城時期等は定かでないが垂井氏が城主と考えられる様です。
垂井城跡地の神明神社

一方・別所氏一族の蓬莱氏の城だったとも…!蓬莱氏には応仁年間 (1467-69)赤松政則に従った領主に蓬莱若狭守が居て宮脇構居(垂井構居)・構城(河合中町)の他 上田城 (加東郡社町)や蓬莱山構(加西市河内町)に蓬莱範清が守っていたと云います。山名氏を追い返して 播磨を回復した赤松方の蓬莱氏は何処へ行ったのでしょう?山名氏方に付いていた垂井氏が再び赤松氏に付いて此処に息吹いたものか?。垂井七郎重治が入って城主となっており、其の子垂井武蔵守雅治の時、 天正6年(1578〜)の三木合戦が起こり、三木城主:別所長治に従って三木城に籠城したといいます。垂井氏の其の後の消息は未調査のため不明ですが江戸時代:宝暦10年(1760)まで続いたといいます。 三木合戦に生き残った石野城主 (三木市)石野氏満の叔母が此の垂井城の垂井氏に嫁いでいう。現在・地元に垂井姓を名乗る一族は残っていない為、合戦後は秀吉配下の武将に仕官したか石野氏を頼ったと思われます。 【別所長治の幕下:飯野大炊守・・?が城主だったとも!!】
(小野市史等を参照)


小野王塚古墳  小野市王子町     王塚古墳(兵庫県指定史跡) 小野市役所裏

小野市役所北側の駐車場端にある低丘陵が直径約45m・高さ7m余りの大型円墳小野王塚古墳です。探して到達した訳ではなく、知らずに寄ったら偶然其処に在ったのが此の古墳でした。余りにも見事で端正な周壕(幅約8m・深さ約1m)を備える円墳は小野市内に 現存する古墳の中でも最大規模のもので、とりわけ・甲冑が出土した古墳として知られるようです。
王塚古墳の周壕

加古川左岸沿いの県道23号西側に拡がる段丘上にあって県道18号に挟まれた中程に位置し、墳丘の頂に「王塚」の石碑が建てられた県指定【平成4年3月24日】文化財でした。昭和27年(1952)発掘調査され全長5mの 竪穴式石室があり石室内からは副葬品として 鏡・甲(よろい)・冑(かぶと)・剣・槍・矛等豊富な鉄製品が出土しており、これ等の出土品から築造時期は古墳時代中期 (5世紀前期〜中期頃)に築造されたものと推測されます。
王塚古墳の墳丘

小野王塚古墳出土の短甲【(みじかよろい)とも云われ、腰から肩までを覆う古墳時代の甲の1種です。 胄・頸甲(あかべよろい)・肩甲(かたよろい)・ 草摺(くさずり)・籠手(こて)・臑当(すねあて)とともに攻撃から身を守る防具として使用されていました。体に合わせて鉄板で骨組みを作り、骨組みの間を三角形や長方形の鉄板を何枚もつなぎ合わせて作られます。鉄板のつなぎ合わせには、 鉄の鋲や革紐が用いられ、鋲でつなぎ合わせたものを「鋲留式(びょうどめしき)」、革紐でつないだものを「革綴式(かわとじしき)」と呼ばれ、当初は革綴式が主流だったが、
王塚古墳の墳頂から市役所駐車場・自動車教習所

5世紀中頃になると鋲留式が多くなってきます。出土品の一覧や用語については各自 ・教育委員会報告書等資料や解説書・専門書でお調べ下さい。出土した甲冑類では冑 (かぶと)=小札鋲留眉庇付冑・甲(よろい)=長方板革綴短甲・三角板革綴短甲・三角板鋲留短甲・甲冑付属具の頸甲や肩甲等が記載されています。

(現地王塚古墳の案内板 ひょうごの遺跡 19号 小野市史等を参照)
本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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