丹波の古墳
  篠山市編 V

丹波市編T 丹波市編U 篠山市編T 篠山市編U 篠山市編V 篠山市編W 北播磨編 東播磨編
雲部車塚古墳  篠山市東本荘 坂ノ谷古墳 篠山市県守 いごり塚古墳 篠山市県守 なげや古墳 篠山市奥県守
山ン谷古墳 篠山市県守 東坂ノ谷古墳 篠山市県守 春日神社裏山古墳 篠山市県守 薬師谷古墳 篠山市殿町
スズ岡山古墳 篠山市井串 稲荷古墳 篠山市貝田 浦山古墳 篠山市貝田 清水谷古墳 篠山市小野奥谷
篠山市編Tをご覧ください⇒新宮・石くど・洞中・稲荷山・北条 ・地蔵山・岩井山古墳群…等
篠山市編Uをご覧ください ⇒三子塚・小丸山・三釈迦山・波賀野・小枕・諏訪山古墳…等

雲部車塚古墳    篠山市東本荘
雲部車塚古墳は五世紀の初頭(古墳時代中期前半)に丹波篠山地方を支配した豪族の墳墓として築造されたものと推定されており丹波地方最大の前方後円墳で五色塚古墳 (垂水区)に次いで県下第二位とされています。 近年 :壇場山古墳(姫路市)が全長147mとのことで 順位を下げているようですが!!)、墳丘長は約140m・後円部径80m・高さ12m・前方部幅は約90mで馬蹄形の周濠を備えています。
車塚古墳(県守口から

周囲には 周庭帯と呼ばれる 外堤を廻らせています。さらに培塚(ばいちょう)と呼ばれる従属古墳を従えた珍しくも美しく、非常に整った前方後円墳として知られます。此の左右には車の両輪のように配置された円形の培塚を車輪に見立てて 車塚の呼ばれます。平成17年(2005〜)此の南培塚と主墳の車塚古墳の周濠間を通る県道の拡張工事に伴う調査により県道702号線に沿って幅約3m・深さ30cm程の溝が検出された事から周溝が設けられていたとも考えられています。其の周溝跡は埋められ アスファルト舗装工事が進められています。開墾により耕地となった周濠は宮内省の陵墓参考地として再び濠として復旧されたが周溝は
車塚古墳(展望台から)

専門家に調査報告書が読み返される事はあっても案内板設置等で 記憶に残されることはなさそう?【明治33年宮内庁陵墓参考地 平成2年 (1990/3/20)県指定】埋蔵遺物としては明治29年(1896)の試掘の際 ・後円部より竪穴式石室が発見され、内部に四方に突起の付いた長持型石棺が納められ、朱が塗られている様子が明らかになっています。大阪や奈良の大王陵と同じものとして注目されるが、畿内と山陰地方を結ぶ重要地域としても中央と直結した大きな勢力が此の地に 存在していた事を示しており、被葬者は崇神天皇の頃・四道将軍のひとり丹波道主命ともいわれており、宮内庁より陵墓参考地に指定されていたが 古墳時代中期の国造級(くにのみやつこ)の墳墓と推定されています。
車塚古墳:北側の倍塚

出土遺物には甲冑類や刀剣・槍等の武器類を始めとして多くの鉄製の副葬品も確認されています。周囲を水田に囲われた静かな環境の中で、濠に満々と水を湛えた陵は実に堂々とした姿で迫ります。篠山城主として松平康信が慶安2年(1649)8月入封後の承応元年(1652)藩政の中で円通寺の建立、下屋敷の改築、この雲部車塚古墳の堀を埋め立てて田地としています。車塚の名の由来となった培塚は、もとは七基あったもといわれます。
(篠山市の丹波篠山五十三次ガイド 及び現地篠山市教育委員会案内板 参照)

山ン谷古墳   篠山市県守

雲部車塚古墳の西側を県守集落へ一直線の道を北に向い、奥県守へと 西へカーブする集落内を抜けると田園風景が拡がる。県森神社の西・山側の代掻きが始まった田圃の中に、箱庭の様にポツンと取り残された緑の島が山ン谷古墳でした。
代掻き中の田の中に有る”山ン谷古墳”

封土が殆ど流されて数段の石積みを露呈させている横穴式石室が露出している。数枚の巨大な天井石が遺る玄室部を上部から覗いてみるが殆ど崩れた石で埋没しているようです。現残状態:全長約12m・玄室部の長さは約5m・幅2m程、封土が流れ込んでか 埋もれて高さは不明ですが両袖式の石室です。石積みが延びる羨道部へも葺石が落込んで塞がれ覗き見る空間もない。
山ン谷古墳:崩壊埋没している羨道部か?(玄室から玄門部?)

埋蔵文化財調査報告書等を未だ見ていないので一切詳細が分からないが古墳の状態や規模・石室の大きさ・築造時期等は 町浦古墳(篠山市追入町浦坪)と良く似ているように思えます。以前・海老珍さん達を案内して稲荷山古墳や雲部車塚古墳を見て廻ったとき、古墳の周辺に七つの古墳が一定の法則で築かれているような事を聞いた?が、倍塚も含めて車塚の北端に此の山ン谷古墳が加わるのかな…?と思ってみる。 郷土史の文化財資料にも 新宮古墳周囲には碁石塚を始め・位置や古墳名は知らないが七つの古墳が点在していたと云われる。
水田が果樹園?に変わった”山ン谷古墳”

昨年までトラクタが入っていた水田も果樹園となったようで苗木が植えられています。夏草で覆われた墳頂部(封土は流されているが、巨大な残石さえ覆いつくされて 良く観察できないが、更に樹木が育成するにつれ墳丘・外周も画像では分別がつかなくなりそうです(^^ゞ。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)


坂の谷古墳   篠山市県守

篠山市の市街地を抜け篠山川に沿って走る県道702号線は丹波富士 :八上城を望み、川を挟んで対峙する塚ノ山・勝山・般若寺等の明智光秀の八上向城の城砦群裾を縫って、 雲部車塚古墳を経てR173号に合流する細工所に出る。勇猛果敢な「丹波鬼」と怖れられる丹波武士を率いた闘将に「赤鬼」【黒井城主:赤井直正】、「青鬼」【籾井城主:籾井教業】。
坂の谷古墳(玄室と羨道部)の石が見える

そして此処・細工所にも「荒木鬼」と呼ばれた荒木山城主 :荒木氏綱がいた山城が亀岡・播磨・綾部方面への道を分ける細工所の要衝を見下ろしています。雲部車塚古墳から細工所までは約1km。 車塚の展望所となる東側の丘陵上にも荒木山城の支城であったと想われる城山城があり、 尾根筋の東山麓を北上すれば北条古墳・北条・地蔵山 ・岩井山古墳等がある丘陵の西側を 県守集落へ一直線の道を 約1km程北に向うと衣笠山から車塚の側近くへと東尾根が県守・奥県守地区を抱き込むように延び出してくる。 直線道路の突き当り!!から西へカーブする集落内に入っていく。
坂の谷古墳(玄室天上部の開口部分)

以前は奥県守に「県守城」を訪ねた際に山ン谷古墳に寄ったが、他にも幾つか古墳の存在が判って周囲の散策!!に出かけてみます。先ずは車塚からの直線道の突き当り分岐の公民館があり、背後に迫る丘陵上の古墳に向かいます。殆どの古墳には現地に案内板や位置を示すものは一切無いので、何時もながら藪や蜘蛛糸と格闘しながら、棘に手や腕を引っ掻かれながらの探索です。其の上・蒸し暑さと、此の坂の谷古墳でも天井の石が抜かれた場所から 覗き込みながら、嫌な羽音が耳にまとわり付いてくる。気がつけばヤッパリやられてボリボリ・・(^^ゞ
公民館裏手の尾根筋に入り込む道はないかと丘陵西裾を南谷川の砂防ダムに向かう道を辿って見ます。右手の民家から続く山林内の、伐採が途切れる付近の緩やかな尾根上に墳丘らしい盛り上がりが見えるので近付いてみる。
坂ン谷古墳の玄室奥壁

径10m程の古墳で横穴式石室の墳頂部に天井石と、羨道部の石材が見える。 大きく見えた羨道部石材の隙間は片足が入る程度だが内部は見えず、 小さく見えた墳頂部には落とし穴か井戸跡状に、人一人が入り込める開口部がある。床までの深さ(玄室の高さ!!)は約1.7m程。私の身長と同じ程だが、 なんとドーム状になっていて底が広く、出入り口となる開口部もオーバーハングしている。おまけに出口付近の積石が小さく、持った石が抜け落ちはしないか ?石に隙間もザラザラして滑りそう・・と感じて入室は止めた。ホントは石室内での蚊の来襲が入室を躊躇う大きな理由になってはいるのですが!!。 しかし古墳フアンなら引き下がる手は無いでしょうね!!。ドーム状天井持ち送り(三角持ち送り式?!!)になっているのかも?。此処より西方約2kmのR173号線沿いには 稲荷山古墳が有り、T字形プランの石室内が大陸様式で渡来人の墳墓と推察され ています。此処のドーム状も韓国に例の多い古墳のようですが、 特異性では・同じく岩井山古墳 (此処より約1.5km)にあって石室に石棚を備えています。古墳時代後期のものの様ですが大陸文化や播磨・丹波・丹後 ・但馬を結ぶ文化の移動交流と共に考察すれば何か共通・類似の特徴が在るのかも!!。
坂ン谷古墳玄門部南東角の袖 ?(開口部上から)

玄室内は比較的小さな石が多いようですが 其の石の隙間は密閉されています。粘土質の土が塗り込まれているのでしょうか?。玄室上部の開口部側から見る限り、玄室は奥壁まで約2m程、 幅はやや狭く1.5m程、羨道部への出口?が露出している石材付近として約5m弱、床部がどの程度埋もれているか判りませんが、ドーム状の玄室なのに、 羨道側の角の鋭角な石積みが顕著な袖を形成しているようです。埋もれ且つ狭い為もあってか玄門部・羨道部が観察できませんが片袖か両袖かは判りません



東坂の谷古墳   篠山市県守

坂ノ谷古墳(上記)から古墳下の民家側へ降りて、三軒程の民家を繋ぐ地区道を 北方の谷間に進むと、直ぐ正面の南谷川堰提のそばへと延びる簡易舗装の林道があり、畑地や果樹園を通って南谷川の砂防ダムに続く。
東坂の谷古墳:1号墳石室の石材

砂防堰提の横からは鹿猪避けのフエンスを越えて、右手の果樹園(栗林)の段差の一番奥、山境に延びる踏み跡がトタンの猪垣に沿って尾根に向かう。 其のトタン猪垣下の斜面に露出した横穴式石室の東坂の谷古墳1号墳の天井石や側壁らしい石材が散存しています。「篠山町遺跡詳細分布調査報告書」には周辺:直ぐ近くにも1〜2箇所にxx号墳の 位置が記載されているようですが、此の古墳を含めいずれも耕作地から果樹園へと、改変されていて石材も持ち出されている様です。
東坂ン谷古墳

露岩を見せる棚田の一角の様な状況で、径6m程の墳丘は崩れ、墳頂部も盗掘跡の玄室部を思わせるような円形の窪地があるが、 畑地として削平され失われたものか?。東坂の谷古墳1号墳の直ぐ南側には2号墳も有ったらしい?が、畑跡か! 綺麗に削平された2〜3段の段差があり、 最下段の溝谷状まで続き一帯に石材らしいものも見ない。果樹園としても手が入っていない藪で覆いつくされたスペースに 隠れているのかも知れませんが…?。


いごり塚古墳    篠山市県守

坂ノ谷古墳・東坂ノ谷古墳(上記)を訪ねた後、西方の奥県守へ向かう地区道を 約200m程で538m峰から南西へ突き出してきた丘陵の末端が地区道に接するところに位置して県守神社(春日神社!)があり、 其の石段参道が拝殿 ・本殿に延びています。
いごり塚古墳(後円部)
いごり塚古墳(玄室部)


其の中程から水平道の移る付近、階段右手の丘陵斜面には 雑木に邪魔されてはいるが円形墳丘が判る。此れがいごり塚古墳です。参道側に接して横穴式石室の埋葬施設を持ち、西面の参道側〜南面に後円部に持つ、 全長22mの前方後円墳といわれます。墳頂部の北側には盗掘跡の大きな窪地がある。盗掘抗といえば此の後に寄ってみた県守神社(春日神社!)裏山の2基の古墳も同様・僅かな石材や古墳のマウンドを残すのみでした。いごり古墳の墳頂部には、 失われた封土から横穴式石室の天井石に隙間が開き、狭いが細長い割れ目状に小さな進入口を覘かせています。
山ン谷古墳:崩壊(玄室から玄門部?)

こんな入口ですが細見の身体なので!!、 なんとか此の細い開口部をすり抜けて、内部に滑り込む事は出来そうですが、赤茶けた石室内部は土砂が流れ込んでいるようで底部が不安定。殆ど埋まっているようだが 盗掘抗の位置から見て此処が玄室の様で、幅は狭いが天井の高い玄室部や羨道部が想像される。調査報告書等の資料でも有れば、もっと詳細な内容が分かるのでしょうが…



春日神社!!裏山古墳?と春日山!!古墳
春日神社!!裏山古墳群   篠山市県守

いごり塚古墳から参道に降りて、県守神社(春日神社!)の社殿に向かい、拝殿側から境内背後の丘陵上に向かって斜面を登っていく山腹の斜面途中に春日神社裏?1号墳がある。径10m程の円墳ですが、墳頂部を掘削され大きく陥没した盗掘抗があり、 石材は抜かれているが土坑中に1〜2個も石材?らしいものを見ます。
いごり塚古墳:一号墳(盗掘抗)

藪と倒木の中で ・1号墳に並ぶように、 直ぐ上部に続いては2号墳がありますが、円墳が在ったとは僅かに盛り上がった マウンドから分かる程度の小さな円墳(径7m!)です。上部稜線に向かっては左程急な傾斜も無く、 樹木の間を抜けて行けそうな藪の薄い所を突いて登ってい く猪避けの電線フエンスが麓からの地区境界線 ?に沿って踏み跡程度の山道に出た。付近に露岩が多く、下方からは・どれも此れも古墳の石材に見えてしまうが、 付近の最高所?にある露岩の尾根上の直ぐ先数mの所に石囲いの窪地がある・此れが春日山古墳。
春日山古墳

径6m程度の横穴式石室を持つ円墳ですが、石室基底部に1〜2段積まれた石材と墳丘の封土が僅かに残るだけ。 殆ど流失して玄室部の奥壁を主に石室基底部の枠を残すだけ。開口する羨道部は3m程で尾根端の急斜面に消え、玄室部も4m程の極小規模の古墳の様です。(詳細不詳)



なげや古墳   篠山市奥県守

県守神社(春日神社)の祀られる丘陵西側の山裾・水田の中に(今は果樹園になるようで、盛土され苗木が植えてある) 山ン谷古墳があります。農地が拡がる奥県守集落に向かう西方への直線道路の北方にも緩やか谷に水田が広がっています。
なげや古墳と県守城址

水田地帯西側にも北方から南へ延び出した丘陵があり、末端部には 守城 が在りますが、県守城のある尾根と県守神社(春日神社!!)の尾根に囲まれた谷間の南中間付近・ポツンと建つ民家に向かう農道と、民家前の田の角になげ や古墳があります。 げや古墳(南方がら)

小型(径約6m程)の円墳で、墳頂には「地神さん」が祀られています。山ン谷古墳から西に見える民家前へ、田圃の畦道を辿れば80m程先!!墳丘は其の大部分を流出して、 半壊した横穴式石室の石材が露出しているのが遠目にも確認することが出来るんです。



スズ岡山古墳   篠山市井串

篠山市の市街地を抜け 篠山川に沿って走る県道702号がR173号に合流する細工所には、八上城主:波多野氏の重 臣で七頭とし活躍した勇将で「丹波の荒木鬼」と呼ばれた荒木氏綱の細工所城が有りました。
スズ岡山古墳

織田信長の「丹波攻略」では明智光秀軍との壮絶な戦闘の模様は 「井串極楽、細工所地獄、塩岡(しょうか)岩ヶ鼻立ち地獄」 の俗謡に残っています。此の激戦に荒木勢は降伏し天正7年 (1579)明 智光秀の八上城攻めでは、波多野秀治に仲直りの使者として 本目城(神尾山城)の野々口西蔵坊と、此の荒木山城守氏綱を仲介役として八上城へ行かせます。 しかし此れが謀略であったことは周知の事実ですね。
スズ岡山古墳:奥壁から羨道部

細工所城山麓の 激戦地:井串集落には荒木氏香が再建したという 瑞祥寺があり、屋島における源平合戦の際、扇の要を射た弓の名手で有名な「那須与一大権現」に寄り、 其の南方の谷奥にある貯水池に向かいます。細工所城のある404m峰から南西へ突き出してきた尾根の先端が、 田圃に落ち込む末端部には雑木の中に盛り上がりが見える スズ岡山古墳が在りました。
スズ岡山古墳奥壁

田畑の跡地らしいが 下草に覆われ足下も見えない。蛇がいてもわかる筈もない湿気た平坦地を進んで雑木藪となった墳丘に登り、 南側の羨道部に少し降りかけると露岩が見えた。径16mの円墳で横穴式石室の羨道開口部へは埋もれているが、 羨道部天井石が落ちてか抜かれた部分?の岩間からは入室出来る。玄門部付近には片側から 封土が流れ込んでいるが屈んで進める。玄室は高く余裕で立って歩けるが狭い。ライトに照らし出される玄室は、ドーム状で 「持ち送り」傾斜も強い。全長約10m・玄室内は持ち送りで築かれドーム状になっており長さ 5m・幅約2m・高さ2.5m程の左片袖式です。
  (その他詳細不詳)


稲荷古墳と浦山古墳群
稲荷古墳   篠山市貝田

池田・能勢方面から天王坂を篠山市に下ってくると、 嘗て京都・亀岡方面から出雲方面に向う延喜式山陰道の小野駅(うまや)跡があり、今も播磨方面への主要街道(京街道・山陰道)のR372号線(デカンショ街道 )が交差する宿場町福住です。西に向うR372号と分かれて北に向かうR173号は、篠山川沿いに細工所・村雲・福井地区を抜けて 京都府瑞穂町に向う。周辺には古墳群や山城が多く、古代〜中世にかけての要衝でもあり、 京・山陰・丹後・摂津の文化の交差点ともなって栄えたことでしょう。
稲荷古墳開口部の巨大な天井石

籾井川(篠山川支流)を渡ると貝田集落に入ります。国道筋の西に開け南・東 ・北をグルリと丘陵に囲まれた貝田集落の北尾根境を抜けると先日訪れた井串の スズ岡山古墳(上記参照)は直ぐ其処です。福住みに丹波の青鬼:籾井教業の籾井城が、井串には荒木鬼:荒木氏綱の細工所城が在りますが、貝田集落の南北国道側へ突き出した丘陵先端にも 細工所城の支城と思える貝田城と貝田砦?が在る。
稲荷古墳:奥壁

二つの城砦に守られる貝田集落の東山裾中央部に在るのが稲荷山古墳です。 入口近くには表札の文字も薄れ、辛うじて読み取れる貝田公民館北側から民家横を細い谷筋【貝田小谷川】を詰め上がると直ぐ目の前に砂防ダムが見えてきます。砂防ダム下で小谷を北側に渡る丸太の簡易橋は有り、斜面上に鳥居がみえます。鳥居の奥には急斜面に立地して築造された無袖式? 石室開口部には巨大な天井石を載せる祠 (古墳)があり其の前に二基の石碑が並んでいる。
稲荷古墳開口部

一基は地神さんの様で地主金龍大神? もう一基は豊受稲荷?大神とある。稲荷社の祠として祀られているところから稲荷古墳の名があるのでしょう。径約10m程の横穴式石室を持つ円墳で玄室長は約4.5m、 羨道部は玄室底部と同様に埋まっているものか、それとも崩壊・消失したものか?、天井石といい・奥壁といい・更には羨道部に使用されていたものか?開口部前にも巨石が残る。

浦山古墳3号墳   篠山市貝田

浦山古墳は上記と同じく貝田集落内の北側丘陵上・蔵六寺背後の山頂に在ります。境内西裏手の墓地から 直ぐ丘陵鞍部に出て、堀切状の西側尾根先には貝田城があり此処も 二基の古墳のマウンドを利用したと思える曲輪(くるわ)が、他の曲輪・帯曲輪・堀切等遺構と共に残っています。
3号墳開口部

東側の急斜面を登りきると、頂部を利用して径約20m程の墳丘を見せる横穴式石室をもつ円墳:浦山古墳3号墳が在ります。 頂部の西側から南面へは急斜面と藪で石室開口部へは行けそうに有りませんが、貝田城との鞍部から山頂に向う途中、 南方の蔵六寺上部へトラバースしていく踏み跡が有り、此の道が寺から続いていそうな?急な谷沿いに尾根に向っており、
奥壁より開口部

南尾根筋に出ると直ぐ上方に古墳の墳丘が見え、其の下方には狭いが石室への開口部が見えます。開口部は南面の急斜面上にあって埋没している羨道部と玄室部境(玄門部と思える)の天井石隙間に、細く狭い石室への入口が口を開けています。
3号墳玄室の奥壁

何とか足先から身体を捻じ込ませて中に滑り込むと、玄門部・玄室の裾部も 土砂で埋もれてはいるが、高さ約2m・幅1.8m・全長6m程の石室内部に入る。側壁の石材は小振りのものが多く使用されている様ですが、 僅かに内側に傾斜して「持ち送り」も見られます。奥壁から開口部を見ると 傾斜の緩やかな持ち送りと左片袖式と思える石室の拡がりを見ます。


清水古墳群   篠山市小野奥谷

池田・能勢方面から大阪府北部の最高峰・深山(791m)・琉璃峡への分岐を右に見て、天王峠(はらがたわ峠)を下ってくると亀岡方面から篠山市街地を経て 姫路方面へと、嘗ての主要街道 (京街道・山陰道)のR372号線(デカンショ街道)が交差する宿場町福住です。
清水谷古墳1号墳跡(祠)

西に向うR372号線に入ると直ぐ南側の丘陵末端部【 仁入道山 (仁木城)〜桂山(点名:福住)】から北に延びる尾根の末端部に清水古墳群があります。 R372号 此処に山陰道・延喜式小野駅跡に碑が立つ。北に向かうR173号は篠山川沿いに細工所・村雲・福井地区を抜けて京都府瑞穂町から綾部市や 福知山市に向う綾部街道で、周辺には古墳群や山城が多く、
清水谷古墳2号墳羨道部

古代〜中世にかけての要衝でもあり、京・山陰・丹後・摂津の文化の交差点ともなって 栄えたことでしょう。丘陵先端部にR372号線車道から取り付く直ぐ上部に鳥居と 小さな社の祠が有る。
清水谷古墳2号墳玄門部

清水谷古墳1号墳の墳丘が削平された中程の石室跡と思える位置に祠が建てられている様で、祠左右の残石は其の石室の石材だったのかも?
其処から尾根沿いに少し登ると 半壊した石室が残る2号墳(径約14m、無袖式の横穴式石室で全長約8mが露出している円墳)があります。羨道部の石組は石材も残るが、玄室部は埋没し天井石が散在する。

薬師谷古墳    篠山市殿町字テバケ谷

篠山市街地から篠山川を渡り自動車教習所傍を 左カーブする県道77号線は、直ぐに信号機のある「八上下」三叉路交差点でR372号(デカンショ街道・京街道)と合流します。交差点を右折してR372号線を 姫路方面に約100m程、東に八上城(高城山)を・西に法光寺城城砦群の在る丘陵の挟まれて、奥谷川沿いに南方に拡がる谷間の集落が殿町。
崩れた羨道部上に小さな開口部

波多野氏が八上城を築いて移る前の蕪丸(奥谷城)が此処に在る。川沿いに進むより、 初めに奥谷川を渡って殿町集落内に入った方が 判り易いでしょう。殿町集落に東側から迫る丘陵の南先端部が蕪丸(奥谷城)で登城口には、発掘調査時の写真付き案内説明板が立てられています。丘陵南末端部で殿町集落の民家は途切れて、南方へは田園が拡がる川沿いに 直進する長い農道(奥の山際に数軒の民家が有る)は、東仙寺廃寺に向い遺構や五輪塔等幾つかの関連遺物が点在している様です。目的地の薬師谷古墳は蕪丸の丘陵南裾を東方から流れ出る小川に沿って通じる 未舗装の農道を 30m程進んだ、左手の小さな谷間の棚田の最奥部に在ります。谷入口東側の丘陵には小さな「テバケ谷古墳 (径8mx高さ1m)」があるようだが未確認。
玄室の天井石

むしろ此の古墳推定地?の丘陵先端ピークの平坦地形と土橋状の尾根続きが気になった。蕪丸(奥谷城)とはテバケ谷を囲い込む容の尾根筋はガレた岩の多い急斜面を攀じて八上城の曲輪群を経て 朝路池から主郭に至るルートなので、城砦遺構だったのかも知れないと思い返しています。いま見ている県の埋蔵文化財分布に記載は無いが、古い県か篠山市の分布調査書には 「テバケ谷遺構」とあった様な ?名称も虚覚え・分布位置も転記していないので不詳ですが!!?。 棚田の縁まで降りてきて、畦道から数枚の棚田の奥に延びる 鹿避けフエンス沿いの踏み跡を伝うと薬師谷古墳の開口している羨道部側が見えてくる。谷の入口から望んだ場合、最奥の植林帯先端部の 中央左寄りに位置しています。
玄門部:左片袖式?石室

フエンスの扉を開閉して、古墳の西側(玄室側)から廻りこみます。 開口している羨道部以外は 封土ともに完存の横穴式石室は径15m・高さ4mの円墳です。石室の羨道部は陥没し・封土も崩れたものか?、 大きくえぐり取られた様に崩れた擂鉢状の下部に殆ど埋まった…というより土砂で被われたトタン等で塞がれている。 塞いでいたと思えるもう一枚の腐ったトタン板が開口部(幅約30x40cm)の 下斜面に土に埋もれ見える。なんとか入れそうですが岩室へは開口部の直ぐ下を、 今度は横にもっと狭い岩の隙間(高さ20cm程)を、文字通り・身を削る思いで斜めに擦り抜けなければなりません。
薬師谷古墳(左手前が開口部)

お蔭で雨具は上下ともに泥だらけ。随分古くからトタンで塞がれている様で、 崩れた土砂が覆い積もって動かない。30x40cm程で何とか入れそうな穴だが直ぐ下で、高さ20cm程の岩の隙間を・玄門部傍まで斜めに滑り落ちて、辛うじて入室。径15mx高さ4mと有るが 岩室内は玄室部で幅約2m・長さ4.5m・高さ2.5m程か?(真っ暗なので電灯の灯りによる感覚だけ)。 玄室部奥壁からは、入り込んできた小さな隙間の明かりも床に顔を付ける程に屈み込んでやっと見える程小さい。 奥壁から玄門部を写した映りの悪い画像からは左片袖式の様です。
奥壁から玄門と埋もれた羨道部

古墳の専門知識などないので判らないが、玄門の対角線上に顕著な遺構は無くても、玄室内は右方にも少し膨らんでいる様なので、両袖式なのかも・・?調査報告書が閲覧出来れば埋もれた部分や 特徴等の詳細がわかるでしょう!!。玄門部付近の羨道部から玄室奥壁まで・ほぼ完存している横穴式石室の薬師谷古墳は、谷川の傍・水の抜けた小さな貯水池の直ぐ側に封土を残したまま残されています。

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