丹波の古墳 篠山市 篠山市編 U


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三子塚古墳  北野 小丸山古墳 大山上 三釈迦山古墳群 味間北 波賀野古墳 篠山市波賀野
沢田八幡古墳 前沢田 八百里古墳1号 瀬利 諏訪山古墳 西古佐 小枕古墳群 小枕

三子塚古墳と小丸山古墳
三子塚古墳  篠山市北野池ノ下坪

平成18年(2006)8月初め・竜脚類【大型の草食恐竜】の尾椎や血道弓・肋骨と次々に発見された化石が2007年1月には白亜紀に生息していたテイタノサウルス類で 世界的にも発見例の少ない貴重なものだそうだが推定20mに及び日本一の恐竜で・世界的にも例のない全身骨格発掘の夢もあって 新聞報道により名が知られた「丹波竜」の郷山南町から川代渓谷美を望みながら篠山川に沿って
三子塚古墳

県道77号を大山下交差点へ出て左折R176号線を鐘ヶ坂・柏原方面に向かう。大山下には大山城が、鐘ヶ坂上部には金山城があり三子塚古墳付近に丘陵の東裾を落とす波賀尾岳(392m)も山城だった?。 いずれも大山荘を領しR176号線の旧主要街道筋を監視する城だが波賀尾岳が京都府側から篠山市側の大芋荘にはいってくるところにある八ヶ尾山と同様に標山として古代の民俗が集落を求めて移動する際の目標となった山なので周辺に古代集落遺跡や古墳群が多くあるのも頷けます。篠山市街地から県道140号線が 西紀町を抜けてR176号に合流する長安寺交差点
三子塚古墳1号墳

(三叉路)の先で狭い集落内を南西へ抜け大山川に架かる「九ノ瀬橋」を渡ると西正面の谷間に続く田畑が拡がります。古墳フアンなら橋を渡る前には目だとくビニールハウスの横に中央を窪ませた三子塚古墳の1号墳を見つける事でしょうね。更に其の横にある2号墳も・・・
田圃の中の三子塚古墳へ向かう農道先のT字辻を右折して溜池横へ進む林道が小丸山古墳への登り口を通って県道77号線の「やきもち坂」からの農道へ繋がっている事は小丸山古墳を訪れて引き返す際見覚えの風景に以前「やきもち坂」の大山浄化センターから波賀尾岳を目指し、不案内の地域なので山への取付きに不安を感じて狭い車道を進んでいるいるうち、此処から溜池へ続く道を見た。小丸山古墳は知らなかったが三子塚古墳が有る事は知っていたが当時は所在を知らずこの辺りにあるのだろうが?
三子塚古墳1号墳

余り関心もなく直ぐ其処の貯水池下までも探す気もなく簡易舗装から地道に変わる 分岐点まで引き返した事を思い出した。現存する古墳は隣接して2基あるが名が示す通り・元は3基あったが一基は消滅しています。昭和59年に実施された圃場整備事業の為、確認調査が実施され 其の後:地元の協力によって現状保存されています。味間の三釈迦岳麓の古墳群の中にも小さいながら、田の中に三つ並んだ古墳が有りますよ。さて三子塚古墳案内板の立つ前に有る1号墳は径約20m程の円墳で高さ3m・幅5〜10mの周濠が巡っていることが確認され、此の周濠を含めると径35mにも及ぶ大規模な古墳であることが判明しているが 丹南町内では唯一周濠を持った古墳でもある。 墳頂部には大きな盗掘坑が残る。排水溝を挟んだ水田中の2号墳は周濠を持たず、
三子塚古墳2号墳

1号墳より少し小振りで径15mの円墳だが此処も墳頂部や北東側にも盗掘により崩されたものか石材も持ち去られかなり削平・改変されています。高さ2m程の墳丘を持つ円墳は主体部が共に横穴式石室で木棺直葬されたものと見られ、 古墳時代後期(6世紀前半)頃の築造と推定されており、H5年(1993)3月31日市文化財指定を受けています。
山城や寺に伝わる埋蔵・金鶏伝説が此処の古墳にも伝わります。 「墳墓には金の鶏が産んだ卵が埋まっていると聞いた村人が卵を掘り出そうとすると自分の家が燃えている白昼夢を見る。驚いて家に帰ってみると火事の気配はない。村人はまた堀に出掛けるが其の都度・同じ様に非現実的な火事の体験をする。 其れでも掘る事を止め無かったが村人の家は 本当の火事になってしまいました。それ以来:白昼夢が伝染する意味からか、村人達は此の古墳を「火はしか」と呼んで怖れたということです…。
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小丸山古墳(1号墳)   篠山市大山上

三子塚古墳から谷間の奥に延びていく林道を、上方に見えている貯水池・墓地側を抜けて4〜500m程先に進むと、 林道は低丘陵部先端を回り込むように左右に道が分かれますが、其の分岐点から正面の低丘陵に登っていく確りした山道があり山上部の削平地に着きます。削平地の左方に盛り上がった墳丘が有り石室が見えているが、木枠が石室を支えているようで 小さな石の祠そのもの。石室外に石仏が一基建つ。役行者の立像か?・・・元はこの石室に祀られていたものか石の台座が残っている。 石室は手を伸ばせば奥壁につかえる程で幅・高さ共に約1m程、しかも内部の積石も小型で綺麗に積まれ過ぎている様で、ますます祠の様相です。墳丘部の西端は尾根筋いっぱいに削平されています。主体部は祠として改変され玄室の奥壁部だけが 残された状態で露出しているものか!、全長約19mの古墳時代中期(5世紀末)に築造された前方後円墳で、主体部の後円部には横穴式石室が設けられ、墳上からは円筒埴輪片や須恵器片が採収されている。小規模とはいえ小丸山一号墳は 大和政権に繋がる地方豪族として築造が認められた

(篠山市の文化財・丹波篠山五十三次ガイド 大山村誌及び現地(昭和62年3月31日)篠山市教育委員会案内板 参照)


三里山古墳と三釈迦古墳群
三釈迦古墳群    篠山市味間北

JR篠山口駅前からR176号線を北進する。正面の新興住宅地:住吉台丘陵上には西山城があった。久下氏(丹波市山南町の玉捲城)と、此の北方1.5km程に在る大山城の中沢氏(長沢氏とも中澤氏とも ?)一族の居城だったが宅地開発で消滅。 この西山城とR176を挟んで御射迦山(三釈迦山)から東南へ延び出す丘陵の末端部に火ともし山があり、
三釈迦古墳群では最もよく知られる三重連の古墳(手前からx3〜x1号?)

山頂部に 平井山城(西古佐小屋床)がある。二つの丘陵の北面には篠山川が流れているが、 二つの丘陵間から南へ流れ出る川は武庫川となる谷中分水界となっている。平井山城はR176号線から丘陵部を西へ分岐して西脇市へ向かう県道36号線の入口 ・味間谷を堅める位置にあり山陰道が鐘ヶ坂から柏原へ抜ける以前の (延喜式)旧山陰古道は、
工場敷地内:正門前に保存されている三里山1号墳?

味間から山南町阿草〜井原〜佐野(氷上町)を佐治郷の向かっています。平井山城の裾を味間谷に入って直ぐ西には民家の陰で見過ごしてしまいそうなほど低い丘陵があり 此処に味間北城がある。 二つの城跡のある低丘陵が突き出してくる南麓一帯に拡がる田園風景の中に古墳群が分布しています。
H16年3月兵庫県遺跡分布(県教委)の味間北字三釈迦には三釈迦古墳群1〜6号墳が
三里山1号墳

紹介されているだけですが他に字里見山として里見山古墳群1〜6号墳、 里見山麓に1〜3号墳が有り、限られた狭間の平井山・岩ヶ谷・三里山・里見山・里見山山麓・三釈迦の各古墳群が過去の遺跡分布調査と混在しているのかも…?。
三釈迦古墳:x4号:(玄門部?)足元の石材は崩落した羨道部らしい!!

篠山川に面した御射迦山(三釈迦山)の北麓周辺には、桂ヶ谷遺跡やズエガ谷遺跡等・幾つもの弥生時代以後の 古代集落遺跡や古墳群が分布しているが現在 :県立公園として「丹波並木道中央公園」が整備中(平成9年秋開園予定)です。これ等の遺跡や古墳・及び発掘調査による出土品や壊滅した遺跡にはレプリカ復旧再現等の資料展示や保存がされていれば良いのですが。
三釈迦古墳:三重連古墳の延長線上の山中にあるx4号墳(玄室部?)

R176号線から県道36号(西脇篠山線)に入って直ぐ北側に田圃が拡がり、 山立谷の谷間を一直線に車道が延びています。西側の丸っぽい超低丘陵の先端部の頂部には曲輪・堀切遺構が残る「味間北城」があり、 其の北少し低い位置が堀切で、峠越えの山道となり東側のテクノ○○工場内に下りていきます。 直線車道は此の工場への分岐を過ぎると農道となって 谷奥の貯水池へ更に延びていきます。
三釈迦古墳:最北三重連山側のx3号墳!

田園風景が拡がる谷間の中程西側に続く低丘陵の山裾に 「テクノ○○」工場があり正門脇の南側に墳丘を残した円墳:三里山1号墳?が見えているので、 三釈迦古墳群訪問は先ず此処から始めましょう。三里山古墳も同じ谷間に有って 三釈迦古墳群に入るのでしょうが谷間を挟んで建つ「味間北城」のある西丘陵側と、「平井山城」のある「火ともし山」側の東古墳群を分けてみます。 工場敷地内:正門角に位置する「三里山1号墳」は墳頂部に墳墓とは無関係の石片が置かれて何かを祀っているようです。
三釈迦古墳:三重連古墳の延長線上の山中にあるx4号墳

一段下がった南側には一列古い石碑・石仏・五輪塔も並んでいるが個人墓地ではなく前にある 「味間北城」関連の無縁墓石等、工場建設整備により出てきたものを此処に集めて祀られているものか?墓地等で改修されていなければ?遠目にも、墳頂部から見ればなを更:2段に築造された円墳の様です。横穴式石室かどうか墳墓を周回しても主体部と思える石室や石材も見当たらない?。2段式といい・墳頂部の石材?といい、墳頂部に小さな主体部の石室があって木棺直葬だったのか?。 後日:発掘調査報告書を探してみる 必要はありそうです・・・(^^ゞ 其れほど大きな古墳でも無さそうですが、この後:見て廻った三釈古墳群の中に有っては比較的大きな円墳です。
x10号墳の玄室と閉塞石(手前)

御射迦山 (三釈迦山)から東南へ突き出してくる丘陵末端の 「火ともし山」の西側山裾を流れる山立谷へと、幾つもの短かく派生する枝尾根が見えますが、其れ等の尾根筋麓には其々に2〜3の古墳が 支群を形成しているのが確認されているようですので、東側の枝尾根筋に分布する古墳を訪ねてみます。谷の東山裾の田圃の中に墳頂部に石材の残る古墳が見えてきます。
x8号墳の天井石

谷間の一番北奥に位置した此の古墳は水田の中に、 ほぼ等間隔に3基の小さな墳丘を並べて回遊式池庭に浮かぶ小島の様に見えます。 古墳に近づいて観察出来ないため、田植え準備の今の時期「代掻き」後が写真を撮ったり観察するには、一番適した時期と思えます。この三重連の古墳は3基共に墳頂部の封土は無く、西側の円墳は墳丘を成さず石室周囲の石材が露出しており、半壊状態のようです。 中央の円墳は台状になっていて 封土は無く、3基の石材露出部の高さから推定すれば、石材は持ち去られたものか見えない。比較的に古墳の旧態を残している一番大きな 山側の古墳にしても、墳頂部の封土は無く石材が露出しているが、内側に崩壊して石室を塞いで半壊状態か、土砂が流れ込んで全壊状態となっている様です。
x7号の玄室部と天井石

この三重連に並ぶ古墳を直線で結ぶ先の枝尾根上にも2基の古墳が有りました。山林内へは直接入っては行けず…山裾を鹿避けフエンスに沿って大きく迂回しながら入口の扉を探し、 其の扉を開閉して引き返し気味に山林の尾根筋を詰め上りかけたところで、横穴式石室の玄室天井石や側壁の石材が残され露出しているX4号墳を見つけた。奥壁部分が抜かれていて内部を覗けるが高さ約1m・幅約1.5m程。 天井石の残る頂部の一段下・今立っている場所が玄門部か?足下にも流れ出た封土に埋もれて 崩壊した天井石らしい石材が見られ、 西方に開口して羨道部を持った全長径8m程度?の古墳だった様に思える…?。
全長6mほどの石室で、半壊状態です。
:x12号墳の露出している天井石

そのすぐ上にも極小さな石室の枠組を残して石材が露出したx5号墳があります。途中・谷筋か尾根筋か切れ目が 判らない程の緩やかな 東山裾を田圃と山林の境目の鹿避けフエンス沿いに移動したため、どれかの?尾根筋にも古墳はあったようだが未確認のまま通り過ぎたが、林間中に天井石を露出させている2基の古墳を見た。2基ともに田圃の拡がる西南に開口してか? 三釈迦古墳群では大型の天井石を露出させて並び、其の先端部の閉塞石らしい巨石を 田圃と山の斜面との段差に覗かせています!!。壊れてか埋もれてか ・石室内を覗い見ることも出来ないので、猛烈な藪を漕いで10m程先の田圃に這い出て最期の東南の丘陵に向かうが、其の間の栗林隅に有り尾根に上がる先端部にも、
三釈迦古墳:x10号の玄室内奥壁

天井石が抜かれているが羨道部を閉塞している閉塞石等の石材を残し、残存状態が比較的良好な横穴式石室X10号墳が残されています。田の畦道に戻り最東南端の丘陵部に進みます。 祠への参道かと思える様な山道入口は椎茸栽培されている様だ。其の尾根筋直ぐ上にマウンドが見えるが近寄ると、石材が全て抜き取られて消滅し、内側に石室跡の凹角部だけを残すx11号墳があり、更に直ぐ上方東側の斜面途中には封土が殆ど流出し、 木の根に抱かれた円墳の天井石が僅かに小さな古墳の石室内部を垣間見せています。
(xxx古墳群 篠山市教育委員会  資料等を参照予定…。


諏訪山古墳    篠山市西古佐

篠山川沿いに川代渓谷の新緑と渓谷美を 観賞しながら県道77号線を東に向かいR176号の大山下交差点に出る。 JR篠山口駅方面へと右折して国道筋を南下すると次の交差点が篠山川に架かる丹南橋を渡ると、 草山温泉や京都:三和町への県道97号を左に分けます。このコーナー部に少将山の丘陵が有り、篠山川を挟んだ 南東側に本諏訪神社跡地があり「諏訪明神」の碑が建てられた小広場が在り、祭神:建御名方命が信濃国に鎮まる前・多紀郡(現:篠山市)の現在地に暫く足を止められたという。
玄門部から羨道部の「持ち送り」

此の碑に進む 手前左手の踏み跡から小さな丘陵上の最高所に向かい、短い稜線を延ばしている東に向かって尾根を少し下った処に諏訪山古墳は有りました。丹南橋を渡ると此の丘陵の西裾を廻り込むようにカーブする小さな峠を越えます。北に篠山川が加古川へ、 峠から南へは武庫川へも流れ出る谷中分水界にもなっています。 此処から西方にある三釈迦山北麓一帯に現在:県立「丹波並木道中央公園」が整備中(平成9年秋開園予定)です。
玄室の落下天井石と玄門部

此処にも遺跡や古墳が点在しているが南麓の三釈迦山古墳群については上記のレポートを参照してください。
其の公園への入口となる西古佐の丹南大山駅前バス停から東側の民家裏手から、 篠山川に沿う南東の小丘陵に向かいます。路地奥の行き止まり広場の様な平坦地に 諏訪神社の石碑が祀られていますが、 西端の果樹園との境にある山道を一寸登ると尾根の最高所です。其処から踏み跡が少し下った処に有る横穴式・左片袖式の石室を持つ円墳諏訪山古墳【径18m・石室は全長約9m・玄室長4.5m・幅2m・高さ2.6m・羨道長4m・幅1.4m・高さ1.5m】で、 玄室上部や羨道部入口へ付けられているので自然に到着です。
玄門部のまぐさ石

玄門部から玄室部奥壁側にかけて、封土が無いというより玄室上部の天井石が失なわれ巨大な天井石の一つ玄室に落ち込んでいるが玄室全体が見渡せまる。玄門部から羨道へは一段と低く(約1m)なって、其の門の上部に渡された梁となる目草 (まぐさ)石の石組が顕著です。南に開口する羨道入口へかけては片側が異常な程内側に傾斜している。高い玄室部を支える為の「持ち送り」石組は丹波の他の古墳にも見られるが羨道部・それも片側だけ?に「持ち送り」の石組が見られる例は珍しいのかな?

波賀野古墳    篠山市波賀野

亀岡市から篠山市街地の南方を通り加東市社へ抜けるR372号(デカンショ街道)は 源義経が平家追討の為、須磨・一の谷に向う途中、要衝警護に就いていた平資盛(すけもり)が布陣していた三草山の合戦に奇襲で勝利し、
玄室奥壁左側壁の接合部巨石が目を惹く

其の足で向かった 一の谷での「鵯越の逆落とし」で勇名を轟かせた事でも知られる京街道ですがR176号線(摂津・阪神方面から丹波に入ってくる街道)との 分岐点ともなっているJR古市駅前から篠山市街地へ向かうR372号(デカンショ街道)へ入って直ぐ波賀野バス停から地酒の酒造蔵を見ながら山沿いに南方へと進み神社参道前を過ぎると山間に拓けた田園風景が広がります。

左片袖式石室:巨石の上部に小石が並ぶ・・・

右手はずれの民家の前、三方を水田に囲まれた畑の中に方形約15x13m程の方形をした基壇状の墳丘を見せるのが波賀野古墳が有ります。 上部は畑地により削平され壊失していますが、 中央部には・東方に開口して横穴式(全長約8m・幅2m程)で左片袖式の石室が基底部だけを残して保存されています。(其れでも壊滅状況を免れて残存状態は良い方)。
波賀野古墳の石室

墳丘の北東裾にある大きな石材が散在しているの石室の天井石だろうか?。 開口する羨道部前にも羨道部が延びていたのか蓋石?か、埋もれた石材が見えています。石室を囲む側壁・奥壁ともに大きな石材が使用されているのに、其の巨石に上に並べた様に小石が積上げられている、 このアンバランスな組み合わせはなんなのだろう?。この谷間の東側は中谷川沿いや1kmほど先の栗栖野は、篠山城の築城の際、其の石材の多くが運び出され、しかも殆どが河原石だったと思えるので、石材不足が原因とも思えません。




小枕古墳群 (瑞林寺古墳群と浅香山古墳群)

T:瑞林寺古墳群    篠山市小枕
波賀野古墳に寄った後、篠山市街地・篠山城へ向かってR372号(デカンショ街道)を東へ走る。 篠山城築城の際・石垣等に使用される数多くの石材が波賀野や栗栖野から 此の街道筋を運び出されたのでしょう。波賀野の東約1km程先の栗栖野交差点近くには、
瑞林寺古墳群:県道49号側のx1号墳

築城時の残石をモニュメントにした残石公園が有ります。小枕の交差点で 左折し直進すれば篠山城下へ向かうが此処で右折し、 高級丹波茶の里・母子(もうし)から花の寺 :永沢寺や三田方面へ向かう県道49号に入ります。「丹波霧」の名を広めた小川芋銭の「丹波霧海」
瑞林寺古墳群: x1号墳の西北50m程にx3号墳

(大正15年院展に出品された)を描いた風景は、 この県道を母子側へ越える美濃坂峠からと云われています。小枕交差点から県道49号線に入って南へ約1.3km程 ・小枕古墳群のうち県道側、水田の中に5基ばかりの極小古墳が6〜70m四方に群集している瑞林寺古墳群に立ち寄ります。水田の西に連なる低丘陵のいずれかのブロック・の山中には浅香山古墳群が有るのですが、
同 x1号墳の西40m程にx2号墳

分布地図を調べていなかったので 検討付かず次回にして、其の丘陵手前(東)の水田中に点在する・いずれも崩壊して周囲に横穴式石室の側壁石や、天井石らしい石材が露出している古墳を見て廻ります。墳丘を僅かに留める3基・田圃の傍と 県道近くのフエンス側2箇所には、石置き場の様な状態で瓦礫の中に古墳の石材が散逸しています。

U:浅香山古墳群   篠山市小枕

小枕古墳群には:小枕奥の馬草山の尾根上に立地して、 径22mの円墳で小型の石を積上げた右片袖式の横穴式石室を持つ浅香山古墳を主とする浅香山古墳群と山麓の水田の中に小型古墳が群集する 瑞林寺古墳群があります。美濃坂峠に向かう県道49号線側の瑞林寺古墳群は判るが、
浅香山主墳:埋没した羨道部と右片袖式玄門
(側壁:小型の石積みで「三角持ち送り」がみられる)


浅香山古墳群は 其の西方丘陵上にあって朝香神社の小さな祠が祀られているといい、登路も確りして判り易いだろうと思っていた。陵は当初見当をつけていた北端民家背後ではなく、瑞林寺古墳群付近から見て一番南側に延び出す丘陵末端部だったので、地元の方に祠への参道を尋ねてやっと取り付き点と、古墳の場所の位置が確認出来ていままで検討違いであった事を確認した。
浅香山主墳:墳頂には祠が祀られている


民家の路地と裏手の畑地を通り抜けて林に入っていくと直ぐ、地神さんを祀っているらしい祠が露岩の隅にあった。 これは古墳ではなかったが、 進む前方には墳丘が流失して露出している石材をみる。下刈の雑草や伐採された枝木やゴミが散乱する山林内の其処此処に7〜8程の円墳の墳丘をみます。墳丘部に石材が露出しているもの。石室部が抜かれ石材も失われて凹部だけを残すものもあるが、丘陵末端部にも大きな墳丘が有る。南面には数枚の大きな露岩を見せる古墳は浅香山古墳群の中では主墳に次ぐもので、 散乱するゴミにウンザリしながらも周囲を廻ってみる。
浅香山古墳群:大きさでは主墳に次ぐxx号

そこから西の山林に入っていくと緩やかな丘陵の斜面上に古墳の石材が散在し、天井石の露出した古墳がいくつかある。参道(ただの細い山道ですが)を少し登った尾根上に、羨道上部を整地した小場があり、 そのため埋没したとも思われる羨道部の先には玄門部天井石が露出しています。玄門部の露出した岩上には小さな祠(朝香神社)が祀られており、 此処が浅香山古墳群の主墳です。横穴式右片袖式の石室には羨道部と玄門部の間の開口部から潜り込めます。
浅香山古墳群:祠への参道口にあるxx号墳

約22mの大型円墳は、 埋没した羨道部以外はほぼ完存しており、石室(全長10.35m・玄室長5.3m・奥壁幅1.7m・高さ2m・天井石は5枚から成る)は瑞林寺古墳群や浅香山古墳群の主墳周辺の小古墳からは、 高さも幅も想像も出来ない程大きな石室ですが、 比較的小さな石を積上げた側壁・奥壁も僅か斜めに架かって、高い天井と巨大な天井石を支えるドーム状になる「三角持ち送り」が見られます。

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