丹波の古墳
  篠山市編 W

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塚谷古墳  篠山市東本荘 籾塚古墳 篠山市下板井 xx古墳 篠山市
堂ヶ谷古墳 篠山市打波 xx古墳 篠山市 xx古墳 篠山市
併せて篠山市編T  篠山市編U  篠山市編V をご覧ください

塚谷古墳    篠山市藤岡口字塚谷の坪

栗柄峠・鼓峠を越えて京都三和町へ通じる県道97号線西紀支所前の分岐を県道140号に入り、篠山産業高校前を郡家交差に出る。交差点コーナーの北隅に居籠塚、 一直線に東方県道301号線に沿って、郡家八幡塚と平地に有る円墳では 市内最大の新宮古墳が並び、 車道を挟んで向かいに碁石塚・少し南の田圃の中には墳頂ぶが削平され墓地となり、角も耕作地として削られ、方墳状になっている茶ノ木塚が見えています。
塚谷古墳:羨道

郡家の次の交差点「熊谷」を北に向かって右折して直ぐ 「丹波与作」生誕地のささやま五十次案内板を見て集落と田圃の間 ・地区道傍にはスッカリ封土を失って露岩を曝け出した姿を丹波の石舞台と呼ばれる「石くど」がある。道なりに北方へ走ると多紀連山・西岳南麓の藤岡ダムがある。ダム堰提を望む「藤岡奥公民館」から岩屋観音への 分岐する西方の谷間に「いかるご古墳」の名を見つけてはいってみたが、径8mの 極小古墳は判らなかった見つけたのは羽音だけで判らなかったが、猪の赤ちゃん(うり坊)の腐りかかった頭部だけが残り黒集りの蝿の大群。 谷間は篠山名産:猪の牧場になっています 。いかるご古墳の探索は止めて藤岡奥公民館に戻り、今度は東側集落に向かいます。
羨道から石材の殆ど無い玄室部?

民家南側の谷間の傾斜に沿った田畑の間に、整地された古墓跡地があり、其の上の民家側にある畑の間に露岩が見える。近寄るまでもなく此れが塚谷古墳。南方に開口しているが、 現状で径約10mの横穴式石室を持ち・辛うじて石室の状態が羨道部に残されます?
玄室部と思われる部分の石材は殆ど無く、大石が2〜3個・石室内に崩れ落ちている様です。廃墓地や畑が傍にあり、 石材転用?等で改変・消滅していても仕方がないのかな? 


籾塚古墳/川内多々奴比神社と「たらねちの銀杏」/籾塚  篠山市下板井字川内原

籾塚古墳
R176号長安寺交差点から県道140号に入り、木ノ部の 耳薬師・宝筐印塔側の坂を下り、左手に内場山城 を見て近畿:舞鶴自動車道の高架を潜ると舞鶴自動車道と平行に 佐仲ダムに向う北への車道を進むと 板井城のある低丘陵が見える。 其の手前左手の自動車道の高架下に砂と岩をモチーフにした公園があり、川内多々奴比神社」の案内看板が立つ。佐仲ダムから黒頭峰や三尾山へ入山に、よく利用する道ですので神社の看板は見た事が有ったが、 此処に古墳の石碑建っていた事には気付かなかった。
高架下の石庭?:籾塚古墳

川内多々奴比神社の参道入口で、奥に注連縄を架けた鳥居が有り・神社の由緒案内標も入口脇にある。高架下には砂地の盛上がりが有り、周囲には大岩が石庭の様に点在するが他に何もなくて公園の様でもなかった。 此処に籾塚古墳と彫られた石碑が建てられているが、其れだけで説明板や古墳の痕跡を留めるものは何も無いが、 砂地の広場に無造作に点在する岩類が古墳の石室等埋葬施設に使用された物の様です。遺跡分布地図や報告書等を未だ見ていないので判らないが、古墳の多い此の周辺で石碑まで建てられた古墳は他に知らない。 余程の出土品でも発見されたのか?。
川内多々奴比神社「垂乳根の公孫樹」の巨木

2基ほどの 円墳だったか小規模の前方後円墳だったかも?。現状からは古墳が有った事も分からない程ですが石碑は前方後円墳の殆ど削られた後円部の墳丘部に立てられたものか? 内場山城は古墳の墳丘が利用されているようですので、 近場の此の古墳とも関係は有りそうです!!。話としては四道将軍の一人「丹道道主命」が此の古墳を利用して賊徒征伐の陣を張ったと思えば、興味も倍化するのですが・・・(^^ゞ

八坂神社と堂ヶ谷古墳      篠山市打波
篠山市役所西紀支所から 「京・但馬みち」を示す古い石道標が立ち街道筋の趣が感じられる宮田天満宮hrの分岐を過ぎ、下板井弘誓寺(背後の丘陵頂部付近に西谷城がある。黒井城主:赤井直正の弟で三尾城主:赤井幸家が天正期に再建した寺で、 晩年は此処で没したという )の山門下を通る県道97号線を進む。栗柄峠〜鼓峠を越え、丹波黒井城攻めの明智光秀が一度はこの道を敗走した道しばらく歩くと打波バス停に着く。
打波八坂神社と町木指定の樫の木

八坂神社への燈篭が立つ静かな集落を抜けて突き当りに神社の鳥居が見える。八坂神社の鳥居をくぐると神社縁起の簡単な案内板が立てられ、参道の石段が続く。右手に旧西紀町の町木・樫の大木が目につく。縁起によると、 平安時代初め:嵯峨天皇の弘仁9年(818)疫病が大流行して、多くの犠牲者が出たという。村人が空海に祈祷を願い、祇園社の本地仏として空海薬師如来【黒薬師】を安置して祀り・疫病も収束し、後に社殿を建立 (由緒によると創設は天暦元年(947)・祭神:素戔嗚尊)したのにはじまります。
社殿の狛犬(阿像と吽像の位置が左右逆?、方向は外向きで正常?)

その後、数回兵火に遭って焼失・衰退した様ですが、都度に再建され再興・復興しています。明治6年10月村社に列し明治14年には社殿の改築、 昭和3年屋根の葺き替えが行なわれています。空海は弘仁9年(818)修禅の道場として高野山を下賜され、翌年まで滞在して伽藍建立に着手している。全国津々浦々に伝わる弘法大師:空海の伝承は、何時の頃の話か・・・?。 818年以降・入定に至るまで。旅姿の空海行脚像は見られなかった筈!!?。歴史上・天皇から「大師号」を下賜された僧は27名におよぶという。大師=空海(弘法大師)の伝承は此処にも残されていました。
ウィキペディア(Wikipedia)を参照
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堂ヶ谷古墳     篠山市打波
八坂神社の参拝が目的ではなく此処を目印に堂ヶ谷古墳に向かいます。 石鳥居から山裾を南へ廻りこんで約50m。栗林となっている平坦地形の中程に石材を露出させた堂ヶ谷古墳が見えてきます。封土は洗い流されて、スッカリ石室内に流れ込んで埋まってしまっているのでしょう?露岩の天井石からは、 幅は狭そうだが横穴式石室の奥室部は残されているのかもしれません。
堂ヶ谷古墳の羨道部?玄門部?

ただ此処も古墳のある平坦地や、羨道部と思われる古墳の前方向は3m程の崖というより、段差に削られているようで、足の踏み場も無い竹藪の中で、雑木と下草に蔽われて下段も古墓の跡地だったと思えます?  古墳の石材が残る前方の崖状段差?には、大きな石が見え、羨道部の側壁の間に天井石が落ち込んだり封土が詰まっている様相です。

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