丹波市編 Ⅰ
丹波市編Ⅰ | 丹波市編Ⅱ | 篠山市編Ⅰ | 篠山市編Ⅱ | 篠山市編Ⅲ | 篠山市編Ⅳ | 北播磨編 | 東播磨編 |
見長大歳神社古墳 柏原町見長 | 法蓮寺古墳群 柏原町下小倉 | 伊佐口古墳 丹波市氷上町 | 北由良古墳群 丹波市氷上町 |
大安寺古墳 柏原町東奥 | 三原古墳群 柏原町柏原 | 佐野古墳群 氷上町佐野 | 北野古墳群 丹波市氷上町 |
昭和池古墳群 柏原南多田 | 藤の目古墳群 柏原町柏原 | 下油利群集群 丹波市氷上 | 稲荷古墳と山桜 丹波市春日 |
大歳神社古墳 柏原町南多田 | 谷川野田古墳群丹波市山南 | 唐鍬古墳 丹波市青垣町 | 坂群集墳 丹波市春日町 |
見長大歳神社古墳
丹波市柏原町見長
R176号鐘ヶ坂トンネルを北方に抜けると丹波市柏原町に入り奥野々峠(トンネル)から山南町への県道86号の分岐を左に見送り100m程進むと「見長」の標識を見る。右手に円成寺城から譲葉山へ延びる山陵と北方には難波金兵衛の高燈籠側の天満宮から新町城を経て譲葉山へ延びる
見長大歳神社古墳の羨道からの玄門部と玄室
山陵に囲まれる見長集落中央部を流れる見長川が殆ど水流のない柏原川に合流し加古川に流れ出る。見長公民館前を6-70m程直進して山に入っていく手前集落奥に大歳大明神の古墳(墳頂部に小祠が祀る)が1995年発掘調査され径約20m・墳丘は高さ4-5m程(現状からは方墳か上円下方墳?不詳だが円墳とされている。車道に面して民家と集会所・畑地に囲まれた見長大歳神社古墳参道石段と
見長大歳神社古墳・玄室
円墳の下部周囲は削られ1m程の高さの石垣積。石垣上部には西に向く玄室の奥まで全長約10.5mで西南に開口する横穴式石室の入口に古墳名を示す簡易案内標はあるが説明板等はない。高松塚古墳やキトラ古墳より一世紀前・古墳時代後期(6世紀後期-7世紀初期)の古墳で石室開口部の石積み一部が崩れているが遺存の状態は、ほぼ旧状を保ち良好。
見長大歳神社古墳・玄室から両袖玄門部と羨道
玄室に向かって延びる羨道は玄門部まで6.5m・高さ約1.5m・玄門部の高さ1mから
玄室に入ると高さ約2.5m・玄室長は7mあり玄室幅は羨道よりやや広い3.5mの両袖式。古墳は初めて訪れた篠山市
稲荷山古墳のT字形プラン玄室部のイメージが強くT字形は特異。見長大歳神社古墳は端整な羨道部と玄門部の天井が巨石により一段下がって6-70cm低い潜り戸状が茶室の”にじり口”を思わせる。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)
東奥古墳群(大安寺古墳)2号墳 丹波市柏原町東奥
柏原八幡神社-柏原織田家陣屋跡-総合庁舎から柏原高等学校横、藤の目川を分け奥村川沿いに進むと織田家(後期)歴代藩主の廟所その背後の丘陵に奥村城(東奥城)があり奥村川沿いに柏原高校グラウンド北を林道が続く。
墳丘の覆土が流失した石室羨道部の側壁・内から
林道から谷川を東に渡る山中の大安寺跡(観音堂が建つ)から譲葉山へ登山コースとなり周辺は柏原町歴史・史跡探訪
スポットが集中している。藤の目川沿い柏原高等学校背後に藤の目古墳群があり集落最奥の山際にも東奥古墳群がある。高等学校東側・藤の目川を渡り織田藩廟所に向かう分岐点には東奥地区自治会の絵図案内板があるが奥村城の存在は城記号さえ載っていないが藤の目古墳群や東奥古墳群(大安寺
墳丘の覆土が流失した石室羨道部の側壁・外側から
古墳)が記される。東奥古墳群は柏原高校のグラウンドを含め広範囲に点在しているようで
グラウンド整備で消滅した古墳もあるようだが保存状態良好の2号墳を探してみる。特別地域埋蔵文化財遺跡分布地
図兵庫県教育委員会 昭和49年には大安寺古墳1号墳と思われる?石室が完全保存状態のものは2号墳の他には見出せなかったので…?。
入口から横穴の玄門部と型袖式の玄室
柏原高校のグラウンド北西角が奥村川に接して林道に入るが直ぐ墓地を挟むように二本続く小さな橋の手前を左岸(対岸)に渡り少し戻り気味に快適な山道に入ると直ぐ前方道の側に大きな墳丘が現れます。山道側に突き出す様に石室の玄室側石材が露出しているのが見え開いた空間から内部が見える。山側から回り込んでいくと羨道側壁にも窓状に石材が抜けた所があり石室内が分かる。
玄室の天井は高く約3.5~4m程はある
少し下降気味に南西側へ廻ると此処に開口する入口がある。玄室奥壁の石組が見える程で石室の径は約6m程(玄室長約3.5m・羨道部は約2.5m)と短いので幅は約1.5mの入口は広く感じる。下記の報告書を参照すると丹波市で最も遺存状態の良い円墳で高い墳丘を有しているという。横穴式石室は玄室で少し膨らむ左片袖式で確かに羨道部を腰を屈めて通過する約1.5mの高さから玄門部を潜って玄室に入った途端高く突き上げるように
感じる様子は僅か3m程だが圧倒される。巨大な石材が多様されていて奥壁は3段・側壁は4-5段から成り天井石は三枚で架構されています。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)
昭和池(久原)古墳群8号墳
丹波市柏原町南多田
下記の大歳神社古墳群に隣接する大歳神社は約500m程の至近距離にある昭和池古墳群第8号墳だが柏原中学校の敷地内。新館校舎との中庭(渡り廊下)横にあって関係者外が気安くは立寄れない。昭和池(久原)古墳群は校歌に謳われる清水山南西山麓・柏原八幡社(入船山)から藤ノ目(4等3角点)-高八山-清水山へ続く尾根の西山裾・久原川に沿って点在し分布調査報告書には
昭和池古墳群(8号墳)北側から
8基のうち6基は稲荷神社南側の丘陵裾に集中するが8号墳以外は半壊し少量の石材が残っているだけ。古墳群の中でも最も西端に大きく外れた8号墳が 学校の校庭内に在る事を分布図で確認していたので教育研究部会の活動一環で授業参観と集会が当校で行なわれたのを好機に見学できた。全国遺跡地図に「久原古墳群」として4基が示され
更に4基が確認されている。8号墳は横穴式石室で封土が全て流出し篠山市の石くど状態で転用石として持ち出されたものか僅かに残る石材から石室の規模や形状等の推定も難しい?
南側校舎から昭和池古墳群(8号墳)と北方の新館?校舎
状態だが玄室部の奥壁側の傾いた天井石一枚((長さ3.7m・幅2m・厚さ1.3m)と側壁の一部が残され、北方に開口する石室と考えられているが石列は両側に延びず玄室を
囲むように並んでおり羨道ではなく玄室奥壁と思えます。専門家ではないので判らないが中庭整地や崩壊の危険性から補強整備され様子が変わったものか?むしろ羨道部は階段になっている南側に数m延びていたように思えます。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)
大歳神社古墳群(南多田古墳群) 丹波市柏原町南多田
柏原中学校から稲荷神社周辺にも昭和池古墳群(久原古墳群)がある。中学校の北方:ある大歳神社から清水山に突上げる谷筋の古池・大正池周辺に点在する大歳神社古墳群(全国遺跡地図・県教委 昭和49年特別地域埋蔵文化財遺跡分布地図にも南多田古墳群とある)がある。
大歳神社6号墳(玄室天井石の石材か?)
南多田公民館から山手に向い最奥の民家上方に大歳神社があり下方の大正池と此の尾根東山腹に古墳が集中。氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書で知ったが山裾から尾根部にかけ広範囲に分布する。南多田古墳群から谷最奥部の7号墳?(大歳神社古墳群では1号墳?)
へは狭い谷間なのに複雑に三本もの谷があり確定出来なかったが
大歳神社1号墳(玄門部と玄室
大歳神社横の谷を隔てた古池の間:竹薮の中に何かが蹲(うずくま)る様に東端部を擡(も)げるように大きな石材を積上げる6号墳がある。高約2m程の露岩下部が玄室なのか?西の大歳神社側へ約12m程細長く延びる土盛は羨道部と思われる
横穴式石室のようだが未詳。古墳径の規模や露出する巨石の天井石等・石材からみても此の古墳群中・石室が唯一完存する1号墳の規模や
天井石の大きさや使用枚数等を比較してみても古墳群中最大級のものだったと思われます。
大歳神社1号墳(羨道部から)
神社から延びる谷沿いの山道(清水山の西尾根に至る)を進み、二つ目に簡易石積み堰提!まで来ると樹間越しの左手・神社から200m程入ったところで目的1号墳(南多田古墳群では7号墳!)の
円墳・墳丘が見えてきた。大歳神社古墳群の最奥(北)部に位置するが石室の遺存状態が良いというので訪れた。南東方に開口する石室入口部の両壁上部は取除かれている様で羨道長は約3m・玄室部は長さ約2.5m・幅と高さ約1.5m、天井石は三枚で架構された片袖式の横穴式石室で奥壁は入口からも見え這ってなら玄室へも到達出来る。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)
法蓮寺古墳群 丹波市柏原町下小倉
R176号線鐘ヶ坂を柏原町側へ下ってくる上小倉地区は文明年間(1469~)栗作郷(山南南町)玉巻城久下氏が小椋庄を領していた。玉巻城へは奥野々峠を越えるが其の街道筋の県道86号がR176号に合流する地点鐘ヶ坂寄りに円成寺がある。
法蓮寺古墳16号:開口部から玄室
円成寺城と其の居館跡で城址の西側山裾~国道北 側の山裾一帯の山林のなかに密集して
円墳の墳丘を連ねる法蓮寺古墳群があり氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(氷上郡教育委員会1996年発行)柏原町によると16基が確認され大部分が後世の削平を受けているとされるが封土を残す墳丘や
法蓮寺古墳16号の玄室
石材を残す容相だが周囲を廻ってみると石室が崩落し埋没しているものや古墳の石室跡凹部を残して石材もないもの、石材が残存し石室内部が窺えそうなのも多いが発掘調査後に埋め戻された状態とも思えない?。古墳は径6-8m・高さも2-3m程度の規模が多い。
法蓮寺古墳14号墳?(石室は残存か?)
此の16号墳も径10m・高さ3m程の円墳で倒木と枯れ枝を取り除くと覆い隠されて見えなかった南向きに開口した横穴式石室が現われ足元に空いた穴から奥壁が見える。右片袖型の横穴式石室だが玄門から羨道部は側壁も天井石はなく持ち出されてか?積もった土砂の足下に埋もれているのか?
法蓮寺古墳13号墳?(横穴式石室羨道部か?)
玄室内は外部からも見えるので内部へ入室はしなかったが分布調査報告書では羨道部の長さ2.7m・玄室の規模は奥行3.8m・幅1.7m・高さ1.8mで天井石は4枚残るとある。斜面の上方には羨道部はないが同等の石室が存在する8号墳がある様だが倒木の多い荒れた山林内の探索は止して個人墓地?から猪垣フエンスを開閉しR176号線に出る。群集墳や規模・構造からは古墳時代後期(6世紀後半-7世紀初め)頃の築造によるものでしょうか?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)
三原古墳群 丹波市柏原町柏原
小南山・右手前方の丘陵には坊の奥があり山麓一帯の林間には「県民の真の豊かさの実現に向けた ライフスタイルの創造を支援するため兵庫県が設置した文化スポーツ・レクリエーション活動施設
三原古墳群10号墳?(玄門部を羨道部上から…)
丹波の森公苑があり図書館前を三原川が管理情報棟や多目的ホール西側を流れる。上流の公園内三原池周辺にも炭焼き小屋・堆肥小屋が建ち園芸等の実習・演習場も兼ねているのでしょう!。三原池から谷通しには舗装の散策道が続き左右の林にも谷通しや尾根に続く山道があり”芸術といにしえの森”と名づけられた
8or9号墳?(玄門部から玄室奥壁)
里山林が拡がりコナラ・アカマツ・ヒノキの森になっています。三原池の南東端を通る散策道が三原池に流れ出る小谷に架かる橋の手前10数mのところにササ藪に隠れるように遊歩道に向けて 黒い穴を覗かせる古墳が一基ある。三原古墳群10のうち第10号の木片プレートが落ちていたが朽ちて下部の文字は欠けて判読出来ない。「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書1996年氷上郡教育委員会」には其の後も数基発見され15基を数えています。
三原古墳群
舗装林道側の旧10号墳がいま何号墳に該当するか分からないが分布図か
らは6号墳と思える。周辺を探してみたが石室完在の横穴式石室のある古墳は棘の多い藪の中に一基だけなので13号墳と思うが、6号墳(案内板で10号墳)の近くに石室が残る7号墳や他・石材が残る古墳群が点在しているようだが確認出来ない…。
三原古墳群13号墳?(玄門部を羨道部天井から…)
南東端の遊歩道脇に径10m強の墳丘をもつ円墳があるが未調査なのかも?。先ず6号墳?(案内板では10号墳)は横穴式石室で羨道部葺石の外れた所から潜り込めるスペースがあり3m程先が玄室の奥壁だが屈んでは入れない程・反対に羨道の開口部へは土砂に埋もれてか!崩壊してか様子はわからない。分布の詳細図には3~15基が碁盤の上の碁石の様に集中している箇所だが周囲は谷川が側に有るが獣道もなく、荊の蔓枝が密生した藪は前進するのがヤッとの状態で墳丘の確認も出来ない程。
13号墳?(玄室奥壁)
見つけた古墳の墳丘上部は天井石が崩れ、側壁の石組や石室は比較的良好な様子が窺える13号墳と思える古墳がある。10号?墳同様に羨道部の天井部から覘いてみるが石室内への土砂流入等で玄室側は狭くなり真っ暗で肉眼では内部が判らない。開口部は西に開いていて高さ2m・径も10m程の規模の横穴式石室。入口部は崩壊して様子は判らないが奥壁は5段の石積みで組まれています。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)
藤の目古墳群 柏原町東奥
丹波市役所柏原支所(旧柏原役場・大正期の建物)の側の細い道を東に進み旧総合庁舎前の車道右(南方)に町立大手会館(旧・種々!学校として利用された明治期の建物で市指定文化財)と陣屋跡が並ぶが左手(北)の県立柏原高等学校正門に行き当たる敷地内に記念館があり此れも明治末期の洋風建築。
藤の目1号墳(石材散存!)
城を持てず陣屋としてのみ建築を許された織田藩だが周辺は城下町としての体裁を整え整然とした風情が漂います。そんな中・旧家や明治~昭和初期の建物も残る。その町並みを外れ柏原高等学校の東側を流れる藤の目川に沿って北山裾に向かう右手(東方)へ奥村川に沿って進む道は後期:織田藩主と織田家の廟を経て東奥古墳群~大安寺跡~譲葉山への登山コースです。
藤の目2号墳
藤の目川に沿って北へ進む道が住宅地から東北方の林道に右折する辺りの左手民家の裏手にあり屋根越しにも望まれるが一段と高い位置の田圃と隣接して
土手の様に思える円形の丘が墳頂部。此処が藤の目古墳4号墳で丹波市では最大級の横穴式石室といい見学したいが民家の勝手口や路地・裏庭を
通って其処まで行くには気が退ける。先ずは其の先の林道を進み鹿猪避けフエンスのゲートを開閉して藤の目池下方の墓地に着いた。
藤の目2号墳(絡んだ木の根の間から石室が見えるが…!)
墓地への登り口には木の根が崩れかけた石室の側壁や封土も薄くなって天井の葺石が見える程の荒れた古墳を大事に抱き込む様に立っている。此れが藤の目古墳2号墳で高さ幅約2m・径6m程か崩された石の間から石室を覗くと石室内部は卒塔婆や不要となった花立・骨壷らしいもの・陶器やプラの花立や 容器類がうず高く投げ込まれ墓地の廃棄物投棄所の様相です。平荘湖(加古川市)にも石室内に煤けた焚き火跡があった。
藤の目4号墳(玄室から両袖付玄門部~羨道部)
デイ・キャンプでのバーベキューや飯盒炊爨の跡の様です。貴重な:ふるさとの文化財保護への認識やモラルからも考えていかないと。古墳に限らず文化財の保存・維持・管理には難しい門題が山積なんでしょうね。林道の墓地を挟んだ南側の林にも大きな2~3個の天井石らしいものと
羨道部への側壁らしい石塁が斜面に殆ど埋まりながら藤の目古墳1号墳が見える。
藤の目4号墳:天井石構成まで気が付かなかった(^^ゞ
葺石だったと思える大石が残る古墳に寄ってみるが玄室部付近さえ石室は崩れ埋まってか?石室内部は人一人入れる程の空洞もなさそう?。羨道部も雑草と斜面の土砂の間に石材:石列が散残し古墳跡を示している程度。氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(柏原町)によると
高さ・径共に藤の目古墳の2号墳よりは少し大きかったようです。林道を引き返す途中3号墳は圃場整備で消滅したか確認できない。林道を集落に戻っての藤の目古墳4号墳。南に開口する4号墳は横穴式石室は封土を共に完存し直径20m超で丹波市でも最大級の円墳。羨道部長さ7.9m・幅1.9m・高さ1.85mあり、立ったまま楽に入れる。
藤の目4号墳の墳丘(正面中央右に奥壁の石材が見える)
玄室部は長さ5.55m・幅2.3m・高さ2.6mの両袖式様式をとる。東奥古墳同様の大きな石が使用されており少し圧倒されて石組や天井石の枚数等・石室の構成細部の観察を見忘れた。
古墳調査後は崩壊・危険防止というよりは保存の為に石組部が補強整備もされているだが此の古墳は戦前に発掘され金環等の出土品があった様ですが出土品や調査記録・報告書が不明です。県の図書等に保管されているのかも?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)
谷川野田古墳群 山南町谷川野田
丹波市役所山南支所(旧山南町舎)からは南に竹林山(
鬼こそで知られる山南三山常勝寺の山号ともなっている463mの山)、東には鍋倉城のある東山459mの美しい三角錘の姿を見せています。山南支所前の車道を越え緊急備蓄センタから山側に向かうと野田の天満神社の鳥居があり東方の中央公園・グラウンドとの間には天神池が浮き草と水面に竹林山から
妙見山への稜線を映して神秘的な美しさをみせてくれます。
谷川野田古墳(10号墳?)
其の稜線から北方へ舌状に突き出す低丘陵は 其の末端を天満神社に延ばす。20数基の群集墳大部分は壊滅し僅かに石室を見せるもの、墳丘跡と思えるマウンドを其処此処に残している。谷川野田古墳群は神社と西側にある民家との間から車一台分の緩やかな道が奥に続く松林の中に低い盛り上がりをみせる起伏が林道の左右随所に見られ数基の円墳跡を過ぎて林道右手に円墳を見ます。林道より一段高い林の中を覗くと山側(南面)に開口した羨道入口は縦横僅か7-80cm程度。
谷川野田古墳10号墳の開口部
小さな子供が何とか入り込める程で内部は入口が小さ過ぎて直ぐ真ッ暗闇。見えない玄室部をストロボで撮影した映像でヤッと確認出来る程度です。羨道の幅や高さから推察すれば直線上・4m先の壁が玄室なのか?此れが10号墳なら高さ2.5m・経13m規模。覗けたのは墳丘上部から土砂で埋まっている玄室部なのか?。羨道部の岩は取り除かれ石垣等に用いる為に持ち去られたものか付近に散逸した石材も見かけない。下方に玄門部の小さな入口が埋れているのでしょうか?。
谷川野田古墳2号奥壁部と石室を二分する石棚
小さな横穴式石室の円墳だが石室内は残存状態は良い。もっと高さがあって細長く・更に先に延びているのかも知れない?いずれにしても木製棺を収める為だけの小さなものだったか?
周辺には極小円墳が23-24も点在する谷川野田群集墳ですが削平されているもの・僅かに墳丘跡を残すもの・石材もない墳丘跡も多く、石室が残存しているものは二基しか見られなかったので氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書の古墳群の位置関係から推察して 林道側の最初の古墳(上記墳丘高さ約2.5m)を10号墳、径16mの横穴式石室を持つ谷川野田古墳群で特記されるのが2号墳です。
入室は羨道部中程 (手前)と玄門部?(上部)の天井石の隙間から・
谷に面した西端と東端を窪地(盗掘はされているので発掘調査の跡か?)に石室内の顔を覗かせる東西約7-8m・幅約1-1.2m・高さは1・3m程の横穴式石室がある。上部の覆土はおおかた流され崩れてか殆どなく2箇所ばかり天上石が落下したか外されてか内部を窺え石室内に入りこめる程。10号墳よりは遥かに幅広く大きいが此方も土砂で大方埋まっている。羨道入口付近は埋もれ・東側の横穴式石室奥壁側の石室の壁が外れ、石間から玄室部の石棚上部が見える。滑り台状に土砂の溜まった石室の底部が下がっていく。西部が谷の斜面に面しているので円墳の玄室は東側に有るのでしょう。石室の入口と見える方が玄室部の奥壁で此処は兵庫県下でも
例の少ない二階式に積石されており、玄室奥壁から1m程のところにも平石で境(間仕切り?)をしたものがあったとが現在は破壊されているといわれます。
谷川野田古墳2号墳 奥壁側の石棚上部から埋もれている羨道部側
羨道部と玄門部間に天井石が抜かれてか、広い隙間?から狭い石室内に入れるので潜り込む。玄室部の側壁から奥壁へと其の中央部には、平石をもって境としていたようで袋戸棚状だったか?石棚が架設されている。篠山や三田にある石棚をもつ古墳も使用用途はいろいろ考えれてているようで決定打は判らないのかな?。石室内部の補強・祭祀用・遺品を載せる棚か2階式の棺台なのか?古墳時代中期(5-6世紀初期)の古墳。
山南町文化財のすがた 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書等を参照)
下油利群集墳 氷上町下油利奥
白山から西へ延びる尾根が古天神から高釣瓶(597m)を経て篠ヶ峰への町境尾根と接する付近から南山麓一帯の緩斜面の松林の中には多くの群集墳が在り、白山南山麓・油利地区内の谷を挟んで上油利には油利百塚群集墳、下油利にも”たこ焼き器”を裏返したように次々と円墳が点在する下油利群集墳が朝阪群集墳とは下油利と朝阪地区を隔てる舌状に延び出してきた低丘陵に分断されたような位置に在ります。
下油利群集墳(6号墳?)破壊されている羨道部分
下油利群集墳は全て横穴式石室の円墳で15基が確認されている。密集した後期古墳群で、その多くは開口しており 盗掘された形跡があるよう。しかし墳形や蓋石・組石は原形を留めているものも多い。5ッばかり・6号墳付近を見ただけですが、
同上(6号墳?)の玄室部
羨道部は盗掘や葺石も持ち去られたりで破壊されているものが多いが玄室部は原形を留める古墳も多く古墳フアンには楽しみな処。落葉・雑木に覆われ地面に落ちていた説明板も往時は立派な板看板に掲げてあったのでしょうか!。個人所有の松林の中に点在する古墳ですが、小面積のところに集まる群集墳は見て廻るには効率が良くても今は訪れる人も居ないのでしょう。分布の詳細図でもあればジックリと観察して廻りたいものです。古墳群のほぼ中央部と思われる下油利群集墳案内板が落ちている処に着いた。
下油利群集墳(7号墳?)羨道部は破壊されているが…
直ぐ上方には羨道部が破壊されているが玄門部分が開口して石組の見える横穴式古墳がある。どうやら此れは6号墳なのでしょう。其れなら羨道と玄室の区切りが明確で高さ2.5mの玄室部を持つ1号墳等の下方を捲いてきた様です。6号墳?の西隣には墳丘が崩れ羨道上部も破壊しているが頂部の崩れた岩の間から玄室内が見える13号墳?がある。羨道の壁板だったか葺石だったらしい平板な岩が底部に倒れている。
下油利群集墳(13号墳?)崩れた墳丘上部から玄室部を覗く
6号墳の先にも羨道部が破壊され、土砂が玄室内に流れ込んでいるようだが、大きな葺石が露呈する7号墳?は玄室の奥壁が開口部から見える。古墳時代後期(6世紀後期-7世紀初期)の古墳のよう。旧氷上町指定文化財が丹波市になってから市指定になったかは?。
私有地ですが・おおかたは原形を留める群集墳の典型例として土地改良・開発で壊される事が無いように…
(特別地域埋蔵文化財 遺跡分布地図 兵庫県教育委員会 昭和49年を参照)
伊佐口古墳
氷上町伊佐口字東山
R175号を加古川(旧佐治川)沿いに穂壷城の裾を走り柏原川を渡ると
丹波市一のショッピングゾーン。柏原市街地からのR176号と合流する稲継交差点を左折して県道7号を和田山方面に進む。山科を発って故郷・豊岡へと”大石りく”が越えた但馬道の
墳丘や石室がほぼ完全保存
篠山栗柄峠~黒井へ出て
天王坂を越え氷上町川へ下ってきた桟敷の交差点を直進すれば直ぐ香良の滝の大きな看板をみる。岩瀧寺へ向かう手前の香良地区北方には聖徳太子を開基とする古刹 :園梧寺があり周辺には香良群集墳が有るという。一つ北側の谷間を目指します。県道7号線に戻り600m程?北上すると「伊佐口」標識を見て田圃の中に続く真直ぐな道を進みます。左手に露岩を見せる丘陵尾根が井階山
から幾つもの小ピーク峰を並べて五台山へ延びていきます。
伊佐口古墳(1号墳)の玄室部
この稜線鞍部へと谷通しに続いていそうな林道は大師堂の先で鹿避けフエンスを開閉して、なを続くが近年まであったと思われる寺跡に着く。伊佐口古墳は丁度・鹿避けフエンスのある林道入口と寺跡の中間点付近東側の水田跡の奥・広い台地状の奥に西に開口して古墳の羨道部が黒い岩室を覗かせています。円墳の墳丘も開口している西面以外は横穴式石室と共にほぼ原形のまま残存しているようです。
伊佐口古墳(1号墳)・羨道から玄門部と玄室下部分
実測していないが、玄室部は天井が高く(2.5~3m程)・奥行5m程・幅2m程と中型古墳だが周辺の石室の完在している古墳では大きな方かな。羨道部・玄門部・玄室の区別は明確です。天井までの高さがあるだけに
外圧で内側に膨らんできているのか上狭で、三角持ち送りがみられるのか?
北油良古墳2号墳? 氷上町北油良
県道7号線桟敷交差点から天王坂を越えて春日町へ抜ける道とは反対に、五大山から近い峰続きには所々に露岩の岩肌を見せる荒々しい山容の愛宕山を正面に見ながら北由良側から愛宕山への登山口となる安養寺への道を進み日吉神社に駐車する。北方真近に丘陵の山裾を落とす南面の山腹にあり特別地域埋蔵文化財・遺跡分布地図には北由良3-4号墳が発掘後、復元されて残っているというので探してみます…?。
上部に空く僅かな隙間から石室を覗く
其処と思われる地点へは民家の中を抜け且つ私有林に入っていくようで季節柄・松茸・栗・柿と果樹園があり変に疑われる”不味さ”もあり分布図からも確かな位置確認が出来ないので退き返し少し手前(西南)の民家横から山道に入り鹿猪避けフエンスを開閉し北由良3-4号墳位置の西方の古墳を探してみる。フエンスを抜けて直ぐ西方の尾根筋に向かい稜線を辿る尾根上に大岩:古墳の天井石で南端部の崩れた岩?の間に約25cmX80cm程の隙間があり石室内部の玄室・奥壁・側壁部分の石組が見える。
北由良古墳・封土が除かれ巨大な天井石だけが目立つ
大きな葺岩一枚が露出しているだけで、 封土も殆んど流され円墳の形状も大きく崩れている様です。石室内部にも大量に土砂が流れ込んでいます。羨道部と思える南側も斜面で古墳の石材らしいものもなく完全破壊され石は持ち去られているのでしょうか。この古墳周辺の稜上や尾根左右の上部と下部の古墳の遺構を見なかったので分布図による2号墳の現状説明文とは異なるが日吉神社・公民館の北東方に1基だけ見つけた古墳です。
(特別地域埋蔵文化財 遺跡分布地図及び地名表 兵庫県教育委員会 昭和49年を参照)
唐鍬古墳 青垣町山垣字唐鍬
パラグライダー基地・岩屋山からテイクオフしたフライヤーがパラセーリング…佐治から遠阪に向かうR427号を山垣の遠阪小学校をめざす
唐鍬古墳玄室
遠阪川を挟んで東の山垣城への分岐に山垣郵便局がある。国道沿い少し先の遠阪JAから直進する道がある。尾根末端の峰に神社本殿の建つ丘陵を東に見ながら上記の道が合流する 北東側に墓地があります。其の墓地裏側斜面5m程上部には南方に開口する円墳の羨道部入口があり、其の上部に巨岩を置く横穴式岩室が見える。
唐鍬古墳:玄室から開口する羨道部を見る
横穴式で石室として青垣町内ではツキ山古墳と共ぶ唐鍬古墳の二つが原形を良く留めており古墳時代中期から後期(5世紀~6世紀頃)の古墳で町指定文化財。間口の高さ、幅共に約1.5m・奥行き6.5mで羨道と玄室部の区分けは不明瞭。奥壁には一枚の大きな鏡石がある。
稲荷古墳とヤマザクラ 春日町長王
春日町は”丹波の赤鬼”と恐れられた荻野直正の黒井城も天正7年(1579)明智光秀・羽柴秀長・丹羽長秀連合の大軍による”丹波攻め”で落城し光秀の重臣斉藤利三が黒井城の麓:興禅寺を居館として入り利三の娘お福が後の三代将軍家光の
稲荷古墳とヤマザクラ
乳母春日局であることは有名ですね。その後堀尾茂助吉晴が黒井城主となり天正13年(1585)には佐和山城に移った。その城下を抜けて西北端から氷上町に抜ける峠が忠臣蔵で知られる大石良雄の妻りくが但馬へ戻る時に通り大石りくの森・天王坂に伝承が残ります。
墳土が流れ落ちて露呈した石蓋(天井石)の様子
その天王坂への入口・長王地区に長見砦(長王城)や山田城館の城跡を訪ねる途中、稲荷古墳とヤマザクラの案内標柱を見かけて立寄ってみる。 案内標柱によって道なりに山に向かうが山麓の朝霧のたち込める杉木立の中に直ぐ稲荷古墳と石室の上に立つ大きなヤマザクラの幹から数本の太い根が蓋石の東半分を抱くように根を張り高く延びて奇観を呈しています。しっかりと此の墳墓を護ってきた自身に溢れた力強さをも感じさせる大木です。
稲荷古墳:封土が流れ込んで埋まる石室内部
稲荷古墳の上に生えていたものが雨風(盗掘?)によって盛土も除かれて現状の様になったと思われます。ヤマザクラは春日町の天然記念物(昭和51年12月9日)指定。目通り幹回り4.13m・樹高約27m・枝張東へ約11.5m・南へ約11mあって丹波市では最大のものです。
(現地・長王区の案内板 参照)
坂群集墳 春日町坂
R175号稲継交差点から城山(向山城)トンネルを抜けると荒々しい露岩の山稜「木戸岩」が黒井城への侵入を防ぐかの様に立ち塞がる。街道が黒井盆地に入る最も狭い位置・切立つ岩場がなくとも西入口警護の重要拠点となってる。R175号は大きく右折し春日町に入ってきます。此の町堺線上の山塊の北末端を廻り込んで行くと左前方には黒井城と千丈山砦が見えています。
坂群集墳:1号墳の開口部(羨道部破壊・玄門部
今抜けてきたトンネル上部稜線は向山城から霧山城へ延びていく。一挙に拡がる黒井盆地の中央を流れる黒井川は
春日インター近くで竹田川に合流し由良川となり日本海(舞鶴湾)に流れ出ます。其の源が此処から約1.5km地点「水分れ」で標高僅か95m、日本海側・瀬戸内側を分ける日本一低い谷中中央分水界です。
坂群集墳:1号墳の玄室から開口部と両袖式が解る
水分れ橋からJR石生駅前・群集墳のある北野を過ぎると北近畿自動車道高架北側付近に坂群集墳がある。石生鉱山(採石場)の北に
坂群集墳・南に北野群集墳があると記した方が判り易いか!。JR石生駅からのR176がR175に合流する地点を 100m程南へ戻ったところに
春日変電所があり坂群集墳は車道を挟んだ山側・送電線鉄塔側から入って直ぐ藪の先に全長10m程の3号墳?:
坂群集墳:2号墳?の玄室
覆土は残るが南側面には石組のズレか僅かな隙間から!黒い穴を覗かせている。一廻りした西側に開口部が有り土砂で埋まった狭い(幅0.8mX高さ0.5m程)入口が見え
内部は整然として保存状態は良好なようだが?真っ暗で未検分です。点在する古墳の位置関係も資料やデータ控えが無いので詳細は分からない。直ぐ南側には春日インターから和田山方面へ北近畿自動車道が通じた為、破壊消滅が危惧されたが周辺には4基程の古墳があり、丹波市内最大規模と云われる1号墳が此の群集墳の南端に残っていた。
開口部からは走行車両が直ぐ其処に見え
坂群集墳:1号墳の玄室・奥壁天井部の「類隅三角持ち送り」
ギリギリ工事域から破壊を免れている。黒井城を本城として奥丹波一円を統制した荻野氏は山越えで但馬南部や竹田川から由良川沿いに京都府側へも勢力を延ばしていきました。日本海側と瀬戸内側を分ける日本一低い谷中中央分水界はとりわけ険しい丹波但馬を分ける山越えのルートを避け、標高差の少ない「氷上回廊」を利用する横断ルートです。
坂群集墳:3号墳?の開口部と墳丘
加古川沿いに丹波市に入り由良川を経て日本海に抜ける此のルートは古代より 文化の交流経路であり政治・軍事的にも重要な交通の要衝として存在したと推定される。坂群集墳の1号墳・2号墳に見られる「類隅三角持ち送り式」と呼ばれる特殊な石材の載架法を採った築造方式で同一形式のものは日本海沿岸に9-10基の存在が確認されているが高句麗文化の影響を受けて成立したものと考えられ、由良川を遡上して伝えられた可能性が高いと推察されています。
坂群集墳:5号墳?巨石の天井石と玄室を残す
1号墳【玄室長さ4.2m・幅(上部)1.5m・幅(下部)2.1m・高さ2.7m・玄門幅0.9m・全長8.4m】は裏込め石と自然石を多用し両袖形式を採っているが(右袖幅0.8m:左袖幅0.4m)右袖の方が長い異色なタイプといい、丹波市内では未だ発見されていないようです。玄門高2.7mは古墳時代後期(6世紀~)のものとしては丹波市最大級といわれる。
(丹波史第9号 :丹波史懇話会 参照)
北野群集墳 氷上町北野
丹波市のほぼ中央部に位置し日本一低い谷中中央分水界「水分れ」に程近い氷上町に
北野群集墳・境を接した北側の春日町に坂群集墳がある事や「氷上回廊」と呼ばれる氷上の低地を抜けて瀬戸内海と日本海側を結んで 文化と交通の要衝となったルートに接していることは上記の坂群集墳にも記しています。
北野群集墳A:18号墳?(共に羨道部は長い)
水分れ公園への標識を見て水分れ橋を渡り
露岩を覗かせて起立する向山連山西面を望みながらJR石生駅前を抜け和田山・豊岡自動車道の高架下手前約 100m程の北野の集落から山に向かいます。
貯水池の堤防が目印になると思うが群集墳に囲まれた中に建つ
北野群集墳A:13号墳?
配水所(神社の祠が収められている様な?又は物置?の様な建物がある)施設までは別に参道?の様な山道が通じています。貯水池近くには
丹波市の指定文化財となっていた親王塚古墳もあった。前方後円墳で明治32年(1899)に発掘され”三角縁三神三獣鏡”の出土で有名となり文化財指定を受けたが古墳は文化財指定が取消される程に破壊され遺構も所在もよくわからなかった。
北野群集墳A:13号墳?玄室
山裾から山道に入ると直ぐ先ほどの水源地らしいコンクリート製の設備があり其の上に小屋?が建つ。周辺には古墳の墳丘が其処此処に盛り上りを見せているので其れ等に囲まれ祠の様にも見える。露岩を目指せば 大概は頂部に葺石が露出していたり陥没していても石室の様子を残す石材が散逸していたり開口部を覗かせているもの、玄室部を残し羨道部の両側壁の石材を残すもの…とにかく素人目にも古墳と判る大小の古墳が群集しています。
北野群集墳A:18号墳?玄室(共に巨石墳)
丹波市でも最大級の古墳群が此処にある。以前:下由利群集墳に寄ったが共に良く知られる古墳群。下由利群集墳は雑木藪に覆われた中にあるが北野群集墳は植林帯の中:しかも石材運搬には苦労も少なかったと思えるほど山中に建造用露岩も多いところで約50基近い古墳群で構成されているようです。
北野群集墳B:49号墳?天井石を支える「まぐさ石?」
古墳時代初期(四世紀~)頃といわれる親王塚古墳があった所。殆ど距離を隔てず点在の北野群集墳の多くは古墳時代中期(4-5世紀)頃のもの。北方僅か150m程の地点には石生鉱山(採石場)を隔てた春日町側に
坂群集墳があって此処のは古墳時代後期(6世紀)頃の 築造とされるものがあります。
北野群集墳A群:??号墳
坂群集墳と同様、北野A群・B群に分かれる個々の主な古墳位置関連が判らない。墳丘・石材・石室の残る数多くの古墳にコーフン…位置や規模 ・状況のメモも取らず、そのうえ同じ古墳を重複して訪れた為、順序も不明で添付写真のxx号墳の説明が誤っているかも知れません。
北野群集墳A群:??号墳
調査報告書やデータを研究し各自で現地確認していただきたい。群集墳の分布位置は採石場の側にあり露岩の多い山なので古墳の築造も楽だったかも?、後世の城館や土地・家屋・河川の造成に石材が持ち出される事も少なかったので
保存状態も良く残ったのでしょうか?
北野群集墳B:xx号墳の天井石
従って北野群集墳において特記すべき古墳の特徴を下記の冊子からメモしていたものを列挙しておくが…ドレがドレやら?…群集墳A:13号・18号は共に右片袖形式の横穴式石室の巨石墳で18号は巨石を多用しており13号の約7mの羨道長は丹波市内最長といわれる。
北野群集墳A群:?号墳
群集墳B:49号は殆ど無袖式で「まぐさ石」を有しない石室を持つ小円墳の中でも無袖式で「まぐさ石」を有する丹波市内でも数少ない例といわれます。群集墳B:51号は新しく発見された(平成年代に入ってから??)もので内部右室は丹波市内でも数少ない胴張り【石室中央部が膨らんでいる】形態を有しており、石組みも端正なところから古墳時代初期のものと考えられるようです。
(丹波史第9号 :丹波史懇話会 を参照)
別冊