丹波の古墳
  丹波市編 T

丹波市編T 丹波市編U 篠山市編T 篠山市編U 篠山市編V 篠山市編W 北播磨編 東播磨編

兵庫丹波にも天然記念物・埋蔵文化財として県や市・町の指定を受けた史跡・遺跡等、有形無形の文化財が有りますが、山城や居館・寺院跡や集落跡 ・古墳の様な埋蔵遺物等は盗掘や自然破壊・土地の造成や開発で、 石材が持ち出されたり削平され事前の調査・文書記録が残るだけで消滅してしまったものもあります。柏原町挙田(おさん茂兵衛の旧蹟近く)には、 明智光秀の”丹波攻略”では高見城攻めの向城だった茶臼山砦があり 「さとしの 山」の伝承が残ります。
見長大歳神社古墳(墳丘の石室上に大歳明神の祠を祀る)

また円筒埴輪が数基発見された古墳(前方後円墳!)だが、 土砂は新井工業団地の埋め立て用に、跡地は雇用促進住宅地(!)とゴルフ練習場となって 姿を消した様で古墳や砦跡地を示すものが有るかは未確認ですが…。明日香村(奈良県)で発見された高松塚古墳の極彩色の壁画(国宝)やキトラ古墳の玄武や天文図(国宝)では注目を浴び、 その保護・保存の為に特別史跡となり、修復が進められています。高松塚ではその壁画の劣化対策の為石室が解体されるという。
坂群集墳1号墳・類隅三角持ち送り方式を見せる玄室

多くの古墳は石室を残すどころか、 古墳の石材さえ散逸して破壊されているものが多いようです。僅かに姿を留める!?。墳丘にその遺構 ・所在が判るだけでも良しと見るべきでしょうか?考古学や古墳文化については、 初心者で殆どその基礎知識の持ち合わせも有りませんが、此れを期に少し勉強しなければ…。丹波の史跡・埋蔵文化財の一つとして、 此んな所に…此んなものが有るよ …!程度の紹介に止まりますが、自然・天然・史跡・遺構の維持保存を考えていくトリガになれば…良いかな!!との思いで少しずつでも此処に採り上げていきます。
見長大歳神社古墳  柏原町見長 法蓮寺古墳群  柏原町下小倉 伊佐口古墳  丹波市氷上町 北由良古墳群  丹波市氷上町
大安寺古墳       柏原町東奥 三原古墳群     柏原町柏原 佐野古墳群     氷上町佐野 北野古墳群  丹波市氷上町
昭和池古墳群  柏原南多田 藤の目古墳群   柏原町柏原 下油利群集群  丹波市氷上 稲荷古墳と山桜  丹波市春日
大歳神社古墳    柏原町南多田 谷川野田古墳群丹波市山南 唐鍬古墳  丹波市青垣町 坂群集墳  丹波市春日町


見長大歳神社古墳   丹波市柏原町見長

R176号を篠山市側から鐘ヶ坂トンネルを北方に抜けると丹波市柏原町に入り、奥野々峠(トンネル)から山南町への県道86号の分岐を左に見送って100m程進むと「見長」の標識を見ます。 右手に円成寺裏手の円成寺城から譲葉山へ延びる山陵と、北方には難波金兵衛の高燈籠側の天満宮から新町城を経て譲葉山へ延びる山陵に囲まれる見長集落があり、 集落中央部を見長川が流れています。
見長大歳神社古墳の羨道からの玄門部と玄室

殆ど水流は無い一級河川が柏原川に合流して加古川に流れ出ます。国道側に近 い南東の見長公民館前を 6〜70m程直進して、 山に入っていく手前集落奥に大歳大明神の小祠を、 墳頂部に祀る古墳があり1995年に発掘調査が実施されています。径は約20m程で墳丘は高さ4-5m程(現状からは方墳か上円下方墳?か不詳ですが円墳とされているらしい?)で車道に面して、 民家と集会所・畑地に囲まれた見長大歳神社古墳です。
見長大歳神社古墳・玄室

参道石段と円墳!の下部周囲は削られ、1m程の高さで石垣積となっています。石垣上部には西に向かって玄室の奥まで 全長約10.5m程で西南に開口しています。 横穴式石室の入口に古墳名を示す簡易な案内標はあるが説明板等はありません。 高松塚古墳やキトラ古墳より一世紀前・古墳時代後期(6世紀後期〜7世紀初期)の古墳です。石室開口部の石積み一部が崩れているが 遺存の状態は、ほぼ旧状を保っており画像に見る通り良好です。玄室に向かって延びる羨道は玄門部まで約6.5m・高さ約1.5m。
見長大歳神社古墳・玄室から両袖玄門部と羨道

高さ1mの玄門部から玄室に入ると高さ約2.5m・奥行き(玄室長)7m有り、 玄室幅は羨道よりやや広い3.5mの両袖式になっています。古墳は初めて訪れた篠山市 稲荷山古墳のT字形プラン玄室部の イメージが強いのですが、T字形は特異なんですね。見長大歳神社古墳は、端整な羨道部と玄門部の天井が巨石により一段下がって(6〜70cm)低くなったおり、 潜り戸状が印象的で茶室の”にじり口”を思わせる。
見長大歳神社古墳の羨道からの玄門部と玄室

此れから古墳を見て廻るうちには、当たり前で何も感じなくなるかも知れませんが…(^^ゞ  此の古墳は「海老珍さん」のメモや手持ち資料に載っていますか?古墳サイトの「たえさん」には山道を歩かなくても集落の中ですのでお立ち寄り下さい。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)


東奥古墳群(大安寺古墳)2号墳  丹波市柏原町東奥

田ステ女生誕地〜西楽寺(西園寺公望が山陰道鎮撫総督となり、京都を発ち慶応4年 (1868)福住に次いで此処に本陣を置いた)〜柏原八幡神社〜木の根橋 ・織田神社〜柏原織田家陣屋跡〜総合庁舎から柏原高等学校横、藤の目川を分けて奥村川沿いに進むと 織田家(後期)歴代藩主の廟所その背後の丘陵には奥村城(東奥城)があり奥村川沿いに柏原高校グラウンド北を林道が続く。
墳丘の覆土が流失した石室羨道部の側壁・内から

此の林道から谷川を東に渡って大安寺跡(山中の平坦地に観音堂が建つ)から譲葉山への登山コースとなり、周辺は柏原町の歴史・史跡探訪の散策SPOTが集中している様です。更には藤の目川沿いの柏原高等学校背後に”藤の目古墳群”があり、 奥村川沿いにも集落最奥の山際に東奥古墳群があります。
墳丘の覆土が流失した石室羨道部の側壁・外側から


高等学校東側・藤の目川を渡って織田藩廟所に向かう分岐点には東奥地区自治会の絵図案内板が掲げてあり (奥村城の存在は城記号さえ載ってはいませんが!!)、此の絵図案内板に藤の目古墳群や東奥古墳群(大安寺古墳)と記されていて所在が判る案内板です。 東奥古墳群は柏原高校のグラウンドを含めて広範囲に点在しているようで、 グラウンド整備で消滅した古墳も有る様ですが、保存状態の良好な2号墳を探してみます。「特別地域埋蔵文化財遺跡分布地図 兵庫県教育委員会 昭和49年」には大安寺古墳1号墳?として コメントされているものと思われます…が石室が完全保存状態のものは2号墳の他には見出せなかったので・・?。
入口から横穴の玄門部と型袖式の玄室

柏原高校のグラウンド北西角が奥村川に接して林道に入りますが、 直ぐ墓地を挟むように二本続く小さな橋の手前を左岸(対岸)に渡り、少し戻り気味に快適な山道に入ると、 直ぐ前方道の側に大きな墳丘が現れます。山道側に突き出す様に石室の玄室側石材が露出しているのが見え、近づくとポッカリ開いた空間から内部が見えています。山側から回り込んでいくと羨道側壁にも 窓状に石材が抜けた所があり、ハッきりと大きな石室内が分かります。
玄室の天井は高く約3.5〜4m程は有る


少し下降気味に南西側へ廻ると此処に開口する入口があった。 玄室奥壁の石組が見える程で石室の径は約6m程 (玄室長約3.5m・羨道部は約2.5m)と短いので、幅は約1.5mの入口は広く感じます。下記の報告書を参照すると丹波市で最も遺存状態の良い円墳で、高い墳丘を有しているという。 横穴式石室は玄室で少し膨らむ左片袖式で、確かに羨道部を腰を屈めて通過する約1.5mの高さから玄門部を潜って、玄室に入った途端・突き上げるように高く感じる様子には僅か3m程だが圧倒されます。 巨大な石材が多様されていて、奥壁は3段・側壁は4〜5段から成り、天井石は三枚で架構されています。

(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書  氷上郡教育委員会 を参照)


昭和池(久原)古墳群 8号墳  丹波市柏原町南多田

下記の大歳神社古墳群とは隣接し、 其の大歳神社とは約500m程の至近距離にあるのが昭和池古墳群第8号墳です。とはいえ此処は柏原中学校の敷地内。しかも校舎の新館(?)との中庭(渡り廊下)の横に在って、 関係者外が気安く立寄れないのが難点です。昭和池古墳群 (久原古墳群)は校歌に謳われる 清水山の南西山麓・柏原八幡社(入船山)から 藤ノ目(4等三角点) 〜高八山〜清水山へ続く尾根の西山裾・久原川に沿って点在し分布調査報告書には、
昭和池古墳群(8号墳)北側から

8基のうち6基は稲荷神社南側の丘陵裾に集中していますが、8号墳以外は半壊し少量の石材が 残っているだけと記されます。古墳群の中でも最も西端に大きく外れた8号墳が学校の校庭内に在る事を 分布図で確認していたが、今回・部外者ですが教育研究部会の活動一環として、 授業参観と集会が当校で行われたのを好機として見学できた。 全国遺跡地図に「久原古墳群」として4基が示されており、更に4基が確認されています。8号墳は横穴式石室で封土が全て流出して篠山市の” 石くど”状態ですが転用石として持ち出されたものか、
南側校舎から昭和池古墳群(8号墳)と北方の新館?校舎

僅かに残る石材から石室の規模や形式(形状)等を推定するのが難しい?状態ですが、玄室部の奥壁側の傾いた天井石一枚 (長さ3.7m・幅2m・厚さ1.3m)と側壁の一部が残されています。北方に開口する石室と考えられている様ですが石列は両側に延びず、玄室を囲むように並んでいる様で羨道ではなく玄室奥壁と思えます。 専門家ではないので判りませんが、中庭整地や崩壊の危険性から補強整備され様子が変わったものか? むしろ羨道部は階段になっている南側に 数m延びていたように思えます。

(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)


大歳神社古墳群(南多田古墳群)  丹波市柏原町南多田

田ステ女公園の西方のR175号線手前・郵便局前に出て柏原中学校への案内標識を見る。 この中学校から稲荷神社周辺にも昭和池古墳群(全国遺跡地図には久原古墳群と呼ばれる様ですが未訪) があるのですが、 同じ南多田地区内ですが中学校の直ぐ北方にある大歳神社から 清水山へ突き上げる谷筋と、古池・大正池周辺に点在する大歳神社古墳群
(此処も全国遺跡地図や 「特別地域埋蔵文化財遺跡分布地図 兵庫県教育委員会 昭和49年」には南多田古墳群と呼ばれる)があります。
大歳神社6号墳(玄室天井石の石材か?)


柏原病院へ家族を送迎して1時間程の待ち時間に …とはいえ此処へは三度目の正直で今回やっと1号墳に到達したが!南多田公民館から 山手に向い最奥の民家の上方に大歳神社があり、最初は左手にある古池側から直ぐ大正池との間に舌状に流れ出る低丘陵に 登る山道があり、先端部のピークに出たが何も無し!。下方に見える大正池と此の尾根東山腹に古墳が集中している事を後日、氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書で知ったが山裾から尾根部にかけての広範囲に 分布する古墳群です。
大歳神社1号墳(玄門部と玄室

旧・遺跡分布地図による「南多田古墳群」からは谷最奥部の7号墳?(大歳神社古墳群では1号墳!)へは、 狭い谷間なのに複雑に三本もの谷が有って位置を確定出来なかった・・。 いずれにしても先ず目に付くのが大歳神社横の谷を隔て、古池側の山道との間の竹薮の中に何かが蹲(うずくま)る様に、 東端部を擡 (も)げるように大きな石材を積上げて盛り上がる6号墳がある。 高さ約2m程の露岩下部が玄室なのか?西の大歳神社側へ約12m程細長く延びる土盛は羨道部と思われる 横穴式石室遺構の様ですが未詳。 しかし古墳径の規模や露出している巨石の天井石等・石材からみても、 此の古墳群中・石室が唯一完存する 1号墳の規模や天井石の大きさや 使用枚数等を比較してみても、 古墳群中最大級のものだったと思われます。
大歳神社1号墳(羨道部から・・・)

今度は素直に神社から延びる谷沿いの山道(清水山の西尾根に至る)を進み、二つ目に簡易石積み堰提 !まで来ると樹間越しの左手・神社から200m程入ったところで目的1号墳(南多田古墳群では7号墳!)の円墳・墳丘が見えてきた。 大歳神社古墳群の最奥(北)部に位置するが石室の遺存状態が良いというので訪れた。 南東方に開口する石室入口部の両壁上部は取除かれている様で、羨道長は約3m・玄室部は長さ約2.5m・幅と高さ約1.5m、天井石は三枚で架構された片袖式の横穴式石室で、奥壁は入口からも見えるが、 狭いながら這ってなら玄室へも到達出来ます。なを大歳神社では秋の祭礼に新発意(しんぼち)踊りが奉納されます。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)


法蓮寺古墳群   丹波市柏原町下小倉

篠山市から古・旧及び三っ目の新トンネルが通じたR176号線の 鐘ヶ坂を丹波市柏原町側へ下ってくる最初の集落が上小倉地区です。文明年間(1469〜)初頭頃、栗作郷(丹波市山南町)の 玉巻城主:久下氏が此処 :小椋庄を領 しており、其の玉巻城(久下城)へは奥野々峠を越えるが、其の街道筋の県道86号線がR176号に合流する地点から 鐘ヶ坂寄りに円成寺がある。
法蓮寺古墳16号:開口部から玄室

此処も円成寺城と其の居館跡ですが、其の城址の西側山裾〜国道北 側の山裾一帯の山林の中に、 密集して円墳の墳丘を連ねる法蓮寺古墳群があります。氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(氷上郡教育委員会 1996年発行)柏原町によると、16基が確認されている様です
法蓮寺古墳16号の玄室

。大部分が後世の削平を受けているとされます。封土を残す墳丘や石材を残す容相から 期待して周囲を廻ってみますが、石室が崩落して埋没しているものや、 古墳の石室跡凹部のマウンドを残して石材も無いもの、 石材が残存し石室内部が窺えそうなものも多いが、発掘調査後に埋め戻された状態とも思えない?。古墳は径6〜8m・高さも2〜3m程度の規模が多い。
法蓮寺古墳14号墳?(石室は残存か?)

此の16号墳も径10m・高さ3m程度の円墳で、 倒木と枯れ枝を取り除くと覆い隠されて見えなかった南向きに開口した横穴式石室が現われ、足元に空いた穴から奥壁が見える。 右片袖型の横穴式石室ですが、玄門から羨道部は側壁も天井石もは無く石材も持ち出されてか?、 積もった土砂の足下に埋もれているのか?。
法蓮寺古墳13号墳?(横穴式石室羨道部か?)


玄室内は外部からも見えるので内部へ入室はしなかったが、 分布調査報告書では羨道部の長さ2.7m・玄室の規模は奥行3.8m・幅1.7m・高さ1.8m、天井石は4枚残るとある。 斜面の上方には羨道部はないが同等の石室が存在する8号墳がある様だが、 倒木の多い荒れた山林内の探索は止して個人墓地?から猪垣フエンスを開閉してR176号線に出た。群集墳や規模・構造からは古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初め)頃の築造によるものでしょうか?。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会 を参照)


三原古墳群  丹波市柏原町柏原

「おさん茂兵衛」道行で二人が越えた恩鳥峠を越えて柏原病院へと下ってくると、東正面に 入船山(柏原八幡神社)の三重の塔や清水山〜譲葉山 を望みながら直線道路を柏原市街地に 降りていきます。 左手(北方)の丘陵が越えてきた 小南山・右手前方の丘陵には坊の奥があり、 其の緑に囲まれた山麓一帯の林間には、「県民の真の豊かさの実現に向けたライフスタイルの創造 」を支援するために兵庫県が設置した施設として、
三原古墳群 10号墳?(玄門部を羨道部上から…)

文化・スポーツ・レクリエーション活動の場丹波の森公苑があります。 図書館前を流れる三原川が管理情報棟や多目的ホール西側を流れて、 上方には公園内の三原池に至ります。池周辺にも炭焼き小屋・堆肥小屋が建てられていて、 園芸等の実習・演習場も兼ねられているのでしょうか!。三原池から谷通しには舗装の散策道が続き、左右の林にも谷通しや尾根に続く山道があり、”芸術といにしえの森”と名づけられた里山林が拡がり、 コナラ・アカマツ・ヒノキの森になっています。
10号墳?(玄門部から玄室奥壁)


三原池の南東端を通る散策道が三原池に流れ出る小谷に架かる橋の手前10数mのところ、ササ藪に隠れるように、遊歩道に向けて黒い穴を覗かせる古墳が一基ある。「三原古墳群10のうち第10号 」の木片プレートが落ちていたが朽ちて下部の文字は欠けて判読出来ない。 其の後「氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 1996年 氷上郡教育委員会」によると、其の後も数基発見されて15基を数えています。
丹波の森公苑内・三原古墳群15号墳?

舗装林道側の旧10号墳が現在・何号墳に該当するか分からないが… ・分布図からは6号墳と思えます。 周辺を探しまわってみたが、石室完在の横穴式石室のある古墳は、この棘の多い藪の中に一基見ただけなので、藪の中に在ったのが13号墳と思われます。ただ6号墳(案内板で10号墳 )の近くに石室が残るといわれる7号墳や、その他・石材が残るという古墳群が点在しているようだが其れも確認出来ない…(^^ゞ。
三原古墳群13号墳 ?(玄門部を羨道部天井から・・・)

南東端の遊歩道脇に径10m強の墳丘をもつ円墳があるが未調査なのかもしれない?。 先ず6号墳?(案内板で10号墳)に寄ってみます。横穴式石室の羨道部葺石の外れた所から潜り込めるスペースが有り、3m程先が玄室の奥壁だが屈んでは入れない程・反対に羨道の開口部へは土砂に埋もれてか !崩壊してか様子はわからない。分布の詳細図には3〜15基が碁盤の上の碁石の様に集中している箇所ですが、 周囲は谷川が側に有るが獣道も無く、荊の蔓枝が密生した藪は前進するのがヤッとの状態で、墳丘の確認も出来ない程。
13号墳?(玄室奥壁)

見つけた古墳の墳丘上部は天井石が崩れ、側壁の石組や石室は比較的良好な様子が窺える13号墳と思える古墳が在った。 10号?墳同様に羨道部の天井部から覘いてみるが石室内への土砂流入等で玄室側は狭くなっていて、真っ暗で肉眼では内部が判らない。開口部は西に開いていて高さ2m・径も10m程は有りそうな規模の横穴式石室ですが、 入口部は崩壊して様子は判りませんが奥壁は4段の石積みで組まれています。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


藤の目古墳群     柏原町東奥

柏原町内の普通観光ルートとして外す事が出来ないのは 柏原織田藩陣屋と長屋門・柏原八幡神社と木の根橋でしょう。木の根橋 の側には丹波市役所柏原支所(旧柏原役場で大正期の建物)が有り、其の側の細い道を東に進むと旧総合庁舎前の車道に突き当たります。右(南方)には 町立大手会館(旧・種々!!学校として利用された明治期 〜の建物で市指定文化財)と陣屋跡が並びます。左手(北方)は県立柏原高等学校の正門に行き当たりますが敷地内には記念館があり、
藤の目1号墳(石材散存!!)

此れも明治末期の洋風建築です。 城は持てず、陣屋としてのみ建築を許された織田藩ですが、周辺は城下町としての体裁を整え整然とした風情が漂います。そんな中・旧家や明治〜昭和初期の建物も残っています。その町並みを外れ柏原高等学校の東側を流れる藤の目川に沿って北山裾に向かいます。右手(東方)へ奥村川に沿って進む道は 後期:織田藩主と織田家の廟を経て 東奥古墳群〜大安寺跡〜譲葉山への登山コースです。
藤の目2号墳

藤の目川に沿って北へ進む道が住宅地から東北方の 林道に右折する辺りの左手民家の裏手にあり、 屋根越しにも望まれるが・一段と高い位置にある田圃と 隣接している処に有って、土手の様に思える円形の丘が墳頂部です。此処が藤の目古墳4号墳で丹波市では最大級の横穴式石室が有るという。見学したいけど・なかなか民家の勝手口や路地・裏庭を通って 其処まで行くには気が退ける。
藤の目2号墳(絡んだ木の根の間から 石室が見えるが…!)


何度も諦めて引き返したり素通りしたり!!?今回も先ずは其の先の林道を進み 鹿猪避けフエンスのゲートを開閉して 藤の目池下方の墓地に着いた。墓地への登り口には木の根が、 崩れかけた石室の側壁や封土も薄くなって天井の葺石が見える程の、荒れた古墳を大事に抱き込む様に立っています。 此れが藤の目古墳2号墳で高さ幅約2m・径6m程か、
藤の目4号墳(玄室から両袖付玄門部〜羨道部)

崩された石の間から石室を覗くと石室内部は
卒塔婆や不要となった花立・骨壷らしいものや、陶器のプラ製の花立や容器類がうず高く投げ込まれ、 墓地の廃棄物投棄所の様相です。もともと墓なんでしょうが収めるものと場所が違うんじゃ…(^_-)-☆平荘湖 (加古川市)にも 石室内に煤けた焚き火跡があった。デイ・キャンプでのバーベキューや飯盒炊爨の跡の様です。貴重な:ふるさとの文化財保護への認識やモラルからも考えていかないと。古墳に限らず文化財の保存・維持・管理には難しい門題が山積なんでしょうね。林道の墓地を挟んだ南側の林にも大きな2〜3個の天井石らしいものと 羨道部への側壁らしい石塁が斜面に殆ど埋まりながら 藤の目古墳1号墳が見える。
藤の目4号墳:天井石構成まで気が付かなかった(^^ゞ

葺石だったと思える大石が残る古墳に寄ってみるが、玄室部付近さえ石室は崩れてか?埋まってか?、 石室内部は人一人入れる程の空洞?も無さそうです!!?。そのような状態なので羨道部も雑草と斜面の土砂の間に、石材:石列が散残して古墳跡を示している程度。氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(柏原町)によると、 高さ・径共に藤の目古墳の2号墳よりは少し大きかったようです。林道を引き返す途中3号墳は 圃場整備で消滅したものか確認はできなかった。 林道を集落に戻っていよいよ藤の目古墳4号墳です。 南に開口した4号墳は横穴式石室は封土を共に完存しており、直径20m超で丹波市でも最大級の円墳です。羨道部は長さ7.9m・幅1.9m・高さ1.85m有り、立ったまま楽に入れる。
藤の目4号墳の墳丘(正面中央右に奥壁の石材が見える)

玄室部は長さ5.55m・幅2.3m・高さ2.6mの両袖式様式をとっています。東奥古墳同様の 大きな石が使用されており、少し圧倒されて石組や天井石の枚数等・石室の構成細部の観察を見忘れた。古墳調査後は崩壊・危険防止というよりは保存の為に石組部が補強整備もされている様ですので、 此の古墳は戦前に発掘され金環等の出土品が有った様ですが出土品や調査記録・報告書が不明です。県の図書等に保管されているのかも知れませんね。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


谷川野田古墳群   山南町谷川野田

丹波市役所山南支所(旧山南町舎)からは南に竹林山( 鬼こそで知られる山南三山常勝寺の山号ともなっている463mの山)、東には鍋倉城 (太田城)のある東山459mの美しい三角錘の姿を見せています。 山南支所前の車道を越え 緊急備蓄センタから山側に向かうと野田の天満神社の鳥居があり、東方の中央公園・グラウンドとの間には天神池が、浮き草と水面に竹林山から妙見山への稜線を映して神秘的な美しさをみせてくれます。
谷川野田古墳(10号墳?)

其の稜線から北方へ舌状に突き出してた低丘陵は其の末端を天満神社に延ばしています。20数基の群集墳の大部分は壊滅し僅かに石室を見せるもの、 墳丘跡と思える?マウンドを其処此処に残しています。 谷川野田古墳群へは神社と西側にある民家との間から車一台分の緩やかな道が奥に続く松林の中を入っていくと直ぐに平坦な松林の中に低い盛り上がりをみせる起伏が林道の左右 ・随所に見られます。数基の円墳跡を過ぎて林道右手に円墳を見ます。 林道より一段高い林の中を覗くと山側(南面 )に開口した石室入口が有りますが、石で囲われた羨道入口は縦横僅か7〜80cm程度。
谷川野田古墳10号墳の開口部

小さな子供が何とか入り込める程で、内部は入口が小さ過ぎて直ぐ真ッ暗闇。 見えない玄室部をストロボで撮影した映像でヤッと確認出来る程度です。 羨道の幅や高さから推察すれば、直線上・4m先の壁が玄室なのか?此れが 10号墳なら高さ2.5m・経13mの規模の様です。覗けたのは墳丘上部から土砂で埋まっている玄室部なのか?。羨道部の岩は取り除かれ石垣等に用いる為に持ち去られたものか付近に散逸した石材も見かけません。 下方に”潜り戸”の様になった玄門部の小さな入口が埋れているのでしょうか?。
谷川野田古墳2号奥壁部と石室を二分する石棚

小さな横穴式石室の円墳ですが石室内は画像に見られるようにの残存状態は良い。 もっと高さがあって細長く・更に先に延びているのかも知れません…?いずれにしても 木製の棺を収める為だけの小さなものだったのでしょうか?。 周辺には極小の円墳が23〜24も点在する谷川野田群集墳ですが削平されているもの・僅かに墳丘跡を残すもの・石材も見当たらない墳丘跡も多く、 石室が残存しているものは二基しか見られなかったので、氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書による古墳群の位置関係から推察して、 林道側の最初の古墳(上記墳丘高さ約2.5m)を10号墳、 径16mの横穴式石室を持つ円墳が2号墳。内容や特徴について素人なので良く判っていませんので、間違っているようでしたらご容赦願います。
入室は羨道部中程 (手前)と玄門部?(上部)の天井石の隙間から・・

谷川野田古墳群で特記されるのが2号墳です。 谷に面した西端と東端を窪地( 既に盗掘はされているのですが発掘調査の跡か?)に、石室内の顔を覗かせる東西約7〜8m・幅約1〜1.2m・高さは1・3m程の横穴式石室があります。 上部の覆土はおおかた流され崩れてか殆ど無く、 2箇所ばかり天上石が落下したか外されてか、内部を窺え石室内に入りこめる程。10号墳よりは遥かに幅広く大きい様ですが、此方も土砂で大方埋まっている様で、 羨道入口付近は埋もれ・東側の横穴式石室奥壁側の石室の壁が外れ、石間から玄室部の石棚上部が見える。滑り台状に土砂の溜まった石室の底部が下がっていく。西部が谷の斜面に面しているので円墳の玄室は東側に有るのでしょう。石室の入口と見える方が玄室部の奥壁で、此処は兵庫県下でも例の少ない二階式に積石されており、 玄室奥壁から1m程のところにも平石で境(間仕切り?)をしたものがあったとが現在は破壊されているといわれます。
谷川野田古墳2号墳 奥壁側の石棚上部から埋もれている羨道部側

羨道部と玄門部間に天井石が抜かれてか、 広い隙間?から狭い石室内に入れるので潜り込む。 玄室部の側壁から奥壁へと其の中央部には、平石をもって境としていたようで袋戸棚状だったか?、石棚が架設されています。篠山や三田にある石棚をもつ古墳でも、 その使用用途はいろいろ考えれてているようですが決定打は判らないのかな?。石室内部の補強・祭祀用・遺品を載せる棚なのか?・2階式の棺台なのか?・古墳時代中期(5世紀〜6世紀初期)の古墳のようです
山南町文化財のすがた 氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書等を参照)


下油利群集墳    氷上町下油利奥

白山から西へ延びる尾根が古天神から高釣瓶(597m)を経て 篠ヶ峰への町境尾根と接する付近から 南山麓一帯の緩斜面の松林の中には多くの群集墳が在り、 白山南山麓・油利地区内の谷を挟んで上油利には油利百塚群集墳、下油利にも”たこ焼き器”を裏返したように次々と円墳が点在する下油利群集墳が朝阪群集墳とは下油利と 朝阪地区を隔てる舌状に延び出してきた低丘陵に分断されたような位置に在ります。
下油利群集墳(6号墳?)破壊されている羨道部分

下油利群集墳は全て横穴式石室の円墳ですが15基が確認されています。 密集した後期古墳群で、その多くは開口しており盗掘された形跡があるようです。しかし墳形や蓋石 ・組石は原形を留めているものも多い様です。この日は5ッばかり・6号墳付近を見ただけですが、
同上(6号墳?)の玄室部


羨道部は盗掘や葺石も持ち去られたりで破壊されているものが多いが、玄室部は・ほぼ原形を留める古墳も多いので、 古墳フアンには楽しみな処なので訪れた方も多いのかな?落葉・雑木に覆われ地面に落ちていた説明板も、往時は立派な板看板に掲げてあったのでしょうか!。個人所有の松林の中に点在する古墳ですが、小面積のところに集まる群集墳は見て廻るには効率が良くても今は訪れる人も居ないのでしょう。 分布の詳細図でもあれば、ジックリと観察して廻りたいものです。古墳群のほぼ中央部と思われる下油利群集墳案内板が落ちている処に着いた。
下油利群集墳(7号墳?)羨道部は破壊されているが…

直ぐ上方には羨道部が破壊されているが玄門部分が開口して石組の見える横穴式古墳がある。 どうやら此れは6号墳なのでしょう。 其れなら羨道と玄室の区切りが明確で高さ2.5mの玄室部を持つ1号墳等の下方を捲いて来た様です。 6号墳?の西隣には墳丘が崩れ羨道上部も破壊しているが頂部の崩れた岩の間から玄室内が見える13号墳?がある。羨道の壁板だったか葺石だったらしい平板な岩が底部に倒れている。
下油利群集墳(13号墳?)崩れた墳丘上部から玄室部を覗く


6号墳の先にも羨道部が破壊され、 土砂が玄室内に流れ込んでいるようですが、大きな葺石が露呈する7号墳?が在って玄室の奥壁が開口部から見える。古墳時代後期(6世紀後期〜7世紀初期)の古墳のようです。 旧氷上町指定の文化財ですが丹波市になってから市指定になったかは?。 私有地ですが・おおかたは原形を留める群集墳の典型例として、土地改良・開発で壊される事が無いように…

(特別地域埋蔵文化財 遺跡分布地図 兵庫県教育委員会 昭和49年を参照)


伊佐口古墳     氷上町伊佐口字東山

R175号を加古 川(旧佐治川)沿いに 穂壷城の裾を走り柏原川を渡ると、丹波市一のショッピングゾーン。 柏原市街地からのR176号と合流する稲継交差点を左折して県道7号を和田山方面に進みます。
墳丘や石室がほぼ完全保存

山科を発って故郷・豊岡へと ”大石りく”が越えた但馬道の篠山栗柄峠〜黒井へ出て天王坂を越え、氷上町川へ下ってきた桟敷の交差点を直進すれば、直ぐ 香良の滝の大きな看板を見ます。 岩瀧寺へ向かう手前の香良地区北方には、聖徳太子を開基とする古刹:園梧寺があり、周辺には香良群集墳が有るという。 一つ北側の谷間を目指します。県道7号線に戻り600m程?北上すると「伊佐口 」標識を見て田圃の中に続く真直ぐな道を進みます。左手に露岩を見せる丘陵尾根が 井階山から、幾つもの小ピーク峰を並べて五台山へ延びていきます。

伊佐口古墳(1号墳)の玄室部

この稜線鞍部へと谷通しに続いていそうな林道は大師堂の先で鹿避けフエンスを開閉して、 なを続きますが近年まで在ったと思われる寺跡に行き着きます。
伊佐口古墳は丁度 ・鹿避けフエンスのある林道入口と寺跡の中間点付近東側の水田跡の奥 ・広い台地状の奥に西に開口して古墳の羨道部が黒い岩室を覗かせています。円墳の墳丘も開口している西面以外は、 横穴式石室と共にほぼ原形のまま残存しているようです。
伊佐口古墳(1号墳)・羨道から玄門部と玄室下部分

実測していないが、玄室部は天井が高く(2.5〜3m程)・奥行5m程・幅2m程と中型古墳ですが、 周辺の石室の完在している古墳では大きな方かな。 羨道部・玄門部・玄室の区別は明確です。天井までの高さがあるだけに、外圧で内側に膨らんできているのか、上狭で、三角持ち送りがみられるのか?


北油良古墳2号墳?     氷上町北油良

県道7号線桟敷交差点から 天王坂を越えて春日町へ抜ける道とは反対に、五大山から近い峰続きには所々に露岩の岩肌を見せる荒々しい山容の 愛宕山を正面に見ながら 北由良側から愛宕山への登山口となる安養寺への道を進んで、日吉神社に駐車して歩き出します。北方真近に丘陵の山裾を落とす南面の山腹に在って、特別地域埋蔵文化財・遺跡分布地図には北由良3〜4号墳が発掘後、 復元されて残っているというので探してみます…?。
上部に空く僅かな隙間から石室を覗く

其処と思われる地点へは民家の中を抜け・且つ私有林に入っていく様です。季節柄・松茸・栗・柿と果樹園があり、変に疑われる”不味さ”もあり其のうえ、 分布図からは確かな位置確認が出来ないので退き返し、少し手前(西南)の民家横から山道に入り鹿猪避けフエンスを開閉して、北由良3〜4号墳位置の西方の古墳を探してみます。 フエンスを抜けて直ぐ西方の尾根筋に向かい、稜線を辿ると上方に盛り上がった平坦な部分が見え、 近着くにつれ尾根上に一枚の大岩が目立ってくる。 大岩は古墳の天井石と南端部の崩れた岩?の間に約25cmX80cm程の隙間が有って、石室内部の玄室部奥壁や側壁と思える部分の石組が見える。
北由良古墳・封土が除かれ巨大な天井石だけが目立つ

大きな葺岩一枚が露出しているだけで、封土も殆んど流され円墳の形状も大きく崩れている様です。石室内部にも大量に土砂が流れ込んでいます。 羨道部と思える南側も斜面で古墳の石材らしいものもなく、完全破壊され石は持ち去られているのでしょうか。 この古墳周辺の稜上や尾根左右の上部と下部の古墳の遺構を見なかったので 分布図による2号墳の現状説明文とは異なるが、日吉神社・公民館の北東方に一基だけ見つけた古墳です。

(特別地域埋蔵文化財 遺跡分布地図及び地名表  兵庫県教育委員会 昭和49年を参照)


唐鍬古墳    青垣町山垣字唐鍬

パラグライダー基地・岩屋山からテイクオフしたフライヤーがパラセーリング……佐治から遠阪に向かう R427号を山垣の遠阪小学校をめざします。遠阪川を挟んで東の 山垣城への分岐に山垣郵便局がある。此処から谷川沿いに山側に向かうか、国道沿いの少し先に有る遠阪JA側からは直進する道が有ります。
唐鍬古墳玄室

尾根末端の峰に神社本殿の建つ丘陵を東に見ながら上記の道が合流 する北東側に墓地があります。其の墓地裏側斜面5m程上部には、南方に開口する円墳の羨道部入口があり、 其の上部に巨岩を置く横穴式岩室が見えています。 横穴式で石室としては、
唐鍬古墳:玄室から開口する羨道部を見る

青垣町内ではツキ山古墳と共ぶ唐鍬古墳の二つが、原形を良く留めており、 古墳時代中期から後期(5世紀〜6世紀頃)の古墳として町指定文化財 ?(^^ゞとなっているようです。間口の高さ、幅共に約1.5m・奥行き6.5mで羨道と玄室部の区分けは不明瞭。奥壁には一枚の大きな鏡石が有る。



稲荷古墳とヤマザクラ  春日町長王

春日町は”丹波の赤鬼”と恐れられた 赤井直正の黒井城が有り、天正7年 (1579)明智光秀・羽柴秀長・丹羽長秀の連合の大軍による”丹波攻め”で落城しますが、光秀の重臣:斉藤利三が黒井城の麓に建つ興禅寺を居館として入ります。その利三の娘・お福が後の三代将軍家光の乳母 春日局であることは有名ですね。

稲荷古墳とヤマザクラ

お城サイトの”びわこさん”はじめ近江衆には、その後堀尾茂助吉晴が黒井城主となり、天正13年(1585)佐和山城に移った事をご存知と思いますが付け加えておきます 。その城下を抜けて西北端から氷上町に抜ける峠が天王坂で忠臣蔵で知られる大石良雄の妻”りく”が 但馬へ戻る時に通っ大石りくの森・天王坂に伝承が残ります。
墳土が流れ落ちて露呈した石蓋(天井石)の様子

その天王坂への入口・長王地区に 長見砦(長王城)や山田城館の城跡を訪ねる途中、 稲荷古墳とヤマザクラの案内標柱を見かけて立寄ってみる。案内標柱によって道なりに山に向いますが、山麓の朝霧のたち込める杉木立の中に直ぐ、稲荷古墳と石室の上に立つ大きなヤマザクラが見えてきます。幹から数本の太い根が蓋石の東半分を抱くように根を張って、高く延びて奇観を呈しています。 しっかりと此の墳墓を護ってきた自身に溢れた力強さをも感じさせる大木です。
稲荷古墳:封土が流れ込んで埋まる石室内部

稲荷古墳の上に生えていたものが、雨風(盗掘?)によって盛土も除かれて現状の様になったと思われます。ヤマザクラは春日町の天然記念物 (昭和51年12月9日)に指定され、目通り幹回り4.13m・樹高約27m・枝張東へ約11.5m・南へ約11mあって丹波市では最大のものです。
(現地・長王区の案内板 参照)



坂群集墳       春日町坂

R175号稲継交差点から城山(向山城)のトンネルを抜けると、荒々しい露岩の山稜が「木戸岩」の名が示す春日町黒井城への侵入を防ぐかの様に立ち塞がる。街道が黒井盆地に入る最も狭い位置は、切立つ岩場がなくとも西入口警護の重要拠点となっています。 R175号は大きく右折して春日町に入ってきます。此の町堺線上の山塊の北末端を廻り込んで行くと左前方には黒井城と千丈山砦が見えています。
坂群集墳:1号墳の開口部(羨道部破壊・玄門部

今抜けてきたトンネル上部稜線は向山城から霧山 (霧山城)へ延びていきます。一挙に拡がる 黒井盆地の中央を流れる黒井川は春日インター近くで竹田川に合流し 由良川となり日本海(舞鶴湾)に流れ出ます。 其の源が此処から約1.5km地点に有る「水分れ」で標高僅か95m、日本海側水系と瀬戸内側水系を分ける 日本一低い谷中中央分水界です。
坂群集墳:1号墳の玄室から開口部と両袖式が解る

篠山方面からはR176線柏原北交差点を直進・水分れ橋からJR石生駅前、群集墳のある北野を過ぎれば春日インターから延びる 北近畿自動車道高架の北側付近に坂群集墳がある。石生鉱山(採石場)の北に春日町側の坂群集墳・南に氷上町側の北野群集墳が有ると記した方が判り易いか!!。城山トンネルを抜け春日町へ入って直ぐ 左(北方)へ大きくカーブするR175号線ですが、右方向(JR石生駅)からの車道と合流します。此の合流地点を 100m程南へ戻ったところに春日変電所が有り、坂群集墳は車道を挟んだ山側・送電線鉄塔側から入って直ぐのところ。
坂群集墳:2号墳?の玄室


早速:藪の先に全長10m程の3号墳?に突き当たります。覆土は残るが南側面には石組のズレか僅かな隙間から !黒い穴を覗かせています。一廻りした西側に開口部が有り土砂で埋まった狭い(幅0.8mX高さ0.5m程)入口が見える。内部は整然として保存状態は良好な様だ?が真っ暗で未検分です。点在する古墳の位置関係も資料やデータ控えが無いので詳細は分からない。直ぐ南側には春日インターから和田山方面へ北近畿自動車道が通じた為、 破壊消滅が危惧されたが周辺には4基程の古墳が有り、丹波市内最大規模と云われる1号墳が此の群集墳の南端に残っていた。
坂群集墳:1号墳の玄室・奥壁天井部の 「類隅三角持ち送り」

開口部からは走行車両が直ぐ其処に見え、ギリギリ工事域から破壊を免れています。 長くなってしまった前説についての解釈です。 黒井城を本城として奥丹波一円を統制した赤井(荻野)氏は山越えで但馬南部や竹田川から由良川沿いに京都府側へも勢力を延ばしていきました。日本海側と瀬戸内側を分ける日本一低い谷中中央分水界は、とりわけ険しい丹波・但馬を分ける山越えのルートを避け、 標高差の少ない「氷上回廊」を利用する横断ルートです。
坂群集墳 :3号墳?の開口部と墳丘


加古川に沿って氷上(丹波市)に入り、由良川を経て日本海(但馬・丹後・若狭)に抜ける此のルートは、古代より文化の交流経路であり、 政治・軍事的にも重要な交通の要衝として存在したと推定されています。坂群集墳の1号墳・2号墳に見られる 「類隅三角持ち送り式」と呼ばれる特殊な石材の載架法を採った築造方式で、同一形式のものは日本海沿岸に9〜10基の存在が確認報告されている様ですが、 高句麗文化の影響を受けて成立したものと考えられ、 由良川を遡上して伝えられた可能性が高いと推察されています。
坂群集墳:5号墳?巨石の天井石と玄室を残す

1号墳【玄室長さ4.2m・幅(上部)1.5m・幅(下部)2.1m・高さ2.7m・玄門幅0.9m・全長8.4m】は裏込め石と自然石を多用し、両袖形式を採っているが (右袖幅0.8m:左袖幅0.4m)右袖の方が長い異色なタイプといい、丹波市内では未だ発見されていないようです。玄門高2.7mは、古墳時代後期(6世紀〜)のものとしては丹波市最大級といわれます。
(丹波史第9号 :丹波史懇話会 参照)


北野群集墳
     氷上町北野

丹波市のほぼ中央部に位置して 日本一低い谷中中央分水界「水分れ」に程近い氷上町に北野群集墳・境を接した北側の春日町に坂群集墳が在る事や、「氷上回廊」と呼ばれる氷上の低地を抜けて瀬戸内海と日本海側を結んで 文化と交通の要衝となったルートに接していることは、上記の坂群集墳にも記しています。
北野群集墳A:18号墳?(共に羨道部は長い)

水分れ公園への標識を見て、水分れ橋を渡り露岩を覗かせて起立する向山連山西面を望みながらJR石生駅前を抜け和田山・豊岡自動車道の高架下手前約 100m程の北野の集落から山に向かいます。貯水池の堤防が目印になると思いますが、 群集墳に囲まれた中に建つ
北野群集墳A:13号墳?

配水所(神社の祠が収められている様な ?又は物置?の様な建物がある)施設までは、別に参道?の様な山道が通じています。貯水池近くには「氷上郡(現:丹波市)の文化財」にも指定文化財となっていた 親王塚古墳が有りました。 前方後円墳だったようですが、明治32年(1899)に発掘され”三角縁三神三獣鏡 ”が出土した事で有名となり文化財指定を受けた古墳は、文化財指定が取消される程に破壊されたか遺構も所在もよくわからなかった。
北野群集墳A:13号墳?玄室

しかし山裾から山道に入ると直ぐ先ほどの水源地らしいコンクリート製の設備があり其の上に小屋?が建っている。 周辺には古墳の墳丘が其処此処に盛り上りを見せているので其れ等に囲まれて神社の祠の様にも見える。露岩を目指せば 大概は頂部に葺石が露出していたり、陥没していても石室の様子を残す石材が散逸していたり、開口部を覗かせているもの、玄室部を残し羨道部の両側壁の石材を残すもの…とにかく素人目にも古墳と判る大小の古墳が 名の通り群集しています。
北野群集墳A:18号墳?玄室(共に巨石墳)

丹波市でも 最大級の古墳群が此処には有ります。以前に下由利群集墳に寄ったが共に良く知られる古墳群の様です。下由利群集墳は 雑木藪に覆われた中に有るのに対し、北野群集墳は植林帯の中でしかも石材運搬には苦労も少なかったと思えるほど、 山中に建造用の露岩も多いところで、約50基近い古墳群で構成されているようです。
北野群集墳B:49号墳?天井石を支える「まぐさ石?」

丹波では古墳時代初期(四世紀〜)頃といわれる親王塚古墳が有った所。殆ど距離を隔てずに数多く点在する北野群集墳の多くは 古墳時代中期(四〜五世紀)の頃の様です。北方僅か150m程の地点には石生鉱山(採石場)を隔てた春日町側に坂群集墳が有って、此処のは古墳時代後期(六世紀)頃の 築造とされるものがあります。
北野群集墳A群:??号墳

坂群集墳と同様、北野A群 ・B群に分かれる個々の主な古墳位置関連が判らない。墳丘・石材・石室の残る数多くの古墳にコーフン…位置や規模 ・状況のメモも取らず、そのうえ同じ古墳を重複して訪れた為、順序も不明で添付写真のXX号墳の説明が誤っているかも知れません。
北野群集墳A群:??号墳

調査報告書やデータを研究して各自で現地確認していただければ幸いです。群集墳の分布位置は採石場の側に有り、露岩の多い山なので、古墳の築造も楽だった?でしょうが、後世に城館や土地・家屋 ・河川の造成に石材が持ち出される事も少なかったので 保存状態も良く残ったのでしょうか?
北野群集墳B:xx号墳の天井石

従って北野群集墳において特記すべき古墳の特徴を下記の冊子からメモしていたものを列挙しておきます…がドレがドレやら ?…群集墳A:13号・18号は共に右片袖形式の横穴式石室の巨石墳で18号は巨石を多用しており13号の約7mの羨道長は丹波市内最長といわれる。
北野群集墳A群:??号墳

群集墳B:49号は、殆ど無袖式で「まぐさ石」を有しない石室を持つ小円墳の中で、此れは無袖式で「まぐさ石」を有する 丹波市内でも数少ない例といわれます。群集墳B:51号は新しく発見された(平成年代に入ってから??)もので内部右室は丹波市内でも数少ない胴張り【石室中央部が膨らんでいる】形態を有しており、石組みも端正なところから 古墳時代初期のものと考えられるようです。

(丹波史第9号 :丹波史懇話会 を参照) 本誌 丹波霧の里HOME  別冊別冊丹波霧の里HOME

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