石棺石仏と古墳の町…野上城・殿原城(笹倉城)・西山城・原谷居館・他
東播磨:加西市 (五万図=北条)
T:花と石仏と古墳・播磨国風土記のロマンの町へ・・・ H18年06月04日
U:加西市ランドマーク展望台(西山城)〜亀山古墳…H18年01月22日
近畿の山城 野上城 西山城 殿原城(笹倉城) 原谷居館 広原城
東播磨の古墳
玉丘古墳群 石部神社と皇塚古墳
山伏峠の石棺石仏
播磨のお話し根日女の物語

山伏峠の石棺石仏

T:加西市に入って先ず目にするのが 町名標識に描かれる・髪に花を差した女の子のイメージキャラクタが市マスコットの根日女。神戸東灘区御影にある処女(おとめ)塚同様、此処には根日女(ねひめ)と二人の皇子の美しい悲恋の伝承を語る玉丘古墳が有る。
「いこいの村はりま」の史跡・亀山古墳
近くの山伏峠には石棺石仏が祀られ西国観音霊場26番札所法華山一乗寺・もとの法華山といわれる古法華には日本最古の石仏が北条にはランドマークの五百羅漢と小谷城等。U:ランドマークといえば「いこいの村はりま」にランドマーク展望台があり 此処は西山城だといい尾根続きのピークが亀山古墳です。見下ろす南側の市内へは地理不案内ながら・少しずつ播磨風土記の世界、播磨鑑の小さな丘陵へも歴史探索の輪を拡げていきたいと思っています。


玉丘古墳群    加西市玉丘町水塚

中国自動車道・加西インターから県道24号線を南へ…標識に従い玉丘史跡公園の駐車場に入ります。広大な芝生公園内に水を湛えた周濠に護られた古墳が点在する玉丘古墳群のなかに一際目立つ大きな杜が国史跡に指定され、古代ロマンと秘話が伝えられる古墳都市!!加西市を代表する玉丘古墳です。
王塚古墳の周壕

北播磨地方最大の前方後円墳で主軸の長さ 109m・後円部の径64m・高さ9m・前方部の幅54m・高さ7m・周囲には幅14〜23mの周濠を廻らせた兵庫県下7番目の規模をもつ古墳時代中期(5世紀前半)に築造された古墳。周濠南東端部の土橋を渡って墳丘部に入り後円部の墳頂に 立つと前方後円墳の大きさや形状が実感できる。墳丘は三段築成・くびれ部東側には造り出しが付く。後円部中央には盗掘穴があき穴底に凝灰岩製の長持形石棺材が残っており県内最古の長持形石棺を持つ古墳時代中期の竪穴式直葬で遺物に円筒埴輪・朝顔形埴輪・家型・鳥等の形象埴輪が
王塚古墳


出土している。玉丘古墳に眠る主が加西市の町名標識でお目にかかるキャラクタ根日女で播磨国風土記に登場する二人の皇子との”恋の伝説”でよく知られています。良好に残された後円部の頂に最後2m程の墳頂に感じたトキメキを打ち砕くように中央部には噴火口の様に大きな盗掘穴があけられ組合せ式石棺の石材の蓋石らしい数片が穴底の土砂の間に残されているのが見えます。此処に埋葬されたのが根日女と云われます。
移設古墳の愛染古墳
根日女は病死してしまい、其の死を嘆き悲しんだ二人の皇子が朝日・夕日のあたる賀毛(加西市)の丘に表面を美しい玉石で飾ったお墓を造り、 手厚く葬ったといわれ今に玉丘古墳の名で残る。人の皇子とは弘計(おけ)天皇とも呼ばれた弟:袁奚(ヲケ)が兄に譲られて先に23代顕宗天皇となられた。在位3年で亡くなられ陵は香芝町(奈良県北葛城郡)にあり、兄の億計王(おけのきみ)が24代仁賢天皇となられた意奚(オケ)です。二人の皇子の父:市辺押磐皇子は17代履中天皇の子で 20代安康天皇の皇位を継ぐとされ人望も篤かったが大和朝廷では皇位継承をめぐって肉親同士の殺し合いが続いていたとき。

愛染古墳内の家型石棺

自分の競争相手になりそうなものは全て殺してしまったという21代雄略天皇により痛ましい最期を遂げています。意奚・袁奚兄弟は雄略天皇の追っ手から逃れる為日下部連使主のはからいで丹波に逃れ【赤米の里:井原郷(丹波市山南町)ではなかったか?、北播磨境界に位置して平城京には其の赤米を貢納した木簡が奈良国立博物館に所蔵されています。職能に語部(かたりべ)という人々もいたといい、何か関わりが有るかも?】更に根日女物語に云う播磨に移っています。 三木市の志染の石室には二人が隠棲した伝説があり更に其の前には北方の美嚢川沿い”久留美”に暫く滞在したと云い「久しく留まられた美しい里 」との意味を伝えます。
クワンス塚古墳

さて其の後・兄の意奚 (億計)は父の敵となる雄略天皇の女を娶っているのです。雄略天皇が亡くなり其の子の22代清寧天皇も41歳で亡くなられたとされるが結婚されなかった様で世継ぎもなく、大和朝廷も皇位継承権のある二人の皇子の行方を懸命に探していた時期で時代や事象の背景がピッタリ合っていて単なる創作物語としては出来過ぎ!!。
玉丘史跡公園内には玉丘古墳を中心として6基の市指定史跡古墳と移築復元した古墳が1基有ってほぼ良好な古墳群が形成されています。
玉丘古墳前方部の南面から後円部

それらの中でも真っ先に入園者を歓迎して横穴式石室の開口部を公園駐車場側に向けているのが愛染古墳で古墳時代後期(7世紀中期)の円墳で無袖式横穴式石室で組合わせ式家型石棺。須恵器が出土しています。石室内に石棺も納めてあるが此れは加西市佐谷町字上天寺のオーセントゴルフ場から移築され、開口部を南から北の公園内側に向きを180度変えて復元保存されている。玉丘古墳の南側に拡がる開放的な芝生や水生植物園を回遊るするかのような公園の先、愛染古墳の直ぐ西に濠が囲む小さな森が壇塔山古墳。古墳時代中期(5世紀前半)の築造の円墳で径約17m・主体部の墳丘施設等の施設については不明だが墳丘周囲に巡る幅2-3mの周溝から円筒埴輪片が出土している。
玉丘古墳(後円部)の盗掘穴(石棺石材が残る)

公園西端の長倉池畔の遊歩道を北西端の公園入口で三方を田と池と藪に囲まれて 実盛塚古墳があります。規模も径21mの小型円墳で墳頂部の封土も崩れているようだが小藪の中にあって石室等確認できない。埋葬設備不明とあり崩塊していて未調査なのかな?竪穴式石室だったか?。実盛塚古墳の東側:玉丘古墳の西北に位置して民家と隣接するクワンス塚古墳は径約35mの古墳時代中期(5世紀前半)の円墳で幅広い(約10m)周濠が廻り、其の墳丘には方形の造出し部が見られ、埋葬施設は割竹形木棺を納めたと考えられる竪穴式石槨が残る。石材の多くが抜き去られており大半の副葬品もその頃には無くなったものと考えられるが出土遺物には円筒埴輪等や朝顔形埴輪があり造出部からは鳥形等等の形象埴輪や土製品には籠目土器類の他に杵形・円板形・棒形・籠目形等の土製品が出土しています。墳頂の副葬品には三角板革綴じ短甲・剣・直刀・鉄鉾等の武具、農工具としては
笹塚古墳(帆立貝式古墳)

斧等が出土しています。最後に玉丘古墳の両サイドにある車輪を思わせる培塚を見ます。玉部古墳の西側には幅4m程の周濠の中に庭園の築山の様な古墳・陪墳1号墳がある。径約25mの円墳と考えられているが嘗ては自然地形の前方丘部を併せて前方後円墳と思われていた様です。此の円墳も墳丘中央には盗掘穴があいており周濠は改変が著しく墳丘裾に葺石が辛ろうじて残っているといいブルーシートが痛々しそうだ。西側には陪塚第2号墳 (一辺長約24mの方墳)があり玉丘古墳をはさみ込んでいます。古墳時代中期(4-5世紀)の古墳群が集まる玉丘古墳群として北条町古坂に笹塚古墳(5世紀後半-末頃)がある。
笹塚古墳(帆立貝式古墳)

笹塚古墳(国指定史跡<昭和53年指定>)は全長約51m・墳丘:後円部経約43m・前方部幅約 15mx長さ約8mの帆立貝式古墳だが主体部の竪穴式石室は大正時代に盗掘に遭い・戦後は粘土の採土で1/4程が破壊されています。石室内は未調査とのことで調査による出土品等に期待したいところですが、石槨の蓋石6枚構成のうち三枚は外されており、三枚は石槨内にズレ落ちているとある。
  (笹塚古墳:第二次<平成13年>現説資料及び
玉丘史跡公園内処々の 加西市教育委員会案内板 及び 「新歴代天皇大鑑」等を参照)

根日女(ねひめ)物語

加西市に天然温泉「根日女の湯」があって露天風呂から微かに香るバラ庭園の花を愛でながら、この湯のパンフに記載された根日女物語の乙女を想ってみる。中央部・玉丘町にある前方後円墳玉丘古墳には古墳時代中期(5世紀初期): 此処に眠ると伝えられる女性”根日女”と二人の皇子【後の23代顕宗天皇・
玉丘古墳と陪塚1号墳

24代仁賢天皇の兄弟】をめぐる美しくも悲しい恋物語の伝承地として良く知られています。天平時代:和銅年間(708-715に編纂された「播磨国風土記」の賀毛郡(現:加西市)の条に記載のよると心優しく控え目な兄:意奚(オケ)皇子と気の強い弟:袁奚(ヲケ)皇子のニ皇子が大和朝廷の皇位継承争いの続く都から朝廷 (21代雄略天皇)の追っ手を逃れ、身分を偽って播磨国の賀毛の里に身を隠していました。”根日女”の父は賀毛の里一帯を治め国造(くにのみやつこ)を命じられている豪族:許麻の娘で神秘的な美しさを湛えた巫女でした。
壇塔山古墳

ある日・二人の若者は密偵の疑いで捕らえられ、其れを聞いた根日女は二人に出合い話に偽りのない事を悟って父・許麻に密偵としての処刑を中止するよう促したのが出合いの始まりです。後に天皇となる二人の皇子を救った事から恋が芽生え・愛が育まれて二人は互いに譲り合いながらも根日女に求婚するが賀毛の郷になくてはならない存在の根日女は里を離れられません。尼僧・修道尼同様に巫女は既に神に身を捧げ嫁いだひとだったんですね。
ランドマーク展望塔には加西市イメージ・キャラクターの”根日女”

やがて都に帰った二皇子は大和国再建の使命に燃えて平定し、弟が天皇となり皇后として迎えるため根日女のもとへ使者を遣わされるが、疲れと皇子達の安否を気遣う心労からか病の床に伏し終に息を引き取ってしまいます。嘆き悲しむ天皇(弟)と皇子(兄)は根日女の父:許麻の館の近くに在って朝日・夕日のあたる丘に美しい玉石で飾ったお墓を造り 皇后として手厚く葬ったといわれ、今に玉丘古墳として其の名が残っています。互いに愛し愛されながらも、結ばれることがなかった根日女と二人の皇子の心は此処に残り一緒に眠っている事でしょう。【二人の皇子については上記:玉丘古墳レポート中程の茶色コメントも併せてお読みください】
(加西天然温泉・根日女の湯 パンフレット等を参照)


石部神社と皇塚古墳   三津山(宮山) 101m  加西市上野町70

県道 370号線沿いに西に向かって走り県道369号線の落合橋に合流する手前に石部神社がある。天平(奈良)時代:人皇第44代元正天皇の養老3年(719)安芸の宮島(広島県)厳島神社より御分霊を勧請された神社で、延喜式に記される式内社です。祭神市杵島姫命鎮座の直後に記念として此の杉が植えられたと伝えられ石部神社門杉(市指定(昭和45年5月01日)文化財)は本殿正面に位置するところから門杉と呼ばれ、千年杉の巨木は根廻り約5m ・高さ約30mある。石部神社背後の三津山は宮山とも呼ばれて神南備山だった様です。
石部神社の門杉

神域一帯の丘は平成16年「里山林再生事業」により”石部の杜”として整備され丘陵頂部(三津山山頂)にある皇塚古墳【市指定(昭和46年3月30日)文化財 墳丘径16m・高さ2m】は元正天皇の皇女を葬ったものと云われますが、封土の流出が少なく良く旧態を留め古墳時代前期・自然の丘陵地を利用して造られた山頂墳の特徴がみられ、竪穴式石室を持つ円墳は玉丘古墳群が形成される以前の時期と推定されています。発見時は既に盗掘されていたが主体部には及ばす鏡・刀剣・土師器や玉類が出土しています。皇塚古墳への参道のほかにも幾つかの散策コースが神社や県道側から通じている。頂上付近には「コバノミツバツツジやモチツツジ」が多く春にはピンクの花が咲き競うツツジの丘に変貌します。 兵庫県では非常に数の少ない「カギカズラ」も見つかっており”カギカズラの小道”とネーミングされたコースもある。
皇塚古墳(竪穴式石室の円墳)

人皇第44代元正天皇の皇女が養老元年 (717)2月:安芸の宮島・厳島神社へ参詣された帰路に、嵐の為に疲れた皇女は播州室津の港に寄られ休養の後・陸路を東へ進まれ加西市中富町辺りまで来られたが病気になられた。お供の手厚い看病の甲斐もなく亡くなられ遺骸は皇女の遺言により三津山の頂上に葬ったの皇塚古墳であり、厳島神社から市杵島姫命を勧請して産土神としてお祀りしたのが石部神社だと伝わります。醍醐天皇の延喜年間(901-23)「式内社」として神名帳に記され慶安2年(1649)徳川将軍家光社領として朱印五石の寄進を受け境内山林竹木の諸役を免除され以来・将軍家の崇敬厚く維新まで続いたが明治元年(1868)に還納された。又此の地・旧加西郡在田郷は播州赤穂範浅野家の”飛び地領”であったため、浅野家の崇敬もあって正保年間(1644-48)浅野長直公巡歴の際、当神社や神護寺の為に特に添挙状を書かれ将軍家へ差し出されたりもした。拝殿正面に掲げた黒馬の絵馬は浅野家の献納と伝えられています。
(現地石部神社由緒・門杉及び 皇塚古墳の案内板 加西市教育委員会 を参照)
神水井:笹倉町に方形居館の殿原城(笹倉城)が在り、其の西側丘陵との間の峠状?の狭い車道(俗に在田小路!!)が集落内を南北に通じ、中程には玉垣で囲われた石積みの小さな井戸がある。注連縄が掛けられた正面玉垣の石柱には石部神社xxの名が刻まれています。「加西郡誌」によると元正天皇の皇女が此の井戸の水を用いられた伝えられ黄金で作った歯黒鍋や水を掬う為の柄杓?か・・等が社宝として有ったが喜永年間?(嘉永なら1848-54)に紛失したという。


山伏峠の石棺石仏   加西市玉野町字西谷

玉丘古墳公園から玉野南交差点に出て県道716号へ左折して直ぐ、県道から外れていく細い舗装道が山伏峠へ向います。車道の標識は外されて久しい緩やかな小峠道ですが今は車止めがあり遊歩道とサイクリング専用の道の様です。峠を下れば加西球場に出るので 玉丘古墳公園からは県道の玉野交差点へ進んで加西球場側から峠に向う方が便利かも…!?
山伏峠:家型石棺仏

山道のかたわらにひっそりと臨む山伏峠石仏は加古川市と加西市に特に多いと云われる石棺仏です。右側に位置する一基は石英粗面岩製で、現高2.25m・幅1.24m・厚さ40cmの巨大な家型石棺の蓋石内側に宝珠形の光背を彫り、蓮華座上に定印の阿弥陀座像が陽刻されており室町時代初期:建武4年(1337)の刻銘がある。最後方に位置するもう一基は現高2.1m・幅1.05m・厚さ18cmのやや扁平な長持型石棺で左右四個の縄掛け用突起がそのまま残されています。蓋石の内側に地蔵半跏像が彫られ左右の両側に化仏の小像(6体地蔵尊)が陽刻され南北朝期:暦応元年(1338)の刻銘があります。
山伏峠:珍しい長持形石棺石仏と阿弥陀三尊像


刻まれている名は輪郭表面に存在したらしいが現在は風触磨耗によって読み取れません。中央にも一基・高さ1m程の石材を舟形につくり、二重光背を彫り窪めて中央には阿弥陀・左右に地蔵の三尊像を薄肉彫りされており此れも石棺材と思われます。いずれも保存状態は良好で、市内に点在する石棺仏の優作として貴重な存在となっており 県指定文化財となっています。
(現地山伏峠石仏の案内板 加西市・加西市観光協会を参照)


 野上城 西山城 殿原城(笹倉城) 原谷居館 広原城

野上城(野上構)    加西市中西

フラワーセンター北門前を過ぎ、左右に小さな神社の建つ中西交差点を西に進むと中西北の町名標識がある。南下方には東面に田圃と溝に沿って細い車道が延び車道に面して3〜4m程の段差の上に台地が拡がり寺の屋根が印象的な一角が目に入ります。此処が野上城(野上構)が在った梅林山常泉寺(加西西国第十七番霊場)です。築城年代や城史は不明ですが室町時代末期頃の野上城主岩崎源兵衛は東播八郡(多可・加西・加東・美嚢・神東・印南・加古・明石)24万石の三木城主別所則治の幕下として天正6年(1578)中国攻めの際・織田信長方の策謀により三木城主:別所長治が叛いた三木合戦には三木城籠城に参陣し羽柴秀吉軍との攻防に奮戦して武勇を挙げた 武将として知られるが天正8年 (1580)三木城開城前に自害しています。
野上城址:常泉寺


三木城開城後・子孫は野上に戻って帰農し代々庄屋を務められていた様で、当家の納屋には解体時に・中西町内(常泉寺の直ぐ北西辺り!)の高札場に立てられた藩の板札等が堆く(うずたかく)積まれたまま残されていたそうです。 今となっては貴重な資料がまだまだ他にも有った様ですが、戦戦中戦後の荒廃していた時期、必要性の判断などできず邪魔のなるだけと焼却したり人手に渡ったものもあったでしょう。僅かに残された岩崎家文書類は幾度か市史編纂等で調査されているようなので 加西市史の資料編等に掲載されていると思います。圃場整備される以前・東側の水路に沿った車道は 畦道程度の細い道で末裔の岩崎氏邸宅の南側の続く田畑地を分ける急坂の車道は堀切だったそうです。邸宅から寺域を西側から北へ延びる細い車道は高低差の少ない平坦地なので往時の様子は判りませんが車道は堀跡で内側を土塁で囲った構居だったのでしょう。
野上城:武家屋敷跡か野上城南郭部より善坊山を望む

野上城(構居)の南側に堀切跡の車道を隔てて善坊山を正面に望む一段と高い台形の田畑には3軒ばかりの家屋敷があった事を尋ねた老女の記憶にはあった。また・苗代準備の代掻き作業中に牛が足を踏み外し一気に水が抜け補修で掘っていると半地下式の室(むろ)が現れて生活用品等が数点出てきた様だが、それらがどうなったか判らない。遺構遺跡調査が実施されたが目立った構や出土品はなかったということです。


西山城と亀山古墳  岩高神社178m⇔西山城173m〜亀山古墳 162m  加西市笹倉町西山

芝生広場・庭園・テニスコート等の運動場を備えた公共の宿いこいの村はりま)の裏山へ幾つかの整備された遊歩道が通じ、 山頂部には加西市ランドマークの展望台が建つ。管理施設の駐車場や宿泊施設東側から 山腹に有る神社を経て亀山山頂にある古墳マウンドへ、そして尾根続きに展望台のある西山へと、遊歩道を散策する市民の姿を見ます。 亀山古墳は幾度か実施された発掘調査や現場説明会等で良く知られるところですが墳墓跡を玉垣用石材で囲んであるだけ。
”いこいの村はりま”ランドマーク展望台が西山城?

復元レプリカや出土品の写真展示でも有れば…と思うのですが。ランドマークとなる展望台が建つ西山山頂が西山城(砦)跡であることは 殆ど知られていない。築城時期や城主等の城史は不明のようだが直ぐ東山裾には笹倉城・更に東へ2km程には満久城があり共に在田(赤松)氏の城があります。同じ赤松一族の在田氏の勢力が強くなってきた為、
 ”いこいの村はりま”展望台から亀山古墳のある山頂


上原(赤松)氏が小谷城を築いて在田氏を監視したように在田氏側も要衝監視と共に小谷城等の西面を見張る為に築い砦であったか?。強く笹倉城との関連を感じる砦です。展望の良さに比して城としての遺構の不確かさが 不安材料です。尾根筋は全体的に複雑でも急斜面もなく鞍部状に堀切等もなさそうだが尾根筋の左右の谷筋は急斜で竪堀と思える凹角の溝を見かけます。
展望台下方から亀山古墳への登山道から数条の竪堀が・・・?

展望台直下から亀山古墳に向かう尾根筋の遊歩道から東南の斜面には竪堀?と思える数条の溝を見る。しかし荒れた自然地形の山容からは曲輪跡と防禦施設の位置や方向性から考えても遺構の確認がもてない?物見台か烽火台・曲輪があったと思えるのは西山頂部(展望台付近)と亀山古墳のマウンド位です。
亀山古墳から加西のランドマーク・展望台(西山城)


西山173mの山頂に高さ 20m程の展望台が市街地を見下ろして建っています。亀山からは尾根や山腹を這う遊歩道が山城への登城ルートにも見える!!?。亀山古墳(市指定文化財)は上鴨里と下鴨里にまたがる亀山の頂上に築かれた古墳で眉びさし付かぶとなどの副装品の出土によって全国的に知られる亀山古墳は5世紀中・後期に築かれた円墳
原谷居館から西山城を望む:西山城とセットの居館か?

で墳丘は玉丘古墳を見下ろす標高163mの山頂にあり、岩盤を削って造られた約50u、高さ7mの円墳で裾には円筒埴輪を並べられていた。昭和12年(1937)調査では墳頂部の埋葬施設2基から三角縁神獣鏡・短甲・眉庇付冑等の甲冑類・刀剣槍類が出土し東京国立博物館・京都大学に保管されています。玉丘古墳よりも新しい5世紀後半の首長墓と考えられています。
原谷居館

地方では首長墓としての前方後円墳があまり築かれなくなるが亀山古墳では当時の支配地域が一望のもとに見晴らせる場所に大型円墳が築かれ、この時期の首長墓のありかたを知る上で大変貴重な成果が得られました。埋葬施設は墳頂の岩盤を堀り込んだ土坑墓2基のうち1基は、南北に造られた長さ4.4m・幅0.8m・深さ 0.76mの竪穴堀り、その上に7枚の板石で蓋をした特徴のあるものです。
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西山・展望台173m〜岩高神社往復

「いこいの村はりま」を基点として遊歩道が整備され展望も楽しめる西山(展望台)〜亀山古墳を周回するコースが一般的で急斜面の下降から始まる展望台からの北尾根へ向かう人は殆どいないかも?。
岩高稲荷

急斜面の下降が終わると驚くほど長く平坦地形の幅広い尾根が続く ランドマークの展望台が建つ西山山頂は西山城跡と云われるが展望公園の整地・造成によるものか周辺に城遺構は3〜4本続く竪堀(畝状竪堀!!?)らしいものを見るだけ。其れに比べれば此の平坦地形のまま起伏する尾根上は 、いかにも曲輪!?。平坦な尾根筋の北方では北条町側からの広い登山道を併せると、緩斜面の登りとなり朱の鳥居を潜る。小さな祠から更に山腹を捲きながらしばらく進むと「正一位岩高稲荷大明神」の赤い幟旗と石造祠と狐像が大岩を背にして祀られる。
西山・展望台と北条町側参道の合流点から 岩高稲荷への鳥居を潜る

広い山道は岩高稲荷社への参道で此処でUターンすることになるが、背後の丘陵はこの先・北尾根先端を中国自動車側に落とす。尾根から笹倉町側の東山麓の貯水地側まで降りてみたが猛烈な薮潜りだけで登り返して西山山頂東下・亀山への縦走路に出たが西の北条町側に下れば原谷居館近くに降りられた?のかもしれない。

原谷居館  xx xxxm 加西市北条町古坂原谷

西山のランドマーク展望台から亀山へ縦走の散策整備道を辿って公共の宿「いこいの村はりま」へ降りてくる。此れから向かう原谷居館は此処から約1km程。細い地区道を抜けるので土地感もなく駐車スペース探しに気苦労するくらいなら…と徒歩で行く。
棚田3段目?の溜池(棚田の上なら納得だが?)

管理施設から逆池沿いに南方を走る県道24号線手前、西山城の在った丘陵西面を山裾沿いに廻り込み、唱験山報恩寺(日蓮宗)への参道前を西方に進む地区道を採る。
民家の庭先からの土塁道・平坦段

南側に溜池を四つ程見て山側の墓地沿いの道に入ると前方に幟旗状の鉄ポールが立つ〇〇事務所の立て看板と溜池が有る。溜池の山側北と西面に建つ宅地の間から丘陵側に数段の耕作地が見える。集落沿い南北に約120〜130m・丘陵側斜面に50m程の一帯に、
田圃とみんかの間に氏神を祀る

4〜5段の棚田を並べ棚田境の南北両端の民家側の竹薮内にも、高さ3m程の切岸加工された段差を伴う平坦地形や竪堀状の溝も、潅漑用水や宅地造成によるものかは不明ながら、
土塁内側は雑木薮(曲輪だったか?)


原谷地区の棚田を囲んで竹林や雑木林が広がる一帯が居館跡とされる。西山城の西側山麓に位置する場所にある居館だけに 西山城の城主の居館・・・西山城はその”詰城”セットと考えるが築上時期・目的・城主名に関する詳細は一切不明です。



殿原城(笹倉城・笹倉構居)   城山 89m  加西市笹倉町字東カイチ・長濱家住宅(屋号を「本丸」)

西脇市方面からは県道24号線で加西市に入り、 北の殿原町から中国自動車道の高架を南へ抜け出た処が笹倉町の加西IC。其処から真西約400m程の地点に「方形館城」の殿原城が在りました。民家敷地内と裏山で且つ薮の中で遺構の確認も侭ならない様子と聞いていたが、以前より何かと情報をいただくM氏より笹倉城内の竹薮等が伐採されている旨のメールを受けた。
屋敷〜極楽寺跡の土塁・空堀(主郭南東)

個人住宅建設・開発の計画があるようで予々:赤松氏に仕えた在田荘の土豪:笹倉氏と東播磨八郡の領主:赤松(在田)氏には、特別な関心事もあって早速・殿原城(後の笹倉城)を訪城した。加西市教育委員会資料からは中世城館遺跡として平成20年発掘調査された様子。県道24号線の加西ICから約400m程南下した1つ目の笹倉交差点を右折、
竪土塁虎口(主郭北東角)

道なりに進むが地区内の道は狭い。東端の外周道を進むと城主の後胤長濱家屋敷前を通る。城域の北東角に当たる所に露岩を彫り崩した石段から切通し状の通路(大手門や虎口なら出来過ぎの感あり!)を上がると長濱家屋敷とともに城域だった北隣の畑地に入る。畑の持主さんは城域の伐採理由をご存知ない様子だった?。
車道からの切通し入口「本丸」側畑から…

空き地に近い畑!!と屋敷続きの西側は3m程の段差の切岸、此処も主郭に入る東角は短い竪堀状で、此の堀底道と竪土塁が虎口を形成しており土塁の一角に地神(城神社?)の小さな祠が祀られています。此の祠から南端の稲荷社(松仲大神)裏・極楽寺側の土塀へと空堀と土塁が走る。途中から西へ主曲輪切岸 (2〜3m下)沿いの帯曲輪を浅くなった?横堀が
竪土塁虎口(主郭北東角)


主郭西北端の櫓台(高さ1.5〜2m 約10u程)下まで延びています。南北に走る空堀が主郭部と「本丸」屋敷を区分し、さらに空堀から主曲輪切岸下部(南の広い帯曲輪内)を東から西・更に北側に回り込む横堀があるが竪土塁虎口から空堀を越える北東角から主曲輪東切岸沿いからは、もう一本通路 (横堀?)を抜けて南東端で・枡形を一折れして主曲輪に入る虎口構造になっており空堀通路に沿い螺旋状に本丸に入っていく渦郭式縄張が見られ、残存状況からは最後の笹倉城の姿を留めているのでしょう。
落水滝の上は土塁続きの土塀で仕切られ、空堀と帯曲輪がある

以前の竹薮の中では此れ等の遺構を目視で確認出来る状態ではなかったが造成開発の為の伐採で調査後消滅する運命にある遺跡は多く、当地区の貴重な歴史証言の消滅なので残念な結果にならないことを願います。城域南の極楽寺から西北面の民家背後にかけては垂直に近い4m以上!? の高い切岸に囲まれ、
長濱家の池泉観賞式古庭園

幅狭い地区道が南北に抜ける”在田小路”があり、ほぼ中央には玉垣に囲まれた神水井が有る。石部神社と皇塚古墳に関係する元正天皇の皇女が此の井戸の水を用いた伝承が遺ります。殿原城を目指す目標となる地区内の極楽寺前から北に入る細い道が長濱家に通じ庭園案内説明板が立つ。市指定(平成4年3月24日)文化財長濱家古庭園で同じ様式手法の「内藤家庭園」と共に知られた存在。時折・庭園等の史跡見学会が催されているようです。
東から見た渦郭式縄張の笹倉城

江戸時代中期の築造による池泉観賞式庭園で裏手の城山斜面を生かし築山として取り込まれています。城山より流れ出る水を落とす落水の滝として景観を鑑賞する様に作られた藩政時代の庄屋家の庭園として当時の面影を遺す貴重な庭とされます。城山とはいっても屋敷から笹倉城の最高所・櫓台までの比高は15m程。
落水の滝の水源は「抜穴伝承もある」此の掘り抜き井戸か?

滝筋のとなる溝谷(長さ10m程)の奥には以前から残されている土塀(瓦か板屋根だったか?)が見える。土塀は主郭西から北へ回り込む広い帯曲輪をわける空堀の土塁に繋がる。土塀に西側は高く垂直に近い切岸5m程下部が極楽寺(浄土宗)と接している。溝谷の途中・右手に朱の鳥居と稲荷社の祠【松仲大神】が祀られ2m程?下に幅1m程の掘り抜き井戸が有る。
帯曲輪から:主曲輪南東角切岸沿いの横堀

城から屋敷内の城神社の下へ抜け穴が通じていたと伝承されるものですが北端の櫓台からでも距離は僅か100m程・比高は約5m程。何よりも方形居館の現状縄張りは櫓台・曲輪の切岸とその直下を土塁囲みの空堀・横堀が主郭・帯曲輪を囲む。竪土塁沿いの虎口遺構等は在田氏2代で滅んだ殿原城のあと赤松一族別所祐則の弟別所(赤松)弥四郎祐利が旧殿原城を修復して笹倉城と改めた際の遺構なのでしょう。現在の長濱家屋敷は帰農して旧地に戻り建てられたもの。
帯曲輪から主郭南端の空堀大土塁と土塀(左端は松仲大神)

庭池から3m程上に有る井戸が抜け穴?説は無理っぽいが井戸の湧き水が池泉観賞式庭園の水源となっていたのかな!!?。観応2年(1351)足利尊氏が弟・直義(ただよし)と対立した「観応の攪乱」では光明寺合戦(滝野町)に赤松(円心)則村の嫡男赤松美作権守範資(のりすけ:黒崎山城主<たつの市>)と其の子赤松(在田)肥前守左衛門尉朝範(朝則)が尊氏に付いて直義軍の石堂右馬頭(石塔頼房)・上杉左馬頭等5千騎と相対した戦いの武功により東播八郡を領して西播磨から東播磨の在田庄(加西市殿原町付近)に居城を移して殿原城(笹倉城)を築き
帯曲輪から主郭北東端へ延びる空堀大土塁と中央に松仲大神

有田(在田)氏を名乗ります。南朝方の山名氏に対する北の守りとして多可郡に貝の城・段の城霞ヶ城(徳平氏)や比延山城(西脇市・本郷氏 )を築いたのもこの頃か?。在田左衛門督重友も延文4年(1359)年築城計画し貞治元年(1362)野間山城を完成させています。文和4年(正平16 1355)摂津国の神南山(高槻市)の合戦に出陣し山名時氏と戦い九死に一生を得た在田朝範の後、殿原城二代目を継いだ子の則康は度重なる戦乱に早世し、
笹倉城:南から西に回り込む帯曲輪と主曲輪・櫓台

二代で滅び三代(朝範の孫)朝完(光)の時には既に高田城(赤穂郡上郡町)へ移って姓を高田の改めたと云われます。其の後東播磨から北播磨へと覇権をめぐり急速に勢力を拡大してきた別所氏と旧赤松家。東条谷の依藤氏とも結び対抗するが永禄9年(1566)野間城を退き在田氏は別所氏に併合され永禄11年(1568)本貫地の在田荘に退居させらます。有田(在田)氏の遺業を継ぐべく赤松一族別所祐則の弟別所(赤松)弥四郎祐利が旧殿原城を修復し笹倉城と改め自ら笹倉姓を名乗り後に篠倉孫四郎を称します。
主曲輪切岸下の横堀と帯曲輪(南東角)

其の子新次郎兵庫頭則実・則氏・則秀と続き5代目城主兵庫頭則賢の時:天正6年(1578)に始まった中国平定の為「毛利攻略」では羽柴秀吉と・別所氏重臣の軍議による 意見の対立から三木合戦が起こり則賢一族は別所長治に付いて三木城に籠城するが天正8年(1580)1月則賢も一族と共に自刃します。則賢の子・則知は父の自害した短刀を持った乳母に連れられ、密かに城を出て近江長浜(滋賀県)に逃れ・復権の時を待つが其の機会もなく当地に没し、
主郭の櫓台

その子:平左衛門が(年代不明)帰農して旧地に戻って笹倉城の一画に家を建て<屋号を:本丸>近江長浜に因んで・長浜 (長濱)姓を名乗り先祖の霊を祀り寛文10年(1670)に没したが則賢自刃の短刀は家宝として大切に受け継がれていると云う。なを笹倉城主の子孫・長浜常三郎氏が明治時代中期:立杭(篠山市今田)の陶工を雇い入れて始めたといわれる亀山焼がある。
(小野市史・加西郡史・兵庫県中世城館荘園遺跡 等参照)


広原城  xx 141m   加西市広原町川内東町・佐谷町森脇

西脇市から県道24号(多可北条線)で 市境の峠を加西市に下ってくると満久城(ゴルフ場の丘陵)を南に、北には普光寺奥の鎌倉山の岩磐が見えてくる。此の鎌倉山から南へ延び出す丘陵尾根先には河内城が在ります。河内城は河内町と佐谷町、県道沿いには別所町があって佐谷城・別所城の別名でも呼ばれます。地名を姓とした別所氏や佐谷氏が居たかの詳細は知らないが平安時代末期:永暦元年(1160)頃・赤松源太夫季則の次男 別所刑部大輔頼清が在田荘の別所に移り、別所姓を名乗って最初に築城した別所氏発祥の城とも伝えられています。「小野市史」の南北朝時代の節の目次に 赤松氏と東播磨地域の「佐谷政尊と公文職争論の結末」の項があった。
広原城!?左遠くに芥田城・右の山の方が城山らしいが・・?

加西市史と共に未読なので別所氏・赤松氏の台頭・・と合わせ関連について調べてみたい事柄です。”在田荘”からは観応2年 (1351)光明寺合戦(加東市滝野町)に足利尊氏に付き、戦功により東播八郡を領して殿原城(笹倉城)を築き西播磨・竜野から移った赤松(在田)朝範の持城となったのかも!?.。嘉吉の乱・応仁の乱以後も山名氏との但馬国境・生野の真弓峠の戦いに大敗を喫した播磨守護赤松政則を追放し赤松家は分裂!。在田左近将監則盛が山名氏に付き但馬境の野間城を本拠として貝ノ城・段ノ城(多可郡)を築き移っていくが、別所氏も文明3年(1471)別所則治(?:則定か)が三木城を築き移ります。
唯一:城遺構らしい土橋付き堀切?

別所の地名は別所氏というより飛び領地を示す”別所”とも推察します。そう考えると別所氏の家臣「佐谷氏」が 留守将として居城していたのかも?。河内町と境する西に佐谷町があり広原城は此の佐谷町と広原町を分ける比高40m程の低丘陵部の北方の頂部に在ったとされ石部神社から県の遺跡分布図を頼りに行ってみた。城域の丘陵は東西を佐谷川と芥田川に挟まれ、丘陵南端から約800m程南で万願寺川に流れ出る。北尾根続きの無名峰275mの山容の方が格段に山城風情だが其の丘陵鞍部を抜けて佐谷町・広原町を繋ぐ地方道があり、小峠の電柱(ケタ No17・E9)の側から鹿除けフエンス沿いの山道に入る。
広原城!:頂部から南北尾根筋・西に拡がる平坦地形

低丘陵ながら佐谷側(東)と北は急斜面。尾根筋に土橋付き浅い堀切と思える地形を見る。堀からの段差は1〜2m程の所もあるが城遺構と思えるものはこれだけ!!?。此処からは南へ延びる主尾根筋も北へ延びる尾根へも広々とした平坦地と緩斜面が続く。植林帯の中では展望もなく城は要害でもなく丘陵を挟む川沿いの街道が要衝とも思えないが在田氏の本拠野間城(多可町八千代区)へ抜ける山越えの間道がある。山城遺構に手応えのないまま広原城を後にしたが遺跡分布地図を改めて見直すと丘陵南麓に広原城の関連と考えられる居館らしい遺跡がある。
丘陵南の下降点に祀られる養父:山野口大神

佐谷城ではなく広原城の名からも芥田川沿いに多可郡八千代への街道監視と佐谷川沿いに鎌倉山と峠越えの間道・河内城関連の通行の監視が主の「関所城」?的な二つの街道の合流点付近に位置する広原の居館遺構を中心に「詰城」というより兵の駐屯基地的な広原城は生野峠を越えてくる生野街道に次いで、山名氏に付いた在田氏を警戒しての別所氏方監視所だったのでしょうか?。しかし丘陵南部でフエンスを出たところに祀られている祠には山名氏領地:但馬の養父郡の「養父山野口大神」とある!!?。以前訪れた芥田城の遺構も満足なものではなかったので此処と併せて再挑戦するつもり…

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