「悠遠の荒れ果つ城跡や夕日秋」梨ノ木峠~烏帽子山/烏帽子山城・八幡山段城
丹波市・福知山市  (五万図=福知山)
Ⅰいきものふれあいの里~~烏帽子山城 (513m) H12/4/9
小牧・石仏~烏帽子山城~三国境尾根鞍部~下戸 H13/09/23
いきものふれあいの里~梨ノ木峠~烏帽子山~万歳山 H14/3/9


「もののふの通い路ふりてつつじ燃ゆ 烏帽子登山口の碑

近畿の山城  烏帽子山城(小牧城) 八幡山段城(仮称)
十二支の山  :烏帽子山.酉
ふるさと富士烏帽子山(丹波富士)
福知山側豊富で丹波富士と呼ばれる
校歌・故郷の山 烏帽子山 福知山・上豊富小 ♪姿も気高き烏帽子岳を朝夕眺めて・・・♪


府境尾根上の黒井城支城 烏帽子山城  2000年04月09日
  
”道の駅あおがき”から 大箕山(丹波富士)を望むながら、山垣の工事用林道を15分で「いきものふれあいの里 」駐車場に到着です(AM9:40)。山に向かって数本の散策コースが整備されています。館内では氷上郡内の自然をビデオ紹介・淡水魚の水槽展示等があり子供連れでレクリェーションに訪れる人が多いスポットです。九ノ尾の里休憩所から林道を進んで石仏のある終点で 正面山道に入ります(AM9:55)。
梨ノ木峠~烏帽子山稜線から

途中にふれあいの里へ通じる散策道が 2個所あり、この散策道の展望所辺りから尾根通しに進むのが正解だったかも。梨ノ木峠は石仏の右手の谷を渡るのが正解だが、烏帽子は左手方面なので正面の山道に入ってしまった。 道が無くなったり藪漕ぎで遠回りのような気がしたが、何とか尾根に辿り着くと道がはっきり??してきました。すぐに猛烈な急登になりますが抜けそうな草や折れそうな枝も、強い味方になってくれます!!。登り切ると突然平坦地となり 東の肩に到着です。山頂への5~80m程の間に掘切りが2ツある。烏帽子山(3等三角点 513m AM10:35) は京都府側に展望が開け、城址の記念歌碑が建っている。「悠遠の 荒れ果つ城址や 夕日秋」 と、もう片面にも「えぼし城 睥睨(へいげい)山河 春浅く」の2句が刻まれています。山頂から北へ明るい広い尾根? 数段の曲輪址を経て明瞭な道が続きます。すぐ間近のピークも気になりますので行ってみます。 どうしたことか急にテープが目立って続きます?。しかしこのテープも気になる山の手前の枝尾根分岐辺りで消えてしまう。何処に向かうのでしょう?。この山は福知山市側から登ったほうが面白そうです。 恐らくはそちらに向かうのでしょうが下降・登りのコースに続くテープは見当たりません。左右に尾根を分ける無名峰は福知山市・夜久野町・青垣町にまたがる三国境の山です (477m AM10:55)。
烏帽子山山頂の歌碑

北東へは尾根を千原峠へ下るようですが道はなくても辿れそうです。 烏帽子山とこの三国山鞍部へ引き返して谷筋へ下降開始です。このコースは踏み跡さえありませんが藪こぎは有りません。10分程度で砕石場の中央部へ出てきます。R421号からも目立つ場所だが登り口としては不適です。砕石場中央への 侵入もさることながら短い谷ですが複雑で同じような谷・同じような水量の谷が幾つも分岐します。又そのまま詰めてもこの鞍部には辿るのは余程読図に慣れていても難しいと思いますよ。うまくいって三国山?へ突き上がれれば大正解です。 工事用林道を15分で「いきものふれあいの里」駐車場に到着です。(AM11:30)


丹波富士と小牧城(烏帽子山城)を小牧から 2001年09月23日

一度は辿ってみたいと思った福知山市側・小牧から幾つかのピークを経て 辿り着く急斜な今回コースを尋ねて狭い榎峠を越す 国道429号線で 青垣町佐治へ抜けて帰るつもりです。今年の春に何処かお目出度い山へ登ろうと 高砂峰へ行き 降り道を誤って福知山側の榎原~談 ~法用から延々歩いた国道道ですが今回は車。途中の談から直進して小牧への道を辿ります。集落を抜けようとする頃、左手の大きな駐車スペースの端から苔むした2m幅の道が山に向っています。入り口には「是より拾八町・烏帽子山城址」を示す石碑が立ち、 傍らには「此の上 蘆田持家烏帽子山陣跡」の石標柱も有る。
烏帽子山登山口にある石碑

車は作業車が止まっていたので20m程先の廃車 ?置場(AM10:15)のある広場へ入れて戻り始めると手前に谷に沿って細い道が同方向に伸びているようですので、この細道に入ると直ぐ石標から続いていると思われる広い道に出ます。枝谷を越えたて程なくして谷筋の道は 消えかかり踏み後程度になりますが、どうやら右によりすぎて進んでいたようで、稜線近くなってから合流した山道は明瞭で??何処で外れたのかと訝しく思えるほどの確かな道が小牧に向って降っています(AM10:35)。是よりは思ったとおり 展望も楽しみながらの林間の急登 ・尾根コースです。台形状の烏帽子山頂部の城址の右肩には三国境?(青垣・夜久野・福知山)の無名?ピークが見えます。 急登で梨木峠側からの尾根と合流し(AM10:55)程なく二つの空掘りを越して烏帽子山山頂(3等三角点513m AM11:05)に着きます。
小牧からの尾根上から烏帽子城址と無名?Ⅲ境界(青垣・福知山・夜久野)ピーク

欠けて角が丸くなった三角点の側には烏帽子山古城跡の石標に(上記Ⅰコースに記している)歌碑が刻まれています。樹間越ですが展望は良く鬼ヶ城や三岳山 ・龍ヶ城・姫髪山・和久山・親不知等が見渡せます。府県境界尾根を北西へは数段の曲輪址を経て明瞭な道が続きます。前回先鋒の気になるピーク途中の鞍部から右手の谷筋へ下っていく踏み後は、やがて荒れ放題の使用されなくなった林道に出ます(AM11:35)。 草茫々の林道から農地に出て下戸集落へ出たところに大きな石碑が建っています(AM11:55)。コスモスと石碑をバックに烏帽子山が見えています。石碑には「もののふの かよい路ふりて つつじ燃ゆ」烏帽子城跡へ1.5kmとあります。 此処からの道が大手道だったのでしょう。春日町側からでは、はいつくばってもズリ落ちそうな急な尾根でしたから…


 梨ノ木峠~烏帽子山~三国境の山~万歳山(420m)~山垣城址へ 2002年03月09日

烏帽子山と万歳山を繋いでの縦走はスンナリとはいかなかったが目的を完遂した。 R427号線で遠阪トンネルに向うと山垣の手前で「いきものふれあいの里」の案内板にしたがって、 此処の駐車場に到着しますAM8:57)。 万歳山の丸く突き出した山容と烏帽子山の間 (烏帽子山は山影で見えないが)には大きく山肌を掻き毟られ山の形も無くなった採石場も間近です。
睥睨(へいげい)山河春の霧に浮ぶ和久山

コースⅠのとき、烏帽子山から下りでは谷に沿って 直接この採石場へ降りてきました。ジャリジャリと霜柱の立つ駐車場西の九ノ尾の里休憩所を抜けてゴミ焼却場への林道を進んで石仏のある終点に着きます(AM9:03)。前回は石仏の左から正面の山道を入り、 藪尾根と急登のコースだったのですが、今回は石仏の示す「左ふくち山」の古い峠道を進みます。篠竹が生い茂る藪道に古の面影など殆ど消えかかる峠越えの梨ノ木峠(AM9:10)への道です。梨ノ木峠からは府県界尾根で、 切り開きとまではいかないが明確な踏み跡が続くる。尾根筋は山肌が崩れているところもあるが潅木と自然林の尾根からは樹間越に、未だ霧明けやらぬ福知山方面には和久山が、一際大きな親不知や五台山辺りは霧晴れ美しい山容を見せてくれます。 雑木の尾根が少し緩やかになってくると三国境のピークと烏帽子山が見えてきます。小牧から登ってくる急斜な尾根(コースⅡではこのルートで登ってきた)と合流(AM9:30)すると大江山方面、三岳山等の山々が姿を見せてきます。 鬼ヶ城~烏ヶ岳や姫髪辺りは、直ぐ近くの山なのに霧で僅かに頭を出しているのが確認る程度です。顕著な二つの堀切の先が烏帽子山山頂(3等三角点 513m AM9:45)です。山頂から北へは、数段の 曲輪を経て明瞭な道が続き最低鞍部から【Ⅰ】では青垣の採石場へ下ったが、 登り返して尾根が急に北に向うコーナーからの尾根伝いは【Ⅱ】で小牧に下ったルートです。 そのまま北への尾根筋は自然林の中・倒木を掻い潜って進みます。
報恩寺からの万歳山と山垣城 :正面奥に烏帽子山への府県境尾根

三国境は青垣町・福知山・夜久野町の境界で、 尾根通しには赤い境界ポールが建っていますが何処までも辿っていては遠阪峠にまで延びています。遠望の利かない三国境の最高地点を通り過ぎてから万歳山の姿を確認して戻りますが、 取り付く尾根がどれなのか分からず、谷筋から尾根へ尾根から 又次ぎの谷へ繋いでいる間に、烏帽子からの尾根に戻っていました。釈然としないまま1時間ばかりを浪費して三国境の最高地点477mに到着です(AM10:35)。ピークの少し西に南尾根が見えるので雑木の薄いところを下り始めると標識ポールを見るようになる。 藪尾根の下りでは何度も有らぬ方向に踏み出してしまいます。今回のルートは万歳山からの逆コースが分かりやすくて正解です。ただし此方のコースも万歳山(古いアンテナ等が捨ててある丸いドーム状の山頂)の先からは最高ピークに向わず山腹を捲くように 左手の道を伝うのが正解ですよ。段々道がハッキリしてきます。左の尾根の先が明るくなっているので辿ってみると採石場の頭部に出てきました。目指す万歳山は右手の尾根の先です。又も斜面をトラバースして尾根に乗ります。
・・・・以降のREPORTは万歳山・山垣城へ引継ぎます・・・・


 烏帽子山城 八幡山段城(仮称)


烏帽子山城(小牧城・烏帽子城)  烏帽子山 513m    青垣町山垣・福知山市小牧

青垣町山垣と福知山市夜久野町の境界にあり、丹後や奥丹波からの侵攻に備えた足立氏の本拠山垣城の支城(砦)として、 鎌倉時代中期に烏帽子山(513m)山頂に築かれた烏帽子城 (小牧城)があります。氷上・後屋城主・赤井越前守時家が烏帽子城の内藤法雲を攻め落とした天正期には、黒井城主・赤井(荻野)氏の台頭により、その傘下に入ると黒井城の見張り所となり丹後街道 ・丹波道の守備にあたった事でしょう。 また山上には金の鶏が埋められ正月の元旦に鳴くという「金鶏伝説」も伝わっています。 足立氏の遠見場所として山頂からの展望は良く、京都側は麓の豊富や夜久野・梁瀬・佐治方面を見下ろす位置にあって穂壷城主・赤井忠家の子 ・葦田(赤井)時家が築いた烏帽子城は天田郡(京都府)からの侵攻に備え、また進出拠点ともなった城砦の一つとして物見・烽火台を持って機能していたのでしょう。
万歳山付近の採石場頭部より烏帽子山

天正年間(1573~1592)には奥丹波の三郡を支配しその軍勢は丹後・但馬へも勢力を拡げ台頭してきた氷上郡(現・丹波市 )黒井城主赤井(荻野)悪右衛門直政の持城となって、此処に城塞を補強修築されたのでしょう!東の稜線上に二箇所の堀切が山頂から北西に数段の曲輪遺構が残り、更に三国境のピークに続く広い鞍部付近が”水の手”の様です。 天田郡側小牧への尾根上にもさして広くはないが”馬かくし?”といわれる平坦地が有ります。烏帽子山には姫荒神社の祠が有ったといわれますが、天正の兵乱(此処では天正3~7年の明智光秀の丹波黒井城攻め)に何処の城の姫様か供も連れず、 落人の身には風の音にも怯え・そぼ降る雨の中を青垣町佐治と山垣の中程から榎峠を越えて天田郡法用へ抜ける間道を落延びてきたが、気兼ねして民家に立寄ることもなく辻堂で雨を避け暫し身繕いしながら休んでいたが、其処へ数人の武士が・・・。 覚悟は決めていたが哀れその場で首を打たれてしまいます。「惨いことを・・」「どこの姫様か?」「泰平の世なら幸せな身の上を・・あたら戦国の世に生まれたのが不運というものじゃ・・・」「気の毒な姫の菩提を弔うてやるのも功徳というもの・・」村人達は国境 ・榎峠の北尾根続きにある烏帽子山祠を建てて 冥福を祈ったという姫荒神社です。
(由緒を尋ねて 丹波新聞社 昭和31年発行版から)


八幡山段城(八幡ヶ段城)<仮称>  段山? Ca270m   青垣町遠阪

但馬・朝来市へと遠阪峠を越えるR427号線を挟んで東に遠阪小学校・西側に 八幡神社石鳥居があり、正面の高い石段を登りきった山腹に拝殿・社殿が建つ。山垣地区の産土神を祀る八幡大神社で、往古は背後の丘陵上”八幡ヶ段”というところに 社が在ったと云う。神社へは以前:山垣(遠阪)郵便局前から唐鍬古墳(青垣町指定)を訪ねた際・神社境内に寄った事が、此の神社背後の丘陵上に遺構の保存状態も良い城郭の 存在を知らなかった。
遠阪郵便局前から望む八幡山段城

旧氷上郡(丹波市)の遺跡分布地図に標記は無く、郷土誌史類や足立氏関連資料にも此の城の存在を記したものを知らない。直ぐ北方 300m程に在る松倉城に比べれば八幡山段城<仮称>の出曲輪・出城の存在とさえ思えてくる。中規模の山城ながら主郭背後の掘切が尾根左右の斜面に落ち込む両端部が土橋状で、堀切というより空堀に見える。
切岸高く広いニノ曲輪から主郭:南端通路から石積残欠?(右手前)を見る

何よりも 竪堀となって落ちる堀切両端の土橋には石積が観られる特異な縄張り遺構が果たして足立氏の城なのか?、足立遠元の叔父に足立(安達)藤九郎盛長がおり、陸奥の安達郡 (青森県!?)を領した足立一族が中世後期・理由不明ながら丹波に来住していたのか!!?。それとも香良合戦後に足立氏・芦田氏を傘下治めた?黒井城主:赤井氏による 但馬境の監視警護に築いた城なのか?。
主郭と堀切側の大土塁櫓台

小さな部分だが見慣れない遺構に興味は湧くが蒐集 ・分析資料も無く・知識も無く・好奇心だけでは築城主や城史の追求も出来ないもどかしさだけが残る。R427沿い鳥居の北には養父蕎麦で知られていた蕎麦屋 (店は在るが営業は?)や駐在所(更地になり現:南の郵便局東に移設)が在った。其の北方・平地公民館の先で西に折れ山道に向かうと 松倉城が在る。八幡山段城<仮称>とは小さな山間を隔て直線距離約300m程の位置。
主郭大土塁と箱堀南端の石積土橋?

共に本拠城の山垣城へは遠阪川を挟んで東に約800m程で 呼応する山垣城の城砦群の一つとは推定出来ます。八幡神社から猪鹿除けゲートを開閉してフエンス沿いに広い平坦地形に着く。 ”八幡ヶ段”と呼ばれた旧神社跡は此処か?。平坦な尾根は直ぐ急傾斜となり突然・上方に曲輪の切岸を見る。周辺の城砦群では 田の口城・大和田城に次ぐ縄張り遺構を遺す支城が人知れずに眠っていた。
主郭北東角からニノ曲輪

田の口城の様に城域四方を堀切で遮断する程の 堅固な防備ではないが大和田城に似た梯郭式縄張りで曲輪も広く切岸も高い。尾根側の空堀外に平坦な曲輪をもつが先の切岸下部も瘤を越えると尾根先に更に平坦地形が有って二重堀切?のように見える!?。主郭櫓台大土塁西側切岸下部は堀切というより、堀切両サイドを土橋(上り土塁)状に区切った空堀で、竪堀となり落ち込む南側土橋外側には 石積さえみる特異なもの?。
主郭切岸下の箱堀北東端石積土橋残跡?と土塁小曲輪

石積み土橋はそのまま主郭切岸下を犬走り状のテラスを通って東側二ノ曲輪に繋がる。空堀北側土橋からは・主郭を東〜南〜北へと半周して 上り土塁を主郭に入る構造らしい!!?。丹波市内に余り例を知らない箱堀で、 尾根筋ではなく、南斜面の竪堀から侵攻する敵も詰めで垂直に組まれた石垣で阻止されては、簡単に突破出来ず ・・・単なる?堀切に比べ 非常に有効な防備施設に思える。
主郭箱堀?外の土塁小曲輪と 尾根続きの空堀

山垣は足立一族の元祖で武蔵国足立郡を領し、北条氏に仕えた豪族久保田(足立)遠元<1120頃~1207頃 >が足立姓を名乗ったと云われ、全国足立家の遠祖とされています。 鎌倉幕府の要職にあったが北条氏の台頭で源頼朝時代勢力を失っていくなか、遠元の孫で遠光の息子・北条氏に仕えていた 足立(久保田)左衛門尉遠政が承元3年(1209) 中央から遠く離れた丹波(氷上郡佐治郷)の地頭職を任命されて 関東から佐治庄小倉に入部し、後に山垣の萬歳山に山垣城を築いて移り此処を本拠とし、 周辺に多くの支城や砦を築きます。
主郭西面の切岸と空堀

元弘3年 (1333)4月南朝方の千種忠顕に従い幕府軍と戦って六波羅を攻めたが京都で破れ、荻野・児島・本庄氏等敗軍約3000を集めて 高山寺城に拠り、その後足利尊氏の丹波国桑田郡篠村での挙兵には呼応しています。元亀2年(1571)城主足立基晴の時、出石の此隅山城主・山名祐豊が夜久野城主・磯部豊直等と丹波に侵攻し山垣城は落城しますが、山名氏に内紛が起こり退き返した為に城を回復し、本城の山垣城周辺の支城(遠阪城・小和田城等)の守備を 強化してきた事でしょう。しかし天正7年(1579)の丹波攻めでは 羽柴秀長軍に尽く落とされ12代370年間統治してきた歴史を閉じます。
主郭櫓台大土塁と主郭(東斜面から)

山垣城は西丹波の奥部に位置し但馬国境の遠坂峠に近い交通の要衝にあって 戦国時代末期には 黒井城荻野(赤井)直正の強大な勢力の傘下に入り国境警備の任に当たり 烏帽子山城・遠阪城・ 田の口城 小和田城の四城と共に足立氏一族が 守っていたと伝えられています。赤井・荻野・久下・余田氏等氷上郡内の多くの城とも和睦・対立していたはずですが、長年統治できたのは佐治郷が氷上郡の西北部の独立した地形にあったこと、京都府・但馬国境の山々に 囲まれて侵入を阻止出来たこと。 良政により領民から慕われたこと等があげられます。
主郭東中央からニノ曲輪

足立遠政の 4代目(遠政の孫・光基の三男)の遠渓祖雄[1286-1344]は高源寺を開創しており崇敬されたことも大きな要因です。山垣城の落城は天正7年(1579)5月18日「丹波攻略」の大将 :明智光秀の援軍として、但馬から遠阪峠を越えて侵攻してきた羽柴秀長の大軍により芦田氏の遠阪城・山室城(東芦田城)・栗栖野城と共に12代足立弥三郎基助の守備する 山垣城も落城した。


万歳山報恩寺(臨済宗):万歳山山頂(報恩寺山)は足立左衛門尉遠政が山垣へ移ってきたとき、万歳山報恩寺を建立し祖父の遠元 ・父遠光の追善供養のために建立した足立一族の菩提寺です。山垣に本城を・小倉・小和田・奥塩久・遠阪・徳畑 ・稲土に出城をおいて、現在の佐治、神楽、遠阪を支配すると共に、この出城に一族を配置していたので、その子孫がそれぞれの地区に足立姓を名のります。天正7年の明智光秀の”丹波攻め”に援軍として加わった 羽柴秀長により
万歳山報恩寺

落城 ・報恩寺も焼失したが文禄3年(1594)福知山市長安寺の2世:閑翁教和尚により現在地に再建され嘗ての寺跡:万歳山【広い平坦地形の山頂部が寺跡だったか?、 山頂平坦(20X30m程)部四方を取り囲み囲む2-5m程の帯曲輪と北への尾根続きに腰曲輪・・続いて何箇所かに観る極小規模の平坦地形が古い時代の城遺構に思える。山垣城築城の頃・此処にも城砦が築かれ、 山麓の低位置に在る山垣城からは望めない・佐治から遠阪への入口を監視や・足立氏諸城への(知らせ指示等)旗城として万歳山城(砦)があったのかも!!?】 山垣城を望む高台に在る。

 本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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