榎原城・ヒエガ谷城・口榎原砦・滝山城・姫髪山城・六十内城樽水城/姫髪山・和久山
福知山市 (五万図=福知山市)
T長安寺〜姫髪山・ひろげ峠〜和久山〜十三丘 2001年09月23日
近畿の山城: 榎原城 ヒエガ谷城 口榎原砦 滝山城 姫髪山城 六十内城 樽水城

榎原城登城口より奥榎原地区 (右端しの親不知605m)

丹波市青垣町東芦田から府県境の穴裏峠を越えて山城のある奥榎原〜口榎原を訪ねた。 芦田氏の本拠地東芦田城(山室城)から穴裏峠を越え榎原川に沿って下ってくると青垣町佐治から榎峠を越える R429号線・和久川と合流して更に和久川沿いに下る丘陵に位置する諸城が芦田氏と関連ありそうで
榎原城の堀切:主郭側に幅広の虎口と土塁状土壇(櫓台跡か?)

其の中間に位置する榎原の山城も芦田氏に関わる城ではないかと訪ねた。 口榎原から穴裏峠にさしかかる奥榎原集落へと向かう。峠入口付近には瑞雲寺の石垣に使用され運ばれたと思われる石材は 此処からと思える…?近年まで稼動していた採石場跡が車道側にあり其の少し先に石仏が祀られている。
姫髪山城:尾根南先端部の曲輪・露岩の櫓台状マウンドから

現在は穴裏峠トンネルを車道で抜けるが 旧道は前を歩く人の尻の穴が見える程の?急斜な山道だとして付けられた名が「あなのうら峠」だと云う?。其れほどに厳しい府県境の山を越えた先の榎原は山峡の僻地に在って「平家の落人伝説」が残る土地柄です。


T長安寺〜姫髪山 ==拝師〜ひろげ峠〜和久山〜十三丘   2001・9・23

青垣町から穴裏峠のトンネルを越え福知山市街地へと 和久川沿い429号線に合流すると姫髪山と和久山が前方に見えてきます。姫髪山東斜面には昭和27年(1952)から毎年8月16日に行われている行事”送り火”の火床「丹波大文字」の大の字がはっきりと映ってきます。
429号線・天照から望む姫髪山

登山口・長安寺に向って走る:医王山長安寺 (臨済宗)は西国第26薬師霊場で用明天皇の第三皇子麻呂子親王(聖徳太子実弟)が大江山の鬼征伐の途・戦勝祈願の為薬師如来を刻みこの地に奉祀されたのが沿革の始まりで中世に栄えていたが応永年間(1394)火災で焼失、文明6年(1474)悦堂禅師が諸国巡錫の際、再建し禅宗に改め瑞風山長安寺と改称されました。
姫髪山:大文字焼きの火床と長安寺

その後も戦乱期に再三焼失したが天文13年(1544)福知山初代城主・杉原家次 【豊臣秀吉の正室”寧々(ねね)”の叔父で秀吉の家老】の帰依より山号を医王山と改め再々創建されています?。境内は市立長安寺公園となり「丹波のもみじ寺」として知られてます。天文13年が示す内容は不明だが天正7年 (1579)横山城を落し大改修して福智山城と改名した明智光秀は天正10年(1582)本能寺の変に信長(爆死した筈!?)を討つが、 山崎の戦いに小栗栖(京都西山)で暗殺されたとされます。
姫髪山の南尾根直下350m付近:2段程の曲輪と堀切状地形 2011.4

福知山城は豊臣秀勝(秀吉の甥)が、次いで天正11年(1583)杉原家次が城主となるが翌年に病没した?事になっています。その後:小野木重勝が城主となっており杉原氏を初代とする根拠は不詳だが 家次の五輪塔が祀られています。姫髪山へ
早朝の参道を紅葉の名所として知られいる長安寺へ入って行きます(AM6:45)。 駐車場から本堂に向う途中には六つの島に区分けされた島に西国観音霊場の石仏が祀られています。
250m付近(北郭)の段曲輪・西面の帯曲輪2011.4

霊園に通じる林道を辿り墓地の端・登山口に倒れた案内標識には「姫髪山・ふるさと探検隊」と書かれています。 さらに急な林道が上方に続いているがモノレール施設の小屋から山道となります(AM6:55)。ツリガネニンジンやキンミズヒキの咲く小道を稜線に出ます。三角屋根だけの物置小屋からは大文字の火床の草地まで続いた道も大文字の頭部分から奥へは藪の道だがなんとなく高みに向う判然としない踏み跡を辿れば展望のない潅木の中の姫髪山(丹波大文字 3等三角点406m AM7:20)に着きます。
大文字(姫髪山)頭部からの展望 福知山・由良川沿いは霧の中

近畿の山研究xxxの柳内氏の名詞がありJR上川口方面から登り長安寺へ降ると記されていました。三角点は少し北西側潅木の中、平坦なので城址があったと言われれば不自然でない雰囲気です。 蜘蛛の巣払いながら大文字の頭に戻って休みます。此処は展望良く鬼ヶ城の端・福知山市街地から綾部方面かけては 霧が晴れずまだ海の底の様子です。大江山方面から丹波氷上との境界尾根の親不知辺りは指呼の間にある。長安寺駐車場(AM7:50)からは大門へ向けて新道を429号に出る彼岸花の奥に
姫髪山山頂 2011.4

藪の和久山(高平たかへら)を望みながら拝師で右折して 直進する道は姫髪山を右に・左に和久山を見て峠を越します。和久山(高平)へ十三丘(とみおか)へ降る峠の左手に進入禁止の鎖のある林道があり、此処から山へむかう事にします。 駐車は地蔵尊の祠の先に スペースが有り車を寄せておきます(AM8:00)。山影も見えない林道歩きで 途中の林道分岐を 南へ直進して林道終点へ。此処から谷通に道は無く踏み跡も直ぐ消えてしまう。谷通しは藪がひどすぎて駄目です。進む方向とは離れていくが左左と潅木の隙間の広い処を尾根に向います。
烏帽子山頂からの和久山

尾根に出ると歩きやすくなるのが普通だが境界ポールの側へも 寄れない程!!背丈を越す篠竹や棘の混ざる雑木になります。何とか鞍部にたどり着きCa360mピーク(AM8:45)に登りつめると後は、いつのまにか踏み跡も段々ハッキリしてきて、いつしか荒れてはいるが九十九折の道さえ現れて…和久山(高平 2等三角点472m AM9:00)ピークに辿り着きます。三角点施設の櫓跡らしい丸木等が散乱して 中に三角点標石が埋まる。
ひろげ峠地蔵尊・此処から林道歩き

周辺に何等人工的な音は聞こえず・展望もない静かな樹林の中の山頂からは下降点も尾根筋も 判然としないが赤ポールを見付けて降る事にします。北へ向う尾根は左側の尾根へ移るほど藪が薄くて歩きやすそう だが早く 右への尾根を見つけて、出来るだけ直近の東へ向う尾根と考えるが斜面は急で境界を示す赤プラポールも 倒木の陰やブッシュの中では探すだけでも厄介です。
429号線脇のマンジュシャゲと和久山

藪中のポールを 見失っていたが山腹に続く山道に出てきた。上方に送電線が見えますが その下辺りへ出てくると道路は舗装道となり、もう利用される事もないだろう飯場・作業小屋が在る(AM9:35)。この林道から一般車道に飛び出すと十三丘(とみおか)集落の 最奥部で、峠の駐車場までは7〜8分で帰りつきます(PM9:50)。次の山は榎峠を越えて兵庫氷上へ帰る前に、談から小牧に入り丹波富士の烏帽子山に向います。



 榎原城 ヒエガ谷城 口榎原砦 滝山城  姫髪山城 六十内城 樽水城

榎原城 xxxx Ca170m  福知山市字榎原・奥榎原

穴裏峠(トンネル)を越えて榎原に下る県道109号が奥榎原・榎原を抜け口榎原で和久川沿いR429号線に合流するが、古代は・名にし負う穴裏峠を越える道は榎原谷の西側にあったようで、一般的ではなく奥榎原辺りは殆ど人が入り込むこともない僻地で平家落人伝説がのこる土地。
榎原城遠望

榎原城は「丹波志」に古城主榎原氏代々の居城とあり、福知山の民話には第50代桓武天皇の6代:平左馬允(陸奥守)貞盛【父国香の敵:平将門を天慶3年(940)攻め滅ぼした】の四男で平安時代の部将で伊勢平氏・常陵介平維衡(これひら)を祖とする平(女院判官)親盛が堀河天皇 (在位:1087-1107)の長治元年 (1104)2月敵に追われて奥榎原の地に逃れ来て公会堂の近くにあった榎の洞穴に
榎原城城域東南端:主郭東下曲輪に入る上り土塁

身を隠したまま倒れてしまいます。翌朝:追っ手が此の洞穴にもやってくるが洞穴の入口に蜘蛛の巣が張っているのを見て人が隠れている筈はないと思い、中を検(あらた)める事もせずに帰ります。おかげで命拾いをした親盛は榎原の地に住み城山に城を構えて農地を開拓していきました。此れが「榎原」の地名の語源とされています。**只1104年頃は康和の乱(1101)に源義親(よしちか)を追討した平正盛により伊勢平氏が台頭してきた次期。出雲国にいた義親追討の正盛軍により義親の乱が鎮圧されたのが天仁元年(1108)。平一族の親盛が奥榎原に敗走してきたという要因は 何なんだったのだろうか?。
榎原城主郭東下:腰曲輪の土塁(土塁道)

穴裏峠を北に抜けた処からは九十九折れの坂道を下り豊富用水池から流れ出る榎原川に沿って山峡の谷間を降って来る最初の集落が奥榎原で、其の細長い集落の中程・西側丘陵に見える墓地の上方に位置する標高160m(比高約70m)山頂部に主郭を置く榎原城がありました。東西約120m・南北約30mの尾根上を城域として上辺約5〜7m・深さ3m程の二つの堀切が城域を三つに区分しています。集落側にある東郭が中核部で東西約10m・南北約20m程の主郭を置く。
榎原城中央郭西の堀切

曲輪を区分する低土塁が0.5m程の段差をもち西側に低い小曲輪が付き、此の小曲輪と西の堀切の間にも土塁状の高い盛土があり、其の南側の広い通路が堀切に繋がる。南下から斜上してくる登城道も此の堀切に至り、中央部の曲輪と主郭側に入る虎口が南隅にある。土塁状の幅広の盛土上には虎口の防御と見張りを兼ねた櫓台か木戸門の跡なのかも知れない?。主郭部の北から東にかけては 約4m程の段差で幅4m程の帯曲輪が東〜南側へ廻り込み其の下方にも細長い帯曲輪が見える。北東角と東側にも一段低く腰曲輪が付き、東縁の一部に低土塁の跡が残っている。
榎原城主郭北面の帯曲輪(東北端の腰曲輪側から)

墓地から続く大手筋と思える東からの登城道は、先ず主郭側帯曲輪の下にある幅5m・長さ15m程の腰曲輪【東隅に井戸跡とも思われる落葉で覆われた窪地と其の外側には土塁跡らしい遺構が残る】に入るか斜上して主郭と中央郭との間の堀切に出て、此の虎口より各々の曲輪に入ることになります。主郭側の堀切西側には南北約10m・東西に10mと12mの僅かな段差で曲輪が二つ並び堀切に落ちている。此の中央郭にも主郭のみ礎石らしい残石を見るが中央郭には愛宕社か?祠が祀られていたようでコンクリート片が見られた。刻印も何も無い自然石が礎石の上に立てられていました。
榎原城西郭(尾根筋から馬場跡?)

尾根幅一杯に平坦な曲輪が二つ並んでいるだけだが北面の西側端に一本だけ幅1.5m程の竪堀?が落ちている。此の曲輪西に堀切があり、西に細長い尾根筋が延びて堀切から10m程先・南側下方4〜5m程には 馬場跡風(幅15m程・長さ30m程?)の平坦ではないが広く長い削平地が延び、先細りする先端部付近からは 段差も小さくなり尾根筋お広くなって 合流するが何処までも緩やかな尾根道となって地山とも曲輪跡とも区別出来なくなる。尾根筋を土塁とみなした根小屋跡?とも思える様な平坦地も見る。東西の延びる尾根に沿って直線的に延びる榎原城の城域を二本の堀切が曲輪郡を三つに分けるが南東側の榎原株の墓地から通じる大手道を
主郭から堀切側虎口(左)と櫓台跡?(右)

最初に入る東の曲輪群が切岸を持つ曲輪・帯曲輪・腰曲輪・土塁遺構や井戸跡らしいもの…と最も防御施設を施した遺構を残していることから当初は其の一帯だけが「詰め城」だったが、ある時期に西方へと拡張したものと推定されています。永禄8年(1565)3月に黒井城主:赤井悪右衛門宗重が芦田治郎太夫為家・足立右近介光永・久下越前守重氏・長沢日向守等と図り、場内から竹田七郎信達の手引きもあって横山城(福知山城)を攻めたという。史実かどうか?此の頃なら芦田氏配下にいたものか?。

福知山城の医薬門移築(観瀧寺山門)

横山城の塩見氏方にいれば戦闘記録が伝承でも残っていそうなものですが…。また天正年間・明智日向守光秀「丹波攻め」には光秀に付き、 信長より領地を安堵されたようだが民間に降り帰農して子孫有り…ともいわれます。中世の山城遺構を顕著に残し平安時代の平親盛伝説〜榎原氏代々の居城と「丹波志」に記されているが、此れ以外の城主や城史は不詳の城です。
(福知山市史を参照)


ヒエガ谷城(ヒエガ城)  xxx Ca160m   福知山市字榎原・口榎原

R429号から 穴裏峠越えの府道109号に入ると榎原集落の東南(左手前方)の丘陵上に名刹:瀧山観瀧寺(高野山真言宗)の堂宇が見える。元:瀧山(鉦鼓山?)山中にあった山岳寺院が兵火や雷災による焼失等で度々移転し北山麓の現在地に在り、市の重要文化財となっている大きな観瀧寺山門(薬医門)が 福知山城から移築されたものらしい?が南側墓地側にも一寸不釣合いな風格の山門が建つ。
愛宕社の下方にも 広い曲輪を見る

左右に塀を廻せば此れも移築された城門と思えますが詳細は不詳…(^^ゞ道を隔てた西南方には緩やかな円錐状で標高160m(比高約100m)の低丘陵があり点名:榎原244mに向かって尾根を延ばしている。 福知山市教育委員会の遺跡分布地図の城域としては此の点名:榎原一帯をも含めた範囲となっているが今回は手前の円錐形の山頂部Ca160mまでとします。 此の山上に東西約35m・南北40m程の広いが 削平荒い平坦地が主曲輪です。
観龍寺:福知山城移築門?から望むヒエガ谷城

主郭を中心として東面角から南面は急斜面で輪郭の帯曲輪が土砂で埋まっているのか不明です。此の部分を除き三方を取り囲む二段の帯曲輪が廻っており 最下段を空堀と外縁は土塁を築いて防護する構成の輪郭式で、 約80〜100uを城域として、ほぼ方形の曲輪を配置した中世城郭遺構を残すヒエガ谷城(ヒエガ城)が有りました。
主郭を囲む二段の輪郭

「戦国・織豊期城郭論丹波国八上城遺跡群に関する総合研究」の付録地図集の「丹波の中世城郭T」には山垣城・黒井城 ・岩倉城・福知山城に囲まれた中に数多の城郭が犇めく中にあって 「ヒエガ谷城」の名だけが記されている.。以前より興味を持っていたが 「福知山市史」により縄張り図付で位置も判り榎原城と共に訪城した。ヒエガ谷城へは榎原川を対岸へ渡る為、
ヒエガ谷城:北側の土橋付空堀

橋か渡渉点を探して北裾の集落内を廻り、山に入る鹿避けフエンスを開閉すると急斜面に鉄パイプで 簡易手摺りが設えられた愛宕神社に至る参道だった。 神社祠の下方10m程には北面から西面にかけて広い曲輪が有り、麓からではなく、 神社から続く尾根筋から戻り気味に曲輪へ通じています。 山仕事や 神社関連の平坦地では無さそうで、此の尾根を辿ってヒエガ谷城北端の土橋付空堀に着いた事からも愛宕社からが大手筋の様で、
西面に土塁・空堀から二段の曲輪を経て主郭に入る

神社と此の長く広い曲輪は居館・里城 ?的な性格をもつ施設ではなかったかとも思われます。榎原城と比べれば縄張り的にも・土木工事の規模からも 数段大掛かりですが、此の城もまた記録・伝承共に不明の城址ですが、天正期の明智光秀による「丹波攻略」の頃にも使用されていた城とは思われます。 比較的広い曲輪を持つ主郭と 輪郭式の帯曲輪、其の周囲を廻る空堀という単純な縄張りながら空堀や土塁を廻す縄張り・丹郭の方形曲輪自体が丹波市側の城には珍しい形です。
南側の帯曲輪状から西 〜北面にかけて廻る土塁空堀(横掘り)に入る

天田郡の豊富谷(榎原・小野脇・天田・新庄へと和久川沿い一帯)へと侵攻した氷上勢(現在丹波市)の 向城となったものとも推察されているようですが黒井城主:赤井(荻野)氏が天田郡を領した頃、但馬の勢力が侵攻してくる天田郡側の街道筋を警戒してのものか?。 天文23年(1554)1月:黒井城主荻野秋清(才丸の叔父)を殺害して城主となった荻野(赤井)悪右衛門直政が天田郡を含む 丹波三郡を領していた頃の縄張りとは考え難い。単郭や輪郭式・しかも方形曲輪や、
ヒエガ谷城の広いが粗い方形主郭

曲輪の一部には有っても曲輪を囲む程の土塁が 築かれる城砦の例は殆ど見ない?。むしろ京都丹波の天田郡側の土豪によるものではないだろうか?。あるいは、北方1km地点にはR429号線を挟んで口榎原砦が在り、口榎原から西方 6kmにあった烏帽子山(512m)に芦田氏の小牧城(烏帽子山城)が在って天田郡側からの侵攻を警戒しての城だったのか?南北朝期に繋ぎ (連絡用)の小牧の城は赤井(荻野)悪右衛門直正の持ち城となる。烏帽子城(小牧城)もまた戦国期には赤井(荻野)勢の連絡・福知山(天田郡)側監視の砦として利用されたものと思われます。榎原城にも記したが 永禄8年(1565)3月に 黒井城主:赤井悪右衛門宗重が横山城(福知山城の前身)に侵攻した時には付城として、天田郡を領した黒井城主の持ち城として東芦田城や 烏帽子山城の支城となったのかも!?
和久川沿い及び :榎原川河口からの口榎原砦

北に土橋付空堀から入る大手道があり主曲輪が西面から南面に廻り込む主曲輪の西南隅には1m程の段差で腰曲輪が付いており、帯曲輪から主曲輪に入る虎口受けの曲輪になって搦め手口を固めている様です。帯曲輪部分には段違いや仕切りが見られます。この様な輪郭の曲輪や横掘り遺構は福知山市内の牧城にもあると云い、三岳山への登山や天寧寺付近の城城砦探索時にでも訪城してみようと思います。
(福知山市史を参照)

口榎原砦  xxxm  福知山市榎原・口榎原

丹波市青垣町佐治は但馬・丹後方面に向かう府県境尾根を背にした丹波最北端の宿場町だったところ。全国足立氏の祖:足立氏の本拠山垣城の西を遠阪峠を越えて但馬へ抜ける山陰・但馬道(R427号線)、南方を榎峠を越え豊富谷(和久郷)へ下る和久川沿いを 丹後・若狭へ抜ける佐治街道(丹後道・R429号)が通じる口榎原集落は芦田氏の本拠城:
主郭三方に空掘を廻す口榎原砦

東芦田城(山室城)から府県境の穴裏峠を北に抜けて下ってきた合流地点に有ります。奥榎原の榎原城から口榎原のヒエガ谷城に寄って429号線を東の市街地に向かうと先日訪ねた奥野部城・新庄城・半田城等の諸城が和久川沿いにあり、上流に向かっては 小牧集落の西方・府県境尾根に芦田氏の烏帽子山城が在るが口榎原交差点の
主郭切岸に接する和久川側土塁線

直ぐ北方200m程・榎原バス停の北にあり和久川の支流榎原川と堺川が合流する地点、左岸(北岸)に比高20m足らず上から見ても?周囲から見ても 半円状の独立小丘陵がある。其のほぼ中央部に天満宮の祠が祀られた南北に約35m・東西25m程の平坦地を主郭部とする口榎原砦の遺構が残っています。
空掘に架かる土橋(手前)上り土塁虎口

南面の和久川を濠と切岸に・他の三方も田畑に囲まれてはいるが円墳状の急斜面。単郭の主曲輪までの東面から北-西面に掛けての斜面中程には土塁・空堀を廻し、北側に畑地・西側には土塁状の土盛のある栗林となった平坦地は居館跡かとも思える。此処から主曲輪に向かうと 竪堀状に傾斜して南方に延びる空堀を見る。
空堀と外縁の土塁:正面に土橋(上り土塁虎口)

空堀の外縁を 土塁が囲い空堀の延長線上は西面を北面に更に其の端東側へ少し廻り込んで終わる幅3〜5mの輪郭の帯曲輪。佐治街道(R429号)を挟んで南方に位置するヒエガ谷城とは呼応して、榎原氏や其の同族の城砦とおもわれ・規模こそ違え同形式の遺構です。城史・城主等は一切不明だが街道監視の砦だったか居館跡かも定かではないがヒエガ谷城と セットで考察する城郭遺構と思われます。

(福知山市史を参照)

観瀧寺跡と滝山城(観瀧寺城<仮称>) 瀧山・鉦鼓山 Ca325m 福知山市奥榎原

丹波市青垣町東芦田から穴裏峠を越えて福知山市榎原に下る県道109号線は、榎原集落中程から小野小町伝説の残る小野脇・正明寺を経て篠尾でR9号線に合流するルートはR175の塩津峠越えルートより親戚への短絡コースなのでをよく利用する。R9号線(山陰道)からなら:新庄で左折し和久川沿いに今安を経て西へ約3.5km程遡ると口榎原地区で直進すると榎峠を越えるR429号線(旧来の丹波・丹後を繋ぐ街道筋)と、穴裏峠を越える県道109号(穴裏トンネルにより和久川支流の榎原川沿い(口榎原-奥榎原へと谷筋)の集落を経て丹波市青垣町へ抜けるのが、
不動尊と鉦鼓滝

車幅もあって・ごく一般的ルートになっているが、其れ以前は牛馬も通れない「尻の穴が見える」…!!程の急な穴裏峠の語源が伝える程の難所なので、奥榎原で行止り状態!!?:更に峠への通行者は殆どなく平家落人の隠れ里伝承が真実味をもって伝わる。榎原氏についての詳細!?は榎原城の項を参照願います。以前より廃寺となった拝師郷 (拝師荘・榎原荘)上豊富村 (奥榎原含む)に在った”瀧山観瀧寺”については、此の拝師郷の北に接する旧和久郷(下豊富村)側の住人で以前より山城情報ではコメントを頂いていた
観瀧寺!!:西郭部主曲輪南面石積と西に拡がる曲輪群

HN”べーさん”より観瀧寺跡縄張り図・レポート等報告を受けていたのを参考に早速出掛けてみた。榎原氏を祀る榎原神社(石鳥居だけが立つが !?)・奥榎原公民館前の地区道を府道109号に出た所で府道は榎原谷川に架かる橋を渡り返す。府道を穴裏峠側へ遡ると奥榎原バス停前に着く。つい数年前オープンした喫茶店[木楽里](きらり 土日のみ営業)があり目印になるかも?。
西T曲輪内の堂宇?石組礎壇跡?

奥榎原バス停から約150m程下手・公民館側から府道に出て左(南)へ約50m程。榎原川に流れ出る溝谷沿いに榎原鉱山跡(詳細不詳)へ 林道が延びている。すぐ左右の丘陵山腹を抜けるコンクリート製配水路を潜る。穴裏峠のトンネルを抜けると豊富用水池側を通るが、榎原から今安・市寺・正明寺にかけて下流に水量の少ない弘法川はあるが・目立つ水流はなく丘陵山腹を掘り抜いた疎水トンネルにより小野小町所縁の今安・正明寺側へ送る用水路か?。
西郭部主曲輪 :西面切岸の土留石・曲輪は北面のも廻り込んで…

此の先で分岐する林道の正面は鉱山跡へ、左折する直線道の終点 (右折して斜上する林道も此処までか?)。 谷沿いの山道の取付きに”←不動尊と鉦鼓滝”の標識がある。2年前(2014)豪雨の爪痕を残してか!!谷筋は荒れ2-5m程の連瀑帯側に唯一設けられている鎖場も山道は崩れ歩き難いが先に祠が見えてくる。祠前は広場だったと思えるが川床は大きく刳られ崩されている。先ず行者堂(役行者と法道仙人の区別が付け難いが観瀧寺開創の法道仙人でしょう。
西T曲輪からU曲輪への切岸

像の両肩付近には空を飛び「空鉢仙人」とも呼ばれ翼紋様が彫られている。其の谷正面奥・滝を背にして不動堂が建ち拝所横には頭部や片足が欠けているため、汎ゆる魔や迷いを調伏すべく・怒りの形相を浮かべている不動明王の尊顔を拝することは出来ない。右手から腰の辺りまでも 欠けているため 煩悩や因縁を断ち切る三鈷の剣も確認できないが、左手には羂索(悪を縛り ・煩悩から抜け出せない人々を救いだす)縄を持つ。不動堂背後の滝が谷入口部案内板にあった鉦鼓滝なのでしょうが
西Uから西V曲輪へ…

更に奥の方にも同規模の滝が掛かる。不動堂・鉦鼓滝の上方に今日目的地の旧観瀧寺跡があり東西150-200m以上に規模で山上に展開する大規模な山岳寺院だが福知山市の埋蔵文化財・遺跡関連のリストや 遺跡分布地図等に触れられていないので”丹波志”以外の記録 ・情報は不詳。大規模山岳寺院の堂宇群にあっては本堂跡と思われる規模の1番大きな曲輪が 最東端部にある。此処から東へ廻り込んでいく踏み跡の先が不動堂から続く谷上流部だが水量も谷の様相も殆ど同じ岩場の谷筋に出ると、
西U曲輪から西へ左右曲輪間を延びる土塁道

上方にも鉦鼓滝?クラスの落差の高い滝が見える。水場が近く・修験の滝行場があり・大人数でも長期山上に篭もることができる恵まれた環境にはある。不動堂・法道仙人像の近くの案内板
(市史からの転記?)には郡<福知山市も旧天田郡>西国11番札所で、御詠歌か!?「年を経て 絶えしとぞ思うたわむれは 千瀧の山に ひける白糸」と読まれている。法道仙人像側・観瀧寺説明板に戻り、急斜面の薄い”つづら折り”の踏跡を追って登り切ると尾根上の観瀧寺域西側の最重要曲輪南面に
西郭部西末端部の一文字土塁…

唯一?残る高さ1.5m程の石積み前に出る。 三方の曲輪に入る虎口受け曲輪のようで正面斜上して西郭部の主曲輪へ、左手は西へ延びる広い曲輪に入り、右手は寺域西側?主郭部の長い切岸(約5m程)南下を・堀切で区切られる東端まで延びる帯曲輪に入る。帯曲輪東端は堀切で遮断されるが、西主郭部から東へ延びる土塁道の先は高低差のある土塁と 東に続く曲輪間が空堀で、南端が帯曲輪に岸を切り落込む。二重堀切を呈しており 堀切東側の一条は削り残しの土塁か?。
西郭末端:削り残しの曲輪より土塁

此等空堀部より東は縄張り構成が異なり、 梯郭式に曲輪を4-5段積む・本来?の山岳寺院跡の様子で、虎口や東郭主曲輪の入口部には5-6段の石段跡残石があり、観瀧寺本堂跡と思われ且・大規模寺院建築物があったと想定出来る礎石も並ぶ。東南端には朽ち倒壊し屋根だけが残り、近年まで祀られていた祠・堂が土砂等で埋もれかけている。此の大曲輪の6-8m上には5m四方の一堂宇跡曲輪がある。 山城なら櫓台・総指揮台!!?か。城郭化された西郭部・山岳寺院の東郭と区分して推定してみた。
西V曲輪側から:左右曲輪間に延びる土塁道

瀧山観音院観瀧寺(高野山真言宗・本尊:千手観世音菩薩)は養老年間(717-724)創建と云い法道仙人の開基を伝える高野山谷ノ上宝城院末で、 (法道仙人なら十一面観音か聖観世音かと?思うが…)縁起には仙人が瀧山の峰に鉦鼓の音を聞き山にわけ入ると、白滝が掛かり高く険しい岩上に朴樹(エノキ)の大木が光明を放っており鉦鼓は此処にあった…と。仙人は禮拜し昼は誦経・夜は座禅し、其の結願7日目の夜に千手観世音菩薩が出現。汝の来るのを待っていたとのお告げにより、このエノキ(榎)で千手観音像を彫り、
西郭主曲輪から東延びる土塁道

堂宇を築き衆生を済度(迷いの苦しみから衆生を救って悟りの世界に渡し導く)するため此の山を鉦鼓山と呼び・寺を瀧山観瀧寺と号した。宝亀元年(770)光仁天皇<天智天皇の孫>の勅願所となり寺領100石(榎原村の石高900石)を賜ったとも。鉦鼓滝前の観瀧寺説明板<平成3年6月>には弘法大師(空海)の巡錫も伝え寺運最盛時には山上に本坊・尾崎坊・長尾坊等七堂伽藍の堂宇が建ち並び、山麓には尼寺もあったが天正13年(1585)兵火により寺坊は盡く焼亡した。火災を免れた”大悲(衆生の苦しみを救う)観音”像を奉じた中興の祖大徳成遍上人により谷の奥(観音谷!?)に堂宇を建て遷され、
土塁道末端は櫓台土塁と空堀

慶長年中(1596-1615)再び現在の地?に移された。嘉永元年(18489)雷難により焼失 ・安政3年?(1856)にも火災によるものか 再建されている。【参照した福知山市史の「観瀧寺」項は年号が神武天皇即位の嘗て”紀元節”による 年号のため西暦に修正して表示した】なを旧観瀧寺廃寺から北西に延び出す尾根末端裾に当たる奥榎原公民館近くには石鳥居だけが残る榎原神社があり、所在地が榎原村城山・神社跡は定かでないが[丹波志]に榎原氏の氏神であり奥榎原の地を拓いた平親盛?を平氏の祖神として祀ったものと思うが「榎原神社縁起」によると維忠・盛秀・盛房を三社として祀っている!。
西郭側から東郭を分ける堀切と削り残し土塁

親盛が三者のうちの一人に当たると思うが不詳?。鳥居だけで社殿のない丘陵先端部が城山なら祖霊を祀る奥津城の意味か?。奥榎原には榎原氏の榎原城と滝山城が[丹波志]にあり、瀧山観瀧寺の直ぐ西側丘陵上に在るヒエガ谷城を 瀧山城ともしていたが、丹波志に城主…以下内容空白の滝山城がある。榎原神社鳥居の先・丘陵尾根を辿ると観瀧寺廃寺に行着く。後述レポートにも寺跡は城郭化され此処が城山と呼ばれる所以か?、榎原家の奥津城?(姫路:御着の小寺氏…等)かは 不詳だが墓石・墓標類は未発見とのこと。 単に「高野山谷ノ上宝城院」末寺の意味なのか、さらには榎原城麓に祀られていた社が廃され・鳥居のみが此処に移されたとも考えられるが…。
東郭側土塁と堀切・土塁曲輪

今まで…丘陵上の長い平坦尾根を丹波市境界尾根・親不知(605m)から北へ直線距離で役600m・其処から東西・更に西端から北へ延び出す比較的緩斜面の尾根と思っていたが 探索位置は更に其処から西へ落ちる尾根先:標高300m(比高約210m)付近の尾根上だった。
滝山城(観瀧寺城<仮称>)として…詳細な観瀧寺跡縄張り図や レポート画像を戴いての印象からは、瀧山の峰に展開する広大な山岳寺院「観瀧寺」ではあるが、曲輪の配置や、榎原谷(府道109号)を挟んで 榎原城と正対して呼応する位置にあり、寺院としては最高所の東側一帯が本殿側・堀切と空堀で二重に区分された西側一帯は寺院が城郭化され、
東郭の上り土塁状・曲輪3-4段を連ねる

更には山城として改修された瀧山城と考えてみたい。(現:瀧山観瀧寺にほど近いヒエガ谷城が瀧山城と思えたが旧観瀧寺廃寺跡を山名から瀧山城または鉦鼓山城を仮称したい)西郭部の 西先端には尾根幅一杯に、露岩混じりを切り崩して造成された幅約5x4mの一文字土塁は櫓台として・更に西一段下にも小曲輪があり土塁(土壇)を狼煙台・西下の曲輪は狼煙用の各種用材(煙の量や色を 調整するため?)の確保・保管した 曲輪とも考えてみる。観瀧寺は天正13年(1585)兵火により焼亡したとある。
東郭;連続する曲輪がを繋ぐ上り土塁

前年の天正12年羽柴秀吉VS織田信長の子信雄(大和宇陀松山藩・孫に当たる信休が後期柏原藩主として入部している)・徳川家康の間で 起こった小牧・長久手の戦いには 兵庫丹波でも家康方に呼応して黒井城 余田城に籠城した一揆勢力があった。戦いは秀吉方が勝利しているが、家康方について参戦したものに赤井時直等がおり、幕末まで旗本や大名家の家臣として 赤井一族存続の功労者とされる。,此の戦いに 秀吉方として参戦していた武将に淀城等を守備していた小野木重勝がおり、其の功によるものか?翌:天正13年福知山城主として入部している。
東郭の土塁

:小野木氏によって織田信雄や家康に付いていた領内の一揆衆探索による報復だったか?。観瀧寺が僧兵を擁する程の大寺院であったかも、一時的にも城郭化され・国人なり或る勢力が籠城した…等々の史実は 一切不明なのだが。「丹波志」寺院の部には奥榎原の上滝山城の脇に在った観瀧寺は 後(兵火焼亡も中興・再建されているが…)口榎原の地(現在の瀧山観瀧寺)に移ったと記されている。 また古城の部として榎原村には城名のみの滝山城と、城名はないが古城主榎原氏代々居…の二城が記されている。榎原氏代々の居城は奥榎原の 榎原城、市文化財分布地図にはR427に出て口榎原城と現在の観瀧寺西・ 榎原谷(府道109号)を挟んで ヒエガ谷城の存在が確認されている。
東郭の観瀧寺最大規模曲輪に入る石段跡

瀧山観音院観瀧寺の山号から、ヒエガ谷城を瀧山城とも推定していたが 此の山塊に滝名を冠するほどの谷があるとは思えない。今回(2016年5月末)旧観瀧寺跡を訪ねた現地状況や旧山名からも、上記レポートの殊に 鉦鼓山と呼ばれた尾根上に展開する観瀧寺縄張りを二分する二重空堀から西側一帯を瀧山城ではなく 丹波志に記される滝山城 (観瀧寺城<仮称>)と考えます。築城目的や城主等の城史一切・天正13年の兵火が「小牧・長久手の戦い」が 全国的に波及して起こった一揆に関連付けてみたが、
東郭主曲輪の端にも更に一曲輪(堂宇跡か櫓台?)

もとより史実等は未確認。榎原城とは丹波市境界の穴裏峠に通じる谷を挟んで正対する滝山城だが、穴裏峠のトンネルを抜けた丹波市側の南方丘陵上に
穴裏峠城(仮称)がある。芦田氏の本拠小室城の支城だったか?。城主:芦田八郎金猶を祀り・芦田館跡とも云われる瑞雲寺背後から遺跡地図にも城址空白地帯に・いくつかの城砦群を経た最奥・最高所に位置する穴裏峠城は急造りな縄張りで、
上の画像:櫓台土塁から東郭大曲輪を俯瞰

明智光秀「丹波攻め」の切っ掛けを作った但馬山名氏等が遠阪峠を越え山垣城主足立氏の領地へ侵攻しているが天正7年(1579)羽柴秀長軍が若狭方面から攻め込んだ時は 一部が穴裏峠から芦田氏領へ侵入したものか?。其の際 :天田郡を領していた黒井城主荻野(赤井)直正配下の将兵が榎原城や支城?・滝山城にも詰めていたものか?。
東主郭から鉦鼓滝前と谷相・水量共に 変わらない水場がある

滝山城について合戦はもとより・城の存在さえよくは知られず観瀧寺縁起で天正13年の兵火で焼亡を伝えるが其の要因には触れられていないが、秀吉の政権下にあって観瀧寺は大徳成遍上人により中興されていることは何かヒントに!!?。 慶長年中(1596-1615)関ヶ原合戦・大坂冬の陣・夏の陣に家康が勝利した頃、 観瀧寺は口榎原の現在地に移ったという。
西郭空堀(箱堀)南下に主曲輪虎口から延びる帯曲輪

城遺構と思える西郭部は再掲になるかも…!!?。西郭の主曲輪から東へ土塁道が長く延び其の先端が櫓台土塁。其の切岸下は箱堀状(南端は土塁壁状?・切岸下には虎口受け曲輪?から延びる長い帯曲輪。 其の東に土塁と小曲輪2-3を経て尾根を断つ堀切となる。主曲輪の西側にも南北の曲輪群間を西へ・各曲輪内通過を避ける様に土塁道が走る。 尾根筋西末端には露岩部を切り崩してまで造成された幅広い櫓台付き?の一文字土塁だが、和久川沿い諸城への狼煙台としても可能!!。
現在の観瀧寺山門(福知山城の医薬門を移築)

東西に延びる尾根筋の南北は急斜面で竪堀状遺構は無さそうです?。各曲輪は夫々に丁寧な削平・堂宇跡らしい方形礎石や曲輪切岸部に散見する土留石等、中世寺院であり臨戦的に城郭化されてきた跡とも想像できるが此れ以上の遺構や資料調査は府・福知山市の専門機関での調査に期待したい。


姫髪山城  姫髪山 406m?南尾根筋247m   福知山市奥野部小字姫神

丹波市から穴裏峠を越え福知山市に入って和久川沿いのR429号線を走る。福知山市でも旧天田郡三和町方面を除き、 旧天田郡夜久野町と両天田郡に挟まれた中央部の旧福知山市に向かうのに、よく利用するルートです。R429号を市街地へと東走していると北方に富士型の美しい山容の姫髪山が山頂近くの「大」の字に朝陽を浴びてクッキリと見えてきます。
取付き付近の滝山古墳群(盗掘跡)

送り火の火床で「丹波大文字 」で親しまれ旧福知山市のランドマークともなっています。長安寺から 姫髪山山頂へは 登山道が火床の上部を経て広く平坦な山頂に通じています。(現状とは異なり・最初に登った2001/9/23頃は登山道も荒れ、 雑木と藪に覆われ ・展望もない山上への登山者は稀?で南へ100m程の大文字の火床上に出て眺望を楽しんだ)が嘗て此の山頂に荒河置山城の支城 :姫髪山城があって、
南郭:南曲輪東面の帯曲輪

城主は豪族の田村将監春梨 (後に山吹将監と改姓)が 当地に勢力を張っていた。城主の娘には二人の家老が恋をしていたが、姫はニの家老が慕っていたので、一の家老は叶わぬ恋に嫉妬のあまり主君を打ち殺してしまった。姫は二の家老と伊勢国に逃れ、その地で孝行で名高い 阿漕平次となったという!!。 丹波国天津村由来記<安政5年>の伝説は、元は元禄初年頃の浄瑠璃「阿こぎ平次」…に「…丹波の国天田郡の住人 ”山吹将監高信”は近郷をうち従え、 天田郡に城郭を構え…」とある。姫髪山の伝説は「浄瑠璃 :阿漕平次」と荒河城主山吹将監高信が山麓の常照寺(古跡)に居していた荒河伊達右衛門(左ヱ門?)によって殺害され、
南尾根南郭・露岩の櫓台状マウンド

其の余勢を以って茶臼山城(安尾城・和久城)の村上氏をも攻めた城史が 合成されて創られた伝説の様です。 現状:広過ぎる!!?平坦地形だけの山頂部を山城としたレポートはまだ知らない。…が後日:再訪して南主尾根部や枝尾根部に見、無数の段曲輪群や、 姫髪山山頂から北方へ約2kmの尾根続き標高260mには>六十内(むそち)城が在る。極小規模の城砦だが姫髪山南尾根の城砦群同様に深い堀切等で明確に城域を分けたり、
南郭:南曲輪南面の土留め石

土塁や高い切岸等で防備強化される様相は見えないが姫髪山山頂からの東尾根・西尾根上にも 曲輪群を遺す可能性も考えられます。荒河置山城の支城で、南北朝期の和久城攻めや戦国期:但馬山名氏等に対する牧川沿いの但馬街道(R9号)や 丹波・丹後街道(和久川から由良川)、 和久川から十三丘(とみおか)集落を通って牧川へ抜ける間道の四方を監視できる位置に在り、内藤氏等の守護代クラスが 利用したものか?。 丹波<丹波市>・天田<福知山市>・何鹿<,綾部市>の三郡を領した黒井城赤井氏によるものか?。
南郭・南曲輪西面の石列:手前L字型コーナー部は櫓台曲輪への石段?

室町末期の横山城(福知山城)攻め等の 陣城にでも使用され、姫j髪山山頂部を本陣として周囲四方の尾根筋に守備・防衛の曲輪を設けて布陣した大規模城砦群の可能性も推察したが!!??。 福知山市遺跡地図による範囲内の姫髪山城には遺構として土塁 ・掘割・石垣が記してあるが石垣・掘割は未発見。
南郭(北の主郭)鞍部の曲輪切岸

南郭の南曲輪群に石列と切岸に土留石を見る程度。主郭京都府下の遺跡再調査がすすめられている様ですが、此の南尾根247m三角点に南郭 (主郭)を置く城址遺構さえ、再トレース結果・前後に繋がりもなく突然の様に次々現れる曲輪群や城域を遮断・区分する堀切も無い事から、一帯は城では無いとの見解らしい。
中郭中程:東郭分岐付近に曲輪を二分する低土塁(土橋状?)

しかし姫髪山山頂466mから降る南尾根 (踏跡は下草藪の覆われて定かでない)はすぐ下方・標高約350m付近に三段程の 平坦段が有り浅い堀切状や帯曲輪状を見る。更に降った標高310m-250m付近にかけても姫髪山城主郭と思える南郭 (尾根筋南北に約150m程の城域は浅い鞍部を挟んで南曲輪群<中央付近に大石が櫓台状?のマウンド上に有る>と、切岸も明確な段曲輪を置く北曲輪群が在る)
南郭(主郭)?中郭間にも2-3段の曲輪 は山道で分断される

との鞍部までに北郭があり、尾根筋に5ー6段の切岸を落とす曲輪群・西斜面には二段の腰郭も在る此処から西南に落ちる 枝尾根に長さ約4-6m程X幅約 3-5m程の小規模ながら八段ばかりの削平段を数える。更に今回主目的にトレースした南尾根先端部付近の247m三角点に 南郭(主郭)を置く姫髪山城は此処から更に東へ延びる尾根上にも曲輪群が拡がる。
東郭の主要曲輪部(Ca200m)

姫髪山山頂東斜面の大文字が藪っぽい樹間を透かして覗き見える。南の和久寺背後の枝尾根上部の標高約220mピークの中郭と、 標高200mピークから長安寺側へ降る北への尾根筋に展開する曲輪群を東郭に分ける(遺跡再調査以前の(現:Webに公開されている遺跡分布図範囲内には入っているが
東郭の主要曲輪部(Ca200m)

再調査で確認されたとは思われるが…?)。中郭は南斜面に広い二段の大きな曲輪が有り、下段の腰曲輪(長さ約38mX幅約10m)中程から 南尾根筋を和久寺側へ下山したが、 二ヶ所に大きな三段程続く削平地形を見る。山麓の和久ー大門間の車道からも見える稜上の二段の 峰続きに有るようだが、古寺の和久寺・古刹:長命寺に 関連の寺・塔頭跡とも思えない!!?。
姫髪山の南尾根310m付近(北郭)西南枝尾根の段曲輪群(8段)

東郭は綺麗な四方形の主曲輪と明確な切岸をもつ。切岸の低い三曲輪が北に延び雑木が無ければ庭園の様な末端曲輪からは単調な尾根 を長安寺まで下降するだけの様。しかし西斜面下方の荒れ崩れて 平坦段は細狭くなっているが、西尾根側へ連絡する通路(腰曲輪)に思える。
姫髪山の中郭220m南面の削平段

藪をくぐり抜けて西北へ延び出す細い尾根上を辿ると、 此処にも連続する段曲輪が8段ある。尾根筋東面には帯曲輪が4段目の曲輪まで延び、曲輪北末端部から尾根筋西面は深い谷が 入込む自然の要害となっています。 此れ等の遺構が:曲輪間が離れ過ぎていたり・堀切等が無く関連・繋がりも不明の為か?、
姫髪山直下南尾根350m付近の 堀切から段曲輪

城遺構では無いと判断されているようですが、未調査の姫髪山西尾根を含む広範囲になるが周辺の 遺跡再調査をお願いしたいところです。築城時期・城主等の城史は不明だが豪族荒河置山城主 田村将監春梨が姫髪山城主でもあったといわれます。
姫髪山城域を抜けた350m付近の段曲輪(帯曲輪)

姫髪山城(南郭)へは長安寺南口から和久寺へ 左折して、大門との中間地点にある小峠!!?から向かった。和久寺から大門に向かう<車道に電柱:関電・和久寺 No52が立つ>小峠から送電線鉄塔側へ広い山道があるが目的の尾根には向かわず・直ぐ山裾を捲く様に進む巡視路を兼ねた道?。 踏み跡も無い藪中を尾根筋目指して登り初める緩斜面には 直ぐ数基の壊された円墳を見る。
姫髪山東郭の西郭鞍部:南側曲輪(右)は斜面を崩した仕切土塁状で切れる

近辺に10数基の横穴式石室を備えた径15?20m程・高2m程度の滝山古墳群が有る。円墳は何れも緩斜面を背に南に開口しているが、 羨道から奥壁へと炭焼窯状に盗掘されてか?・石材も抜かれてか!!?側壁から奥壁へと天井石も無く、大きな石は見掛けないが其れらしい 石材が周辺に僅かに散在している。
東郭は低段差ながら綺麗な切岸と丁寧な削平段が遺る

姫髪山城への道は 不明だが・軽い藪漕ぎで、地図を読んで247m南郭(主郭)のジャンクションピーク目指してください。南郭は二段の腰曲輪・帯曲輪上段の 雑木藪・倒木の広い平坦地の中央部に大きな露岩で堅める櫓台状のマウンドが有る。鞍部の先には明確な切岸をみせる段曲輪が有り北郭部(主郭)の広い曲輪に着く。
中郭(220mピークの主曲輪:南西面の切岸

主郭から東尾根に長く延びる曲輪(幅10mX長さ30m程)が有り、 郭から樹間越しに姫髪の大文字が見える。鞍部に堀切 ・4ー5段の曲輪を並べ、うち1段は帯曲輪が西を捲く。幅2mもない狭い尾根筋の片半分は土塁・其の下には曲輪段沿いに横堀があり、 土塁の先で屈曲して尾根に出る土塁虎口に見えるが、何処からか合流した山道か?。姫髪山南尾根直下の小ピーク付近にも、
南郭(主郭)東尾根側の切岸と緩斜な長い曲輪

先に記述の山頂直下の城塞遺構を見る。浅い堀切から北に2段曲輪と西面に帯曲輪。 露岩の多い部分はあるが石垣・石積は見かけなかったが、城域には見なかった?城域外に土塁・堀切・横堀?や虎口形状を見た。京都府では埋蔵文化財等の再調査が進んでいる様なので、報告資料等を期待して待ちたい。
(福知山市史を参照)

六十内城   xxx山 Ca260   福知山市六十内

姫髪山466mから北へ延びる尾根が十文字にクロスするCa290mのジャンクション・ピークから、西へ延び出す尾根筋が 六十内(むそち)集落へ向かう。更に北の260m峰から東の201m三角点峰を経て延びる尾根は末端を牧城の真南対岸に落とす。 福知山市遺跡地図には姫髪山城とともに此の260m峰の頂部にも六十内城があり遺構に土塁・石垣との記載がある。姫髪山城の例も有り ・土塁や石垣遺構に期待は出来ないが、地元:六十内の住人に城の存在は知られている様。
JR上川口駅前からは 201m尖峰が城址の様!!?

”登ったことはないが…”と福知山城との関連を推測される方もあった。「神社から二つの溜め池(一つは抜けているが前日の大雨で水溜まりが残る)?稜線まで山道は有る」と聞きJR上川口駅から 西・六十内集落山側へ最初の踏切りを渡る。次の踏切り(車道)が西約200mに有り、幅狭い車道が急斜面を登っていくが、 府道109号の十三丘(とみおか)に出で、南へ約3km程で次に案内予定の山崎城前から丹後街道・丹波街道の和久川沿いR429号線に通じ、北へは約1kmでR9号線に出る。
六十内城址の最高地点には 立木には熊の引掻き傷跡が残る

六十内城へは集落から鳥居マーク(熊野神社)からの谷通しに先述のジャンクションピークと六十内城鞍部の峠に出る 破線を登山ルートに選んだ。此の熊野神社の奉斎者名に桐村姓が有る。六十内集落には塩見・横山と並ぶ有力領主の一:桐村姓が多い。 六十内城の城史・築城目的は不明ながら桐村氏関連を推察してみる。間道とR9号(山陰道)監視ならジャンクションピークから西へ延び間道に先端を落とす294mピークからの尾根上が適所に思え・砦の可能性は有りそうです。
唯一!!?城址遺構を感じさせる曲輪段

建武の新政に鎌倉時代末期頃:関東御家人で常陸国に発祥した 大中臣那珂氏の後裔:大中臣那珂経久が子の宗経(金山姓を名乗る)・盛経(桐村姓を名乗る )等が一族とともに丹波国天田郡金山郷に地頭職を与えられ来住し此処を本拠とします。牧川沿い六十内と牧の粗中間点・野花から北方への車道が6-7km程で大呂地区に入り天寧寺【宗経の嫡子宗泰が金山氏の氏寺として建立】付近に金山城 ・天寧寺城・桐村城を築いています。
腰曲輪から 城域中央部北斜面の竪堀(自然地形の崩壊地)

金山氏は足利将軍の奉公衆として勢力を奮っていた天文年間?頃を頂期として、 戦国期には庶流の桐村氏が台頭し主家の金山氏を押さえて統治している。戦国期は丹波守護代:内藤氏(八木城主)の幕下で活躍したが塩見・横山氏に属して黒井城主赤井氏の天田郡侵攻の抗争に敗れ、永禄年間には衰退した様ようだが、 丹波平定後の明智光秀により旧領地を回復したが、やがて帰農し此の地に土着したと思われます。六十内城も北山麓の牧川沿いの山陰街道を望み、 野花から府道528号が大呂地区・金山郷に通じる南玄関口であり、丹波修験道の三岳山東山麓を抜け丹後与謝野町・京丹後市へ向かう街道の監視所?。同じく六十内・JR上川口の北、
六十内城主郭切岸東から北へ腰曲輪が捲く

R9号線と分岐して北上するR426号線も三岳山の西を通って豊岡市に入る但馬道の間道?。 山頂部の東西約70mX南北の尾根筋の約10m程の城域には、自然地形で段差や切岸も曖昧で曲輪とも判別し難い平坦地形?を見るだけ。ただ最高地点の東から北面に腰曲輪状・西方に一箇所だけ?曲輪らしい曲輪?(約20X幅15m)が高さ 2m程の岸を切る曲輪に南端から斜上して入る通路が有る。此の上段の曲輪北面に4X5m程の腰曲輪状が、城域中央付近の北斜面に自然地形の 崩壊した溝が竪堀状に落ちる。
六十内城:主郭切岸北面の腰曲輪

六十内城から北東へ延びる尾根上の 201m三角点峰の方が監視地点としては適所と思われトレースしたが、其の中間部のピークにも遺構らしいものは無い。尾根を辿り東末端R9号線側の狭間城を狙ったが、尾根を辿るには遠く諦めて北方の十二へ降り立った。 (六十をムト…と呼ぶように特殊な呼び名が有るかとおもったが変哲の無い”ジュウニ”だった)。
(福知山市史を参照)

樽水城  xxx山 Ca160   福知山市樽水

丹波市青垣から福知山市側へ・いつもなら県道109号を穴裏峠越えで榎原に出るが、遠坂から朝来市へ抜けるR427号の中佐治から榎峠を越え法用へ・談で府道526に合流するR429号線 (和久川沿い丹波・宮津・丹後を結ぶ旧街道?)を利用するが、山間部途中に宅地もない林道然として・対向車に出会うと難渋する狭い国道です。 ゆずりトンネルが開通して夜久野方面に抜けるには近道?かも!!。
樽水城北端への取付点

府道に合流するT字路付近の談地区に”談城”が在った様だが未だ位置等は不明。 此れから向かう樽水城が談城なのかも知れない?。R429号を東走して向かう樽水集落へと狭い地区道内は、市の遺跡地図で位置確認出来ても 城への取付き探しには苦労する。市街地側からは県道109号・穴裏峠への分岐、口榎原から西へ走り・和久川上流の上豊富地区の畑中、上豊富小学校の先でY字路を左に入ると程なくして島田神社の傍を通る。
樽水城への東入口部:畑中に在る島田神社

創建は不明ですが本殿は京都府北部では(全国的にも)数少ない 中世神社本殿遺構として貴重。本殿柱上部に記された文亀2年(1502)の墨書から旧福知山市内最古の木造建築は国の重要文化財(昭和62年6月3日)に指定されています。平安時代に拝師郷と呼ばれ皇室領の豊富庄の名がみえ、 南北朝期には天龍寺に寄進されています。江戸時代には近郷の樽水・甘栗・談・北山・畑中・小牧を含めて「豊富村」と呼ばれており室町時代 (中世)より豊富庄の総社であったと考えられています。
樽水城主郭北曲輪の土塁!?

本殿は古風な ”三間社流造”様式で、内部は内陣を三室に区画し、各外陣境に板扉を構え、両端室には永正3年 (1506)墨書のある一間宮殿が置かれています。度重なる修理で屋根は取り払われ、軒先や縁回りも切り落とされ、昭和9年(1934)本殿は覆屋が造られ、 創建当初の形態は大きく改変され、破損も目立つ事から、文化財を守るため・平成19年(2008?)春から解体修理が行われ、 発掘や建築部材調査から創建当時の本殿復元修理されました。
堀切側の主郭切岸

南側山裾沿いに 甘栗集落に登っていく車道を見送って、直進して樽水集落に入る。谷沿いに集落奥に向かうと・道端に一基の常夜燈が立ち、右手前方の低丘陵先端中腹にフエンスに囲まれた小さなグラウンドが見える。其の左端から丘陵尾根に山道が通じ尾根上に遺構が残るが、主郭の削平と其の尾根側に残る土橋付き堀切以外には、見るべき遺構の段曲輪の切岸・土塁等は風化によるものか ?縄張り妙味は期待できなかった。
樽水城;主郭の尾根南側に土橋付き堀切を見る

なぜ此処に 城塞遺構が在るのか!!?地図から推察してみると城域の丘陵南山裾を縫う地区道は樽水最奥集落から延びる山道から丹波市堺の塩久峠を越えて丹波市青垣町の奥塩久に、また城への取付きから直接南側へのルートは 蓮根峠を越えて 青垣町東芦田へ降りる。いずれも黒井城主:赤井(荻野)氏配下の芦田氏領内に入る。 また樽水・談を経て夜久野方面へは、ゆずりトンネル手前の小牧からは烏帽子山城への登城口がある。ここも黒井城主赤井氏の城だが、もとは芦田氏の城、和久川沿いにも芦田氏に結びつく諸城が有り、
樽水城主郭

京都丹波にも勢力を持っていた芦田氏か、更には氷上郡(丹波市)・天田郡(福知山市)・何鹿郡(綾部市)の三郡を領した氷上郡黒井城主: 赤井(荻野)氏の配下に組みし、丹波市北部の国境を警備した城塞群の一つとして間道を監視した砦だったのでしょうか?。城史の詳細は不明だが天文〜天正年間 (1532〜1592)頃には樽水縫殿助が居城を伝えます。
(島田神社本殿:現地 平成21年3月 福知山市教育委員会の案内板を参照)
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