常勝寺・慧日寺・首無地蔵と山城天狗山〜萬松山〜東山(鍋倉城) 大河城 西山城 杉ヶ谷城
丹波市 (五万図=篠山)
山南三山・慧日寺から 横山〜萬松山〜天狗山 2001年11月17日
近畿の山城  太田城(鍋倉城) 杉ヶ谷城(砦) 太田氏屋敷
     黒鼠子佐渡守屋敷 西山城と大河城

丹波の古墳 ニノ谷古墳
大河城北郭主曲輪の石積 H16.12.12

T天狗山〜萬松山〜東山(鍋倉城)2000年06月18日

山南三山の慧日寺常勝寺や高倉神社が山裾に在り、明智の丹波攻めに落城した鍋倉城 (東山)や、首から上の願掛けに霊験有りの首無地蔵も登山口に有り、受験シーズンには遠くからの参拝者も訪れる故郷の山。天狗山へは三度目だが前の2回は大呂峠に向かう林道(ゲート有)を横目に首無地蔵尊の横から 峠まで続く広い階段道のコースから。最初の高山〜天狗〜萬松はMTB登山・大柿氏の2週間前(1998.7.13)です。 ケヤキ峠から伝説の天狗岩のある天狗山へは楽なコースです。山田集落の 田園風景とシシ避け石垣を隔てて栗林は花盛りです…といっても花とは名ばかり・余りパッとしない地味なもの。
東山(鍋倉城)と稲荷社上部の杉ヶ谷砦

常勝寺の先 :高倉神社前駐車場(AM8:50)を利用します。 コンクリート舗装の高山林道 (ゲート有)入口(AM9:15)に首無地蔵尊の旗が見えるが、此処から左折し林道終点まで詰めると 僅かの距離でケヤキ峠に到着(AM9:40)です。林道終点の登山口と峠にT.H.Cのテープと此処から大柿氏の赤布 (歩きで後続の奥様への愛の道標…と思えば微笑ましい)が目につく。
鍋倉城(太田城)本郭部東の堀切

赤布が萬松山の先、東山への登りの間迄で消えているところをみると、どうやら鉄塔先よりの 巡視路を砕石場を経て大谷側へ下降された様子。JR谷川駅へは近いが…さて天狗山より(AM10:20)猿藪 の尖がりピークの眺望に少し未練を感じながら萬松山への道は…急下降が2ヶ所程あり滑らないよう注意が肝要。天狗山への最後の登りは右からの尾根合流地点から始まります。
JR加古川線久下駅付近から望む東山

「山を駈ける風になれ」織田さんが難渋された藪っぽい場所ですが、この右からの尾根を少し下り気味に 戻ったところに天狗岩があった。 天狗山頂より2〜3分の処に有り尾根からは見えないが稜線すぐ横。天狗岩の名は・大きな岩・目立つところ・比較的明るい場所である事も条件のようです。天狗山からの急下降で鞍部に立つ と、 この先のピークにかけての岩稜帯で大岩・露岩が現れ登りつめた尾根からは展望が開けてきます。 岩尾根で山田川側に大きな岩場 ・露岩が集中して目立ちます。
常勝寺参道

493ピークには 天狗山山頂と共に大柿氏プレートがある。休憩と展望を楽しむには山頂より此の先・二ヶ所岩場が良い。下り気味の明瞭な山道が続き 暗いピーク?に着く。7〜8mの岩が無ければ素通りしてしまいそうな 萬松山(AM10:30)からは下方に延びる枝尾根に横山、 その東側に萬松山慧日寺の屋根が見える。 5分程度下ると高圧線鉄塔・その先で巡視路は右下へ此処から東山(鍋倉城<大田城>)への尾根を辿ります。明智の丹波攻めでの落城説もなく、玉巻城の久下氏・黒井城主:赤井氏との関連さえ不明?。
慧日寺(仏殿)

掘切・櫓台?・曲輪跡を越えて山田方面に下降の細道を見送れば (此処も堀切跡?)四方を石で囲った4等3角点の東山に到着(459m AM11:50)「山想同人 」峰!!の小さなプレートが有ったが、再訪では地元参画の「谷川里山ウオークPARTV・東山登山」記念板標があったが、 此れも大夫古くなっているよう。処々に見掛ける道標には北面の”岸本石材の採石場”側から山麓の
東山三角点は鍋倉城の城域西端の平坦台地の上

県道側の岸本石材店への道を示すが 山麓はフエンスが巡り、採石場への出入口ゲートはチエーンと施錠までしてある。激急斜面もあるが関電巡視路ルート利用が無難かも?。三角点からそのまま藪漕ぎで尾根を下っても駐車位置からは遠くなるので先の分岐に引き返します。途中まではよく踏まれた道で最後まで踏み跡を辿って常勝寺の 石段を正面に見る民家の横(古い墓地有)に出てきます。
鍋倉城主郭南面の石積

但し最後の最後に目の前の墓地に出る山道の間には堰提と溝がありそれを飛び越しました。民家横から常勝寺前の道に出れば40m程で高倉神社、手前の高灯篭は高倉神社の鳥居跡で(AM12:30)駐車場へ帰り着きました。


U山南三山・慧日寺から山号の山へ 慧日寺〜横山〜萬松山〜天狗山 H13.11.17

山南三山の一:竹林山常勝寺竹林山 〜播丹国境尾根(妙見山〜白山で岩屋山石龕寺岩屋山〜石戸山〜高見城山石戸山から 頭光嶽〜八ノ瀬にレポート済。萬松山慧日寺からの登路で明確なコースはありません。巡視路でもあれば利用出来るが屋根付き橋の手前に参拝者用の広い駐車場から出発します(PM2:10)。萬松山扁額の懸かる・南北朝期の古い様式を残した山門は、
慧日寺(方丈と鐘楼)

惣門として参道入口に建てられていたものが再建で山門として 現在地に移築されたものらしい。山門を潜れば禅寺の雰囲気に包まれ左に鐘楼、正面に仏殿や方丈が建っています。桧皮葺き屋根の仏殿や方丈は天狗山〜萬松山縦走中も 稜線からも大きな屋根は印象に残っています。仏殿の鏡天井に描かれた龍の絵は必見です。花頭窓 (正面扉上部の花狭間)も見逃さないように。境内裏手・西方から寺の裏手へ延びる道は歴代住職を祀る廟に行き当たります。10基ばかりの卵塔が塀に囲まれた廟の中に建ちならぶ。山道は無いが稜線目指して急斜面の植林帯をひたすら詰め上がります。
慧日寺山門


慧日寺背山の横山山頂(259m)には思いのほか楽に到達した(PM2:30)。寺全盛期には幾つもの堂宇が建っていた雰囲気が有る。 何処からか踏み跡も現われると境界ポールもある山道となり萬松山 〜東山稜線に続くが、少し手前の鞍部で西側の谷側に向って降っていきます。どうやら慧日寺山門石碑前の林道から谷通しに此処に繋がっていると思われます。主稜線に出て(PM:2:45)萬松山に向います。稜線上の左手に7〜8mの露岩が見えてくるとその右手の高みが萬松山山頂(440m PM2:55)です。山名プレートでもなければ露岩を見ながら、うっかり見過ごして通り過ぎてしまう所です。
慧日寺仏殿

露岩の正面に出てみると祭祈場所として平坦にする為の石積み跡や祀檀としたらしい跡も岩基部にあります。深い落葉で滑りそうな道も465mピーク付近からは随所に露岩が現われ岩尾根からは紅葉に染まる周辺の 山々の展望が楽しめます(PM3:15)。間近にあって大きな山容をみせる高山の左肩には、鋭く雄々しい猿藪の突起峰が、 そして目指す今日の折り返し点の天狗山がルートの先に手招きするように待っています。
露岩帯から望む天狗山

天狗山からの下降地点は天狗山手前ピークにある火の用心マークから東への巡視路(PM3:25)からとし天狗山へ急ぎます。鞍部からは一挙に最後の急斜面は登り切った所が 山頂で 露岩の上に立てば猿藪・松尾〜白髪岳・和田寺や尖山が望まれます。此処は何時来ても下方からJR福知山線の電車音が聞こえてきます。天狗山山頂(3等三角点 PM3:40)初めての様子も分からないルートを降るには遅すぎますので急ぎ予定ピーク(PM4:05)へ引き返し巡視路No104への道は歩きやすいが鉄塔で行き止まり。
露岩帯から望む高山と猿藪の鋭鋒

一つ北の鉄塔に向って藪漕ぎで谷へ降り No103へは山裾を捲き辿り着きます(PM4:15)。僅か100m??程で三角点学所(425m)なのだが寄っていく余裕も無く谷へ向う細い巡視路を辿ります。谷筋へ降り砂防堰提に出た途端道が切れる。 見誤ったのかも知れないが藪の中に踏み跡はあるので 無理矢理進んで広い植林帯に出てきたが周囲は薄暗い。花も供えられていない古い墓地の横を通り、なおも林の中を抜けると未だ明るさの残る太田集落に出てきて 慧日寺駐車場に戻る(PM4:40)。


鍋倉城(太田城) 太田氏屋敷 杉ヶ谷城
  黒鼠子佐渡守屋敷 西山城と大河城

太田城(鍋倉城)    東山(鍋倉山)459m   丹波市山南町太田

山田川が篠山川に流れ出るところJR谷川駅の南方で一気に高度を下げています。その尾根西端のピークが篠山川に架かる山崎橋付近から望むと、東南方向にスッキリした綺麗な山容を見せているのが東山(鍋倉山4等三角点459m)です。山南三山の慧日寺(太田)・常勝寺(谷川)と大谷 ・山田の集落の間にある東山は
主郭部南面の石積

鍋倉山とも呼ばれます。谷川山田地区の常勝寺 ・高倉神社へ降る南尾根筋は天狗山を経て播磨の妙見山〜白山や摂津方面への縦走路。北には篠山川沿いに旧山陰道が通じる 国境警備を兼ねた要害の地に位置して、城史は不明ですが久下氏一族の支城として久下城に呼応する 太田美濃守(大和守)とも片瀬近江守の居城だったとも伝えられていますが、
主郭部南面の石積

当初は太田氏が築城し其の後・片瀬氏が居城したものと考えられます。天正3年(1575)頃から始まった織田信長の丹波攻略に八上城・波多野秀治や黒井城・赤井(荻野)直正等の丹波武士団は明智光秀の大軍勢を迎撃し天正7年平定されるまで激しい戦いが繰り広げられます。この合戦の余波を受けて天正6年(1578)に落城したというが、 それ以上に史実を伝える資料も無く、城史は一切不明。
空堀状から1.5m程の切岸を東郭に:更に東尾根先にも土塁堀切が…

東山へは大谷集落南のバイパス道の山南xx化学工業や岸本石材の採石場横から関電巡視路を利用したが キツイ登りが続いて関電:奥多々良木線高圧鉄塔No66に到着します。北面に展望はよく 金山城 高見城・石戸山久下城(玉巻城)が望めます。 勾配が少し緩んだと思っても中々気を許せません。奥多々良木線の高圧鉄塔No67からは急登だが直ぐ鍋倉城東郭の土塁堀切に着く。 斜面上には小曲輪だが削平状態は丁寧・主郭への尾根続き西側には1.5m程だが切岸・堀切状の浅い溝状を越え平坦地形の尾根筋が西に延び土塁付き堀切をみて、 主郭へ2段程の曲輪を越す。
南尾根曲輪群・南端曲輪の石塁!!?

東山(鍋倉山 4等三角点 459m)山頂には 削平状態は甘いが20m四方の本丸跡や、 南側の谷川山田地区からの 搦め手道?が通じる広い”二ノ丸”、東側には 2段ほどの小曲輪がありその下には、天狗山へ続く尾根筋を遮断する堀切がそのまま 竪堀となって南北の谷に落ち込みます。此の南尾根にも曲輪が続き露岩や多くの石が散在するが、特に南先端部にある曲輪は切岸も高くし南面から 西面にかけては
鍋倉城(太田城)本郭部西の堀切側に石塁 ・石列!!

散逸した石積 ・石塁の痕跡 !!??とも思える残石を見受ける。主郭部(約18u)の西に堀切があって此方は堀切側に 凹形に開く石列らしいものを見かけます。堀切を越えて 西に削平地(西郭)は粗いが広い曲輪があり、緩やかな尾根が西へ降りて行きます。自然地形の緩斜名尾根と思っていたが櫓台土塁?があり、北端の長い土塁に沿う溝状?堀底道の溝状は櫓台?6m程の高い切岸下を捲く帯曲輪?に降りる。
東山三角点東鞍部南側の土塁線

更に尾根続き西の曲輪南側にも1m足らずの低土塁。 此の平坦段尾根沿いに西斜面上部が城域 西端?の東山三角点。其の先で鍋倉城の城域を外れ緩斜面は徐々に急斜面となり・尾根筋には堀切・竪堀・土塁等、際立っての防備設備は何も見かけ無いまま、尾根筋の下方には空堀状の間を土橋状の道筋が見える。
三角点峰東の鞍部から東へ:櫓台へは右端空堀土塁沿いに上がる

尾根筋を10数m外れるだけだが物見台となったか?円状の平坦台地に着く。 此処は二の谷古墳でサークル・ストーンの様に石材が円形に残存しており狼煙台の様にも見える!!。二の谷古墳から尾根先端部に遺る 平坦段(曲輪3-4段)は 杉ヶ谷城で別枠でレポートしています。急斜面登行が強いられる鍋倉城へ比較的 ・楽に登城出来るコースだけに太田氏屋敷が在った慧日寺方面からが大手道?、稲荷神社から杉ヶ谷城を尾根伝いは搦手道?として登城口守備を兼ねた出曲輪であったのかも?。 主郭切岸の南側には曲輪端の部分的に石積の一部が遺っている。
主郭西面の堀切

以前・この南下を山田集落を常勝寺付近へ下った時、露岩も多いが一部には異常な程に石類の累積・散存が目立つ箇所も有りました。果たして…天正期まで残った城なので堀切・土塁・石積による改修等があったものか? 久下城(玉巻城)も縄張り図に石垣!が有ったが 確認出来ていません。尤も配下の武将の城の補強を脅威に感じ堅固な城改修を許さなかったとも思えますが?。荻野・赤井の城を除いて石垣は勿論 ・石積さえ殆ど見かけない丹波の山城のなかにあって、篠山川を挟む対岸の大河城と 此の鍋倉城に土留めではあっても石積や石列が有ることが不思議?。
主郭東面の堀切

西郭の尾根筋直ぐ下方や 東側の谷筋には多くの石材を見かけます。杉ヶ谷古墳や10基程の古墳が点在する谷川東山古墳群の中を下ってきた様で、山裾に3−4基ばかり五輪塔・石仏が祀られる一角があるが集合・個人墓等の古墓跡でもなさそう?。後:大谷集落霊園移転の際に30体程の壺や遺骨を確認されたという。町内でも遺体をまとめ葬る習慣はなく、 鍋倉城落城時の際討死した武士たちを祀ったものか?。
常勝寺から望む東山(鍋倉城)

鍋倉城は余波で落城とあるが合戦の記録・伝承もない。明智の援軍として丹波攻めに入った羽柴秀吉軍を、播磨口で押さえようと久下城(玉巻城)籠城に加わった丹波勢の土豪のなかには、城主一族が去った後もこの地に残った郷士がいたものか?。 それとも最後の城主:久下重治の遺言を以って、 久下氏滅亡後も高倉明神を守護した従者のものか?高倉神社の旧大鳥居に近い山林の中に祀られていた…。
(山南町文化財のすがた 昭和59年度版 参照)

杉ヶ谷城(砦)と二ノ谷古墳(Ca280m地点)
杉ヶ谷城と二ノ谷古墳   xxx Ca150m   丹波市山南町大谷踊場!!

JR谷川駅の南東に聳える東山は富士形の美しい山容を魅せるが、其の姿を望む北斜面には採石場や送電線鉄塔が目立ち折角の秀麗な姿が失われています。 この山頂に太田美濃守か !?・片瀬近江守!?が拠った鍋倉城(太田城 )が在りました。山頂から西に延びる尾根の末端近くに其の支城か出曲輪:杉ヶ谷城が在り、篠山川と東播磨西脇市へ通じる街道監視や連絡の城砦として、その任にあたってていたものでしょう。
鍋倉城へと続く土橋と左右に幅広い堀切?

谷川駅から篠山川に架かる谷川大橋を渡り旧山南町舎(町民センタ ・やまなみホール)・西脇方面への三叉路直ぐ先、山裾に赤い鳥居が目に付く。神社の名は扁額が網掛けされた上、錆びや蜘蛛の巣で名前も分かりませんが稲荷社で境内本殿左側の小社には久守真狐大神の扁額を掲げた赤い鳥居が立ち並んでいます。名前からして栗作郷を領し・一時は丹波守護代に任じられ覇勢を振るった久下氏を守護する稲荷社の様です。 石段が続いて神社の境内に出ると東端には小さな池(庭園の一部)まで有る。
サークルストーンは砦の狼煙台遺構か ?【円墳の石材】

小さいとはいえこんな処に池とは気になります。一帯の平坦地を含め居館跡ではなかったかと思えます。西側の稲荷社の背後へと踏み跡を辿って尾根に取り付きます。久下氏の玉巻城は篠山川を挟んで 此処より北方約1.5kmに有り杉ヶ谷城は南北朝期 玉巻城(久下城)の出城か砦として、播磨側からは畑谷川に沿って住吉から大呂峠を、黒田庄からは荘林山荘厳寺道から、笛路へ抜け丹波に入ってくる間道の監視にあたっていたのかもしれません。
鍋倉城へ神社”久守真狐大神”からも行ける

「久守真狐大神」の背後・西方に浅い堀切が有り南側へは 竪堀状の凹角の溝が下方に延びている。後世の山仕事用の道か?、浅い堀切から2m程の段差で自然地形に近い平坦地に上がる。 緩斜面だが西下方にも一段曲輪が附随している。分布調査報告書の備考に「10mx30m範囲」を城域とする…と記されているので、この二つの曲輪と防備の為というより城域を分別する為?の堀切までが城域と思えます。
杉ヶ谷城(砦)主曲輪と西一段下の曲輪

緩やかな斜面上の小さな二つばかりの曲輪と 浅い堀切が緩斜面の尾根背後に有るだけ、曲輪の切岸加工や土塁等の防禦施設も無く、監視と狼煙台の砦だったのでしょう?。露岩が目立つ場所、尾根上の平坦地…結局は神社が下方に見える近くまで降ってきて、土橋状を見かけた直ぐ上にある 尾根端の平坦部には粗円形のサークルストーンがある。内部は少し窪んでいるようだが 炭焼き窯跡とは違い、円墳の築造時の残石と思われます。播磨・丹波国境を越える間道が幾つか考えられますので、其の監視に当たり通信手段の狼煙台跡とも考えられますが ?この辺りは尾根もなだらかで幅約5〜30m程の所ですが、
杉ヶ谷城主曲輪?と堀切(中央)

この先で東・南へは下草藪の急斜面で様子を 窺えないが下方に落ち込んでいます。 南西への尾根は30m程下方に土橋風の道が見えています。登りでは気が付かなかったが幅広の堀切が左右に延びている様です。山頂の鍋倉城(太田城)まで往復したが堀切は山頂の西郭・主郭間の堀切までは無い。此の城の城史一切が不明ながら 南北朝期以降の玉巻城(久下城)久下氏配下の砦として、鍋倉城(太田城)の出曲輪・砦として播磨・摂津側境界尾根を越え、山田川沿いに降りてくる間道・篠山川沿いの旧山陰道要衝の監視の砦であったとは思える。



二ノ谷古墳
12u程の台状になった杉ヶ谷城主曲輪からの尾根続き・殆ど埋もれかかった浅い堀切がある。 此の堀切により、城域は此処までと思ったが緩斜面の尾根筋に堀状の長い窪地の間に土橋状をみる。尾根筋は此の先:急な登りの連続で 東山山頂部の鍋倉城に至ります。
ストーンサークルの様に石材が残る二ノ谷古墳

土橋状の右手上方 ・主尾根筋から僅かに逸れて東方へ延びる枝尾根(といっても尾根筋も明確でなく麓まで下ってしまう)側のピークの平坦な上部が見える。台地の様に見えたのは墳頂部が流失した円墳のマウンドで、高さ 1mばかりの墳丘を緩斜面上に残し、其の周囲には古墳の石材がストーンサークルとなって散存しています。墳頂部に一部残される石材が竪穴式石室の石組みではないかと 推察されています。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(山南町)を参照)


黒鼠子佐渡守屋敷    xxxm 山南町大河字射場
 と岩上神社と大歳神社(高座神社)

JR谷川駅のある池谷地区側の東端にある岩上神社は大河地区と境を接していますが、 大河城を主城として東に西山城・西には此の岩上神社の尾根上にある福吉稲荷神社から山上の尾根に大河城の砦を設けたものか ・遺跡分布地図に記載は無い?が。参道が無ければ篠場砦と変わらない激急斜面上に、 崩壊後に再建された岩上神社が岩座を背に建ち、更に続く参道が福吉稲荷社に続くが直ぐ先・数10mの稜上にも2-3段の平担地が在ります。
高座神社:風貌が独特の綿貫の狛犬像

此の位置が東の畑内にある西山城と呼応して、大河城を中央に挟んだ西口の護りに付く出城か砦の適地に思えます。崩壊の所為だけでは無さそうな切岸、鞍部の谷筋も自然地形ながら竪堀に見える!?。眼下に旧山陰道が通り、篠山川が流れますが、篠山川も加古川 (旧佐治川)と共に此処・大田付近からは物資輸送等に高瀬舟が使用されていました。
岩上神社の狛犬阿像・立派なシンボルにはタジタジ(^^ゞ

豊臣秀吉の三木城落城後・文禄年間(1592〜)初期頃、加古川開通を図って岩石を砕き川底を浚えて滝野から高砂までの舟路が開かれると加古川上流にも船座が置かれ氷上町本郷までは慶長 9年(1604)姫路城主・池田輝政の命によるとされます。船座が入札による請負制となってからは享保14年 (1729)には篠山川・岡本 (JR谷川駅西方の石戸川合流付近)からも播磨との運行は明治新政府により船座が廃止された後も阪鶴鉄道 (福知山線の前身)開通まで行われた様。江戸時代末期・寛政年間(1789〜)頃には筏流しも盛んで、
国相守神社址の谷向いに有る小祠

上流から流した木材を篠山川では 大河で筏に組んだといい、井堰の 水門を損傷等で紛争も多かった様ですが、 舟運が廃止された後も筏座は 明治末期まで続き木材輸送が行われてきました。山は要害に在り要衝の監視にあたり、久下氏の本拠地の池谷 ・玉巻への 玄関口にも位置しています。尾根続きの北東の谷の奥に 黒鼠子佐渡守屋敷跡と云われる所があり、北側からは比較的容易に山端の頂部に至るので”見張り所”が有ったとも思えます。
国相守神社旧跡は同場所とは思えない程鬱蒼とした杉林の中に有った

布都御魂神を祭神とする岩上神社(山南町池谷)の創建は不詳ですが 延宝5年(1677)以前の建立で 社殿は文化4年(1807)再建されたが、其の後土砂崩れで崩壊していた社殿は再建・稲荷社まで石段の参道が修復され、 岩座を背にした社祠が急斜面に突き出して建てられています。鳥居を潜ると狛犬が迎えてくれますが、親の足にジャレ遊ぶ子(天邪鬼か?)を連れた吽像が微笑ましい?狛犬像は大歳神社(高座神社)の二対ともに、石工は綿貫(重吉 )名照で丹波佐吉(村上照信)の弟子の一人。
八ノ瀬谷 「おおか洗居場」公園からの東山(鍋倉城)

黒鼠子佐渡守屋敷
大河地区北の大河川(八ノ瀬谷)の山中に黒鼠子 (こくそうし)明神【国相守大明神】が祀られていて、大河字射場(イバ)の小字名が残る。 此処へは公民館以外に大河地区内の車道側に駐車スペースは無いので岩上神社下から向います。大河公民館西の狭い地区内の道は 稲荷神社の先で石碑や五輪塔残欠を集めた塚の側を曲がって、集落最奥の今は無住?の三光山法泉院(日蓮宗)に着きます。鹿防禦フエンスを開閉して八ノ瀬谷沿いの山道に入り直ぐに山の傾斜面に3〜5m幅で突き出した石垣を見る。 少し広い祠跡程度なので植林用では無く、古い墓地跡でも無さそうで住居の玄関部だったのでしょうか。
大歳神社の狛犬も綿貫重吉名照作

小さな谷であまり広くもない谷間に段差をもった平坦地形が点在し其の中程?に目的の黒鼠子佐渡守屋敷跡とされる台地が有りました。台壇の礎らしい石列の周囲に数個の石が寄せ集められ 「国相守神社旧址」(明治42年8月8日大歳神社・高座神社境内に移遷して合祀された)の石標が建てられている。平坦地が畑地なのか居住区だったか 不詳ですが、射場や佐渡守屋敷の字名が残る。谷間の周辺一帯は領主や家臣屋敷群が建っていたのでしょう。黒鼠子(こくそうし)の名は”国相守・国惣守”とも記されるようです。
大河城を背にした大歳神社

岩上神社のなかでも記した旧山陰道の要衝に面し、篠山川の水運にも関して 鎌倉幕府の検察司 ・横領使の居館が在ったのではところでしょうか?【現在は砂防堰堤工事<平成17年>により往時の藪山の様相からは一変している】丹波志に天授2年(1376) 三宮城(船井郡京丹波町)山内越後守憲忠が大河村に住み、荻野佐渡守重定の娘を 妻とし足利将軍に従ったが戦いに敗れ自刃したといわれ、国相守大明神跡地の谷向いには佐渡守の霊を祀ったものか小祠が・集落に出る山端には黒鼠子大菩薩と号せられ祀られる薬師堂が建つ。
大歳神社からJR線と大河城

篠山川に架かる太田橋南詰め西側に 嫁ヶ橋の伝承地が在り、北に大河城を背にして、国相守(黒鼠子)大明神が合祀された大歳神社が建っています。大歳大明神と祇園牛頭天王を合祀し、明和元年(1764)高倉神社より高座大明神を勧進して祀られた。 創建は不詳だが棟札からは享保6年(1721)及び嘉永2年(1849)にも再建されています。

(久下村史 昭和60年発行!現地大歳神社由緒説明板)参照

西山城と大河城
西山城 西山 207m  丹波市山南町畑内字西山

西脇市・黒田庄町方面からの県道139号が県道77号に合流する地点・篠山川に架かる太田橋を渡ると両側から突き出した 比較的緩やか傾斜で尾根に到達できる林道石船線を経て 石船坂丘陵に囲まれた北太田集落があり、奥野々峠付近から柏原町と尾根を分ける境界から流れでる北太田川が篠山川に流れ出ます。太田橋の西には嫁ヶ橋旧跡があり狐の恩返し 嫁ヶ橋が伝わります。
西山城:主郭段差と 南郭に残存の古墳石材

比較を越え柏原町へ抜ける間道があったのかもしれまん。東へ約2.5-3km程:篠場からは明治以降も、峠を越えて柏原の厄神さん(柏原八幡神社)へ参詣にいた事を聞いており、また上滝からは県道292号が丘陵部で途切れるが、どちらの峠越えの道も峠付近には藪に隠れるように石仏が微笑んでいる様に立つ。共に柏原側下小倉の県道 292号に通じ大部谷城の側で県道86号線に繋ぐ。
西山城北郭から主郭切岸?

柏原小倉庄と山南栗作郷【栗作郷の玉巻城主:久下氏<山名氏の時:僅か一年程だが丹波守護代になっている>は小倉庄も領していた】を繋ぐ北太田コースの方が利用価値は大きかったと思えます。そんな北太田川筋入口と、篠山や東播磨を結ぶ要衝(延喜式の山陰道)との十字路となる太田橋付近からは東に西山城、西に 大河城が呼応し合い、間道と要衝の監視警護に付いていたのでしょう。
南郭(前方)から主郭(後円墳)と東下帯曲輪

北太田川は篠山川に流れ込む小さな支流で太田集落の奥に 高山(妙見の尾)を望みながら太田橋南詰めからJR踏切りを渡り県道77号の小橋を渡った所から先ず西山城を目指します。北太田の東 ・畑内集落の民家(廃屋)裏から取付き、鹿猪避けフエンスを開閉して進む道は山腹を捲いていくので、道を外れて踏み跡薄く直ぐ消える雑木の尾根筋を急登しますが比高僅か100m程です。
西山城の堀切

ウチガネ(点名:坂西谷 3等 433m)から西南へ延びる丘陵尾根の末端ピークに主郭(8m四方)を置く南北尾根上の約150m程を城域として平坦地形・段曲輪状が有り、主郭から北へ降る 緩斜面の先の鞍部を堀切(高さ2〜2.5m、幅4m程)で遮断しています。南郭(8x10m程)と1.5m程の段差で主郭が尾根続き北側3m程の切岸下にも主郭と同じ10x8mの北郭の三曲輪が並ぶ。
西山城主郭正面から西面切岸?

主郭上部には三ヶ所ばかり円形の凹みがあって古墳調査された痕跡なのかもしれません。主郭の東1段下には帯曲輪が廻り、 其処から北へ直線的に小広い平坦地が続いて、その少し先の堀切までが城域で、傾斜を増しウチガネに向っては尾根上に単調な踏み跡が続くだけ。 主郭の周囲には小石ながら土留らしい石列も見られます。此の西山の西側・大河城の山麓には土山古墳(円墳・横穴式石室)がある。西山城も山上の三曲輪がソックリそのまま古墳では!!。
西山城主郭西面 :古墳の葺石・石材が散逸している

後日調べてみると旧氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書に前方後円墳の西山古墳 (全長28m・高さ2.5m)とある。頂部東郭の前方部・後円部の主郭段差部には石室であったか少し大きな石材が散逸し、殊に西側斜面には葺石の小さな石が遺されています。西山城は大河城の出城か 太田城(鍋倉城)の砦だったのでしょう。鞍部から先の尾根通しに城遺構らしいものはなく、鞍部に戻り堀切から”北太田加圧ポンプ場”に出てフエンスを越えて北太田集落に降りたった。


大河城 152m〜(点名:大河226m)〜265m  山南町大河

大河公民館の西側から 細い集落内の道を詰め上がり、稲荷社の先:無住?の三光山法泉院(日蓮宗)から鹿避けのフエンスの扉を開閉して大河川の八ノ瀬谷筋・泥濘む湿気た林道に入るが道は谷筋を詰めていくだけだが、緩斜な山道の左右には雑木と雑草に覆われる平坦地が在リ、石段の残る祠跡 ・基壇跡らしい石材が集積された所に国相守神社旧跡石碑が立つ。鎌倉幕府の検察司・横領使(国相守)=
黒鼠子佐渡守屋敷(詳細上記)跡だったのでしょう。
大河城南郭・主郭の切岸と帯曲輪

再訪時(2011/5)の八ノ瀬谷は大河川砂防堰堤により、一変して河原に変わり面影も無し。堤防下付近が「おおか洗居場」として親水公園風!!?に整備されています。 高山(妙見の尾)からオオ谷 (点名:奥林)〜点名:大河へと北太田地区の西面を南へ延び出した稜線、大河地区の北東の265m峰から点名:大河〜末端の峰にかけて、南北300m程の尾根上には市町村史にも知られる事なく、ひっそりと隠れていた中世山城が、丹波の山里近く・篠山川の流れを見つめ、城史不詳ながら、 此方は知られる太田城(鍋倉城)のある東山を南に望む大河城は在りました。
大河城南郭・帯曲輪の石積


大河城へは砂防ダムが築かれ・河原へと様相が変わったが・国相守神社跡の、小祠手前右手に尾根に取付く踏み跡を稜上を目指します。右手からの尾根通し道が 4等三角点峰(点名:大河)へと、鞍部で主尾根が合流する付近・山腹を捲いて出ようとして驚いた。広い鞍部に堀切は無いが右手(南側山稜 )の東西がほぼ40mに渡って水平に延び、北面は高さ3〜4m・幅30m程の切岸で下段の帯び曲輪の西端から90度北に折れて竪堀が一本走っている。
大河城主郭からの竪堀と竪土塁

竪堀沿いに竪土塁も・・。南郭部の主曲輪で西側へ2段ほどの低い腰曲輪も続くが、竪堀に面した曲輪は 3m程突き出していて”横矢掛”の構造です。主曲輪の東へも切岸をもった外壁に沿って低土塁道が有り、東南へ4段程の曲輪段が間を空けずに続く。2段目と3段目曲輪の間には南側に幅4m・高さ2mの竪堀(空掘道)が有り、 詰めの上がり框部の様な所に大きな平石段が残る。虎口受け曲輪への入口!!?.。虎口は土塁と主郭南下段帯曲輪東端に低土塁囲みの小曲輪部を独立させ、 空堀虎口側の土塁下部切岸(2.5m程)の上端部には土止め石列か補強を兼ねて!!の石積が覗いています。
大河城南郭本郭の切岸と腰曲輪(中程倒木根元付近から竪堀

虎口の鋭角なL字状といい、土塁を廻し曲輪を独立させ、横矢掛を意識し・防禦性を強めた一角は南東側からほぼ垂直の堀底道…溝に掘られた凹角部は屈曲し、 竪堀にしては数m先の掘り崩しが曖昧?で此処に至る大手道。少し南東側へ下ってみるが・其れほどの急傾斜もなく北太田地区へと谷筋伝いに通じます。 空掘?部より下部に曲輪・防備施設を見かけないが、空掘土塁虎口から西へと主曲輪の南下の帯曲輪は約50m近く延び、随所に石列・石積跡が残っており、其の下方には腰曲輪らしい平坦地も幾つか在る様です。
大河城南郭虎口:虎口受曲輪から空掘道と土塁曲輪切岸

大河地区から登りついた 鞍部に堀切も無く尾根の南端の丘陵に此の様な山城遺構が残っているのですから、更に山頂部にかけては期待が膨らみます。丘陵上の途中には凹角状の溝が続く箇所が在り其の横を尾根に沿って盛り上がった場所がある。 竪土塁なのかな?・・・・と思われる様な箇所もあった。其処からの尾根筋は傾斜も増し、羊歯類が踏み跡を覆い隠します。 何も無さそうだと諦め半ばだったがピークが近づいてくると羊歯の下草も消え、露岩が目立ち始め点名:大河(4等三角点 226m)の石標柱を見る。
大河城南郭虎口:堀底道(空掘)下から石積跡を見せる曲輪切岸


三角点標側には石列で囲われた2m四方のマウンドは見張りの櫓台跡だろうか?、 特に他には周辺に城砦の遺構らしいものは無さそうだが、更に高みに続く尾根の先が気になってきます。緩やかな登りが続いて広い平坦地に着いた。大河城の265m最高地点の北郭が本の丸の様で、広い平坦地は低い段差で3〜4段の曲輪群 ・西側には1.5m程の段差で腰曲輪・北面にかけて石が散在しています。正面には更に広い曲輪が有り、一画には先程の櫓台と同じくらいの幅と段差を持った礎壇状のマウンドがある。北郭主曲輪の西北角から東へ曲輪端の切岸上部角には土留めの石列が並び、西北角付近は2〜3段に石を積み上げ、其の上に積み上げていたと思われる石片が 斜面にズレ落ちているようです。
大河城南郭から北郭三角点(物見台?)途中の空堀道!!?

尾根筋は此れより急斜面を下った北面にも曲輪があって、更に北尾根は斜面を下って延びていきます。南郭から続く尾根筋には 尾根を断ち切る堀切を見ていないので、本郭の此の先 ・次のピークとの鞍部まで下ってみたが鞍部付近は尾根筋も両側の谷の傾斜も急ではなく堀切は無かった。更に其の先の4等三角点(点名:オオ谷265m)にかけても城塞遺構らしいものは無かった。大河城は大河集落東北の丘陵尾根の南先端部と、4等三角点峰の此処から小さな鞍部の先の最高所ピークに主曲輪を置く北郭部の一城別郭。 低位置の南郭には竪堀・空掘・土塁を駆使して、堅固な防衛施設が駆使されている様。
大河城・三角点 (点名・オオ谷)に残る石塁は物見櫓?


最高所の北郭部には周辺に石材は散存するが、尾根続き北切岸部に石列以外には曲輪の段差も低くて土塁も無く?、東西の谷側も要害と言えるほどでは無いので防備に弱い。東面から北〜西面へと石列・石塁が取巻いている状態が見え、特に北への尾根続き北西斜面には露岩も多く、これ等を使用した石積 ・土留め等の石材らしいものも散見します。”丹波の山城”では珍しく石材を多用した城だったのかもしれません。
大河城北郭・主曲輪北面の石積・石列
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西山城・大河城共に築城時期や城主・城史は不明ですが、承久の乱後:久下直高が武蔵国より此処栗作郷(山南町久下地区 )の地頭職を任ぜられ来住し、南北朝期久下時重のとき元弘3年(1333)足利尊氏の篠村 八幡宮 (亀岡市)での旗揚げには ”一番”に参陣して活躍した久下氏は(観応年間1350-52)のほんの一時期だけですが 丹波守護代となっていた頃があり柏原にも所領を持っていたので、その柏原への最短距離の北太田〜石船坂越えの 玄関口左右に2つの砦が築いていたのでしょう?。しかし”丹波攻め”で丹羽長秀軍の総攻撃により天正7年(1579)に落城した。
大河城南郭・虎口から主曲輪へ段曲輪(4段程)沿い右端に土塁道

堀切一本と不確かな曲輪だけの久下氏の 玉巻城に比して、此の大河城こそ播磨国境の最前線を守るに相応しく、城主久下越後守重治が西波多野氏 ・氷上城の波多野宗貞と共に立て籠った最後の城ではなかったかと思いたい?。かつて「一番」旗を靡かせた久下氏が丹波守護仁木氏・山名氏・細川氏のもと徐々に衰退していったとはいえ、遺構が残らず?防衛ラインも明確でない現状遺構の玉巻城(久下城)の姿からは、多勢に無勢の負け戦とはいえあまりに悲惨過ぎます。
大河城北郭・主曲輪と南曲輪・西面(1m程下)に帯曲輪


また篠山川を挟んだ南側には 妙見山〜白山へと播磨境界の尾根に続く東山(鍋倉山459m)が聳え、此処には太田城(鍋倉城)が在ります。山頂部に主郭を置き土留めの石を使用した築城時期(改修時期 )も同じ時期の城です。大河城も太田城の太田美濃守片瀬近江守の居城だったのでしょうか?。大河城の写真は オオ谷〜高山〜ウチガネ登山レポートにも添付しています。
(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


太田氏屋敷  xxx  Ca115m   山南町太田字殿垣内(トノカイチ)

JR谷川駅の南・太田城(鍋倉城)のある東山の山裾を走る県道77号バイパス道は太田集落の東端で直角に北へ進み、篠山川を渡って大河集落をJR福知山線・篠山川と並走します。太田集落から県道 77号を外れて直進すると山南三山:常勝寺・石龕寺・慧日寺のうち、萬松山慧日寺(臨済宗)に向かう三叉路分岐に着きます。此の地点の南に拡がる田畑は慧日寺背後の萬松山(Ca440m)〜横山(259m)や学所(425m)の峰々から流れ出た太田中谷川がヨンノク・横山川を合わせて、 此処から南へ約500m程の篠山川に深い谷を刻んで真っ直ぐに流れていきます。

大田氏屋敷(推定地)・ 東から

東側に河川段丘の小山が台地を挟み込む様に囲っているようです。殿垣内(トノカイチ)の字名が残るだけですが、居館跡の面影が太田中谷の深い谷筋や民家周辺の堀状の凹部や土塁囲み状の高まりにも感じられる推定地です。太田氏屋敷といわれ、東南側の極低丘陵上には太田大和守の居城が在ったといわれ、 山裾の台地に石仏が一体祀られていた。
大田氏屋敷・東側丘陵の竪堀?

太田屋敷跡比定地から見
る限りは比高25m・南北250m程の低丘陵ですが、北の篠山川に向かって徐々に高度を増して北端で一気に落ち込みます。尾根は緩やかですが細く左右は急斜面ですが、とりわけ露岩を覗かせる東側は鉄壁の要害を呈しています。そんな尾根に西面には方堀切状の幅広な凹角部が居館跡側の山裾に一本走っています。山頂部には2段石組の台地がありますが、 鎮守の神が祀られていたのでしょうか…祠跡と幟旗掲揚用と思える石柱が残っています。
大田氏屋敷 ・東側丘陵山頂は祠跡か?

南の尾根筋に細長い曲輪、北西面に2〜3の小曲輪らしい小場も有るようです。山裾続きの台地に太田屋敷推定地があり、推定値からは一寸見には想像も出来ないほどの傍らの高台は比高 25〜30m程ですが、天然の要害となっており、僅かな防備施設を整えた地侍太田大和守の本来は見張り台程度だが、単郭の詰めの山城とも思えてきます (^^ゞ
篠山川を挟んでは空掘・竪堀・土塁・石積みの残る大河城と、 曲輪と堀切の有る西山城が在り、丘陵上の城はこれ等に城と呼応して篠山川沿いの古山陰道や、東播磨の黒田庄や西脇方面への 監視にあたっていたのでしょう。本来の居館と詰めの山城セットを考えると、慧日寺南の山上に有った太田城(鍋倉城)が妥当と思います。
大田氏屋敷・西北の慧日寺分岐側から

この城は片瀬近江守が拠ったとも、太田美濃守が拠ったともいわれていますが、鍋倉城や太田氏や 片瀬氏については城史も不明ですが太田地区に片瀬姓が大河地区に太田姓が有ります。信長の”天下不武”による 明智光秀の丹波攻めが 始まった天正3年(1575)には鍋倉城の大手口と思われる 西面の常勝寺や、搦め手と思える北面の此処・太田氏屋敷側の慧日寺も兵火に焼亡します。
大田氏屋敷・東側低丘陵は城山か?(青田地区側から)

八上城・波多野秀治の城砦群にあったと思える久下氏一族の周辺の城を攻めた史実は、黒井城・赤井直正傘下に入って 久下越後守重治が天正7年(1579)5月・氷上城の波多野宗貞と玉巻城に立て籠り、播磨から侵攻してきた丹羽長秀軍の総攻撃を受けて落城した事くらい!。鍋倉城主・片瀬氏か大田氏は其れ以前に城を出て、 八上城か黒田城に籠城していたのか転戦していたのか、山南町史等からも”天正6年(1578)…丹波攻めの余波を受けて落城したといわれます”の記述があるだけで史実は不明です。


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