丹波市山南町  山南三山と紅葉三山の石龕寺

山南三山と紅葉三山

山南三山【丹波市山南町】 岩屋山石龕寺(高野山真言宗)
     竹林山常勝寺(天台宗)/萬松山慧日寺(臨済宗)
紅葉三山【丹波市】  岩屋山石龕寺(山南町岩屋)

          瑞巌山高原寺(青垣町)  永谷山円通寺(氷上町御油)

石龕寺もみじまつり:仁王門から続く石畳の参道

竹林山常勝寺 (山南町谷川)
法道仙人の開基といわれる氷上郡内屈指の古刹で、本尊・千手観世音菩薩立像(藤原時代)と薬師瑠璃光如来坐像は共に国の重要文化財に指定されています。本尊は秘仏で33年に一度開扉され、毎年2月11日に行われる追儺式「おにこそ」 は有名で無病息災と五穀豊穣を祈って行われる祭礼では、多くの観光客で賑わう天台宗の寺です。新丹波の七福神霊場(寿老人)です。
慧日寺

萬松山慧日寺(山南町太田)
管領細川頼之・頼元親子の命で建立された臨済宗妙心寺派の中本山で、永和元年(1375)特峯禅師によって 開創され独立した一山として大いに栄えたました。経蔵、鐘楼等格式を保つ建造物で有名ですが仏殿(県指定重文)の天井の龍の絵は寺宝で必見です。特峯禅師は天竜寺の夢窓国師とは兄弟弟子で、 天竜寺とも盛んに往来があり仏光国師・夢窓国師・特峯禅師画像(いずれも室町時代の作)等が県重要文化財に指定されています。
石龕寺もみじまつり:毘沙門道前にて

天正3年(1575)明智光秀の丹波攻めの兵火によって常勝寺と共に全焼しましたが寛永元年(1624)より大愚禅師によって復興、寛永19年(1642)京都妙心寺より別心禅師が入山され完成。この頃より妙心寺の末寺となっています。寛文7年(1667)再度堂塔を全焼し現在の堂塔は寛文12年(1672)〜元禄15年(1702)頃にかけて建てられています。



丹波市山南町 石龕寺と足利尊氏ゆかりの”もみじ祭り”

丹波市山南町の名刹:岩屋山石龕寺(高野山真言宗)は、竹林山常勝寺(天台宗)、萬松山慧日寺(臨済宗)と共に山南三山の一つです。足利尊氏ゆかりのもみじ寺で「ひょうご風景100選」にも選ばれており、とりわけ本堂(毘沙門堂)からの眺めが見事です。また丹波もみじ三山として、 青垣町の西天目端厳山高源寺・氷上町の永谷山円通寺と共に紅葉観光ツアーコースとして観光客を集める歴史ともみじのスポットです。
毘沙門堂からの眺め
参道(画質を落としています原画像と文章を丹波市商工会が支部情報として使用している併せて御覧下さい)

「石龕寺もみじまつり」は昭和63年に村おこし事業の一環として毎年11月第3日曜日に実施されるようになり今年(H15.11)で第15回となりました。伝統の護摩法要により参拝者の健康を祈願し足利尊氏が率いる久下氏一族を偲ぶ武者行列のほか毎年変わった趣向で籠かきレース等のイベントも平行して実施されていましたが今年は??

武者行列は山南町井原:日吉神社を出発して石龕寺までの約3kmを練り歩きます。沿道には室町時代の石龕寺町石(県指定史跡)も残り(後述),山門に立つ・桜材の寄木造りで彩色が施されている仁王像(金剛力士像)は鎌倉時代・
足利尊氏・義詮(もみじまつり武者行列)

仁治3年(1242)仏師・肥後法橋定慶の作で、国指定重要文化財 (昭和31.6.28)に指定されています。また本堂前の石段左手には中国原産スギ科の「コウヨウザン」があり高さ 37mは県下でも最大のものです。南北朝期、足利尊 氏が弟・直義と争った「観応の攪乱」に破れ京都から播磨へ逃れる際、嫡子の義詮を此処に留めた。「都をば 出て落ち栗の芽もあらば 世に勝ち栗とならむものかは」丹波栗のルーツは此処山南町岩屋と云われ
もみじまつり時代行列の足利尊氏・義詮父子

代表的な「長光寺」「てらうち」なかでも
ててうち栗は足利義詮の伝説「爪あと栗」として伝えられています。「石龕寺略縁起」によると石龕寺は弟31代用明天皇の丁未の年587年:聖徳太子の開基と伝えられる古刹で、太子が深く帰依された自彫の毘沙門天王を本尊として古くから栄えた寺で、客殿前の谷側にある「大槽(おおぶね)谷の水」は、名水・霊水として持ち帰る人もあるようですが、この水で聖徳太子が毘沙門天像を洗い、
足利尊氏・義詮父子も山門からは下馬して毘沙門道へと参道を向う

水面が絶えず黄金に輝いていたとの伝説が有ります。 毘沙門天(多聞天)は北方鬼門の守護神とされ単独で祀られる際は毘沙門天と呼ばれます。 なを東方(持国天=提頭頼咤天)・西方 (広目天=毘楼博叉天)・南方(増長天=毘楼勒叉天)と共に四天王の一人です。此の大糟谷には土師器等各年代の土器の破片が出土し、旺盛期の僧坊跡の削平地が点在します。
足利尊氏 ・義詮父子も山門からは下馬して毘沙門道へと参道を向う

平安時代 :村上天皇(在位・天暦-康保:946-967)の帰依厚く、村上天皇が小野道風に命じて寺号の勅願を賜り、諸堂宇を建立したといわれます。小野道風に書かせて下賜させたと伝えられる石龕寺扁額や、鎌倉時代の仏師:定慶作で、奈良東大寺南大門の金剛力士像(仁王)に次ぐ名作として国重要文化財指定を受けています。
毘沙門堂に必勝祈願・・

また足利尊氏所縁の品々の他ててうち栗由来の版木(江戸時代)等も残されています。鎌倉時代から室町時代にかけて地元武士の崇敬厚く「太平記(29巻)」には観応2年 (1351)1月尊氏は弟直義との抗争「観応の擾乱」に敗れて一時、京都を逃れ播磨:書写山に再挙を図り赴く途中、 久下氏を頼ってこの地に身を寄せ其の子、義詮(よしあきら)には仁木頼章・義長兄弟をつけて約2000騎を岩屋の石龕寺に留め、当寺の宗徒も忠誠をつくし、
毘沙門堂(本堂)への参道

久下・荻野 ・波々伯部氏等の 武士が馳せ参じたとあり3月に丹波より上洛するまでの2ヶ月間(50日余り)この地に留まっていたと思われ、室町期に大きく発展するきっかけとなっています。 石橋山の合戦(箱根)で敗北し、再起を図って平氏打倒の兵を挙げた源頼朝の陣に手兵を率いて真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じた久下次郎重光(熊谷次郎直実の兄)に、
毘沙門堂(本堂)の紅葉

その忠誠を賞賛して「一番」旗と家紋を賜って後に 、栗作郷(久下・上久下地区 )の地頭職に任ぜられたが、 北条氏の六波羅軍(京都)を攻める篠村八幡宮での挙兵に、 足利尊氏のもとへも1番に馳せ参じ、丹波の久下氏を頼っての2度も此処に逃れ、 久下氏もよく此れを護り危機を支えています。
毘沙門堂(本堂)の紅葉

尊氏寄進の建武4年銘の鰐口や天下平静祈願の教書等、 数多くの貴重な資料が現存していて当寺が足利氏とゆかりが深いことをうかがわせます。この時代が当寺の最も栄えた時でした。天正7年(1579)織田信長の「丹波攻略」に遭い、 丹波黒井城を攻める明智光秀軍の援軍として播磨側から侵攻した羽柴秀吉の将:丹羽長秀軍の猛攻に、石龕寺城(岩屋城・三輪城)に籠もる広沢綱忠や、
8町石(応永6年の造立銘有り)

玉巻城(久下城)の久下重治らの城は落城し、 其の兵火により南大門だけを残して全山ことごとく焼失しました。江戸時代以降、衰微する中で歴代住職や信徒の尽力によって法燈を護り、徐々に復興し奥の院 ・毘沙門堂(本堂)・持仏堂・庫裏・客殿等、 現在の境内の景観を見るに至りました。山門(仁王門)の金剛力士像は仁治3年(1242)肥後法橋定慶の作で、東大寺の金剛力士像に並ぶ傑作とされ国重要文化財となっています。
(山南町・文化財のすがた昭和59年版 現地案内板参項)


史跡・石龕寺町石について

山南町小川地区には村森から足利橋を経て石龕寺奥の院に至る約4kmの岩屋道には一町ごとに25基があり、 現在では岩屋に18基・井原に6基・村森に1基残っています。また久下地区の金屋より山越えで奥の院に至る 寺坂道に5基の30基が、石龕寺へ道筋に「道しるべ」として、寺に至る距離(本堂より何丁かを示す)町石が残されています。1m前後の五輪卒塔婆形が多く、 正面に仏像や梵字が彫られており8町石には室町時代初期の応永6年(1399)願主乗泉と建立年代を銘記された、金文石としても貴重なものとなっています。
12町石は仁王像
16町石(岩屋公会堂前)


室町期の石龕寺町石は県指定史跡(昭和40.3.16)です。町石として古いものでは大阪・箕面勝尾寺の豊能自然歩道にあるものが最古!で宝治元年(1247)に、高野山のものが文永3年(1266)に建てられています。 これからみても中世におけるの盛況を偲ぶことが出来ます。
高野山のは町石が建てられる以前には木札(木柱)が建てられていたので、本意からすれば是が最古かも!!!!!!!

 山南三山周辺の山案内   
山南三山石龕寺岩屋山〜石戸山〜八ノ瀬 〜高見城山  慧日寺 〜萬松山〜東山・常勝寺 /竹林山)

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