山南三山と紅葉三山

山南三山 【丹波市山南町】 岩屋山石龕寺(高野山真言宗)
      竹林山常勝寺(天台宗)/萬松山慧日寺(臨済宗)
紅葉三山【丹波市】  岩屋山石龕寺(山南町岩屋)
瑞巌山高原寺(青垣町) 永谷山円通寺 (氷上町御油)

常勝寺参道脇
丹波のおはなし  八百姫髪塔


竹林山常勝寺(山南町谷川)
法道仙人の開基といわれる氷上郡内屈指の古刹で、本尊・千手観世音菩薩立像 (藤原時代)と薬師瑠璃光如来坐像は共に国の重要文化財に指定されています。 本尊は秘仏で33年に一度開扉され毎年2月11日に行われる追儺式「鬼こそ」は有名で無病息災と五穀豊穣を祈って行われる祭礼では、 多くの観光客で賑わう天台宗の寺です。新丹波の七福神霊場(寿老人)です。
常勝寺参道

萬松山慧日寺(山南町太田)
室町時代前期(南北朝期)の永和元年(1375)足利幕府三代将軍義満の管領であった細川頼之・頼元親子を開基とする臨済宗妙心寺派の中本山で 特峯妙奇禅師(1299-1378)【仏国国師(高峰顕日<1241-1316>後嵯峨天皇の皇子で那須雲巌寺開山)に師事した法嗣】により開創された。独立した一本山として塔頭(山内)寺院18坊・46ヶ寺の末寺を擁して大いに栄えた丹波禅宗の中心的存在の古刹です。慧日寺開山の仏印心伝特峯妙奇を号し天竜寺開山の夢窓疎石(生前・没後併せ七人の天皇から国師の号を授けられ七朝国師と称し尊崇される 夢窓国師)とは兄弟弟子。そのため天竜寺とも盛んに往来があり仏光国師・夢窓国師・特峯禅師画像(いずれも室町時代の作)等が県重要文化財に指定されています。
慧日寺・仏殿裏庭園

参道先には古刹には似合わない?小さな門が建つが惣門と三門(山門)を兼ねた重要な門。禅寺(臨済宗・曹洞宗等)では参道入口に在る門を惣門と云い、仏殿を涅槃と見て其れに至る門を三門(山門)【三解脱門の略・丹波市指定(昭和54年3月13日)重要文化財】と云い創建時(1375)南北朝期の惣門が元禄の再建時に三門(山門)として移設されているが創建時を偲ぶ唯一の建造物と推察されます。三門を潜る境内正面に仏殿【県指定(昭和60年3月26日)重要文化財・元禄 15年3月再建上棟】が建つ。
慧日寺・方丈裏庭園

内部の内陣が鏡天井の龍の絵は寺宝で必見です。右手に経蔵・鐘楼、仏殿から北へ渡廊下で方丈(本堂)・庫裏へと格式を保つ建造物で有名です。仏殿奥には池庭を挟んで涅槃堂が建つ。丹波市山南町は桧皮葺の技術を持った職人が 多かったと云われ、その伝統技術の伝承と育成にと造られた研修施設「山南ふるさと文化財センター(旧・檜皮の里会館)」が篠場地区にある。全国に此処だけの施設だったが京都にも施設が出来た為今では交代で研修されている様です。また桧皮葺や柿葺(コケラブキ)に用いられる竹釘は全国でたった一軒・山南町の専門業者が製造しているだけ。
慧日寺堂宇 (仏殿・方丈・庫裏・鐘楼)

全国桧皮葺サミットが丹波市で行われた際、此の鐘楼が桧皮葺葺き替えを兼ねて技術実習・研修に充てられた様です。鐘楼の鐘は”座して撞く”が一般参賀の除夜の鐘等では鐘楼下部から撞ける様に 延長ロープが用意されていた。御住職により阪神大震災慰霊の為追悼が例年1月17日(休日で無い時は事前の休日)に行なわれ、亡くなられた一人一人の為に一回ずつ、檀家の人達により二日間をかけて鎮魂の鐘が突かれます。また今年(2010)は亡くなられた六千余柱に供養の線香を立て、其の木鉢と灰も檀家の人達により用意されていると聞く。
石龕寺もみじまつり:仁王門から続く石畳の参道

また尼崎で起きたJR福知山線脱線事故の犠牲者追悼も行なわれます。織田信長の天下布武の号令のもと天正3年(1575)「丹波攻略」の大将:明智光秀の丹波攻めの兵火によって常勝寺と共に焼失するが寛永元年 (1624)より大愚禅師によって復興が進められ寛永19年(1642)京都妙心寺より別心禅師が入山され
石龕寺もみじまつり:毘沙門道前にて

慶安(1648-52)年間にかけて堂宇再建が進められ、この頃より妙心寺の末寺となった。寛文7年(1667)再度堂塔を全焼するが翌年:妙心寺の生鉄禅師により再建が進められ、現在の堂塔は寛文12年(1672)〜(1702)元禄15年頃にかけて建てられた。古刹:慧日寺を後にするとき萱葺き屋根の方丈(本堂)と庫裏の葺き替えだけでは済みそうにない程の傷みが気になった。少ない檀家(80軒ほど)では早急な修復は難しそう。



 慧日寺の八百姫髪塔

慧日寺へと屋根付き橋を渡り、杉・桧に囲まれた参道を進むと三門(山門)までの手前左手に「脱離墳」と彫られた苔生す碑が建つ。”八百姫髪塔”とも付記されており若狭国(福井県小浜市)の高橋長者の娘として生まれたが若くして婚せず剃髪して 仏門に入った八百比丘尼伝説が此の丹波にも遺されていました。数ある比丘尼伝説による最終章は故郷若狭の空印寺の 岩窟に入定したはずの八百姫だが丹波の山里:慧日寺で天寿を終えたと伝えます。
屋根付橋からの参道がカーブする辺り左手に脱離墳がある

諸国を巡礼し諸々で堂宇を再建・道を造り・橋を架け・迷い苦しむ衆生を悟して道を説く。長い法悦の旅を続けて若狭に帰っても仏に仕えていた。或る日:諸国遍歴の折に訪ねた慧日寺中興開山の別心和尚のもとに、もう一度参じて訓を受けたいもの…と、その夜のうちに旅装を整え早朝に若狭を旅立った。もはや相当の年に達していた八百姫の容姿は常に17〜8歳の様で、 人々は白比丘尼とか長良の尼とよんで崇めた。
続く石畳の参道

川代の山桜に杖をひく白比丘尼の姿はいつも白椿の様に美しかった。慧日寺に在ること数年・椿の花の咲くころ白比丘尼は同寺で安らかに天寿を終え、鉄山和尚(生鉄禅師か?)は其の仏心を憐れみ、遺骸を遠く若狭常光寺へ葬送したが、比丘尼が持っていた若き日に仏門に入る為剃髪した際の黒髪を慧日寺の三門前に埋めたのが八百姫髪脱離墳と伝えられる
(現地:慧日寺の案内板・山南町・文化財のすがた・丹波叢書「由緒を尋ねて」を参項)


石龕寺と足利尊氏ゆかりの”もみじ祭り”

丹波市山南町の名刹:岩屋山石龕寺(高野山真言宗)・竹林山常勝寺(天台宗)・萬松山慧日寺(臨済宗)が山南三山石龕寺は足利尊氏ゆかりのもみじ寺で「ひょうご風景100選」にも選ばれ ており、とりわけ本堂(毘沙門堂)からの眺めが見事です。また丹波もみじ三山として、
毘沙門堂からの眺め
青垣町の西天目端厳山高源寺・氷上町の永谷山円通寺と共に 紅葉観光ツアーコースとして観光客を集める歴史ともみじのスポットです。
仁王門から参道

「石龕寺もみじまつり」は昭和63年に村おこし事業の一環として毎年11月第3日曜日に実施されるようになり今年(H15.11)で第15回となりました。伝統の護摩法要により参拝者の健康を祈願し足利尊氏が率いる久下氏一族を偲ぶ武者行列のほか 毎年変わった趣向で 籠かきレース等のイベントも平行して実施されていましたが今年は?? 武者行列は山南町井原:日吉神社を出発して石龕寺までの約3kmを練り歩きます。 沿道には室町時代石龕寺町石(県指定史跡)も残る。山門に立つ桜材の寄木造りで彩色が施されている仁王像(金剛力士像)は鎌倉時代・仁治3年(1242)仏師・肥後法橋定慶の作で国指定重要文化財(昭和31.6.28)に
足利尊氏・義詮(もみじまつり武者行列)

指定されています。また本堂前の石段左手には中国原産スギ科「コウヨウザン」があり高さ37mは県下でも最大のものです。南北朝期:足利尊氏が弟・直義と争った「観応の攪乱」に破れ京都から播磨へ逃れる際、嫡子の義詮を此処に留めた。「都をば 出て落ち栗の芽もあらば 世に勝ち栗とならむものかは」 丹波栗のルーツは此処山南町岩屋と云われ
もみじまつり時代行列の 足利尊氏・義詮父子

代表的な「長光寺」「てらうち」なかでも
ててうち栗は足利義詮の伝説 「爪あと栗」として伝えられています。「石龕寺略縁起」によると 石龕寺は弟31代用明天皇の丁未の年 587年:聖徳太子の開基と伝えられる古刹で、太子が深く帰依された自彫の毘沙門天王を本尊として古くから栄えた寺で、客殿前の谷側にある「大槽(おおぶね)谷の水」は名水・霊水として持ち帰る人もあるようだが、この水で聖徳太子が毘沙門天像を洗い、
足利尊氏・義詮父子も山門からは下馬して毘沙門道へと参道を向う

水面が絶えず黄金に輝いていたとの伝説がある。毘沙門天(多聞天)は北方鬼門の守護神とされ単独で祀られる際は毘沙門天と呼ばれます。東方(持国天=提頭頼咤天)・西方(広目天=毘楼博叉天)・南方(増長天=毘楼勒叉天)と共に四天王の一人。此の大糟谷には土師器等各年代の土器の破片が出土し、旺盛期の僧坊跡の削平地が点在します。
足利尊氏 ・義詮父子も山門からは下馬して毘沙門道へと参道を向う

平安時代:村上天皇(在位・天暦-康保:946-967)の帰依厚く村上天皇が小野道風に命じて寺号の勅願を賜り、諸堂宇を建立したといわれます。小野道風に書かせ下賜させたと伝えられる石龕寺扁額や鎌倉時代の仏師:定慶作で、奈良東大寺南大門の金剛力士像(仁王)に次ぐ名作として国重要文化財指定を受けています。
毘沙門堂に必勝祈願・・

また足利尊氏所縁の品々の他ててうち栗由来の版木(江戸時代)等も残されています。鎌倉時代から室町時代にかけて 地元武士の崇敬厚く「太平記(29巻)」には観応2年 (1351)1月尊氏は弟直義との抗争「観応の擾乱」に敗れて一時、京都を逃れ播磨:書写山に再挙を図り赴く途中、久下氏を頼ってこの地に身を寄せ其の子:義詮には仁木頼章・義長兄弟をつけて約2000騎を岩屋の石龕寺に留め、当寺の宗徒も忠誠をつくし久下・荻野・波々伯部氏等の 武士が馳せ参じたとあり3月に丹波より上洛するまでの2ヶ月間(50日余り) この地に留まっていたと思われ室町期に大きく発展するきっかけとなっています。
毘沙門堂 (本堂)の紅葉
毘沙門堂(本堂)への参道


石橋山の合戦(箱根)で敗北し再起を図って平氏打倒の兵を挙げた源頼朝の陣に手兵を率いて真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じた久下次郎重光 (熊谷次郎直実の兄)にその忠誠を賞賛して「一番」旗と家紋を賜って後に栗作郷(久下・上久下地区)の地頭職に任ぜられたが北条氏の六波羅軍(京都)を攻める篠村八幡宮での挙兵に足利尊氏のもとへも1番に馳せ参じ、丹波の久下氏を頼っての2度も此処に逃れ、 久下氏もよく此れを護り危機を支えています。尊氏寄進の建武4年銘の鰐口や天下平静祈願の教書等、数多くの貴重な資料が現存していて当寺が足利氏とゆかりが深いことをうかがわせる。この時代が当寺の最も栄えた時。正7年(1579)織田信長「丹波攻略」に遭い丹波黒井城を攻める明智光秀軍の援軍として播磨側から侵攻した羽柴秀吉の将:丹羽長秀軍の猛攻に石龕寺城(岩屋城・三輪城)に籠もる広沢綱忠や玉巻城(久下城)の久下重治らの城は落城し、
毘沙門堂 (本堂)の紅葉
8町石(応永6年の造立銘有り)


其の兵火により南大門だけを残して全山ことごとく焼失しました。江戸時代以降、衰微する中で歴代住職や信徒の尽力によって法燈を護り、徐々に復興し奥の院・毘沙門堂(本堂) ・持仏堂・庫裏・客殿等、現在の境内の景観を見るに至りました。山門(仁王門)の金剛力士像は仁治3年(1242)肥後法橋定慶の作で東大寺の金剛力士像に並ぶ傑作とされ国重要文化財となっています。
(山南町・文化財のすがた昭和59年版 現地案内板参項)


史跡・石龕寺町石について

山南町小川地区には村森から足利橋を経て石龕寺奥の院に至る約4kmの岩屋道には一町ごとに25基があり、現在では岩屋に18基・井原に6基・村森に1基残っている。また久下地区の金屋より山越えで奥の院に至る寺坂道に5基の30基が石龕寺へ道筋に「道しるべ」として寺に至る距離(本堂より何丁かを示す)町石が残されています。1m前後の五輪卒塔婆形が多く、正面に仏像や梵字が彫られており8町石には室町時代初期の応永6年(1399)願主乗泉と建立年代を銘記された、金文石としても貴重なものとなっています。
12町石は仁王像
16町石(岩屋公会堂前)


室町期の石龕寺町石は県指定史跡(昭和40.3.16)です。町石として古いものでは大阪・箕面勝尾寺の豊能自然歩道にあるものが最古!で宝治元年(1247)に、高野山のものが文永3年(1266)に建てられています。これからみても中世における盛況を偲ぶことが出来ます。高野山のは町石が建てられる以前には木札(木柱)が建てられていたので本意からすれば是が最古かも!!!!!
 山南三山周辺の山案内 
山南三山石龕寺 岩屋山〜石戸山〜八ノ瀬 〜高見城山  慧日寺〜萬松山〜東山・常勝寺/ 竹林山)
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