| 丹波市山南町 山南三山と紅葉三山の石龕寺 |
山南三山【丹波市山南町】 岩屋山石龕寺(高野山真言宗)
山として大いに栄えたました。経蔵、鐘楼等格式を保つ建造物で有名ですが仏殿(県指定重文)の天井の龍の絵は寺宝で必見です。特峯禅師は天竜寺の夢窓国師とは兄弟弟子で、
天竜寺とも盛んに往来があり仏光国師・夢窓国師・特峯禅師画像(いずれも室町時代の作)等が県重要文化財に指定されています。
一族を偲ぶ武者行列のほか毎年変わった趣向で籠かきレース等のイベントも平行して実施されていましたが今年は??
「コウヨウザン」があり高さ
37mは県下でも最大のものです。南北朝期、足利尊 氏が弟・直義と争った「観応の攪乱」に破れ京都から播磨へ逃れる際、嫡子の義詮を此処に留めた。「都をば 出て落ち栗の芽もあらば 世に勝ち栗とならむものかは」丹波栗のルーツは此処山南町岩屋と云われ
れます。
なを東方(持国天=提頭頼咤天)・西方 (広目天=毘楼博叉天)・南方(増長天=毘楼勒叉天)と共に四天王の一人です。此の大糟谷には土師器等各年代の土器の破片が出土し、旺盛期の僧坊跡の削平地が点在します。
道風に書かせて下賜させたと伝えられる石龕寺扁額や、鎌倉時代の仏師:定慶作で、奈良東大寺南大門の金剛力士像(仁王)に次ぐ名作として国重要文化財指定を受けています。
代)等も残されています。鎌倉時代から室町時代にかけて地元武士の崇敬厚く「太平記(29巻)」には観応2年 (1351)1月尊氏は弟直義との抗争「観応の擾乱」に敗れて一時、京都を逃れ播磨:書写山に再挙を図り赴く途中、
久下氏を頼ってこの地に身を寄せ其の子、義詮(よしあきら)には仁木頼章・義長兄弟をつけて約2000騎を岩屋の石龕寺に留め、当寺の宗徒も忠誠をつくし、
々伯部氏等の 武士が馳せ参じたとあり3月に丹波より上洛するまでの2ヶ月間(50日余り)この地に留まっていたと思われ、室町期に大きく発展するきっかけとなっています。
石橋山の合戦(箱根)で敗北し、再起を図って平氏打倒の兵を挙げた源頼朝の陣に手兵を率いて真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じた久下次郎重光(熊谷次郎直実の兄)に、
、栗作郷(久下・上久下地区 )の地頭職に任ぜられたが、
北条氏の六波羅軍(京都)を攻める篠村八幡宮での挙兵に、 足利尊氏のもとへも1番に馳せ参じ、丹波の久下氏を頼っての2度も此処に逃れ、 久下氏もよく此れを護り危機を支えています。
の建武4年銘の鰐口や天下平静祈願の教書等、
数多くの貴重な資料が現存していて当寺が足利氏とゆかりが深いことをうかがわせます。この時代が当寺の最も栄えた時でした。天正7年(1579)織田信長の「丹波攻略」に遭い、
丹波黒井城を攻める明智光秀軍の援軍として播磨側から侵攻した羽柴秀吉の将:丹羽長秀軍の猛攻に、石龕寺城(岩屋城・三輪城)に籠もる広沢綱忠や、山南町小川地
区には村森から足利橋を経て石龕寺奥の院に至る約4kmの岩屋道には一町ごとに25基があり、
現在では岩屋に18基・井原に6基・村森に1基残っています。また久下地区の金屋
より山越えで奥の院に至る
寺坂道に5基の30基が、石龕寺へ道筋に「道しるべ」として、寺に至る距離(本堂より何丁かを示す)町石が残されています。1m前後の五輪卒塔婆形が多く、
正面に仏像や梵字が彫られており8町石には室町時代初期の応永6年(1399)願主乗泉と建立年代を銘記された、金文石としても貴重なものとなっています。
12町石は仁王像![]()
16町石(岩屋公会堂前)
室町期の石龕寺町石は県指定史跡(昭和40.3.16)です。町石として古いものでは大阪・箕面勝尾寺の豊能自然歩道にあるものが最古!で宝治元年(1247)に、高野山のものが文永3年(1266)に建てられています。
これからみても中世におけるの盛況を偲ぶことが出来ます。
高野山のは町石が建てられる以前には木札(木柱)が建てられていたので、本意からすれば是が最古かも!!!!!!!
山南三山周辺の山案内
山南三山石龕寺岩屋山〜石戸山〜八ノ瀬
〜高見城山 慧日寺
〜萬松山〜東山・常勝寺
/竹林山)
| SEO | [PR] お金 ギフト 冷え対策 わけあり商品 | 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO | |