常勝寺「鬼こそ」      丹波市山南町谷川十区

山南三山の一つで丹波でも屈指の名刹:竹林山常勝寺(天台宗)で2月11日に行われる鬼追い式「鬼こそ」 行事ですが、明治初年までは節分の夜に行われていました。播磨・阪神地区等では多い追儺式(鬼追い式 )の行事ですが、丹波地方では此処だけに残ります。約610年?の歴史を持ち、常勝寺開山の祖・法道仙人が鬼を改心させた伝説に由来する珍しい追儺式です。
先導の法道仙人を先導する導師(竹仙人さん)!H17.2


法道仙人の法力により 徳化された鬼たちは「鬼追い」 追われることは無く、むしろ人々をの悪魔・災難から護ってくれる「追儺」(仏の化身)でもあるかのように親しまれています。先ず本堂で今年一年の国の平穏と、里人の無事息災や五穀豊穣と、天台宗の経に説かれる”七難即滅・七福即生”を祈願する法要の後、 五色の御幣を持つ法道仙人(常勝寺開山)に扮した檀徒児童の先導で、
”鬼こそ”松明を投げる一番鬼

常に手で支えている必要があるほどの大きな面をつけ白い紐で縛られた四匹の鬼は、 其々に病気や火災等火・水・風・雨を表すと云う。本来は災厄をもたらす四つの難ですが、此処では幸いをもたらすものとされます。一番鬼の赤鬼が燃えさかる松明を持ち、続く二番青鬼が鉾・三番赤鬼が太刀 ・四番青鬼が錫杖を持ち、檀徒役員や僧侶等による法螺貝や太鼓 ・鐘・鉦等の仏具を打ち鳴らす・凄まじいばかりの囃子に合わせて本堂内陣(御本尊前)での餅掛け

松明を投げて”鬼こそ”は終了

【搗いた餅を長くまるめて綯った縄に掛けて 干したものが掛餅】にかけた大餅を矛と太刀で切る「餅切り」、本堂外陣での「火供え」 ・松明と矛を数回合わせる「火合わせ」・面と面を合わせる「面合わせ」の儀式の後、本堂の廻縁を一周して厄難払いを行う伝統行事で、此の騒々しさこそ【鼓掻】が 鬼こその名の所以といわれます。
松明を投げて”鬼こそ”は終了

足を踏み鳴らし本堂の回廊を一回りしますが、六方を踏む其の仕草が何処と無くぎこちなくユーモラスです。法道仙人の法力で徳化された鬼たちは、鬼は外と追出されることが無いのが鬼追いとは異なります。 本堂の回廊を一周した後・赤鬼が持った松明を庭に投げ込んで終了しますが、
法道仙人を囲んで鬼の面々

松明は1年間の「家内安全」「無病息災」の厄除けに御利益があるとされ、参拝者が競って奪いあうようにして持ち帰ります…が、 例年みぞれ混じりの天気で地面も濡れており、フイナーレの主役は: 松明に殺到するのは元気な子供たち!!。常勝寺の”竹仙人さん”が 竹林精舎HPを運営されており、寺院の寺伝や伝統行事についての 詳細レポートがあり恐縮なんですが…
投げられた松明に殺到する参拝者!?

「鬼こそ」に使用される鬼面は 現在3代目で柏原藩陣屋の玄関脇にある田すて女像の作者 磯尾柏里氏の手になるもので、他地方の物に比べても大きく、飛び出した大きな目玉と・振り乱した髪の鬼面、 身体から足元まで白い紐で縛られて鬼が六法を踏んで(歩く動作を強調して)練り歩く動作ともマッチして、ユーモラスと力強さに溢れた作品となっています。

竹林山常勝寺(天台宗)   山南町谷川十区

丹波市山南町の名刹 :岩屋山石龕寺・萬松山慧日寺・竹林寺常勝寺を山南三山と呼ばれます。山号石碑側の普門橋(小さな石の橋)を渡ると長い石段道が続きますが、 先ずは山門(仁王門)を潜り365段有ると云う真っ直ぐ本堂に延びる石段の左右に弘法大師と並ぶ各霊場の観音像が
普門橋から山門〜長い石段道が本堂前へ

石窟祠に祀られ鬱蒼とした杉が 立ち並んでいましたが、 昨年(H16)台風被害で多くの杉木が参道に倒れ、 伐採・整備されています(H17.2月)。孝徳天皇の大化年間(645〜650)インドより渡来した法道仙人の開 基を伝える丹波市屈指の名刹で
本堂前で「鬼こそ」を待つ

観音山に七堂伽藍が建てられ寺運隆盛を極めた頃には 120を超える堂宇があったとも伝えられ、鐘楼脇から続く山道の奥には植林や雑木藪の中に堂宇跡の平坦地が残っています。永保3年(1083)天災により堂宇尽くが燃亡したが其の後・槇尾山 施福寺(和泉市・天台宗)浄意上人によって本堂・諸堂等を復興(年月等不詳)された。
本堂裏(観音山!?)山中の中本堂跡

久下地区一帯(栗作郷)に勢力を張っていた国人領主 久下氏(久下城主)の庇護を受けて援助があったものか?。 山名氏が足利幕府に叛乱した明徳の乱(1391)に丹波の諸領主と共に山名氏に付いたが、久下氏は山名氏から離れ幕府方(足利義満)に付き、其の後も代々将軍から栗作郷の所領お安堵されている。 応仁の乱(1467-77)頃には久下氏勢力は衰退していくので、”鬼こそ”起源は久下氏勢力のあった応永年間(1394-1428)はじめの頃と思えます。
本日のヒーローは法道仙人役の地元小学生

織田信長による丹波攻略の命で 明智光秀の丹波侵攻が始まった天正3年(1575)丹波市の同・慧日寺(山南町)や高源寺(青垣町)等多くの寺社が兵火に罹り焼亡しています。桃山時代末期・慶長年間(1596-1615)末には観音山山中に慈眼院をはじめ箇僧坊の名が残されており中興していたようですが、 寺運到らず当山住僧智光法印堂宇造営中のところ、高僧の死により中途で遷化、其の後・大塔中堂は中絶し、
常勝寺「鬼こそ」案内板より

本尊等は山麓の里に安置され里人により護持されてきたが、 元禄10年(1697)良海法印により再興され、文久元年(1861)まで慈眼院ほか4僧坊の名がみえるが以後・慈眼院のみで現在に至っています?。開祖は法道仙人なので本尊は十一面千手観世音菩薩立像(藤原時代末〜鎌倉初期の作・銅像)ですが、秘仏として33年に一度開扉されます。
”鬼こそ”四匹の赤鬼と青鬼

元奥の院の本尊 :薬師瑠璃光如来座像(鎌倉時代・木造)と共に国指定【明治44年(1911)4月】の重要文化財に指定されています。七難即滅・七福即生をと、無病息災を祈願して当山で行われる伝統行事の追儺式 「鬼こそ」で知られます。
(常勝寺現地案内板 山南町文化財のすがた を参照)

山南三山周辺の山案内
山南三山(石龕寺 岩屋山〜石戸山 〜高見城山 慧日寺天狗山〜萬松山〜東山・ 常勝寺 竹林山)

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