丹波市の伝説  手々打ち栗・蛇山岩尾城・天狗岩・嫁ヶ橋
T 手々打栗
U
蛇山岩尾城の猟奇伝説
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青田の天狗岩と大河の嫁ヶ橋


T 岩屋・石龕寺「手々打栗」    丹波市山南町岩屋

山仲間の皆様なら石龕寺城や足利尊氏に関心は無くても 兵庫 50山の石戸山を挟んで柏原側の高見城山や山南・岩屋山は御存知ですね。岩屋山は子供の頃ロウセキ山と呼んでいた 金屋鉱石採掘跡です。ケーブルで石を切り出し降ろしていたところが石龕寺仁王門の横でした。
もみじまつり:日吉神社より出発する足利尊氏一行H17.11.18

母校・小川小学校校歌で
♪朝夕仰ぐ 岩屋山…と歌っていた山は発破の音も遠い昔になりました。 この石龕寺は足利尊氏と息子の義詮(ヨシアキラ)に所縁深く私のハンドルネーム「ててうち栗」「爪あと栗」の伝承があります。
搗栗の一種ててうち栗には数説があります。てんでに取る意味、手中に満つるの意味で手内栗、 「苞自ら裂けて子落ちる」の意味から出て落栗、京都・船井郡の地名「鼓打」から転化したとの説等・・段々怪しくなってきますのでこのへんで。丹波の搗栗(カチグリ)が勝(カチ)に通じるところから生まれた伝説ではありますネ。
栗林の中:石龕寺に向う足利尊氏・義詮父子の「もみじまつり」武者行列


正平6年 (観応2年 1351)1月、桜井直常等との戦いに京を追われた足利尊氏親子は栗作郷の久下氏を頼って丹波国岩屋の石龕寺へ落ちて来た。尊氏が九州へ落ち延びる出兵に際し 2000余騎の兵と共に石龕寺に留まった息子・義詮に寺僧が差し出した栗に「勝栗」のことを思い出し 「都をば出て落ち栗の芽もあらば 世にかち栗とならぬものかは」と詠んで、栗に爪の跡をつけ土に埋めた。 「この栗の生い茂るがごとく、我が足利の旋風を天下になびかさん 再び余が帰りくる日までに繁く実のれ」と。
石龕寺城山裾に石龕寺・二悲両紋付近に奥の院

再挙の旗をなびかせ九州を立ち、湊川での一戦では楠勢を破り天下に号令する頃には、その栗は芽を吹き実をつけたが、不思議なことに栗の実に爪痕が鮮やかに付いている。 手づからの栗ということで、名づけて手々打栗といい栗の奇形児は、かち栗の名とともに全国に有名となり 「父打ち(ててうち )」とも伝えられます。その実をもらい受け、他の土地に植えても同じようには育たなかったようです。この栗の原木は枯れ、栗のいわれを書いた版木(上記・霧の里2参照)が残されている。 この話は主人公が足利尊氏であったり、義詮になったりですが大筋で同じ内容です。
石龕寺:毘沙門堂

仁木頼章(後の丹波守護 ・高見城主)と共に石龕寺城に残った義詮には「将軍屋敷跡」等史跡・伝承の地がありますので話としても面白いでしょう。
「天に二つの日無く、 国に二人の君無し」と京都/吉野両都をめぐる南北朝期は、北に足利、南に新田、楠が争っていた後醍醐天皇の頃。足利尊氏は二度京都を追われ、二度とも丹波・石龕寺へ逃れて来ています。 「一番」旗の久下氏を始め近隣の多くの武将が尊氏を守ってくれるからでしょう。


U 蛇山岩尾城の猟奇伝説  丹波市山南町和田

和田の北から南へ尾を引く小高い山の背に 岩尾城があり 蛇の子を産んだという家中の人妻にまつわる猟奇伝説です。永禄年間統治していた谷兵部介に世継の男子がなく、甥にあたる文武両道の青年武士・和田斉頼 を一人娘の婿養子に迎えます。のちに斉頼は養父兵部介を殺害して姓を和田日向守斉頼と名乗り領主となりましたが、 その後亡霊に とりつかれたか、悪夢に悩まされ家臣を惨殺することが再々で家中にも異変が次々おこり己の罪の深さに心晴れぬ日々を、もだえ苦しんでいた頃。
岩尾古城の物見台 (土塁)から天守台H17.01.02

同じく信州から従えて来た家臣Aとその妻の身にも大きな変化がおきていました。 ある日・城勤めを終えて帰ってきたAを迎える妻の姿はさみしく、にこやかに迎えてくれる筈の身振りもよそよそしかった。その後・妻の様子は常と異なり、はた目にもそれと感じられ、ものに憑かれたような妻の挙動に 不審を抱いたAは「一晩寝ずに看病してやろう」とひそかに傍に眠っている妻をうかがっていた。やがて夜も白む頃何事も無く思い過ごしであったかと心の緊張をゆるめつい、ウトウトと浅い眠りに落ちていた…ふと目を覚ました Aは意外な物を見てハッとした。 傍に寝ている妻の髪は夜霧の中を歩き回ったかのようにびっしょり濡れていた。 自分がしばらく、まどろんでいる間に妻が何処へ出かけられよう。やさしい妻に聞き出すことを差し控えてその日もいつものように登城した。
岩尾城・西ノ丸から本郭

その事があって後、毎夜髪を濡らした妻の寝姿に「これは不思議。何かある」とある日城を下り親友達を訪ね歩き帰宅すると、 玄関も雨戸も閉められていた。ものの怪を感じて、怪しみながら小窓からソット家の中を覗いて驚いた。妻がうなり声を吐いて苦しみのた打ち回っている。そして妻の腹からは蛇の子が何匹も産まれ出て這いまわっていた。 びっくりした男は生まれ故郷の信州に逃げ帰り再び和田へ帰ることは無かったという。そして岩屋の城には相次ぐ不測の災いが続いて、さしもの領主和田日向守斉頼は天運に抗すべくもなく不遇の生涯を城とともに終えたという。


V 青田の天狗岩と大河の嫁ヶ橋     丹波市山南町青田・大河

青田の天狗岩

血で呼ぶ雨乞いの奇習 天狗岩は青田集落の雨乞い 奇承伝説として残っています。
以前は大岩石が二つに分かれて突き立っており天狗が住んでいると伝えられていたが、今は片方が崩れ木々にも隠れて目立たない存在(現在は周辺伐採され)の露岩(10m程度)です。 戦乱の世では農民も随分苦しめられていたようで、戦いが起きると御用米をとられ、旱魃で食うものもなく収穫も無い。そんな折に死を求めて天狗のいる山へ登って来た痩せ衰えた農民が、この岩場を見つけ此処で死のうと …飛び掛ってきたきたのは大きな山犬に襲われ岩が血に染まったが、今まで晴れていた空が俄かに曇り、大粒の雨が振り続き大旱魃も一昼夜降り続いた雨で、里では生気を取り戻した。…そこで岩の上に血を流すと 天狗が怒ってその血を 洗い流すために雨を降らすのだということで、旱魃のときは人柱をたてて岩の上で切る慣わしと成った。…血であれば犬でも同じと近年(明治初期頃)まで、このしきたりは続いていたということです。

大河の嫁ヶ橋
県道77号沿い・丹波竜化石発見(世界的にも初:全身骨格出土の実現性を帯びてきた)に沸く発掘現場から約4km下流 ・篠山川に架かる太田橋を渡った西側に大歳神社が見え其の手前に、川岸から迫(せ)り出すように竹の茂る一画があり、説明板が立てられています。 何処が地区境界か分かりませんが此処は大河地区になっています。其の昔・大河には板橋が架かっていて”嫁ヶ橋”とよばれて、次のような話が伝わります。
嫁ヶ橋(中央竹薮)と西山城

今は河川改修で川幅が拡がり位置も変わって分かりにくくなっていますが「丹波のむかしばなし(第一集)」に蒐集されています。 此の板橋近くにキツネの親子が住んでいて、村人達の大事な鶏や池の鯉を盗むので困っており有る日・親子が寝ているうちに 入口の穴を塞いでしまいました。出られず腹も減って動けなくなったキツネの親子を助けた”おみっちゃん”に、村人達の中には悪口をいう人も有りましたが、親子の喜ぶ姿を思い浮かべ我慢していました。
大歳神社前の川岸から嫁ヶ橋(竹薮)   

何年かたって ”おみっちゃん”の嫁入りの日・貧乏で普段着のまま、小さな風呂敷を背負った母と板橋にさしかかります。幼い頃助けたキツネの親子達が集まっていて、立派な花嫁衣裳が用意されており駕篭に乗せられ板橋を渡ります。 賑やかな嫁入り行列を見送った村人達は”おみっちゃん”を祝福します。それ以来・是の板橋を「嫁ヶ橋」と云い、娘の嫁入りの時には是の橋を渡り、其の幸せを祈ったいうことです。
(現地 ”嫁ヶ橋”の案内板参照)


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