丹波の赤鬼・赤井悪右衛門直正の黒井城を巡る城砦群

丹波市 ( 五万図=生野 )
全山要塞の黒井城城砦群T 東山砦〜龍ヶ鼻砦 2005年4月24日
全山要塞の黒井城城砦群U 兵主西砦〜千丈寺砦  2005年5月08日
平材(?平林)城館から望む黒井城
千丈寺砦から西ノ丸と黒井本城・背後は妙高山と鋸〜三尾山

丹波のお話  兵主神社と鏡石 兵主神社
丹波の史跡: 七日市遺跡  梶原遺跡


戦国時代の山城で明智光秀の丹波攻めに最後まで残った「丹波の赤鬼」赤井悪右衛門直正の 黒井城(国指定史跡)は其の本城・猪ノ口山365mの周囲約8kmにわたる山全体が巨大な要塞となっていて、 山中いたるところ三方に拡がる尾根上に、また其の枝尾根末端にも多くの城砦が築かれていました。


黒井城  黒井城を巡る城砦群T【東山砦 的場砦 多田砦 東出丸 北ノ丸 西ノ丸 龍ヶ鼻砦百間馬場】
黒井城を巡る城砦群U 【兵主西砦 千丈寺砦 行者山砦 太鼓の段】
黒井城を巡る城砦群V
    【坂内城館  東城館(白毫寺城) 東白毫寺城 梶ヶ谷城館  平材(林?)城館と坂折城館



全山要塞黒井城本城を巡る城砦群【其の一】  東山砦〜西ノ丸〜龍ヶ鼻砦へ 2005年4月24日
七日市から東山砦〜的場砦〜多田砦〜東出丸〜北ノ丸〜保月本城〜西ノ丸〜龍ヶ鼻砦〜百間馬場〜多田地区へ
先日・城サイトMLメンバを案内して、 法光寺城〜蕪丸(奥谷城)〜八上城を縦走し篠山川沿いに八上城の向城となった砦群を廻ってきた。丹波富士としても親しまれ登られる高城山ですが、城フアンも余り訪れない明智の八上城攻め向城や、朝路池”西の番所”の曲輪を廻って来ましたが、 此処・黒井城(保月城)についても其の城砦群や向城(陣場や城)の訪城レポートについての訪城レポートを余り見かけません。
赤井氏宝筐印塔
黒井城三の丸櫓台から東山砦(先端)と的場砦(中央下)


黒井城も・其の大部分は登山口にある興禅寺が 光秀家臣の斉藤利三の下館(陣屋跡)として、 また春日局”お福”の生誕地として寄られ、猪ノ口山の最高所に有る石積みの残る本城部分だけの訪城レポートで終えているようです。高石垣に白壁を廻らせ、天守閣が聳えているのだけが城だと思っている人はいないでしょうが、 猪ノ口山山頂の保月城を取巻く周囲の山系内に点在する監視・連絡の城砦群・城攻めの向城等にも目を向けて、戦国期の城の機能や領地攻防の戦略を考察していく事も必要と思われ、周辺の城砦を廻って見ることによって興味深く訪城を楽しませてくれます。

奥丹波地方に威勢を張った赤井氏の保月城も本城を中心として、三方に拡がる尾根筋に多くの城砦群があって、山域全体を要塞化して機能していた山城としても紹介される黒井城ですが、これ等の城砦群がレポートされているサイトは非常に少ないようですネ・・・。本城も本郭部は横一列に曲輪を連ねただけで、 其れほど複雑な縄張りでは無いのですが展望の良さと石積みが残る事だけで満足されているのでしょうか?。
黒井城北の丸から龍ヶ鼻砦と百間馬場を望む
黒井城本城・B形状の北の丸曲輪


丹波の中世山城の大部分は石積みを残す遺構は殆ど無く、 雑木藪や下草で覆われた縄張り内では、隠された曲輪の低い段差や土塁・堀切さえ見逃してしまいそうなほど、遺構もよく判らない城砦が多い。其の様な砦ではあっても、丹波の三大山城と呼ばれる城の尾根続きに、呼応し連帯して機能した城砦群も含めて、 訪城してみたいものです。石垣の残る保月城の本城以外でも、土の城西の丸は其の規模や縄張りも本城と変わらないほど大きく、土塁囲みの曲輪や櫓台・千丈寺砦へ続く尾根筋を深く切り裂き遮断する大堀切を初めととして、 山全体を一大山城とする城砦群を巡ってみる事で、戦国期の丹波の一大・山城の遺構を再度見つめ直してみるのも、また此の様な訪城が出来るのも地元の利かもネ・・・・!(^^♪


黒井城址を望みながら舞鶴若狭自動車道の春日インターをR175号線に出て右折すると道の駅「丹波おばあちゃんの里(H18.4.8OPEN)」があります。此処に拡がる芝生広場が旧石器時代から平安時代にわたり、氷上回廊を通じての物流・文化交流が推察できる大規模な複合遺跡 七日市遺跡公園になっています。R175号を隔てた北方には黒井城から南へ延びる丘陵の末端を黒井川に落としています。先ず此の尾根南端部にある東山砦跡を探して七日市の高竜寺橋を渡り、 神社から取り付いて尾根の南端部までトレースは三方が崖状(採石場跡地の様!)で尾根上には自然地形の平坦地が2〜3有り末端部は展望も良い。
東山砦・末端の曲輪(自然岩の切岸外側から)
配水施設間の鞍部の土橋?


黒井本城から伸びる主尾根南東末端部なので、何らかの城砦遺構が残っていてもいいはずだが・・?。 雑木と下草に覆われた尾根上に何らかの形骸を見つけることは、素人の私にはドダイ無理の様です・・・・引き返した北への尾根は直ぐ配水施設手前(南側)の頂部に着く。山頂部から南西への短い枝尾根末端にかけては5〜6段の小さな平坦地が続く。 最端部は自然の露岩を切岸にした様な曲輪になっていて此の尾根上が東山砦の様です。配水施設のあるピークとの鞍部は東側は片堀切?の様で尾根筋は短い土橋状になっていて、尾根筋以外は結構急斜面となっている。

貯水槽のある頂からは黒井盆地を一望し朝日城や野山城等、黒井城の支城を望む位置にあります。北へは50m程の階段が続く急斜面を一気に下って的場坂に降りますので、東山砦か的場砦に付随する街道監視の砦があったのかもしれない。 頂部は均され周囲をフエンスで囲まれた配水の貯水槽が二基設置されているだけ。天正6年(1578)鹿集城主:吉見則重は城と運命を共にし、的場砦を守備していた長男吉見助太夫守重は黒井城に籠城します。 鞍部から保月城(黒井本城)へと続く尾根筋は岩盤を削った切通し道になって深い堀切道となり、七日市・多田地区側へ抜け出ます。
的場坂(一ノ木戸)
的場砦の曲輪


此の堀底道は黒井の城下から多田〜多利〜柏野を通って福知山方面か、戸平峠を越えての ”旧丹後街道”が通じていた要衝で、有事には通行を遮断して城砦化する関所だったのでしょう。 的場坂は黒井城の東口を守備する重要な拠点ともなった的場砦の”一ノ木戸”があった所といわれます。
的場坂から尾根通しは踏み跡も明確ではないが、大して藪漕ぎの苦痛もなく緩やかな尾根の先のピークが的場砦(158m)で 単郭の卵型の台地(幅6〜7mX長さ12〜15m程)があった。周囲の雑木藪で縄張りはわからないが北から東へ帯曲輪状の平地があるようで、 7〜80cm程の段差で砦のマウンドに立った。此処も削平段以外は特に何も無さそうです。そう思って尾根筋へ戻ったら直ぐ下方30m程に小屋が見える。

近寄って見ると豊国?稲荷社だったか(MEMOするのを忘れたが・・)。稲荷社は黒井城の中腹にも祀られていたといい、黒井城周辺の城砦や其の麓では東城館 や鴨坂城館を初めとして火伏せの愛宕社以上に多い様に感じます。赤井氏の守護神なのでしょうか?稲荷社の背後に的場砦が有り、 祠の横からは山道が通じ鹿避けフエンスが延びる先の鞍部は堀切になっています。堀底道は北の多田地区へ降っていくようです。フエンスよりに此処からは山道を辿ります。東山砦へと取付いた七日市の黒井川沿いから眺めると黒井本城かとも思える方向に 目立つドーム型の山頂が見えますが、そのピークに向かって緩やかな尾根歩きが続きます。
的場砦の堀切
豊国?稲荷社の背後に的場砦の曲輪が・・

黒井本城から東出丸を経て多田へのハイキングコースは、此のピークで分岐して東尾根を下ります。このハイキング道を辿って多田砦に向います。 東出丸の更に出丸かと思えるほどの平坦地形からは、一気に展望が拡がり正面の南東方に三尾山城 (直正の弟で城代家老・赤井幸家の城)が浮かびあがり、黒井盆地を眼下に眺望出来ます。此処からのハイキング道をドンドン下っていくと尾根末端付近で傾斜も緩やかになる。鹿避けフエンスを開閉したところから多田砦(Ca140m)の城域に入ったようで、 浅い堀切を抜けて2〜3段の曲輪を降り細長い平坦地に先に南側一段高い所に休憩スペースか、切開かれた見晴し台があった。展望所の北側は尾根道に沿って一段低く帯曲輪状の平坦地が有る。櫓台でも建っていたのだろうか?。 そんな気がする見晴し台からは、直ぐ下方に民家の屋根や田圃が見える急な下山道が続くようだが、今日の行程は未だ中程です。主尾根に引き返して東出丸に向います。緩やかな尾根道の傾斜が急になってくると、上方に高い切岸が見えてきた。

東出丸の南口は幅2m程の空掘りから土橋を渡り、3m程の切岸上には櫓台が設けられていたと思える幅の広い土塁を積んで堅めた主曲輪に入るようになっています。周囲を土塁囲みの主曲輪から尾根続きの一段 高みにも同等の広さを持つ平坦地が有るが、本城へは中央部を斜上する土塁道を伝う様です。 土塁道に先20m程でハイキング道は”太鼓の段”と”北の丸”への道を分けますが尾根通しに(以前は藪がひどかったが今は?)本城東曲輪へも通じます。東出丸は南尾根から主郭に攻め入る敵に対する重要な防禦拠点に有って後方はまったく無防備ですが、 前方の防えも尾根上の空掘と土塁付切岸が一箇所有るだけです。
多田砦・尾根東末端の曲輪
黒井城東出丸の空掘:土塁上の櫓台


東出丸からは黒井本郭部の山腹北側を捲いて北の丸に行ってみます。北ノ丸は”Bの字”を横にしたような形で、 棚状に北に突き出したような二つの平坦地が並んでいるだけですが、直ぐ北東方の龍ヶ鼻砦と台形の尾根が拡がる百間馬場への稜線を望み、多田地区から妙高山や春日小富士山を眺望出来る静かな休憩所です。ただそれだけ・・?!の感じですが、 北方・三和地区の白毫寺周辺に明智勢が築いた向城群の?動向を監視する龍ヶ鼻砦の兵の動きさえ見える位置ですが、本城に対する機能がよくわかりません。罪人や人質・食糧貯蔵施設だったのかもしれません。 南への斜面を登れば頭上に本丸側の石垣と空掘が見える本丸・二ノ丸間の帯曲輪へ出てきます。

崩れた土砂にまみれて瓦の破片を多く見かけますが、本城南北の帯曲輪や西ノ丸主曲輪の日当たりの良い場所はワラビ採りスポットですね ・・・(^^♪本城の保月城は上記に紹介済みですので 画像を追加して、西曲輪からの急斜面を下って西ノ丸に向います。この急斜面は露岩の頭に出てしまいます。数年前より此の露岩の側を捲いて下る踏み跡も利用するには危険な程となり、通行止めになっていますので、 少し手前右手の捲き道を利用してください。・・・・といっても・・・西曲輪から西ノ丸〜千丈寺砦への尾根筋を辿る人は更に五台山へ向かう数少ない登山者だけが通る道なのかも知れませんが・・・(^_-)-☆
黒井城東出丸の主曲輪
黒井城本郭北の帯曲輪から見上げる空掘


距離は短く、見応えある遺構が残る”西ノ丸”ですので、是非訪城してください。急斜面上に立ちはだかる5m程の切岸を越えると西ノ丸の主曲輪に着きます。南端に土塁の残欠を見ますが曲輪内は下草に覆われ、しかも荒れ放題ですが、 西へ一段下がった曲輪は広く長い。ほぼ周囲を土塁が囲み、西端部は少し高くなって上部に円形の凹角部を残した5u程の土壇になっているので櫓台としては充分な広さ!の様です。本城を石の城として、西ノ丸は”土の城”として一城別郭の趣をもって、 中世戦国の山城遺構を残しています。

目前に斜面を降った鞍部には土橋を伴う大堀切が城域を遮断して、さらに西へ続く曲輪群に延びていきます。黒井城を中心として三方向に拡がる城砦群の要となっているのが此の西ノ丸で、 本城を経て東山砦へと南尾根が通じ、西へは千丈寺砦へ、 北東へは主曲輪の北角から龍ヶ鼻砦・百間馬場へと延びていきます?。今回は保月城砦群の東側を廻りましたが、次回は西側の兵主神社側の西砦や、当時未だ城に興味を持たず訪れた藪の山頂部に遺構など有ったか?
黒井城西ノ丸主郭(正面):土塁囲みの2ノ曲輪
黒井城西ノ丸の土塁櫓台下の大堀切・土橋で西部の曲輪を結ぶ


・・・・と思えた千丈寺砦を再訪、平材城館を訪れた時に聞いた戸坂側の伝承地”馬駆け場”も探してみたい。 さて三方の延びる尾根の要に位置する”西ノ丸”から北東への稜線は、思いのほか踏み跡も明確で緩やかな長い尾根道が続く。北に延びた稜線が東へと尾根筋を変える平坦なCa284m地点に着いた。
東へ向かう前に一寸潅木の中を空かして見ると、 尾根筋を捲くように西から北側へ約1m程の段差で帯曲輪が延びています。さらに北側下方にも同様な帯曲輪状の平坦な場所が2〜3段で並びます。此のコーナーの峰(281m)が龍ヶ鼻砦です。 段差の目立たない稜線沿い4〜50mを主曲輪として北側に帯曲輪を備え、北側からの警護と監視を強めた縄張りの様で、領地の城下監視の東山・的場・多田砦に比べれば”黒井城攻め”明智勢の北側からの攻撃を警戒して、 その監視所として緊急に増築された砦の様です。

天正6年(1578)赤井悪右衛門直正が病死し余田城主の為家は嫡男 半兵衛を黒井城に入れますが、龍ヶ鼻砦の頭となった際・余田城の兵の多くが半兵衛の従って此の砦に入ったと云われます。単郭の龍ヶ鼻砦からは露岩の点在する緩斜面を下っていきますが、尾根の南端の岩場からは保月城が平坦な山上部を見せ、勇壮な山城遺構を感じさせます。 黒井盆地の表(南面)から見る石積みの豪壮な城の姿を想う時、裏(北面)からの姿は”張りぼて”の威容と空しささえ感じてしまいます。
龍ヶ鼻砦の帯曲輪(西面から)
百間馬場の”だだっ広い”自然地形の平坦地


主無き(赤井直正)後での落城であり、転戦で多くの将兵は城を出て戦っていた為、 激戦の落城悲話が伝わらず、三木城や八上城落城に較べて豊臣方に付き生き延びた重臣達もいた事で、援軍も得られず次々と消えていった多くの黒井城支城の将兵の悲哀を感じ、余計に沈黙の山城に空虚を感じるのかも知れません。 龍ヶ鼻砦の直ぐ下方には不整地な平坦地が潅木帯の中に拡がっています。
何処から何処まで・・・なんて範囲もよく判らないが、遺構らしいものは更に見出せません。間馬場(Ca260m)と呼ばれる場所は、 此の後・急傾斜の下降が控えているので本来の馬場?とも思えません。城砦遺構は見当たりませんが広大な平坦地は、本城に近くまた西ノ丸へは緩やかで幅も広い尾根道が通じており、軍事訓練や臨戦時な駐屯場所としては充分の広さと環境は整っています。



全山要塞黒井城本城を巡る城砦群【其の二】 兵主西砦〜千丈寺砦〜西太鼓の段〜兵主峠  2005年5月08日

先日(2005.4.24)は黒井本城の東・東山砦から本城の本ノ丸・西ノ丸を経由して龍ヶ鼻砦へと歩いてみたが、山城遺構には余り興味を持っていなかった頃・黒井本城から五大山〜愛宕山へと縦走した時、 藪に隠れて殆ど山城遺構に覚えが無く通り過ぎてしまった千丈寺砦には黒井城主・赤井(荻野)直正の兜が寄進され宝物として保存されている兵主神社から向かってみた。
兵主神社から兵主西砦・千丈寺山・西太鼓の段
黒井城主郭の石垣

氷上高等学校南東からは石踏の段〜黒井の本城〜西ノ丸〜から中間点の兵主峠から学校へ降りてこられるが・さらに尾根上で殆ど気付かず通り過ぎてしまいそうな西太鼓の段を経て千丈寺砦〜此処から 南への枝尾根を兵主西砦に下るコースは、氷上高校と兵主神社の杜を包み込むようにコの字を描く。兵主西砦は稲塚集落の北、兵主神社の西に椀を伏せたような円形の頂を見せる標高161mの低丘陵です。

その背後の尾根続きに岩壁を覗かせてそそり立つ鋭鋒・千丈寺山と正反対の対比を見せています。兵主神社の杜(もり)から取付こうと思ったが山側一帯は鹿避けフェンスが張り巡らされているので一旦境内の外に出て、高校宿舎の西から兵主池(貯水池)に上がり、あらためて !鹿避けフェンスの門を開閉して入り込み細々とした踏み跡を追って稜線を伝って古い共同テレビアンテナが倒れている兵主西砦のある山上に着く。
兵主西砦・北の尾根を割る堀切
兵主西砦・曲輪中央部に居座る岩!


東西に約10m・南北にも5m程の平坦地と僅かな段差(ほんの3〜40cm程が?で)5m程の平坦地がある。 低い平地の中央にはデンと岩が一つ有る。兵主神社から斜上してくる道があるらしく、其の南側から単郭の曲輪に入るようになっています。切岸加工はされていないが東寄りに北の尾根に向かう急斜面からは頂部の曲輪が意識出来ます。 山側の鞍部には2本の堀切が15m程の平坦地を挟んで尾根を遮断しているが、北側の堀切は余り深くもなく尾根を充分に掘り切っていないようで、 平坦地は番小屋で堀切は排水溝なのかなにもかも中途半端?で用途・機能がよく分かりません・・・・(-_-;)

千丈寺砦への稜線中間付近にも広い自然地形の平坦地があり尾根端まで削平されているように思えますが、城砦遺構では無さそうです。傾斜も増してくると露岩も多くなり黒井本城と西ノ丸の稜線が雑木藪を透して見えてくる。潅木帯を抜け辿ってきた南尾根が見下ろせる場所は、西ノ丸からの主尾根と合流する 千丈寺砦 (346m)の東南端部です。明智軍による「黒井城攻め」のあった天正6〜7年(1578-79)頃の千丈寺砦には家臣:臼井喜兵衛が主将として入っていたと云われます。
千丈寺砦の西面を囲む土塁
千丈寺砦・主曲輪の一部


西方の大野坂(白豪寺へ越える峠)や天王坂を通る但馬道を押さえ、 行者山砦と共に城下を通る丹後街道を押さえ、大野坂から本城に至る尾根伝いの侵入時を阻止する重要な砦として機能したと思えます。本城から主尾根を辿ってくると広い単郭の砦に入る曲輪切岸の様子がわかります。 曲輪東斜面を北に移動していくと2本の竪堀状?を越えて北側には小さな1〜2段の腰曲輪?。其れより先は”ヨコガワ峰〜五大山”への縦走路です。以前は藪漕ぎで擦り抜けていった下降斜面も、今は下草も殆ど無くテープ類も多く道は良く分かるようになったので、 マイナールートをトレースする登山者が時々はいるようです。

主曲輪内部は広いが雑木と下草で、遺構がよくはわからず展望もないが、南から西北へと高さ1m程の土塁を廻らせています。主曲輪南東端jから主尾根稜線を西ノ丸・本城側にとって東へ下り、 鞍部から少し登った小さなピークが 西太鼓の段(Ca 300m)と呼ばれる砦跡です。登山道のある尾根上に2段程の小さな平坦地が有るだけです。まして本城側の西ノ丸からも遠く離れ、途中には北の戸坂集落から稲塚・黒井の氷上高校に越える兵主峠があり、 此の砦の位置や遺構?距離的に考えてみても千丈寺砦側の出曲輪と思えるのですが!。
黒井城西太鼓の段!は極小曲輪
黒井城西太鼓の段東下の天水受けの池跡!(右上は尾根道)


直ぐ東下の尾根筋横には天水を受けて利用した池跡と思える幅1.5m x 長さ4m程の長方形の凹部があり、 此処を下った所が兵主峠(画像添付)です。千丈寺砦と西ノ丸の丁度中間点にあたる尾根を遮断した堀切で南側に深く切れ込んだ竪堀状となって続き、途中・藪っぽく踏み跡不明な所も有りますが、 最後は灌漑用水池の横から鹿避けフェンスのゲートを開閉して、氷上高校園芸用のビニールハウスが建ち並ぶ校内に下りてきます・・・・(^_-)-☆小学校ではなくとも校内通行には遠慮が・・・(^^ゞ有り、校域の外側を迂回出来る道が欲しいところです。 兵主峠は千丈寺砦や西ノ丸へ登城の堀切道だったのかも?黒井城落城後は市島町側の戸坂・白毫寺を結ぶ山越え道を、北へは白毫寺へ・南へは春日町側の兵主神社への参詣道として、また行商の道としても使用されてきたのでしょうか? 兵主神社の鏡石伝説からは、近在の白毫寺・戸坂へは此の兵主峠を越える商人の姿があったと感じさせます。


行者山砦

全山を要塞化した一大山城の黒井城は猪ノ口山山頂の本丸を中心にして、三方に広がる尾根上に多くの曲輪を連ね、丘陵尾根の末端にまで警護の城砦を築いて防備を固めています。 今となっては注意していないと遺構には気付かない様な西太鼓の段・百間馬場・東山砦・的場砦や、山稜上での施設設営で遺構が在ったかも知れない場所も点在します。そんな中・兵主神社と氷上高校を挟んで兵主神社西砦の東に極小の小山の上に有った 行者山砦に立ち寄ってみます。
行者山砦・山上に行者堂を祀る
行者山砦(正面と右手)・黒井城(右上)


黒井城の攻防戦には其の支城・城砦群として資料に現れない砦ですが、黒井城下館の興禅寺から黒井小学校西の丘陵を越えて春日高校・兵主神社へ抜ける、切り通しの様な道は南側が小さな独立丘になっています。 春日高校東方の尾根は黒井城の本丸へ直接・及び”石踏の段”を経由して本城や太鼓の段や東出丸へと延びています。
春日高校西方の尾根は千丈寺山砦から南へ延びる尾根の末端ピークには兵主西砦が有って、春日高校・兵主神社を逆Uの字形で囲み、 其の南入口の位置に行者山砦が有ります。春日高校の北端からは千丈寺山砦と黒井城西の丸中間点付近の大堀切に至る道があり、三方を丘陵に囲まれた校内敷地一帯は格好の家臣団の居留地を形成しています。

現在の市街地はJR黒井駅から春日町役場へと東方が中心となっていますが、 当時は南側を流れる黒井川や竹田川の沿った水田は湿田だった事を考えれば、田の水を抜かずに泥田濠とした天然の護りのうえに、市がたった七日市から東の守り・多田砦下を、一の木戸〜興禅寺〜兵主神社前へと山裾を縫って通じる但馬道沿いに 城下町が形成されていたと思われます。武士団が個々に小集団をつくっていたか、何処に住んだかは検証していませんが・・(^^ゞ行者山砦の位置が城下町の中心に有って、山裾を東山砦と的場砦間にある”一の木戸”を通る丹後街道の要衝を、 兵主西砦と共に監視する砦だったと思えます。
行者山砦・北面の切岸と曲輪!
行者山砦・南面2段の平坦地


周囲は急斜面で”へ”の字状の独立丘で、山上に祠が祀られ北側裾は斜面を削って数段の墓地がある。墓石の脇から斜面を上ると4〜5段の削平段が続き 祠の北側に2段の削平地は西面へ削平を長く延ばしているようです。祠へは南側が参道になっているようですが、此方にも低い2段程の削平地があります。南側の一段目や北側に数段続く削平段は 祠や植林?関連のものかもしれませんが 北側の削平地や広すぎる?頂部は砦の遺構と思えます・・・?が堀切や竪堀・土塁は無さそうです。とても明智の”丹波攻め”に抵抗できる防備設備はありませんが、城史は不明ですが西隣の兵主神社西砦や、 背後の西太鼓の段等に駆け上がり合流して参戦した事でしょう。


【其の三】黒井城北面(美和地区)の城砦群は黒井城の支城か向城か?
坂内城館 東城館(白毫寺) 東白毫寺城 梶ヶ谷城館 平材(林?)城館 坂折城館

播磨・摂津・京丹波と但馬・丹後を結ぶ街道のほか、険しい峠越えの間道筋にも黒井城を取巻く城館や砦群が築かれています。遺構も無く字名にのみ残る推定地、 低丘陵上の小さな平坦地が遺構がどうかも疑わしい様な城館、荘園領主や在地土豪の城か、中世期に荻野・赤井氏の台頭で其の支城砦として再構築されていったものか、 さらには此れ等の黒井城砦群が天正3年(1575)に始まった”丹波攻め”で明智勢が黒井城攻めに利用され・改修されて陣城(向城)となったのかも・・・?・・・城主はもとより築城場所や理由・時期等の城史も不明の小規模な城遺構は多い。
東城(白毫寺城)南郭と北郭を分ける堀切道(南郭側は竪土塁状)
堀切道:峠の祠と北郭への参道道


黒井城北方の前山地区には五台山の北を、市島町から氷上町・青垣町へ鴨内(かもち)峠を越える間道【氷上町沼・鴨内から鴨坂へ出て上竹田の八日市交差点でR175に合流する県道282号線】 があり余田城や鴨坂城館が在ります。美和地区から氷上町側へは五台山と五大山の間、 丹波槍の鷹取山の北尾根から香良城・浅山不動尊・独鈷ノ滝へ越える美和峠 【独鈷の滝で知られる氷上町香良の浅山不動尊から市島町美和地区へ降る県道283号線】があって、登山コースの縦走尾根の傍に県道283号線の道路標識が立てられている!!?。
何れも車道は各・町側の山麓で中断され、 山道で繋がる一本の県道です。

要衝ではなくとも土地の人々にとっては重要な生活道路となっていたのでしょう。愛宕山や古刹・白毫寺から五大山を越え由良や桟敷へ出るには直ぐ近くを但馬街道の由良坂が通じるので間道としての利用価値も無さそうです。 南に黒井城から千丈寺山砦を経て五大山へ、更に五台山に続く丘陵に囲まれ間道も無く行き止まり状態の美和地区ですが、此処は建武4年(1335)赤松貞範が築いた黒井城の尾根続きの北側に広がる盆地で、西の白毫寺には貞範の墓があり、 東口には酒梨城(留堀ヶ城・留堀城・溜堀城)が有ります。

堅固な土塁や深く掘り下げた空掘で囲われた黒井城主荻野伊予守秋清の居館だったところで、 此処から黒井城へ通ったといいます。多田砦からとも考えられるのですが、戸坂からは大野坂を経て千丈寺山〜黒井城へのハイキング道が有り、また戸坂から平材城館(ヒラバヤシだと思うのですが?)の丘陵裾の直線農道”馬駆け場”の名が残るのは此処か?、 西の丸にも直接通じる道が利用されたのかもしれません。
東城(白毫寺城)南郭の土橋付堀切:東側(左)は鋭角に竪堀となり落ち込む
白毫寺城南郭群最高所の大岩・主郭傍に在り櫓台となったか?


全山要塞化した黒井城の城砦群の北方山麓に拡がる盆地 :美和地区には酒梨城(留堀城)を初め梶ヶ谷城・坂折城・坂内城・平材城・東城(白毫寺城)が在り、R175号線に出ると竹田川沿いには明智光秀の一夜城伝説の 小富士城が望めます。黒井城主赤井直正に付いて明智勢の攻撃に抵抗した白毫寺ですが、二度目の来攻では黒井城の水源を止められ、寺は火を放たれて焼亡します。黒井城落城伝説の一つには ”水の手”が白毫寺付近の谷にあったといわれますので、明智軍にとって黒井城の搦め手や水の手を押さえる重要な陣城として、東城(白毫寺城)をはじめ、酒梨城(留堀城)・平材城や坂折城も、留堀城や友政城が落とされた天正6年末頃には、 黒井城の向城になっていたのかも知れません。

此処に”水源”があって黒井城へは竹の管で(ロート式?で高い山城へ水を運んだとする例は幾つか有るようですね!!)送ったとか、春日小富士城に陣城を構えていた明智軍が多田の橋爪某 XXの老女から白毫寺付近に有った黒井城の水源を聞き出し、その水源を止めたとか、 水の手を止められ兵糧豊富とは思えない孤城ではあったが、 各所の落城伝説に有る:白米で馬の背を洗い ・水不足でないことをPRしたとか、春日小富士城自体が黒井城”籠城軍の闘魂を打ち砕かねばならぬ”とばかり、 城将:明智光春が一夜で城を築いたとか・・・付近には黒井城戦の伝説があります。 橋爪氏は山師(鉱山師)で山の水脈等には詳しいとか・・・黒井城水源の話や、グランドと愛宕社の鳥居が有る勅使公民館付近には処刑場が在った聞く。 黒井城主赤井氏に付いて抵抗した民衆・宗徒や、 美和の城砦群に拠って落城の際捕らえられた赤井(荻野)氏方の将兵達か?、
坂内城館の小テラス

水源を明かした橋爪某の一族はこの時処刑を免れても、後々・刑に価する処遇が待っているでしょう!!。其の後:藩政下に藩主:領主の民衆に対する租税等の理不尽さに抗議行動した地域のリーダ達が処刑されたものか?は不詳ですが。
黒井城の山容を北に見て城下を抜けてR175号が多利の小富士山の山裾を竹田川の流れに沿って右へ屈曲すると前方に東勅使の交差点が見えてきます。 ”エルム市島”の看板を見て五大山登山口の白毫寺へと、左折して西の山裾へ向かうとグランドと愛宕社の鳥居が有る勅使公民館前です。愛宕神社横を抜けて此処から北方・酒梨の東丘陵上のある坂内城館を探します。
杉山(391m)からの稜線末端付近が坂内城館(中央)


杉山(391m)の三角点峰から東南へ突き出してくる枝尾根の末端部が一段と緩やかに伸び出す丘陵頂部には、 北へ続く比較的広く緩やかな尾根状を遮断して城域を確保する事も無い5x10m程の小さなテラスを持つだけですが、平城の酒梨城(留堀城)側に有って其の見張り・連絡用の砦だったか!城館関係の遺構の可能性があるといわれる平坦地が有ります。 登路を探すのに苦労する。直進した墓地から先は藪のうえ尾根に続いていない様です。西北の集落内の道は酪農家の敷地で行き止まりの様です。東側・市島駅に通じる地区内の車道から抜かるんだ谷筋にルートを採ったが、 糞尿の薫りがたち込める牛舎上方の貯水池から取付けば直ぐに到達できる。


東城館(白毫寺城)と東白毫寺城
東城館(白毫寺城)  xxx 143m   市島町白毫寺

R175号から東勅使交差点で県道283号に入り、留堀城周辺に幾つかの小城館を訪ねて廻ります。先に寄った坂内城館に食傷気味のまま、 留堀城の石碑を横目に白毫寺へ進み、心字池に架かる名所:太鼓橋前の駐車スペースに車を停める。五大山白毫寺(天台宗)は文武天皇の慶運2年(705)法道仙人開基を伝え、丹波七福神(布袋尊)・丹波古刹十五ヶ寺霊場の第10番、 石庭(枯山水庭園で陰陽の庭)や伝教大師作と伝えられる涅槃図、
東城(白毫寺城)南郭の虎口部
東城(白毫寺城)北郭空掘傍から :主郭より放射状に延びる竪堀群


恵心僧 都筆の三尊如来の掛軸、長享2年(1488)銘のある鰐口、斉藤利三(お福・後の春日局の父)直筆の下知状や、 県指定の重要文化財としては寺宝の五種鈴と、南北朝時代・貞治4年(1365)に造立された領主赤松貞範の宝篋印塔(昭和45年3月30日指定)が有ります。建武の新政には、鎌倉で挙兵した足利尊氏・直義の傘下に加わって、 北条勢との合戦に活躍した赤松筑前守貞範 (赤松円心則村の二男)は、建武2年(1335)足利尊氏より丹波国・春日部庄や播磨国・伊川庄等20余の所領を与えられ、建武4年(1337)その居城を黒井・猪ノ口山に定めて最初に黒井城(砦)を築き、 応仁の乱後・荻野氏に変わるまで約120年の間、春日部荘を領有しています。
播磨を基盤の赤松氏にとっては・京都に近い丹波の地を領有していたことの意義は深かったとおもえます・・!!。

氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書・市島町版「氷上郡(現:丹波市)教育委員会 」の分布図とコメント文を参照しての城砦めぐりでは、此処は東城館と名付けられているが、館のイメージからは遠く、輪郭式と梯郭式の異なる縄張りで構築されている一城別郭の白毫寺城と呼ぶ方が妥当と思えます。 白毫寺の心字池の北向い:境内に建つ赤松筑前守貞範((赤松円心則村の二男)の宝篋印塔にも寄ってみます。
東城(白毫寺城)南郭:土橋付堀切からの切岸
東城(白毫寺城)南郭大岩から主郭と帯曲輪(左側)の先に小曲輪が3段程続く


駐車スぺース・宝篋印塔の東方には田圃を隔てて東西150m、 南北300m程の極少独立低丘陵が視界を遮っています。田圃の中を抜ける道が・そのまま此の丘陵を南北に分ける鞍部は切り通しの中央部を与戸・西安集落に通じています。まさか此んな場所に・・・と思えるような場所に東城館(東城・白毫寺城)は在りました。
鞍部は北峰に愛宕社が祀られ参道として拡げ整備されていますが堀切道であったことを窺わせます。鞍部の石仏を祀る堀切から北郭側へは緩やかな参道が延びて、最後の階段を上ると愛宕社を祀る平地で行き止まる。何も無さそうに思える平穏な参道ですが、 其の左右・愛宕社を中心にした斜面全体が数段の曲輪を廻す城郭です。

東城(白毫寺城)は白毫寺からの切り通し(堀切道)を挟んで、愛宕社を主郭とする北郭部と、南への尾根上には土橋付堀切・段曲輪・切岸の高い曲輪や、 曲輪内を移動して上段の曲輪に繋ぐ虎口受け曲輪、大岩が 自然の櫓台となっている最高所・・・等々の遺構を見る南郭部が在り、縄張り構成の異なる一城別郭の城です。
東城館・梶ヶ谷城館・平材城館等・・・上記の 黒井城を巡る城砦群V【其の三】に記した、黒井城の支城か向城か?の疑問には、古文書に明智軍が10数箇所に陣を布いた記述が有るといい、黒井城の向城群を研究テーマに調査探索されている日本史 ・中世城郭研究家の高橋成計氏(丹波史懇話会の管外からの会員でもある)
東城(白毫寺城)北郭:参道横に見る空掘(塹壕?)
東城(白毫寺城)南郭大岩北側曲輪の一段下:曲輪の西に有る井戸跡!!?


・城砦へは共に随行され研究されている M・M氏の情報を得て、東城館(白毫寺城)へ再訪し、新に白毫寺城の南麓を戸坂から西安に向う車道を挟んだ南側の独立小丘陵にも城砦が在ったとの報告を受けて出掛けた。なを後日・高橋氏よりは”縄張り図”のファックスを受け、未訪 ・再訪して確認したい城砦も有り、其の都度に報告したいと思いいます。

・・・此の戴いた”縄張り図”から北郭側には、参道から僅かに進んだ西側に見える空掘状(幅3m・長さ15m程か?・塹壕とも?)、 其の西方直近からは8本ばかりの短い(約20m程)竪堀が放射畦状に、直ぐ其処の山裾に延びている。空掘り近くの2〜3本と少し先の2〜3本が竪堀かな?と私には思える程度の浅く細い竪堀ですが、畝状竪堀と云い・空掘といい、 丹波市の山城遺構としては余り例を見ないもの・・・明智軍の陣城として改修されたものと見るべきものなのかも・・・・・?。テーマ研究の為の調査は粗終られた様です。

その報告書を拝読出来る機会?があれば、 過去の諸城のレポートも報告を待って見直し確認して追加修正していく必要が出てくるのかも。
北郭群の愛宕社の建つ主曲輪から東下方へは数段(4〜5段程)の曲輪が、幅狭く空掘とも思える程に土塁の高まりを残したものや、 小さな段曲輪が斜面に沿って輪郭状に続いているようです。南郭群は切り通しの大堀切・土塁を越え、尾根沿いの上方に曲輪の切岸が見えてくる。土橋付の堀切が曲輪を挟んで二つ続く。どちらも両端は竪堀となって延びており、 一つは曲輪を囲むように東側へ逆L字状に斜面を降っています。

東城(白毫寺城)北郭群:主曲輪には愛宕社が鎮座
白毫寺城南郭堀切上部の曲輪:一段下曲輪から左へ移動して虎口に至る


腰曲輪から3段ばかりの曲輪を繋いで主郭部へ出ると、 白い露岩が目立つ五大山から鷹取山への山並みが目前に望まれます。細長く延びる南側に高さ1.5m程の櫓台かとも思える岩場があり、更に10m程の展望良好の曲輪となっている。 猪ノ口山の山頂部を削平し周囲を睥睨する本城の風格をもった黒井城が此処からは遮るもの無き指呼の間に望めます。本郭から見張台!にかけて東西は急斜面で要害を成し、主郭部を東西の帯曲輪が繋げているようです。 西側の曲輪傍には窪地が有って天水利用の井戸跡とも思えた。縄張りからは”黒井城攻め”に使用された形跡が濃厚なので明智勢の陣城となったものか(^_-)-☆・・・黒井城に加勢して一度は明智勢を退けた白毫寺の僧徒が拠った城だったか、 城主等・城史不明の城ですが遺構は良く残されています。
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東白毫寺城   xxx 4等三角点峰 151m   市島町白毫寺・戸坂

五大山〜愛宕山を背にして七堂伽藍・堂宇が建ち隆盛を極めた頃の白毫寺は、寺に通じる美和郷の三方に山門を構え、広大な寺領を持った大寺だったと思えます。白毫寺の谷水が黒井城の水源として、高く遠い城山まで管で運ばれていた話、 その水源を多利の春日小富士山に陣城を構えていた明智軍に漏らした橋爪某の老婆(僧侶との話もあるが)の伝承・グランドと愛宕社の鳥居が有る勅使公民館付近には処刑場が在ったとも聞く。
東白毫寺城:東南部の岩場下部に2段(3〜5m程)の平坦地有り

これらの話しを地元地区では伝え知る人もある。 黒井城主赤井氏に付いて抵抗した民衆・宗徒や、美和の城砦群に拠って落城の際捕らえられた赤井氏方の将兵達か?、其の後:藩政下に藩主:領主の民衆に対する租税等の理不尽さに抗議行動した地域のリーダ達が処刑され・・・丹波地域でも「義民の墓」として各所々に残される野仏を祀る祠なのか?は不詳ですが。
白毫寺に向う手前・戸坂の公民館から西安・酒梨集落に車道が抜ける。 東城館(白毫寺城)の大堀切(切り通し道)を東に抜け出ると此の車道に出るが、前方(東南)に拡がる田園風景の中に、ポツンと残されたような独立低丘陵(東西300mX南北200m程)がある。東城館(白毫寺城)とは此の車道を挟んだ、 東向かいの山頂部(標高151.2m4等三角点)に城遺構が有る事を、高橋成計氏が発見!!・同行されていたM・M氏より知らされていたので山頂部を目指した。
東白毫寺城主曲輪:4等三角点石標柱(右手上に腰曲輪?)

・・・比高40m足らずの丘陵で、山上部も山頂から北東へ延びる尾根筋は尾根幅も広く緩やかな斜面が麓まで延びていく様で、 白毫寺城の出曲輪が在ったとしても?至近距離の位置と立地条件に、此処より南東の237m峰の尾根上なら、黒井城からは尾根続きで城砦の在る可能性は高そうなのだが。・・・まさか・まさかと懐疑的。案の定・高橋氏より”縄張り図”をいただく前の素人の探索では、 広く自然地形の平坦地!!?山上部の低い段差の腰曲輪や土塁状に気付かず見過ごし、緩やかな尾根通しに降る。山頂部に残る単郭の砦は坂折城・梶ヶ谷城への矢文!!や酒梨(留堀)城・小富士城への狼煙等、知らせの砦だったのかな?。



梶ヶ谷城館 xxx Ca165m   市島町白毫寺(白毫寺〜ヨコガワ峰へ)

美和地区の戸坂川が美和川に合流する周辺には城館群が固まって築かれている様で、本城・黒井城の直ぐ北側に有って其の重要な直近の防衛ラインに位置するのでしょうが留堀城(溜堀城・酒梨城)と東城館を除けば、
丘のような梶ヶ谷城館・右端に八幡宮の鳥居が有る
梶ヶ谷城館の広いが不整地な曲輪


堀切・土塁・切岸を施した曲輪も見られず、いずれも防備意識に弱い平坦地が尾根上に残るだけ!!。
街道筋に面する要衝の監視というには奥まって不適当な場所です?地形的にも自然の要害地でも無く、黒井城の城砦群だと意識しては見ているが、 むしろ臨戦時・其の向城(陣城)として、黒井城落城近い天正6〜7年頃に使用されたのではないかと思われます。東城館の遺構に気を良くして次の梶ヶ谷城館にも期待して白毫寺集落の西端・山裾に見える八幡宮の鳥居を目指します。

登路が分からず採った八幡宮からは谷沿いに良く踏まれた山道が 通じているが目的の梶ヶ谷城館への尾根に乗らず、どんどん離れていくようです。 分岐尾根に出ると此処の明確な山道が降りていくが戸坂集落へ下る道。館へは途中から山腹をトラバースして北側の尾根に移って目的の梶ヶ谷城館への尾根に出た。比高60m程の低い丘陵上だが千丈寺山(砦)と黒井城を窺える位置に有り、 此処は黒井城攻めの向城と思われる。
ヨコガワ峰山頂 H17.3.5

八幡宮ではなく直ぐ南の墓地から取り付けば10分足らずで着けたのに !・・・随分遠回りした上、尾根分岐からヨコガワ峰まで往復してしまった。黒井城から千丈寺山を辿り五大山へ続く稜線上にあるヨコガワ峰(4等三角点 364m)の山頂から北方の白毫寺へ向かって延びる枝尾根から、 中程で東山麓へ裾を広げて高低差の無い台形の低丘陵となっている辺り・中程から東の斜面に段差の小さな、広く不整地な平坦部が数段(2〜3段)に築かれている様ですが城域を示す堀切等の遺構が明確なものがありません。



平材城館と坂折城館
平材城館(平林か?)  xxx Ca220m 市島町戸坂平林
坂折(さこうり)城館 xxx Ca143m 市島町戸坂・坂折

白毫寺から戸坂集落へ下ってくると”黒井城登山・戸坂コース”の標識があります。 戸坂集落より南へ大野坂を経て千丈寺山〜西ノ丸〜黒井城本ノ丸に至るハイキング道ですが、戸坂から黒井城へ直接向かう様に東側には一気に突き上げるような山容をみせる丘陵があって、山裾を農道が延びています。 此処から春日町黒井の境界線辺り一帯は”ヒラバヤシ”と呼ばれており、”馬駆け場”の伝承が残る処が有ります。
留堀城付近からの坂折城館(中央)と黒井城
白毫寺集落から平材(?)城館と黒井城

城主や城史不明ですので城名の”平材”は ”平林”ではないのか?と・・・・・思われますので、明確になるまで”平林”の名を列記しておきます。此の丘陵の北端を戸坂から坂折(さこうり)集落へ峠を越えて抜ける両サイドに平材(?平林)城館と坂折城館が在りました。 平材(平林?)城館へは戸坂川沿いの山裾に鳥居が見えていますので其処を起点にします。
風森一宮神社の扁額が掛かる鳥居を潜り、戸坂川に架かる橋を渡って境内に入ります。

見た目通りに直ぐ尾根筋に出たので先ず丘陵の北端まで行ってみます。 自然地形の2〜3の平坦地を過ぎた北端には小さなテラスがあり、三方は露岩混じりの崖状となっています。引き返すと今度は一気に激登りとなり、其の峰の頂に極少の腰曲輪を伴った様な2段程の平地があり、暫くは細長く緩やかな藪の尾根が続いて南側の最高ピークに着いた。 山頂は狭いが周囲は露岩が目立ち黒井城へは約1.2km程の距離。

戸坂から坂折城館(手前)と平材(?)城館(右のピーク)
平材(?平林)城館の曲輪


不整地ながら目前に黒井城を望む見張り台です。黒井の本城へは尾根続きに近く黒井城側の砦で、 美和の領地支配・監視の砦だったと思われますが、此処も天正初期の”丹波攻め”では明智勢の陣城として使用されたのでしょうか!。
黒井城址へ辿ってみたい気も有ったが東へ下って、坂折峠向いの坂折城館に向います。 坂折(さこうり)城館は留堀城の南・戸坂川が美和川に合流する地点の南側にある独立低丘陵で、戸坂集落から坂折集落へと車道が南側に続く尾根の裾を通り抜けています。

小さな峠を隔てて南の尾根上に有る平材(?)城館と坂折城館は呼応して白毫寺や東城館の前衛となっていたのでしょうか?。平材(?)城館の曲輪跡!まで戻ってきて、登りに採った風森一宮神社側とは反対に東北の谷よりに、 疎林の中を下って坂折集落へ越す車道に降り立った。坂折城館へは峠の少し手前から鞍部へ細い杣道を辿ってみる。比高40m足らずなので何処からでも・・・行けそうです!

坂折城館北端から鷹取山

標高僅か142m程の独立低丘陵ながら山塊の北端部に有って美和地区内の正面に酒梨城を始め、 今日訪城した全城館や竹田川沿いに三ッ塚廃寺の有る上田地区や明智の一夜城伝説の小富士城が望めます。 黒井城落城伝説の一つには”水の手”が白毫寺付近の谷にあったといわれますので、黒井城の赤井氏について明智勢の攻撃には抵抗した白毫寺ですが、二度目の来攻では黒井城の水源を止められ、寺は火を放たれて焼亡します。 平材(?平林)城館や坂折城館も此の頃には黒井城の向城になったのかも知れません。
坂折城館は東端のピークから北端の平坦地まで、緩やかな200mばかりの尾根が延びていて両端に僅かな平坦地が有るだけですが、展望の良さからは監視の砦として、 向城としても使用されたのかも?

(氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書 氷上郡教育委員会を参照)


兵主神社
  春日町黒井

黒井城から千丈寺砦へ続く丘陵の南山麓に位置して、 聖武天皇の天平18年(746)創建の全国で19社ある兵庫(つわものぐら)の守護神として鎮祭された黒井の兵主神社は、丹波国一社として登載された延喜式内社で、公卿武家や丹波・但馬・播磨をはじめ各地の人々の崇敬篤く、特に戦国時代より疱瘡(天然痘)が治るといわれ、 公卿や貴族もお参りしたといわれます。左大臣関白・近衛信尹(のぶひさ)は此の地で出生され、近衛家代々の崇敬も篤く、一の鳥居扁額「兵主社」の寄進【文化11年(1814)】も内大臣:近衛基前の自筆によるもので、 他にも近衛家からの献上品等関係の寺宝が多く所蔵されます。
延喜式内社で丹波国一社の兵主神社

黒井城主・赤井(荻野)悪右衛門直政の 着用した兜も寄進され神社宝物として保存されています。祭神に大名持大神(大国主大神)・少名持大神・天香山大神・恵比須大神を祀ります。 本殿は数度の火災に遭い、寛永15年(1638)に再建され、明暦2年(1656)・享保14年(1729)にも再建、さらに明治45年(大正1・1912)再建され拝殿・神輿庫・絵馬堂・燈籠等も数多く寄進されています。
兵主の社叢には巨木や珍しい草木が多く、 その豊富な植生を保っており、社叢全体が県の環境緑地保全区域となっている貴重な「鎮守の森」です。社殿の右裏手にある「オガタマノキ」は樹齢300年(樹高34m)の巨木で町指定天然記念物です。 本殿裏手には邪心清めの”かがみ石”(下記「丹波のお話」の由緒を参照ください)が祀られています。

(現地 兵主神社由緒案内板 参照)


七日市遺跡
  春日町七日市

舞鶴若狭自動車道の春日インターをR175号線に出て右折すると、癒しと健康・環境をテーマにした・道の駅「丹波おばあちゃんの里(H18.4.8OPEN)」があります。 駐車場の南に拡がる芝生広場の一角に・いまのところは一箇所だけですが、七日市遺跡を紹介する竪穴式住居跡があります。竪穴住居跡は、豊岡自動車道建設工事に伴う事前調査(平成5〜10年)で発見された、 弥生時代中期後半の隅が丸くなった方形住居跡が復元?(模造)されています。
七日市遺跡・竪穴式住居跡
アクリル板を通して竪穴式住居跡を見る


しかし四隅の柱穴部には異様なベンチのような円柱石が置かれ、アクリル板を通して見る掘立柱のスケールに利用されているだけ。 柱穴の形容や大きさ・深さ、中央炉跡付近の煤けた土層、高杯や土器・甕等の発掘時の状況の忠実な復元を期待したいところです。遊歩道を隔てては子供の遊戯施設等広いスペースも有り、例えば・いま有る休憩所を、 入口と屋根を残し前面を開放した模造竪穴住居の休憩東屋にすれば、遺跡公園で有ることがPR出来るのに・・と思えた。
此の広い芝生広場は旧石器時代から平安時代にわたって、瀬戸内海側と日本海側は 氷上回廊(北野群集墳に概要記す)を通じて物流や情報・文化の交流が推察できる県下でも最大規模の複合遺跡です。

出土品からは旧石器人がナウマンゾウなど大型動物を狩猟解体していたと考えられる局部磨製石斧が大量に出土する事や、 猪・鹿等の中小動物を対象とした国府型ナイフ形槍先器も検出しており、 狩猟対象が大型から中小動物へ転換していく過程が同時に存在していたと考えられます。旧石器時代遺跡の空白地帯だった丹波地域に有って全国的にも貴重な出土遺跡の発見が多く、弥生時代の集落跡・9〜10世紀頃の祭祀用の木製人形(110cm)も出土しています。 七日市遺跡の詳細については発掘調査報告書等が数々発行されていますので、其れ等資料を参照してください。
七日市遺跡・案内板

周辺には銅鐸が出土した野々間遺跡のジオラマや 黒井城関連資料と共に 出土品の一部は、春日歴史民俗資料館に展示されています。情報コーナでは今後はこれ等の周辺観光案内も含め、遺跡広場にも種々な時代の遺構や・地層等自然科学の分野での発見が復元 ・再現されて、此処に始まった丹波市の歴史は丹波市の玄関ともなった春日インター側の「丹波おばあちゃんの里」をエポックに、より充実したものになっていくと思いますよ・・・きっと!!。
(現地七日市遺跡案内板 ひょうごの遺跡 8号 近畿地方最古の旧石器時代遺跡(兵庫県埋蔵文化財情報) を参照)


梶原遺跡   丹波市市島町梶原

妙高山の北山麓:日ヶ奥渓谷に寄った後、春日小富士山の東裾を抜けて鴨神社からR175号線に出る途中、 広い田圃を前にして「梶原遺跡」の標識と案内板が立てられているのを見る。梶原遺跡は市島町の梶原字清光寺・畑山・大畑・柏野・河鹿山に存在する遺跡で、 清光寺地区では旧石器・奈良時代の竪穴式住居・中世の掘立柱建物遺構が、他のA地区は弥生時代の方形周,溝墓・古墳からは箱式石棺・中世の火葬墓、B地区では奈良時代の竪穴式住居の他、水溜状遺構からは7世紀中頃の(からすき)が 2個体出土しています。
梶原遺跡案内板より:犂(からすき)

此れは戦後の昭和中庸期:耕運機が普及するまで使われていた農耕用具で、古代より殆ど形容を変えずに伝わっているものです。野田地区遺跡から出土した犂は、鉄製の犂先を欠くが、木部はほぼ完成品として2個体が発見され、 ともに犂床(りしょう)と犂柄(りへい)を一木で作り出した長床犂(ちょうしょうすき 長さ150cm・高さ89cm・幅30cm)では日本最古級の犂という。

   犂A(案内板より) 犂出土状況(案内板より)

日本古代史の上でもたいへん貴重な資料とされ、丹波市指定文化財となっています。鉄製の犂先(すきさき)と犂(すき)へらを装着して使ったものです。 犂先の形態などから掘り起こした土は進行方向に向って左側に耕転したことが分かります。大きくへの字形に曲がった犂轅(りえん)と垂直近く立ち上がって後方にのびていく犂柄(りへい)は中国の犂に典型的にみられるかたちです。
梶原遺跡:犂(からすき)出土のB地区?

6世紀末から7世紀にかけては遣隋使や遣唐使が派遣され、中国から様々な文物を取り入れた時期にあたり、 此の犂もその流れの一つとして伝来したものと考えられます。古代から中世にかけての犂は、西日本を中心にこれまで十数例確認されていますが、県下では初の出土となります。
また平安時代の犂の出土例は全国に1例しかなく、 今回の出土例が全国で2例か3例目になります。水溜めから出土した理由について、壊れて廃棄されたものではなく、意図的に浸けられたもので、春先の荒起こしの時期までの間、冬場は水浸け状態で保存し、 ひび割れを防止しようとしたのではないかとも推察されています。
(現地:梶原遺跡 丹波市教育委員会H16年12月案内板参照)



兵主神社・かがみ石


兵主神社から奥宮!に続く本殿裏手社叢の参道横に「鏡石」の標札が立てられ、岩の上に片面が磨かれた様な平面の小さな石が載せられていますが、 此処にも篠山市の鏡峠にも人の心を写す”鏡石”の伝説が残ります。黒井の町内の小間物屋夫婦が居て、 男が行商をしていた或る日・体の具合も悪く手も足も冷え、いつもより早いめに荷物をまとめて帰路についた。ちょっと欲しい物があって・・」と町内で顔見知りで、先ごろ母に別れて独り暮らしの若い娘に呼び止められる。 血の気のない男の顔色を見て「何処か悪いんじゃないの?・・・私一人なんで遠慮は要らぬこと、一足お上がりな・・・」と早速男に火鉢を寄せる。
兵主神社に祀られる「かがみ石」

こんな事があってから男は娘の家に出入りする事が多くなり、 噂は女房の耳にも入り夫婦間に波風も絶えなく、商売も疎かになりがちになった。(登城の堀切道?)もこの時代には戸坂地区への行商に利用されたかも?)女房はいつしか夫を呪い殺そうと兵主の杜に、”祈り釘”の恐ろしい願を思い立ちます。 大杉に毎夜釘を一本一本打込む・・・其のせいか男は寝込んでしまった。
千丈寺山と西ノ丸間にある堀切状の兵主峠

愈々満願の日「今夜こそ・・・」と大杉の元に向かうが、何となく後を振り返ると”こうごう石”に写る身の毛もよだつ恐ろしい悪鬼か夜叉か!石に映る我が姿を見て、女房はハッと気付き今迄に打った釘を残らず抜取り夫に懺悔した。 男も此れを聞いて悪夢から覚めた心地がして、不行績を改め家業に精を出すようになり、商売は愈々繁盛したという。今から250年程前の事ですが、”こうごう石”は鏡石と名付けられ、すべての邪心を祓う奇石として今も此処に祀られています。

(丹波叢書第三集 由緒を尋ねて 丹波新聞社 昭和31年発行を参照)
  丹波の由緒(別冊) 丹波の由緒  本誌丹波霧の里HOME  別冊別冊丹波霧の里HOME

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