T「白蛇伝説」若年神社  U酒梨の子育て地蔵
V 清安寺跡の荻野秋清塚


T 白蛇伝説:若年神社<葦原明神>   丹波市春日町

織田信長「天下布武」の号令により明智光秀を総大将に始まった「丹波攻略」荻野直正の黒井城攻め初戦が始まったのは天正3年(<1575>9月18ー19日)明智軍は 黒井城の南正面・茶臼山本陣付近に集結し20日には火蓋を切って合戦となった?伝承の一つ。 向山連山裾の歌道谷から石才・朝日(赤井才丸<直正の幼名>が荻野一党の盟主として入って城だが 黒井城に本拠を移した後の詳細は不詳だが、
葦原明神(若年神社)

明智方向城となっていた!!?)・立野 (R175号から県道171号が分岐するY字交差点)付近から北面には圃場が拡がる長閑な風景。中程を黒井川が流れる。現在:立野の西・圃場の北、宅地・工場裏手の細い路地の奥に鎮まる小祠が”明智軍撃退契機となった ”奇蹟の白蛇伝説がのこる葦原明神【大正12年<1923>若年神社に改称】。往時:付近は葦が生い茂る沼地で”葦原”と呼ばれ、田圃は水を抜かず沼田濠になっていた。 石才〜立野付近に集結した圧倒的な 明智の大軍は葦原・黒井川を挟んだ北面の黒井城砦群に拠る荻野軍が対峙していたが、 明智軍の先鋒:妻木主計が戦いを挑み暫く交戦した後・黒井軍は一帯の葦原・沼地へ呼び込むための退却を開始、
葦原明神(若年神社)

妻木等明智軍が葦原に入ってきたとき、黒井城側から射られた矢文が落ちた。前戦とは矢文で連絡をとっていたので「敵に渡してなるものか…」、明智方ともに矢文が落ちた辺りに駆け寄っると、白蛇がうずくまっており明智勢に向かって鎌首をもたげていた。 「此れこそ明神の化身・神助は我にあるぞ…」と黒井勢の士気は挙がる。光秀は本陣を平松(火山城付近か?)へ進め、竹田十方寺方面からの波多野秀治・栗柄方面からの二階堂秀香(大路秀治の義弟)・牛河内方面からの波多野宗長(霧山城・西波多野)等で黒井城を包囲する体勢だったが、 これ等波多野氏勢が一斉に黒井城から出撃する軍勢に呼応しての挟撃。
行者山砦:主郭南の切岸

柏原本陣も赤井五郎忠家( 高見城)に占拠されており、栗柄・鼓峠を越え敗走した。此の戦いのあと黒井城方では「吉兆」を占う神の使いとして白蛇が現れた葦原に明神社を建て祀られ、現在も毎年9月23日には野菜・果物等を供え宮司による神事が行われ、地域の守り神として親しまれ続けている。 矢文は何処から…!!。祠の在る位置から近い城砦は行者山砦から約600m兵主神社西砦は約700mの距離にあるが…。


U 酒梨の子育て地蔵 丹波市市島町酒梨

織田信長による「丹波攻略」は明智光秀を総大将に始まり荻野・赤井氏の拠る黒井城攻めが始まった。 其の第一次合戦(天正3年<1575>9月)には「赤井の呼込み戦法」と呼ばれ 黒井城荻野直正と事前に示し合わせ・光秀とは偽りの同盟を結んでいた八上城波多野秀治との挟戦に勝利したが、 天正6年第二回合戦には光秀が金山城に入り、石生方面からの侵攻に黒井城側は地雷を使い明智軍を翻弄したようだが、市島方面の日内・岩藏・友政・鹿集(かたかり)・余田等が落城した。天正7年8月初旬・八上城の落城で光秀は柏原八幡に本陣を進めた。 城主荻野直正は前年死去しており、城代の直正実弟で知将:赤井幸家が指揮していたが力尽き遂に黒井城は落城。市島町酒梨(さなせ)には黒井城落城の後、素性を秘めて市島町美和の乙河内に隠棲した直正家臣の荻野丹後守夫婦の酒梨の子育て地蔵の伝承が残る。
乙河内は杉山(391m)西尾根先端部から奥の集落:山上遺構は向城か?

留堀ヶ城から東へ・圃場に囲まれた直線車道の先、 距離はあるが同じ酒梨地区内に其の地蔵堂はある。再起を図るため生き恥を晒すとも…と乙河内に隠栖した丹後守夫婦は其の日の生活にも事欠き、気苦労は日ごとに妻の乳の出にも響き、 痩せ細る妻子の姿を不憫に思い「…城とともに散るべきだった…」と気持ちも暗くなっていたが歴代城主の信仰も篤かった酒梨の「子育て地蔵尊」のことを思い出した。 境内の大銀杏は幹からは乳根を垂らしている。丹後守夫婦は地蔵尊の加護を祈ろうと祈願を込め、満願の日に夢で見た「乳根を削り煎じて飲めば父の出がよくなる…と」。霊験忽ち表われて乳の出は溢れんばかり、ひ弱かった子もすくすく育ち、 霊験のありがたさに益々其の信仰を深めたと云う。今も「子育て地蔵尊」として授乳祈願はもちろん・子供の病気(水疱・風邪・麻疹・おたふく風邪…等々に祈願、お参りする人は多いと!?と云い美和郷の由緒を伝える一つとなっています。 同様の”乳の木”伝説は全国にあるが、幹から瘤状の気根が乳房のように垂れ下がる見事な奇観を呈している常龍蜜寺と大公孫樹(丹波市青垣町大名草)を紹介して此の項を終える。


V 留堀ヶ城主:荻野秋清の塚 丹波市市島町酒梨・勅使

市島町美和地区の酒梨(さなせ)に黒井城主荻野伊予守秋清の下屋敷があり、 文亀2年(1502)増築し黒井城支城として酒梨三の丸留堀ケ城 (酒梨城)ともなっている。秋清には継嗣なく後屋城主赤井時家の次男才丸を養子に迎え、 荻野十八人衆の盟主として朝日城に入れていた。天文23年(1554)1月2日黒井城では年賀の宴が行なわれていた。
留堀城跡碑

年頭の挨拶に城に出向いていた才丸(荻野直正の幼名)がその席で突然:養父秋清を刺殺し“悪右衛門”直正を称して黒井城に入城したが、 此れは秋清に追従することに不満をもつもの・予ねてより才丸の武才を知っている家臣達が密かに迎え入れて 事を図った謀ごとであった…が諸説は色々…!!。 刺殺した才丸も骨肉の情穏やかではなく、伯父秋清の菩提を弔うため後:下屋敷に近い此の所に清安寺を建立して冥福を祈った。
留堀城の堀と土塁遺構

その後・龍華山本光寺(東勅使)に清安寺が移築され、其処は今も寺山と呼ばれている。その後の本光寺や静安寺についての動向は不詳ながら、 元の清安寺跡が留堀ヶ城から北方酒梨(子育て)地蔵に向かう車道東の圃場と竹藪の中にある。参道(コンクリート舗装)の先が竹藪で途切れるが、鬱蒼とした竹藪の中に二つの祠と数基の五輪塔が並び祀られている。秋清夫妻と家族親族を祀った墓碑か。案内板には”代々の老鶯鳴くや 領主の碑 耿人”<こうじん と読むのかな?>の一句添えられている。
清安寺跡の荻野秋清塚

荻野家盟主荻野直正は赤井家一党をも統率し永禄8年(1565)丹波守護代の内藤宗勝を倒し、氷上・天田・何鹿三郡へと勢力を拡大していった。山名氏の丹波侵攻・反対に但馬を攻略・山名氏の救援依頼をさいわいと信長は丹波攻略に着手:明智光秀を大将に天正3年ー6年 (荻野直正病死)ー7年(城代:弟の幸家が指揮した)と三次に渉る攻撃に遂に黒井城は落城した。  
(現地:静安寺跡 美和ふるさと観光協会 案内説明板 等参照)

本誌丹波霧の里HOME  別冊別冊丹波霧の里HOME
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送