石禾谷の城館廻り 岡城・法道寺城・高田茶臼山城・石禾の三城
但馬:朝来市和田山町・養父市養父町 (五万図=但馬竹田)
石禾(石和)谷の城館廻り 2008年04月06日

近畿の山城 : 岡城(早崎氏館) 法道寺城(岡城・阿曽沼砦) 岡比丘尼城
 高田茶臼山城 石禾城(畑たか城)/石禾城上城/石禾下城
 生野義挙の顕彰碑
岡城(中央部の段丘)

岡城・法道寺城は秀吉「但馬攻め」の陣城か?
丹波市から遠阪峠を但馬に越えるR427号は朝来市山東町矢名瀬でR9号(山陰道)と合流する。ローカルな山城を廻る今回の石禾(いさわ)の城【岡城・法道寺城・石禾城(畑高城)・石禾上城・石禾下城】については 築城時期・城主等の城史資料を知らず詳細不明だが顕著に遺される土塁囲みの曲輪遺構は但馬でも珍しい!!?織豊系縄張り?と城フアンにはよく知られる存在の様です!!。織田信長命により「但馬平定」に乗り出した羽柴秀吉軍の天正5-8年(1577-80)但馬侵攻の際に築いた陣城と考えられているのでしょうか?。
近畿自動車道側から 岡比丘尼城・石禾上城・畑高城を望む

「兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会」の和田山町内の城の中に法道寺城を「別名:岡城と云い堀切・一部土塁も 築かれているが素朴な砦」であるとのコメント・いつ頃、誰が築いたものか城史については口碑・資料もなく不明とある。朝来市和田山町岡にある標高約120mの丘に在る居館 岡城についての記述はない。少しずつ大きさを変えたビスケットを 5〜6段に積上げた様な 輪郭形容の遺構は遠目にも其れと判るが…?。数多くの但馬の城の中にあって岡城と 法道寺城ほどに主郭を高い(1.2〜2.5m近い)土塁で三方・四方を囲い込む縄張りを持つ城郭があるだろうか?。
石禾上城主曲輪のマウンド(下城・畑高城への尾根分岐点)

但馬の城巡りは未だ日も浅く此れからなので…。太田文による石禾郷は石禾上郷【土田(はんだ)郷】<土田・寺谷・東谷・藤和谷…等>と石禾下庄【石禾庄】<宮内・岡・法道寺・高田・堀畑…等>の上下両庄に分けられるよう。半田城も平安時代・半田氏が拠ったとされる古城。所領を隣接する土田郷の半田氏?や半田氏が衰退した永和年代頃には地頭・布施氏により土田城(登栖城・鳶ヶ城・遠見ヶ城)が廃され土田観音山城に移るまで石禾上郷の半田城…等諸城と石禾下庄の諸城が石和川…を挟んで?対峙していたものか?。【足利尊氏が弟直義との勢力争い(桃井直常との合戦)】に負け
法道寺城主郭西の土塁曲輪

丹波 石龕寺に逃れた際に嫡子義詮を護った仁木左京太夫頼章(後の丹波守護・高見城主)も、一時は南朝方に味方し北朝方と敵対しています。但馬にあっては北朝方もいつの間にか・南朝方に、 さらに北朝方に戻る等…態勢は目まぐるしく代わっていたようで?…一貫して南朝・北朝にあった武将は少なかった様子。 石禾郷は今後石禾下庄【石禾庄】と石禾上郷(土田<はんだ>郷)との 関わりが多分に出てきそうで”石禾”だけでは判断出来ず・解り難い…。
法道寺城主郭東の土塁曲輪

【石禾(いさわ)谷<石和谷>】には此の岡城・法道寺城があり西方には和田山町岡から 養父市養父町側の畑境界を分ける峰に畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城の三城が並んでいます。R9号線の宮原(法道寺交差点から約300m程西北)地区からは比高440m近く、石禾谷の西に壁の様に立ちはだかる嶮しい稜上の城は 南北朝期に遡る古城という。また此の一帯は良質の稲や粟を指す嘉禾(いしあわ)が摂れるところから 名のある 但馬国石禾庄。和田山町岡の早崎家文書に南北朝期の観応2年(1351)京都の合戦【観応の撹乱<足利政権下の内紛>に関連するものか?】の武功により
主郭部中央の虎口から 東側の土塁曲輪

下野国(栃木県足利市)阿曽郡阿曽沼郷の地頭職にあった阿曽沼(藤)小次郎頼綱が 此処に所領を賜って来住したという。甲斐国(山梨)にも石禾郷・石和の名称があり岡城・法道寺城の主郭を囲む土塁曲輪や竪堀こそ少ないが堀切 ・付随の曲輪構成を韮崎市の白山城に充ててみたら縄張りが似ている様な…?。尚:阿曽沼氏頼綱に(藤)を付記したが藤原秀郷(ひでさと=大ムカデ退治で有名な!!俵藤太)の後裔で足利姓を名乗った 藤原氏(藤姓足利氏)。石禾谷の尾根上に多くの曲輪段を連ねる南北朝期の古城は阿曽沼氏の手によるものか?。
岡城:尾根に続く西隅の高い土塁

殊に最高所に築かれた石禾城(畑たか城)は二重堀切・竪堀・竪土塁・曲輪の縄張りを用するところからも石禾下城・石禾上城とは切離して 推察する必要がありそうだが、丘陵東面麓の岡城・法道寺城に関しても築かれた中世室町時代に大規模な改修が推められたものでしょう?。 「但馬の中世史」によると岡城・法道寺城の主郭周囲に高い土塁を廻らせる 関東に多い築城例から其の手法・導入は関東からの移入で阿曽沼氏によるものと推察されるが、 此の二城が共に尾根続きの山側が特に高く築かれている点には土塁と共に
石禾上城東尾根中央部の上り土塁線状?に小曲輪が並ぶ!!

調査・研究を推めていただきたいものです。但馬攻めの陣城なら東に丹波・播磨側からの援軍がいて、 西北方の養父方面から尾根伝いや石禾谷からの但馬勢の攻撃に備えて高い土塁と堀切で防備したものか?。阿曽沼氏の城としては織豊系の特徴!!?縄張りの枡形?や土塁虎口状だけををとらえて決めるには早計過ぎるかも?。 但馬攻めや山陰毛利氏攻略の秀吉方陣城として短期に改修せず使用したとも考えられますが・・!!?

(和田山町史…等参照)


 岡城(早崎氏館) 法道寺城(岡城・阿曽沼砦) 高田茶臼山城
  石禾城(畑たか城)/石禾城上城/石禾下城

岡城(早崎氏館)  シロヤマ・投山 126m  朝来市和田山町岡字投山< /FONT>

播磨方面から生野峠を越えてくるR312号線と合流する一本柳交差点を越えて遠く竹田の城を望みながら円山川を渡り 和田山トンネルを潜ってR9号線を下りきった宮田地区の先で「法道寺」の標識を見て交差点を左折し県道527号に入る。谷間に拡がる直線道路の右手(西側)丘陵上に東屋展望台が見えてくる法道寺城は後の楽しみに 先ずは岡集落の岡城に向う。
岡城(正面中央)と岡比丘尼城(丘陵左端)

岡から畑へ向う車道の西山裾、石禾三城【畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城】が在る養父市境の尾根筋から 東に延び出す尾根先が 岡集落で僅かに盛り上がり半独立丘陵状の台地を作り出しています。民家に続く段々畑の奥に3段程に 高い切岸を見せる曲輪を重ね、往時も架設されていただろう梯子を登り一段上部の曲輪に上がる。東側には堀切・正面には舞台の花道を思わせる様な土橋が曲輪を二分し、更に一段高い主曲輪に入る平入り虎口に向う。 土橋の主曲輪側は両側ともに 石積み加工されているが、
岡城:虎口に延びる土橋の主郭側空掘の石積

内部の土塁にも石材が散乱していて、塁上部には土留め補強の石列もみられるので 丹念に外側も見て廻れば法道寺城には見られなかったが、石垣遺構が見られるかもしれない?。其の開いた虎口以外は幅広く高い土塁が 周囲を囲んでいて圧倒されます。周囲の土塁に沿って鹿避けネットが廻らされ、主曲輪内部は伐採された枝木や笹・羊歯の雑草で埋まり、主曲輪西南部に在る筈の石積みの深い井戸も材木と枝木で覆われているものか?判らない!!?。 土塁の最西端の最高所(126m)や、南隅にもある虎口らしい土塁の切欠部分があって下段の土橋付き曲輪に降りる 通路かと思えたが猪鹿除けフエンスによって先に行けず確認出来なかった。
岡城:土橋から高土塁に囲まれた主郭に入る虎口部

岡城は石禾(いさわ<石和>)谷にあって但馬国石禾庄には観応2年(1351)に下野国(栃木県)阿曽郡阿曽沼郷の地頭職にあった阿曽沼小次郎頼綱が此処に所領を賜って 来住したといわれます。早崎氏館とも呼ばれるようだが阿曽沼氏→早崎氏への変遷は不詳。遺構の現状からも際立って 但馬の他の城郭とは異なる岡城と法道寺城については其の構造から「山陰毛利氏攻略」「但馬平定」の乗り出した羽柴秀吉軍により天正5年(1577)か同8年(1580)の但馬侵攻の際に織豊系の陣城として改修されたとも考えられる。
主郭内:虎口西側土塁には石積がみられる

また大方は岡城を居館とし、 その詰めの山城を法道寺城に充てて考えられているが両城間は約1kmも離れた位置に有る。深い谷を隔てた法道寺城山麓・現:法道寺周辺に居城を築ける適所が無い訳でも無さそうですが…?まして2度(3度か?)行われた 「但馬攻め」はいずれも短期に決し、朝来市内で調査された若水城の他には、陣城が築かれた例は 非常に少ないと思われます。 まして居館まで…?室町時代以降の城史については阿曽沼氏から早崎氏に交代?した経緯等の一切は不明だが高い土塁が主郭を取り囲む特異な城遺構だけが今に遺されています。
周囲を囲む土塁に比べ、主郭内部は倒木と雑木藪

山名氏態勢の弱体化により山名四天王による 内紛時期に阿曽沼氏の立ち位置は不詳だが一時期竹田城を落とした黒井城主(荻野<赤井>直政配下の丹波勢や、天正13年(1585)秀吉による国替えで朝来郡竹田城主となった赤松広秀支配下にあった竹田城支城群の一つとなって 改修されたものとも?、更に鳥取攻めの際の責務に赤松氏を自刃させ竹田城を【生野銀山の莫大な財力をもつ】手中にした秀吉が織豊系に改修したものとも思えないが…?。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)
法道寺城(中山・岡城・阿曽沼砦)
 xxx230m  朝来市和田山町法道寺字西林

岡城から引返し往時に見た丘陵上に東屋休憩所の見える法道寺城への登山口となる法道寺に向かう。プロローグに記したように、観 応2年(1351)京都の合戦【観応の撹乱に関連するものか?】の武功に下野国(栃木県足利市)阿曽郡の地頭阿曽沼(藤)小次郎頼綱が此処に所領を得て来住。 藤原秀郷(大ムカデ退治で有名な!!俵藤太)の後裔で足利姓を名乗った
法道寺城:主郭西側の土塁曲輪

藤原氏(藤姓足利氏)の手にによる石禾郷のうち石禾上郷を土田氏・石禾下庄【石禾庄】は阿曽沼氏の手により築城された古城。法道寺城は別名「中山城」とも)。所領を隣接する土田郷の半田氏?や半田氏が衰退 した永和年代頃には地頭・布施氏により 法道寺から背後の山に延びる四国八十八ヶ所ミニ霊場廻りの参詣道を辿り 展望の東屋休憩所に着く。尾根沿いの平坦地は曲輪跡かと思えるが、此の少し先の急斜面上に
主郭西土塁曲輪:西末端の堀切


「法道寺城跡」の標柱が立つ切岸の上が東曲輪。本丸に続く尾根筋を遮断する大堀切(北・南に竪堀となって落ちる)前の東曲輪(堀切側と南側の虎口?部を除く三方を低土塁で囲む)に着きます。東曲輪の東北角からの別尾根を下って 法道寺からの四国霊場廻りの周回コースとなりスタート地点に戻ってきます。 東曲輪の尾根続きに大堀切があり見上げる向かいの切岸上の高土塁に「本丸跡」の白い標柱が立つ。深さは東曲輪から3m・主郭側は約8m程、堀底幅も3m程で左右(南北)に竪堀。主郭北側の切岸下には犬走りが主郭中央部まで延びているようです。
主郭と東郭間の大堀切

堀切を越えて主郭部南面の曲輪からは南角の土塁の切欠部に上がるが曲輪をそのまま中央部付近まで進めば虎口があり主郭に入る。中央付近には石材が目につくが周囲を廻る高い土塁の土留めにも使用されているのでしょう。南北70m程の細長い主郭部を幅・高さ共に1〜3m程の高土塁が取り囲む壮観さは、但馬の他の城とは構造を異にする珍しいもの。 南方の岡城とも土塁囲みの構造は同じで法道寺城を詰めの山城に岡城を居館としたセットで残される遺構とも推察されているようです?。
 
主郭部中央の虎口から西側の土塁曲輪

但馬の城をよくは知らないが岡城は要衝の街道筋から奥まった谷の更に奥に居館を構えており、城へは約1km近く離れた要衝の谷の入口に向う。 岡集落背後から法道寺城の尾根続きの城域西端へ通じる ルートがあったのでしょうか?。また後世!!織豊系と云われる特色・構造がどれを指しているのかよく判からないが現状遺構は天正8年(1580)秀吉の但馬攻略頃〜天正13年(1585)秀吉による国替えで 竹田城に赤松広秀が入った頃の改修・改築とは推定されるが?。別所重棟の八木城:前野長康の
堀切から主郭 :高土塁囲みの切岸下に犬走り

出石城等になら石垣の城で且つ織豊系の縄張りが見られるのでしょうが…主曲輪を廻る但馬の城には 特殊な高い土塁だけを指すのであれば此処を陣城として居館まで構えた理由はどこにあるのでしょう…?。法道寺集落と岡集落の境界にあたる丘陵の山頂部(標高約230m) 一帯に築かれた 法道寺城も別名を岡城と呼ぶとあっては?、此処もまた阿曽沼氏以後の城主等、城史は不明の様です。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)



岡比丘尼城
    xxxCa340m  朝来市和田山町岡字xx?

10年ほど以前の地元資料にも城名:岡比丘尼城の存在は知られていた様だ?。岡高城!!の名もみえる…!!が岡城から此の岡比丘尼城を経て向かう 激急登の尾根上・石禾城上城の南・丘陵最高所に在る石禾城(畑たか城) を岡集落から観て「岡高城」と呼ばれているのかもしれないが法道寺城・岡城とは城郭遺構からも直接的な関連はなさそうです?。
比丘尼城西の土塁虎口

比丘尼と聴けば小浜市・空印寺に残る不老不死伝説八百比丘尼や慧日寺(丹波市) 八百姫髪塔(髪脱離塚)…等がある。比丘尼城とよばれる城址も各地にあり、但馬地方だけでも美方郡香美町・豊岡市九日市と吉井・但東町・和田山町の隣養父市八鹿町にもある。 朝倉の比丘尼城にも熊野比丘尼について触れているが…比丘は男:比丘尼は女性出家信者で、鎌倉-室町時代にかけ、 尼僧として諸国を遊行した半僧半俗の女性だが、熊野信仰を拡めるため全国を巡り歩いた尼僧姿の「熊野比丘尼」が知られるところ。
西面から南(上方)へ東へ(手前)土塁を廻す虎口:曲輪内土塁で一折れの食違虎口

熊野詣でを推め、熊野牛王の護符を売り、社殿堂塔の造営・修復の寄付金を募り、歌念仏や小歌を歌って歩き「勧進比丘尼」とも、「歌比丘尼」とも呼ばれ宗教芸能者ともなり、やがて熊野信仰が衰退してくると、 施しを求め・男らに春を鬻ぐ(売る)者もでて、尼僧姿の私娼の代名詞ともなり比丘尼宿もあったという。城砦に何故”比丘尼”の名が付けられているのか不詳だが「小さな城…」との意味なら岡比丘尼城は似合っている。 法道寺城・岡城や其処から西上方へ延びる尾根続き、 山上部頂付近には石禾三城【畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城】があり、以前にトレース済みだったが、中世城郭研究家T氏より、岡城の上方に城址が在ることを聞いていたが
西-南-東へ廻り込む低土塁沿いに帯曲輪(手前)

確認の探訪もそのまま時間だけが過ぎていたが以前丹波市・福知山市の城でも一緒だった但馬のT氏案内で訪城が叶った。先行されており岡城からは荒れた砂地の急登が危険なほど…だという。岡城を正面に岡集落からスタートする直前 ・犬と散歩中の地元の方の案内で、岡城・岡比丘尼城の存在をご存知の方の話を聴くことができた。岡城を居城・法道寺城を其の砦 ・背後の岡比丘尼城を詰め城…との構図を概念的に捉えてもみたが…?。岡城東面麓沿い・民家脇を抜け鹿猪避けフエンスを開閉して直上もできるが広い南曲輪(畑地・空き地だったが今は畜産農場の
帯曲輪南外にも虎口状を含む低土塁痕沿いの犬走り?

駐車スペース!?)麓へと西面に廻り込み 谷奥に向かう林道を進む。程なく谷筋の林道終点近くは付近に段差ある平坦地形…等、嘗て民家や随所に寺院・僧坊があったと云う。しかし此の谷筋を詰めると「畑たか城」に向かう?がトンデモナイ遭難ルートになりそう。 林道終点手前から右手に尾根に向かう山腹に薄い踏跡を追って、岡城背後から最高所の 石禾城尾根中間部に突起するピークに向い 激急登を九尾折れに上り詰めると標高約340m地点の岡比丘尼城縄張り【東西約30mx南北約50m規模の方形単郭の陣城形容】の背後:
西面土塁線と南面の帯曲輪が東端で繋がる /犬走り状は切岸下に…

西面の尾根側)沿いに土塁虎口に至る。縄張り外周を観るかぎり ・空堀や竪堀の確認はできず、正対する南面(岡城側)が大手筋で城域一段下が虎口受曲輪を兼ねているのか?。此の曲輪部に4等三角点標?があり、眺望が効き北近畿自動車道を眼下に望む。 現状:此の虎口直下に訪城の際は 注意が肝要の危険な (山ぬけ状か?砂地の滑りやすい)箇所があると聞く。 但馬国石禾(いさわ)庄には観応2年(1351)下野国(栃木県) 阿曽郡阿曽沼郷の地頭阿曽沼小次郎頼綱が此処に所領を得て来住。岡城・法道寺城ともに阿曽沼氏により 築城された古城だが、
大手虎口と虎口受け曲輪(三角点標が立つ)

早崎氏館とも呼ばれているが 阿曽沼氏→早崎氏へ変遷した時期・誰により改修されたかは不詳。但馬の他の城郭に比しても際立って異なる構造からは山陰毛利氏攻略・幾度か行なわれた 「但馬平定<天正5-8年>」の羽柴秀吉軍の織豊系陣城への改修も推察されているようですが、いずれも短期に決しており、陣城として知られるのは和田山町粟賀の若水城(自動車道工事で調査後消滅?)くらいか!!?。
主郭櫓台?から突出す土塁?内側は帯曲輪・左下大手虎口・右は櫓台下を西虎口への通路

今回の岡比丘尼城が尾根続き上方の石禾城(畑たか城)と対峙or呼応していたとも思えない?、法道寺城岡城への谷入口監視・警護の砦・先述の様に 比丘尼城は限りなく陣城に近く、低土塁線沿いに切岸加工されている 西面に開ける土塁虎口の 左右土塁も曲輪内側で左右に折れて食い違い虎口状を呈している。南面の大手虎口から虎口受曲輪に入り、 主郭部低位置の曲輪へ細い通路から入れるようだが、主曲輪(櫓台?)から突き出た短い土塁沿いに櫓台南から廻り込み西面土塁虎口に至るのが入城ルートのようで畑たか城も主郭を半周して虎口に至る点は似ており!!?、 岡及び報道寺城の詰め城的存在に思えた。城内部は南の主曲輪?から低い段差も曖昧なほどだが三曲輪と其の東側・主郭部中程にも 城域を分けるような土塁線があり三曲輪を繋ぐように一段低く帯曲輪が北端まで延び、
大手虎口受け曲輪内の三角点標(主郭・帯曲輪南端から)

帯曲輪東北からも主曲輪に入れる。西面土塁虎口からの幅のある土塁が北端を廻り込み・東面からの帯曲輪に繋がる。 東帯曲輪も僅かながら低土塁(田圃の畦程度!!)痕が、外側を並行する犬走り状棚との間にある。其のほぼ中程に凹み(虎口?)があり、此の棚状通路?の外は!!?急斜面の藪地。南の虎口からも東帯曲輪や犬走り状?へ入る通路はあるようだが 山仕事用なのか遺構なのは判然としない…。

====石禾(いさわ)三城 <和田山町・養父町境界尾根上の三っの城>====

畑たか城(石禾城)   奥山!?(3等三角点) 538m  養父市養父町上野字奥山・畑
石禾上城(石禾古城)   草山!? Ca525m  養父市養父町上野字草山・和田山町岡
石禾下城        xxx Ca485m  養父町上野字奥山? 朝来市和田山町宮田字石禾谷

石禾三城へは和田山町岡地区から養父市養父町側の上野・畑地区へ抜ける林道から 市境界尾根を辿るのが正解なのかも知れないが土地勘も無 高田茶臼山城・高田茶臼山城へも寄ったので宮内地区からの谷詰め尾根通しの周回を考えてみた。
林道終点に在る石垣は急な谷沿いに続く

R9号線「盈岡(みつおか)神社」の案内板を見て宮内地区に入るが石禾の城を目指すには公民館先で右手に分岐する道には入り、そのまま田圃に続く林道に進んで行きます。鹿猪避けのゲートを開閉し 進む林道最奥の谷入口には4〜5段の石垣が谷に沿って続く。猪垣でも植林用でもなさそうで、 砂防を兼ねた古い峠越えの山道の様だ?谷筋はやがて急峻な様相を見せ始めるが石垣は谷筋の右・左に未だ続いている。
畑高城(石禾城)主郭の3等三角点

谷筋の最後は更に荒れて急斜なザレ場・立木や草に掴まらなければ身体が引上げられないほどになるが、尾根筋一帯は松茸山、 尾根の鞍部に出れば北への尾根を100m程登れば石禾下城。宮内から辿る尾根筋と畑・上野方面からの谷筋を詰めた滝谷神社からの 尾根筋が合流する地点に”石禾下城”の主曲輪があり、南へは約150m程で石禾上城、更に其処から5〜60m程の至近距離・鞍部に下って急斜面を登り返せば畑高城(石禾城)です。
石禾上城低段差の小曲輪群

石禾上城(石禾古城)へ
しかし此処は谷を埋める倒木にしばしば進行を阻まれ、嫌気から谷筋を詰めるのを止めて左手・石禾上城へのダイレクト尾根に向う。倒木こそ少ないが雑木の急登は変わらない。途中に竪堀かと思えるような凹角の溝があったが、此処は南北朝期の石禾上城(石禾古城)で 戦国時代まで改修され使用された城とも思えません。
石禾上城(低い段差と小曲輪)

石禾下城からの尾根筋を詰め上がる尾根の頂部は、岡城からの激急斜面の東尾根筋が此の頂部を軸にして・ほぼ90度南へ折れ石禾城(畑たか城)へと延びる。此の頂部の約10mx5m程のマウンドを主郭として周辺の藪尾根 (東へは尾根幅広く緩斜面で曲輪の段差も低く曲輪端の切岸も曖昧・削平も粗く・狭く小さいながら 尾根筋の北側に集中して 10数段の曲輪群が頂部から石禾下城へ下る幅狭い尾根筋に小曲輪群が7-8段続き、少し幅広くなり帯曲輪状地形に会う辺りには天水受けの井戸跡?とも、
畑高城:主曲輪を捲く帯曲輪

落とし穴(此れほどの急登尾根上に猪用の落穴とも思えないが?)を見る。10m程の平坦地形の下部から 6-7段連続する極小曲輪段が続き、 更に下方の 石禾下城に繋がる様!?。石禾下城にも、対峙していた?半田城(城域が大規模過ぎるが)南尾根だったか?にも何箇所か見掛けたが。
石禾上城から更に上部の石禾城(畑たか城)へ
畑高城南尾根筋の堀切

石禾上城から尾根続きを南方へ約5〜60m程・尖峰を見せて起立する奥山!!?は国土地理院の以前のWeb地図なら山名か点名が判るのかも?…3等三角点(537.7m)の石標柱が埋まる山頂に本ノ丸を置く畑高城 (石禾城)へは少し下って登り返しても直ぐ。 登り返す急斜面の基部付近には浅いながら二重堀切がある。養父町上野・畑と和田山町岡を繋ぐ町境にある城で「兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会(昭和57年発行)」に遺構は未だ確認されておらず、
石禾城帯曲輪から(左端に虎口・右に帯曲輪を廻す

地元では「のろし台」だろうと云われている。 畑地区からは高城と呼ばれ畑から和田山町の岡に通じる長尾峠から尾根伝いに辿るのが畑たか城への近道のようだが、峠からは大倉部山(692m)への登山ルートとしても良さそうです。 石禾城(畑たか城)については城主・築城時期 ・領有地等の城史は不明だが「的場」と呼ばれる 場所の近くには県指定重要文化財となっている室町時代の宝篋印塔や、 寺には同時期のものと思われる三基の五輪塔があり此等の事からも此の地に 一土豪勢力があった事を感じさせるとある。
石禾上城:下城への北尾根側小曲輪群

南北朝期の石禾下城・石禾上城に比し僅か80m足らず室町時代中期:文明年間(1469-87)頃の城主を岩崎実元と推定されている単郭の城です。 阿曽沼氏の後を早崎氏が継いだものか?城の改修時期や城主については但馬の山名氏・四天王傘下に組みした一土豪によるものなのか、羽柴秀長の 「但馬攻略」以後の陣城なのかは不明です。朝来市では若水城が和田山・豊岡自動車道工事による事前発掘調査により、羽柴秀吉軍(羽柴秀長)による「但馬攻略」の際に築かれた陣城と考えられていますが、「但馬攻め」は比較的短期に決着し・
石禾城南尾根の堀切・土塁曲輪

織豊系の堅固な陣城が築かれている例は少ないようなので、 堀切からは何の防御設備らしいものも無いまま東側の曲輪に立つ。此の曲輪は段差1.5m程の切岸上にある山頂部に1mもない低い段差で並ぶ3〜4の主曲輪部をグルリと囲む帯曲輪は主郭部(本丸中央にして、 段差の低い腰曲輪を尾根の前後に一つずつ置いて三つ並ぶ)の南西端から北面を回り、いま立つ東側の段から南面へと一廻り半して 帯曲輪の一段上(切岸は明確で段差は約1.2〜1.5m程か!!)を二重に巻き込むように中央の本丸西北端まで螺旋状に続く。
下城北尾根西側に2段程の曲輪)

城域は東西に約100m・南北に約200m。石禾上城から南へ延びる尾根続き約100m程に尾根を遮断する二重堀切・主郭東西に4条ばかり縦堀が落ちる。さらに南への尾根続き鞍部を堀切で遮断して 城域南端を終える様?(上り返しの尾根ピーク先へは未訪…)。R9号線からは比高470mの山頂からの眺望は良さそうですが立木のスリットを透かしては眼下が望めない。 主郭部西端の曲輪から南への尾根を下ると堀切状鞍部の先に続く細い尾根筋を、
畑高城の二重堀切

両端いっぱいまで拡げた削平の粗い曲輪が在る。途中に立木の開いた所からは眼下は石禾(石和)谷の岡地区か?、く兵庫丹波境の粟鹿峰(粟鹿山)が霞んで見える。
石禾城から上城・下城〜宮内へ戻る
畑高城(石禾上城)から石禾上城への尾根を戻り、尾根筋に古城の曲輪とは気が付かない程粗い平坦地形と松茸山の境界テープが続く尾根筋を最低鞍部へ降りる。此処から竪堀かと思うほど急峻で粗れたザレた谷筋までの凹郭を滑り・ずり落ちながら下ることになるが今日最後の石禾下城へも鞍部からはすぐに到達します。石禾の三城の中央に位置する石禾上城が余りに古色蒼然として、 改修もなく南北朝期そのままの小曲輪を尾根上に残しているのに比べ至近距離にあって共に中世:
下城の狭い北尾根上の曲輪と土橋状(手前)

室町〜戦国時代の 縄張りと思われる帯曲輪・堀切・竪堀・土橋状の 遺構等は南北朝期以後に改修されてきたものでしょうか?。 山頂部は広いが自然地形の平坦地(緩斜面)だが、堀畑側へ下る尾根筋に曲輪がある。雑木の中の細く狭い尾根筋の横に 自然か人工なのか判らないが直径1m・高さ1.5m程の垂直の穴が数箇所に有る様だ。 同じ様な穴が幾箇所も開けられている所は後日に「養父道の駅:但馬楽座」の側にある安井砦を訪れた際にも、尾根筋に幾つか(5〜6箇所は)同様の穴が彼方此方にあったが、 いずれも付近には露岩も無く・径や深さ共に大きさや形がよく似ている。
石禾下城・上城の段曲輪下/土橋状の下段に観る落穴?

鉱脈の試掘・鉱石の採掘ではなく京都丹波の城にも見掛ける 「落とし穴」とも思ってみるが果たして何なのか?・天水受けの池や井戸・池跡とも思えないが?此の尾根筋には踏み跡も続いているようで朝:行けなかった堀畑里城へも楽に行けそうだが気付くのが遅過ぎた。スタート地点の宮内へ降りずに 堀畑里城を目指すのが効率の良い城攻めだったのですが…残念。


高田茶臼山城    茶臼山 Ca80m  朝来市和田山町高田字茶臼山

石禾(石和)三城【畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城】への登城ルートを法道寺交差点の先・宮内からと決めて集落には いったが北方250m程先ぬは国道側に小さな森と、其処から石禾の三城が並ぶ南西に 起き上がって延びる尾根が見える。此の尾根端のピーク付近には堀畑里城が在ったという。 其の先端が落ち込む山麓の東に盛り上がる小さな独立の丘がある。丘の東から北面は比高15m程の急斜面で、その側をR9号線が走り北側へ回り込んだ所で和田山町から養父市養父町に入る市境界です。
八幡神社参道から秋葉神社側曲輪

堀畑里城への取付き点を宮内地区側から探すつもりで寄った高田茶臼山城ですが、 谷間の広い私有地を抜けて行くのか、工場・ガソリンスタンド敷地内を裏手へ抜けて取付くのか?今日は諦めた。城名が示す堀畑地区内からのルートを探すのが妥当の様ですが…此の堀畑里城を「詰め城」とした居館の高田茶臼山城がセットの城として、二つの城館は南北朝期に既に築かれ機能していたと推察されています。R9号線の高田バス停から東に山陰線を越えて高田集落に入ると 円山川の川向かいの東方の丘陵(和田山町高田字シロノカサ)に高田城があるが、
最高所の愛宕神社から北東曲輪(下方はR9号線)

此れから向う高田茶臼山城へは国道筋に「生野義挙・勤皇志士 中嶋太郎兵衛・黒田與市郎」顕彰碑の大きな案内看板のマークに従って若宮神社 ・八幡神社への参道に入ります。高田城・高田茶臼山城 ・堀畑里城ともに城史等の詳細は不明です。歴代城主や史実は無根ながら高田集落や養父の堀畑集落には 雑賀姓名乗る家が多く、高田城主の子孫だと信じられていわれます。其の雑賀氏も芳賀野氏と争い落城したと伝えられるが遺跡分布図には芳賀野に城館跡を示す遺構はなさそうです。
愛宕神社の建つ主曲輪

芳賀野から約1km北に岡城があるが岡城や法道寺城城主が阿曽沼氏から早崎氏?か後藤氏に代わっていったとしたら、 更に高田城・堀畑里城の雑賀氏 ?と対峙していたとしたら、宮内地区側の谷筋からの侵攻に防御を強めている遺構には納得できるものがあるのですが…? 生野義挙の顕彰碑から丘陵上部に向う参道は若宮神社からは北方に数段の段差の上に建つ小祠・秋葉神社と進んで行くと、いかにも城郭の雰囲気です。其の最高所に愛宕神社が建ち、北に石段を下がると仲山寺?。R9号線を足下に見る位置に在る。
主曲輪までの祠ごとが曲輪跡の様です…?


古墳跡を思わせる愛宕社を本丸・北の仲山寺は二ノ丸といったところか!!。縄張り図等城域の概要を知らず、丘陵上には寺社が建ち遺構は半ば諦めて探さなかったが、竪堀も2〜3箇所有るといわれる。藪の広がるR9号線沿いに北から北西にかけての斜面上と思われます。 堀畑里城訪城の際には再訪して確認しておく必要がありそうです。


「生野義挙・勤皇志士 中嶋太郎兵衛・黒田與市郎」顕彰碑

明治維新の六年前・江戸時代後期の文久3年(1863)尊王攘夷派の 天誅組が孝明天皇の大和行幸に前侍従(公家):中山忠光を主将に、土佐の吉村寅太郎等 39名の浪士が集結して大和国に入り、 五条代官所を襲撃して占拠して挙兵したのが天誅組の変です。天誅組の挙兵に呼応する形で・但馬国生野でも豪農の中嶋太郎兵衛・北垣晋太郎や本多素行・美玉三平・平野二郎等によって朝廷から正式に認可された農兵組織があったが、 尊皇攘夷派の彼等が農兵を募って挙兵した事件:生野の変を「生野義挙」と呼ばれています。
R9号線・高田バス停・若宮神社参道前の「生野義挙」案内板

決起してから僅か4日で破陣してしまい天誅組の大和義挙と同じく・此処でもあっけなく失敗しましたが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されています。 生野代官所を占拠して本陣として各所々に発せられた兵を募る 檄文の「三年間年貢半減の約束…」に呼応して朝来郡・養父郡からも即日五千人を越える農兵が生野の本陣に集結した頃には…天誅組の大和義挙の敗戦の 報が届き、義挙の中止と強行に意見が分裂し、 軍備を整え再挙を謀らねば天誅組の大和義挙と同じ運命を辿る事になるだろうと 解散することに決した。本陣解散に驚いた農兵達は裏切られた思いで、志士達に鉄砲や竹槍を向け始め、勤皇の志士達は農兵と戦わねばならなくなってしまった。黒田與市郎は生野本陣解散の報を先陣に知らせるべく走った様です。 先陣となった妙見山に集結する 農兵と戦う訳にもいかない志士たちの 無念さは如何ばかりだったか?。
「生野義挙 勤皇志士」の顕彰碑

中嶋太郎兵衛等が銃弾を浴び重傷を負って動けなくなり、黒田與市郎(中嶋太郎兵衛の弟)が各々を介錯した後・大刀を捨て大手を広げて縛についた。翌:元治元年(1864)捕らえられ黒田與市郎等、 生野・出石・豊岡・姫路の獄舎にあった志士達は京都六角の獄舎に送られたが、此処には既に天誅組の志士達もいた。同年7月に起こった「禁門の変(蛤御門の変)」による、京の町の大火は翌日になっても鎮まらず、 この事件と大火に乗じて獄内で処刑?され(六角の獄吏達の槍先に勤皇の志士達は次々と斃れ)ていったと云います。
(フリー百科Wikipedia等を参照)
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