石禾谷の城館廻り  岡城・法道寺城・高田茶臼山城・石禾の三城
但馬:朝来市和田山町・養父市養父町 (五万図=但馬竹田)
石禾(石和)谷の城館廻り  2008年04月06日

近畿の山城: 岡城(早崎氏館) 法道寺城(岡城・阿曽沼砦)  生野義挙の顕彰碑
 高田茶臼山城  石禾城(畑たか城)/石禾城上城/石禾下城
岡城(早崎氏館)遠望(中央部の段丘)

岡城・法道寺城は秀吉「但馬攻め」の陣城か?
丹波市側から遠阪峠を但馬に越える R427号は朝来市山東町矢名瀬でR9号(山陰道)と合流する。 昨日は此処を基点にJR山陰線・R9号線添いに流れる磯部川流域の 陳東氏館・新堂見尾城(車道工事で消滅!?)・磯部氏館・向山城・滝野城へと超ローカルな山城を廻ってきました。今日訪城の二城も城史については、資料もなく詳細不明の城跡です。 とはいえ顕著に残される但馬には珍しい!!?織豊系縄張り遺構が残されていて 城郭フアンには良く知られる存在の様です!!?。現状からは、織田信長命により「但馬平定」に乗り出した羽柴秀吉軍が天正5年(1577)か同8年(1580)の但馬侵攻の際に築いた陣城と考えられているようです。
法道寺城遠望(正面中央)

「兵庫県の中世城館 ・荘園遺跡 県教育委員会」の和田山町内の城の中に、法道寺城を「別名:岡城と云い、堀切・一部土塁も築かれているが素朴な砦」であるとのコメントと、城史については・いつ頃、誰が築いたものか口碑 ・資料もなく不明とある。和田山町岡にある標高約 120mの丘に在る居館 岡城についての記述がありません。少しずつ大きさを変えたビスケットを5〜6段に積上げた様な容の、形曲輪を数段重ねた遺構は遠目にも其れと判るんですが…?。数多くの但馬の城の中にあって岡城と 法道寺城ほどに、主郭部を高い(1.2〜2.5m近い)土塁で三方・四方を囲い込む 縄張りを持つ城郭があるだろうか?。
岡城:虎口に延びる土橋の主郭側空掘の石積

【石禾(いさわ)谷(石和谷)】には此の岡城・法道寺城が在り、西方には和田山町岡から養父市養父町側の畑境界を分ける峰に、 この後に訪ねる【畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城】の三城が並んでいます。R9号線の 宮原(法道寺交差点から約300m程西北)地区からは比高440m近く、 石禾谷の西に壁の様に立ちはだかる嶮しい稜上の城は南北朝期に遡る古城という。また此の一帯・但馬国石禾庄は、 和田山町岡の早崎家文書に、南北朝期:観応2年(1351)京都の合戦に武功が有って、下野国(栃木県)阿曽郡阿曽沼郷の地頭職にあった阿曽沼小次郎頼綱が此処の所領を賜って来住したという。
法道寺城主郭西の土塁曲輪

この戦い【足利尊氏が弟直義との勢力争い(桃井直常との合戦 )】に負けた尊氏は再度丹波石龕寺城に逃れ、嫡子義詮は仁木左京太夫頼章 (後の丹波守護・高見城主)等に護られ約2ヶ月此処に留まります。丹波から播磨を経て九州へ逃れ、体勢を整え大勢力となって東上する足利尊氏の軍についてはご存知のところ、此の諸城とは関係ないので省略…。 石禾谷の阿曽沼氏の手によって、室町時代初期に石禾上城・石禾下城の古城が戦国時代には岡城 ・法道寺城が築かれていったものでしょうか?。「但馬の中世史」によると岡城・法道寺城の主郭周囲に高い土塁を廻らせる関東に多い築城例から其の手法・導入は、関東からの移入で阿曽沼氏によるものと推察されています。
法道寺城主郭東の土塁曲輪

それにしては低い段差の削平段が残るだけの南北朝期の城・石禾上城と下城、三角点峰に位置する石禾城(畑高城)にしても三段程の曲輪に帯曲輪を廻しているだけで 堀切も無い?戦国期の詰め城ではあっても、 素朴な縄張りに・同じ阿曽沼氏の城とも思えませんが? 良質の稲や粟を指す嘉禾(いしあわ)が摂れるところから名のある石禾庄に下野国 (栃木)から来住した阿曽沼氏といい、甲斐国(山梨)にも石禾郷・石和の名称は有って、本丸を囲む土塁曲輪や竪堀こそ少ないが堀切・付随の曲輪構成を 韮崎市の白山城に充ててみたら、 縄張りが似ている様な・・・?。
法道寺城主郭西の土塁曲輪(郭西端から)

阿曽沼氏の後を早崎氏が継いだものか?城の改修時期や城主については但馬の山名氏・四天王傘下に組みした一土豪によるものなのか、羽柴秀長の「但馬攻略」以後の陣城なのか・・?は不明です。 朝来市では若水城が和田山・豊岡自動車道工事による事前発掘調査により、羽柴秀吉軍(羽柴秀長)による「但馬攻略 」の際に築かれた陣城と 考えられていますが、「但馬攻め」は比較的短期に決着し・織豊系の堅固な陣城が築かれている例は少ないようなので、
岡城:尾根に続く西隅の高い土塁

岡城・法道寺城の縄張りについては、共に尾根続きの山側に特に高く築かれる土塁と共に調査 ・研究していただきたいものです。但馬攻めの陣城なら東に丹波・播磨側からの援軍がいて、西北方の養父方面から尾根伝いや石禾谷からの但馬勢の攻撃に備えて高い土塁と堀切で防備したものか…?阿曽沼氏の城としては、 縄張りから織豊系の特徴を見出す必要が有るようです?・・が短期の陣城だったので改修せず使用したとも考えられますが・・!!?




 岡城(早崎氏館) 法道寺城(岡城・阿曽沼砦 ) 高田茶臼山城
 石禾城(畑たか城)/石禾城上城/石禾下城

岡城(早崎氏館)   シロヤマ・投山 126m   朝来市和田山町岡字投山

播磨方面から生野峠を越えてくる R312号線と合流する一本柳交差点を越え、 遠く竹田の城を望みながら円山川を渡り・和田山トンネルを潜って R9号線を下りきった宮田地区の先で「法道寺」の標識を見て交差点を左折すると、 谷間に拡がる直線道路の右手(西側)丘陵上に東屋展望台が見えてくる。法道寺城だが後の楽しみにとって置いて先ずは車道の先 ・岡集落の岡城に向う。
岡城:土橋の虎口部空掘の石積

岡から畑へ向う車道の西山裾、 石禾三城【畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城】が在る養父市境の尾根筋から東に延び出す尾根先が、岡集落で僅かに盛り上がって半独立丘陵状の台地を作り出しています。 民家に続く段々畑の奥に3段程に高い切岸を見せる曲輪を重ね、往時も架設されていただろう梯子を登り一段上部の曲輪に上がる。 東側には堀切・正面には舞台の花道を思わせる様な土橋が曲輪を二分してて、更に一段高い主曲輪に入る平入り虎口に向う。
岡城:土橋から高土塁に囲まれた主郭に入る虎口部

土橋の主曲輪側は両側ともに石積み加工されていますが、内部の土塁にも石材が散乱していて、 土塁上部には土留め補強の石列もみられますので 丹念に外側も見て廻れば、 法道寺城には見られなかったが、この居館については他にも石垣遺構が見られるのかもしれません?。其の開いた虎口以外は、幅広く高い土塁が周囲を囲んでいて圧倒されます。 周囲の土塁に沿って鹿避けネットが廻らされ、 主曲輪内部は伐採された枝木や笹・羊歯の雑草で埋まり、主曲輪西南部に在る筈の石積みの 深い井戸も材木と枝木で覆われているものか?判らない!!?。 土塁の最西端の最高所(126m)や、南隅にもある虎口らしい土塁の切欠部分があって下段の土橋付き曲輪に降りる通路かと思えますが、 防除フエンスによって行けず確認出来ません。
主郭内:虎口西側土塁には石積がみられる

岡城は石禾(いさわ 石和)谷に在って、但馬国石禾庄には、観応2年(1351)に下野国(栃木県)阿曽郡阿曽沼郷の地頭職にあった阿曽沼小次郎頼綱が、此処に所領を賜って来住したといわれます。 早崎氏館とも呼ばれる様です。遺構の現状からも際立って但馬の他の城郭とは異なる岡城と法道寺城については、 其の構造から「但馬平定」の乗り出した羽柴秀吉軍により天正5年(1577)か同8年(1580)の但馬侵攻の際に築かれた 織豊系の陣城とも考えられている様です。また大方は岡城を居館とし、その詰めの山城を法道寺城に充てて考えられていますが、 両城間は約1kmも離れた位置に有る。深い谷を隔てた法道寺城山麓・現:法道寺周辺に 居城を築ける適所が無い訳でも無さそうですが ・・?まして2度(3度か?)行われた「但馬攻め」はいずれも短期に決し、 朝来市内で調査された若水城の他には、陣城が築かれた例は非常に少ないと思われます。まして居館まで・・?
周囲を囲む土塁に比べ、主郭内部は倒木と雑木藪

室町時代以降の城史については、阿曽沼氏から早崎氏に交代?した経緯等の一切は不明ですが、高い土塁が主郭部を取り囲む 特異な城遺構だけが今に残されています。阿曽沼氏か?・山名四天王内紛の頃の但馬勢や丹波勢のものでは無いようですが、はたして織豊系?。天正13年(1585)秀吉による国替えで朝来郡竹田城主となった赤松広秀の支配下に有って、 竹田城の支城群に有ったとしても播磨の城郭の縄張りに改修は成されていない様です?。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)

法道寺城(岡城・阿曽沼砦)
    xxx230m  朝来市和田山町法道寺字西林

岡城から引き返して往時に見た丘陵上に東屋休憩所の見える法道寺城への登山口となる 法道寺に向かいます。 法道寺から背後の山に延びる四国八十八ヶ所ミニ霊場廻りの参詣道を辿り、展望の東屋休憩所に着く。

堀切から主郭:高土塁囲みの切岸下に犬走り
法道寺城:主郭西側の土塁曲輪


尾根沿いの平坦地は曲輪跡かと思えるが、此の少し先の急斜面上に「法道寺城跡」の標柱が立つ切岸の上が東曲輪。 本丸に続く尾根筋を遮断する大堀切(北・南に竪堀となって落ちる)前の東曲輪(堀切側と南側の虎口?部を除く三方を低土塁で囲む)に着きます。東曲輪の東北角からは別尾根が下っていて、法道寺からの四国霊場廻りの周回コースとなりスタート地点に戻ってきます。東曲輪の尾根続きに大堀切があり、 見上げる向かいの切岸上の高土塁に「本丸跡」の白い標柱が立つ。 深さは東曲輪から3m・主郭側は約8m程、堀底幅も3m程で左右(南北)に竪堀となって延びています。
主郭西土塁曲輪:西末端の堀切


主郭北側の切岸下には犬走りが主郭中央部まで延びているようです。 堀切を越えて主郭部南面の曲輪からは南角の土塁の切欠部に上がるが、曲輪をそのまま中央部付近まで進めば虎口があり主郭に入る。中央付近には石材が目に付くが、周囲を廻る高い土塁の土留めにも使用されているのでしょう。
主郭と東郭間の大堀切

南北70m程の細長い主郭部を幅・高さ共に1〜3m程の高土塁が取り囲む壮観さは、 但馬の他の城とは構造を異にする珍しいもの。南方の岡城とも土塁囲みの構造は同じで、法道寺城を詰めの山城に、岡城を居館としたセットで残される遺構とも推察されているようです?。但馬の城をよくは知らないが、岡城は要衝の街道筋から奥まった谷の更に奥に居館を構え、め城に入るには 1km近く離れた・要衝側の谷の入口に向う。
主郭部中央の虎口から東側の土塁曲輪

岡集落背後から法道寺城の尾根続きの城域西端へ通じるルートが有ったのでしょうか?。また後世!!織豊系と云われる特色・構造がどれを指しているのかよく判りません。天正13年(1585)秀吉による国替えで赤松広秀が入った朝来郡竹田城 :・別所重棟の養父郡八木城:前野長康の出石城等になら石垣の城で且つ織豊系の 縄張りが見られるのでしょうが…主曲輪を廻る但馬の城には特殊な・高い土塁だけを指すのであれば、
主郭部中央の虎口から西側の土塁曲輪

此処を陣城として居館まで構えた理由はどこにあるのでしょう…?。法道寺集落と岡集落の境界にあたる丘陵の山頂部(標高約230m) 一帯に築かれた法道寺城も、別名を岡城と呼ばれますが、此処もまた阿曽沼氏以後の城主等、城史は不明の様です。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)


高田茶臼山城    茶臼山 Ca80m  朝来市和田山町高田字茶臼山

石禾(石和)三城【畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城】への登城ルートを法道寺交差点の先 ・宮内からと 決めて集落にはいったが北方250m程先ぬは国道側に小さな森と、其処から石禾の三城が並ぶ南西に 起き上がって延びる尾根が見える。 此の尾根端のピーク付近には堀畑里城が在ったという。其の先端が落ち込む山麓の東に盛り上がる小さな独立の丘がある。
八幡神社参道から秋葉神社側曲輪

丘の東から北面は比高15m程の急斜面で、その側をR9号線が走り北側へ回り込んだ所で和田山町から 養父市養父町に入る市境界です。堀畑里城への取付き点を宮内地区側から探すつもりで寄った高田茶臼山城ですが、 谷間の広い私有地を抜けて行くのか、工場・ガソリンスタンド敷地内を裏手へ抜けて取付くのか?、今日は諦めた。
最高所の愛宕神社から北東曲輪(下方はR9号線)

城名が示す堀畑地区内からのルートを探すのが妥当の様ですが…此の堀畑里城を「詰め城」とした居館の高田茶臼山城がセットの城として、 二つの城館は南北朝期に既に築かれ機能していたと推察されています。R9号線の高田バス停から東に山陰線を越えて高田集落に入ると、 円山川の川向かいの東方の丘陵(和田山町高田字シロノカサ)に高田城が在るのですが、 此れから向う高田茶臼山城へは、国道筋に 「生野義挙・勤皇志士 中嶋太郎兵衛・黒田與市郎」顕彰碑の大きな案内看板のマークに従って若宮神社・八幡神社への参道に入ります。高田城・高田茶臼山城 ・堀畑里城ともに城史等の詳細は不明です。
愛宕神社の建つ主曲輪

歴代城主や史実は無根ながら高田集落や養父の堀畑集落には雑賀姓名乗る家が多く、高田城主の子孫だと信じられていわれます。
其の雑賀氏も芳賀野氏と争い落城したと伝えられますが、遺跡分布図には芳賀野に城館跡を示す遺構は無さそうです。 芳賀野から約1km北に岡城が在るのですが、岡城や法道寺城城主が阿曽沼氏から早崎氏?か後藤氏に代わっていったとしたら、更に高田城・堀畑里城の雑賀氏 ?と対峙していたとしたら、宮内地区側の谷筋からの侵攻に防御を強めている遺構には納得できるものがあるのですが…? 生野義挙の顕彰碑から丘陵上部に向う参道は、若宮神社からは北方に数段の段差の上に建つ小祠・秋葉神社と進んで行くと、いかにも城郭の雰囲気です。其の最高所に愛宕神社が建ち、北に石段を下がると仲山寺?。 R9号線を足下に見る位置に在る。
主曲輪までの祠ごとが曲輪跡の様です・・・?


古墳跡を思わせる愛宕社を本丸 ・北の仲山寺は二ノ丸といったところか!!。縄張り図等城域の概要を知らず、丘陵上には寺社が建ち遺構は半ば諦めて探さなかったが、竪堀も2〜3箇所有るといわれる。藪の広がるR9号線沿いに北から北西にかけての斜面上と思われます。 堀畑里城訪城の際には再訪して確認しておく必要がありそうです。



「生野義挙・勤皇志士 中嶋太郎兵衛・黒田與市郎」顕彰碑

明治維新の六年前 ・江戸時代後期の文久3年(1863)尊王攘夷派の天誅組が孝明天皇の大和行幸に 前侍従(公家):中山忠光を主将に、土佐の吉村寅太郎等 39名の浪士が集結して大和国に入り、五条代官所を襲撃して 占拠して挙兵したのが天誅組の変です。天誅組の挙兵に呼応する形で・但馬国生野でも豪農の中嶋太郎兵衛・北垣晋太郎や本多素行・美玉三平・平野二郎等によって、朝廷から正式に認可された農兵組織があったが、 尊皇攘夷派の彼等が農兵を募って挙兵した事件:生野の変を「生野義挙」と呼ばれています。
R9号線・高田バス停・若宮神社参道前の「生野義挙」案内板

決起してから僅か4日で 破陣してしまい、天誅組の大和義挙と同じく・此処でもあっけなく失敗しましたが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されています。生野代官所を占拠して本陣として、各所々に発せられた兵を募る 檄文の「三年間年貢半減の約束…」に、呼応して朝来郡・養父郡からも即日五千人を越える農兵が生野の本陣に集結した頃には …が天誅組の大和義挙の敗戦の報が届き、義挙の中止と強行に意見が分裂し、軍備を整え再挙を謀らねば、天誅組の大和義挙と同じ運命を辿る事になるだろうと解散することに決した。本陣解散に驚いた農兵達は裏切られた思いで、 志士達に鉄砲や竹槍を向け始め、勤皇の志士達は農兵と戦わねばならなくなってしまった。黒田與市郎は、生野本陣解散の報を先陣に知らせるべく走った様です。 先陣となった妙見山に集結する農兵と戦う訳にもいかない志士たちの 無念さは如何ばかりだったか?。
「生野義挙 勤皇志士」の顕彰碑

中嶋太郎兵衛等が銃弾を浴び 重傷を負って動けなくなり、黒田與市郎が各々を介錯した後・大刀を捨て大手を広げて縛についた。翌:元治元年(1864)捕らえられ黒田與市郎等、生野・出石・豊岡・姫路の獄舎にあった志士達は、京都六角の獄舎に送られたが、 此処には既に天誅組の志士達もいた。同年7月に起こった「禁門の変(蛤御門の変)」による、京の町の大火は翌日になっても鎮まらず、この事件と大火に乗じて獄内で処刑?され(六角の獄吏達の槍先に勤皇の志士達は次々と斃れ )ていったと云います。
(フリー百科Wikipedia等を参照)

====石禾(いさわ)三城<和田山町・養父町境界尾根上の三っの城>====


畑たか城(石禾城)    奥山!?(3等三角点) 538m  養父市養父町上野字奥山・畑
石禾上城(石禾古城)   草山!? Ca525m  養父市養父町上野字草山
石禾下城        xxx Ca485m  養父町上野字奥山 ? 朝来市和田山町宮田字石禾谷

石禾三城へは和田山町岡地区から養父市養父町側の上野・畑地区へ抜ける林道から 市境界尾根を辿るのが正解なのかも知れないが、土地勘も無く・高田茶臼山城へも寄ったので、宮内地区からの谷詰め尾根通しの周回を考えてみた。
林道終点に在る石垣は急な谷沿いに続く

R9号線に「盈岡(みつおか)神社」の案内板を見て宮内地区に入りますが、 石禾の城を目指すには公民館先で右手に分岐する道には入り、そのまま田圃に続く林道に進んで行きます。 鹿猪避けのゲートを開閉して進む林道最奥の谷入口には4〜5段の石垣が谷に沿って続く。 猪垣でも植林用でも無さそうで、砂防を兼ねた古い峠越えの山道の様だ?
畑高城(石禾城)主郭の最高所にある3等三角点

谷筋はやがて急峻な様相を見せ始めるが石垣は谷筋の右・左に未だ続いている。 谷筋の最後は更に荒れて急斜なザレ場・立木や草に掴まらなければ身体が引上げられないほどになるが、 尾根筋一帯は松茸山、尾根の鞍部に出れば 北への尾根を100m程登れば石禾下城、南へは約150m程で石禾上城、更に其処から5〜60m程の至近距離・鞍部に下って急斜面を登り返せば畑高城(石禾城)です。
石禾古城(低い段差と小曲輪
石禾(いさわ)上城(石禾古城)へ
しかし此処は谷を埋める倒木にしばしば進行を阻まれ、嫌気から谷筋を詰めるのを止めて、左手・石禾上城へのダイレクト尾根に向う。倒木こそ少ないが雑木の急登は変わらない。途中に竪堀かと思えるような凹角の溝が有ったが、此処は南北朝期の石禾上城(石禾古城)で、戦国時代まで改修され使用された城とも思えません。
石禾古城(低い段差と小曲輪)

尾根筋に出ると頂部付近は藪の中だが、なだらかで段差も低く・削平も粗く・狭い小さな数段の曲輪が、 山頂部から東への短い枝尾根上と、南北に畑高城(石禾城)から延びる尾根続きに数段曲輪を並べ、其の曲輪と並ぶように一段低く帯曲輪か?通路?もあるようです!!。

石禾上城から更に上部の石禾城(畑たか城)へ
石禾上城から尾根続きを南方へ約5〜60m程・尖峰を見せて起立する奥山!!?は国土地理院の以前のWeb地図なら山名か点名が判るのかも?・・・3等三角点(537.7m)の石標柱が埋まる山頂に本ノ丸を置く畑高城(石禾城)へは、少し下って登り返しても直ぐ。登り返す急斜面の基部付近には、 浅いながら二重堀切がある。
石禾城:西から北へ周る帯曲輪は主郭部を二重に巻き込む


養父町上野・畑と和田山町岡を繋ぐ町境にある城で「兵庫県の中世城館 ・荘園遺跡 県教育委員会(昭和57年発行)」に、遺構は未だ確認されておらず、地元では「のろし台」だろうと云われている。畑地区からは高城と呼ばれ、畑から和田山町の岡に通じる長尾峠から尾根伝いに辿るのが畑たか城への近道の様ですが、峠jからは大倉部山(692m)への登山ルートとしては良さそうです。
主郭部西端から北さらに東へと一巡半する長い帯曲輪

石禾城(畑たか城)については城主・築城時期 ・領有地等の城史は不明ですが、 「的場」と呼ばれる場所の近くには県指定重要文化財となっている室町時代の宝篋印塔や、寺には同時期のものと思われる三基の五輪塔が有って、 これらの事からも・此の地に一土豪勢力があった事を感じさせるとあります。室町時代中期:文明年間(1469-87)頃の城主を岩崎実元と推定されている単郭の城です。
石禾城主郭南から北へ周る帯曲輪

堀切からは何の防御設備らしいものも無いまま東側の曲輪に立つ。此の曲輪は段差1.5m程の切岸上にある山頂部に、 1mもない低い段差で並ぶ3〜4の主曲輪部をグルリと囲む帯曲輪は、主郭部(本丸中央にして、段差の低い腰曲輪を尾根の前後に一つずつ置いて三つ並ぶ )の南西端から北面を回り、いま立つ東側の段から南面へと一廻り半して、 帯曲輪の一段上(切岸は明確で段差は約1.2〜1.5m程か!!)を二重に巻き込む様に、中央の本丸西北端まで螺旋状に続く。
出曲輪付近からの石禾谷遠望
曲輪を分ける切れ目の段差もなく、長く延びてループする曲輪は、 輪郭ではなく帯曲輪なんでしょうネ?。 R9号線からは比高470mの山頂からの眺望は良さそうですが立木のスリットを透かしては眼下が望めない。
石禾城(主郭部南方の出曲輪)

主郭部西端の曲輪から南への尾根を下ると堀切状鞍部の先に続く細い尾根筋を、 両端いっぱいまで拡げた削平の粗い曲輪が在る。 途中に立木の開いた所からは、眼下は石禾(石和)谷の岡地区か?、遠く兵庫丹波境の粟鹿峰(粟鹿山)が霞んで見える。
石禾城から上城・下城〜宮内へ戻る
畑高城(石禾上城)から石禾上城への尾根を戻り、尾根筋に古城の曲輪とは気付か無いほどに粗い平坦地?と松茸山の境界テープが続く尾根筋を最低鞍部へ降りる。此処から竪堀かと思うほど急峻で粗れたザレた谷筋までの凹郭を、
石禾下城(最高所の平坦地)
下城北尾根西側に2段程の曲輪)


滑り ・ずり落ちながら下ることになりますが、今日最後の石禾下城へも 鞍部からはすぐに到達します。石禾の三城の中央に位置する石禾上城が、余りに古色蒼然として、改修も無く南北朝期そのままの小曲輪を尾根上に残しているのに比べ、 至近距離にあって共に中世:室町〜戦国時代の縄張りと思われる帯曲輪・堀切・竪堀・土橋状の遺構等は、南北朝期以後に改修されてきたものでしょうか?。山頂部は広いが自然地形の平坦地(緩斜面)ですが、堀畑側へ下る尾根筋に曲輪がある。 雑木の中の細く狭い尾根筋の横に自然か人工なのか判らないが直径1m・高さ1.5m程の 垂直の穴が数箇所に有る様だ。同じ様な穴が幾箇所も開けられている所は、後日に「養父道の駅:但馬楽座」の側にある安井砦を訪れた際にも、
下城の狭い北尾根上の曲輪と土橋状(手前)
下城:土橋状左右の下段は落とし穴か?


尾根筋に幾つか(5〜6箇所は)同様の穴が、彼方此方に有ったが、いずれも付近には露岩も無く・径や深さ共に大きさや形がよく似ている。鉱脈の試掘・鉱石の採掘では無く、京都丹波の城に有る「落とし穴 」とも思ってみるが果たして何なのか?・雨受けの井戸・池とも思えないが? 此の尾根筋には踏み跡も続いているようで、朝:行けなかった堀畑里城へも楽に行けそうだが気付くのが遅過ぎた。スタート地点の宮内へ降りずに、 堀畑里城を目指すのが効率の良い城攻めだったのですが…残念。


別冊丹波霧の里HOME 本誌 丹波霧の里HOME
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