若狭 小浜城・後瀬山城・湯岡城・大塩城・空印寺・八百比丘尼伝説・順造門
小浜市(五万図=小浜・鋸崎)
小浜市内・歴史散歩空印寺と八百比丘尼 藩校正門(順造門)・杉田玄白顕彰碑
               小浜城内の伝承世阿弥船出の地
近畿の山城小浜城 武田氏館と空印寺 後瀬山城  湯岡城 大塩城

小浜城天守台

舞鶴若狭自動車道の終点:小浜西でR27号に出て小浜市内へ向かう。 後瀬山トンネルを抜け出て直ぐ左折すると後瀬山城への登山口の神社鳥居と広い駐車スペースが見える…。 が今日のところは家内同伴で山城は割愛。狭い町並みの先に在る空印寺に向かう。若狭国を支配した京極氏の後、三河より若狭小浜に入封し後瀬山城を居城とし、小浜藩酒井家の祖となった酒井讃岐守忠勝は、
後瀬山城への登城口

京極氏により築城中の小浜城を引継ぎ改修して小浜城に移り、 江戸城の富士見櫓を模したとされる三層の天守閣も建てられた。徳川2〜4代の将軍三代に仕えた忠勝は剃髪して空印を号し、 寛文2年(1662)死去し・此処:空印寺に眠る。 空印寺は不老長寿伝説で知られる”八百比丘尼”入定の岩窟が有る。
おばま食文化館(ミュージアム・港の湯・足湯・レストラン・・)

JR小浜駅は近く・北方へ廻れば杉田玄白記念病院が在る。江戸時代の蘭学医:西洋医学の先駆者として「解体新書」を著した杉田玄白の医服姿の像が病院正門前に、道を隔てた中央公園内には玄白の顕彰碑と前田雲浜(尊王攘夷派の志士)の像が立つ。
後瀬山城主郭の愛宕社北面を囲む石垣土塁

杉田玄白ゆかり…とあるが幼少期(7-12歳頃まで)を小浜で過ごしているが、 以後は藩主に随行して小浜には一度来ただけらしいが!!。大手通を直進して小浜城に向う前に寄り道。若狭高校の正門(順造門)は旧小浜藩校順造館を移築したもので、小浜城唯一の建造物遺構とされます。



小浜城 武田氏館と空印寺  後瀬山城 湯岡城 大塩城

小浜城(雲浜城) xxx xxm 福井県小浜市城内1丁目  福井県指定(昭和31年3月12日)史跡

地元でも其の存在が知られる事も無く眠る中世の小さな山城とは異なり、一国一城の近世城郭は別格扱いで、其の多くは県や市を挙げて修復・復元とも思えぬ櫓さえ備えて再建され観光の表舞台に立ち、シンボルともなっており場所や行き先までガイドする必要は殆どなさそうです。京極氏が河川や浜地に築く小浜城は、JR小浜駅の北方約1.3km・小浜湾に流れ出る北川と南川に挟まれた中洲地形の ”雲<蜘蛛>の浜”に有って、其の砂地?の基礎工事に際し、
小浜城本丸:天守台

領民に過酷な強制使役は 目にみえて想像できますが、加えて増税を貸し、酒井氏が引き継いで進められる築造工事と、自然災害による飢饉・藩の財政難もあり、直訴法度のなかで藩主に窮状を訴えても聞き入れられない。小浜藩でも死を賭けて直訴に及んだ義民の話はあるが、 藩主:酒井忠勝一人の名声の陰に・掻き消されて前後の詳細を知らない。若狭国小浜一帯は若狭守護・武田信賢が治めており、小浜城より南西方向の海岸に近い青井山に城を築いていたが、大永2年(1522)武田元光の代になって後瀬山(のちせやま Ca160m)に居城を移した。約130年の間若狭を支配してい武田氏も戦国の争乱に没落し、越前朝倉氏が若狭へ侵攻してくるが、 織田信長に滅ぼされた後:
本丸:西櫓から:手前の虎口は大手側へ抜ける民家の生活道路状態!!)

天正4年(1576)丹羽長秀が信長より若狭 10万石を与えられ、次いで浅野長政・木下勝俊らが入封し後瀬山城に入り若狭小浜を支配します。慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に属した木下勝俊は除封され、 近江大津城京極高次が若狭8万5000石を領して 移封され後瀬山城に入ったが、翌年には海路 ・陸路の要衝となる地に小浜城 (雲浜城)を新たに築いて移り城下の町割りを行ない後瀬山城は廃されます。
小浜城大天守台と小天守台

濠となる南北の 河川に挟まれ・西は小浜湾を背にし、東には二っの河川を繋ぐ濠で周囲を囲まれています。本丸の周囲に内堀を廻らせ、堀を隔てゝ南に二の丸・東に三の丸や北の丸・西の丸を四方に配し、これ等を外堀で囲んだ縄張りの水城(此処は海岸城)でしたが、城跡は二つの川の河川拡張で削られたり・埋められたり・・市外地化で ・周囲を廻らす石垣際までも宅地が迫る。現在は天守台を残す本丸跡に、
小浜城南面:大天守台から蜘蛛手櫓 ?側

小浜神社【明治8年(1875)小浜藩酒井家の祖 酒井讃岐守忠勝を祀り(天御中主大神を合祀)<築城 ・城下町としての町割り等を行なった本来の藩祖:立役者は京極高次・子の忠高で、若狭から越前敦賀郡までを支配し小浜藩として立藩した筈だが・・!!??>、 旧藩臣らによる創建】の境内として遺るが、海岸城としての面目は消え失せています!!?。城地は東西156間(284m)・南北145間(264m)・ 外濠を除き総地坪数18,937坪(62,492u)で、二の丸(藩主家族の屋敷)・三の丸(軍用食糧・武器庫)等が有ったが近世城郭としては比較的小規模なもの。現在:本丸跡の3分の2程に天守台や櫓台、此れ等を繋ぐ石垣や石段が 小浜神社境内として遺っているだけ。
小浜城本丸西面(天守から乾櫓)側まで<北側も同じ>民家が迫る

関ヶ原の合戦 (前日!?)京極高次は石田三成方(西軍)に、弟の高知が東軍に付いていたが、高次も東軍へ寝返り3千の兵で大津城に篭城し、大将:毛利元康ら1万5千の西軍の軍勢を引き付けてたが、猛攻を前に開城したが為に関ヶ原に向う西軍の到着を遅らせた。 その軍功により家康からは若狭一国8万5000石を与えられ、若狭守を名乗り高次一代限りだが国持大名となった。京極高次は近江国小谷の生まれで、 浅井氏滅亡後信長に仕えたが、本能寺の変後も明智光秀に従い、秀吉の長浜城を攻めた為に追求される。
後瀬山城主郭の石垣平入り虎口は天正期の丹羽長秀の改修か!!

しかし美貌の妹が秀吉の側室となった事で許され、其の後に浅井長政とお市(織田信長の妹 )の間に生まれた3姉妹の次女「初」が高次の正室になっていたこと、 などの姻戚関係があって大津の所領を安堵されていた。高次の子忠高は、寛永元年(1624)敦賀郡2万1千石を加増され、領地高は合計11万3500石となったが、寛永11年(1634)出雲松江に転封となり、京極氏による若狭支配は2代で終わり若狭唯一の近世城郭・小浜城は築城工事途中で、酒井氏に引き継がれることとなります。 徳川譜代で老中の要職にあった酒井忠勝【天正15年 (1587)三河国西尾(西尾市)に生まれ2代将軍徳川秀忠が信濃上田の真田昌幸・幸村父子を攻めた戦いに初陣を果たした。
後瀬山城:東郭から土橋・堀切を主郭に向かう

秀忠は忠勝を継嗣の子三代家光に近侍させ2年後には1万石を加増して大名に、寛永元年(1624)老中・寛永11年(1634)初代小浜藩主として武蔵国川越城から 11万3500石で転封されます。秀忠・家光・家綱と徳川将軍三代に亘り大老職を歴任し、将軍を補佐して徳川幕府3百年の基を作った重鎮。常に江戸幕府に出仕し、 小浜城に帰ったことは数回で、延べ9ヶ月程だったと云われます。

後瀬山城主郭 :大手虎口の石垣

寛文2年(1662)死去、法名:空印寺殿傑伝長英大居士で後瀬山城の麓・小浜市男山の空印寺に眠る】が初代小浜藩主として武蔵国川越10万石から入部し、 築城工事を続行し・三層の天守閣建立等の築城を続け寛永15年(1638)完成。 石高も最後には13万3000石となって幕末まで14代・230年に亘り酒井氏が居城・支配し明治維新を迎え、明治2年(1869)酒井忠禄の時版籍奉還している。 明治4年(1871)廃藩置県に際し・城内に大阪鎮台の第一分営(小浜県庁!)が設置され、改修中に失火・城櫓の大部分を焼失し、残存していた天守も廃城令により解体・撤去され主郭の外周石垣を遺すのみとなった。
(現地小浜城城内の人の駅!!酒井忠勝 他案内板や Wikipedia他を参照)
========【小浜城内】===========
市立酒井会館は元:文化会館の場所に在った酒井家邸宅で、寄進を受け現在の場所へ縮小移築されたもの。 玄関の屋敷門は、門を入る内側は直ぐ枡形状から石段を登る上級武家屋敷の構えに思え、気になるが詳細情報を知らず。
市立酒井会館と毘沙門櫓?(巽櫓か?)石垣・石段

稲荷神社と八助稲荷大明神本丸跡の小浜神社境内社として祀られている稲荷社は祭神に倉稲魂 (うがのみたま)神を祀り、元は北の丸に在った鎮守神を明治維新後に此処に移されたとある。八助稲荷大明神と呼ばれています。八助は酒井忠勝の中間(召使い)で、小浜から江戸への文箱を運ぶのに普通 15日かかるところを六日位で届け、人々は感心すると同時に不思議に思っていたという。或る朝:小田原城下で犬に噛み殺された白狐がいて、 狐の首には酒井家の紋の付いた文箱があり、其の後:小浜で八助の姿を見かける事は無かった。これは稲荷明神が信仰の篤い忠勝公に白狐を遣わして助けたものと人々は思い、八助稲荷明神と名付けてお参りを続けてきたと云う。
小浜城蜘蛛手櫓?の石垣傍らに祀られる組屋地蔵尊

組屋地蔵尊は本丸(小浜神社)の東南隅:蜘蛛手櫓の脇に祀られます。慶長6年(1601)京極高次が後瀬山城から、 海路・陸路の要衝となる雲(蜘蛛)浜に築造した小浜城の創築に取り掛かるに際し、 城壁の安全護持の為に人柱を立てる評議があった時、豪商:組屋六郎左衛門が愛娘を差し出して其の責に任じたが・・・。寛永11年(1634)酒井忠勝が城主となった時、城代家老の三浦帯刀が、毎夜・蜘蛛手櫓の近くで、女の忍び泣く声がすると聞き、人柱となった娘の話を知り、その霊を鎮めるために一体の地蔵尊像を造り「組屋地蔵尊」と呼んで供養し、本丸の守護ともしたが、寛文2年 (1662)5月の大地震で石垣が崩れ、其の修理の際・諸石に混じって行方不明になっていました。
ころび橋

其れから290年・・昭和28年(1953)9月の風水害に崩れた衛門口の石垣を昭和34年(1959)修繕中・南隅玉垣の諸石中より、行方不明となっていた地蔵尊が見つかり、其の椅面(背面?)に組屋の家紋があるところから組屋地蔵尊と判り。 崇敬者の手によって此処に・冥福を祈念し祀られたものと云う。
古呂美橋(ころび橋)は小浜市町内の鹿島区と浅間区境に在った大石を、京極氏が築城の際本丸の此処に移した。
(以上は現地:小浜城内の案内板を参照)


小浜城の移築門    小浜市千草一丁目

酒井家小浜藩第9代藩主忠貫の時、藩の儒者として召し抱えていた西依墨山を教授として、安永3年(1774)創設された小浜藩校順造館<道に順って士を造る・・の意>の美しいナマコ壁の正門は、もと一番町に於いて天保5年 (1834)小浜藩藩校の正門として建築され県立若狭高校(小浜市千種1丁目)の正門(順造門)として昭和55年(1980)移築されています。小浜城唯一の建造物遺構であり、平成10年(1998)小浜市指定文化財となっています。墨山は山崎闇斎が提唱する朱子学 (実践道徳の教え)の一つ崎門学を教え、寛政12年(1800)75歳で死去しました。

(現地若狭高等学校:小浜藩校「順造館」の案内板を参照)
=================================================
杉田玄白(1733-1817)と梅田雲浜の顕彰碑    小浜市大手前

JR小浜駅から小浜城へ向かう北の大手筋・小浜市役所手前に 「杉田玄白記念公立小浜病院」が建ち、正面には医服に身をつつむ玄白の銅像が立つ。 病院名は江戸時代の蘭学医:西洋医学の先駆者として「解体新書 」を著した杉田玄白が 小浜藩であったことに起因するという。車道を挟んで向いに人気の無い中央公園が有り、樹木に隠れるようにSLが展示保存され、小さな公園の中央に杉田玄白顕彰碑と、玄白の像かと思ったが小浜藩士で 順造館に学んだ儒学者梅田雲浜の銅像。日本が対外関係で緊迫化するなか、小浜藩酒井家12代藩主忠義へ送った海防策に関する意見書が、幕府批判と受け取られ怒りを買い藩籍を剥奪され浪人となるが尊王攘夷派の志士の指導者となり、 井伊直弼による安政の大獄に獄死した。杉田玄白は享保18年(1733)江戸牛込矢来の小浜藩酒井家下屋敷に生まれ、幼少期(7〜12歳頃まで)を小浜で過ごした。宝暦2年(1752)小浜藩医となり上屋敷に詰める。宝暦7年には町医者として江戸日本橋に開業している。明和8年(1771)藩主:酒井忠貫・藩士岡新左衛門・青野小左衛門の好意でオランダの医学書「タ−ヘル・アナトミア」を購入し、 江戸小塚原の刑場で刑死者の解剖に立ち合った小浜藩医中川淳庵・小杉玄適・杉田玄白。豊前中津藩医の前野良沢も長崎から同じ医学書を持ち帰っていた。
玄白顕彰碑の横に立つ梅田雲浜の像

オランダ語は読めなかったが、人体解剖図の正確さに感嘆し医学書「タ−ヘル・アナトミア」を和訳し、安永2年(1773)玄白<誌>・淳庵<校>・熊谷儀克<図>により 「解体約図」を公刊して世に問い、翌:安永3年解体新書【若狭小浜藩:杉田玄白<訳>・中川淳庵<校>と記されている】を出版した。鎖国下の日本で真理探求のため蘭学をとり、医学革新の烽火をあげた玄白は多くの後輩を育成し、 日本医界の重鎮となったが絶えず自らを研鑽修養に勤め、臨床医としての生涯を全うした。文化12年「蘭学事始」を草し、文化14年(1817)4月”医は自然に如かず”の言葉を遺し85歳で永眠した。只:江戸で生まれた玄白は、 生涯に一度だけ(55歳の時)藩主に随行して若狭路に来ただけの様です。
(現地:杉田玄白記念公立小浜病院前の由来:小浜ライオンズクラブ 1983.11.13付の案内板 Wikipedia他を参照)
========================================================
”世阿弥”船出の地   小浜市川崎2‐7 台場浜公園

若狭フイッシャーマンズワーフ(蘇洞門巡り遊覧船乗場)と道を隔てて市水産食品センターと並ぶ台場浜公園内に世阿弥船出之地記念碑が建ち、 室町時代初期の猿楽師
世阿弥【貞治2年(正平18年 1363)〜嘉吉3年(1443)】は父:観阿弥とともに猿楽 (能楽の元!!)を大成した。至徳元年(1384)父の死後・若くして猿楽:観世座の観世太夫を継いだ世阿弥のは観世流として 現在に受け継がれている。観阿弥・世阿弥の父子は将軍足利義満や貴族の庇護を受け、教養を身につけていた世阿弥は義満の後:義持の代には更に猿楽を進化させ貴族・武家である観客の好みに合わせ”幽玄”の美を漂わせる言葉・所作・歌舞 ・物語に能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられます。足利義教の代となると弾圧が加えられるようになり、応永29年(1422)観世太夫の座を長子 :観世元雅に譲り出家する。義教は元雅の従兄弟:観世三郎元重を重用し、仙洞御所への出入り禁止・醍醐清滝宮の楽頭職罷免等・・
台場の土塁残欠だろうか?(台場公園)

地位と興業地盤を奪われていった。長男:元雅が伊勢に客死した翌・永享6年(1434 世阿弥72歳)足利義教の故なき怒りを買って佐渡に流されるとき小浜に寄港した船出の地。其の後は不明とも云われますが、 義教の死後許されて帰洛し能楽を大成します。若狭はいまも能・狂言が盛んで小浜市内97神社中・42社に舞台(舞澱)が所在するのは其の影響を受けたものと云われます。
(現地:台場浜公園内<人の駅:世阿弥 >案内板 wikipediaを参照)


【武田氏館跡】と空印寺小浜市男山 空印寺

R27号線を小浜市街地へと向い後瀬山トンネルを東側に抜け出た最初の信号を左折(北へ)して、直ぐ左手 (山側)に愛宕神社への 石段参道入口に鳥居が見え、後瀬山城への登山口でもある。宅地が続く狭い通りを直進し、突き当りのT字路を左折して直進・八幡神社先の三叉路を左折すると其処が建康山空印寺(曹洞宗)。後瀬山城の北山麓に在った武田氏館は、
薬医門から空印寺本堂:左の山が後瀬山城

大永2年(1522)若狭守護武田元光が、 青井山に築いてた城から後瀬山(Ca160m)に城を築いた際、北面山麓の現在空印寺と旧小浜小学校の敷地だった ?広大な一帯には、周囲に濠を廻らせ堅固な居館【武田氏館(若狭守護館とも)】を築いて移ります。元光は大永7年管領 :細川高国に付いて参戦した京都桂川の合戦に大敗して衰退の一途を辿り、子の信豊・更に其の子義統が守護となっているが、 相次ぐ国内の戦乱を収束することが出来ず、永録11年(1542)其の子元明の時、若狭に侵攻した越前 :朝倉義景の軍勢に敗れ没落。朝倉氏も天正4年(1576)織田信長に滅ぼされ丹羽長秀が若狭10万石を与えられ、次いで浅野長政・木下勝俊らが入封して 後瀬山城に入り若狭小浜を支配します。
空印寺本堂

慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に属した木下勝俊は除封され、 そのあとに近江国(滋賀県)大津城主京極高次が後瀬山城から、雲浜に小浜城を築城するまで若狭一国支配の本拠城でした。高次没後忠高が父:高次の菩提所として泰雲寺を建立したが、寛永11年(1634)松江に転封。代って入封された酒井忠勝が、 父忠利の遺骨を移し其の戒名から建康寺と改称した。忠勝没後:寛文8年(1668)小浜藩酒井家2代:忠直が、父忠勝の七回忌法要を機に堂宇を大修築・造営した際 ・建康山空印寺(空印は忠勝の隠居号)と改め今日に至ります。小浜藩酒井家累代の菩提寺となっている空印寺境内に入ると直ぐ目前に迫る丘陵の懸崖下に、開口する洞窟が見えます。
後瀬山城東尾根と登山道合流付近の曲輪群

伝説の八百比丘尼入定の洞ですが、その前に空印寺山門が建ち袖塀の左手脇には潜門が付く。 大門が閉ざされていても此処から出入りできる薬医門形式!!。寛文8年忠勝の法要に際し2代目藩主忠直が建立したもの。寺は度々の火災に燃失したが、医薬門だけは近年移築されたようですが建立当初の姿を止め、 当地方の近世建築の様相を知る上で貴重な建造物であるとして、市文化財(昭和63年1月21日)指定を受けています。


後瀬山城(武田氏城)  後瀬山(愛宕山) 168m   小浜市伏原・男山

後瀬山(のちせやま)城は小浜駅の南西約1km・若狭から丹後に通ずる小浜市街地 (今は後瀬山トンネルで抜けるR27号線 )の街道筋を見下ろす標高168m(比高約150m)地点に主郭を置き、西尾根・北尾根 ・北東の尾根筋に数多くの段曲輪群を連ねて配置され、西尾根筋と北西尾根先に集中して竪堀・畝状竪堀群が集中して施設されて防禦体制を堅固にしている。
後瀬山城主郭の石垣平入り虎口!!?

馬蹄形に延びる北と北東尾根の山麓に武田氏館 (空印寺と小浜小学校一帯 )が在り此処から大手道が通じていたのでしょう。城域はおよそ南北500mX東西350mと若狭最大規模の城郭。 遺構は天正4年(1576若狭)国主として丹羽長秀が入り、 統治した際に石垣を積み補強・改修した遺構と推察されます。「万葉集・巻四」に大伴家持が後瀬山 後も逢はむと思へこそ 死ぬべきものを今日までも行けれと詠い古歌の歌枕ともなった後瀬山で、
後瀬山主郭南東隅の野面積み石垣

若狭武田氏の本拠城となった後瀬山城は国指定 (平成9年5月23日)史跡になっています。 R27号線の後瀬山トンネルを東に抜けて最初の交差点を左折して直ぐ・左側の石灯籠傍を入れば八幡神社 ?の境内で駐車スペースも有る。正面に愛宕神社への参道口に石鳥居が見える。
後瀬山城主郭:愛宕神社をL字に囲む石塁(石垣土塁)

主郭に建つ愛宕神社迄は広い参道山道が通じているが、急斜面の登り始めは滑り易すそうな岩盤にステップが刻まれているが、余計に滑りそう。 途中にxx方面への導標や遺構の曲輪群・土橋堀切等の表示板を見て、いよいよ山上御殿とも呼ばれた主郭(約80X30m程か?)へは、3段曲輪の中を割って平入り虎口を形成する石段参道を入る。左右の曲輪切岸に野面積みの石垣を見る。
後瀬山主郭の石垣土塁!!?

比較的大きな石材が利用されていて見応えがある。 最上部に祀られる愛宕神社は慶長5年(1600)小浜に入封した京極高次の娘が祀った愛宕明神が創基といい、藩主は居城とはせず・山麓の武田守護館に住まいしたが、 山城はその後:小浜城に移った後も藩主が酒井家に変わっても 有事の際の詰めの城塞として”城割り”は行われず石垣・曲輪・空掘等の遺構は残されています。
後瀬山城東郭前 ::参道に面して武者溜りの様な枡形曲輪が有る!!?

・・が石垣・石段は神社建設や建物保護・参道工事による改修かが不明です。 特に神社北から西へ鍵状に築かれる石塁(石垣土塁)の綺麗な残存状態からは当時のものと思えなかったが、北面は石塁下部にも石垣・石積みが見られる。 広大な曲輪内の神社改修に此処まで丁寧な工事がされたとも思えない!!?。主郭の西側下部を10m程の高い切岸下には幅10m程の空堀を隔てて西郭がある。庭園石かと思える程に空堀内は主郭から崩れ落ちた石垣の一部が積る。
後瀬山主郭と西郭間にある大空堀

登山口の鳥居上に写真付き縄張り図にあるように発掘調査により築山。 庭園跡も確認された 分厚い土塁が囲む西郭は下草藪の中で曲輪内の遺構詳細は判らない。空堀西端の土橋(上り土塁)から西郭下部の西尾根は 緩やかな尾根筋だが細い尾根筋は土橋となり。斜面外側に連続する竪堀を見る。主郭から西尾根;北尾根に集中して敷設される土橋・竪堀群・畝状竪堀からは丹後一色氏との間に繰り返された攻防の歴史を見る。
後瀬山城西郭から向かう西尾根に土橋付き堀切

丹後街道を東上してくる一色氏との防衛体制を意識した縄張りになっているようです!!?。 鎌倉幕府のもと甲斐国守護武田氏は「承久の乱<承久3年(1221)>」後に安芸国守護に任じられて「文永の役(蒙古襲来)文永11年 <1274>」頃に下向したとされます。永享12年(1440)足利6代将軍義教と対立していた若狭守護一色義貫を討伐した功で、若狭武田氏初代信栄は若狭守護職に任じられ、本拠地を安芸から若狭に移します。 若狭武田氏のルーツで、祖となる信栄は翌年に急死。弟の信賢が継いで青井山城を拠点に若狭武田氏の基礎をつくったとされます。
後瀬山城:緩斜面が長く延びる西尾根は土橋が目立つ

信賢は国内の一色氏残党や土一揆の討伐を進める一方応仁の乱には東軍に属して、西軍の丹後守護 :一色氏や土岐氏と交戦し、丹後に侵攻して武力占拠します。信賢のあとは弟国信が継ぎ、文明6年(1475)山名政豊と細川政元の和睦の仲介を国信は務めるが、和睦条件の一つ:丹後の返還では家臣団と足並みが揃わず、 このことが後の家中分裂に繋がることとなります。(混沌とした時期:国信の子:元信の前に同じ子の信親が 家督を譲られていたが父存命中に先に没した)若狭国・安芸国の守護職を務める武田氏は一時期 ・丹後守護をも兼ねる勢力をもち、5代目元信のあと大永2年(1522)6代目 武田大膳太夫元光(発心寺殿)が丹後街道の監視・警固と
後瀬山城東尾根:東郭付近の段曲輪群

日本海海運の拠点として、中国との交易も盛んだった様で、海外との貿易をも視野に入れ、国際港の小浜湾と小浜の町を統治する為に築城し、山裾北方には守護館(武田氏館)を構え・若狭武田氏の本拠城として以後信豊・義統・元明と4代続くが、 その勢力は次第に衰退し、永正14年(1517)には被官の逸見国清が、丹後守護代クラスの延永春信 倉梯城(溝尻城か?)と図っての叛乱や、義統の武田氏家督を廻る抗争する永禄4年(1561)には有力被官の粟屋氏も離反し逸見昌経等が砕導山城に籠城する。 弱体化した武田氏は隣国越前朝倉氏の応援を得て、
主郭西堀切から下る北尾根から二条の竪堀を見る

辛うじて守護の体面を保っていた様ですが、永禄11年(1568)混乱する若狭に武田家庇護を称して侵攻した朝倉義景に、守護:元明は越前に拉致され一乗谷に軟禁され ・若狭武田氏は事実上滅亡した。朝倉氏も天正元年(1572)信長に滅ぼされると、天正4年(1575)若狭一国 10万石を与えられた丹羽長秀(佐和山城主)が後瀬山城に入った。 元明は其の支配下として若狭に帰国し逸見昌経の後地一部三千石を拝領したが、天正10年(1582)本能寺の変
後瀬山城登山口から湯岡城側を遠望

信長が明智光秀に滅ぼされると旧領地の回復を狙って光秀に加担するが山崎の戦に敗北して元明は自害する。天正13年(1585)には丹羽長重が居城した。その後は羽柴秀吉の家臣 :浅野長政・木下勝俊が城主となった。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦に近江大津城を守備していた京極高次が軍功を認められ8万5千石の藩主として入封し、当初後瀬山城を居城とするが、翌6年(1601) 小浜城を築城すると居城を移し後瀬山城は廃城となった。
(現地:後瀬山城の案内板 wikipediaを参照)


湯岡城(稲岡城・地谷山城)  池谷山? 74m   小浜市伏原・湯岡

後瀬山城から登山口に降りてくる手前、 愛宕社への参道入口の石鳥居が見えてくると、東方向に直線距離で約1.2kmには、小浜湾に流れ出る南川の河口に近く・其の先端を落とす丘陵が見える 。同じ伏原地区内で、後瀬山城からは尾根続きなので登山ならトレースしてみたい尾根上に湯岡城(池谷山城)が在りました。R27号線沿い東へ・伏原と湯岡交差点の一つ南側地区道の中程に、
湯岡城取付き点の熊野神社

太い木組の火袋を大きな自然石が挟み込む様に立つ灯籠と、道を挟んで狛犬と熊野神社の鳥居が立つ。後瀬山城 ・愛宕神社参道口からは約1.2km程なので徒歩で向い、伏原交差点(GSが有る)から熊野神社に向かった。途中の水道施設らしいコンクリート小屋裏手に 鉄条網で塞がれる隧道が暗闇の奥へと長く延びていく。坑道か?戦中の遺産か?。
神社参道傍の手堀のトンネルは に坑道か?

導水に関するものか?、手掛かりは此処の熊野神社には由緒書きも無く不明。緩やかな石段参道の正面奥に社殿は在るが、 手前左手から急峻な階段道が水道施設の貯水槽が設置されている丘陵上に向かう。此の貯水槽はR27号湯岡橋東詰から南川沿いに名田庄町へ向かう R162号線からは宝積寺の直ぐ背後の丘陵上に巨大なドームを乗せているのが見え、宝積寺からも行けそうだ?。
湯岡城:遺構は細長い土橋だけ!!?(東郭?東の土橋)

左岸の湯岡か湯岡橋西詰め交差点から 向かうことになるがルートは知らない。貯水槽のある施設まで専用管理道は有るが。 貯水曹からは緩やかに延びる丘陵尾根だが、 水道施設の北端から続く山道の取っ掛りは、滑る足元を木の枝。根・雑草さえ手懸りにしての激急斜面…だが直ぐに緩斜面の尾根筋となる。どこまでも続く直線的な尾根上に自然地形の平坦地があるが、曲輪としての削平も切岸加工を感じさせる郭も見ず!!?、
細長い土橋(東郭?西の土橋)

ただ平坦地形の間には此処以外通過できる場所のない、 幅狭く長い(約20m程)土橋で繋がる。 福井県に遺跡分布地図からは遺構に土塁曲輪 ・竪堀が有る様だが観ることが無かった。後背山城と呼応する形なら主郭と思える標高 160m付近から西北山裾の伏原:今富神社 ・佛國寺へ延びる尾根が、丹後街道を監視出来る位置なので曲輪や施設が築かれ遺構が残るのjかも知れませんね?。
湯岡城主郭?(曲輪端が分かる程度の切岸!!?)

湯岡城単独の城なら水道施設の東から尾根末端に掛けて南川から北川へと、丹後街道と河川通行の監視や、北方約2kmに有る 丸山城を視野に入れての監視が可能だ!!?。城史詳細は不詳ですが南北朝期:文和2年(正平8 1353)南朝方の足利直冬から若s守護に任じられた山名時氏被官人幡津次郎右衛門尉・三宅中村六郎左衛門尉を代官として、築かせた稲岡城が此処:湯岡城に比定されています。二人は稲岡城に立て篭ったが、若狭国人衆は幕府方として稲岡城を攻め、 此の国人一揆に落城している。 月替わり・日替りで南朝方に、
大塩城主郭(北側の副郭)に回り込んで入る定土塁虎口

北朝方にと目まぐるしく変わる人の流れについて行けず此処で挫折しますが、文和3年(1354)若狭守護;斯波家兼が奥州管領として(中新田城に)下向、替わって細川清氏が若狭守護に任じられています。室町時代後期 :弘治年間(1555-58)井上下総守、永禄年間(1558-70)には南部石見守宮斎(久方!?)が主将として居城し、永禄5年(1562)大塩城(田繩城)主大塩長門守と戦って勝利したというが、 此の戦国期に後瀬山城の武田氏との関連も不詳。
奥田縄川から望む大塩城

永禄4年;武田氏被官だった逸見氏と粟屋氏等が守護武田信豊に付いて、子の義統に抗して砕導山城に篭城したが落城。湯岡城主は越前朝倉氏の武威を頼る義統方に付き、大塩氏は朝倉氏に反発する一部の粟屋氏と行動を共にしていたのでしょう。 朝倉氏滅亡後は逸見氏・粟屋氏等と織田信長に従っているが、逸見氏はじめ若狭国人衆は旧領地の回復も果たせず・報われない”捨て駒”に利用されただけなのでしょうか?。
(福井県史・通史編 2 中世  wikipediaを参照)


大塩城(田縄城)  大光寺山 135m(3等三角点)   小浜市口田縄・奥田縄

舞鶴方面から若狭へと丹後街道を走る R27号線で小浜市街地・今は後瀬山トンネルで東へ抜け、湯岡橋東詰で南川沿いに名田庄町へ向かう R162号線に入ると直ぐ、宝積寺の大屋根に覆い被さるように落ち込む背後の丘陵上に巨大な貯水槽に続く丘陵尾根が見える。
大塩城主郭(北側の副郭)右手に回り込んで入る虎口がある

此処に 湯岡城が在りました。若狭守護武田氏の有力家臣だった逸見氏の叛乱は、 永禄4年(1561)若さ守護武田信豊と子の義統による内乱に及んでは同じ有力被官だった粟屋氏も信豊に付いて、子の義統に抗して国吉城(三方郡)に籠城して越前朝倉氏の攻撃に抵抗している。
大塩城主郭東下段:腰曲輪の仕切土塁

翌:永禄5年(1562)此の乱の延長線上の戦いだったか!!?大塩城主:大塩長門守助秀は、 義統方の湯岡城主南部石見守宮斎(久方か?)と戦ったが敗れている。大塩氏は守護:信豊の被官人粟屋氏の中でも、 朝倉氏に反発する若狭国人衆の主要メンバーとしての粟屋一族を頼り、逸見氏等と行動を共にし朝倉氏滅亡後は織田の傘下の若狭衆として、
大塩城主郭:副郭と愛宕社を祀る主郭

各地に転戦していたのでしょう。大塩氏は元:播磨赤松氏に従っていた国人だったという。嘉吉の乱(1441)による赤松氏衰退を境として若狭武田氏に従ったされる。 武田氏家臣:大塩氏は代々長門守を称して吉信が文明元年(1469)【口名田村誌に寛正6年(1465)ともある】大塩城を築城して吉次 ・吉忠・助秀と4代続いた様です。南川沿いの約5.5km付近で小浜市総合運動場前・いねむりパーキングスペースを少し降れば奥田縄(おくたのう)川を渡る。
障子堀(堀切を仕切る土塁が画面でも3本確認できます)

80m程先でR162号は右にカーブしていくが、直進して集落内に入っていく地区道との分岐点に、 口田縄地区の住宅案内板が立つが、小浜市指定史跡”障子堀(大塩城跡)”の案内板が目を惹きつける。何よりも近畿地方ではも珍しい「障子堀」の文字に魅せられ、地区道を直進しT字辻を左折すれば目の前に登山口の日輪山大光禅寺 (大塩氏の菩提寺で、明応2年<1493>2代目城主:吉次の建立といい、法号”大光寺”と没年:永正元年(1504)を伝える)。 駐車場から寺の右手墓地を抜けて山に入るが案内表示は無い。 緩やかな正面の谷筋ではなく左手に現れる急な尾根道を辿り、大手口の大光寺から裏山の城址 【最高所の主郭とは仕切り土塁で分けられる手前の副郭(北側曲輪)に3等三角点136mが埋まる<山名:点名知らず??>】を目指し大手道を登ります。
障子堀の堀切を見下ろす主郭南端の土塁

副郭の切岸沿いに右手を進み、一折れする低土塁虎口を副郭に入り、正面の仕切土塁で区切られた土塁囲みの 1.5m程の仕切土塁右端に空く平入り虎口を上がると、 上部が土塁で囲まれた主郭で、愛宕神社の祠が祀られており、此処まで参詣登山道が通じています。 主郭部の東側には一段低く袖曲輪が付くが ・此処も仕切土塁で曲輪を分ける。腰曲輪と主郭の南には急斜面が鞍部の堀切に落ちる。大塩城最大の見所が此の堀切!!で単に土橋付き堀切なら何事でもないが・・。
大塩城:主郭部北端から北尾根側緩斜面の竪堀

画像には収まり難いが、土橋から東下方へ落ちる堀は約 5-10m程の間隔で途中5ヶ所が土橋というより仕切土塁で仕切られている。此れが関西の城遺構では:お目にかかることの極端に少ない 特異な障子堀(障子堀に類似した!!)・・・残念ながら崩れてか浅くなった堀底と落ち葉等に埋もれた形で直ぐとは判別し難いが、広く左右に緩斜な堀底部の横移動を抑止する効果があったのでしょう!?。
主郭東切岸下の腰曲輪!

明確な城遺構が見られるのは、1.5m程の段差で南北二郭から成る主郭に沿って東面一段下部にも仕切土塁で分けられた腰曲輪が付く。 主郭部も仕切土塁で区分される北側(三角点石標が埋まる)の副郭と、愛宕社が祀られる主郭・その南側鞍部に障子堀の遺る堀切までの南北約100m・東西約70m程の部分。 此れより南へも広大な平坦地形が延びる。
主郭部北切岸下の曲輪からは広く長い緩斜面が延びるでけ!!?

大光寺からの急斜な参道が落ち着く緩斜面は見張りの番所でも有ったか?。主稜線に着く主郭部の北端からは、直ぐ北西斜面に幅広い竪堀を見るが、後は北方の尾根筋を広い緩斜面が下っていき・此方も平坦地形が長く延び、 南北に約350m・最大幅は50mの範囲を城域として、小浜市(昭和63年1月21日)指定史跡となっています。
(福井県史・通史編2 中世  wikipediaを参照)


八百比丘尼伝説   小浜市男山 空印寺

八百比丘尼
は全国各地に同類の内容で伝承されますが、 いずれも若狭小浜の空印寺境内にある洞窟に入定して最期を迎えるのが定説です。全国に熊野信仰を広めた熊野比丘尼・歌比丘尼 同様に、八百比丘尼もまた女性出家信者の宗教宣伝活動として発生したものか!!??。八百姫は兵庫丹波 慧日寺に没し遺骸が若狭常光寺に葬送され、出家のため剃髪した黒髪を埋めたという脱離塚の伝承が伝わります。洞窟の前には比丘尼が手植えし、其の化身ともされる白椿が有り、 福徳長寿を願い、諸病平癒諸願成就を祈り加護を念ずる人々の信仰が 今なを息づいているともされます。
八百姫の黒髪を祀る脱離塚のある慧日寺(丹波市山南町)

空印寺境内洞窟前に立つ「八百比丘尼の不老長寿と入定の地の伝説」案内板によると・・・第37代斉明天皇(女帝)の白雉5年(654)若狭国祖荒礪命の末流・勢村 (小浜市勢)の高橋長者権太夫に愛娘がいました。 姫が16歳の時・父の高橋長者が海中の蓬莱国(竜宮)で土産の貰ってかえったという「人魚の肉」を食べたところ不思議や・幾歳になっても年老いることなく16歳頃の若々しさと美貌気品が漂っていましたので、 人々は驚歎し合ったといわれています。姫は120歳の時:剃髪して (比丘尼姿)となって諸国巡遊の旅に出掛けられました。 此処に50年・彼方に100年と止住して神祠仏閣を建立修造し、道路を開き橋を架け、時には五穀豊穣・樹木繁茂の技術を教え、人々に神仏への信仰と、正しい人倫道徳を説き導きましたので、いたる所で敬慕尊崇を受けられたということです。
空印寺:八百比丘尼入定窟

第102代:後花園天皇の宝徳元年(1449)京都清水の定水庵で、姫は諸国巡遊の旅を止め :故郷若狭国に帰られ、後瀬山中の神明神社(小浜市青井)の傍に庵を建て暮すが八百歳になった頃、空印寺境内の大岩窟に静かに入定された。後生の人々は姫を八百比丘尼・八百姫・長寿の姫と尊称し、 姫がことのほか椿の花を愛し入定洞入口に椿を植えていかれたので、玉椿の姫とも申しあげたということです。
(現地:八百比丘尼入定の地 小浜市案内板 を参照)
 本誌丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO