若狭小浜城・後瀬山城・湯岡城・大塩城・空印寺・八百比丘尼伝説・順造門
小浜市歴史散歩 空印寺と八百比丘尼 藩校正門(順造門)・杉田玄白顕彰碑
        小浜城内の伝承 世阿弥船出の地
近畿の山城小浜城  武田氏館と空印寺 後瀬山城 湯岡城 大塩城

小浜城天守台

舞鶴若狭自動車道終点:小浜西でR27号を小浜市内へ向かい後瀬山トンネルを抜け直ぐ左折すると後瀬山城への登山口の神社鳥居と広い駐車 スペースが見える…が今日は家内同伴で山城を割愛。その先の空印寺に向かう。若狭国を支配した京極氏の後三河より 若狭小浜に入封し後瀬山城を居城とし小浜藩
後瀬山城への登城口

酒井家の祖となった;酒井讃岐守忠勝は京極氏により築城中の小浜城を引継ぎ改修して移り、江戸城の富士見櫓を模したという三層の天守閣も建てられた。徳川2-4代の将軍3代に仕えた忠勝は剃髪し空印を号して寛文2年(1662)死去した空印寺に眠り・不老長寿伝説八百比丘尼入定の岩窟がある。
おばま食文化館(ミュージアム・港の湯・足湯・レストラン)

JR小浜駅を北方に廻れば:江戸時代の蘭学医:西洋医学の先駆者で解体新書を著した杉田玄白の医服姿像が杉田玄白記念病院正門前に、道を隔てた中央公園内には玄白の顕彰碑と前田雲浜(尊王攘夷派の志士)の像が立つ。
後瀬山城主郭の愛宕社北面を囲む石垣土塁

杉田玄白ゆかり…とあるが幼少期(7-12歳頃まで)を小浜で過ごしているが 以後は藩主に随行して小浜には一度来ただけらしいが!。大手通を直進し小浜城に向う前に寄り道。若狭高校の正門(順造門)は旧小浜藩校順造館を移築したもので小浜城唯一の建造物遺構とされます。


小浜城 武田氏館と空印寺 後瀬山城 湯岡城 大塩城

小浜城(雲浜城)  小浜市城内1丁目 県指定(昭和31年3月12日)史跡

地元にも其の存在が知られることなく眠る中世の小さな山城と異なり:一国一城の近世城郭は別格扱いで其の多くは県・市を挙げ修復・復元とも思えぬ櫓さえ備えて再建され観光の表舞台に立つシンボルでガイドの必要もなさそう。京極氏が河川や浜地に築く小浜城はJR小浜駅の北方約1.3km小浜湾に流れ出る北川と南川に挟まれた中洲地形の雲(蜘蛛)の浜にあり砂地?の基礎工事に際し領民に過酷な
小浜城本丸:天守台

強制使役は目にみえ加えて増税を貸し酒井氏が引き継ぎ進められる築造工事と自然災害による飢饉・藩の財政難もあり、直訴法度のなかで藩主に窮状を訴えても聞き入れられない。小浜藩でも死を賭けて直訴に及んだ義民の話はあるが藩主:酒井忠勝一人の名声の陰に掻き消されて前後の詳細を知らない。若狭国小浜一帯は若狭守護・武田信賢が治めており小浜城より 南西方向の海岸に近い青井山に城を築いていたが、大永2年(1522)武田元光の代になって後瀬山に居城を移し約130年の間
西櫓から:手前の虎口は大手側へ抜ける民家の生活道路状態!!)

若狭を支配した武田氏も戦国の争乱に没落し越前朝倉氏が若狭へ侵攻するが織田信長に滅ぼされ天正4年(1576)丹羽長秀が信長より若狭10万石を与えられ・次いで浅野長政・木下勝俊らが入封し後瀬山城に入り小浜を支配。慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に属した木下勝俊は除封され近江大津城主:京極高次が若狭8万5000石を領し移封され後瀬山城に入ったが 翌年には海路陸路の要衝となる地に小浜城(雲浜城)を新たに築いて移り城下の町割りを行ない後瀬山城は廃されます。
小浜城大天守台と小天守台

濠となる南北の 河川に挟まれ西は小浜湾を背にし、東には二っの河川を繋ぐ濠で周囲を囲まれています。本丸の周囲に内堀を廻らせ 堀を隔てゝ南に二の丸・東に三の丸や北の丸・西の丸を四方に配し、 これ等を外堀で囲んだ水城(此処は海岸城)で、城跡は二つの川の河川拡張で削られたり・埋められたり…市外地化で周囲を廻らす石垣際まで宅地が迫る。現在は天守台を残す本丸跡に小浜神社【明治8年(1875)小浜藩酒井家の祖
小浜城南面:大天守台から蜘蛛手櫓側

酒井讃岐守忠勝を祀り(天御中主大神を合祀)<築城・城下町としての町割り等を行なった本来の藩祖:立役者は京極高次・子の忠高で若狭から越前敦賀郡までを支配し小浜藩として立藩し:旧藩臣らによる創建】の境内として遺るが海岸城としての面目は消え失せている?。城地は東西156間(284m)・南北145間(264m)・外濠を除き総地坪数18,937坪(62,492㎡)で二の丸(藩主家族の屋敷)・三の丸(軍用食糧・武器庫)等があったが近世城郭としては比較的小規模。現在:本丸跡2/3程に天守台・櫓台・此れ等を繋ぐ石垣・石段が小浜神社境内に遺っているだけ。
小浜城本丸西面(天守から乾櫓)側まで<北側も同じ>民家が迫る

関ヶ原の合戦(前日!?)京極高次は石田三成方(西軍)に弟の高知が東軍に付いていたが高次も東軍へ寝返り3千の兵で大津城に篭城し大将毛利元康ら1万5千の西軍の軍勢を引き付けてたが猛攻を前に開城した為関ヶ原に向う 西軍の到着を遅らせた。その軍功により家康からは若狭一国8万5000石を与えられ若狭守を名乗り高次一代限りだが国持大名となった。京極高次は近江国小谷の生まれで 浅井氏滅亡後信長に仕えたが 本能寺の変後も明智光秀に従い秀吉の長浜城を攻めた為に追求される。
後瀬山城主郭の石垣平入り虎口は天正期の丹羽長秀の改修か!!

しかし美貌の妹が秀吉の側室となった事で許され、 其の後に浅井長政とお市(織田信長の妹 )の間に生まれた3姉妹の次女「初」が高次の正室になっていたことなどの姻戚関係があって大津の所領を安堵されていた。高次の子忠高は寛永元年(1624)敦賀郡21000石を加増され 領地高は合計11万3500石となったが寛永11年(1634)出雲松江に転封となり京極氏による若狭支配は2代で終わり若狭唯一の近世 城郭小浜城は築城工事途中で酒井氏に引継がれることとなり 徳川譜代で老中の要職にある酒井忠勝【天正15年(1587)三河国(西尾市)に生まれ2代将軍徳川秀忠が信濃上田の 真田昌幸・幸村父子を攻めた戦いに初陣を果たした。
後瀬山城:東郭から土橋・堀切を主郭に向かう

秀忠は忠勝を継嗣の子三代家光に近侍させ2年後には1万石を加増して大名に寛永元年(1624)老中・寛永11年(1634)初代小浜藩主として武蔵国川越城から113500石で転封されます。秀忠・家光・家綱と徳川将軍三代に亘り大老職を歴任し、将軍を補佐して徳川幕府300年の基を作った重鎮。常に江戸幕府に出仕し小浜城に帰ったことは 数回で延べ9ヶ月程だったと云われます。

後瀬山城主郭:大手虎口の石垣

寛文2年(1662)死去、 法名:空印寺殿傑伝長英大居士で後瀬山城の麓小浜市男山の空印寺に眠る】が初代小浜藩主として武蔵国川越10万石から入部し三層の天守建立等の築城工事を続行し寛永15年(1638)完成:石高も最後133000石となり幕末まで 14代230年に亘り酒井氏が居城・支配し明治維新を迎え明治2年(1869)酒井忠禄の時版籍奉還し・明治4年(1871)廃藩置県に際し城内に大阪鎮台の第一分営(小浜県庁!)が設置・改修中に失火・城櫓の大部分を焼失し残存していた天守も廃城令により 解体・撤去され主郭の外周石垣を遺すのみとなった。
(現地小浜城城内の人の駅!!酒井忠勝 他案内板や Wikipedia他を参照)
========【小浜城内】===========
市立酒井会館は 元:文化会館の場所に在った酒井家邸宅で、寄進を受け現在の場所へ縮小移築されたもの。玄関の屋敷門は門を入る内側は直ぐ枡形状から石段を登る上級武家屋敷の構えに思え、気になるが詳細情報を知らず。
市立酒井会館と毘沙門櫓?(巽櫓か?)石垣・石段

稲荷神社と八助稲荷大明神本丸跡の小浜神社境内社として祀られている稲荷社は祭神に倉稲魂 (うがのみたま)神を祀り、元は北の丸に在った鎮守神を明治維新後に此処に移されたとある。八助稲荷大明神と呼ばれています。 八助は酒井忠勝の中間(召使い)で、小浜から江戸への文箱を運ぶのに普通15日かかるところを六日位で届け、人々は感心すると同時に不思議に思っていたという。或る朝小田原城下で犬に噛み殺された白狐がおり・狐の首には酒井家の紋の付いた文箱があり、其の後:小浜で八助の姿を見かける事はなかった。これは稲荷明神が信仰の篤い忠勝公に白狐を遣わして 助けたものと人々は思い八助稲荷明神と名付けてお参りを続けてきたと云う。
小浜城蜘蛛手櫓?の石垣傍らに祀られる組屋地蔵尊

組屋地蔵尊は本丸(小浜神社)の東南隅:蜘蛛手櫓の脇に祀られる。慶長6年(1601)京極高次が後瀬山城から海路陸路の要衝となる雲(蜘蛛)浜に築造した 小浜城の創築に取り掛かるに際し城壁の安全護持の為に人柱を立てる評議があった時、豪商:組屋六郎左衛門が愛娘を差出して其の責に任じたが…寛永11年(1634)酒井忠勝が城主となった時、城代家老の三浦帯刀が毎夜・蜘蛛手櫓の 近くで女の忍び泣く声がすると聞き人柱となった娘の話を知り・その霊を鎮めるため一体の地蔵尊像を造り「組屋地蔵尊」と呼んで供養し本丸の守護ともしたが、 寛文2年(1662)5月の大地震で石垣が崩れ、其の修理の際・諸石に混じって行方不明になっていた。
ころび橋

其れから290年:昭和28年(1953)9月の風水害に崩れた衛門口の石垣を昭和34年(1959)修繕中・南隅玉垣の諸石中より、行方不明となっていた地蔵尊が見つかり、其の椅面(背面?)に組屋の家紋があるところから 組屋地蔵尊と判り崇敬者の手によって此処に冥福を祈念し祀られたものと云う。
古呂美橋(ころび橋)は小浜市町内の鹿島区と浅間区境にあった大石を京極氏が築城の際本丸の此処に移した。
(以上は現地:小浜城内の案内板を参照)


小浜城の移築門    小浜市千草一丁目

酒井家小浜藩第9代藩主忠貫の時、藩の儒者として召し抱えていた西依墨山を教授として安永3年(1774)創設された小浜藩校順造館(道に順って士を造る…)の意で美しいナマコ壁の正門は、 もと一番町に於いて天保5年(1834)小浜藩藩校の正門として建築され県立若狭高校(小浜市千種1丁目)の正門(順造門)として昭和55年(1980)移築されています。小浜城唯一の建造物遺構であり平成10年(1998) 小浜市指定文化財となっている。墨山は山崎闇斎が提唱する朱子学(実践道徳の教え)の一つ崎門学を教え寛政12年(1800)75歳で死去した。

(現地若狭高等学校:小浜藩校 「順造館」の案内板を参照)
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杉田玄白(1733-1817)と梅田雲浜の顕彰碑   小浜市大手前

JR小浜駅から小浜城へ向かう北の大手筋・小浜市役所手前に「杉田玄白記念公立小浜病院」が建ち正面には医服に身をつつむ玄白の銅像が立つ。病院名は江戸時代の蘭学医:西洋医学の先駆者として「解体新書」を著した杉田玄白が小浜藩であったことに起因するという。車道を挟んで向いに人気のない中央公園があり 樹木に隠れるようにSLが展示保存され、小さな公園の中央に杉田玄白顕彰碑と玄白の像かと思ったが小浜藩士で順造館に学んだ儒学者梅田雲浜の銅像。 日本が対外関係で緊迫化するなか小浜藩酒井家12代藩主忠義へ送った海防策に関する意見書が幕府批判と受け取られ怒りを買い藩籍を剥奪され浪人となるが尊王攘夷派の志士の指導者となり井伊直弼による安政の大獄に獄死した。杉田玄白は享保18年(1733)江戸牛込矢来の小浜藩酒井家下屋敷に生まれ、幼少期(7~12歳頃)を小浜で過ごし宝暦2年(1752)小浜藩医となり上屋敷に詰め、宝暦7年には町医者として江戸日本橋に開業している。明和8年(1771)藩主:酒井忠貫・藩士岡新左衛門・青野小左衛門の好意で オランダの医学書 「タ-ヘル・アナトミア」を購入し江戸小塚原の刑場で刑死者の解剖に立ち合った小浜藩医中川淳庵・小杉玄適・杉田玄白。豊前中津藩医の前野良沢も長崎から同じ医学書を持ち帰っていた。
玄白顕彰碑の横に立つ梅田雲浜の像

オランダ語は読めなかったが人体解剖図の正確さに感嘆し医学書「タ-ヘル・アナトミア」を和訳し 安永2年(1773)玄白<誌>・淳庵<校>・熊谷儀克<図>により「解体約図」を公刊して世に問い翌:安永3年解体新書【若狭小浜藩:杉田玄白(訳)・中川淳庵<校>と記されている】を出版した。鎖国下の日本で真理探求のため蘭学をとり、医学革新の烽火をあげた玄白は多くの後輩を育成し日本医界の重鎮となったが絶えず自らを研鑽修養に勤め、臨床医としての生涯を全うした。文化12年「蘭学事始」を草し文化14年(1817)4月”医は自然に如かず”の言葉を遺し85歳で永眠した。只:江戸で生まれた玄白は生涯に一度だけ(55歳の時)藩主に随行して若狭路に来ただけの様です。
(現地:杉田玄白記念公立小浜病院前の由来:小浜ライオンズクラブ 1983.11.13付の案内板 Wikipedia他を参照)
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"世阿弥"船出の地  小浜市川崎2‐7 台場浜公園

若狭フイッシャーマンズワーフ(蘇洞門巡り遊覧船乗場)と道を隔てて市水産食品センターと並ぶ台場浜公園内に世阿弥船出之地記念碑が建ち、室町時代初期の猿楽師
世阿弥【貞治2年(正平18年 1363)~嘉吉3年(1443)】は父:観阿弥とともに猿楽を大成した。至徳元年(1384)父の死後・若くして猿楽:観世座の観世太夫を継いだ世阿弥のは観世流として現在に受け継がれている。観阿弥・世阿弥の父子は将軍足利義満や貴族の庇護を受け、教養を身につけていた世阿弥は義満の後:義持の代には更に猿楽を進化させ貴族・武家である観客の好みに合わせ”幽玄”の美を漂わせる言葉・所作・歌舞・物語に 能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。足利義教の代には弾圧が加えられるようになり応永29年(1422)観世太夫の座を長子:観世元雅に譲り出家する。義教は元雅の従兄弟:観世三郎元重を重用し仙洞御所への出入り禁止・醍醐清滝宮の楽頭職罷免等
台場の土塁残欠だろうか?(台場公園)

地位と興業地盤を奪われていった。長男:元雅が伊勢に客死した翌・永享6年(1434 世阿弥72歳)足利義教の故なき怒りを買って佐渡に流されるとき小浜に寄港した船出の地。其の後は不明とも云われるが義教の死後許されて帰洛し能楽を大成します。 若狭はいまも能・狂言が盛んで小浜市内97神社中・42社に舞台(舞澱)が所在するのは其の影響を受けたものと云われます。
現地:台場浜公園内(人の駅:世阿弥)案内板 wikipediaを参照)

【武田氏館跡】と空印寺小浜市男山 空印寺

R27号線を小浜市街地へと向い後瀬山トンネルを東側に抜け出た最初の信号を左折(北へ)して直ぐ左手に愛宕神社への石段参道入口に鳥居が見え、後瀬山城への登山口でもある。宅地が続く狭い通りを直進し突き当りのT字路を左折して直進・八幡神社先の三叉路を左折すると其処が建康山空印寺(曹洞宗)。後瀬山城の北山麓に在った武田氏館は、
薬医門から空印寺本堂:左の山が後瀬山城

大永2年(1522)若狭守護武田元光が青井山に築いていた城から後瀬山に城を築いた際、北面山麓の現在空印寺と旧小浜小学校の敷地だった?広大な一帯に周囲に濠を廻らせ堅固な居館【武田氏館(若狭守護館とも)】を築いて移ります。元光は大永7年管領:細川高国に付いて参戦した京都桂川の合戦に大敗して衰退の一途を辿り子の信豊・更に其の子義統が守護となっているが相次ぐ国内の戦乱を収束することが出来ず永録11年(1542)其の子元明の時:若狭に侵攻した越前:朝倉義景の軍勢に敗れ没落。朝倉氏も天正4年(1576)織田信長に滅ぼされ丹羽長秀が若狭10万石を与えられ、次いで浅野長政・木下勝俊らが入封して後瀬山城に入り若狭小浜を支配します。
空印寺本堂

慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に属した木下勝俊は除封され、そのあとに近江国(滋賀県)大津城主京極高次が後瀬山城から雲浜に小浜城を築城するまで若狭一国支配の本拠城でした。高次没後忠高が父高次の菩提所として泰雲寺を建立したが寛永11年(1634)松江に転封。代って入封された酒井忠勝が父忠利の遺骨を移し其の戒名から建康寺と改称した。忠勝没後:寛文8年(1668)小浜藩酒井家2代忠直が父忠勝の七回忌法要を機に堂宇を大修築・造営した際・建康山空印寺(空印は忠勝の隠居号)と改め今日に至る。小浜藩酒井家累代の菩提寺空印寺境内に入ると直ぐ目前に迫る丘陵の懸崖下に開口する洞窟が見えます。
後瀬山城東尾根と登山道合流付近の曲輪群

伝説の八百比丘尼入定の洞だが、その前に空印寺山門が建ち袖塀の左手脇には 潜門が付く。大門が閉ざされていても此処から出入りできる薬医門形式!!。寛文8年忠勝の法要に際し2代目藩主忠直が建立したもの。寺は度々の火災に燃失したが医薬門だけは近年移築され建立当初の姿を止め、当地方の近世建築の様相を知る上で貴重な建造物であるとして 市文化財(昭和63年1月21日)指定を受けています。


後瀬山城(武田氏城) 後瀬山(愛宕山)168m  小浜市伏原・男山

後瀬山(のちせやま)城は小浜駅の南西約1km・若狭から丹後に通ずる小浜市街地(今は後瀬山トンネルで抜けるR27号線)の街道筋を見下ろす標高168m(比高約150m)地点に主郭を置き西尾根・北尾根・北東の尾根筋に数多くの段曲輪群を連ねて配置され西尾根筋と北西尾根先に集中して竪堀・畝状竪堀群が集中して 施設されて防禦体制を堅固にしている。
後瀬山城主郭の石垣平入り虎口!?

馬蹄形に延びる北と北東尾根の山麓に武田氏館(空印寺・小浜小学校一帯)があり此処から大手道が通じていたか?。城域はおよそ南北500mX東西350mと若狭最大規模の城郭。遺構は天正4年(1576若狭)国主として羽長秀が入り統治した際に石垣を積み補強・改修した遺構と推察される。「万葉集・巻四」に大伴家持が後瀬山 後も逢はむと思へこそ 死ぬべきものを今日までも行けれと詠い古歌の歌枕ともなった後瀬山で、
後瀬山主郭南東隅の野面積み石垣

若狭武田氏の本拠城となった後瀬山城は国指定 (平成9年5月23日)史跡になっています。R27号線の後瀬山トンネルを東に抜けて最初の交差点を左折して直ぐ・左側の石灯籠傍を入れば 八幡神社?の境内で駐車スペースもある。正面に愛宕神社への参道口に石鳥居が見える。
後瀬山城主郭:愛宕神社をL字に囲む石塁(石垣土塁)

主郭に建つ愛宕神社迄は広い参道山道が通じているが急斜面の登り始めは滑り易すそうな岩盤にステップが刻まれているが余計滑りそう。途中にxx方面への導標や曲輪群・土橋堀切等遺構の表示板を見て、いよいよ山上御殿とも呼ばれた主郭(約80X30m程か?)へは3段曲輪の中を割って平入り虎口を形成する石段参道を入る。 左右の曲輪切岸に野面積みの石垣を見る。
後瀬山主郭の石垣土塁!!?

比較的大きな石材が利用され見応えがある。最上部に祀られる愛宕神社は慶長5年(1600)小浜に入封した京極高次の娘が祀ったのが創基といい藩主は居城せず山麓の武田守護館に住まいした。山城はその後小浜城に移った後も藩主が酒井家に変わっても有事の際の詰め城として”城割り”は行われず石垣・曲輪・空掘等の遺構は残されている。
後瀬山城東郭 :参道に面して武者溜りの様な枡形曲輪が有る!?

石垣・石段は神社建設や建物保護・参道工事による改修かは不明だが、特に神社北から西へ鍵状に築かれる石塁(石垣土塁)の綺麗な残存状態から当時のものと思えなかったが北面は石塁下部にも石垣・石積が見られ、広大な曲輪内の神社改修に此処まで丁寧な工事がされたとも思えない!?。主郭の西側下部を10m程の高い切岸下には幅10m程の空堀を隔てる西郭は庭園石かと思える程に空堀に主郭石垣部から崩れ落ちた石が積る。
後瀬山主郭と西郭間にある大空堀

登山口の鳥居上に写真付き縄張り図にあるように発掘調査により築山。庭園跡も確認された分厚い土塁が囲む西郭は下草藪の中で曲輪内の遺構詳細は判らない。空堀西端の土橋から西郭下の西尾根は緩やかな尾根筋だが細い尾根筋は土橋となり斜面外側に連続する竪堀を見る。主郭から西尾根;北尾根に集中して敷設される土橋・竪堀群・畝状竪堀からは丹後一色氏との間に繰り返された攻防の歴史を見る。
後瀬山城西郭から向かう西尾根に土橋付き堀切

丹後街道を東上してくる一色氏との防衛体制を意識した縄張りになっているようです!?。鎌倉幕府のもと甲斐国守護武田氏は「承久の乱:承久3年(1221)」後に 安芸国守護に任じられて「文永の役(蒙古襲来)文永11年(1274)頃下向したとされる。永享12年(1440)足利将軍6代義教と対立していた 若狭守護一色義貫を討伐した功で若狭武田氏初代信栄は若狭守護職に任じられ本拠地を安芸から若狭に移します。若狭武田氏のルーツで、祖となる信栄は翌年に急死。弟信賢が継いで青井山城を拠点に若狭武田氏の基礎をつくったとされます。
後瀬山城:緩斜面が長く延びる西尾根は土橋が目立つ

信賢は国内の一色氏残党や土一揆の討伐を進める一方応仁の乱には東軍に属して西軍の丹後守護:一色氏や土岐氏と交戦し丹後に侵攻して武力占拠します。信賢のあとは弟国信が継ぎ文明6年(1475)山名政豊と細川政元の 和睦の仲介を国信は務めるが、和睦条件の一つ:丹後の返還では家臣団と足並みが揃わず後の家中分裂に繋がることとなる。(混沌とした時期:国信の子:元信の前に同じ子の信親が家督を譲られていたが父存命中:先に没した)若狭国・安芸国の守護職を務める武田氏は一時期・丹後守護をも兼ねる勢力をもち5代目元信のあと大永2年(1522)6代目武田大膳太夫元光 (発心寺殿)が丹後街道の監視・警固と
後瀬山城東尾根:東郭付近の段曲輪群

日本海海運の拠点として中国との交易も盛んだった様で、海外との貿易をも視野に入れ、国際港の小浜湾と小浜の町を統治する為に築城し山裾北方には守護館(武田氏館)を構え若狭武田氏の本拠城として以後 信豊・義統・元明と4代続くが勢力は次第に衰退し永正14年(1517)には被官逸見国見国清が丹後守護代クラスの 延永春信倉梯城(溝尻城か?)と図っての叛乱や義統の武田氏家督を廻る抗争する永禄4年(1561)には有力被官の粟屋氏も離反し逸見昌経等が砕導山城に籠城。弱体化した武田氏は隣国越前朝倉氏の応援を得て辛うじて守護の体面を保っていたが
主郭西堀切から下る北尾根から二条の竪堀を見る

永禄11年(1568)混乱する若狭に武田家庇護を称し侵攻した朝倉義景に守護:元明は越前に拉致され一乗谷に軟禁され・若狭武田氏は事実上滅亡した。朝倉氏も天正元年(1572)信長に滅ぼされると天正4年(1575)若狭一国10万石を与えられた丹羽長秀(佐和山城主)が後瀬山城に入った。元明は其の支配下として若狭に帰国し逸見昌経の後地の一部3000石を拝領したが天正10年(1582)本能寺の変に信長が明智光秀に滅ぼされると旧領地の回復を狙って光秀に加担するが山崎の戦
後瀬山城登山口から湯岡城側を遠望

敗北して元明は自害し天正13年(1585)には丹羽長重が居城した。その後は羽柴秀吉の家臣:浅野長政・木下勝俊が城主となった。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦に近江大津城を守備していた京極高次が軍功を認められ8万5千石の藩主として入封し当初後瀬山城を居城とするが翌6年(1601)小浜城を築城すると居城を移し後瀬山城は廃城となる
(現地:後瀬山城の案内板 wikipediaを参照)


湯岡城(稲岡城・地谷山城)  池谷山? 74m   小浜市伏原・湯岡

後瀬山城から登山口に降りてくる手前、愛宕社への参道入口の石鳥居が見えてくると東方向に直線距離で 約1.2kmには小浜湾に流れ出る南川の河口に近く・其の先端を落とす丘陵が見える。同じ伏原地区内で後瀬山城からは尾根続きなので登山ならトレースしてみたい尾根上に湯岡城(池谷山城)がある。
湯岡城取付き点の熊野神社

R27号線沿い東へ・伏原と湯岡交差点の一つ南側地区道の中程に、太い木組の火袋を大きな自然石が挟み込む様に立つ灯籠と道を挟んで狛犬と熊野神社の鳥居が立つ。後瀬山城・愛宕神社参道口からは約1.2km程なので徒歩で向い伏原交差点から 熊野神社に向かった途中の水道施設らしいコンクリート小屋裏手に鉄条網で塞がれる隧道が暗闇の奥へと長く延びていく。坑道は戦中の遺産か?。
神社参道傍の手堀のトンネルは に坑道か?

導水に関するものか?手掛かりは此処の熊野神社には由緒書きもなく不明。緩やかな石段参道の正面奥に社殿はあるが手前左手から急峻な階段道が水道施設の貯水槽が設置されている丘陵上に向かう。此の貯水槽はR27号湯岡橋東詰から南川沿いに名田庄町へ向かうR162号線からは宝積寺の直ぐ背後の丘陵上に巨大なドームを乗せているのが見え宝積寺からも行けそうだ?。
湯岡城:遺構は細長い土橋だけ!?(東郭?東の土橋)

左岸の湯岡か湯岡橋西詰め交差点から向かうことになるがルートは知らない。貯水槽のある施設まで専用管理道はあるが貯水曹からは緩やかに延びる丘陵尾根だが水道施設の北端から続く山道の取っ掛りは滑る足元を木の枝。根・雑草さえ手懸りにしての激急斜面…だが直ぐに緩斜面の尾根筋となる。どこまでも続く直線的な尾根上に自然地形の平坦地があるが曲輪としての削平も切岸加工を感じさせる遺構ない!?が此処以外
細長い土橋(東郭?西の土橋)

通過できる場所のない幅狭く長い(約20m程)土橋で繋がる。福井県に遺跡分布地図からは遺構に土塁曲輪・竪堀が有る様だが観ることがなかった。後背山城と呼応する形なら主郭と思える標高160m付近から西北山裾の伏原:今富神社 ・佛國寺へ延びる尾根が丹後街道を 監視出来る位置なので曲輪や施設が築かれ遺構が残るのかも知れないが?湯岡城単独の城なら水道施設の東から尾根末端に掛けて南川から北川へと、
湯岡城主郭?(曲輪端が分かる程度の切岸!?)

丹後街道と河川通行の監視や北方約2kmに有る丸山城を視野に入れての監視が可能だ!!?。城史詳細不詳だが南北朝期文和2年(正平8 1353)南朝方の足利直冬から若s守護に任じられた山名時氏の被官人幡津次郎右衛門尉・三宅中村六郎左衛門尉を代官として 築かせた稲岡城が此処:湯岡城に比定されています。二人は稲岡城に立て篭ったが若狭国人衆は幕府方として稲岡城を攻め、此の国人一揆に落城している。月替わり・日替りで南朝方・北朝方へと
大塩城主郭(北側の副郭)に回り込んで入る定土塁虎口

目まぐるしく変わる人の流れについて行けず此処で挫折するが文和3年(1354)若狭守護;斯波家兼が奥州管領として(中新田城に)下向、替わって細川清氏が若狭守護に任じられ、室町時代後期弘治年間(1555-58)井上下総守・永禄年間(1558-70)には南部石見守宮斎(久方!?)が主将として居城し永禄5年(1562)大塩城(田繩城)主大塩長門守と戦って勝利したというが此の戦国期に後瀬山城の武田氏との関連も不詳。
奥田縄川から望む大塩城

永禄4年;武田氏被官だった逸見氏と粟屋氏等が守護武田信豊に付いて、子の義統に抗して砕導山城に篭城したが落城。湯岡城主は越前朝倉氏の武威を頼る義統方に付き、大塩氏は朝倉氏に反発する一部の粟屋氏と行動を共にしていたものか?。朝倉氏滅亡後は逸見氏・粟屋氏等と織田信長に従っているが、逸見氏はじめ若狭国人衆は旧領地の回復も果たせず・報われない”捨て駒”に利用されただけなのでしょうか?。
(福井県史・通史編2 中世  wikipediaを参照)


大塩城(田縄城)  大光寺山135m(3等)  小浜市口田縄・奥田縄

舞鶴方面から若狭へと丹後街道を走る R27号線で小浜市街地・今は後瀬山トンネルで東へ抜け湯岡橋東詰で南川沿いに名田庄町へ向かう R162号線に入ると直ぐ宝積寺の大屋根に覆い被さるように落込む背後に 巨大な貯水槽に続く丘陵上に湯岡城がある。
大塩城主郭(北側の副郭)右手に回り込んで入る虎口がある

若狭守護武田氏の有力家臣だった逸見氏の叛乱は永禄4年(1561)若狭守護武田信豊・子の義統による内乱に及んでは同じ有力被官だった粟屋氏も信豊に付き、子の義統に抗して国吉城(三方郡)に籠城して越前朝倉氏の攻撃に抵抗している。
大塩城主郭東下段:腰曲輪の仕切土塁

翌永禄5年(1562)此の乱の延長線上の戦いだったか!?大塩城主大塩長門守助秀は義統方の湯岡城主南部石見守宮斎(久方か?)と戦うが敗れている。 大塩氏は守護:信豊の被官人粟屋氏の中でも朝倉氏に反発する若狭国人衆の主要メンバーとしての粟屋一族を頼り逸見氏等と行動を共にし朝倉氏滅亡後は 織田の傘下の若狭衆として、各地に転戦していたのでしょう。
大塩城主郭:副郭と愛宕社を祀る主郭

大塩氏は播磨赤松氏に従っていた国人だったという。嘉吉の乱(1441)による赤松氏衰退を境として若狭武田氏に従ったされる。武田氏家臣大塩氏は代々長門守を称し吉信が文明元年(1469)【口名田村誌に寛正6年(1465)と もある】大塩城を築城して吉次・吉忠・助秀と4代続いた。南川沿い約5.5km付近で小浜市総合運動場前・いねむりパーキングスペースを少し降れば 奥田縄(おくたのう)川を渡る。80m程先でR162号は右にカーブしていくが直進して
障子堀(堀切を仕切る土塁が 画面でも3本確認できます)

集落内に入る地区道との分岐点に口田縄地区の住宅案内板が立つが小浜市指定史跡”障子堀(大塩城跡)”の案内板が目を惹く。何よりも近畿地方ではも珍しい「障子堀」の文字に魅せられ、 地区道を直進しT字辻を左折すれば目前に登山口の日輪山大光禅寺(大塩氏の菩提寺で明応2年(1493)2代目城主:吉次の建立といい法号(大光寺)と 没年永正元年(1504)を伝える)。駐車場から寺の右手墓地を抜けて山に入るが 案内表示はない。やかな正面の谷筋ではなく左手に
障子堀の堀切を見下ろす主郭南端の土塁

現われる急な尾根道を辿り大手口の大光寺から裏山の城【最高所の主郭とは仕切り土塁で分けられる手前の副郭(北側曲輪)に3等三角点136m:(山名:点名?)】を目指し大手道を登る。副郭の切岸沿いに右手を進み一折れする低土塁虎口を副郭に入り、正面の仕切土塁で区切られた土塁囲みの1.5m程の仕切土塁右端に空く平入虎口を上がると上部が土塁で囲まれた主郭は愛宕神社が祀られて此処まで参詣登山道が通じ、主郭部の東には一段低く袖曲輪が付くが此処も仕切土塁で曲輪を分ける。腰曲輪と主郭南には急斜面が鞍部の堀切に落ちる
大塩城:主郭部北端から北尾根側緩斜面の竪堀

大塩城最大の見所が此の堀切で単に土橋付き堀切なら何事でもないが…土橋から東下方へ落ちる堀は5-10m程の間隔で途中5ヶ所が土橋?というより仕切土塁。此れが関西の城遺構ならお目にかかることが極端に少ない特異な障子堀…残念ながら崩れてか浅くなった堀底と 落ち葉等に埋もれた形で直ぐとは判別し難いが広く左右に緩斜な堀底部の横移動を抑止する効果があったのでしょう!?。
主郭東切岸下の腰曲輪

明確な城遺構が見られるのは1.5m程の段差で南北二郭から成る主郭に沿って東面一段下部にも仕切土塁で分けられた腰曲輪が付く。主郭部も仕切土塁で区分される北側 (三角点石標が埋まる)の副郭と愛宕社が祀られる主郭・その南側鞍部に障子堀の遺る堀切までの南北約100m・東西約70m程の部分。此れより南へも広大な平坦地形が延びる。
主郭部北切岸下の曲輪からは広く長い緩斜面が延びるでけ!!?

大光寺からの急斜な参道が落ち着く緩斜面は見張りの番所でもあったか?。主稜線に着く主郭部の北端からは直ぐ北西斜面に幅広い竪堀を見るが、後は北方の尾根筋を広い緩斜面が下っていき・此方も平坦地形が長く延び南北に約350m・最大幅は50mの 範囲を城域として小浜市(昭和63年1月21日)指定史跡となっている。
(福井県史・通史編2 中世  wikipediaを参照)


八百比丘尼伝説  小浜市男山 空印寺

八百比丘尼
は全国各地に同類の内容で伝承されるが、いずれも若狭小浜の空印寺境内にある洞窟に入定して最期を迎えるのが定説です。全国に熊野信仰を広めた熊野比丘尼・歌比丘尼同様に 八百比丘尼もまた女性出家信者の宗教宣伝活動として発生したものか!?。八百姫は兵庫丹波慧日寺に没し遺骸が若狭常光寺に葬送され、出家のため剃髪した黒髪を埋めた脱離塚の伝承が伝わる。洞窟の前には比丘尼が手植えし、其の化身ともされる白椿が有り 福徳長寿を願い・諸病平癒諸願成就を祈り加護を念ずる人々の信仰が今なを息づいているともされます。
八百姫の黒髪を祀る脱離塚のある慧日寺(丹波市山南町)

空印寺境内洞窟前に立つ「八百比丘尼の不老長寿と入定の地の伝説」案内板によると…第37代斉明天皇(女帝)の白雉5年(654)若狭国祖荒礪命の 末流・勢村(小浜市勢)の高橋長者権太夫に愛娘がいた。姫が16歳の時・父の高橋長者が海中の蓬莱国(竜宮)で土産の貰ってかえったという「人魚の肉」を食べたところ不思議や・幾歳になっても年老いることなく16歳頃の若々しさと美貌気品が漂っており人々は驚歎し合った。姫は120歳の時剃髪して(比丘尼姿)となり諸国巡遊の旅に出掛けられた。此処に50年・彼方に100年と止住して神祠仏閣を建立修造し道路を開き橋を架け、時には五穀豊穣・樹木繁茂の技術を教え、人々に神仏への信仰と正しい人倫道徳を説き導いたので、
空印寺:八百比丘尼入定窟

いたる所で敬慕尊崇を受けられたということです。第102代:後花園天皇の宝徳元年(1449)京都清水の定水庵で、姫は諸国巡遊の旅を止め :故郷若狭国に帰られ、後瀬山中の神明神社(小浜市青井)の傍に庵を建て暮すが八百歳になった頃、空印寺境内の大岩窟に静かに入定された。後生の人々は姫を八百比丘尼・八百姫・長寿の姫と尊称し、姫がことのほか椿の花を愛し入定洞入口に椿を植えていかれたので玉椿の姫とも申しあげたということです。
(現地:八百比丘尼入定の地 小浜市案内板 を参照)
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