和田山町の山城V 土田城・土田観音山城 

但馬:朝来市(五万図=但馬竹田)
近畿の山城: 土田城 土田観音山城(観音寺城)

土田城(富栖城・鳶ヶ城・遠見ヶ城) xxx 220m  朝来市和田山町土田字北山

福知山市から夜久野 ・和田山を養父・豊岡市へ向かうR9号(山陰道)は竹田城・和田山IC方面へのR312号・県道104号線(R9号線とは円山川を挟んで左岸沿いに養父 ・八鹿へ通じる)はJR山陰本線和田山駅方面への分岐点”一本柳”で交差する。北進する県道104号は直ぐ東河川沿いに夜久野合戦主戦場の宝山南麓を抜けR9号に繋ぐ県道273号と分岐する。
土田城(大歳神社側登山口?)

県道104号は其の先糸井橋で県道10号線(朝来出石線)と分岐する。左折すれば円山川を渡ってR9号の宮田交差点 ・右折する県道10号線は糸井川沿いに出石に通じる糸井街道で、街道沿いに糸井陣屋が在る。宮田交差点からR9号を南東へ左折すると 和田山トンネルを抜け土田地区に出る。
鳶が城<土田城>(和田山トンネル側の登山口?)

此のトンネル上の丘陵筋に目指す土田城が在る。城址への登城取付き点を半田地区側に求めて 以下にレポートする。一本柳交差点からは円山川沿いに南下するR312号を左手に見送り直進する。R9号は遠く竹田城の姿を望みながら新和田山トンネルを潜り、県道104号線からJR和田山駅を経てR9号に出てくる土田<はんだ>交差点を過ぎる。土田城は此処から左手 (西面)前方の丘陵上に展開するが、
土田城(主郭)南面切岸(約20mフィックスローブが張られている)

南北に延々1km以上にわたり、際限なくどこまで続くのかと不安と期待で縦走したが、城砦遺構が連続して続くだけに城域部分を区分できない?。西土田集落内からは二ヶ所の登城口案内板を見るが厳しい尾根上の城址迄は明確な登山ルート未整備なのか廃道なのか踏み跡も不明確。和田山トンネル側には鳶が城・大歳神社近くには土田城とある。
土田城<主郭>南端土檀部と帯曲輪

最高地点の土田城から連続する曲輪群の北端を 出郭の鳶が城と別称したいところですが、土田城主郭(標高220m)から更に南への長く延びる尾根上にも三角点峰 (標高239m)を主体として南尾根上に曲輪群が連続する。しかも是等の曲輪群には曲輪段の 切岸下や堀切部分ごとに、
土田城(主郭)南端から

1.5m前後の井戸か?落し穴と思える窪地が現れる。此れは土田城とは土田地区を挟んだ東側 ・和田山町平野との間の丘陵尾根上に在る観音寺城遺構にも見られる。先に見た土田城・鳶が城には余り見ない遺構だけに別城 ?(例えば土田古城)と思いたい。 土田城は他にも:遠見ヶ城・土田富栖城の別名でも呼ばれる。尾根が長い割りには最適な登城ルートも無さそうですが、
土田城<主郭>北尾根側西面切岸下の竪堀(手前 )と尾根上の堀切

取り付き点としては幾つか考えられます。北方はR9号の和田山トンネルを抜けた宮田交差から円山川に架かる糸井橋を渡り糸井陣屋・出石城 <有子山城>へ向かう県道10号線が、県道104号と交差する。和田山町土田(はんだ)から和田山町宮田に抜ける和田山トンネル上に城址遺構が在り、 トンネル半田側に「鳶が城300m」の案内看板が立つ。…が未だ城址への整備はされていない様で?
土田城(主郭)北尾根東面の竪堀側から 主郭切岸

踏み跡も判然としない激急斜面だ。和田山トンネル真上の尾根筋が比較的緩やかになると歩き易くなり、三段程の小曲輪を越えると帯曲輪に囲まれた2段曲輪が在る。 最高部にほぼ円状の曲輪(15-20u)が此の城郭の主郭か?。しかし此処から南へ延びる尾根上には、何処から何処までが城域なのか、隙間なく次々と尾根上に続く城郭遺構に何処までが「鳶が城 」なのか、
土田城<主郭>北尾根側から帯曲輪と主郭切岸

半田の地区道を大歳神社に向かう北手前には 土田城の案内板が立つ。大歳神社背後の尾根筋には数段の曲輪や堀切状・低土塁状さえ残る。此の先から途中までは山仕事用らしい踏み跡も有るが 途中から激急斜面となり、 踏み跡は西・南方向に進む様だが藪漕ぎは無用なので尾根筋を目指す。
土田城(主郭)北尾根上の堀切<箱堀>

「半田城」案内板からのルートは未訪だが尾根筋鞍部から北方にフイックス・ロープが張られた激急斜面(20m程の切岸 )下部の尾根鞍部付近に上り着くと思われます。此の鞍部から北尾根上に土田城主郭の城郭群と、南尾根を降る長い尾根上にも主郭側とは少し縄張りを異にする城郭群に分かれる?。
北尾根から東尾根 (トンネル上)に移る位置に同心円状曲輪 ・頂部は櫓台曲輪か?

南北朝期からの戦史の記される土田城(土田富栖城)は、R9号線・和田山トンネル上に続く北尾根の 城砦を指すものか?。長い尾根に延々と曲輪を並べる南尾根部が南北朝期の縄張りなのでしょうが・・。鞍部からの北尾根は切岸上に帯曲輪を伴う 南曲輪と2段程の小曲輪上に主郭を置く城郭群を土田城と呼ぶのか?。幅約10mX長さ30m程の楕円形の主郭は南端が僅かに高い櫓台状と、
同上・・同心円状曲輪から東尾根側(トンネル上)に帯曲輪・小曲輪が数段続く

誰かが祀ったものか?自然石が立てられている。高く岸を切り落として周囲を一段帯曲輪が捲く主郭の四方を竪堀で固めている。 此処から北下方への尾根に連続する曲輪群の端に 円状曲輪<櫓台か?>が有る。此処から和田山トンネル土田側の「鳶が城」案内板へ降り立つ。 大歳神社付近からは土田城<単郭の主郭を帯曲輪・其の外側四方を竪堀で固めている>の南曲輪の急斜面下方鞍部に着いたが、
南尾根側曲輪群:三角点峰239m頂部曲輪

R9号側のGSと”たいこ弁当”間の地区道を入ると直進すると団地・民家を抜けて大歳神社に通じるが”たいこ弁当”駐車場端のカーブミラー側から小さな墓所裏手から丘陵に取付く踏み跡もある。此処からは同:帯曲輪を廻す主郭部東南の切岸(約12m程?)下部迄の急峻な枝尾根上部に続く小曲輪群(3‐4段程 ?)を越えて竪掘近くへ登り着く。土田城主郭から北東への尾根筋へも、
南尾根曲輪群:三角点峰南西尾根側の堀切

南東尾根へ降る踏み跡から急斜面を下る。此処も切岸約 15m程の斜面下からは比較的緩斜面の尾根となり、北斜面に竪堀・尾根筋に堀切(深くもなく幅も広く箱堀か?)を越える。此れより段差2m前後の曲輪群が連続する。2‐3ヶ所の曲輪段差下や堀切(尾根を遮断するというより?、曲輪間の平坦地状は 何れも箱堀)の端や中央段差下に落し穴状の窪地を見る。
南尾根三角点峰から南東尾根の段曲輪と堀切内の落し穴?

落し穴状は此の後引返し:土田城主郭からフイックス ・ロープが張られた南曲輪部からの激斜面を下って、更に南に続く尾根上の出現する別の城郭遺構か ?(此処には土田城の別名 :遠見ヶ城の名が相応しい・・?)は、和田山町法道寺・和田山町岡の谷間 【法道寺城・岡城が在る】の集落を隔てた西方の峰に望む 石禾<いさわ>城(畑たか城)・石禾上城・石禾下城等と呼応する知らせ(通信)の城の任もあったものか?【石禾城・土田城共に城史は不詳】。
南尾根三角点峰から南西尾根中郭の三重堀切?

土田城主郭部から急峻な斜面を下ると、少し距離を置いて南尾根に連続し て展開する曲輪群には曲輪切岸下部・堀切の中央部や尾根端で竪堀となって落ち込む付近等には、其々に・ほぼ曲輪毎に一つずつと思える程多くの 落し穴状窪地を見る。土田城の主郭群とは別の城郭群と思えるが、遺構からは同時期に使用されていたものの様で但馬の城に多く見られる古城群でも無さそうです。
南尾根三角点峰から南東尾根三重堀切外側の曲輪

もっとも土田城の南尾根上に長々と連なる連郭は 南北朝時代の遺構をそのまま改修しながら使用されてきたものか?。また同様 ・同規模の落し穴状は石禾城でも見かけたが・・?。また土田城主郭の北尾根城砦群の堀切は尾根幅広い箱堀状だが、 土田城の南尾根側は末端付近で二分岐するピークの曲輪群からは西南尾根側に二重堀切・
南尾根三角点峰から南東尾根三重堀切外側の曲輪

比較的幅広く長い尾根上に段曲輪が続く南東尾根には、数少ないが竪堀(三本程度か?)もある。段曲輪群は其の段差の下や三重の堀切に落し穴状を見る。土田城の築城は古く所在は不明だが平安時代:寛弘年間(1004‐12)土田兵部尉太田垣則高と子の土田太郎太田垣時高 が拠ったとされます。南北朝期 :水生山城を落とした北朝方の伊達三郎真信が延文元年(正平 11 1356)9月・山本次郎左衛門尉と共に
南尾根三角点峰から南東尾根上の落し穴?

土田城の土田太郎左衛門尉を攻めたという <伊達文書>。北党方の多い丹波側の境界に近い但馬南東部に在っては但馬南党の前線基地となっていたものか?。土田郷は日下部系で朝倉氏一門の土田氏が 地頭を務めていたが、土田氏は衰退し地頭職は幕府奉公人の布施昌椿に与えられたが、永和4年(1378)布施昌椿から南禅寺慈聖院に寄進されています。
南尾根三角点の郭から南東尾根にも大小曲輪群が続く

土田郷は其の後も長く布施氏が支配していたようで、布施氏によって土田城(土田富栖城)は廃され 土田観音山城(観音寺城)を築いて移ったと考えられています。天文23年(1554)牧田郷と養父郡土田郷の農民との間の山境界争いに、 太田垣土佐守と山本平左衛門が議し、主君:山名祐豊の命を奉じて境界をつくり協定している。
北尾根:土田城主曲輪と南曲輪間東西面の竪堀

<朝来志・古文書>にみる牧田郷は太田垣氏に属し、高生田城(福富城)・和田城と共に土田城の土田郷は山名氏に属し山名氏家臣:福富氏が支配していた時代があったが、天正5年(1577)羽柴秀吉による 第一次但馬征伐の際に滅ぼされたものと推察されます。土田城や和田城は高生田城 (福富甲斐守)の出城として機能した様です。
(但馬の城・Wikipedia・兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)


土田観音山城(観音寺城) 観音山?・向山? 220m 朝来市和田山町土田字向山 ・ヒヤケ

朝来市和田山町で観音寺城と云えば、雲海に浮かぶ天空の城として、いまは但馬を代表する観光スポット:竹田城の尾根続き東に存在して、 石垣も残る竹田城の出城:観音寺城が知られており、但馬の城史としては豊岡市日高町には垣屋続成・光成の鶴ヶ峰城が観音寺城の別称でよく知られるところですが、此の土田の観音寺城(観音山城)は但馬の城史にも登場せず?、
西土田の大歳神社「土田城址」登山口?から望む観音山城

存在を知る人さえ少ない埋もれた古城?・・・の一つですが、現状遺る縄張りは南北朝期:延文元年(1356)北党方の伊達三郎真信等に攻められた地頭:土田太郎左衛門尉の土田城(鳶ヶ城・土田富栖城) より後期の築城で、土田氏の衰退で土田郷に地頭職を与えられた幕府奉公人
観音堂から続く曲輪群背後の尾根を遮断する大堀切

布施氏の支配は長く続き【永和年間(1375‐79)】以後?には布施氏によって土田城(土田富栖城)が廃され観音寺城を築いて 移ったと考えられています。其の後土田郷は山名氏家臣の福富氏に属した時代もあって、天正5年(1577)羽柴秀吉による第一次但馬征伐の際に 落城した高生田城主福富甲斐守の出城としての 土田城の其の前衛としても機能し運命を共にしたものかもしれません?。
主郭から南尾根側の大土塁と堀切

観音寺城(土田観音山城)はR9号(山陰街道)沿い和田山町平野の西面を 南北に延びる丘陵上に在って9号線丘陵北先端を観音堂の達つ土田地区の土田川?(大倉部川か?)側に落とす。県道104号が合流する土田交差点の北・上土田バス停付近のローソンを過ぎた辺りで西へ進むと土田川?(大倉部川?)に出て左折。
観音寺城の落し穴?(土田城でよく見掛けた・・・)

平野には5世紀始め頃に築造され、但馬地方最大・兵庫県下でも4番目(全長140m)の前方後円墳とされる 池田古墳が在り、道の駅「但馬まほろば」近くの茶臼山古墳同様に大和王朝との繋がり深いものと推測され、従来なら 先に古墳レポートを先行させていたかも・・・残念ながら此処は割愛して直接大倉部川?沿いの観音堂を目指す。
観音寺城の落し穴 ?(土田城でよく見掛けた・・・)

川沿いに進むと地区内の三差路南側に石佛群を祀る瓦屋根のお堂(地蔵堂!!?)があり、 此処から続く石段上に観音堂が建つ。観音堂の裏手に延びる尾根伝いに(観音堂も城址の先端曲輪遺構か!!)曲輪が山頂に続き途中に大堀切を越えて、主郭部のニノ曲輪から・南東部に櫓台状土檀の高みを持つ主曲輪(標高220m)の頂部に着く。
観音寺城:主郭北東尾根上の土塁(中央上方)

更に南尾根筋は二本ばかりの土塁を伴う堀切を越えて三角点峰301mに延びていくが、 堀切から先の尾根上の曲輪状の平坦地は自然地形か?。観音寺城は観音堂から301m三角点峰へ南北に延びる尾根上と、主曲輪北のニノ曲輪北東端から東尾根筋 ・三方の尾根一帯に段曲輪を置き、其々の尾根上を堀切で遮断して城域を確保する中規模以上の縄張りをもつ城だ。
観音寺城 :主郭北東尾根の大堀切

観音堂背後の急斜面上に一基の燈篭(もう一基は倒壊か?)とトタンの覆屋内に納まる小さな社が祀っれる。此処は既に観音山城の曲輪内。荒れた数段の曲輪地形の先には大堀切が有る。堀切先にも中小規模の曲輪段を越えて、主郭北曲輪(ニノ曲輪)に入る。南への尾根筋は頂部 (標高220m)の北東端部に櫓台状土檀を遺し、高い切岸(約10m程)下に東西には 2‐3段の帯曲輪・腰曲輪を持つ。
観音寺城:主郭北東尾根の大堀切

南尾根筋には堀切土塁で区切る2曲輪程の南曲輪。 更に301m三角点峰にかけて尾根上に曲輪群を持つ様!!?.だが、上り尾根筋の曲輪だが先に観るべき遺構は無く先細り・・・。村の城 ?・逃げの城?的な用途か?。引返して、主郭部北の北郭部(ニノ曲輪)北東から東下への尾根筋を辿ると10段ほどの段曲輪下に箱堀状の大堀切、其の先には5段程の曲輪が続くが上部の2段は広く削平状態も良い。
観音寺城:主郭北東尾根堀切からの北尾根側大土塁(中央)

直ぐ下方にR9号を見下ろす比較的低位置に在って居館跡・屋敷跡と思われます。 此処から北への比較的緩斜面側に向かう大土塁が有り、城への大手筋だったのかも?。比高100m足らずの山城にしては、土塁と差程の高低差も無い曲輪の切岸、 三方の尾根筋を堀切で遮断しているが、竪堀遺構は無さそう?。
観音寺城:主郭北東尾根末端付近の広い段曲輪

土田城の 南尾根側遺構に見る落し穴?も有るが、室町末期・天正の但馬攻めの防衛に対しどれ程の効果があったかは疑問?で、天正5年(1577)の第一次但馬征伐の際:高生田城主福富甲斐守が出城とした 土田城は兎も角、此の観音山城が其の前衛として機能したかは疑問に思えてきた。布施氏の後は既に廃城となっていたか?。

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