滝野・社  闘龍灘と播磨平野の城館
阪神・東播磨 (五万図=北条)
近畿の山城  穂積陣屋 河高構居
  上久米陣屋  上田城(上田陣屋)松尾城 堀内城
闘龍灘と鮎の筧仕掛け


R175号線の西脇トンネルを抜けると西北方に足利尊氏・直義兄弟で争う事になった観応の攪乱や赤松政則の文明の合戦で知られる 光明寺城(滝野城)のあった五峰山(光明寺山)の台形丘陵上に延びる大きな平坦な山容が見える。 闘龍灘の案内標識を見て西へ折れ、加古川を渡る橋の下流に見える川床一面が岩で覆われた荒々しい風景が東播磨の名勝:闘龍灘です。
闘龍灘の掘割(開削)水路

丹波市と但馬の朝来市境の 粟鹿山(962m)や福知山市との府県境烏帽子山(513m)を源流(旧佐治川)として多くの支流・枝流を集めて東播磨の西脇・加西・加東・小野・三木 ・加古川各市を抜けて高砂市で播磨灘に流れ出る加古川の中流域に位置する「飛び鮎の名勝闘龍灘」の川底一面に敷き詰められたような 岩盤帯は荒々しく起伏する奇岩・怪石に阻まれて落差約3mの岩間を激流が白い帯となって流れています。
闘龍灘の掘割(開削)水路

此の地を訪れた江戸時代末期の詩人梁川星巌は「
一道の飛龍地をつんざきて開き怒声豪勢風雷と闘ふ 秋は千巌に入りて霜葉麗し 玉龍躍り出でて 錦雲堆 (つ)む」と詠み:岩を裂き・躍動する水流と岩場の様相から闘竜灘と名付けたが、 元は双龍灘とも呼ばれ「白波雲の如く立ち水声夥し」と評されたといいます。闘龍灘と加古川舟運 全国で最も早い鮎の解禁場で知られる闘龍灘は筧(かけひ)どり漁法【汲鮎漁】でも知られ鮎の習性をを利用して、 遡上する鮎を筧の人口滝に誘う漁法の装置が見られます。
闘龍灘の滝瀬に鮎の筧仕掛けが観られる

より以前は掘割水路を利用して小網で掬い摂る”鮎汲み漁”の名所ともなっていたと云う。闘龍灘を望む河畔の立像阿江与助は 加古川舟運の創始者とされる人物で加東郡河高村に生まれ、後に上滝村の阿江家を継ぎます。加古川の舟運開発では東播磨の豊臣氏領を管理していた地頭の生駒玄蕃が貢米輸送にあたって加古川に注目し財力のある大庄屋 阿江与助達に通舟を妨げる川底の岩石を除去し浅瀬に水路を通させました。
阿江与助の銅像

二期に分かれた開発で与助は滝野から大門村までを担当し文禄3年(1594)には滝野川(加古川の滝野以南)【下記の河高構居(滝野町)や上田城(社町)が此の川沿に有る】を完成させ、 第二期には領主:池田氏による滝野以北の浚渫普請では田高村の西村伝入斎とともに慶長9年(1604)田高川(加古川の滝野以北)の開削を成功させ・慶長11年(1606)には加古川上流(旧佐治川に入り氷上町本郷までの通船が可能になり船座が設けられ舟八艘が置かれ、支流の柏原川に沿う母坪(穂壷)にも開通した初期の頃には 船着場が設けられていたと云います。
甌穴(ポットホール)

河東碧悟桐<松山市千舟町生まれで 正岡子規の高弟(1873‐1937)・高浜虚子とは尋常中学校の同級・子規門下の双璧と謳われた>が大正5年(1916)闘竜灘を訪れた時に播州寝覚と題して詠んだ「
跳びあへず渦巻く鮎の ひねもすなる哉」の句碑が立つ。此の句を闘竜灘の大岸壁に彫り刻む計画があったが中断となり、滝野幻の句碑となっていたもの。露岩の河床を歩いていると随所に ポットホール (甌穴=水流によって侵食された円形の穴)を見る。 加古川上流<旧佐治川の丹波市氷上町【本郷舟座も慶長9年 (1604)開通したが其の後も開削・浚渫工事が田高の西村氏により行われている】与助は此れ等の功により滝野船座の座元に任じられ加古川の舟運を支配した。
「播州寝覚」とも呼ばれた闘龍灘

多可郡からの松・杉・桧の木材は筏を組んで下流に運ばれたが、闘龍灘の岩床と落差3m程の滝に阻まれた難所は底の浅い高瀬舟も・筏も流せず此処が中継基地となり一旦・舟荷を解いて荷物の積み替えが行われていた。 寛永2年(1749)上野前橋から酒井忠恭(ただずみ)姫路城主として入封いらし120年、酒井氏が代々続いて明治維新を迎えます。酒井氏の姫路城入部により、滝野舟運の座元は阿江氏にほぼ固定され【滝野上流には他にも 田高川船座や本郷船座があった】物資輸送の要として加古川舟運繁栄の絶頂期を迎えています。慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いを境に崩壊していく幕藩体制は明治4年 (1871)明治政府の廃藩置県により幕藩の旧体制は次々廃止されていく。
本郷舟座跡(丹波市氷上町本郷)

此の変革は加古川舟運にも及び田高・滝野等の船座は新政府により廃止され、高砂へと直接運ばれるようになっても闘龍灘の落差と岩場の通過ができず、物資は一端此処で中継して移し変えられます。慶応4年(1868)船座廃止と表裏して 多可郡黒田庄村(西脇市)の村上清次郎によって木材筏や高瀬舟を通すため、最大の難所であった闘龍灘の開削許可が出されます。しかし過渡期の混沌とした時代だけに請求は認められなかったが 翌:明治6年(1873)但馬:生野銀山の フランス人技師セーム等の指導によって明治32年(1899)の阪鶴線、(福知山線)の開通や加古川方面への馬車・やがて大正2年(1913)には播州鉄道(加古川線)の開通により物資輸送は鉄道に代わり加古川に320年続いた舟運の歴史を終えた。
本郷舟座跡側には本郷橋跡の碑

加古川流域の舟運についての史料展示は加古川線滝野駅と県道を挟んで北側:滝野歴史民俗資料館に…入口には高瀬舟をモチーフにした石造モニュメントがある。丹波市氷上町本郷の舟座跡は加古川(旧佐治川)に架かる本郷 橋の北方直ぐ。小公園に舟座跡碑が舟運に使われた底が浅く平たい高瀬舟を模した石を壇台に立つ。 本郷川で使用されたものは長さ6m・幅1.26mのもので米で約15石を積んだといわれ石生・水分れ公園に復元模型が舟運歴史とともに展示されています。

穂積陣屋空堀を挟む土塁(正面奥は中国自動車道)

ただ篠山川・旧佐治川の合流地点 ・丹波市山南町井原から加古川となって南下する旧加古川とは異なり、旧佐治川は水量少なく ・通舟期間は灌漑用水が不要となる秋の彼岸から翌年の八十八夜までで、其の荷物は主として大名の年貢米・大豆・薪炭等を積み出し、戻りには塩・干鰯・藍玉・灯油等であったという。但馬・丹後からの物資の集散地として賑わったが、 明治32年(1899)阪鶴線(福知山線)開通により経済・文化交流の動脈として活躍した舟座300年の歴史は鉄道・車輸送に引継いで身を退くことになった。
(現地 闘龍灘の掘割水路・播州寝覚・阿江与助銅像の案内説明板を参照)


穂積陣屋河高構居
上久米陣屋
上田城(上田陣屋)松尾城 堀内城

穂積陣屋(穂積砦:穂積城:保隅城:公文屋敷)  加東市滝野町穂積


R175号線の滝野社インター入口交差点を右折し県道17号に入り、一つ目の北野交差点を左折すれば 中国自動車道高架を潜る手前を、中国道に沿った細い道を西に約150m程前方に竹藪と、竹藪から民家傍へ延びる土塁が見えるので、陣屋跡の民家を含めて穂積陣屋の位置は判り易い。
穂積陣屋:東端(竹薮中)の土塁(2015年)

…が陣屋跡の遺構となると猛烈な竹藪を囲う外観の土塁と、了徳寺に移築されている陣屋門くらいか!!?。 穂積陣屋へ最初に訪れたのはR175号社総合庁舎前の先・社駅〜加西市方面に通じるR372号(野村河高バイパス道 )で社工業団地側を抜けた貝原 ?交差点を右折して北方へ向かい直進「西垂水交差点」から穂積に至る。

穂積陣屋 :東端(竹薮中 2006年)

中国道高架下北側端に駐車スペースがあり、此処から確認出来る高架と田圃の間の道の先・集落西端に建つ民家と竹薮が茂る一画穂積陣屋に向かった。民家に並ぶ竹薮の東側は1.5〜2m程に高くなって おり、竹薮部分は縄張り内側も1m以上の高さで遺構の土塁が続いています。藪の東から南を溝が捲き、西側にかけての溝谷となっており、
穂積陣屋・東面土塁線

低い湿田一帯が沼地か池だったと思われます。北方は畑地と民家で往時の遺構を留めていないが、 陣屋跡の竹薮内部には低土塁で囲われた段差を持つ平坦地が見られます。【当初・猛烈な竹藪内部は、倒れ朽ち重なった竹材に覆われて歩き廻る以前に 侵入することも至難だったが、再訪では竹藪内部を残し・土塁周辺が伐採され観察し易い状態になっていた】

穂積陣屋 :西面湿地帯か池跡?

穂積陣屋の地は天正年間(1573〜92)三木城主・別所氏の幕下である保隅越中守が築いた穂積砦(保隅城)で、三木合戦の際には三木城に立て籠もり足軽大将として活躍したといわれます。 陣屋が置かれたのは寛永年間(1624−44)頃で 多能登守の所領となり、元禄4年(1691)には八千代町の大石の石垣に見るように 赤穂藩の飛領地となり浅野家陣屋となっていた穂積陣屋には:赤穂城主浅野氏の刃傷事件によって赤穂藩が改易されたが、理不尽な裁きに主君の仇討ち元禄15年(1702)12月14日:赤穂義士の一人として

了徳寺に移設されている穂積陣屋門

吉良邸に討ち入った吉田忠左衛門が郡代官として此処に在番した。浅野家断絶後は一時天領となり・代官 :石原清左衛門が支配したが元禄16年(1703)から明治2年(1869)まで旗本八木丹波守勘十郎が4千石で知行するところとなり八木氏陣屋を設け、其の子:但馬守太三郎・但馬守十三郎に至って明治維新を迎え陣屋は撤去されます。 河高構居に寄った後:社駅前からR372号線で加西市との市境界にある高岡の王後山了徳寺(天正13年<1585>創建された真宗大谷派)には穂積陣屋の長屋門が移築されているので訪ねてみます。



河高構居(河高)    加東市滝野町河高字中条

穂積陣屋を後にして社工業団地に向かって南に走りR372号線の「西垂水交差点」に出て右折し西に向うと直ぐ加古川に架かる福田橋を渡る。社町駅前の交差点でR372号は左折するが河高構居へは、 対向車に注意しながら右折して細い河高地区内の道に入っていく。正面に中国自動車道の高架を見る辺りから、 東側を流れる加古川との間の集落と 田畑が有る一角が河高構居のあった所と推定されますが、遺構は無く加古川を天然自然の要害に取り組んでいるのは判るが、堀で周囲を囲っていたと思われる城館跡を感じさせる雰囲気もない。
河高構居比定地付近

周辺の民家横や田畑の端に石垣を積んで「地神さん」を祀る小さな祠が、 他の地域に比べれば少し多く目立つ様です。!!写真に見る祠の東側民家と広い竹薮の間には堀状の谷が流れている。藪の東は南北に流れる加古川沿いの堤防ですが 千鳥川の合流地点になっています。此の河高構居は永禄年間 (1558〜70)赤松氏の家臣:丸山(河高)治郎少輔長勝の城だったといいます。播磨武士には・お家再興を願う赤穂四十七士の浪士に先立ち、 同様に嘉吉の乱(1441)に一次滅亡した赤松家再興を願って、
比定地付近竹藪の東:加古川と千鳥川の合流地点

長禄元年 (1457)遺臣の赤松浪人河高治部少輔と又三郎・間島彦太郎(三郎?)をはじめ垂井次郎右衛門尉・中村小四郎助直(金鑵城主中村小四郎正満の子 )・助直の家臣:小谷与次(中村城)・石見太郎助・丹生屋帯刀・上月満吉等の名がみえるが、奈良県吉野郡上北山村か川上村に本拠を置いていた吉野 後南朝の皇居に討ち入って皇子の首と、南朝方に奪われていた神器の鏡だったか神剣か勾玉を奪回したという…。加西市の南帝山清慶寺(浄土宗)には 罪なくして討たれた皇子の霊を弔う南帝塚が祀られています。



上久米陣屋   加東市杜町上久米字谷田

R175号線を南下して滝野社インター南で県道17号線に入り東に向かう。 並走していた中国自動車道が南方 の低丘陵を縫うように白い帯を見せている。「上久米交差点」から其の自動車道に向かって南へ緩い斜面を登っていく小字 「大手の下」と呼ばれる辺りから、 上久米陣屋跡に向かって直線道路が延びる。
上久米小学校正門前:右手の田圃は土橋付き空掘を廻す曲輪!!

東側の高台に米田小学校が建ち、この辺りが上久米陣屋跡と云われます。此処は別所氏方が拠った陣屋で、天正(1573-92)年間の守将は 大石直信で家老に石田正雄・三好小太郎等がいたが、三木合戦に三木城が開城により終結した天正8年 (1580)三木城開城とともに上久米陣屋も滅びたと云われています。
上久米小学校正門前の 土橋付き空掘

小学校西隣は字名を殿開地(とのがち)・殿町といい、北側にある東光寺の西側は「大手の下」と云われ、 一帯は圃場整地のために破壊されているようですが、正門前と高い段差で続く田圃の間を南北に抜ける車道が通じ、 学校側の田圃も南を除く三方が 1.5m〜2m程の高みにあり、周囲を低土塁で囲われているようです。
6〜7mの崖下に谷川が流れる

其れだけなら田圃の畦と然程も変わりませんが東側に土橋付の堀切が有り、南側の山裾に沿って校庭端に延びています。また田圃の山側も空堀の様な溝状となって10数m東の車道へ延びています。 車道西側の田圃の段差も高いのですが、さらに西側は7〜8m程の深い断崖となり底は川が流れ、南西側は此の谷で遮断されています。
(加東郡誌 他参照)


上田城(上田陣屋・加茂川構居)     加東市杜町上田

穂積陣屋を後にして 社工業団地に向かって南に走りR372号線の 「西垂水交差点」に出て右折し西に向うと河高構居へ、左折して社総合庁舎へ向かえば、直ぐ南方に堀内城・東に向かえば松尾城も近い。 上田城へは此処「西垂水交差点」を南へ採って、社工業団地をさらに南へ進むと出水川に架かる橋を渡ります。右手に水量調整堰の向かい・広い中洲を挟んで其の向こうが加古川。
上田城・集落内に土塁の残欠!

 
此の出水川と加古川:二つの川の合流地点に在って、此れに挟まれた三角州状態の先端部の高地に位置して 上田城があったといわれます。 河川の護岸工事や田圃・宅地開発等で破壊されてしまったものか?しかし集落内の民家と民家の狭い空間には土塁が延びていた。 土塁先の民家の奥には祠が祀られているように見えたが空耳いや空目?!だったか…(^_-)-☆
上田城・出水川(手前)と加古川合流点の上田城が在った!
 
北側の民家と田圃の間に延びる車道も何処かで 空堀で遮断されていた筈だが…? 上田城の築城時期や城主等の詳細については不明ですが、別所氏一族の蓬莱氏の居館だったか?。上田城から南へ約 200m程の大門には小野と加西を結んで宿場か市場でもあったか?そんな雰囲気が漂い塀囲いの旧家が目立つ。そんな中でも一際目立つ広い敷地と大玄関 ・横の勝手口?の門も重厚な蓬莱姓の屋敷が建っていたが!…・。蓬莱氏は応仁年間 (1467-69)赤松政則に従った領主に
上田城・出水川(手前)と加古川合流点の高地先端部

蓬莱若狭守が築き 在城したとも云われますが明確にはされていないようです。宮脇構居(垂井構居)・構城(小野市河合中町)の他、 蓬莱山構(加西市河内町)に蓬莱範清が 守っていたと云います。上田城は加古川を挟んだ川向の構城の支城ともされています。 山名氏を追い返して 播磨を回復した 赤松方の蓬莱氏は何処へ…?藩政の江戸時代:弘化4(1847)年から幕末まで、上記:穂積陣屋の赤穂藩や三木市:高木陣屋の一柳藩の様に、奥州白河藩(福島県白河市)阿部氏の飛び地支配の陣屋が置かれともいう?。
大門地区にある蓬莱氏邸

蓬莱邸のある大門辺り、加古川の流れが強く深いので小野の河合や加西市に向かうには大儀な様ですが、 川沿いに此の城前を通り小野から滝野への道が街道の要衝であったなら、今では想像も出来ないが此処に街道通行の監視等・陣屋が在っても不思議ではないように思えてきた。


松尾城  150m    加東市杜町松尾

R175号線を南下して 滝野社インターを過ぎると 社総合庁舎前交差点に出る。総合庁舎の南側には堀内城がありましたが其の東方、車だと県道567号線「社交差点」を南へ、コンビ二の角を東の高台に上っていく農免道路?(バイパス道路か?)の先・右手前方の丘陵部末端部に松尾城がありました。田圃が拡がる西面に高い段差で3段程の田が有り、其の上部を車道が通じ、玉垣のフエンスの先に八幡宮があり一帯が城域だった様です。
松尾城:八幡宮東北端部の田圃から・・・

加古川流域の滝野・加西を望む絶好の展望所ですが、 ずっと手前近くに在る現:市街地の社総合庁舎や堀内城を確認出来ません。先程のコンビニ角から登り始めた坂道峠西端は、南側が田圃ですが西面に数段の田があり斜上して最上部の平地に出ます。北の車道側も段差が高く、田に挟まれた深く狭い (幅2m・高さ4m程)溝状の通路が通じ上部の田圃の間に出ます。此の周囲を土塁状に盛られた平坦な田圃の南側には 池があり其の南側へは急段差で田や 住宅の間を細い車道が下っていく様です?。殊に真西下に位置するR175号線沿いの通行監視や堀内城との通信には欠かせない場所ですので、
松尾城に向かうバイパス沿いの高台西端部は砦跡か?

松尾城の出曲輪か ”知らせの見張り用砦”が有ったと思え・・・!何らかの関連を想定してみます。 一方 ・松尾城は八幡宮を最高所に南方は高低差のないまま宅地や田畑が続く様ですが、加古川を遠く見下ろす西方には 車道を挟んで2段程の高い段差の田圃があり、北側には其の段差の中程途中に犬走り状の幅の狭い通路が捲いているようです。 神社北側も神社域と田圃の間に溝があり、其の田の北と東は高い段差で丘陵末端部を落としています。圃場や道路拡張工事等で大幅に削崩されているようですが、 東裾も川が捲き高い段差の南端部は八幡宮 から麓まで宅地になっています。東麓の車道を南に抜ければ依藤野を抜けて東条町の依藤氏の本拠地 :東条谷に向かう学園道路。
松尾城:西南側3段曲輪?

松尾城が三木城別所氏方であれば依藤氏の退路を押さえる城となり、 旧赤松氏重臣:依藤氏方であれば東条谷の北玄関を護る要地ともなったことでしょう。松尾城についても其の築城年代や城主について不明ですが、主要城主は置塩城5代目城主:赤松則房(満政)の幕下にあった松尾五郎宗直で 天正3年 (1575)垣屋氏等に置塩城が襲撃された頃は此処に籠もったのでしょう。しかし織田信長により播磨・備前・美作三国は浦上宗景に与えられ、 赤松則房は播磨国の統治権も失い一地方領主となり、別所氏等と信長に臣従しており、さらに別所氏が信長に叛旗を翻した後は 別所氏と戦う等転戦し、置塩城を明渡した赤松則房に松尾氏も付いて行動を共にしていれば天正初めには 松尾城に留まっていなかったのかも?。
松尾城:西北側1〜2段の曲輪跡!正面櫓台跡らしい所は小墓地


主家の則房自身天正10年 (1582信長の死後:秀吉に従って賎ヶ岳に戦い、四国征伐に出陣して阿波国住吉に1万石を与えられて播磨国を去ったともされますが、曖昧で諸説あり赤松氏の其の後が分からない以上に、松尾氏について所在を確かめる術が無さそうです。 其の天正年間(1573〜929頃には山城宮内介が在城していたと云われます。


堀内城   xxxm   加東市杜町田中字堂開地

丹波と 東播磨を結び加古川沿いに走る R175号線を 南下して滝野社インターを過ぎると社総合庁舎前交差点に出ます。総合庁舎の南側を流れる小川を越えると田園風景が拡がります。其の東端に青い幡が数本靡く薬師堂の屋根が見え、 東から南にかけて田圃を囲む様に住宅地が建ち並ぶ 田中集落があります。此の田圃一帯の東方集落や薬師堂・公会堂が建つ辺りが 堀内城が在ったところと 推定されているようです。
薬師堂北側にある堀囲いの小祠

しかし此の堀内城についても築城時期や城主については不明で、 其の伝承等も無い様です。薬師堂付近から北側を東西に延び、 総合庁舎から南北に延びる車道に沿って南側集落の西端まで延び、此処で西方に流れ出ています。何も遺構らしいものが残らないが ・城か構居があったとするなら、城域が広すぎますが此の深く幅もある溝を堀跡と思ってみたいところですが、薬師堂に寄ってみると、 やはり此処に平城か居館が在った雰囲気はあります。
堀内城:薬師堂東から北側の様子

微高差ながら西方一帯は田圃が拡がり、北側には貯水地と堀があったらしい湿地帯で、 小さな堀池(南堀xxxxと記された石碑が立つ)があり中央に小祠が建てられています。墓地や堂の建つ位置と湿地帯の段差は1.5m程。往時を窺わせるほどのものではないが、付近に「堀の元」の小字名が残るようです。 此処には兵庫県指定(平成3年3月30日)文化財の「木造り大日如来坐像」と、社町指定(平成9年12月25日)文化財の「木造り薬師如来坐像」「木造り観音菩薩坐像」が保存されているとある。

現地:薬師堂の案内板 等を参照)

 本誌
丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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