一色氏本拠城と建部山城砦群探訪 建部山城(丹後富士)と西砦・東砦/福井城 他

建部山周辺(南側)の山城
近畿の山城 :建部山城・西砦・東砦 福井北城と福井城

校歌の山 ?是ほど目立つ美しい山を謳い込んだ校歌を未だ知らない・?
ふるさと富士 :建部山(舞鶴富士・丹後富士・田辺小富士)

西舞鶴港:貯木場より建部山(海に浮かぶ舞鶴富士!)

綾部市から弥仙山(丹波富士)をチラッと見てR27号を北上、突き当りを宮津・福知山方面へ左折すると建部山の姿が目前に現われ「舞鶴港とれとれセンター」に着く。土地勘の無い建部山周辺の山城廻りが主目的なので撮影ポイントを探してロケハンしている余裕がない。舞鶴湾(西港)沿い喜多の貯木場手前から工場内を抜け下福井からの車道に出て山裾の登山口を探して向う。

建部山(丹後富士・舞鶴富士・田辺富士)と一色氏建部山城砦群! 安寿姫塚 H21年9月13日
山側とは 逆の右手に目立たない?緑の登山口標識をみつけ宅地の間を入ると直ぐ児童公園側の駐車スペースに建部山登山絵地図が立ち1時間ほどで登れる山の概要が分かり楽しいが距離・方行が判断できず地図として判り辛いのは何処も同じ。頂上まで2km地点の7合目付近休憩所で北西へ降る安寿姫塚コースが分かれる。其の手前・絵図には無いが舞鶴湾を挟んで真向いに五老ヶ岳と其の奥に双耳峰の青葉山(若狭富士)が望まれる。五老ヶ岳へは車で上った事があるが入館していない展望塔からは弥仙山・由良ヶ岳・青葉山・建部山と、一度に四つの富士山を見ることが出来る。
「建部山:毘沙門天」石漂の立つもう一つの!!?登山口

建部の山頂からも眼下を流れる由良川河口に向かって据えられた・高射砲なのか12センチカノン砲(最大射程距離7km)の砲座付近から、山並みの先に突き上げる由良ヶ岳が望めるが、戦争遺構が未だ現状維持されている様な藪山でなければ三角点も直ぐ発見出来。さらに展望もよし…。
丹後富士とも呼ばれる建部山(316m)は舞鶴湾に浮かぶ典型的な富士型の山で点名の「舞鶴富士」が相応しい。山上には平安時代に笛原寺があったといい中世には丹後守護職:一色氏が拠った山城で丹後富士・藩政時代には田辺藩領で田辺富士の名があり 田辺小富士とも呼ばれるようです。
建部山から舞鶴湾の向かいに五老岳と青葉山(中央奥)

山椒太夫の屋敷を逃れた安寿姫の非業の最期を遂げた地が建部山西山裾に残り、山頂には其の祠が祀られていたといい其の後丹後守護:一色氏の山城となった。其の伝説と山城の歴史に、明治34年(1901)海軍舞鶴鎮守府の開庁により日本で4番目・日本海側では始めての軍港都市舞鶴の顔が現われる。明治32年(1899)陸軍の舞鶴重砲連隊により軍港を取り囲み・側面から防御する為、七箇所程に築造された舞鶴要塞の一つが建部山山頂の堡塁砲台で営舎・弾薬庫・12センチカノン砲4門が据えられていた砲座跡等が残る。ロシアを意識した海軍施設の防衛の為に設置され第2次大戦中は高射砲陣地にも使用されたが 終戦により其の歴史を閉じる。建部山堡塁・砲台により山城遺構は壊滅し近代の堡塁で四方を囲った寒々としたレンガ造り・コンクリートで固められた砲台、上部は封土を盛って偽装された雑木藪・戦争遺物の悪夢の歴史を刻み遺した山となっています。
建部山:陸軍砲台施設・弾薬庫


喜多からは登山口を直進・奥に見える作業小屋側から猪垣を開閉して其の奥に「車輌進入禁止」標識も見える。山頂に向う谷筋が一般道といっても此れしか山道はなさそうだが建部山城への大手道だったのでしょうか?。此処からは粗3m幅の山道が山頂まで延びていくが山腹を半周する程・不必要に大きく緩やかに蛇行する山道は随所に石積補強され長く石垣が続く道。下方から見ると まるで堅牢な城遺構のように見える。途中で安寿姫塚への分岐から打越・下東地区へ越える道はさしずめ城への搦め手道・明治期以降の軍道だったのでしょう。喜多からは山頂の陸軍砲台施設建設の資材や其の後の超重量級武器・弾薬・用材の運搬用に牛車・馬車が行き来した軍用道を登山道として利用されているのでしょう。
建部山山頂部で最初に目にする陸軍砲台施設・弾薬庫!!?

このルートは途中・東尾根筋を建部山東砦へ往復した後に登山口への下山に使った。建部山から東と南へ延び出す尾根先に建部山城砦群の砦跡が、更に登山口からは西方の下福井地区に流れる尾根先の福井北城への探索も目的で登山口・駐車スペース横から田圃と山裾間を西に採ると直ぐ山道が現われ入口に「建部山 毘沙門天」の石漂柱が立つ。軍道の登山道が二度交錯する地点があったので、 その間の奥に続く広い道の先に毘沙門堂が建っているのでしょう!?。
(現地 建部山登山口のライオンズクラブ・山頂部の教育委員会説明板 Wikipedia等を参照)


安寿姫塚
建部山の登山道 6〜7合目付近に安寿姫塚への分岐道がある。丹後七姫伝説の一人:安寿姫は森鴎外の「山椒太夫」で知られます。 山椒太夫は氷上郡(現:丹波市)の人との伝承もあります。物語は平安時代:由良の長者・山椒太夫の屋敷を抜け出した厨子王丸は 和江の国分寺に逃れて匿われ、姉の安寿は京へ上ろうと向う途中、 和江付近の「舟渡し」で由良川右岸に移り!!八雲橋東詰め・中山城の丘陵西麓を通る街道筋のかつえ坂 (今は坂とも呼べないなだらかな勾配の道!!)で、空腹と疲労困憊の末に非業の最期を遂げたと云われます。
安寿姫塚:宝筐印塔を納める覆屋

此処から街道筋(北近畿タンゴ鉄道宮津線・府道571号線沿い南へ)300m程で打越地区(打越城・寺ノ谷城が在るが未訪)、更に300mで下東地区、府道沿いに安寿姫塚関連案内板や大看板を見て、 鉄道高架を潜って細い集落内を入ると右手の墓地から佐織城へ行ける。地区内最奥に駐車場もあり其の先に、朱の反り橋の架かる貯水池を周回する遊歩道がある。池の正面に安寿姫塚の菩提を弔う宝筐印塔【舞鶴市指定(平成15年2月28日)文化財】を納めるお堂が建つ。時代背景は平安時代初めだが・物語は中世の説経節「さんせう太夫」といい、 墓石の宝筐印塔も14世紀末の室町時代の作とされるが?隅飾が古い時代のものを語るが壊れ、相輪上部も欠けている。背後の尾根筋に千坂城が在り、尾根筋は建部山へと延びるが、
覆屋内部の宝筐印塔が安寿姫の墓碑とされる・・!?

池周辺から取り付ける地点はない?。 建部山からの登山道は下方の集落と喜多の舞鶴港を結ぶ古い間道か?。かつえ坂が渇・餓・飢。にも通じる飢坂!!?ともいわれ、飢饉による餓死者・成相寺〜松尾寺の西国霊場を結ぶ巡礼道でもあり行脚等での!?行き斃れ者もあったかも?。石碑は建部山山頂にあったが、明治期の堡塁・砲台建設により現在地に移されたものか?。塚は下東地区の人々によって手厚く祀られ、周辺は季節の花に彩られ、安寿姫の命日とされる7月14日前後の土曜日に法要が行われ、夜には水に浮くフロートキャンドルのイルミネーションで安寿姫の霊を慰める行事が恒例になっているそうです。
(現地 安寿姫塚 案内板・舞鶴観光協会パンフレットを参照)



建部山城と西砦・東砦 福井北城と福井城

建部山城と建部山西砦・建部山東砦
建部山城(八田城・田辺城)  建部山(点名:舞鶴富士 316m)   舞鶴市下福井・喜多小字建部

建部山(点名:舞鶴富士)は丹後富士の名で知られる。山頂(建部山城)への往復は旧軍用道の登山コース以外に道はない?。舞鶴湾と田辺城(舞鶴城)・由良川河口域の宮津街道と由良川水運を俯瞰して交通・軍事の要衝を監視できる頂上には南北朝期:建武3年(延元元年1336)南朝方に付いた豪族によって築城され【?鎌倉時代:利秦氏(一色氏の祖とされる)が丹後守護に任ぜられ剃髪した建長3年(〜1251)以前の築城とも云われる?】丹後は但馬守護山名時氏に横領されていたようで観応の撹乱(1351)に際し、足利軍の攻撃に落ち北朝方の拠点となり、
建部山堡塁砲台跡:12センチカノン砲台の側弾庫?


足利氏の側近にあった一色範光が入り後・建部山城は代々:一色氏の居城となったという?【が、南朝方の山名氏が足利義詮の南都攻略に参戦して北朝に復帰、貞治年間(1362-68)には丹後国を与えられ「6分の1殿」と呼ばれた大守護職。一色氏は丹後に若狭国を領すだけで(尾張・三河・伊勢)だった】 其の後の一色(修理太夫)満範とする説が優勢!!?の様で、建部山城を本拠城に・丹後85ヶ城の総師として、各城には血縁をおいて重臣の小倉氏(宮津猪岡山城)・石河氏(加悦谷石川城)・松田氏(峰山吉原城)に護らせ、自身は室町幕府四職の一であった名門一色氏として常駐し足利将軍を援けた。
建部山城大手道も石積の軍道となり・・

室町時代初めの明徳の乱(1392)に際し一色範光の子詮範と共に但馬・丹後守護:山名氏清を討った功により、範光嫡孫:満範が再び丹後守護に任ぜられ同年:明徳3年(1392)9月に建部山城に入城して以来、一色氏累代の居城であったとも伝えられる。最後の城主一色(式部大輔)義道は将軍足利義昭を保護し対抗したため、天正6年(1578)織田信長の山陰道平定命を受け丹後を攻撃する細川藤孝軍に、丹波攻め<氷上郡の黒井城・多紀郡の八上城>中の明智光秀が援軍に加わり翌天正7年の猛攻に<一色軍記によると>義道は中山城 (建部山北麓)に逃げ込むが城主:沼田(中山)幸兵衛(細川氏について勘解由を名乗る)の裏切りに、城を出て大雲川(城下の前を流れる由良川縁)で自害し、義道の子:義俊(義定)は父義道の討死を聞き、
建部山城主郭部は要塞堅固!!陸軍砲台施設に容を変えた

大船山の細川陣に奇襲をかけた後 ・居城の弓木城(与謝郡)に引揚げたと云う。勇猛・智略に長けた義俊に、藤孝は明智光秀を仲介に娘を輿入れさせて和睦。丹後国は藤孝(田辺城)・義俊(弓木)で統治する事となるが、謀議に田辺城に誘い出された義俊は ・此れも藤孝の指示で沼田勘解由(幸兵衛)により暗殺されると丹波吉原城(?)の吉原越前守義清(義道の弟で義俊の叔父)が弓木城に入り一色義清を名乗り細川藤孝に対抗するが天正10年(1582)落城 ・自害して一色氏は滅亡します。
明智光秀は丹波国を、細川藤孝は丹後国を与えられて本拠を宮津城とし、一方田辺城(西舞鶴・輪郭式平城)を築き入城します。既に山城を必要とする時代は終った様で建部山は廃城となります。其の城遺構も陸軍の舞鶴重砲連隊による要塞基地として壊滅。八合目付近に池が有ったという。
9合目付近:コースから少し外れた展望所から西舞鶴市街と愛宕山(右手)

建部山西砦からの尾根続き (尾根を外し正確ではないが嘗ての大手道・軍道・今は登山道に出る手前に数段(段差1〜1.5m程で3〜4段)の平坦地があった。山頂下の展望休憩地<ベンチが有る行き止まりの小場>の直ぐ手前で、安寿姫塚分岐を過ぎ・コース中には一ヶ所だけ、谷側に7〜8m程の削り残しが堀切道状になっているところ)で南側を見ると道に沿って谷側に平坦地形が長く続く所。水場を護る井戸曲輪跡なのかも?。物資輸送に携わった人馬の休息場だったか?。
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建部山西砦(Ca130m ) と建部山東砦(Ca90m )
谷よりに進む建部山登山コース左右の尾根先に建部山城の出城・砦があっても雑木藪と深い羊歯類に覆われ尾根沿いは前方を塞がれ足下も見えない密林で、高度を稼ぐほどに踏み跡は国有林の為!!?消え・獣道となっても、やがて其の踏み跡さえ消えてしまう。目立った遺構も無く、超軍事機密の地形に・旧陸軍測量部による「陸」の石標柱が埋まり建部山城にとっても其の出曲輪・見張の砦としての重要性が窺えるような気がするが!!。小曲輪の平坦地と申し訳程度の極小規模の堀切が有る程度では山城フアンも訪れる事の無い城砦。
建部山西砦:堀切と斜面上の曲輪(北の尾根側から)

先ず向った建部山西砦は建部山登山口の先に有るもう一つの登山口 (直ぐに両コースは合流する)にある「毘沙門天」の石標柱を見て、更に西へ・民家の手前で山側に墓地を見る。其の墓地の先から尾根筋の踏み跡沿いに西砦へ…藪の中・尾根筋も良く判らない斜面に踏み跡が延びるが、やがて羊歯類に覆われた平坦地形の尾根先の頂部に出る。円状のピーク部は平坦地形が判り、一段下に曲輪があるが羊歯藪に覆われ尾根続き4-5m下の極小堀切からの尾根筋も、やがて国有林界!?で踏み跡も消え、猛烈で深い羊歯の密林に進路を妨げられ、悪戦苦闘を余儀なくさせられるが、進退窮まり東より斜面をトラバース ・増水時の水量の多さを示す様な一枚岩の長いルンゼを詰め上がり緩斜面になると曲輪らしい3〜4段の平坦地を見て登山道に出た。
建部山東砦:曲輪も浅い堀切も羊歯に覆われて!!

建部山上からの下山は勿論、大手道の旧軍道<登山ルート>だが東尾根への分岐先に旧陸軍測量部による「陸」の石標柱をみて、細長い尾根筋に踏み跡を追ってみるが直ぐ羊歯類に覆われた雑木藪に途切れがち。直ぐ東下方から車騒が聞こえ舞鶴西港側の工場や突堤が見え、港湾監視と若狭・丹波・宮津の街道が交差する要衝監視の任に当たった見張所建部山東砦の機能が見えてきます。…が其の砦跡は?…細い尾根筋に羊歯類に覆われた補足短い堀切?と幅狭い尾根筋一杯に削平?された細長い平坦地が、峰先へ延びて降り始める足下に「陸」の石標が立つ。此の斜面に極小の段曲輪があるようだが堀切さえ写真の有様で未確認のまま引返した。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会No78〜80 建部山登山口のライオンズクラブ等を参照)


福井北城と福井城
福井北城
 xxx山 Ca80m  舞鶴市下福井小字座尾
福井城   xxx山 Ca100m 舞鶴市上福井小字西垣

建部山への喜多登山口の北西方には建部山から南東へ延び出す尾根先近くの丘陵頂部に建部山西砦があるが其の西方に・更に長く延び出す尾根筋が標高を落としながら南端を下福井集落背後に迫り出しています。建部山登山口から下福井へ地区道を抜けるとR175号線(宮津街道)に合流する手前・福井小学校と
福井小学校から福井北城を望む・旗掲揚柱の奥に和泉神社

其の背後に福井北城の在る藪山を背にした和泉(伊都美)神社の鳥居を見る。建部山から南へ長く延びる尾根末端の頂に福井北城があり、其の先端部がR175号線に流れ出て福井小学校前の地区道も此処で交差する地点から民家と田圃の間を細い溝谷に沿って続く農道がある。建部山塊の丘陵西面を辿り蔵王峠(座尾とも)を越え下東地区(宮ノ谷)にある安寿姫塚の池端に出て由良川(大雲川)右岸沿いに中山城下「かつえ坂」を通り「渡し舟」で和江辺りへ移って、宮津街道の要衝に通じる裏街道というより建部山城の大手・搦め手道に通じ、支城の中山城を繋ぐ軍事用道だったか!?。
福井北城:主郭の切岸

【福井北城】蔵王峠への道はR175号線から分かれて直ぐ、建部山塊の山裾・民家の脇から溝谷沿いに進む農道がズッと先で山道に変わるのでしょう?が北城側の斜面に取り付けそうなところは、最初で最後?の民家・溝谷を渡った裏手の果樹園から、 尾根上への踏み跡が有りそうだったが、個人畑に勝手に入っていくわけにもいかずスタート地点に戻って福井小学校グラウンドを廻り込んで裏手の和泉神社に向う。 尾根沿いの踏み跡を追い途中で西へのトレースが福井北城の主郭へ続き、
畝状二本の竪堀に続いて二重堀切が…画像では見辛い

左手に竪堀をみると主郭東の切岸下に着く。二本の竪堀の間を登ってきた様だが北面は確認せず方形の単郭(南北30X東西40m程)に入る。西北に一段腰曲輪が付き、此の尾根に畝状竪堀・二重堀切が連続して敷設されており、此の城の見所になっています。 北東側の尾根筋にも堀切と幅広土橋付堀切か?二本の竪堀が左右に落ちる。二つの尾根を挟んだ主郭北側にも二本の竪堀で横移動を阻止。 南西にも2〜3段の極幅狭い曲輪?があり一本の大きな竪堀を見る。
福井北城:南斜面の竪堀

南へは虎口はないが主郭に上がる曲輪があり、シグザグに下降する道が大手筋か?。 道に沿って一本竪堀が走る。この下降ルートが当初・取付き点と考えた民家裏手の果樹園?か段畑に降り立つ。この裏街道(軍用!!?)の南入口には舞鶴港を控えての 要衝:宮津街道監視を兼ねて福井北城・福井城、福井川を隔てては福井城と同規模の福井下城(未訪)が呼応して監視に当たっていたのでしょう。蔵王峠を越えた下東地区の北入口にも裏街道(中山城を結び建部山城への搦め手道ともなった 軍用道!!?)を挟んでも西側の下東には佐織城が中山城の南口にあって、由良川沿いの宮津街道の要衝と蔵王峠を通行監視に当り、 東側の安寿姫塚の上方・建部山から北西に派生する枝尾根の先端部に
福井北城:東斜面の竪堀

千坂城<比高40m程だが取付き点を探しあぐねて未訪 >が在り、此方は蔵王峠越えの裏街道と、建部山からの搦め手(建部山堡塁砲台の陣地を建設した陸軍も・7合目付近から分岐する軍道とし利用したか?、 下東から喜多の舞鶴湾沿岸に出る間道を監視出来る位置に在る)が本城:建部山の出曲輪か中山城(沼田幸兵衛)か福井城(福井藤吉郎)の出城として、共に呼応し合った一色氏の城砦群と思われるが中山・福井を除いてどの城砦も城主等城史・伝承もなく不明。
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【福井城】福井北城から戻り福井城へはR175号線(宮津街道)を西に向かう。念仏峠を越えて由良川に出て R178号と合流する宮津街道。念仏峠は刑場の在った所だが天正7(1579)年細川藤孝の「丹後攻略」の際:中山城との激戦地か慰霊の無縁塔が集められ供養されていうところ。 念仏峠を右に折れ下ったところが北東地区で、中山城下を通る表街道。此処から蔵王峠(座尾峠が正式名か?)越えで福井へ出るのが裏街道?。建部山城・中山城を結ぶ搦め手道ともなった間道です。
福井城:畝状竪堀群と横矢掛?(主郭北端部)

福井城の築城主で一色氏の家臣:福井藤吉郎は、建武3年(1336)後醍醐天皇に叛して楠木正成 ・新田義貞等宮方の攻勢に敗れた足利尊氏が、赤松(円心)則村の進言を容れ、再起を図る為九州に下った際に付き従っ一人とされている様です。 天正年中:最後の城主も福井藤吉郎で兵庫丹波に入り丹波市の黒井城・篠山市に八上城を攻めていた明智光秀が援軍に加わった細川藤孝の攻撃に城主は藤孝に投降したと云う。福井城の築城主で一色氏の家臣福井藤吉郎は建武3年(1336)後醍醐天皇に叛して
福井城:主郭側土橋付き空掘

楠木正成・新田義貞等宮方の攻勢に敗れた足利尊氏が赤松(円心)則村の進言を容れ再起を図る為九州に下った際、付き従った一人とされている様です。駐車スペースはなく取付きを城跡の西北麓からと思ったが適所なく北近畿タンゴ鉄道宮津線の四所駅分岐の神社前まで来て城跡の丘陵部を眺めて引き返す。
福井城主郭と段差の少ない腰曲輪?

福井城の在る丘陵部南正面・上福井集落から真壁峠に向う府道490号線を分ける三叉路近く民家の側から簡易舗装!!・手擦り付き急斜面が真直ぐ延びて墓地に続くので、高度を一気に稼ぎ墓地の奥へと斜面をついて登ると細長い自然地形?に近い曲輪の尾根上に着く。主郭へ登る土橋状尾根にも主郭の四方隅付近にも竪堀・堀切が敷設されているが、北端には10数本の畝状竪堀が間隔を空けず並び、曲輪端から横矢掛が可能な様に見えるが、更に空掘上に突き出すテラスとし土塁で囲えば其の機能は充分に果たせそうにと思ってしまう。
(舞鶴の山城・舞鶴山城研究会No75・77 Wikipediaを参照)
   本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME