丹波市の紅葉三山・円通寺

丹波市の紅葉三山・円通寺周辺  丹波市氷上町御油

円通寺・神野神社御油城の事
近畿の山城 : 御油城 円通寺砦(仮称)と井中城(仮称)

円通寺と円通寺砦(仮称)

岩屋山石龕寺(高野山真言宗)は竹林山常勝寺(天台宗)・萬松山慧日寺(臨済宗)と共に山南三山の一つで丹波でも屈指の名刹で足利尊氏ゆかりの寺 ・もみじ寺としても「ひょうご風景100選」に選ばれ、青垣町の西天目 端厳山高源寺と共に丹波もみじ三山 として紅葉観光ツアーコースとしても観光客を集める歴史と紅葉のスポットです。最後にもう一つ残っていた氷上町御油の永谷山円通寺(曹洞宗)の紹介です
山門から方生池を渡る参道

南北朝期の永徳2年(弘和2 1382)1月、後円融天皇【後小松天皇の在位1381-94期間なので交替期の永徳元年 (1381)か?】の勅命により足利3代将軍義満(よしみつ)によって創建された名刹です。 年号の主字を採って永谷山と号し、 天子の宝号の字を採って円通寺と名付け勅願所と定められました。 開山に迎えた英仲法俊は足利尊氏の第四子と伝えられ、後円融天皇の勅願所ともなり、後小松帝も英仲禅師に帰依し、自ら刻まれた如意輪観音が寺の本尊として祀られます。
円通寺のイトザクラ(シダレザクラ市指定)

また二世牧翁性欽は関白近衛通嗣の第三子といわれます。義満の帰依を受け室町時代の全盛期には天皇・将軍・関白と深い因縁を結び、寺領1500石・200余りの末寺を有して、丹波はもとより但馬・播磨・摂津にかけて君臨し益々栄えた中本山です。丹波の諸寺の多くが織田信長による丹波攻略では、 明智光秀の軍勢による焼き討ち等・兵火に掛かり焼亡していますが、丹波守護職:仁木頼章の時の守護代:荻野朝忠の子孫で喜左衛門が円通寺の焼討ちを諌める働きにより兵火を免れたとも伝えられます。
円通寺のタブノキ(市指定!)

ご本尊は南北朝合一を祈願して刻まれた一刀三礼【仏像を彫刻する際・一刀を入れる度に三度礼拝する】の如意輪観世音菩薩で後小松天皇により下賜されたものと 伝えられ現在の本堂・庫院等の建築物は江戸時代に再建されたものです。山門からコの字形に南へ突き出す左右の堂には仁王ではなく木造二天立像【四天王の内、増長天と広目天だろうか!?】を置き、山門を潜ると秋にはモミジのトンネルを抜けて、方生池の中央に配された石橋を渡って、 境内に続く参道からは水面に映り込む紅葉の景観は見事ですが、春は桜(イトザクラ)、夏はアジサイや睡蓮も楽しめます。
円通寺山門


その他・東の駐車場から句碑が続く林間の道を辿りますが、周辺山麓や地区内の北由良に向かう車道の傍らに 建つ数多くの歌碑や歌柱は、もと円通寺のあった神野神社の祭神に祀られていた嵯峨天皇【空海・橘逸勢と共に平安時代初期の 三筆と云われ詩歌・教典にも通じた博識の天皇】に由来するものでしょうか?。山裾を辿ると谷間に湿田があって、数年前(?)に移植された水芭蕉は季節には公開されています。周囲には猪・鹿避け柵が廻らされていますが、観賞用に渡り橋も設けられ間近に見る事が出来ます。 本堂前の庭隅に水琴窟【水鉢の下に穴を空けた甕を逆さにして埋める。
円通寺湿田の水芭蕉

穴から水滴が落ちると音が甕の中で反響する仕組み】を設置した小庭がある。円通寺本堂の真裏にある細い糸のような 枝が垂れ下がるイトザクラ(シダレザクラ・バラ科)も美しい。観賞用として植えられたようですが樹齢200年以上・樹高7m・幹周2mの巨木となって氷上町の天然記念物で、 其の隣にはタブノキ(クスノキ科)樹齢約300年が有って傍らには石灯篭が置かれています。此れも共に氷上町の天然記念物に指定されています。
(現地 円通寺の由来 案内板を参照)


神野神社     丹波市氷上町御油(北御油)

青垣町との境に近い御油は古くから”桐の実”の油を下鴨神社使用の御燈明に献上していたところから 付けられた地名だと云われます。御油にある延喜式加茂神社神野神社 (旧・賀茂大明神)は、別雷神を主祭神に嵯峨天皇を祀り(「特選神名帳」神祇志料は伊加許也姫神とする)寛平年間(889〜898)の創立と伝えられ、往古には円通寺の山中にあり、御神体は座禅岩のところに 祀ってあったと云われる神野神社と、
神野神社

その外宮で南御油に在った貴船神社を共に、円通寺の創建時に土地を譲って現在地の北御油に遷されたといわれます。上賀茂神社・下鴨神社とあわせて賀茂社とよばれ 「山城国風土記逸文」に祭神は日向曾の峰に天降した賀茂建角身(たけつのみの)命は、此処・神野(氷上町御油 神野神社)の神伊可古夜比売を娶り、玉依日子・玉依日売が生まれた。其の玉衣日売が京都 ・下鴨神社の祭神 ・玉衣媛命であるといわれます。貴船神社の祭神・高おかみ神も下鴨神社の祭神 ・玉衣媛命も共に「水制し水を治め農耕を広める」水を司る神です。
神野神社

玉依日売は男の子を産み成人します。祖父の賀茂建角身命が「汝の父と思う人に酒を勧めよ」と言ったところ其の子は天に向かって祭りをなして昇天した。 そこで祖父:賀茂建角身命はこれを賀茂別雷神と命名された。一間社流造 柿葺(こけらぶき)・南面して覆屋内にある。簡素な社殿の正面は格子戸4枚を建て ・その他は板壁である。組物は三ツ斗組、軒は二軒、周囲に擬宝珠・高欄付きの縁をめぐらし浜縁を備える。身舎丸桁の上端に反増があり古制を示している。
神野神社

破風・斗拱・高欄等の木割・頭貫鼻・肘木鼻の絵様繰形などの細部手法等が 室町時代末期の様式を示している。本殿は県下における一間社の建築物として貴重なものであり、兵庫県指定<昭和51年(1976)3月23日>文化財です。社殿前には二対の石燈籠【宝暦2年と文久元年】が 献納されています。石燈籠の特徴比較の為岩戸神社 (春日町・市指定文化財)の項に画像を添付しています。
(現地 神野神社平成3年11月案内板 兵庫県教育委員会 下鴨神社由来等を参照)


御油城 円通寺砦(仮称)と井中城(仮称)

御油城      丹波市氷上町北御油  xxxm 

ひょうごの城紀行(神戸新聞総合出版センタ)の城郭一覧に、御油城の名があり今村信保の居城という。勿論「丹波志」にも”賀茂の社の地続きにあり・・・当村の 沼城主【青垣町側の栗住野城 :栗住野芦田氏の城砦群?とも思われるのですが 】北御油の「堀の内」というところに今村氏の御油城があった”といわれ、濠ノ前・濠ノ上・堂ノ本・堂ノ前の字名が加古川 (佐治川)沿いに在り、 其処から西の山裾には堂ノ谷・屋敷山の字名がみえます。
神野神社入口集落上の稲荷社から山陰道・佐治川を望む

此処には薬師堂が建ち、鎌倉幕府の検察司をしていた今村平太夫が目を患って信仰していた薬師堂に籠もり祈願して治ったことから ”お薬師さん”を御守りする薬師庵(今村庵)を建てたといわれます字名からは佐治川(加古川)や 山を背にして、土石流等の氾濫の備えて堂の周囲にも濠や堤防が築かれていたのでしょう。天正「丹波攻め」の兵乱で薬師堂は明智光秀に焼かれ、薬師像は村人の手で現在の地にお祀りされたといわれます。
薬師堂

柏原藩が設置される以前は氷上郡(現丹波市)の中心地だった成松の北方にあって、平安期に制定された「延喜式 」山陰道の駅家が置かれ、其の後も丹波から但馬の入る最北の宿場町として栄えた佐治郷との中間部に位置する御油の名からは、 西国街道沿いの山崎(大阪三島郡・京都の府県境 )で「油座」の本所があった離宮八幡(油の宮)を思い浮かべます。
薬師堂から五台山の山並みと佐治宿に向う但馬街道(県道7号)

胡麻油や魚油等、燈油の独占的販売権を持った山崎八幡宮の許可無しで油の売買が出来ない程に権威があり、 その油神人(じにん)が一方では武士団を組織して京都の権力者の要請でしばしば派兵したという。曹洞宗中本山円通寺や式内社神野神社が在り、要衝にあって丹波の商業の中心地にも近い。 北御油集落の最奥地に神野神社が在り、其の斜向いの台地に薬師堂が建つが、斜上して入る広い削平地の入口には1.5m程の段の上に祠が祀られ、薬師堂からは雑木や民家の屋根が無ければ東方の佐治川に展望が拡がる此処に今村庵が建ち、其の付近に藩の代官所があっても不自然ではないが、 此の居館・構居は記録にも県の遺跡分布図にも記載は無い様です。
円通寺砦<仮称>の主郭北面の切岸と二重堀切

文献等は未調査ながら氷上町の地元誌「御油…xx!?」によると、お堂は在るが「丹波志」に云う城は無かったとされています。 薬師堂の佇まい・此処から五台山を望み県道7号線(今は丹波の森街道の名称だが旧山陰道・佐治街道)を見晴かす高台に領主の代官所が在っても…とは思えます。 藩政時代は柏原領だが支配関係は不明です。


円通寺砦(仮称)と井中城(仮称)
円通寺砦(仮称)  xxx Ca180m 丹波市氷上町御油・井中

御油城から「近畿自然歩道」円通寺への案内標識に導かれて東山裾沿いの狭い地区道を 南下していくと波紅葉三山 の一つ円通寺の駐車場に着く。参道へ進まず地区道を西へ直進する前方に302m(4等三角点)峰から南東へ伸び出した丘陵尾根の先端が民家の裏手に落ち込んでいるのが見えます。
円通寺砦(中央部尾根左末端)

その尾根先端ピークの平坦地 (15mX25m程)には愛宕社か稲荷社跡らしく、一基の石灯篭と祠跡には礎壇石材が 積上げ集められている場所がある。其の尾根側背後が2.5m程の切岸で、浅い堀切が走り・幅 5m程の土塁状を挟んで更に堀切(二重堀切)になっています。円通寺側・民家裏手から 尾根に取り付く参道から主郭まで約50m程の間には
主郭背後の切岸と二重堀切状内側(西面外側堀切から)

北側に木戸跡か小さな平坦段と2-3段の曲輪(土塁虎口状に開く通路は後世の山道なのかも知れず?、 実際は此れ等曲輪から東北へと主郭下部を廻り込み北西部の二重堀切側から主郭に入る構造だったのかも?。 円通寺砦と仮称した城址への再訪により、主郭下部の帯曲輪や其の下方(犬走り状)から幾本かの竪堀を発見した。
主郭東北斜面に畝状竪堀の痕跡!!(3-4本は確認出来る!!?)

浅く短かく ・崩れ埋もれてか判別つかない溝状もあるが発掘調査でもされれば明確になるのでしょう?・・・実は此の畝状とも思える竪堀群が尾根を北へ辿る三角点峰(302m)に残存状態良好で発見した10数状の畝状竪堀群とも関連するのではと思える。 主郭南から西に2段程の幅狭い曲輪があり、一段は帯状に主郭を捲いて北側の堀切端まで延びている。
祠跡の主郭

北東面の円通寺側には竪堀群が見られるが南面の井中地区へ向かう街道?(井中から清住の達身寺へ通じる 十九山古道があったが!!)側に竪堀等施設は何も見ない。上記の御油城の立地が要害でもなく ・要衝の街道からも遠く離れて奥まった神野神社の側に在るのだが、此の円通寺砦(仮称)も何故此処に在るのかが疑問?に思えます。
主郭北の尾根続きに二重堀切

在地土豪の城砦ではなく、円通寺は”室町殿”と呼ばれた足利将軍義満の帰依を受け ・室町時代の全盛期には天皇・将軍・関白と深い因縁を結び、寺領1500石・200余りの末寺を有して、 丹波はもとより但馬・播磨・摂津にかけて君臨し益々栄えた中本山です。織田信長による丹波攻略では、 焼討ちによる兵火を免れた寺で、玄関も身分の高い貴人のみが 利用する御殿仕様!?なので、天皇・将軍・関白等の来客時に、護衛兵の逗留等・特殊な寺を護衛する城砦だったのだろうか?。
主郭東北斜面:再上に主郭・直ぐ下の帯曲輪・小曲輪からは竪堀も!!

円通寺から北へ 約2km・県道7号(佐治街道)で氷上町から青垣町へ入る町界を北近畿和田山・豊岡自動車道が トンネルで抜け出る尾根上に 沼城が在り、其の主尾根上386m峰手前で、南へ延び出す尾根の末端に円通寺砦がある。二つの城砦を結ぶ約4.5kmの尾根上には、 特に城遺構とも思えないがピーク上の平坦地・沼城への手前鞍部付近からの長い堀底道の様な溝状凹角が長く続く山道を下り降りてくると、神野神社とは一つ尾根を挟んだ谷の北側を 御油集落に降りてくる。
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井中城(仮称)    xxx 302m(4等三角点)  丹波市氷上町御油・井中

円通寺砦から尾根に掛かる部分の溝が浅い二重堀切を越えて北尾根を辿る。 尾根を遮断する筈の堀切の溝が浅い事で、尾根筋には更に関連する遺構が暗示されるが、自然地形の平坦地系は有るが小曲輪に見える平坦段が、関連性も無く?離れた距離間の中で何箇所か現れるが営林作業用なのかも?。再訪では円通寺駐車場から春には湿地帯に移植された 水芭蕉が見られる園への句碑が並ぶ道筋から円通寺背後の丘陵部を廻ったが、
井中城帯曲輪と上部に造りかけ?の段曲輪

下方から登ってくる営林巡視用の砂利の林道に出た。林道を離れて尾根続きは 秋葉社の祠を経由して此処に至る山道が通じ、北東への尾根筋は民家に迫る 丘陵先端に稲荷社を祀る約 15X20m程の平坦地が在る。以前に神野神社からの帰路に望んで見張り台かと思えた場所だが薮化が進んで平坦段を残して雑木藪の中。
畝状竪堀と対面する低土塁・空堀状?(塹壕?)

祠裏手の尾根側は 猪鹿避けフエンスで囲まれている。城遺構意なら見張所には好適所だが単独の砦とは考えられず、関連する城の存在さえ不明。以前発見した井中城<仮称>の関連を考えての走査ルートながら円通寺の屋根を望みながらの尾根筋が幅広く 城砦を築けそうに思えたが、遺構らしいものは何も無いまま井中城の謎の畝状竪堀最東端の尾根沿いに延びる長い竪堀に着いた。
畝状竪堀群の最西北端尾根筋の片堀切(竪堀)

【御油の円通寺は”井中の円通寺”とも呼ばれ、昔の御油は井中郷に含まれていた。三角点峰の字名や点標名が分かれば城名の呼称に使用したかったが不明の為、 井中城と仮称します】井中城の更に北西への尾根にも幅20m以上 ・長さ50m以上の平坦段もあるが自然地形。其の端の堀切!!も尾根を捲いて続く山林管理道だった。さて302m(4等三角点)峰の東面 (約20m程下方)を捲い進む 幅1.5〜2m幅の水平道がある。
浅い空堀?を伴う帯曲輪の左に畝状竪堀・右上に三角点峰の主郭?

三角点峰に城遺構が在れば・さしずめ此処は帯曲輪、この水平道の東斜面には等間隔に短い竪堀(12-15m程)が 畝状になって11-12本も続く(竪堀との間隔は約3m・堀幅は約2m)。北に延びる主尾根筋には土橋付き堀切があり、更に土橋状の細い尾根道の先にも城郭遺構に期待が残る?が、 之ほどの畝状竪堀群が築かれながら、数段の荒れた小曲輪が三角点峰北斜面に遺るだけ。 山林作業の跡ではない筈?ですが比高7m程の直ぐ斜面上にある三角点峰も、其処から西下へは比較的緩やかな尾根筋が下っていくだけで城砦遺構と思える施設を見ない。
三角点峰側から帯び曲輪と畝状竪堀群

尾根筋南末端部の円通寺砦との関連は考えられそうですが、 築城中の急変事態に廃城となった不立(たたず)の城【未完の城!?】なのかも少し調査は必要です。 赤井(荻野)氏一族が芦田氏や足立氏を押さえる為?沼城と連携した城砦が在ったのかも・・・?。 しかし丹波市内の城砦遺構に此れ程の畝状竪堀を見る城を他に知らない。円通寺砦の南山裾・井中の集落を西に向う最奥に徳昌寺が在り、その手前車道分岐に「十九山古道」の道標が立つ。
三角点峰東の畝状竪堀群!!?

十九山は丹波の正倉院と称され古刹達身寺の背に連なる山々で、 十九峯達身寺(本尊:阿弥陀如来)は行基菩薩を開山とする丹波市内でも最古級の寺院です。 十九山山中に有った山岳寺院は元禄8年(1695)現在地の下ったといい正面の山稜の尾根を越えれば、弘法大師伝説に由来する古刹達身寺へ、尾根筋を南へ辿れば鎌倉時代 ・本庄氏の 南郷城(森山城・長尾城・新庄城)に通じます。円通寺砦が御油の領内監視か、
三角点峰東の畝状竪堀群!!?

此の南郷城への 東北侵入口ともなる古道監視の任に当たったものか?不詳ですが、砦南方にはカヤマチ〜十九山〜水山から尾根を延ばす安全山の稜線が氷上盆地中央部・成松に其の末端を落とします。 安全山の南山裾・葛野川沿いはカタクリの花やコスモス畑と達身寺への観光ルートですが、 成松からの東南入口となる下新庄の安全山林道入口となる丘陵裾の小さく盛り上がった丘上!!?には丸山城(砦)が在り、南郷城への玄関口を監視した砦だったのかも知れません?。
302m三角点峰東の水平道(帯曲輪?)から落ちる10条の畝状竪堀群!!?

遺跡分布図に記載の丸山城の藪に埋もれ山頂部の平坦地形の遺構さえ良くは確認出来ない状況から比べれば、社として参道や山頂部が整地され改変されていても、 切岸・堀切・数段の平坦地形等、祠や山林作業用とは思えない状況や、東と西山裾に有る小さな池も遺構と推察すれば円通寺砦は 丸山城・下新庄城(仮称)!!に比して格段に城砦としての風貌を遺しています!?。

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