有馬富士〜城ヶ岡〜金比羅山 / 乙原城・増田館・乙原砦
北摂:三田市内と乙原の里 (五万図=三田)
福島大池〜有馬富士373m〜城ヶ岡〜(加茂)金毘羅山  H14年01月02日
三田のおはなし大日堂の由緒:美宇和王と大日堂 花山院と十二妃
近畿の山城: 乙原城増田館 乙原砦 東野上城(城ヶ岡城・岡山城・北山城)

花山院展望地からの有馬富士(左)と城ヶ岡(右端)
校歌の山 けやき台中学 ♪有馬の富士を仰ぎつつ 武庫の流れを見下ろして・・・♪
       北攝三田高校 ♪めぐる山並み 有馬富士…♪
ふるさと富士 有馬富士
干支の山  有馬富士

【有馬富士公園と乙原の里:城跡廻り】三田市街地の三輪:城山運動公園 (茶臼山城が在ったが公園造成で消滅!?)を抜け、有馬富士を左手に見て西国33ヶ所観音霊場番外の 花山院への参道口前を通る。三田市域の中央部に位置して1等三角点の為・登山対象としてよく登られる千丈寺山塊の、主尾根東側に細長く延びる黒川沿いに走る県道49号線は 小野大日堂の傍を抜け、
有馬富士公園パークセンタと有馬富士 H19.11)

山間部の盆地に在って平坦で明るい田園風景が続く長閑な乙原の里に入る。乙原を通って花の寺:永沢寺(ようたくじ)へ立寄るルートは、篠山市側に戻るため幾度か通った道。小野の里 :花山院に関連する”三田のおはなし”美宇和王と大日堂及び花山院と十二妃 を追記しました。


福島大池〜有馬富士(角山)〜城ヶ岡〜(加茂)金比羅山  2002年01月02日

前回は晦日(H10.12.28)に登った山だが今年の干支は午:ふるさと富士50音「あ」で始まる山・三田八景の一つでもある 有馬富士(角山 374m)。有馬富士の姿は先ず【有馬富士ふもとの海は霧に似て波かと聞けば小野の松風】と花山法皇が詠んだ西国霊場・花山院の展望所からと決めて初詣を兼ねて向います。
有馬富士公園:自然学習センター

千丈寺湖畔から小野峠越えで 西国三十三霊場巡り番外の花山院(東光山菩提寺)へ向う途中、西方に秀麗な小山を見ます。花山院ご詠歌通りの霧海に浮かぶ有馬富士を期待したが元旦の夜は雨の為、朝の霧も期待出来ず、山行さえ諦めていたが 拡がる青空に騙されて出かけて見ました。尖りの山角山は今は有馬富士として親しまれ有馬富士森林公園として整備されています。近年では南側山麓の福島大池(野鳥の飛来地として 伊丹市の昆陽池等とともに阪神間では鴨池で知られる)も市民の憩いの場となっており、 駐車場のある表玄関にはキャピー山のラボ「三田市立有馬富士自然学習センタ」があり、入口には日本一大きなジャンボクワガタ「つよし君」が出迎えてくれるのですが年始末は休館中で残念ながら駐車場へも入れません。
県立有馬富士から福島大池と角山(有馬富士)

有馬富士と福島大池は以前利用した 有馬富士森林公園の広い駐車場は休日なら利用出来るが、今回も他に二山を周回するので少し遠い為!!有馬富士公園線の中間点にある福島大池東端の花菖蒲園の駐車場(少し狭いが)を利用させてもらい (AM10:00)此処から池を巡り東奥から角山(有馬富士)を目指し遊歩道を辿ります。富士の姿を見たくて 先ずは福島大池の西端まで行ってみます(AM10:10)。風のため水面には期待していた逆さ富士が映りこみません。歩道に沿って有馬富士へ向います。蜘蛛の巣のように縦横無尽に張り巡らされた「XXの小道」は 遊園地風でコース案内を返って判り辛くしているのではないかとさえ思えます。
「わんぱく砦」岩頭からの城が岡(左)と金毘羅山(右)

遊「夕陽の小道」の先で遊歩道兼車道分岐ですが南(右)へは 有馬富士森林公園駐車場へ出ますので左へ採って進むと「山頂へ」の標識があり 木製や立木の根の階段が続き露岩が出てくると程なく樹林の中で余り展望のない有馬富士山頂(角山4等三角点 374m AM10:40)です。三角点は山名板の後ろに隠れています。山頂から南への下降ルートは直ぐ「わんぱく砦」上部の岩場に出ます。此処からは一気に展望が開け鋭鋒の城ヶ岡と台形の金毘羅山が西方に 目立って存在感をアピールしています。どちらも低山ながら山頂付近に露岩を抱いた登行欲をかき立てられる山容です。
有馬富士公園から有馬富士 H19.11

「わんぱく砦」の岩場を降りきった先で右へ「さえずりの小道」を採って元来た福島大池側への ルートを下ります。 この遊歩道も有馬富士森林公園駐車場に続きますので山頂へのコース「見返りの小道」の反対側に「はぎの小道」(AM10:52)があり此れを降って「夕陽の小道」へ出て元の福島大池へ戻ります。 有馬富士からは至近距離にあって常に気になる先鋒の城ヶ峰へ向います。福島大池への遊歩道と平行する側構と生垣が続いていますが園芸農園の向かい辺りで。僅かに切れたところから先に切り開きがあり 側溝を飛び越えて 切り開き道を谷に沿って進みます。ぬかるんだ道ですが境界ポールも続いています。 メタセコイヤ等の植林帯に入ってくると道は不明確になりますが明るい高原状の場所に出て来ます。カヤト・ススキの混じる草原を抜けてプレハブの作業小屋を目指します。
福島大池からの有馬富士

「神崎林業三田緑化営業所」の看板を見るが 人の気配は皆無(AM11:15)。周辺は小屋前にカイヅカイブキの他、ブロックを区切ってアラカシやイチョウが育苗されています。小屋前の林道から山道に入り、城ヶ岡と金毘羅山へ続く尾根の鞍部からは小道が 東野上へ降っています。この鞍部に神崎林業所有地を示す標柱があり尾根をほぼ一直線に細いトレースがあります。それだけに相当な急登を強いられます。上部に所有地標柱を見ると水平道が現われますがこの道は 山頂を巻くようにして東野上へ下っていくはずですので標柱の左側から狭いが藪の抜け道を辿って山頂直下の東面のブッシュの先の岩場に出ます。大船山・羽束山・大峰山・古宝山から六甲連山 ・正面に有馬富士と花山院等多くのピークが処狭しの感で頭を覗かせています。山頂を目指すが 此処からは倒木と藪で進行は捗捗しくありません。
城が岡(東野上城)の東端岩頭からの有馬富士

2〜3m程の段差があり曲輪跡のようです。此れを乗り越えると城ヶ岡山頂(ジョウガオカ 330mAM11:40)山上部は平坦で西方へも段差をもって平坦地があります。最高地点から南へ出て見ると スッパリと切れ落ちて露岩部が連なる断崖になっています。天然の要害の地は南北朝期の赤松氏範の築城で家臣の中野丈六が居城した東野上城(城ヶ岡城・北山城 ・岡山城)のある山城です。前回は山頂を巻いて東野上へ降る水平道の途中から藪漕ぎで 西側から 2〜3の平坦地(曲輪跡??)を辿って城ヶ岡山頂に至り、元の水平道に戻ってからは北正面の金毘羅山目指して 藪を下り谷筋から上部ガレ場・岩場伝いに直接、金毘羅山の三角点に到達したのですが、 今回は順当に尾根を辿ってみようと思い、神崎林業所有地を示す標柱がある鞍部に戻ります。鞍部から反対の尾根へ細い踏み跡が 続いていますので大助かり。背の低い雑木藪の尾根で砂地や露岩も時々現われますが 振り返れば城ヶ岡から続く 尾根の先に福島大池や有馬富士、先刻報告の山々が望まれます。藪っぽいが踏み跡は続いています。金毘羅山の山頂付近を正面まじかに望む、一つ手前のピークからは尾根の形状が複雑な地点で 先行する踏み跡は消えてしまいます。右東下へ砂地の尾根に踏み跡が続きますが「XXX三田緑化営業所」へ通じているのでしょうか!!。
金毘羅山の岩頭から有馬富士・羽束山等

此れより藪漕ぎ突入ですが獣道でも 何でも抜けられそうな間があれば 藪の間を潜り抜けて 尾根を外さないように進みますが段々と大きな立木は無くなり細い芝を掻き分けて進むようになってきます。尾根は東へ大きく迂回しているようで、少し遠回りしているようで長い藪漕ぎの 末平坦な岩で四角に囲まれたような 露岩の上に飛び出して着ました。岩場の直ぐ下に祠が見えます(PM12:10)。金毘羅宮の真上のこの岩は御神体!!??金毘羅神宮の前からは加茂集落からの参道を下りますが、 南へ続く山道を辿れば直ぐ金毘羅山山頂(加茂山 3等三角点 356m)で三角点は周囲が掘り起こされ石標柱が見えているが、そうでなければ埋没して探すのも大儀な状態です。此処から南へ数mで展望休憩適地の 露岩帯に出ます(PM12:12)。その少し先にも南に展望の岩盤が拡がっていますが此処から尾根!!道はありません。先の露岩の展望地で暫らく休んで金毘羅宮へ引き返し参道を下ります。この参道には「天狗の休み松 」という古木があるといいますが終ぞ見かけません。六甲山の岩場に住む天狗が千丈寺山へ往復していたという 三田の民話は千丈寺山登山アップの時に挿入しますのでお楽しみに。参道は荒れて谷に沿った部分はぬかるんでいるが、 正月の参詣者も有った様です。毎年4月10日・11月10日が祀日なので、 集落まで下草も刈り払われて 整備されていました。途中・道路標識のような丸い参道案内板からは藪っぽい道が続いています。千丈寺湖畔へ抜ける古い道のようです。
県立有馬富士から有馬富士

途中の分岐道は前回・直進して農家の農具庫の裏手から176号線の装いプラザ花座や コンビ二(7イレブン)の処へ出てきたが、今日は手前左手の道をとると(PM12:30)直ぐに地道の林道となり加茂バス停の国道と平行する集落内の道の出入り口付近に出てきました。この道を東へ抜ければゼネラル給油所の近くへ出ます。 前回同様176号線へ出て直ぐ左の集落へ入る車道は「城ヶ岡公園墓地 」へ続いていますので墓地公園駐車場の前から小川沿いを辿って福島大池に出て湖畔を半周し花菖蒲園の駐車場に戻ります(PM1:15)。



 乙原城
増田館 乙原砦 東野上城

乙原城と増田館
乙原城  城山257m  三田市乙原字浦山奥

乙原公民館の北250m程・赤坂口バス停前から真直ぐ東に向う地区道の左手(北)に南北に約80m・東西400m程の細長い独立丘陵がある。丘陵西山裾を流れる黒川に架かる青野橋を渡った所から城山への取付き点を探して、山裾を廻ってみる。 幸い西北端に祀られる石仏手前に、立木利用の急登だが踏み跡が有った。其の手前にも進入出来そうな場所があり、
県道から望む乙原城

下降時には此処に出てきたが主郭西端にある物見台状の土壇(高さ約2m・幅5x7m程)の切岸からは、そのまま真直ぐに削り落とされた深く長い竪堀が黒川側の此処まで延びていた。 とはいえ比高30m足らずの低丘陵、ほぼ一直線に急斜面を落ちる竪堀は長く深い。 南北に長く延びる乙原地区の谷間の中央を県道49号(三田篠山線)が走り、乙原地区の中央部に位置する松風コミュニテーセンタに着く。県道沿いに流れる黒川に 先端部を落とす低丘陵部の西側頂部に、
主郭物見の土壇から麓まで延びる竪堀

主郭と二ノ丸【明確に曲輪を分ける程の段差・土塁・堀等の施設は無いが、僅数10cm程度の段差?が、主郭の西端に存在するの物見台状土檀(高さ約2m・中規模程度円墳の マウンドの様にも思えるが、遺跡分布図には此の付近一帯に古墳の表示は無く!!自然地形のままか?)の南側下部にある 幅15mx20ばかりの小曲輪】から成る単郭の乙原城が在りました。低丘陵尾根西のピーク257mに乙原城(城域約30mX50m)が在り、単郭の城域を遮断する土橋付堀切を越えて、東へ続く緩やかな尾根筋が東端の 269mピークに延びていきます。
乙原城:二ノ丸から主郭物見台状の土壇
(城域の西端に在り黒川沿いの県道を眼下に見渡せる位置に有る・但し藪)

この丘陵端から50m程さらに東の集落内の墓地 ・田圃の境周辺には濠跡・土塁跡を残す増田館が在りました。東西に400m程の低丘陵部南側の中程の台地に天瑞寺が建つ。乙原城の城主は此の増田氏とも云われるが詳細は不明です。天瑞寺には寄らなかったが城主増田氏の菩提寺だったのかも・・・?。城址の近くに菩提寺が無く明確な城遺構も無い場合は霧山城 (丹波市)の様に其の存在さえ疑問視され、幻のxxxx城と呼ばれるかも…?。
堀切〜一段小曲輪を経て 土塁に至り幅狭な南側通路(虎口?)を主郭に入る

・・・とは云え何の伝承も残らない増田館は、中世城館として不自然な部分が指摘され、城館跡である事を疑問視されてもいますが、増田館を城主の居館 ・詰め城を乙原城と考えれば西側には南北に黒川が、南側には東西に牛屋ヶ谷が天然の堀を形成して流れています。居館前を小垣(後川から篠山市へ抜ける・丹波攻めの際:波多野氏の八上城籠城戦では当初三田側から 救援の兵糧物資輸送されたルート!!)・高平(十倉城等がある)へと、 峠越えの間道が通じる立地に在り、高低差の小さな東端ピーク経由か天瑞寺背後の鞍部付近から尾根筋に出る ルートを大手道とし土橋を伴う堀切を越えると、直ぐ上に大土塁(底幅5m程・高さ約3m・長さ8〜10m程)がある。
土塁下部の小曲輪から見る堀切

大土塁南端の通路 (虎口!!)を抜けて主郭(18X20m程か?)に入る。主郭西端に2m程の土檀が有り、其の西に続く自然地形の平坦地を副郭と考えます。二郭から成る小さな単郭の城ながら竪堀・物見の土壇・大土塁・堀切と見るべき遺構が有りました。
増田館と乙原城の南側には東西に牛矢(牛屋・丑谷とも)ヶ谷が深い谷を防衛線とした水濠となって黒川に流れ出ます。 乙原城には 【村人は:むやみに城山に入ってはならず、
乙原城の土橋付堀切(東下方に続く緩衝帯?側から望む)

城跡の木を切ると周囲に不幸な出来事が起こる…とも、また埋蔵伝説も残る様です?】
伝承がある。 多くの山城の曲輪周辺に見かける矢竹は、当然矢として加工・使用されたのでしょう。城山の北麓の字名に「的場」があり的場姓の家もあるという。此れは城主が城から矢を放つ稽古の折、其処に的を置いた事に由来するとされます。


増田館     xxxxx 233m   三田市乙原字丑谷ヶ谷

乙原城から山麓に降りくると天瑞寺の東方約200m程の位置、地区道内の民家が途切れる辺りの南側に拡がる田圃に突き出る様に方形の墓地の敷地があり、 コの字状を取り囲む様に三方を、高さ約4m程の段差の切岸裾を濠状の溝が流れます。一帯は圃場整備されて居る様で往時の状態など 推測もできませんが増田館とされる墓地付近は深く幅もある溝があり、
増田館:北の丘陵側には 土塁状遺構?

牛屋ヶ谷
【三田市史による増田館の解説ではT:上流の貯水池からの灌漑用水路の様で、谷川は南200m程の丘陵の北山裾を流れ居館からは離れている】 の水を集めて西方400m程先を流れる黒川に合流していきます。 【2:また南側は田圃との間や濠から3〜4mの段差が有るが、北山側(左の土塁画像や、東側(下右の濠の画像の様に居館との高低差が無い)】【3:堀と土塁のより設定された区画内部の状況は、 傾斜したものとなっており、城館として必要な平坦面を確保していない】
増田居館(南に濠?・北にも土塁?濠跡?)

【4:古くから遺構に関する伝承も無く、付近の小字名牛矢(牛屋・丑谷)ヶ谷も、城館の存在を示すものでもない】1〜4の事由から城館と評価する事は難しいとされています。
増田館前の堀状遺構(灌漑用水路!!)の一部は乙原城域の南から分かれて真直ぐ南へ延び、 天満神社南の乙原バス停付近で黒川に流れ出る様です。
増田館を囲む東北側の濠状遺構

此の南へ延びる堀状の深い配水溝!!沿いの地区道を天満神社側に向かう。途中:松風コミュニテイーセンタ南付近・黒川に架かる阿弥陀橋・を渡ると、県道向かいに石垣だけが残る。 橋の名にある阿弥陀堂でも建っていたものか?。参道石段上は墓地で行き止まりだが、倒木の多い山の斜面に踏み跡を見つけて尾根上に在る乙原砦へ向った。
(三田市史 参照)


乙原砦 万体山 294m(4等三角点 )  三田市乙原

千丈寺山から延びる北尾根のピークから東へ派生する枝尾根の先端部が県道49号線の落ち込むところに天満神社が有り、県道を少し北上すると尾根に向かう石階段がある。 此れを辿って突き当る水道施設の少し手前から下草や倒木と藪に覆われて尾根筋に山道は無いが、雑木を折って道標 (みちしるべ)としたえ入りそうな踏み跡を追って山頂を目指すと極小さな平坦地が2m程の段差で2〜3続いて雑木藪で展望も無い頂部の細長い平坦地に出る。
正面小山塊ピークが乙原砦 (左側に霞む峰が千丈寺山)

藪の中の最高所が 主曲輪の平坦地で綺麗なままの(当たり前なのだが、頭部四隅が壊され欠けた標石が 多過ぎますね)4等三角点の標柱石が埋まる万体山?(294m)。東側には一段低く帯曲輪とも呼べない?犬走り状の平坦地が北端の曲輪傍まで続く。西に一段ばかり腰曲輪が有る様です。帯状に延びているかは藪の中で確認出来ない。尾根上の平坦部分は北端付近では低い段差で平坦地が2〜3続き最北部小曲輪で城域は終える。 此の末端部からのみ樹木のスリットを通して 乙原城が正面下方に望まれる。
乙原砦北端曲輪・東一段下に1〜1.5m幅に犬走り?(帯曲輪?)

黒川沿いに永沢寺(ようたくじ・とても読めないが「えいたくじ」で通じています。乙原を「おちばら」と読むのと同様に難読名ではあります)を経て、母子(もうし)から篠山市へと通じる県道49号(三田篠山線)の谷間に拡がる 乙原郷を望みますが、本来なら乙原の領内全体が望まれ監視出来る位置に在り、三田市街地から千丈寺湖を経て小野の里を抜けて、乙原の里に入ってくる玄関口を監視しる重要拠点ともなっています。乙原城の支城としては 尾根山頂部の細長い平坦地の前後左右に1〜3段程の小曲輪は付随している様ですが2m程の段差を持つ平坦地以外なんの防備施設も無い。 乙原への出入口を監視・乙原城への「報せ」の砦だったのでしょう。乙原砦へは水道施設へ の取付き点の他、県道から黒川に架かる阿弥陀橋への分岐点西、丘陵側に古い石垣と石段が残る参道が見える。 上部に墓地が在り其処から倒木を避けながら、急斜面に続く九十九折れの踏み跡を追って乙原砦の北端曲輪に入れる。
乙原砦北端曲輪から県道49号と正面民家傍の小山が乙原城

此のルートの取付点に有った石垣は阿弥陀堂の跡だったのだろうか?。千丈寺山には天狗伝説がありますが、此処にも三田の民話に 「後光が射した万体山」として観音寺(遺跡分布図には天満神社鳥居マークの前に 観音寺跡の表示マークが有る)の観音堂に安置されている聖観世音菩薩像を盗み出す泥棒の話が伝わります。三田には他にも仏像を盗む話が幾つか残っています。


東野上城(城ヶ岡城・北山城・岡山城) 城ヶ岡 327m  三田市東野上字城ヶ岡・福島

西から南側を武庫川が流れ、遠目にも一際高く尖鋒を見せる山の山頂付近は岩盤が露出し切り立つ岩場は要害堅固さを誇示しながら三田盆地を睥睨してたっています。南北朝期初頭:有馬郡を領した赤松氏(有馬赤松氏)は嘉吉年間(1441-44)赤松弾正少弼氏範が此処に城を築き赤松一族の臣 ・中野丈六が居城し後、四男・兵庫介則之とも孫五郎季則!が拠ったともいわれます。
金毘羅山(左)と(右)に鋭鋒の城ヶ岡(東野上城)
三田浄水場(嫁ヶ淵附近より
本丸の南中腹にある台地に居館があったと伝えられています。 永徳3年(弘和3年1383)に氏範父子等は播磨の清水寺で討死して、一時は中絶していた赤松氏の城ですが、室町末期・岩屋城(加東市東条町)を出た赤松(加賀守)藤兵衛吉広が西野上城(三田市けやき台)の千貝氏を討って、 此処に城を築いて移ったが永禄7年(1564)2月に山崎左馬之介(
)・車瀬政右衛門・幸田半左衛門の軍に攻められ、 籐兵衛・森脇三郎右衛門・赤松孫四郎等が迎え撃つが滅ぼされた(摂北軍記)とされます。「有馬郡史」によると赤松籐兵衛は捕虜になり 楯岩城の巫女の谷に 籠居していたが、城を遁れ出て桑原にて自刃したとされます。

有馬富士公園より東野上城(最高ピークの城ヶ岡)

三田市内の城を攻め落としている山崎左馬之介は伝説上の人物なのか!!??織田信長の家臣で 天正11年(1578)三田城にいた領主に山崎左馬之允という人がいて混同されているところもあるようです。天正年間(1573〜92)には丹波・八上城の波多野氏勢がこの城に立て籠ったが羽柴秀吉の軍に攻め滅ぼされています。 東面と南面は切り立った岩壁で囲まれた天然の要害で山頂部に2〜3段の曲輪跡があり、三田盆地を一望出来る北の青野ダム側の小山城や東には有馬富士を望む位置にあって、麓には今も水を湛える井戸がある。

 
三田のおはなし
美宇和王と大日堂の由来

飛鳥時代(白鳳時代)の大化の改新により立役者となった中大兄皇子
(626-671後668年:第 38代天智天皇に即位された)が中臣鎌足(614-669 臨終の際・天智天皇が自ら、大化の改新の功に対し、 藤原の姓を下賜されたものといい、藤原氏の始祖となる藤原鎌足が或るとき小野の里を訪ねられた。大化の改新には皇位継承では邪魔となり、謀略により 藤白坂に倒れた有間皇子(孝徳天皇の子)の伝承にも有るように、帝の「有馬の湯」への湯治に御幸に伴われ、逗留中に三田へ遠出を楽しまれたものでしょう。
小野大日堂

三田は金心寺の門前町として栄え発達してきた地で、寺の開基が中臣(藤原 )鎌足の子の定慧(643-665)であったことでも、此の地方が藤原(中臣)氏族の勢力下にあった領地であり、鎌足が中臣氏一族の領地・小野の里へ中大兄皇子を案内してきたのでしょう。この地黒郷の領主 :黒川雄宇戸の館に暫し立ち寄られた。白湯(さゆ)等の接待をした雄宇戸の麗しき娘苅姫に心奪われた皇子は、日延ばしに出立を遅らせているうちに苅姫は皇子の子を身籠ります。政務に多忙な中大兄皇子は、 都
【大火の改新で難波長柄豊崎宮に遷都】を何時までも留守にしておくわけにもいかず帰られることになり、生まれてくる我子への証として 自分の腰の刀(佩刀はいとう)を置いていかれた。やがて生まれた男子は美宇和王と名付けられたが、苅姫は産後:我が子の将来を案じながら他界され、美宇和王もまた病がもとで翌年に亡くなられます。娘と孫を失って悲嘆にくれながら・雄宇戸は王子の亡骸を小野の風呂ヶ谷に手厚く葬り、傍らに一本の松を植え・中大兄皇子から授かった 佩刀をご神体とした祠を建て、村人は此れを美宇和神社と呼びます。
小野大日堂と花山院の峰を望む

それから四百年:一条天皇の長保年間(999-1004)畿内の観音霊場巡拝を再興された後、里に近い菩提寺(現花山院だが 花山院の小野に近い北山裾に菩提寺跡?が在る)に隠棲されていた花山院(花山法皇968-1008)が風呂ヶ谷に立ち寄られ、一つの祠と傍にある老松に目を留められ、 村人にその由来を尋ねられ苅姫と美宇和王の話を聞かれて痛く心を動かされた。花山院は二人を供養する為に自ら彫った大日如来像を本尊として、一宇をお建てになり懇ろに苅姫と美宇和王の菩提を弔なわれたのが 今日の大日堂だとされています。花山天皇は藤原氏の全盛期:永観2年 (984)円融天皇の譲位を受けて第 65代天皇として17歳で即位されたが、藤原兼家の子:道兼の策謀により2年後には不本意ながら出家退位されられます。即位の年・大納言為光の女が入内したが、この女御との交情は深かったが翌年に亡くなります。 この事が出家の意志をみせ、また藤原兼家・道兼に付け入る隙を与えたものか?。おそらく女御は花山天皇の子を身籠っていたのでしよう。
大日堂境内傍らに立つ 「大乗妙典石綬」供養塔

苅姫を院が愛した女御に重ねあわせ、子が生きていれば其の運命には、 御自身の体験された身の上と符合し共鳴する事柄が多かったと思えて、深い同情を寄せられたのでしょうか?。小さな頃より肉親の愛情を受けず・後見もなく・心通わす友も無かった、孤独な王子は和歌の道でその才を発揮されています。 隠棲された当山で寛弘5年(1008)亡くなられた西国三十三ヶ所観音霊場番外:東光山花山院(真言宗花山院派本山)の御詠歌には、朝霧に包まれた花山院から望む 麓の里の情景を読まれた「
有馬富士 麓の霧は海に似て 波かと聞けば 小野の松風」の"小野の松風"は、美宇和神社 (美宇和王の墓石)傍に植えられた老松(枯れ死して今は無い)を指して詠まれたものと云われます。大日堂東の地区道傍に「大乗妙典石綬」と石仏が祀られています。衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる「法華経や大般若経 ・光明真言」等の経典を一定回数読んだり、写経して納め記念に造立した供養塔。特に珍しいと云うほどのものではないのですが、出来れば大日堂内に安置されている市指定文化財の、金泥も鮮やかな花山院が彫られたという 大日如来坐像をじっくりと拝見したいものです。
(現地「大日堂の由来」案内板・北摂三田の歴史・新歴代天皇大鑑等を参照)


花山院と十二妃(または十二后)について

白雉2年(651)法道仙人開基を伝える
花山院(東光山菩提寺 真言宗 )は西国三十三ヶ所霊場の番外で人皇第65代花山法皇【安和元年(968)〜寛弘5年(1008)】が即位後わずか2年で 藤原氏との政争に敗れて退位した後、剃髪し法皇となって寛和2年(986)に19歳で出家され、弘法大師が巡ったという 西国各地の寺院を巡拝とたことが西国三十三ヶ所観音霊場巡りの始まり伝えられ、隠棲された花山院は札所の特別番外とされ今も参拝者は絶えません。
十二妃の墓

京を離れこの地に隠棲されたとき、法皇を慕ってきた女官達は女人禁制の山に入れず尼法師となって山麓に草庵を営んだといい尼寺 <にんじ>の地名が有ります。山中で修行する法皇を慰めようと登り口の坂で琴を奏した場所は琴弾坂と呼ばれ 急坂の参道途中にあり碑が建っています。尼寺集落内の西角の岡には、花山院の寵愛深かった弘微殿(こきでん)女御「祇子」の五輪塔に女官11人の石塔を加えて十二妃(十二后)の墓があります。
十二妃の墓 と琴弾坂

この地の盆踊り歌に「年ふり苔はむしたれど 十二妃を葬りし山の麓の墓どころ 赤き心を伝えしか 赤い椿の花が咲く 」と歌い継がれて…
花山院のある尼寺地区から小野地区へと、多くの遺跡地点を示す埋蔵遺跡分布図も、乙原地区に入ると一気に表示が少なくなる。乙原地区に左右から小谷を集めて南北に細長い盆地を形成している 中央部付近にのみ5ヶ所程遺跡マークが集中しており、此処に三つの城館【乙原城・増田館・乙原砦】名を見つけて出かけた。

別冊丹波霧の里HOME 本誌 丹波霧の里HOME
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