京都・三和町 西の古城〜万燈山/東の古城/ニシンジョ城・細見辻城/鎌谷城 等
福知山市三和 (五万図=綾部)
T:西の古城北郭〜点名 :友淵〜万燈山(南郭)/東の古城 H18.06.11
U:西上城〜三春峠越えの細見辻城群<近畿の山城参照>  H21.11.29

近畿の山城 : 西の古城(北郭群) 西の古城(南郭群) 東の古城 ニシンジョ城
    小見山城 ダマ城(細見辻城)と殿屋敷城 鎌谷城と鎌谷南城
西の古城(北郭)金毘羅社の土塁付き曲輪と鳥居右に竪堀

草山・友淵・芦渕 ・梅田神社とかけて細見氏と解く!!?・其のこころは・・???
正否はともかく篠山市本郷(旧西紀町)には 細見将監の草山城あり、下って府県境に草山温泉があるが土地の名とも思える草山は無い?。 細見氏は三和町の細見谷を本拠とした土豪だが、さらに北の丘陵を越えた府道59号線沿いに、草山の地とニシンジョ(西上)城が在りR9号線に合流する地点が芦渕で、万灯山と呼ばれる山がある。
西の古城の竪土塁上部へ斜上する虎口道?

府道97号草山温泉からは友淵を抜けてR9号線菟原に出るが、此処に万灯山(万燈山)が有り 西ノ古城が在る。詳細は下記山城レポートに譲るが明智光秀:福知山城攻めの陣城と伝わるが、 それ以前の古城主は細見氏であったと思われます。本郷から鹿倉山東裾を菟原に抜ける車道もある。鹿倉山尾根筋の西面・北面に府道709号線の細見谷。郷士細見氏についての詳細は不明ですが 川合地区の城砦には赤井氏配下にいた臣もいて、兵庫丹波・八上城:波多野氏や黒井城・赤井氏傘下に組みしていたとは思えます。
ダマ城(シロカタマ城)から殿屋敷城(中央右のドーム状)

【T】 篠山市側西紀町から多紀アルプスの山並みの北側を抜けて鼓峠を越え、シャクナゲ寺で知られる本郷松隣寺への分岐を右に分けて草山温泉へ向います。山情報の点名:友淵 (ウシロ山4等三角点 265m)〜万燈山(万灯山)は下記「近畿の山城 」西の古城レポートに含めます。三和町に万灯山は二つ有り!福知山市側の・・といっても 天田郡三和町も福知山市になったので歴史上での旧町村名や地理や藩・領地の調査・理解や説明していくのに益々混迷の度が深まります!?。
鎌谷南城:主郭から二郭・三郭を窺う

【U】丹波市側からは市島町から戸平峠を芦渕へ、春日町から三春峠を細見谷へと下り詳細不明の城跡を探訪してみます。 芦渕付近で友淵川・細見川・川合川を集めて、由良川支流の土師川がR9号線沿いに福知山市街地へ流れ出る。緑豊かに田園地帯が広がり、昔は何処でも見慣れた当たり前の情景が、三和町の配水マンホールの蓋に描かれています。 デザインは橋の上に網を持った子ども その下に魚が泳ぎ 露草にはホタルの乱舞。今では見る事も稀な風景が、幹線(R9号)道路を隔てて自然のままに展開します。


T 友淵公民館〜西の古城(北郭)〜点名:友渕〜万燈山(南郭)/東の古城  2006.06.11

万灯山はR9号線の三和町北端・芦淵付近にも同じ山名の山が有り、 登山するのなら此方の万灯山〜大内峠〜千草山への境界尾根をトレースしてみるのも良さそうです!。松隣寺背後の山には細見将監信光の 草山砦(草山城・本郷城)があって、天正4年 (1576)織田信長の命で”丹波攻略”に乗り出した明智光秀を、黒井城主:赤井氏と八上城主:波多野氏が行った「赤井の呼び込み戦法」の策謀により敗走させていますが、この際・鼓峠へ明智軍を追撃した草山砦の細見将監や 八百里城主畑牛之丞守能(もりよし)等と鼓峠を舞台に合戦しており古戦場の石碑が建てられています。
西の古城(北郭)主郭の秋葉社とU郭の天満宮

京都丹波の土豪たちもまた応仁の乱 (1467-77)頃には山名氏VS細川氏+内藤氏に、三好長慶が首都:京に近い丹波地域に利権を求めて 攻略してきた頃には三次+内藤VS赤井氏や波多野氏の勢力に付くかどうか…氏族・一族の命運を賭けた選択には、 おおいに迷い苦悩した事でしょう。旧天田郡の土豪達も当初おおかたは、奥丹波:黒井城の赤井氏か口丹波 :八上城の波多野氏に付いていたと思われます。三和の在地土豪:細見氏の本領地に向かい友淵川に沿って走り篠山市境界標を越えて福知山市三和(H18年1月天田郡から 福知山市に統合)の友淵に入ります。
万燈山山頂の西の古城(南郭)標柱には東の郭とあるが?

余り知られることのない山城です。 篠山市の草山砦(草山城・本郷城)にも記している多紀(篠山市)を含む友淵川沿いの莵原(福知山市の旧天田郡)の16ヶ村を知行したといわれる三和町の土豪:細見氏は紀氏の一族で細見大丞と名乗り、讃岐守護の細川頼春の子 ・頼之に従って功績があって当地を領有しています。細見山城守の頃は八上城主:波多野孫四郎秀忠(波多野植通の事!!?)の幕下にいたのでしょう。



西の古城(北郭) 西の古城(南郭・友淵城・万燈山城) 東の古城 ニシンジョ城
 小見山城 ダマ城(細見辻城)と殿屋敷城
鎌谷城と鎌谷南城


西の古城北郭群(城山)と南郭群(万灯山)
西の古城(北郭)   城山 Ca210m   福知山市(旧天田郡)三和町友淵

県道97号(丹南三和線)友淵の公民館前に”すこやかの里 ”の記念石碑が建ち、西北方に西の古城北郭の城山と尾根続きの西南に高い峰を突きあげる西の古城(南郭)のある丘陵が望めます。県道沿いに北に進むと「天満宮・西の古城」の案内板が有って、其れに従って道なりに進めは”西の古城の北郭”と、 点名:友淵から万灯山山頂部にある ”西の古城の南郭”への深く掘り込まれた鞍部に着きます。西の古城は西と北の2郭群から成り ・鞍部から西尾根を辿れば西の古城南郭の万灯山320mに向かいますが先ず北郭へ寄っていきます。
友淵公民館”すこやかの里”より西の古城(北郭)

堀切?の様な深い鞍部からほぼ丘陵北方の末端部へと直進する、 尾根道の最奥・最高所に西の古城北郭のある城山の天満宮に行き着きます。 土橋付き堀切を渡り鳥居を潜ると金比羅社の祠があり、直ぐ東側斜面に竪堀と竪土塁・西にも竪堀を見る。左手には土塁付き曲輪、更に2〜3段の平坦地が天満宮と秋葉社を祀る本の丸へと梯郭式に連続します。平坦地が参道の横に並び 参道自体が帯曲輪の様です。ただ尾根筋左右の斜面には本ノ丸東側に腰曲輪らしい小さな平坦地と、 其処から緩やかに斜上してくる虎口 ?が有る程度で、本ノ丸の北側周辺も藪でよくは判らないが急斜面らしい以外には堀切や竪堀等で防備を固めている様子は見られません。
西の古城(北郭)の土橋付き堀切を 主郭の天満宮に向う

京都丹波の菟原・友渕に通じる街道警備の城砦と云うより、今残る縄張りからは京都丹波側の赤井氏や波多野氏方の動きを監視する明智の陣城として 栗柄砦等と共に使用されたのではないかと思えてきます。同様に黒井城の動向を監視し退路を遮断する戸平峠近くの 岩倉城もそのような陣城として改修された城とも考えます。友淵の西の古城(北郭)が兵庫丹波の 篠山側の動向を探る為、また・同じ三和町上川合に有った天正期(1753-92)樋口対馬守鎌光の居城経ヶ端城も、落城後は天正7年(1579)明智光秀の 持城として大改修、 西ノ古城も横山城攻略の陣城となり、其の後は綾部・亀岡・京都側からの監視と ”知らせの城”として、また中継所・国境警備と守備監視にあたったのでしょう。しかし細見将監が築いて居城していた 草山砦が有るのに、要衝の県道97号線沿いの街道筋や、山陰道(R9号線)の三和町莵原から草山温泉を経て、 三郡峠を越えR9号の瑞穂町大久保へ抜ける間道?を監視・守備する為に、明智光秀が適地として築いた山城としてのみ伝わるが、在地国人:細見一族の城砦が無いのはおかしい…?。
西の古城(北郭)最高所の秋葉社”光秀の古城址”標柱

西の古城と呼ばれる城址は、篠山市境界尾根のピーク万灯山【Ca300m 三和町には芦淵付近にも 万灯山Ca320mが有ります】山頂に位置して西の古城の南郭が有り、北に辿る尾根を深い鞍部が堀切状に遮断された、更に北方Ca210mの最高所を本の丸とする西の古城の北郭が在って、南北2箇所に郭群を持つ城域をいいます。 其の東・友淵川を挟んで東の古城がR9号(山陰街道)瑞穂町側との境界に位置します。友淵地区に残る此の三つの古城(まだ他に有るのかも?)は山陰道の生野道(細野峠)に近く、友淵川沿いに草山温泉から鼓峠を越えれば丹波市と 篠山市に抜ける軍事上からも重要な要衝の地にあります。
しかし”西の古城”は同族の一連の城址とは思えない縄張りです。 明智光秀の城としてのみ伝わる山城ですが、もともとは細見氏の城址を”北郭”は光秀が全面改修して陣城に ”南郭”は未改修のまま使用した城址なのかもしれません。二つの古城の城主や築城時期等の城史は不明ですが、天正期には細見氏の古城跡を 明智兵庫頭(日向守)光秀が奥丹波平定の基地として、福知山城攻略の際には余り改修の手を加えないまま向城として使用し、福知山城主となってからは篠山城の日頃の動勢を監視するのに最適な土地を友淵に見い出したようです。
西の古城(北郭)の竪堀と竪土塁

自ら兵を引き連れて実地検分し、福知山城への”知らせの城”として此処に城を築くべく、 山の頂部を削平し工事が着工されましたが、計らずも亀山(亀岡市)城主に任命されて福知山から移った為、周辺の城砦は機能しないまま廃城となったようです。いずれの城も防御面での弱さが指摘されます。旧天田郡には強力な勢力も無く、 兵庫丹波の赤井氏や波多野氏により八木城の内藤氏の力も及ばなかった地域で、細見氏は波多野氏傘下に組み入れられ、 領内の城砦は八上城の支城・出城となっていたのでしょうか?。辻と莵原間に在って天正年間・辻野左衛門が拠った小見山城は三和町で唯一・合戦が有った 所とされますが、 細見監物(草山砦の将監か?)が攻め落としたが、後に左衛門が奪還したともいわれます。細見氏は波多野氏方の威勢を借りて攻め落したが波多野氏滅亡で、 小見山城を捨て明智方に付いたか、秀吉方に付いて転戦していたのでしょうか?。
西の古城(南郭):北斜面に3段程続く曲輪

天正4年(1576)黒井城主:赤井氏と八上城主 :波多野氏による「赤井の呼び込み戦法」の策謀に光秀を敗走させた際にも草山砦の細見将監や 八百里城主:畑牛之丞守能(もりよし)等が鼓峠へ明智軍を追撃しています。西の古城の北郭へは
幅 5m程の土橋付堀切を渡り、南側にL字状に土塁を廻すU郭前の曲輪にある鳥居に着く。 U郭には金毘羅社の小祠が祀られるが、鳥居の東斜面には竪土塁が有り長い竪堀が落込んでいます。L字状に土塁端の西斜面にも竪堀がある。 ただ土塁や東に竪土塁上部に有る虎口状の折れを伴う平坦部は、 明治初期に友淵地区の”火難除け”として祀られた金毘羅宮の整地等で改変されているのかも!。低い段差で帯曲輪が捲く上段は広い曲輪となり 此処の奥の段差前に天満宮が建つ。 東側斜面下方には・削平されているのか明確ではないが平坦地らしい部分があり、其処からは逆の北方から曲輪に入ってくる虎口らしい緩やかに 斜上する通路が有るが、此れも地区内からの参道らしい道がある。 城域に天満宮等三ッもの祠が並ぶ平坦地と段差が築城・改修時のものか、祠建設時に周囲整備で手が入って造成改変されているのかは不明です。
西の古城(南郭) :境界南尾根の土橋?

天満宮の上に一段の曲輪を置いた最奥・切岸上の最高所に秋葉神社を祀る主郭が有り、主郭!東北の斜面には数段の削平地があるようだが、 堀切・土塁・竪堀等の防御設備は無さそうです。これ等・虎口や全体の形状を南郭群と関連させて考えても、天正期:明智軍の「奥丹波地方の平定」では横山城(福知山城)や黒井城・八上城攻略の臨戦的な拠点として余り改修を加えないまま 短期に使用されたものと思われています。 しかし尾根上に堀切も竪堀や土塁曲輪も無く、土橋と曲輪の削平段が数段続くだけの”南郭”に比して”北郭”には明確な土橋付堀切・竪土塁と竪堀・L字状の土塁や虎口らしい箇所等、 縄張りの違いは先に記した通りです。
三和町教育委員会の現地案内板・三和町史・丹波誌を参照)


西の古城南郭(友淵城・万燈山城)  万灯山(万燈山・城山) Ca300m  福知山市三和町友淵

友淵川左岸・県道97号線(丹南三和線 )に沿った西側を南北に延びる低丘陵上に有って、 北方に天満宮を祀る「西の古城北郭群」と、南の篠山市西紀町側境界へ急斜面を落としている「西の古城南郭群」の南北2ヶ所の郭群から成っています。西の古城北郭(上記)訪城の後・深い堀切状となった尾根上の鞍部に戻り「ケーブル埋設」の標柱を見て南への尾根を辿ります。程なくして10数m上が稜線なのに山腹を捲く分岐が有る!!。 其の稜上が点名:友淵(ウシロ山 4等265m)でTV受信施設等があるが薮の中。 捲き道の理由が判った・・?点標柱の位置も見当がつかない。
東の古城から望む西の古城(南郭:左端奥)と北郭(中央右)

つぎのピークが篠山市側との境界にある万灯山(万燈山・城山 Ca300m)山頂で、「西の山遠見の場」と呼ばれる西の古城南郭群です。 とはいえ現状は雑木と樹々の囲まれ展望は殆ど望めません。主郭には朽ちかけた標柱が立ち 「明智光秀 東のxxx(出曲輪か)?」と墨書されていた。友淵地区からみて此処は西側・山麓に拡がり細長く延びる篠山側の西紀カントリー倶楽部から見れば 東なんだけど?此処を東とする基準の城砦が私にはわかりません!?。 主郭部は薮と下草で判然とはしないが東西約12m・南北約25m程で、北部に低い段差で窪地が有る。無線中継施設があったというので其の跡地か?廃材や石類一切無いけれど!地形の改変は著しい様です。此れよりは数段続く曲輪を北西の尾根筋に載せ、県道97号線沿いの国境やR9号(山陰街道 )の要衝監視に当たる見張り所だったが、堀切や竪堀・土塁や高い切岸による防備施設は何もありません。
西の古城(南郭)万燈山山頂の主郭

細見氏?の古城を未改修のまま明智兵庫頭(日向守)光秀の 「奥丹波の攻略」で臨時に使用された友淵の諸城には、家臣の小川和泉守?が拠り「西の古城北郭群」と「東の古城」が共に、 横山城(福知山城)攻めの際には明智光秀の陣城となり、福知山城主となると周辺の動向を見張る為、 此処は篠山側の監視に当たったのでしょう。万燈山から南への境界尾根は残留ボールが目立ち、話し声も聞こえてくるゴルフ場内へ降りて行きそう。西への境界尾根はゴルフ場のグリーンを時折望みながら福知山市・篠山市と旧天田郡の三国境、 点名:遠方(3等365m)へ踏み跡もほぼ明瞭です。
(三和町史・丹波誌を参照)


東の古城   Ca170m     福知山市三和町友淵(久保地)

西の古城北郭群は山頂に天満宮が有り道標完備で、地元友淵では知られますが西の古城の南郭群や此れから向う東の古城は関心も薄い山城の様です。何れもが明智光秀の陣城として臨戦時に使用されただけなので伝承も残らないのでしょう。万灯山(万燈山)山頂には 朽ちかけた「明智光秀 東のxx」(曲輪か古城か判読出来ない)?と記された?標柱が、ポツンと藪の平坦地に立っていました。
友淵川・広戸橋から東の古城を望む

友淵地区から見て西方に位置しており、 何処から見て東の城郭なのかな?「天満宮・西の古城 」に向う案内道標の表示と反対に、友淵川へ流れ出る溝に沿って 久保地集落側に下り、 友淵川に架かる広戸橋を渡って左前方に見える民家上部の丘陵を目指します。此の尾根を北から入り込む林道が見えていたので、 猪垣フエンスを開閉して林道沿いの谷筋に入り込んでいった。
東の古城:大きな二つの窪地は廃寺・延命寺の堂宇跡地か?


しかし城域の丘陵先端部からは遠ざかるだけなので、谷に下り藪を突いて稜上に登り着いた。 かすかに踏み跡が尾根筋にあったが、ホントは此んなに無理しなくても民家の横から簡単に、直ぐ上の城域・延命寺跡に辿り着けたのですが…(^^ゞ 東の古城は小倉百人一首に和泉式部の娘・小式部内侍が「大江山 いく野の道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立 」と詠っている大江山生野道(此処より約2km程北に通じる細野峠)から点名:石佛(4等262m)を経て 三郡峠へ南北に走る三和町と瑞穂町の境界尾根の中程・点名石佛の南600m辺りから西に延び出した枝尾根が、
主郭近くの堀切

友淵川右岸に押しだしてくる突端部のCa170m峰に位置しています。城域の南は篠山市西紀町との境界に近く、東南約500m程にはクグヌギ峠を越える山道が船井郡瑞穂町大久保に通じます。 遺構は背後 :東方からの尾根を高さ約3m・幅約5m程の一本の堀切が遮断して侵入を防ぎ、堀切は其のまま北側の斜面へ竪堀となって 延びています。 低丘陵の先端部にあって比高こそ余り無いが北側の谷に落込む急斜面上の竪堀に沿って配された竪土塁が、堀切をより深くして、敵の横移動を防ぐ役割を果たして強固なものとしています。 民家背後の南斜面上部は切立つ岩場が自然の要害を呈しているようで、南側斜面へは堀切を長く延ばしていないようです。
最下段曲輪内には祭壇を設けた宝筐印塔が立つ!!


東西30m・南北18mの主郭を中心にして西に6段の曲輪を連ねていますが、虎口に特別な工夫はなく、小曲輪の一箇所から平入りで曲輪間を繋ぎ、最上部の堀切前の本郭部に入ります。 曲輪群最下段の更にに下方には、太中山延命寺跡と呼ばれる台地があって城主の居館跡ではないかと推定されています。この平坦地の中央には池の様な二つの大きな窪地が有って、同じ三和町に在る経ヶ端城の半地下状の倉庫の様でも有り、寺か館の庭園として貯水を兼ねた心字池の様でもあり ・戦中・戦後の友淵地区の遺物の様でも有り・・・?。此の寺跡で城館跡?の広い平坦地背後の高く急な20m程の斜面上から続く小さな曲輪が本郭部へと段を連ねますが、最下段の左端に石を並べ囲って祭壇を造り 小型の宝篋印塔がポツンと一基残されています。
東の古城寺跡とされる広い曲輪上の小曲輪にある宝筐印塔

領主の墓というより宗教上の祭祀の宝筐印塔なのでしょうか?。天正7年(1579)丹波攻略にあたり、塩見大膳(横山)信房の横山城(後の福知山城)のを攻めた際に、明智日向守光秀が此処「東の山上城跡」と友淵川を挟んで ”西の山の古城(北郭群)”を陣城とし”西の山の古城(南郭群)”を遠見所(見張台)として利用したものと思われます。其れ以前の古領主や城史については不詳で、丹波勢が此処で籠城等の抵抗を示した記録は無さそうです。
(三和町史を参照)


ニシンジョ城(西ノ上城)    城山 160m  福知山市三和町草山

丹波市側からはR175号線市島町役場前交差点から県道59号 (市島和知線)で戸平(こべら)峠に向う。トンネル入口に酒の仕込みに使えるほどの「奥丹波のおいしい水 」の水汲み場が有ったが、水質低下で汲み上げポンプも阪神大震災前後よりストップしたまま久しく、小公園ながら閑散として虚しい。 県境尾根の峠を越えれば普通は他府県側に入るが、
西ノ上城(民家上・手前の尾根)

ウネウネ下る小笹集落も未だ兵庫県側戸平地区。傾斜も緩やかな谷間の右手が明るく開けてくると川向かいに天満神社の鳥居を見て、少し先の左手に神社の祭礼等に使用されるものか?広い空スペースが有るので車を止せる。 R9号からは芦渕交差点を左折。右折すると川合地区の城砦群に行けますよ。 此処から目指すニシンジョ城は目前の丘陵尾根の先端部標高Ca160m(比高約50m)に位置する。
府道59号:戸平峠への街道筋を眼下に

スタート地点の草山バス停までは約250m程。丘陵裾は崖を成した天然の切岸と、水濠として崖を巻き込むように小路谷が流れる。取付き点を探して小路谷林道を辿ってみる。最初の民家の山側・崖状激急斜面を直線的に鹿猪除フエンスが敷設されているので、 フエンス沿いに登ればニシンジョ城主郭南端に直接到達出来るのですが、そうもいかず・・・林道先の谷間から斜面に取り付いて、 城跡から北西方309m峰へ延びる尾根筋の踏み跡を引き返して城を目指す。
西ノ上城(見張台か?)

急斜でも緩斜でもない変哲の無い尾根だが綺麗な平坦地形が、 この先・主郭にみる荒れた現状からは余程城郭遺構に見える・・!!?。戸平峠に向う街道沿いに停めた車や天満神社を足下に望む。 此処も遠見の尾根の見張所だったのかも?。一本の堀切が現れ城域に着いたと実感するが、小さく浅い堀切に町史説明とは随分違うとガッカリだが兎に角主郭を目指して前進。
西ノ上城(小堀切)

「有った」主郭の尾根側 (西端)に幅広い土塁(幅4mと記されるが高さも幅も現状では随分崩れている様)があり、堀底まで切岸は高さ約2mと堅固な堀切で、鞍部を遮断する形で構築されています。主郭の荒れた平坦地は雑木・下草に覆われ、 一部土砂で露呈している部分もあるが城郭規模も・遺構形状も
西ノ上城(見張台か?)

殆ど目視確認は不可能。南面から東北端まで主郭を半周する形で帯曲輪を廻しているとされるが、猛烈な藪と倒木で寸断され小曲輪か帯曲輪かさえ不明。主曲輪内を鹿猪除けフエンスが通るので、開閉部から南側に続く曲輪に入る。南東下方へは小さな数段の曲輪が附属している様子だが殆ど藪に隠れて、足下の感覚と想像だけで?察知するしか成さそうです。 この尾根上を登城ルートに敷設されているのでしょうか?。
西ノ上城(大堀切側の土塁)

此の尾根伝いに下ってもみたかったが期待薄なので、鹿猪除けフエンス沿いに西に下るつもり。帯曲輪らしい?南東端部からは幅(1.5m程)・深さ(約1m)此れが標準?クラスなのか一条の竪堀が真直ぐ落ちている。 ニシンジョ城は西上(ニシのジョウ)の意味か。福知山市教委のWeb遺跡まっぷには西ノ上城跡とあるので三和町史にある城名に追記します。 監視や防備及び広い城域が確保し易い山頂部ではなく其の尾根の先端近くに築かれる城砦は、眼下の領内・街道監視が主な任務の砦規模のものか、平山城程度の低位置にあれば山城セットの居館とも考えられそうです・・!!?。
西ノ上城主郭南(足下から浅いが長く直進する竪堀)

一本南には 丹波市春日町上三井庄から三春峠を越えて細見川沿いに下る府道109号線中出に在る殿屋敷城とは、其の立地条件が似ており、 居館というより平山城のダマ城(三和町史に云うカタカナ文字の城名は、シロカタマ城とも細見辻城とも・・)が在って、ニシンジョ城が本城なら段丘上の久法寺付近に、ダマ城の様な居館が在ったと思えそうな感じがするが、 遺跡の分散地としても報告は無さそうです。
西ノ上城(荒れた主郭下部の帯曲輪)

城主等城史は不明ですが室町時代の在地郷士の城ですが、篠山市本郷に草山城を築き、八上城主波多野氏配下にあって、明智光秀丹波攻めでは鼓峠に敗走する明智軍を追って活躍した細見氏は細見谷が本拠。 尾根一つ隔てた戸平峠越えの街道も細見氏一族の持城だった可能性は高いと思う。戸平峠や細見谷から越える三春峠は三郡(氷上・何鹿・天田)を領した赤井氏の本拠・心臓部の黒井城に迫る主要監視警備の重要街道筋。 京都側を護る赤井氏傘下の臣として土豪:細見氏や、川合:日代城に西山氏等が居たのかも!!。
(三和町史を参照)


ダマ城と殿屋敷城
ダマ城(細見辻城・シロカタマ城・長谷城!?)  xxx160m  福知山市三和町辻・中出

三和町史にはダマ城・福知山市情報ではシロカタマ、天田郡志の辻にはイロカタマ?城主に細見長助・・子孫無し・・とある。細見谷一帯を拠点とした細見氏の諸城に細見の名を冠するのは煩雑と思われるが、 字から辻城を充てるとダマ城も細見川を隔てた北対岸の殿屋敷城・2km程下流の辻野左衛門屋敷も全て細見辻城となってしまう!!?。ニシンジョ城(西ノ上城)へは丹波市市島町から県道59号線で戸平峠を越えたが、 一つ南を走る県道709号線で春日町から三春峠を越えると細見谷を下りダマ城・殿屋敷城・辻野左衛門屋敷側を通ってR9号線に出る。福知山藩五代藩主稲葉淡路守紀通
ダマ城主郭に城主:細見丹波守正元?の社と東に段曲輪!?

【春日局の甥:摂津中島藩から寛永元年(1624)福知山に移封。悪政を敷き ・城を無断で改修したらしく?領民から”謀反の疑いがある”と幕府に訴訟され、幕府が諸藩に追討を命じたが、直前の慶安元年(1648)鉄砲自殺し稲葉家は改易されている】の菩提寺顕龍山興雲寺(臨済宗妙心寺派)を過ぎ、 中出集落の梅田神社バス停からは、細見川を挟む対岸に梅田神社の鳥居が見える。鳥居前を直進して集落の坂道を上り左奥の段丘を目指せば、丘陵部東端部の民家上部へ、平入虎口状の窪地を5〜6m斜上するとの広い台地(東西約20〜25m ・南北に約55〜60m程)に主郭を置くダマ城に着く。
ダマ城遠望

天田郡志の殿屋敷城の解説に”麓の殿屋敷は畑地となっていて区画を特定することは難しい。屋敷地の山根には小型の五輪塔や石仏が数基祀られる。 天正年間・細見山城守の城とされ「詰の城」と「根小屋」の関係が確認出来る貴重な例・・・”とある。 丹波黒井城攻めの天正4年(1576)栗柄峠〜鼓峠へと敗走する明智勢を追撃した、八上城波多野氏方の草山城主細見将監等細見一族として 参戦していたものか?。山城守家信は管領細川氏の内乱に享禄4年(1531)高國方に付き、細川晴元・三好一党との天王寺合戦に敗死しています。 家臣が遺品を持ち帰った長谷城(細見谷はもと長谷村と呼ばれ、谷入口部に小見山城が在るが此処は天正期辻野氏の城で細見氏が落とし、後:辻野氏が奪還したという合戦場を伝えるので除外?)はダマ城 (細見辻城)の古城名と推察します。
ダマ城主郭:西面切岸下の帯曲輪!?に建つ民家

梅田神社を祀るところからは ・藤原氏の壮大な荘園が在ったと推察され、其の荘官:細見氏が戦国期に一帯を領有し、細見谷を本拠に勢力を張り、 応仁の乱以後の戦乱期には管領丹波守護細川氏の麾下にあって、丹波守護代:八木城の内藤氏や、台頭してきた守護代クラスの多紀郡八上城主:波多野氏、氷上郡黒井城主:赤井氏勢力下に入ったものか?。
ダマ城主郭の城主を祀る祠と帯曲輪の北面

永禄11年(1568)9月:室町幕府最後:第15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛する織田信長には波多野氏・赤井氏も服従し 領地を安堵されるが、但馬山名氏の領内侵攻に対し押し戻し・反対に但馬へ反撃に転じた赤井氏に、山名氏が信長へ援軍要請したのに始まり、波多野氏も婚姻関係ある三木別所氏に呼応する形で、黒井城攻め信長に離反する。 多くの京都丹波・兵庫丹波の領主も、信長と足利義昭の対立には義昭に付くが、 天下布武「丹波攻略」の織田方大軍を前に落城していきます。細見谷の合戦には小見山城に城主:辻野氏と細見氏の戦闘が唯一伝わるだけの様で、 奥丹波黒井城攻めに進軍した戸平峠越え街道筋のニシンジョ城、三春峠を三尾城麓へ通じる細見谷の辻城等に 抵抗の跡も無く?兵火にも遭っていない?。 もっとも天正4年の侵攻までの細見氏一族は、波多野氏の臣として織田方にあったと思われ、翌年最後の攻防では殆どの領主は織田方に降りていた筈。
殿屋敷城:主郭尾根側に唯一の堀切

居館というより丘城のダマ城(細見辻城)主郭に立つと、細見川を隔て北方の丘陵に殿屋敷城を望み、先日訪れた播磨 供御の構と瀬加山城とのよく似た位置と規模の関連に、居館と殿屋敷城を「詰め城」としたセットの遺構と推定され、京都丹波でも貴重な存在と思えます。主郭北東角に小祠が有り、 城主細見丹波守正元?を祀る社とされる。官位は山城守や丹後守・・と変わっていても、 市史や知り得る細見家系図には見られない。 直系ではなく細見氏庶流か?。正⇒政?かも知れない!!。 元⇒光の見誤りかも知れない。天正期の山城守ではなく・幕末頃まで墓があったという細見長助のものでもなさそう。五代続いた長谷城(細見辻城・ダマ城?)主には見当たらない!!?。
殿屋敷城唯一の堀切と主郭側低土塁跡?

標柱の四隅や祠内の板札を調べるべきだったかも!!。主郭に入る西面虎口から北〜東へと 2m程の切岸を廻す広い帯曲輪を廻し、さらに一段越曲輪を備える。主郭から尾根側へは僅かな(30〜70cm程か?)段差で3〜4区画を別ける?、山際の台地が櫓台かも?。此処から尾根筋を山に入って直ぐ地神を祀るものか荒れた小祠が有り、 傾斜も加わる山道が延びる。山際から尾根筋へと堀状も・土塁等による何の防備も無いが、丘陵部が粗水平に南西隣の民家へ通じ、その間は深い谷状に隔てられ、垂直に近い切岸状に囲まれた民家はダマ城の副郭部ではないかと、 梅田神社から上り始め正面に此の最奥民家周辺の佇まいを見て想像してみた。
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殿屋敷城(中出城・中手城)   xxx  Ca180m 福知山市三和町中出殿屋敷

細見川を隔てて城館・丘城のダマ城(細見辻城)と殿屋敷城は、 天正年間・細見山城守の城とされ北方の丘陵上 ・比高約130mの殿屋敷城を「詰め城」とした、根小屋(居館)とセットの遺構を残す京都丹波でも貴重な存在です。 誌史に・樋口対馬守の墓が有る・・?と云い、元は樋口氏の城だったのでしょう?。 長谷に細見氏が入り細見谷となるが谷入口付近の小見山城主辻野氏と同様・樋口氏も細見氏に追われたものか?、
殿屋敷城主郭:堀切側の切岸

川合を本拠の樋口氏が 此処に出っ張っていたものか?。 梅田神社に戻り、細見川を渡る。府道708号に出ると西方に墓地に向う車道があり、「はば地蔵尊・ニの谷中出区グランド」の案内表示がある道は墓地に行き当る。グラウンドはゲートボール場の事か?。 「はば地蔵尊」がどこのあるのか案内表示は無いが、直ぐに小祠があり内部に一体の地蔵尊がある。しかし左手を横にあげて指呼する石仏道標だが …何処へ向うのか?府道拡張工事等で放置するわけにもいかず此処に移設されたものか?
殿屋敷城「半僧坊?」曲輪跡の祠

途中・城跡へ詰め上がって行けそうな踏み跡もあったが集合墓地に入ると急坂に2〜4戸毎程に区画された段墓が並ぶが中澤姓が多い。 多紀郡(篠山市)大山城主:中澤氏は八上城主波多野氏家臣で七頭の一人とされ、黒井城主赤井氏の軍師でもあったという。能勢や口丹波に流れ、明智方に帰順した一族の多いなか、波多野氏に付いて奥丹波に残り、 細見氏等と行動した一族もいたのでしょうか?。
殿屋敷城主郭:堀切側の切岸

雑木藪を抜けると尾根上は歩きやすくなり、 直ぐに尾根上の平坦地形の先に浅くなった堀切を見て、砦クラスの小規模な城域に入る。主郭側の僅かな土塁跡の盛り上がりが、堀切側に切岸を落として見える。楕円状の主郭をダマ城同様の低い段差(30cm程)が、曲輪を分ける単郭の城域を抜けて 集落へ下る中程の削平段に祠が建つ。「半僧坊」と呼ばれる処か!?。背後の尾根に続く程い山道は土塁沿いの通路だったのかも?。参道を途中で下草に埋もれて薄くなり、獣道状に踏み跡を追って鹿猪除けフエンスに突き当る。 開閉扉を抜け民家側の細い通路を地道に出た。集落内の低い城跡ほど登城口探しの難しさ?を痛感する多くの例が此処にもありました。
(天田郡志 三和町史を参照)


梅田神社     福知山市三和町中出
多紀郡(篠山市) 本郷の春日神社に奉納される「春日おどり」を見に訪れた際、現地の由緒案内に”昔は梅ノ宮と号し・中古以来梅田春日と称して、祭神に紀貫之が祀られる春日神社(梅田春日神社)は、 多紀郡草山城主:細見将監が、細見氏の先祖紀忠通を祀る天田郡(福知山市)三和町中出(細見谷 )の此処梅田神社 (中出・辻等の産土神)より、仁安元年(1166)草山地区の本郷に遷して勧請し祀ったという。紀貫之で百人一首 :小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければ・・」を思い出したが、歌に詠まれた 細野峠は荻原の生野の里が此の舞台で、 細見谷の中出・辻からは然程も遠くない。多紀郡から天田郡にかけて祀られる春日梅田神社(春日神社・
梅田神社(三和町中出)

梅田神社及び二社の合祀)の殆どは主祭神を藤原氏の祖天児屋根命(あめのこやねのみこと)としており、藤原氏の庄園が在ったと推察され、其の荘官:細見氏が戦国期に一帯を領有し、中出・辻を主として 細見谷を本拠に菟原・草山・藤坂・小原荘内に勢力を張っていたのでしょう。紀氏の祖:孝元天皇第二皇子彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)、事代主命(紀貫之)を祭神に祀られるが、多紀郡本郷の細見将監が勧進した春日社に 藤原氏の祖天児屋根命の祭神名が無い?。中出・辻の梅田神社は社殿(覆屋)内には、梅田神社本殿・摂社に春日神社本殿と西宮神社本殿が祀られ、江戸時代の貞享5年(1688)再建されたもので、 三社とも京都府登録文化財(昭和61年4月15日)となっています。
(天田郡志 資料編を参照)


小見山城(辻野左衛門屋敷)  小見山は291m 屋敷Ca120m  福知山市三和町辻小見山

丹波市春日町か ら篠山市境の栗柄峠に向う県道69号線から 上三井庄に入る県道709号線で三春峠を越えると塩見谷を通ってR9号線に至る。 細見谷一帯を拠点とした細見氏の諸城が細見谷の中程 ・中出〜辻集落にかけて古城跡が点在するが、これらに細見の名を冠するのは正鵠を欠き・煩雑差が増すだけと思われるのですが、
小見山城:尾根北先端部・谷入口の切岸

字から辻城を充てゝ先に訪城のダマ城・細見川を隔てた北対岸の 殿屋敷城・2km程下流の辻野左衛門屋敷が細見辻城としてなってしまい、志史に混迷を覚え、通称・別名で切り分ける要が有りそうです。菟原や草山の藤原氏庄園の荘官:細見氏が戦国期に一帯を領有し、長谷に入って細見谷となったので、長谷城の名も所在や城史が明確でないと同様!!。殿屋敷城の元城主は樋口対馬守(川合地区を本拠の樋口氏か?)らしく、 此処:長谷(細見谷)入口近くの小見山城も辻野左衛門屋敷と呼ばれる辻野氏の城。
小,見山城:堀状に深い谷筋に4段程の段曲輪・上方の尾根に堀切有

旧三和町内で唯一「丹波志」にも残る合戦場で、其の年代は疑問ですが、城主辻野左衛門が拠っていたが細見xx将監xx(官位の将監は継がれているものか?此れだけでは不明、 草山城の細見左近将監信光はよく知られる存在ですが・・!!)に攻略され、将監の持城となったが後に左衛門が将監と戦い城を奪還したとされています。細見氏の勢力からして辻野氏には樋口氏等の助力 ・援護があったのかも?。なを居館跡に塩見丹後守正元の社が建てられていたという。ダマ城には玉垣と石標が未だ新しく思える城主塩見丹波守正元の碑と 祠が有ったが、此処に在った物が移されたものか?。官位が丹後守から丹波守に代わっている様に思われるが…?。
小見山城:浅くなった堀切を辛うじて倒木で表示!!

小見山城(辻野左衛門屋敷)は府道59号線「中ヶ市」バス停から田園地帯に下り、細見川を渡った向かいの丘陵沿い。小見山291mから北の細見川へ延び出す尾根端 Ca180m程の丸いピークが、合戦の伝承が残る小見山城の様相で、福知山市の遺跡分布図も此の一帯を示してはいますが、細い尾根筋に頂部を確認していません。バス停「中ヶ市」の名からは街道筋に市が立ったとするよりは、 居館跡を示す中垣内の転訛なのかも…?。詰城との関連なら居館はバス停からは正面の低丘陵先端部のCa120m付近・林道ゲートと鹿猪除け兼用 ?の入口を入って直ぐ、左手の谷を隔てて急斜面の尾根が北に突き出している。尾根上は平坦地形が長く続く様だ。
小,見山城一本東:空掘状先にも平坦な枝尾根が・・

谷筋も深く落ち込み右前方の丘陵に向って4段ばかりの削平段・谷筋は自然の空掘りか?。斜面の削平段をこなして、尾根上の埋まりかけた浅い堀切側に着く。北先端部に向かう緩やかな平坦地は、 1,5m程の段差でさらに末広がり状に左右(東西)に広がる。曲輪は一番高低差のある1.5m程の段で分ける二郭で構成されているようです。 浅く空掘とするには広過ぎる谷状を挟んで、東側にも幅狭いが緩傾斜の平坦尾根がある。 此の尾根末端部には倒れた墓石が一基残されていた。
小見山城:主郭東の平坦尾根の北先端部に祀られていた墓碑

江戸時代中期:延享元年(1744)桂峯禅定尼とある。細見谷にある細見氏菩提寺の顕龍山興雲寺は臨済宗なので、 ”禅”と尼の戒名には城主細見氏の後裔で、夫並びに先祖の菩提を弔う為仏門に入った奥方の姿が想像される。山側へは主郭部からの尾根を併せて堀底状の長いが延びる。材木の切出し運搬用の木ずらし・木馬(木橇)でも無さそう?ですが、小見山山頂291mへ向うので途中で止め引き帰した。同じ向うなら西方の尾根先だ。行きそびれたが、山麓西は奥ヶ市集落で此れも「奥垣内」の転訛なら、 小見山城を居館の山城跡の可能性は有りますね・・?。
小,見山城:主郭尾根と東尾根部を併せて延びる堀底道状の山道・・右手は土塁?

さらに此の山域・小見山の東尾根に三角点峰:丸山 283mから北へ下る尾根筋に数段の削平地があるという。戦国期の山城遺構なら細見谷の入口R9号線(山陰道の要衝)と領内の菟原までは眺望出来そうで、眼下に監視出来る。 細見氏の見張りの砦としては要所の位置にあたるが、城砦遺構として明確でないのか?福知山市の遺跡分布図等に記載は無く、不明点は多いが機会があれば確認するところがまた出来たようだ!!。


鎌谷城(妙見山城)と鎌谷南城
鎌谷城(妙見城)  妙見山 280m  船井郡京丹波町(旧瑞穂町)鎌谷中

篠山市街地からの県道97号線は、丹波市春日町からの県道69号線と合流する谷中分水界の栗柄峠から、もう一つの分水界:鼓峠を越えて本郷・草山温泉へ降りてきます。明智光秀が氷上郡(丹波市)黒井城を攻めていた天正4年 (1576)1月:明智方として参戦していた多紀郡(篠山市)八上城波多野氏の違背により総退却・
鎌谷南城から望む妙見山(鎌谷城)

命辛々敗走する光秀等を待ち受け・追撃する波多野氏方との間で合戦があり、 鼓峠には旧天田郡(福知山市)三和町細見谷を本拠として、旧西紀町本郷に城を築き、草山・藤坂に覇勢を誇っていた細見氏一族が波多野氏方として奮戦しています。 細見氏の本郷城を初め北方の細見辻城とう上記:
妙見宮を祀る鎌谷城主郭の切岸

三和町に細見氏諸城を廻りましたが、 草山温泉から東に府県境を越え県道711号で船井郡瑞穂町(京丹波町)へ抜けた鎌谷にも細見氏一族の城が在りました。鼓峠を本郷へ下ってきた光秀等は 草山から府県境:遠方を越えて鎌谷を抜け、R9号線水原へ出たか、鎌谷中から兜山北か南山裾を井尻か八田を経てR9号(山陰道)を園部・亀岡へ帰還したものか!?。
鎌谷城:南面虎口から主郭切岸

鎌谷は本郷城:細見左近将監信光・宗信の支配下に有り、鎌谷城主には室町中期:長禄年中頃迄は年代順不明ながら!!細見出雲守貞光・伊豆守頼春等一族が居た様です。本郷から藤坂への篠山市側は無論・遠路北の友渕へ出ても、此処鎌谷から 坂井・井尻・和田または八田・橋爪に出ても、いずれも波多野氏配下の諸将が拠る城砦が、退路を遮断して待ち伏せしていたか、一族全て 本郷城(草山城)等に終結して此処は留守状態だったか?、
虎口から虎口受曲輪を鳥居曲輪・主郭に入る!!。左へは堀切側の西曲輪へ

ひょっとして一族の生き残りを懸けた密約!!が有ったか…此の敗走路を教訓に? 栗柄砦(赤井幸家の三尾城の出城ともされていますが、黒井城攻めの陣城の可能性が高い)や友渕に福知山・横山城攻めと 篠山側を見据えての陣城を築いたものか?。此処鎌谷中からR9号の井尻や北八田へ、
鎌谷城:西曲輪と堀切側の土塁

北と南にルートを分ける兜山には光秀が「丹波攻め」侵攻にあたって、此の山頂の岩に兜を置いて作戦を練ったという伝承もある。 さて鎌谷城・鎌谷南城は鎌谷中にあってバス停北側に・集落に突き出してくる急斜な丘陵部上に鎌谷城が在り、 頂部に妙見宮が祀られており、民家奥の山裾から急斜な参道が妙見堂まで続き、
鎌谷城:西尾根を遮断する堀切

711号線からも大きく盛上がる独立丘陵は目立つ。車道を挟んで南側には、 南から延びだしてくる丘陵先端部が、711号線と地区道・弓谷の出会に落ち込むところ。 丘陵先端部の尾根上に曲輪を並べる鎌谷南城が在りました。弓谷道を詰め上がれば篠山市側の弓谷峠、峠近くに藤坂城 (二つの縄張りは白藤城と藤坂城に分けて光秀に城と後:光秀に従った中馬氏の城)が在ります。
鎌谷南城:南方から下る尾根に先ず現れる大堀切

鎌谷城・鎌谷南城ともに城史・詳細は不明ですが細見河内守の居城で、細見氏本拠地!細見辻城主(三和町)を兼ねていたとも云われ、ダマ城にも記した:細川高國に従って享禄4年(1531)尼崎の大敗「大物くずれ」に陣没した山城守家信 (細見氏嫡流の系図には見当たらないようですが!!?)の事なのかも?。此処は旧瑞穂町の城ですが 細見氏の城として、此処に紹介しておきます。
鎌谷南城の堀切

塀囲いの民家と東屋風屋根付き休憩所の様な小場スペースの間から 直進する突き当りから、自然の切岸に刻まれた九十九折れの妙見宮への急斜な参道が、鳥居の有る虎口曲輪に通じ、南下方曲輪から西に廻りこむように 虎口受け曲輪から鳥居のある正面曲輪と、尾根に続く西の曲輪へ通じる通路がある。 正面鳥居曲輪から東を北へと廻り込む曲輪幅12X長さ40m近く大きい。北面を除き主郭を取巻く3〜4の曲輪は高さ3〜5mながら
鎌谷南城:主曲輪の高い切岸と二ノ曲輪

直立する切岸で防備する。鳥居正面の5m程の切岸に付けられた石段を駆け上れば主曲緩衝帯の様な何も無い平穏な?尾根が先のピークへ延びていく。輪(25X15m程)でほぼ中央に妙見堂が建つ。主郭から尾根側西の曲輪先端は土塁が残り、
鎌谷南城:主曲輪と堀切側土塁


堀切からは途中・尾根幅いっぱいに円形ドーム状に隆起する古墳の様な丘は有るが、 館城の様な鎌谷城ですが、本郷・草山からR9号線水原へ通じる、領内の間道監視の城なら・さらに高みの尾根に城遺構が在るとも思えず南側に呼応する鎌谷南城に向う。
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鎌谷南城    Ca170m       船井郡京丹波町鎌谷中西又

鎌谷城とは府道711号を挟んで南側・弓谷林道と合流する地点。 車道幅が特に広い駐車スペースが有って助かるが、グラウンド・公民館側の角に石碑が立ち、鎌谷城に建つ妙見宮か近くの春日神社例祭「お旅所」となる地点らしい!!。 もう一ヶ所・兜山へ入る東又のお宮さん近くにも古い測量地図に城跡マークが有るらしい!!が所在・城名等詳細は不明。弓谷出合に鎌谷南城があり、 弓谷を詰めれば弓谷峠は篠山市側藤坂にあり、
鎌谷南城:二ノ曲輪から主郭の切岸

光秀の陣城と云われ・また中馬氏の城とされる二つの城(藤坂城と白藤城)が在る。 兜山の伝承からも山陰道に出る東又に光秀関連の陣城や、 丹波勢の砦が在ったのかも知れない?。鎌谷南城は南方から延び出す丘陵尾根先に在って、 先端部は崖状で民家側に落ちる。直接舗装道を丘陵裾に向ったが民家の庭で行き止まり。
鎌谷南城:主曲輪から二ノ曲輪

少し手前から右手へフエンスを開閉して、藪中の溜池?を廻り込めば、目の前の城域北末端部の小さな段曲輪に着くが、此処ばかりは降りてきて・なんとか取付きが判るだけ!。グラウンド・公民館から弓谷道へ直進して集落先の墓地から…と思った。尾根の起伏の様子から・もう少し南へ進んで谷筋の踏み跡を辿って尾根に出たが、南へはだらだらと平坦地形の尾根が延びるだけ。 北への尾根筋は急斜面を下ると直ぐ大堀切を見る。
鎌谷南城:主曲輪から二ノ曲輪

尾根側を掘り切って城域を確保する手法は同じだが、鎌谷城は単郭・鎌谷南城は尾根上の斜面に沿って曲輪を並べる梯郭式の城です。深いというより高く急斜な切岸に大土塁を積む主郭から北へ、二ノ曲輪の高く直立する切岸(約7〜8m)下には広い三ノ曲輪を連ね、 北尾根末端部に数段の小曲輪を民家上にまで並べる。

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