篠山市 ・      春日神社秋の大祭・ひおき軒先ミュージアム

T 春日神社大祭
U 手造りのコミュニテイ・イベント 日置の軒先ミュ-ジアム
V 伝統と伝承を受け継ぐ本郷春日踊り
  能楽殿絵馬堂の黒神馬/大森彦七
河原町に入る剣鋒山(呉服町)

T春日神社 秋の大祭     篠山市黒岡二階町

篠山市黒岡の春日神社は平安時代初期の貞観18年 (876)日置荘を領有していた藤原基経(もとつね)と時平父子が藤原氏の氏神である奈良・春日大社よりご分霊を迎え、 篠山と呼ばれていた黒岡村南部の小山(現・篠山城)に勧請し、氏神として祀られていたが慶長14年(1609)篠山城築城の際に現在の地に遷されたといいます。能楽殿と其処で演じられる春日能・絵馬堂と共に 有名な秋の祭礼(10月第三土・日)には 市内を4基の神輿や山鉾の華麗な巡行が行われます。
神事を終えて…練り込みを待つ

京都八坂の祇園祭を模したといわれる”丹波の祇園さん”の山鉾は上河原・下河原・岡・二階町の上立・下立・上西・黒岡 ・二階町等各町内に受継がれた九台の”鉾山”は、高さ約 5m・長さ6m・屋根までの高さは京都祇園祭・山鉾の約3分の2程ですが、其の形や宵宮・本宮での華麗な飾り付け、笛や鐘のお囃子等良く似ており、都に近い丹波の小京都の祇園祭に強い影響を受けているのがわかります。
春日神社の4祭神の神輿

只今残る9基の山鉾の屋根に取り付ける鳳凰・孔雀・蘇鉄・猩猩等の象徴の飾りは明治末期に 電灯線が巡行コースを横切って設置された為、鉾に取付けての巡行が出来なくなり今では各町内に飾付けられていますので華麗・荘厳差が少し失なわれますが、反面・市指定文化財を真近に見る事ができます。 4基の神輿は春日神社の4祭神のもので武甕槌命(たけみかつちのみこと)・経津主命 (ふつぬしのみこと)は共に天照大神の命をうけ出雲国に下り大国主命を説得して、天照大神の孫の瓊々杵尊(ににぎのみこと)に国を譲らせた神という。天児屋根命(あまのこやねのみこと)は瓊々杵尊に従って、
猿田彦神の先導に、太鼓や獅子・各町の旗・稚児・神輿が各町に練り出る

我が国に下られた神で中臣・藤原氏の始祖と言われています。姫大神(ひめのおおかみ)は天照大神であるともされます。神輿は元禄7年(1694)と安永8年(1779)に其々に寄進奉納されたものです。 山鉾(山車!)の原形は1661年(万治4・寛文元年 )の祭に登場し鉾山が初めて作られたのは寛文3年(1663)の三笠山(上河原町)といわれ、 当初の”曳山”を現在の形に再建されています。 初期の鉾山は小形で簡素なものだったが江戸時代中期には現在みる規模と華麗なものとなっています。9基の鉾山・各名称は中国の故事や 日本古来の文化伝統に根ざした由来があります。
蘇鉄山の見送り:歴史美術館前にて

三笠山 (上河原町):春日大社の神域である三笠山で笠を三つ重ねた上に「三日月」を組み合わせ、中水引は紅葉に鹿が配されており”見送り【見返し(後屏)】”は須佐之男命(素盞鳴尊:すさのおのみこと)の大蛇(おろち)退治の 図柄。鳳凰山(下河原町):想像上の瑞鳥は平和の象徴とされ雄を鳳・雌を凰といいます。天水引は桐と鳳凰・中水引は 桐・”見送り”は鳳凰の図柄。孔雀山(上立町):孔雀を神格化た孔雀明王は一切の諸毒を除くとされています。
高砂の鉾倉庫横の高砂神社に祀られる翁と媼(おうな)

鉾は孔雀・”見送り”は江戸時代後期に京都西陣で作られた綴れ織の見事な作品として市の文化財に指定されてる 牡丹に雌雄の孔雀と岩の図柄・天水引は桐の紋・中水引は六歌仙を配した図。高砂山(下立町):能の演目でも知られる高砂は”相生の松(高砂市)”から夫婦の長寿を祝い、町の繁栄 ・住民の健康を願ったもの。鉾は波に太陽・天水引は金の扇地紙模様・中水引は赤地に松と波に浮かぶ白帆でしたが現在は赤の無地になっています。 ”見送り”は謡曲:高砂の【翁と媼(おうな)】の図柄です。
河原町商家群を春日神社に向かう鳳凰山

剣鉾山(呉服町):剣と鉾は武具の象徴で、疫病邪悪を払うものとされています。鉾は剣鉾・天水引は雲模様、中水引は雲に竜、胴巻は波模様でこれ等は相関連して竜が水中より昇天する様子を描いたもの。 ”見送り”は中国の三国志・劉備玄徳が火鉾をさし上げている図柄。猩々山(上二階町):猩々は想像上の動物で 謡曲にもある目出度いもの。鉾は葉菊の上に月と太陽・中水引は 赤地に波と太陽と松竹を配して ”猩々”が酒を飲んでいる図。菊・月・太陽・猩々はいずれも 長生悠久を象徴した目出度いもの。諫鼓(かんこ)山 (下二階町):諫鼓とは君主に対して直訴・告訴するときに打ち鳴らす太鼓のこと。
巡行中の”鳳凰山”

鉾は太陽に鶏。中国の故事に基づくもので、伝説の堯王は善政を施したので、天下は良く治まり 訴えを起す者がなくなり、諌鼓も不要のものとなって破れた太鼓の中に 鶏が巣を作ったという「閑古鳥」の謂れを表した”見送り”は太鼓に鶏の図、太鼓の紐には「天下和順」の刺繍がある。 蘇鉄山(魚屋町):蘇鉄は葉の形が鳳凰の尾に似ているので鳳尾蕉といい、鳳凰山同様に瑞鳥を表したもの。鉾は蘇鉄。中水引は日本三景の綴れ錦で、”見送り”は中国の三国志・張飛【剣鉾山の”見送り” 図柄となっている劉備の義弟】とも、
各山鉾の”見送り”は一見の価値あり

関羽ともいわれますが 其の馬上の勇姿で、いずれにしても劉備の臣:武の神 ・福寿の神としても崇められている。鏡山(西町):鏡はご神体の象徴であるとともに清浄・潔白を表したもの。鉾は鏡・天水引は赤地に桐と鳳凰の図・中水引は 唐子遊楽の図で、”見送り”は極楽・竜宮・唐の三界を表現した図柄です。
(山鉾解説は 丹波篠山の歳時記 イベント情報1997年の記録 を参照・抜粋)


春日神社能楽殿  篠山市黒岡二階町  国指定重要文化財 (建造物)指定

春日神社境内の本殿斜(はす)向かいに建つ能楽殿(能舞台)は能楽愛好家として知られた篠山藩第13代 藩主青山下野守忠良(ただなが)が 文久元年(1861)により寄進されたもので建設当時「箱根より西で此れほど立派な能舞台は無い」とまでいわれました。建築は稲山嘉七・永井理兵衛が担当し、 能舞台の背景の松は松岡曾右衛門の筆になり、
春日神社の能楽殿

藩主の趣向によって正統性をふまえた上で、能舞台として至れり尽くせりの設備が整えられています。柱と框が松で出来ており床は桧張り、舞台の床下には床板を踏む音響効果を高め反響させ る為の、七個の立杭焼の大甕が埋めてあります。其の反響させる為の向きや伏せ方の完全なこと等、 全国の能舞台でも屈指のものとされます。祭礼日には正面床板が外されているので覗いて見てください。
舞台床下の音響装置・・

昭和52年(1977)3月29日・県指定有形文化財となり、平成15年(2003)5月30日国の重要文化財指定となりました。この能舞台では日本で一番早い能が演じられます。 1月1日午前零時の「翁」の神事にはじまり、春季は「篠山春日能」、秋季には「丹波夜能」や狂言が奉納されています。篠山市内のもう一つのスポット・王地山公園や河原町の妻入り商家群には、丹波古陶館で古丹波や王地山焼き、 能楽資料館には能面・能衣装等が展示されています。
(現地・春日神社の案内説明板 篠山市教育委員会 参照)


U ひおき軒先ミュージアム   篠山市日置

国道372号線で高城山北山麓を抜け日置の城東公民館前交差点を 右折した南側一筋目、車道を挟んで民家・商家が建ち並ぶ通りは旧国道で、西は山陽街道・西国街道を姫路方面から園部 ・亀岡・京都へ通じるデカンショ街道 旧京街道の名残を留めています。10月体育の日前後は篠山市内はじめ各所で秋の味覚イベントが有り、此処:日置地区でも公民館では城東味まつり。
旧国道・京街道に並ぶ軒先ミュージアムの一民家

R372と並走する旧国道筋(京街道)をメインに 周辺の集落区(隣保)ごとに、数年前から「日置里づくり協議会」主催の地区内住民による手作りイベントひおき軒先ミュージアムは嘗ての街道・商店街の賑わいを取り戻せたら・・・との期待を込めて企画実践されています。 街道筋から100m程南へ続く参道を磯宮八幡神社へ向うと、境内南端の鳥居側に注連縄と石標が立つのが 日置の裸榧で知られ、世界にただ一本此処だけの珍木は国指定の天然記念物です。 9月中頃〜下旬には一斉に実を落しますが、ミュージアム散策時のポイントです。
荷車の角の日置の立石(大阪への道標)が立つ

もう一つのポイントが日置の立石。篠山は四方を山に囲まれ ・八方を峠で仕切られて江戸期の産米は殆ど多紀郡内(篠山市)で消費されていたが、 明治維新後・郊外への運搬に林道改修整備が急務となり、日置から曽地〜後川峠を越えて杉生・屏風岩を経て多田へ、更に池田 ・大阪へと古坂峠改修に着目 (現在の県道12号線)されたのが豪農:波部本次郎氏で、県や大阪府の協力を得て 幅4mの道路拡張整備され、其の苦難と歓喜の言葉を刻んだ道標「日置の立石」が通りの三叉路に立つ。
着物暖簾と玄関先の屋号が書かれた紙行灯!?

イベント会場中程?の豪農:波部本家跡があり、 更にもう一つのポイント中立舎が江戸時代中期 :石田梅岩の寺子屋跡で豪農:波部六兵衛次賢氏が建てたもので、当時の面影を今に伝える建物。此処を在所の郷土史家・中野氏に聞けば詳しい由緒が聞かれたのかも…!!。会場となるのは一般民家で、当時の面影を残す家々の軒先をコミュニティの場として、 人と人との温かい触れ合いの場にしようと始められ、
忠立舎跡の塀沿い ・溝に陶製行灯が並ぶ

箪笥に眠り使われなくなった着物を暖簾や 和布パネルに仕立て直したり、側溝の縁に丹波焼陶器の行燈を並べてライトアップしたり、唐蓑や桶・荷車等の昔の農業用具を 花飾りの棚や篭に利用したり、古壷に花を生けたり…と各家毎に趣向を凝らして、表玄関 ・軒先や塀が飾り立てられています。民家は旧商家も多かった様で、玄関口に置かれた手作りの紙行灯には各家の屋号を 書き染めてあります。
(現地:日置の立石・裸榧案内板 配布の軒先ミュ^ジアム・パンフレット等を参照)


V 本郷春日おどり   篠山市(草山地区)本郷  市指定無形民俗文化財

多紀アルプス連山の 北山麓沿いの県道97号線で鼓峠を東へ下ると篠山市最北端・京都府境の本郷・京都府側の遠方・草山温泉も程近い。 本郷春日神社からシャクナゲ寺で知られる松隣寺背後の城山が望まれるが、正面間近に丘陵台地の北東角が草山川に落ち込む断崖状、上部の平坦地形が細見氏の本郷古館が在った所と思える。西に鼓峠を春日・篠山へ、 東に藤坂峠を瑞穂町や福井・村雲へ、
神社へ向う八人の踊り子達ち

北へは 桑原から三和町へ、 草山温泉から友淵への街道の要衝交差点を望める位置に在って、草山川沿い丘陵の南東端台地も将監屋敷跡ではなかったか?。 此処から草山川に下る坂道が「血ノ坂」と呼ばれる所か?。草山地区では旧村史の原版が発見され、来春(平成22年)予定で改訂版発刊に取り組まれていますので、
春日神社へ宮入の山車

間に合えばこれ等・貞亨記の記述内容・場所の調査確認等をお願い出来れば幸いです。血ノ坂の東(川阪〜藤坂を経て R173に出る街道筋)草山地区コミュニテイセンターでは宮入への出立ち前に入念な奉納踊りの総仕上げのあと、 伊勢音頭が謳われ・踊り子は引率の青年団と手を?ぎあい神社に向い山車が続く。本郷春日神社(旧草山村の氏神)の祭礼は、草山地区(桑原・遠方・本郷・川坂)から集まる4基の山車が神社への坂道を登り宮入した後、
宮入をすませた山車の列

地元の小学生8人が境内に出された床机の上で伝統の舞「春日おどり」が奉納されます。 由緒によると昔は梅ノ宮と号し・中古以来梅田春日と称して、紀貫之が祭神に祀られる神社です。細見氏の祖:紀忠通を祀る元天田郡三和町中出 (細見谷)より仁安元年(1166)細見氏が現在地:本郷に遷して勧請し祀ったもの。紀貫之で百人一首:小式部内侍の「大江山 いく野の道の遠ければ…」を思い出したが、 歌に詠まれた細野峠は三和町菟原・本郷からは然程も遠くない。
春日神社:中井権次の龍の彫刻が遺る

天保7年(1836)社殿を焼失 ・弘化元年(1844)本殿は再建されており、本殿を飾る彫刻には丹波柏原の彫刻師中井権次 橘正貞の4代目権次清次(文政5〜明治16年<1823-1882>)の銘が残されている。
春日おどりは室町時代末期から 450年の歴史と伝統が継承されており、京文化の影響を受ける民族芸能で、県内でも類例の無い事でも注目されており、市の定無形文化財に指定されています。 小学校中高年の8人の子供たちが、白粉を塗り、紅をさし・紺地の着物を肌脱ぎした赤い長襦袢に袴を付け、 帯・手甲・赤色の前垂れ姿で、参詣の見物衆の見守るなか、拍子木と口上・太鼓に三味線 ・囃子歌に乗せて軽やかに舞い踊ります。踊り子たちは「初庭おどり」「中庭おどり」「納めおどり」の順に踊りを奉納します。 現在春日おどり保存会が組織され、祭礼前には厳しい練習を積み重ね、また三味線の譜面づくりや太鼓の打ち方等も 正確に継承を努めています。本郷春日踊りについては過去の新聞等レポートに記述を見ないが、踊り手が八名とは吉兆の「末広がり}の意味か、また八名の内・左右端に位置する二人は彰かに中六名と異なり、黒足袋を履き ・紅はささず唇には縦に一本墨を引く、踊り手に関わり無く男を意味するものか?、鉢巻は豆絞りの前締め・手甲脚絆に当る部分の緑色は亀、白足袋・白手甲脚絆は鶴!!。子宝を含む意味深なものなのかも…?此れも草山村史改定版発行に際し考証をお願いしたいところです。演じられる曲目は毎年変わる。「鯉の滝登り・豊年おどり ・兵庫くどき・四季と唄・宰相頼朝さん・江戸より京都道中・忠臣蔵」等15種が伝わり、踊りは夫々「初庭・中庭・納めおどり」に分けられていたが、現在では一種のみ奉納している。持ち物の種類によって手踊り ・御幣踊り・扇子踊りの3種類に分けられる。昨年(平成21年)は大阪などへの旅路を陽気に謳った「向由利 (むこうゆり)兵庫くどき (扇子を持って踊るのが特徴)」が披露された。今年は素手による「しそに菊らぎ」・・・!!?、手に何も持たない「手踊り」は派手さを押さえ、よそよそしさを感じる日の丸扇を持つよりは素朴で馴染む。 曲目の内容を無視すれば念仏踊り ・御蔭踊りの様にも思えたが、「しそに菊らぎ」の台詞にはTしそに菊らぎ(きくらげ?) 梨柴栗 びわ うど かんぴょ芋に芋しょろ 柿 なすび…人参えんげ豆山椒…、U尾張でんない 明石の殿よ 山の空から二ッ玉 殿行列 お通りじゃ…、V思て思はれて こがの助 ひなを取る ままにならぬが芋瀬山 見たばかりで仕方がない…延々と続く長い台詞のTからは山里の収穫・豊穣を願う、田楽の要素も所作からは窺われた…!!?起源は不詳ながら戯曲「おさん茂平衛 ・お染久松」が出てくる歌詞等からは、江戸時代中頃には題目も時代の流れの中で添加され、踊りも洗練されながら続いてきた伝統芸能と考えられます。保存会が組織され祭礼前の練習・三味線の譜面つくり・太鼓の打ち方等、 次世代への正確な伝承に努力されている。
(現地:春日神社境内案内板 等を参照)



春日神社の絵馬・黒神馬 春日神社の絵馬・大森彦七の鬼女伝説

 
春日神社・絵馬堂  篠山市黒岡二階町
春日神社の絵馬T
黒神馬絵馬

篠山城下散策の観光客で賑わう市内黒岡の通りに面した鳥居を潜って春日神社に向かう。境内の絵馬堂に掲げてある拾数枚の絵馬に此の2枚が有り、共に市の文化財指定を受けています。 黒神馬の絵馬は慶安2年(1649)篠山藩第三代藩主・松平忠国が、明石に転封の際に春日神社へ奉納したもので、江戸狩野派で 知名度こそ低いが狩野探幽にも引けをとらない弟の狩野尚信(直信?1607-50)の筆になるものといわれ、筆力雄健・精巧を極めており、この馬が絵から抜け出して黒岡の畑の豆【西紀の川北等と共に特産 ・丹波黒大豆の産地です】を食い荒らしたという伝説から、一時は此の絵馬だけには金網が張られていたと云われる名作です。
春日神社・狩野尚信の黒神馬

其のむかし・黒岡の百姓が、田の畔に作っている豆が一夜のうちに喰い荒されているのをびっくり 「こんなところまでよもや猪が来る事もなかろう」と思っていた。 ところが次の日の夜もまた荒らされていた。よく見ると畑に馬の足跡らしいものがついていたので、「ははあ、ひょっとしたら、これはあの絵馬堂の馬が絵から抜けだし、豆を食いに出てきたものかもしれない」と思い、 早速その絵馬に金網を張ったら、不思議にもそれから豆を食い荒らすことがなかったという。絵馬に金網が張られていたことは事実で、今は金網も外され、新築された絵馬堂の中、中央に掲げられている。 なを春日神社の社務所前の中庭に篠山鳳鳴の前身「篠山中年学舎開学の地」の石碑が立てられています。

昭和33年(1958)8月10日市指定文化財(篠山市教育委員会 現地案内板 参照)


春日神社の絵馬U 大森彦七・鬼女伝説の絵馬

江戸時代・貞亨4年(1687)篠山藩主松平家の臣・塀和佐内景広が奉納した「大森彦七 南朝の雄魂に悩まされる図」と題される絵馬が掲げてある。大森彦七盛長は伊予 (愛媛県伊予郡砥部荘)の豪族で千里(せり)城城主【鎌倉時代以前からの城で、元弘・建武年間(1331〜1336)頃には大森次郎佐衛門盛清・彦七盛長父子の居城、徳川時代の一国一城令で廃城となった】足利尊氏の家臣。 建武3年(延元元1336)5月・湊川の合戦には河野氏等と武家側細川卿律師定禅に付いて、宮方の将:楠木正成を敗死させた報いとして、 楠木正成・新田義貞はじめ多くの南朝諸雄の霊魂に悩まされたという。「太平記」巻第二十三では暦応5年(興国3 1342)頃の不思議の故事として描かれており、浄瑠璃や「鏡獅子・船弁慶・紅葉狩」等に並ぶ 歌舞伎十八番の演目にも有り、神社奉納の絵馬の題材ともなって良く知られるところです。
昭和33年(1958)8月10日市指定文化財 (篠山市教育委員会 現地案内板 参照)
春日神社・大森彦七”矢取川の鬼女”

湊川合戦の後 ・暦応3年(1340)には宮方の新田義貞の弟・義助により制圧されるが、側細川頼春の来援で形勢逆転。この軍功により新たに数箇所現・伊予郡松前町等を恩賞として賜り、自らも猿楽衆であった彦七は様々な装束を下人に持たせて、 砥部の居館を出て新領地に有る玉松山金蓮(こんれん)寺【真言宗智山派智積院 大同3年(808)河野氏の開創 伊予十二薬師第9番】に於いて 猿楽を演ずる為に重光に入り、 部落を流れる矢取川を渡ろうとして、その川べりに佇む一人の美女が川を渡れずに難渋しています。斯かる田舎に・か様な美女が・何れより来て何処へ行こうとしているのか?…とあやしんだが、 打ち萎れた美女の姿に惹かれ心ならずも、彦七は美女を背負って川を渡ります。ところが途中で美女が急に重くなったので不審に思い、明かりで川面に映った美女の姿を見ると、なんとそれは鬼の顔だった。 鬼は楠木正成の怨霊だといい、彦七の腰の刀を奪おうとします。彦七は鬼を退散させるが、後に足利尊氏の弟・直義に事の顛末を報告するとともに、その刀を献上したといいます。
丹波の由緒(別冊)丹波の由緒   本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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