京都・三和町川合の山城 経ヶ端城・日向城〜点名:日向・殿の奥城・タタズの城

山域 :京都丹波 福知山 (五万図=綾部)
近畿の山城 : 経ヶ端城  日向城 殿の奥城 タタズの城

渋谷神社

丹波市市島町から戸平峠(トンネル)を抜け R9号線と交差する県道59号(市島和知線)を直進して福知山市三和町(旧:天田郡の庵我・雀部・曾我井等の村が有り、川合村は六人部郷であったり綾部郷に有ったりしていますが・・)下川合を目指します。 川合川の沿って走る県道59号の岼(ゆり)バス停を過ぎると直ぐ、稲葉地区への分岐には「丹波志」には祭神に渋谷土佐坊の霊を祀るとして、 岼や上川合地区の産神とされ饒速日命(にごはやひのみこと)を祭神に祀る渋谷神社が建つ。
経ヶ端城:南の土塁から貯蔵庫兼櫓に延びる竪土塁


川合谷地区にある4ヶ所の城が、この渋谷神社をほぼ中心にした1km四方に点在しており、且つ指呼出来る位置に有ります。綾部市・瑞穂町・和知町方面の登山に幾度か通り経ヶ端城へも何度か訪れ、 向城の取付きや殿の奥城の位置は分かっていました。最後の一つタタズの城はおおよそ検討をつけていたが車中からは、川合川対岸へ渡る場所がわからず、まして伝説では築城半ばで完成を見ないまま 落城した城なので位置や縄張り遺構に期待が持てなかったが帰路の途中に探して訪城してみる事にします。


常楽寺〜日向城 (峰ャ城山)〜点名:日向〜日向城〜日向石造宝筐印塔   H18.04.29

「河合の谷」四ヶノ古城ハ皆 樋口ノ持城ナリ と「丹波志」に記される川合谷に、樋口対馬守鎌光や左近の拠った樋口氏の四城を訪ねます。先ずは川合小学校の南向かいの日後(日陰 北側の日向=ひなたに対し=ひかげ・・・)集落へと川合川を渡り経ヶ端城へ。 集落内を東へ登っていきますが、
点名:日向尾根南Ca330m登り口付近の祠跡?石垣

車道は経ヶ端城の南側山裾を谷に沿って入っていく林道ですが、平坦地形が続くので先にも集落が有るのかと・・経ヶ端城は林道入口右手丘陵上で短いが藪の急斜面です。詳細は下記「近畿の山城」の各・訪城レポートの譲ります。 日向城への取付きは川合小学校とJAとの間から北側の集落内へ斜上する細い道に入ると、石垣の畑地を見るが其の山裾に宝筐印塔が有る。 立ち寄った後、元の車道に戻って小学校北裏手のグラウンドに咲き残る桜花越しに経ヶ端城を垣間見ながら、今は無住となっている(京都府天田郡の?)第6番・常楽寺に向います。
日向城堀切

小学校北裏から常楽寺を北端に置いて、府道脇の渋谷神社へ周回してくる林道然とした車道があって、道なりに常楽寺へ向かい此処から適当に植林の中の踏み跡を拾いながら、 雑木藪を登っていくと、日向城の主郭南西端の幅狭ながらグルリと取巻く帯曲輪に直接登り着いた。主郭南西端には南下から尾根沿いに踏み跡が有って 小さな曲輪遺構が2〜3段残り、いずれにも平入り虎口らしい細い通路が上の段の曲輪に繋がっていて此処が大手道らしい?。城址に着いた実感が湧かない小ピークですが露岩の段差が切岸然としている。段差の下部を廻ると直ぐ北側に土塁 ・さらに堀切を見て、やっと確認出来た。
点名:日向(4等 404m)山頂

しかも北側からは 主郭への段差は低いながら、折れを伴った虎口が設けられている。日向城のレポートは下記「近畿の山城」に譲り、点名:日向を目指し堀切を越えて 緩やかな平坦地形が残る尾根筋を北へ向かうと谷筋に沿うように長い竪堀状が東側に延びている。鞍部を越えると周囲の様相が一変し人手が入っている様です。登り始めで急斜となる辺り尾根を少し外れたところに、 小振りの石垣積みの小場があり壇上にも石材が寄せ集められている。里から遠く・高く・参道らしいものも無かったが、 どうやら此の後、日向南側のCa330mの峰南斜面一帯に拡がる硅石の採掘に関わる人達の安全健康等・加護祈願して祀られた小社の跡の様です。兵庫丹波の 向山連山にも硅石山が有り、耐火用煉瓦の製造等に使用された様で、此処にも尾根筋を採掘で大きく削られ、左へ右へと登路を探して迂回させられますが、 斜面の所々に落とし穴の様に鉱口がパックリと開いているので要注意です。
足元に開いた鉱口からは奥底も相当深い

小屋跡らしい平地や作業跡らしい石垣積みの細長い堤防状の壇も見かけますが、採石場所は尾根に沿って相当広範囲に有るようです。やっと尾根筋の踏み跡を見つけると山頂も近くなる。 雑木は低いので明るい尾根筋も展望は余り効かないまま、平坦地形が長く続く(4〜50m)山頂部の南端にある点名:日向(4等三角点 404m)に着く。石標柱側にテーブル状の岩が有って、どういう訳か・建物様では無さそうな角ばった瓦製品?が一枚祠の様に立てて乗せて有った。途中の採石場付近でも瓦破片など見かけなかったので何なのかな・・・?不思議な置物です。 綾部市境へ向う尾根筋は高低差も少ないので楽に行けそうだ。 しかしポイントとなる境界の霊山(霊山ヶ岳)迄が遠く・帰路が長くなるので此処で引き返して、残る二つの城(殿の奥城と、名前からは遺構が有るのか無いのか想像も出来ないタタズの城 )に向う事にします。
採石場の長い石積みの壇と竪堀状の採石現場

霊山も山岳寺院跡らしいが城であったとも推察されているようですので、何時か何処かの峰への縦走計画でもして訪れてみたいものです。下降では採石場付近で尾根は合っていた様だが、東に寄り過ぎていたようで日向城へ戻れず、 尾根筋を判別できない広くて踏み跡も無い急斜面を、いつか南では無く南東寄りに降っていた。下方に公民館・JAの建物や駐車場が見えていたので其のまま下り、疎水溝だろうか・山腹を捲くように延び山道が並走している。 この山道を西に取って50m程進むと、直ぐ下方約10m程の藪の先に登り初めに寄った、石造宝筐印塔が見えるので藪を掻い潜って宝筐印塔前に出た。此の山裾を捲く側溝と並走する道は山上には向かない様なので、 日向城へは川合小学校裏から北に向う車道側に排水施設や保育所の遊戯施設が見えていたが、この付近からの稜(判り難そうだが遠目には緩やかな尾根が見えていた)に沿った大手道が通じているのかも知れません。




 経ヶ端城  日向城 殿の奥城 タタズの城


経ヶ端城  xxxx 169m   福知山市(旧天田郡)三和町上川合小字石川

樋口氏が拠った川合地区にある4つの城の筆頭は・矢張り一番目立つ経ヶ端城でしょう。三和町HPの史跡紹介には此の城だけが載っています。 縄張りの優れた!!(二重堀切や竪堀を駆使し土塁や櫓台で防備補強された)殿の奥城・虎口が顕著な日向城・伝説のタタズ城には本郭部よりも先に、尾根山側の堀切や土塁が築かれたものか?築造の段取りがユニークな城が有ります。
日後(日陰)集落から経ヶ端城を望む

此れ等の城についても 知りたいところですが記事は無さそう!です。川合川に沿って走る府道59号(市島和知線)の川合谷のほぼ中央部に有ります。川合小学校前で右折して川合川を左岸に渡った南方に立つ点標名:上川合(3等三角点 409m)から西に延びる丘陵最西端の尾根突端部 ・標高169m(比高約30m)に経ヶ端城は在り、 堀切道となる東端部の深い鞍部から盛上がる半独立丘陵を形成する頂上部一帯の幅約30m・全長約110mを城域としています。
経ヶ端城東端部・深い堀底道が城域を分ける

天正年中(1573-92)樋口対馬守鎌光が居城したとされます。城史不詳ですが樋口氏が去った空き城には 黒井城主赤井悪右ヱ門直正の臣:西山蟻之介が籠城し、下川合の地に移り福知山城の普請に行き、光秀との合戦に討死した。子孫は下川合に有ると云います。黒井城の赤井氏が勢力を駆って京都丹波地方の一部を支配した頃 ・三和町の塩見谷を領した土豪:塩見一族がいて、黒井城支城として北村城(長谷山城 )や波多野氏の八上城支城として本郷城(草山城・草山砦)に拠って兵庫丹波 ・京都丹波境の警護にあたっています。
経ヶ端城主曲輪・土壇西南角に残る石積

西山氏は赤井氏の臣で春日町出身の土豪?かとも思えますが、福知山城というより全身の横山城改修に関わった京都丹波側の土豪!とりわけ塩見氏一族に近い関係にあったのでしょう?。主曲輪の南東部に約4〜5mの段差で土壇があり、其の上部が城域の最高所となる櫓台跡でしょうか!!?。此処に此の城の大きな特徴として 12u方形の土壇が設けられていますが
中央部は馬蹄形の窪みが有ります。
経ヶ端城北側の曲輪・帯曲輪が主郭東下部を捲く

北側の主郭に建つ茅葺小屋の東側から斜面を迂回するように侵入口が設けられています。案内板には此の窪みについて利用目的は不明と云う事ですが、半地下式の倉庫として使用された可能性も有ると思われます。 古墳のマウンドを櫓台とし竪穴式石室部を利用して貯蔵倉を兼ね備えたものではなかったか!と思えます。 そう考えてみると南の堀切道から竪堀を通って、倉庫兼櫓台!の西下を抜け主曲輪に入る通路に残る石垣が古墳石室に使用されていたものか、堅固な虎口・木戸門等に利用されたものでしょうか・・?
経ヶ端城主曲輪西北部の虎口

主曲輪の北西端が僅かに張出した手前から西下部へ、 折れを伴った虎口が開き土塁付き曲輪へ降ります。北下には丁寧に削平された広い2段の曲輪があり東側に帯曲輪(?犬走り状)に延びています。川合川と府道59号線を挟んで、北北東に聳える点名:日向 (4等404m)と尾根南先に”日向城”の有る半円状の峰ャ城山、北西には”殿の奥城”が望まれます。虎口から土塁曲輪へ降り、 棘の多い雑木藪の西下にも帯曲輪が有って、一本の竪堀が疎水側溝側へ落込んでおり、側溝の数m下は日後から東に延びる林道です。
経ヶ端城・最高所に有る土壇 ・中央部が窪んでいる


府道からも主曲輪(幅約20m・長さ約25m)に建つ茅葺の小屋が矢倉然として、北の尾根先に向って高い切岸の曲輪を 3段程積んだ中世山城の趣を演出しています。茅葺小屋を建てる際・丹波焼きと思われる土器や東西に並べられた石列が確認されたと云います。山頂一帯は公園化され、田の畦道を抜けた北に登城口には縄張り図付きの案内板や簡易トイレも有り、 城南端の堀切道へ通じていますが訪れる人も少ない様で、城址としての知名度が低い事や、公園化で遺構に手を加えて改変されていない事が幸いして、旧態を良く留めているようです。
(現地案内板 三和町教育委員会を参照)


日向城(河合城)     峰ャ城山 250m    福知山市(旧天田郡)三和町上川合

府道59号:上川合地区のほぼ中央部、川合川右岸の丘の上に建つ川合小学校下を通り公民館 ・JA手前で北に斜上する細い地区道をとって最初のカーブ付近、川合小学校の東約 100m地点の民家裏の山裾に、 数段の石積みされた畑地や休耕地があり、数段の平坦地がある。藪の急斜面となる山際上部には石積みの壇が有り、集められた五輪塔の残欠に囲まれるようにして上川合日向石造宝篋印塔が一基祀られており 簡単な説明板が建てられています。
経ヶ端城北の土塁から日向城を望む

梵字で金剛界四仏なのか!胎蔵界四方仏なのか?・・種子の一つアク(不空成就)が刻まれた、高さ約 110cmの花崗岩製で室町時代後期の築造と推定されており、 三和町指定(平成6年11月8日)文化財です。”日向”の名からは「丹波攻め」の際の明智日向守光秀の名が思い起こされる。光秀に関係する城かと詮索してみたが 名前からは関係は無さそうです。
上川合日向石造宝筐印塔


三和町友淵の”西の古城”が明智光秀が篠山方面の警護の為に建てた城ともされているのですが、日向は”ひゅうが”ではなく 日当たりの良い”ひなた”の意味でした。「丹波志」にも日向と云う処の山上に樋口氏の出城が有り、山裾に”上ッホ子・下ッホ子”の屋敷跡が有り、此処に土民家居すれば祟りが有ると云い、いま堀の内と云う・・・と記されます。 天正年中(1573-92)樋口次郎光盛(経ヶ端城主對馬守鎌光の弟か?)が拠っていたと思われますが、旧天田郡を勢力下に治めていた 黒井城主赤井悪右ヱ門直正の臣:西山蟻之介の居城となった様です?。其の後・西山氏は樋口氏が去った経ヶ端城へ移ったものでしょう・・!。土居や堀が有った場所としての川合小学校敷地や田畑部は基盤整備で消滅しているが、根小屋(居館)跡地として五輪塔の残欠や宝筐印塔が祀られる一角は、 宝筐印塔管理者・上川合区日向垣内の地名からも 堀の内と共に領主の居館跡の名残を感じます。
日向城南端部:主曲輪の切岸と帯曲輪

山城と其の麓に城主の居館が在ったシュチュエーションは揃っています。 ”日向城”への取付きは川合小学校の北裏手から無住の常楽寺を経て、渋谷神社へ周回してくる車道があり、道なりに常楽寺へ向かい此処から適当に植林の中の踏み跡伝いに向った。 日向城からの降りには南への尾根筋(踏み跡も無し!)を採り、 宝筐印塔の直ぐ上に山裾を捲く側溝と並走する山道に降り立った。 ・・・という事で山麓にある石垣積の急斜な段々畑といい、街道を見下ろす宝筐印塔の建つ位置は、詰め城がセットとなった日向城があったと推察できます。
日向城北端部:曲輪正面の土塁先は堀切


川合小学校の東北部・居館跡と推察出来る”日向宝筐印塔”の有る背後には、峰ャ城山と云い詰めの山城”日向城”がセットとして存在します。 点名:日向(4等三角点 404m)から南へ延び出した尾根末端部の峰頂部にあって、天正年中(1573-92)樋口氏の出城といわれる日向城ですが、城域の総延長は約30mと小規模で、長方形単郭の主曲輪(長さ約9.5m・幅約6.5m)をグルリと 幅狭の帯曲輪が取巻いているだけの感じですが、南西部の三段程の小曲輪には平入の虎口を設け、堀切と土塁曲輪のある北側にも、切岸は低いが折れを伴った虎口があって主曲輪に入ります。尾根に続く北端には鞍部を堀切って遮断し、 1m弱の土塁で城域が区切られています。主曲輪の南端部の切岸(約2m)は露岩が取込まれて防備を強固にしているようです。
(三和町史を参照)


殿の奥城(岼城)   堂アイナ山(堂ヶ市山) Ca200m   福知山市(旧天田郡)三和町岼

府道59号線(市島和知線)岼(ゆり)バス停から 北に向う地区内の車道の脇に岼共同集荷所が有り、数本の鳥居の先に小さな祠が見えます。 祠へは寄らなかったが愛宕神社の様です。此の集荷所・愛宕社背後の丘陵には果樹園(栗林)が拡がり、其の裾を狭い車道が墓地から「岼浄水場」へと通じています。
集荷場から「殿の奥城」遠望

以前・此処へ来た時も低い丘陵の尾根筋へは、 栗林を直上すれば簡単に殿の奥城へ到達出来ると思っていたのですが、どうも此の城山を訪れるのは一寸難しいかも知れません・・・ (^_-)-☆栗林を所有の地主さんは阪神間の方で、 殆ど地元(民家有り)には帰って来られておられない様ですが、城域となる尾根付近も・他に二人の所有者が境を隣接して持ち山にしておられます。
曲輪(左上)を挟む二重堀切は竪堀となって鞍部左右に落ちる

最初のうち山を買うのかと思われた様だが ・・(^_-)-☆所有者の一人に訪城の旨を伝えて承諾を得、栗林と境界を接する鹿猪避けフエンス沿いに藪道を分けて進むと、栗林上部付近に愛宕社の祠が有った。壊れた古い祠らしいものも側に有ったが、 此の祠も久しく訪れる人はいない様子です? どうやら此の山地の愛宕社が先程・集荷所の裏の小社に移されたものと思えますが、 愛宕社は火臥せの神・岼(殿の奥城)城主で天正年中(1573-92)頃には樋口加賀守が拠ったと云われ、城の守護神として祀られていたものが以後も城主の縁故関係者の手で祀ってこられたものと考えます。 其の小さな祠から藪を抜けると車道かと思えるほど広い未舗装の道が有ったが、カーブを一つ曲がると其の先に”配水所”が建っている。
主郭の切岸


下方集落から墓地前 を川合簡易水道”岼浄水場”前に細い車道が通り、此処から栗林の中を抜け猪鹿避けフエンスを越え、 其処から急に広い排水所までの巡視路が延びています。以前・道こそ判らなかったが、このルートで訪城出来れば良いなと思っていたところでした。山城域の所有者が阪神間と遠所に居住されているので、 植林や開発の為の整地等・手を余り加えられていない様ですので、雑木藪の中にあって遺構確認し辛いのですが、川合谷の4っの樋口氏の城【殿の奥城・経ヶ端城・日向城・タタズの城】の中では最も洗練された縄張りを持ち、要所要所に構築されて防御を固めている幾本もの、二重・三重の堀切や竪堀等で防御を固め、櫓台らしい曲輪内の高みの遺構状況を、 画像での紹介では判り難いのですが、全体的には比較的良好に残されている事はさいわいです。
曲輪(左上)を挟む二重堀切は竪堀となって鞍部左右に落ちる

城域は全長約174m・主郭部分は約60m程で西方の尾根端には二重堀切で挟まれた曲輪があり、二本の堀切は左右の谷に向って竪堀となっています。 主郭部の南北両端付近にも竪堀を多用して防備を堅固にしています。丘陵の西裾をコンクリートで固められた溝谷が有り、谷から民家裏を丘陵側に登る細い道の先が小墓地の様でしたが、 「丹波志」に書かれる城主の墓なのかな?吠え立てる犬に辟易して退散し、確認はできていませんが・・・・(^^ゞ

(三和町史を参照)


タタズの城(不立ノ城・不建城)      Ca190m    福知山市(旧天田郡)三和町岼(ゆり)

エッ”たたずの城”と気を回わされないように (^^ゞ・・下川合地区と上川合地区の中央部・川合川の左岸、岼と下川合集落の境界付近・標高190mの尾根上にある。東南にある334m峰の山頂から北 西に延びる尾根の末端近くが、幅広く台状に広がった地点には、 尾根の背後を空掘と土塁で遮断された処が有って、
タタズの城 ・川合川沿い県道から望む

此処が城の完成を待たず築城途中で落城した為に”建たずの城”の伝承が残る「タタズの城」跡と云われます。 幅広く緩やかな尾根を挟み込む様にして、 左右(南北)には短いが深く急俊な谷が入り込んでいます。北西へ延び出した尾根の末端もまた崖状となって川合川に落込み、 三方を自然の要害で護られています。其の左右の谷に向って尾根を完全に掘り切った幅広の空掘りと、幅・高さ共に約1.5〜1.8mの土塁が延長約70m程平走して城域の山側を遮断しています。
タタズの城・空掘から土塁と本曲輪側


主郭と思われる場所は等高線に沿って長方形に仕切られているが、 平坦地形が拡がっているだけで 尾根の両端や下段との境部分、広い曲輪内を土塁や溝等で区分している様子は、地表の荒れや倒木・雑木で余り明確には判りません。 土塁に沿って北西方の尾根下方へと、緩い傾斜面に2〜3段の広い削平地があって段差の底部には所々に土留めや、切岸の補強の為か?余り大きくない(4〜50cm程)石を使用した石列・石積が露出して見えています。
タタズの城・主曲輪からの長い土塁線

”不立(たたず)の城”伝説の通り曲輪の造成中に、 敵の侵攻を受けて築城に至らないまま打捨てられた城址なのかも知れません。これ等の石垣が一部でも築城時のものであれば此の地方での山城としては貴重な遺構だとされます。川合地区の四つの城では経ヶ端城の主郭部に2段程で 数個の石積みが見られるだけです。日向城の主郭南端の自然の露岩を切岸として利用はされているようですが・・・。古城主に 樋口左近の城といわれるが城名は、伝承によると築城の普請中に敵に攻め落とされ、城主は何処へか逃れて放棄され、主無き城は「不立ノ城」とも「タタズの城」とも呼ばれる様になったと云われます。
タタズの城・土塁上部から幅広い空掘


伝承通り途中で放棄されたものとすれば、 石垣の使用時期を探る上でも貴重だと考えられます。 また築造の手順においても、先に土塁や堀切を造成してから曲輪主体部に掛かったことが想定され稀有な例とされています。”タタズ”の伝承によらず完成していれば各・三和町内でも特筆すべき規模の城となっていた事でしょう。 西方からの尾根を三重の堀切と土塁で遮断し、急斜面となる東の尾根末端まで削平地が連なります。天正年中(1573-92)樋口加賀守左近が居城した。
(三和町史を参照)
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