神崎郡市川町:岡部川沿いの城館めぐり 瀬加山城・くご構・御室構…
阪神・東播磨 (五万図=北条)
近畿の山城 御室構  クゴの構 瀬加山城(瀬加砦)  千束城
校歌故郷の山  ♪xxx…十柱山(瀬加山城)の 松籟もxxx…♪瀬加中学校
播磨の話夫婦岩(瀬加山城落城悲話)

瀬加山城の大堀切

西脇市方面から多可郡に入り中野間から県道34号(西脇八千代市川線 )で舟坂峠(現在はトンネル)を西へ抜けると、笠形神社から播磨富士(笠形山)へ南側からの登山コースがある。北西方のグリーンエコー笠形からの登山コースはオウネンの滝・扁妙の滝を見られるのですが、 より知られているのは京阪神側からの登山客が多く、
瀬加山城主郭十柱神社跡土塁の背後は大堀切

ハイキングガイド等の紹介例が多く、また仙人滝・蓬莱岩への周回ルートがとれるからでしょうか?。 他:北東方からは千ヶ峰から入相山を経ての縦走コース・東方からは鹿子神社〜竜ヶ滝〜天邪鬼の力水を経て登るコースは龍に瀬・立岩を通ります。 趣を異にする4っのコースを楽しんでみてください。
瀬加中学校側からの 御室構

笠形神社の杉の巨木(太さ4m・長さ 42m)が姫路城に心柱として昭和?0年代に切り出された事は現地の記念碑等で知られているが、神社本殿の見事な彫刻が 丹波柏原の中井家一統によるもので、今回:同時期と思える岩戸神社に寄ったので、 笠形神社のジックリ意識してみることのなかった作品を再訪してみたいと思っています。
御室構北面から瀬加小学校

県道34号が舟坂峠から岡部川沿いに瀬加谷を下る牛尾・瀬加から、市川沿いのR312号に合流する川辺にかけて、いくつかの居館 (此処ではxxx構<かまえ>)の所在を兵庫県埋蔵文化財の行政地区マップで探してみたが所在位置不明では行き着けない。所在位置に推定出来る遺構も見出せない…?所もあったが、 周辺の文化財指定遺物・遺構を訪ねてみるのもいいものですね。



御室構とクゴの構  瀬加山城(瀬加砦) 千束城


御室構とクゴの構
御室構(御室城・瀬加構)   xxxx Ca115m 神崎郡市川町上瀬加御室

西脇市方面から舟坂峠の トンネルを抜けてきた県道34号線を岡部川沿いに、下り牛尾から瀬加へ降りてきた。 瀬加中学校から東へ岡部川を渡ると田園が拡がる。前方100m程には岡部川と並行に南へ流れる溝谷沿いは高さ 10〜20m程の段差となっています。この河川段丘の台地上に宅地や工業団地が建ち、岡部川岸近くに宅地は無い。 河川の氾濫を避けてのものか?一帯は圃場整備されている様です。
御室構:段丘西北角部の濠跡 ?と切岸?

御室構(みむろのかまえ)については、 文献に見られないが上瀬加にある構を瀬加構と記されいる。しかし御室集落の台地に構の地名が残って降り、 御室構・瀬加構を同一のものとして扱うとされ城史の詳細は不明という。
御室構:北角部から街道(県道34号)を挟んで瀬加小学・中学校

「赤松家播備作城記」には文明元年(1469)太田筑後守が居城し、 同筑後守入道・道祖法師・源太郎と4代続いたとされる。【嘉吉の乱後・文明元年 :管領細川勝元の力添えも有って赤松政則が播磨国を回復するまで山名氏の領地だった】また「播磨鑑」によれば永禄年間 (1558-70)太田道祖初代構主とされ差異が見られるが、3代目を継いでいる 太田道祖が采地地(官職についている者が与えられる領地)に瀬加郷の半分・陰山庄半分を領していたようですが、永禄6年(1563)落城したと云われます。
御室構:核心部は中程の民家か?

【資料:兵庫県の中世城館荘園遺跡には天正6年(1563)道祖と子の源太郎父子が播磨攻め ・羽柴秀吉軍と戦い落城しています。4代目源太郎は帰農して此処に居を許されていたものか!!?、何か功あって旧領地を回復したものか?】 段丘の西北端から西南へ濠跡と思える側溝が農道?沿いに延び、丘陵側に高い段差 (10〜20m程)があり、西北から東へ丘陵に上がってくる車道からも3m程の段差があり、南へ2〜3軒?の民家を挟んで水田が続く。上記 資料では:東西41.2m・南北31.6mの水田が有り、西側は1.2mの高さの段を成して水田に続いているが北側の崖は3.3mと高く、其の下に幅10m・長さ22mの細長い平坦地があり 角をとりまいて東に及んでいる。このカギ形の平地は高さ1.5mの石垣で囲まれており、其の下に9mx3mの小さな平坦地がある…云々と。
クゴの構 :岡部川から望む主郭部は城域中央西端?

丘陵部西南端から居館の核心部と思える宅地に私道が延びるが、 城域外?の此処も曲輪を思わせる高い段差の水田があるが、圃場整備で大きく様相が変わる。「カギ形の平地は高さ1.5mの石垣で囲まれ…」とあるが水田を横切った先の宅地と境する側jに在ったか?は未確認。 ただ岡部川左岸に続く河川段丘に在る御室構とクゴの構からは対岸に正対して街道の通行(県道34号線)を見通せる位置にあります。
(兵庫の中世城館荘園遺跡 県教委昭和57年版 を参照)


くごの構(クゴ城) xxx Ca110m 神崎郡市川町上瀬加供御

上記の御室構からは岡部川沿い下流の南西方約500m程には同規模程度の居館供御の構(クゴのかまえ)が在りました。此のクゴの構とは岡部川を挟んだ対岸の北西約500mの丘陵上には 同時期に築城されたと思われる瀬加山城が在り、嘉吉の乱以後但馬山名氏の領地となっていた播磨国を、室町時代中期:文明15年(1483)赤松政則が回した頃、赤松家家臣の大田氏等が先に御室構を築いていたが、室町時代後期:大田道祖の代に瀬加山城が改修され、山城に近い供御に クゴの構を築いたものと思いたいが?…詳細は一切不明です。
上瀬加供御のクゴの構は工場敷地内!!

これ等の城館が瀬加谷・岡部川沿いの領主の城でしょうが、間道監視等の軍事的役割をもって築かれたものでしょうか?。 赤松氏家臣が居城していたと思えますが、小規模ながら瀬加山城の10条程が並ぶ特異な畝状竪堀群に、 嘉吉の乱後但馬山名氏の影響を感じるが瀬加・牛尾を北へと舟坂峠を越えれば多可郡八千代町 ・中町は在田赤松氏の本拠地で、主郭の一方に並ぶ畝状竪堀は貝野城にも見られます。 北に裾を拡げる丘陵が岡部川に流れ出す先端付近は棚田が拡がる河川段丘となっていましたが、
棚田からクゴの構西面:雑木藪の東側付近が主郭か?

水田として利用されていた城跡一帯は上瀬加工業団地内で、丘陵上には工場の大きな建造物・屋根が藪化した段丘北斜面の雑木の間に見える。 県道43号線側からは気付かなかったが丘陵上は、工場の他・棚田もあるが、舗装車道沿いは社宅・新興住宅地の感がする。昭和59年(1984)工場用地となるため確認調査され、 空堀・土塁・掘立柱跡等が検出されています。為に
段丘の一部は工業団地の造成で削られて 遺構は崩され、城域西端の広い棚田も圃場整備されて旧態は不明ですが、圃場側を通る車道東の城域側に残る小さな田圃(旧耕地?)を囲む藪の段差は 土塁で囲まれているようです。 東上部に一軒の民家が建ち・其の土塁との間は堀切か?。家に北から東へは工場敷地ですが、民家裏手(北)に小さな祠と石仏・五輪塔残欠等が集められ祀られている。
クゴの構主郭部の土塁と堀跡:供養碑・石仏・小祠も祀られている

北の工場敷地側へは 切岸状の高さ約3mの壁上にあり、民家側より1m程高く土塁跡の様で、此処を囲むように小さな溝が東側と・北から西の藪地へと延びているのが堀跡の様です。参照資料によると 土塁に囲まれた西南側の平地には一部石垣も残っており、此の辺りが主郭と推測されていますが、御室構の場合と同様に周辺は整備・造成で様相は大きく改変されているようで、 石垣はおろか石積・石列も確認出来なかったが、有ったのかもしれない・使用されたかもしれない石片は散存??しています…?。
(兵庫の中世城館荘園遺跡 県教委昭和57年版 を参照)

瀬加山城(瀬加砦) 十柱山(瀬加山) 200m  神崎郡市川町上瀬加j字茶屋

クゴ構から道なりに北へ進み県道34号線に出ると「十倉東口」のバス停。 切岸を落とす曲輪の様な畑地?境の狭い車道を抜け、消防施設の角を左折してJA営業所から続く地区道に出て 直ぐ北に入る戸安集落の細い道を奥の貯水池に向う。貯水池の東側丘陵(瀬加小学校西の背山)には神社が建つが此処も城跡っぽい。ただ秋期の今は入山禁止で遺構確認は出来ない。
クゴ構から岡部川を隔てて瀬加山城を望む

昔の瀬加地区一帯は収穫高でも 一寸知られた松茸の産地でした。上瀬加集落の北・貯水池を挟んで手前に西の丘陵上へも奥の民家脇から上方に延びてゆく山道は、瀬加中学の校歌に謳われがる十柱山山 頂の十柱神社への参道でした。山頂部の広い削平地に稲荷社跡の礎石が残り、北端には真新しい 瀬加山城跡の石碑と廣田神社・稲荷神社が平成18年に十柱神社(東の丘陵側の神社?に合祀されたものか遷座記念碑が立つ。
先ず出会う副郭 (二ノ丸)南の竪堀:左下方にも二段程の曲輪

民家脇の直ぐ上に個人墓地?が在るが、 其の前からは・よく踏み込まれ溝状になった参道を 10分余り、鹿除けネットを潜り進むと、稜上に竪堀を見るて城域に入る。埋もれ浅くなった堀切から南下方へは二段程・自然地形に近い削平段がある。 尾根側に副郭(二ノ丸 約20u)があり、正面主郭に建っていた十柱神社 (稲荷社等が合祀されていたものか?)への階段が設けられているが、
副郭から主郭への旧参道石段元は堀切

高い切岸4mとなっており下は幅2m程に掘り切られ左右に竪堀となって落ちる。 東側から主郭に入る通路もあるが、この通路から主郭東面には、等間隔に約10条ばかりの竪堀が畝状に並ぶ。 この城に特筆した見所です。広い主郭(20X30m程)の正面奥に神社跡の礎石が残り、北端に神社を遷移した際の石碑と瀬加山城跡の石標が建てられ北から東へ土塁が廻る。
副郭から主郭の東南角の切岸

東側は神社造営時の削平残土かは不明だが北の尾根続きうを大堀切(5〜6m)で遮断して、 堀切外側の大土塁・更に小曲輪が2〜3だ在る様です。大堀切を東側へは幅狭い帯曲輪が主郭を廻り、南側の堀切間に達していますが、その間には・浅く短いが等間隔に10条程の畝状竪堀が並ぶ。
畝状竪堀と土塁

国土地理院地図にも 城山の名が有る河辺城が瀬加山城と呼ばれて紛らわしところですが、さらに瀬加村史には下瀬加と東川辺の境に河嶋城があったという。瀬加山城の城史詳細は不明で、 県の遺跡分布地図も備考欄は空白のままですが、「赤松家播備作城記」には文明元年(1469)赤松氏一族の 太田筑後守が居城し、同筑後守入道・道祖法師・源太郎と4代続いたとされます。しかし「播磨鑑」によれば永禄年間(1558-70)太田道祖が初代構主とされ差異が見らるが、
帯曲輪から畝状竪堀:4〜5条は見えるのですが…

3代目を継いでいる 太田道祖が采地地 (官職についている者が与えられる領地)に瀬加郷の半分・蔭山庄半分を領していたようですが、永禄6年(1563)落城したと云われます。この事も:大田道祖は 天正の秀吉播磨攻めで落城した瀬加山城の戦闘のヒーローとした瀬加村誌や「播磨鑑」からも御室構レポート内の様に赤松家再興成った永禄年間(1558-70)に築かれたものとおもわれます。 瀬加村誌に夫婦岩(瀬加山城落城悲話)があり播磨のお話として下記に添付しておきます。


千束城 (最高所は千束山 ? Ca330m)  xxx Ca150m  神崎郡市川町坂戸

R312号線の市川町役場前から市川新橋を西に渡り、 JR甘地駅前で市川沿いに南へ向う直ぐ前方西、 JR播但線沿い・県営住宅背後の丘陵上・Ca330m峰の東先端が崖状に市川の流れに落ち込み、 南北にも枝尾根を派生させていますが、北へ延び出す尾根末端部のピークに千束城が在りました。
千束城:播但線と一車線の狭い車道端は 尾市川の市川合流地点


尾市川が市川に流れ出る北端の合流地点は、播但線と狭い車道が丘陵と 市川に挟まれた極細い隙間を南へ抜け出ます。兵庫県埋蔵文化財保護 xxx行政地区マップを Webで探し出して出かけて見ましたが、補足欄は空欄(上記の城砦群も全てコメントもなく)、兵庫県中世城館調査報告書等に城名も載っていない無名の城。 そのうえ明確な遺構(削平された曲輪や切岸
南尾根筋に主郭側を捲く空掘?

・土塁・堀切等)も顕著な物が少ない。 赤松氏の城なら石積・石垣も期待出来るのですが、 最高所にだけ自然露石が残る ?が概して広くも平坦でもない。地元山城探索グループが訪城の際・標板を残したとされているが見当たらない。神崎町吉冨に千石山城があり、山頂部に削平地を残す山城が在り、千石取りの武士が城を築いた事から此の名が残る様です。
千束城最高所の主曲輪?

千束山城も同様に此の丘陵上の 千束山山頂に山城の縄張りが残るのかも知れないが…?山頂部には遺跡マップに記載は無かった。千速山城は別所に有るのだろうか?。山塊の最高所Ca330m峰を千束山と呼ぶのなら、 此処の本城の千束山城が在り、北東尾根先端部の千束城は矢張り?出曲輪・砦規模のものだのでしょう?。 改めて最高地点・千束山まで足を運んで確認するべきだった様です。
千速城山裾から市川越に亀山城を望む

JR甘地駅前から南へ300m程、 尾市川が市川に流れ出る合流地点は丘陵裾を播但線が・其の一段下部に一車線の狭い道路が市川沿いに走る。丘陵へは線路を山側に渡った墓地からの踏み跡を辿り最高所の露岩の狭い不整地に登り着く。 西側下に二段ほど曲輪地形が、南へ続く尾根筋は緩斜面に段差は無いが広い平坦地形もある。傾斜が少し強まるところ・主郭側を取巻く様に低土塁と空掘か?・帯曲輪が藪の中の空間に延びている様子です。尾根続きは緩斜面が続いた先で千束山?への登りとなるようですが、 遺構等は無いと思い引き返すが、
千束城最高所西の小曲輪

周辺にはハイキング道でも、山仕事とも思えないが菓子類や弁当類の包み紙・ポリ容器等が散乱して辟易する。スタート地点の墓地に戻ってくると市川越に亀山城 【此の城も諸々資料に城名を見ない知られざる山城?ですが未訪】を見る。周辺の河辺城・谷城・鶴居城・屋形城(飯盛山城)と比較しても遜色ない立地には、 但馬山名氏侵攻の生野道守備についた赤松氏方の城遺構が残る期待が持てそうです。



夫婦岩:瀬加山城落城悲話  神崎郡市川町上瀬加

瀬加山城は城史不明ながら 「播磨鑑」には永禄年間(1558-70)太田道祖が御室構の初代構主に居たとされ、瀬加村誌には天正5年(1577)羽柴秀吉の播磨攻めに大田道祖が瀬加山城に籠城し、秀吉軍と戦った際の 悲話が伝えられます。瀬加郷の半分・蔭山庄半分を領した大田道祖が瀬加山城に居た。 家臣青柳五郎左衛門は田舎には稀な文武を嗜み温厚な人で、其の子:二十歳になる四郎兵衛は思慮分別も深く立派な身体の持ち主でした。
瀬加山城:主郭東の帯曲輪から落ちる畝状竪堀

また家臣蔭山太郎兵衛も 五郎左衛門に劣らぬ立派な武士で、今年十八になる"きぬえ"という娘がおり、瀬加に咲く白百合に喩えられ・優しく又身も心も強く薙刀をよくした。両家は懇意な仲で行き来も多かったので、いつしか二人は好意を持つようになりましたが、互いに武士の子として 其の気持ちを出すことが出来ませんでした。
瀬加山城:主郭北面の大堀切

其の頃:天正5年秀吉の大軍が播磨を攻め、本城の置塩城を落とされ、 豪傑後藤基信の春日城や高峰城(福崎町八千種)・恒屋城や田野城(香寺町)に迫ります。 戦い上手な春日城の後藤基信を頭とする連合軍に、寄せ手の大将矢野但馬守正臣は後藤の城を見送って川辺城(市川町川辺の瀬加山城)を遣り過ごして、瀬加山城に迫ります。大軍を一手に引き受けた瀬加山城は城主以下70人ばかり。 一族郎党は敵の数を怖れず一人残らず討死覚悟で防戦しますが、 多勢に無勢・このまま此処で死ぬよりは…と城外へ討って出て城山下で自刃。此処に城主を弔う五輪塔があるという。
瀬加山城:副郭から主郭への(階段)切岸下は堀切

やがて焼討ちに遭い燃え上がる城を見上げる 青柳四郎兵衛の前に現われた女武者「おゝきぬえ殿…」「そこに居られますのは四郎兵衛様、ご無事で…」今ここでゆっくり話し合ってはおられません。「この世では此れが最後、 きっと・あの世で夫婦になりましょう」川の畔で水を飲み水盃を交わし、刺し違えて死んでいったといい、岡部川の川べりの岩を誰言うとなく夫婦岩と呼ぶようになったということです。
(郷土の城ものがたり 兵庫県学校厚生会 参照)


塩谷十三仏種子板碑群
 神崎郡市川町上牛尾

県道34号(西脇八千代市川線)の舟坂峠(現在はトンネル)を西に出ると 石積棚田が目立つ寺家・塩谷と岡部川沿いに下ってくる。左岸に数段の段差を積んだ台地上に 大師堂が立つ丘陵が塩谷公民館前付近で見え、直ぐ先:県道沿いの宮前橋に案内標識が立つ。塩谷構を探して手懸かりの鳥居r屋敷を人ごとに聞いてみたが判らず今回はパスして、 付近の県指定文化財を訪問。
城館を思わせる種子板碑の有る 大師堂は祭祀遺跡か?

塩谷の板碑は昭和37年(1962)発掘された室町時代初期の石造品で、これ等の板碑はいずれも高1m前後の自然石を切ったもの。 全体に形状は不揃いですが先端を三角形に切り、額部を造り出し板碑としての形式が整えらる。 石材は帯青色の凝灰岩質で現地付近の 産石を使用している。一基ごとに本尊を示す梵字、 下部の左右や下の空間には1〜2行簡単に造立の銘文が陰刻されています。十三年忌碑には常念という 僧が応永20年(1413)贈立した事がわかる碑文がある。
塩谷十三仏種子板碑群

中世十三仏信仰で一石に十三仏の梵字か像を刻むものが一般的で、一石一仏を表わすものは全国的にも極めて稀で、此れは簡素化される以前の本来的な 塔婆造立の形態を示したものとして貴重なものとされます。初七日から三十三回忌まで13回の供養を行う石塔で、十三基造られたはずだが現在八基しか残っていませんが、 県文化財に指定(昭和61年3月25日)されています。
現地:塩谷十三仏種子板碑群 H7年2月県教委の案内板 等を参照)


岩戸神社
   市川町指定文化財(昭和54年)  神崎郡市川町上牛尾

十三仏種子板碑群を見て元の県道34号線を南下し上牛尾と下牛尾の境辺りか!?、牛尾構を探して牛尾小学校斜向かいに岩戸神社への案内標識が有り、 北ノ谷(電柱に北とあるが岡部橋を渡って東へ入る谷)の谷間の集落入口には辻堂が建つ。兵庫県埋蔵文化財保護xxx行政地区マップをWebで探し出し、遺構等に期待は出来ないにしても所在位置と地形に自信はなく素通り、 むしろ反対側の石垣囲いの棚田と民家の周辺が中世領主の居館跡に見えてくる。
深閑とした岩戸神社と鳥居

また現在の本殿は寛保元年(1741)に建てられたとされる本殿の素晴らしい 彫刻を、丹波柏原の大工:中井家一統による作品とされていますが、 有名な彫刻師:中井権次は6代続くが、初代から3代までは大工職。 寛保元年(1741)の再建によるものなら初代は権次は未だ20歳なので権次の父:丈五郎正忠か。

岩門の岩戸川を渡り岩磐中の岩戸神社へ


社殿は幾度か建替えられているようで現在のものは寛政7年1795)改修されたといい、 天保年間なら2代目丈五郎正忠によるものと思われます?。3〜5代目が中井権次 xxxを名乗り2代目が父:権次正貞ではなく祖父の丈五郎正忠を名乗っています。また神殿の彫刻の見事さでは、笠形神社中宮に初代?橘正貞、本殿に中井丈五郎本忠(正忠?)と丈吉(3代目権次正貞)の彫刻が有り同時期の改築に
本殿と肖立岩側には神木の切り株が覆屋の下に残されている

丹波の名工の確かな腕と 名声は 三丹(丹波・但馬・中井家が 丹波から移った丹後)の他播磨に活躍しています。境内に小さな覆屋の中に祠?と見紛う巨木の切り株は、台風23号(2004年10月)に倒れた推定樹齢700年・幹周6m・樹高38mあったというの神木の杉は、 残骸として捨て置かれる事なく、また氏子・地区住民の手で周辺には自然草花園も整備され見護られています。
現地:岩戸神社案内板 等を参照)
本誌丹波霧の里HOME 別冊別冊丹波霧の里HOME
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