福知山市内の城 西山城・荒神山城・切岸山城・高橋屋敷・岩間城・城ノ尾城館・仁田城
京都・福知山市 (五万図=福知山)
荒神山城は荒木の 荒木山城(権現山城)共に仁木氏の城?
近畿の山城 西山城  荒神山城と切岸山城
      高橋屋敷と岩間城  仁田城と城ノ尾城館
西山城:西尾根幅一杯に 空掘土塁が走るが曲輪が無い?ユニークな遺構!!?
       水内城(追加予定 )・・堀水内



西山城 荒神山城と切岸山城  高橋屋敷と岩間城  仁田城と城ノ尾城館



西山城 西山!? 150m   福知山市堀西山

福知山市・和久川沿いR429の新庄・今安付近から淑徳女子高等学校前を抜けると篠尾~小野脇~榎原へ向う正明寺の交差点に出る。南へ直進する広域農道!?を室・荒木に向う途中・福知山女子高等学校の背山に荒神山城があり、同系の京都創成大学・京都短大・福知山成美高等学校(旧福知山商業高等学校)の南背後・平和公園?背山にかけて
西山城南尾根下方から:城域中央の最高所(主曲輪?の切岸)

切岸山城が在る)を抜けてR175号線に繋がる車道と交差する。此処から約200m程上り坂の峠に 墓地が有り2~3台程なら可能駐車スペースがあり、鹿猪除けフエンス沿いに東側丘陵上に向う踏み跡を伝うが傾斜を増し踏み跡も怪しくなってくるが谷拠りをトラバース気味に斜上し、送電線鉄塔No11(新綾部福知山線)から先の尾根筋に待ち構える猛烈な雑木藪は直ぐ消え尾根上に緩衝帯の様な ?平坦地形が延びる。
西山城:主曲輪?(土壇内部は窪地・穴)
 
傾斜を増す短い登りの丘陵尾根部に 低いが切岸を見て近づくと櫓台とも思えるが、ほぼ円状の土壇に二連の窯を並べた様な塹壕状の穴がある?。炭焼き釜程の大きさだが炭を取出口は穴の上部しか無く作業効率の悪い山頂部に有るのも解せないが、山城遺構は見逃されても古墳や遺跡分散地は消滅していても残されている遺跡地図にも、
西山城:西尾根幅一杯に空掘土塁が延びる・・!!

古墳としての分布は記されていない。登ってきた南と東西三方に尾根を落とす城域最高地点が主郭と思えるが、曲輪と呼べる平坦地形は此の切岸加工 (1.5m程)された土壇の南側から東西の尾根筋を結ぶ 幅狭い帯曲輪だけ!。土壇上?は櫓台か平坦地は無く大きな穴・窪地を囲む幅1m程の土塁が囲むだけ。
西山城:東尾根にも同様の土塁 ・空掘と仕切土塁?

同規の模窪地では木ノ部城(篠山市西紀町)、少し規模を大きくすれば経ヶ端城(綾部市)・春日山城(神崎郡福崎町)に見る様なホントの意味の矢倉としての(武器や食糧等)半地下式倉庫として利用されたものか?。城域の場所としては 主郭と思える位置に有って、 穴と土塁だけが目立つ此の遺構も不思議だが、更に奇異とも思えるユニークな遺構が左右(東西)の尾根に展開する。
西山城:西尾根末端の空掘土塁と土塁を割る虎口状(中央上部)

幅狭い尾根端までを 一杯に削平して曲輪を連ねる構造は珍しくも無いが西山城の其れは大きく異なる。 幅4~6m程の細い尾根中央を約 30mばかり、仕切り土塁等で途切れる事も無く空掘が走る。削り残した尾根端を土塁として西末端部まで細長い空掘を囲い込む。西末端部の空掘土塁から先の尾根筋は比較的緩斜面が、曲輪等の遺構を見ないまま下っていく様だ!!?。空掘先端の5~6m程手前には一箇所だけ土塁を割って 南側へ出る所が有るが下方に繋がる曲輪等を見ない?。
西山城:主曲輪内から土塁越に西尾根の空掘土塁)

地図上からは取付き点の墓地から繋がる虎口となるのかも知れないが?…登城の空掘道では無さそうです。山頂部の土壇と窪地遺構・東側の尾根にも西稲と同様の長い空掘が続くが、これ等が城遺構と見紛う山仕事による造成とも思えない?。山城に見る直線的な空掘や横掘は鷹尾城(芦屋市)の様な戦時中の高射砲の塹壕かと思えたが、 地形に合わせた緩斜面は途中段差やカーブもある。
西山城:西尾根の空掘土塁

周辺の城に対して城兵の動きを隠す為の塹壕とも見えず、南と東尾根部に平坦地はあり、兵の駐屯スペースは確保できるが防御機能を伴う曲輪がなく空掘と土塁だけが目立つ特異な縄張りは陣城に思える。西山城とは尾根続き東北方約800m程・福知山女子高等学校の南背山には荒神山城(未訪)や南約1km地点に在る荒木城は丹波守護:仁木氏関連の城と伝わる。
西山城:主曲輪東北下部からも東最尾に延びてゆく空掘土塁

更に尾根を辿った丹波市国境線上にあ荒木山城 (権現山城)も仁木義尹を管領:細川頼之等が攻めているが南北朝期の為、縄張りからは天文~天正の戦乱期のものか?。天正7年(1579)荒木城主:三村助左衛門は黒井城赤井氏に付いており、黒井城落城により前木戸城主で帰農していた高橋氏の庇護を受けていたようです。前木戸城の空掘遺構技術が残されたものか?、光秀軍の陣城となったものか?。最高所の主郭から延びる南・東西の三方の短い尾根上に見張りの砦規模ながら、
西山城:東根の空掘土塁(西尾根と同様・同規模の空掘)

其の縄張り遺構のユニークさは近畿の限られた地方の山城を主体の訪城ながら尾根筋に堀切・斜面に竪堀も見ない。主郭から東尾根側は主曲輪東北の下方から空掘が廻り、土塁を積んだ空掘土塁となって、西尾根側よりは尾根幅は広い様だが埋もれてか!?堀底幅は狭く ・土塁幅は少し広く感じ・下る程に土塁南側に帯状に小曲輪が 付随しているようにも感じる。
西山城:主曲輪東北下部からも東最尾(手前)に延びる空掘土塁

空掘土塁は 西尾根より少し長く49m程か?。空掘の途中には仕切り土塁も有って、未確認だが北側の土塁や下方に曲輪でも有って・その通路なのかも!?。空掘土塁が防備の土塁なのか?・空掘内の兵の移動や守備に就く塹壕なのか ?・出撃の為の武者隠しとシュータを兼ねたものなら、 空掘りの先が竪堀等にも繋がっていない?様に思えるが、いずれにしても他に例を見ない特異なもの。城史も・其れをを語る資料も不明!!?。


荒神山城から切岸山城へ
荒神山城(荒神山館・仁木屋敷)
  荒神山? Ca85m  福知山市掘台地

荒神山城と切岸山城へは上記:西山城への取付き・墓地のある小峠へ登り始める 少し手前から左折(東)する車道が、小谷ヶ丘の交差点で陸上自衛隊福知山駐屯地と京都創成大学・京都短大を分け、 5?600m程先でR9号・R176号線に出る。交差点とは云っても住宅内への幅狭い坂道を進むと、
福知山女子高校(左手)直ぐ背後にある荒神山城

創成大学構内外環の車道は貯水池を直進して正門 ?を抜け構内を抜けて平和公園に着きます。此処から山上?にかけてが市遺跡地図には 切岸山城(レポートは後述)の城域となっています。荒神山城へは貯水池前の交差点を右折・西南隣の校舎が同系の (旧?)成美学園福知山女子高等学校です。
京都創成大学キャンパスの食堂南背に望む切岸山城

南側背後には小丘陵の山系最高所(此処が荒神山か?)160mから北に伸び出す枝尾根先の峰端に荒神山城が在りました。 構内外れに駐車場があり、その先には田圃・林の間を西の谷筋へ回り込んでいく道がある。地図の破線山道が主曲輪南端付近・二本の竪堀を見る付近に到達出来そうですが、
荒神山城:西曲輪に入る土塁虎口状?

駐車場端の山側に教職員・学校関係者用駐車場?への車道が有り、車道コーナ部から直登出来そうな踏み跡がある。登り始める裏手の藪中に広い平坦地がある。低丘陵だが北方は高いところで陸上自衛隊福知山駐屯地が 標高50m程なので、福知山市街地の展望が開けてくる。
荒神山城主曲輪東の切岸・空掘道?は主曲輪上の櫓台状横に出る

踏み跡は長い帯曲輪【すぐ先で外側に低土塁を積む(掘残しか?)空堀状】の西端から、低土塁沿いの幅狭い溝状を右に折れ、左に少し曲がって広い北曲輪に入る、虎口形状を呈しています。北曲輪から一段上が主曲輪か?。ここも広いが雑木藪中で縄張り状況等はよくわからないが、その先に一段高い櫓台状の曲輪?がある。
荒神山城:主曲輪と一段下の西曲輪

手前西斜面の藪中に二条の竪堀が ・ほぼ平行に落ちている。櫓台と言えるのかどうか?。此処から尾根上の水平道が長く延びるが、城域を区分する 堀切等の遺構を見ないまま100m地点から主尾根に乗って傾斜を増し最高所の 160mに着いた。荒神山城と切岸山城間の最高所160m付近は市遺跡地図には空白地帯だが、
主曲輪と櫓台状の城域最高地点

山頂から東へ主尾根を下って程なく・大きな堀切を観る。土橋も付き ・其の北に荒れた緩斜面で段差は低い2‐3段の広い平坦地が有る。切岸山城は五郎殿(ごろど)山に在り、天正年間(1573-92) 荒木五郎が居たと云う。其の遺構が此れなのかな?。市遺跡地図の切岸山城は此処より更に下った北方のピークCa135mから山麓の平和公園迄が城域の様です?。
荒神山城主郭西に二条の竪堀

さて:荒神山城北曲輪から北面下の帯曲輪に下ると先程の空堀を見る。東面に広い道が上がってきているが 殆んど利用はされていない様?。此の道が主曲輪から櫓台状?へ続き、主郭側の岸を切り落とした切岸になっている。城史について !!?:南北朝期の正平17年(貞治元年・1362)~康暦2年(1380)頃まで仁木(兵部大輔)義尹(よしただ)
西曲輪・主曲輪北下を低土塁・空堀状(帯曲輪!!?)が捲く

【丹波守護職:仁木頼章の子で、頼夏の養子とも云われます)が貞治元年(1362)頃は丹波守護職に、応安元年(1368)頃は伊予国 (四国)守護職を補任している】荒神山に館を構え和久庄(福知山市)の地頭職:土豪の荒木一学尚恒(なおつね )を味方として荒木山の山頂に荒木山城を築いていました。正平17年(貞治元年・1362)幕府方と
荒神山城主郭櫓台状から主尾根に向かう水平道

山陰地方を支配した山名左衛門佐時氏は、 子の師義と其の臣で小林民部丞が京都に攻め上がる際 ・和久郷に侵入して来た。幕府方は義尹を救援するため若狭守護:尾張心勝・遠江守護 :今川貞世・三河守護:大島遠江守を派遣し丹波の諸豪も加勢に加わった。 山名氏方の小林民部丞は700騎余りの手勢で対抗したが、兵糧が尽きて本国の伯耆国へ引き上げたという。
二城の中間付近:尾根最高ピーク160m地点東に土橋付きの大堀切

永和4年(1378)頃、管領:細川頼之の被官:内藤備前守と 波多野五郎重康の軍勢が天田郡の仁木義尹を攻撃してきた。荻野朝忠【文和元年 1352義尹から山名時氏に丹波守護が代わった時に 守護代を勤めていた】と赤井氏一族は義尹に加勢し荒木山に拠り細川軍と戦ったが、 義尹は細川方の謀略に掛かって、城の北麓の寺へと誘い出され風呂の中で刺殺され遺骸は池に沈められたという(風呂ヶ谷と呼ばれるところ!?)。
二城の中間付近:尾根最高ピーク160m地点東に土橋付きの大堀切

荻野朝忠は淵に沈められた 義尹の死骸を引き上げて近くに弔い、菩提樹を植えて墓印にしたと伝えられ京都側・荒木と兵庫側・市ノ貝にはこれにまつわる伝承がある(未調査)。 荒木山城が丹波市境界の荒木山城では遠すぎると思えたが、荒神山城の南方約1kmの荒木・”もみじヶ丘病院”背後の丘陵上に在る荒木山城が詰城として適所と思えます。
土橋付きの大堀切から広い平坦段と土橋状の尾根筋

しかし丹波守護職にあった仁木義尹の居館(荒神山館・福知山市堀)、其の詰め城を荒木山の 荒木山城だけでは心許無い。更に丹波市境界の権現山にも、詰めの詰山城が築かれたものか?。国境の荒木山城はその後も:堀切・竪堀・曲輪の切岸や帯曲輪を廻す等遺構からも改修されながら中世戦国時代まで使用されている様です。
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切岸山城   切岸山 ? Ca120m (五郎殿山か? 160m)   福知山市掘荒木

福知山市堀の成美学園(福知山女子高・創成大学・京都短大・成美高校<旧:福知山商業高校>)の南側低丘陵:創成大学南面の広い谷<武者ヶ谷か ?>を挟む東西の枝尾根上に荒神山城と切岸山城が在りました。谷正面奥の主尾根筋の最高ピーク(標高160m)も広い平坦地ですが、尾根筋東下に城遺構の土橋付き大堀切や土橋状の 尾根筋北面に荒れた広い緩斜面の平坦段が 2〜3段続く。
堀の平和公園 2011/4/17

切岸山城は平和公園上部の Ca120m付近よりは城址遺構表示無の160mピーク付近:主尾根部に大堀切・広い平坦地形がある。切岸山城は荒木五郎が拠ったと云う五郎殿<ごろど>山(160m)に在って天正年間(1573-92)まで使用された山城らしい ・・・?が水無く籠城戦には不向き。更に緩衝帯の様な主尾根から切岸山城への 分岐枝尾根を下る。緩斜な尾根筋の前に小広場が現れる。小さな黄色の板標には「山頂?」と記され、 広場の四半分を占めて・建造物のコンクリート基礎部が残っている。
堀の平和公園  2011/4/17

配水設備や山仕事の小屋跡では無さそうだが送電線鉄塔や神社祠にしては基礎が懲り過ぎ!!?。山頂一帯は旧陸軍省庁管轄地跡で、 土師川が福知山市街地を抜け由良川に出る市街地南東部玄関口の丘陵部。此処へは二方向から 階段道が登ってくるが、急斜面が続くだけの下降道。山頂?からの道が合流して東屋休憩所の小広場に着く。 此処は小社の跡だったかも?。切岸山の名は此の急斜面を示すものか?。
切岸山城主郭!!?(山頂?標識:尾根は中央奥へ続くが?)

山麓の宅地が見え・成美高校のグラウンド ?側からの道と合流して水平道に移り、 山裾沿いに平和公園に出た。山頂?から此処まで・其処此処に見た標識は、地元の健康ハイキング道なのか?、展望のない急登・急降りの階段道。 切岸山城遺構と思えるのは建物跡基礎部の残る山頂?部と途中の東屋休憩所の平坦地形だけ。
急な階段道途中の東屋休憩所は曲輪跡?

平和公園の最奥には忠魂碑が立つので、戦没者追悼と永劫の平和を願う公園ですが、桜の花見時・参道左右の芝生の広場で憩うには良さそうです。平和墓地公園一帯の方が遺構として家臣団の屋敷群跡を思わせます。 市遺跡地図の備考には”丘陵頂部に郭”とあるだけだが、所在地には荒木も含まれる様で、主尾根境や平和公園西側の枝尾根もトレースしての確認が必要なのかも・・・!!?。


高橋屋敷と岩間城
高橋屋敷 xxx  Ca30m  福知山市長田
丹波市から福知山市へJR福知山線沿いに走るR175号(水分れ街道)は塩津峠を越え、冬場のスリップ止めかスピード抑止効果の馬の背(ラクダの背?)カーブの坂を 下りきった所から国道は土師 (はぜ)川沿いに走る。JR線のガードを潜って直ぐの信号付き交差点 (福知山温泉への案内看板がある)を右折すると岩間地区で高浄寺(曹洞宗)を目指せば良いが、つい何時もの多保(とおの)市・
田園地帯の此処だけに果樹園芸ビニールハウスか鶏舎?だけが建つ

六人部(むとべ)に向かう県道708号を走り、 R9号線に出て多保市交差点を左折し長田地区に入って、土師川左岸を沿いに高橋屋敷跡(圃場整備で消滅!!?)探索後に岩間城に向かう予定。 県道708号線で丹波市市島町石原と福知山市田野の府県境の小峠を越える所:北方に田圃と其の北端部が藪地となって延びる丘陵上に城主:小野木重勝(縫殿助)の居館と云われる田野城が在る。
長田川?正面は土師川の堤防

河川段丘の先端部の急斜な麓を竹田川が流れ、1km程下流で(田野・大内・岩間地区の東端・長田の各地区が接する地点 )土師川に合流します。合流地点で北方に流れを変える土師川の約700m下流の左岸、長田野【福知山音頭の謳われ・明智光秀が改修した福知山城と 亀山城<亀岡市>の間を連絡用の早馬が何度も駆け抜けた所・現在R9号(山陰線)】東端部・舞鶴若狭道が併走する長田地区東北から西へ流れる長田川?が、
土師川堤防の右方橋を渡る正面丘陵の右手寄りに岩間城が在る

直ぐ南方の水量調整ダムを経て土師川へ流れ出る。東方に若宮大明神?の祠がある付近から西面から長田川 ?の土師川出合付近が推定地だが今となっては圃場で消滅!!溝谷が交差する濠と田圃の畝を土塁と見立てての構居を想像するだけです。 長田地区の土師川左岸近くには民家無く・一帯に広大な圃場が拡がるだけで縦横に灌漑用の溝谷が走る。
岩間城:遺構は高浄寺の墓地右手丘陵端

土師川左岸沿いの西北側丘陵部・正面には法林寺が建つが、溝谷に囲まれた流域の低い平坦地形。此の様な位置に郷士高橋氏の居館が在った?という。位置の詳細も遺構調査状況も、まして築城時期や領主?・郷士:高橋氏について一切は不明です。<飛地領を与えられた某藩主が、在地の名主に名字・帯刀を許し代官に任命した代官所跡・藩陣屋があったものか?、市史等資料未調査>土師川が福知山市街地に入って・綾部市方面からの由良川に合流する辺りからは度重なる河川氾濫による被害に治水対策が
岩間城:丘陵先端東北面の左右曲輪部を分ける仕切土塁?

必要で、此の流域が平穏だったとも思えない?。正面の法林寺前から長田地区内の極幅狭いうえに直角に折れる宅地内の車道を抜け、下六人部小学校・長田郵便局側から岩間へ抜ける広い道に出ると中央区分帯の白線は無くてもホッとする。後は土師川を右岸に渡る正面丘陵端の岩間城へと高浄寺を目指すだけ。
(福知山市遺跡情報)

岩間城  xxx山 Ca80m  福知山市岩間

福知山市街地の東南方:土師川流域の右岸に長田地区と向合う岩間地区は丹波市との府県境にあって、東方を竹田川が回り込む様に土師川に合流する田野・西方はJR福知山線と塩津峠を越えてくる R175号(水分れ街道)が岩間口(出戸<三軒茶屋>)に下ってくる土師川沿い北へ進路をとって直ぐ堀地区に境する。川沿い東方に六人部七天神のうち,明治期に六ノ社と七ノ社が合祀された
岩間城:空堀状を捲く様に延びる土塁腺を囲み帯曲輪・数段の広い曲輪が附属

天神社?が鎮まる。其処から南へ500m程 ・低丘陵北端に建つ高浄寺が目的地。丹波市境のCa200m尾根筋から 北へ延び出す枝尾根末端に高浄寺が在り境内墓所の北端から東面にかけての丘陵部先端部に土塁と段曲輪を遺す岩間城が在りました。「丹波志」に岩間(村)は石高 287石(うち田252石余・畑34石余)、民家66戸・民家南の端より川を左に見て岼道十町程で楽々場道<土師川に竹田川が流れ出る付近 ?>で牛馬共に通れる間道…とある。
 同上の土塁線

元和5年(1619)雲覚和尚により開山された安居山高浄寺(曹洞宗)は久昌寺<市内寺町・福知山城最後の城主:朽木氏の菩提寺>末。寺背後丘陵尾根部の墓所東側一帯に岩間城の遺構が遺り、御霊(みたま)観音像の裏手が既に曲輪域。墓所を挟んだ西側も広い平坦段があり福知山城や猪崎城への土師川流域下流を、北方に烏ヶ岳・鬼ヶ城 を望む位置は自ずと天田郡支配の横山氏・塩見氏や永禄〜天正期に氷上郡(丹波市)・天田郡(福知山市)・何鹿郡(綾部市)三郡を領した黒井城主:赤井氏に従属した領主の居城か?。
丘陵北先端付近の低土塁囲みの曲輪

府県境へと幅広くもなく・緩斜な上下を繰り返しながら南に延びる尾根筋に城砦遺構・城域背後を堀切・空堀等で遮断する遺構もない。尾根末端部に築かれた領地支配(監視)の城か?。城主吉良兵衛の古城と云い「丹波志」に明智光秀による福知山城普請時に奉行を勤めたが天正年間:普請が成就すると、築城に関わる秘密保持の為か!!?岩間城への帰城の際・土師川に殺害され滅びたと云う。光秀の死後は豊臣秀吉の領地となり福知山城主には秀吉の養子:秀勝が入っている。当村の貴田氏は吉良氏の改姓か?。
丘陵北東面曲輪(切岸3‐4m)と帯曲輪

貴田氏は福島家(関ヶ原合戦に家康に付いての戦功に安芸・備後の大名として広島城に入った福島正則か?…正則は元和5年(1619)広島城を無断で修築したとして改易させられている)に仕え後:元和10年(1624)には”大坂の役”の戦功により摂津中島より移封され、福知山藩第五代藩主となった稲葉淡路守紀通(菩提寺は三和町興雲寺)に仕えるが、成長するにつれツバス・ハマチ…と名を変える出世魚として知られる鰤 (ぶり)・それも井根浦の”丹後ブリ”を正月に家臣等に振舞いたいと 宮津藩主:京極高広に使者を立て無心する。
丘陵北先端付近:手前の曲輪切岸(約2m)と東へも拡がる平坦段

京極氏は「江戸への使い物]にするのでは?…と思い、使い物に出来ないようにブリの頭を切り落として福知山藩に送り届けた。此れに怒った紀通は正月の宴を中止・江戸から宮津へ帰るため福知山城下の街道に入った宮津藩を鉄砲で撃ち殺した事で、江戸へは紀通の 陰謀説の噂も伝わったが”ブリ”の仕返しとも云えず「ブリが我が命取りになろうと…」と慶安元年(1648)藩主稲葉氏は切腹により改易となっており外様大名の取り潰しに暗躍していた幕府隠密説もある。
丘陵北西面曲輪(切岸2m)林の西端は墓地参道

京極家も高広の子:高国の寛文6年(1666)親不孝を理由に <隠居した高広が藩政に介入し父子の対立や、高国の年貢に対する悪政等から >改易させられています。貴田氏(吉良氏?)にとっても福島氏といい稲葉氏に仕えて・なんとも不運です。稲葉氏断絶後は浪人となり当村へ定住し子孫あり…と丹波志に云う。
(福知山市遺跡情報・「丹波志」・「天田郡志」他)

仁田城と城ノ尾城館
城ノ尾城館   ? Ca55m  福知山市宮城ノ尾

丹波市春日町から市島町に入ると塩津峠越えで福知山市に向かうR176号線を別けて由良川源流の竹田川沿いに走り R9号(山陰道)に繋ぐ 福知山市六人部(むとべ)に向かう。 右手前方に北近畿舞鶴若狭自動車道高架橋が見えてくる辺:下地の交差点を右折すると六人部郵便局を抜ける集落内の東丘陵上に
県道 708号から一宮神社(右の宮会館背後に城ノ尾城・右寄り奥に仁田城

大内城・後正寺城館が在る。「芦田均先生生誕地」の大看板を見て 左折して直進する 西方に約80m程・左右に田園風景が拡がる先に政治屋ではなく・真に政治家だった芦田均(第47代内閣総理大臣)生誕地の夏雲荘【芦田均記念館】が在る。六人部地域一帯は旧福知山市南端部 (現在の福知山市は旧天田郡三和町が統合され篠山市境・船井郡京丹波町まで南下する)に位置して、
城ノ尾城館南西側:L字状の溝谷が急斜面上の土塁沿いに走る

ムラの発生は弥生時代中期頃に始まり舞鶴若狭自動車道路建設工事の事前発掘調査が計画路線沿いに実施されています。発掘調査により古墳時代前期にかけての竪穴住居・方形の周溝墓・溝・土壙等が発見されている分布地。城砦関連だけでも六人部PA付近の 大内城下層遺跡に大内城・後正寺古墓<城址!!>・後正寺城宮遺跡・城ノ尾遺跡(古墳群等調査1979‐82年)の丘陵端には城ノ尾城館が在って一宮神社の南西背後に位置する。
溝に囲まれる平坦地は右手藪中の曲輪と仕切土塁で分かれる

ケシケ谷遺跡等に隣り合う丘陵上に其々2‐7棟の住居跡が発見され、弥生時代も戦乱期にも村を護る自衛・防禦の為、高地集落が形成されるが、弥生時代後期・古墳時代にはこれ等ムラは丘陵部から平地に移り住む。市遺跡情報の分布地図位置の仁田城はケシケ谷遺跡内を分断する北近畿道と六人部 PAが占める建設敷地内にドップリと収まっており!!、消滅したものと思っていたが、
同上 の曲輪右(東側)の仕切土塁 (高1‐15m程)

情報内コメントに壊滅・消滅文字は無い。六人部PA北行き(福知山・綾部方面)側に道路公団敷地と関連施設が建つ。其処に通じる一宮神社の東側から三俣方面に抜ける地区道から、幅狭い急坂車道が峠の此処に通じる専用道路か?。地道となって降り始める位置の北側に、L字状の空堀(幅3‐5m)と三方向に土塁(堀底からは4‐6mと垂直に近い切岸を落とす )を廻す単郭の仁田城が、
六人部PA側専用道から耕地に入る作業道から:奥の竹薮内が城館域か?

城ノ尾城館との丘陵尾根続きの直近にあり!!空堀から北麓へ竪堀となって落ちる。尾根端の城ノ尾城館から麓を東約1.5km程に 多保市城が在るが、北近畿自動車道高架下を潜って土師川を渡り東詰めで合流するR9号まで、間には土師川を自然の濠とする以外に 遮るものは無い平坦地(耕地)。一宮神社の西隣に建つ宮会館の側から背後の丘陵上へ向かう山道があるが、
城ノ尾城館背後の尾根上は北近畿自動車道を見下ろす道路公団専用道

直ぐ神社背後側との間を空堀状の堀底道を通り丘陵上の広い平坦地に着く。西側の竹薮を浅い溝谷と・間を土橋が延びているが、此れは境界等の竹林管理用と思えるが、更に先には低土塁と内側に溝が延びる。溝は土塁の東端で民家背後の急斜面下へ落ちていく。 低土塁内側は猛烈な藪の中に曲輪の存在は有りそうだが足を踏み入れる空きも無い程。
仁田城の北面端から正面に 夏雲荘を望む

引返して南側の曲輪を西に抜けると高さ1m程の仕切り土塁と浅い溝状で囲まれた平坦地形がある。竹薮・雑木藪内では移動も思うに任せず踏み跡を南へ出ると西側と東側の作業小屋が建つ畑地(僅かばかり果樹もある?)に出た。南側の高みにガードレールが見える・道路公団の作業専用道路か?。六人部PAの直ぐ近く(北行き<福知山・綾部方面側のPA>)。城ノ尾城館は畑地跡か?
仁田城主郭内:空堀土塁を背にする祠は仁田氏を地神として祀る祠か?

作業小屋の建つ広い平坦地形域(弥生時代の高地集落跡?)を含め北側の竹薮一帯に埋もれる数区画の曲輪群か?。北面の急斜面と低土塁・浅い溝で囲まれた城遺構は、直ぐ西に隣接する仁田城(城域も小規模単郭)の土師川と要衝の山陰道(R9号)を監視の物見を兼ねた居館・屋敷群の遺構と思えるが、 詳細は一切不明。

仁田城
  城山? Ca70m  福知山市野間仁田・大内城山

六人部荘の本家は皇室・院が管領されていたが平安末期の領家は大内城主の池大納言(平賴盛)。承久の乱(1221)に幕府に没収され後:後高倉院に返進されて以降:大内城の城史は不明ですが、旧天田郡の六人部一帯を支配していた豪族に堀氏がいた。中六人部の大内から興ったもので先祖を堀左京亮貞政と云い!!??、
仁田城の虎口か?:三方土塁囲みの北西端から主郭に入る

室町時代中期頃:文安年間(1444-497)守護:細川勝元や政元の奉行<天田郡郡司>として堀孫次郎が仕えており、大永年間(1521-28)には堀上総進貞次が居城している。大内城から東南へ延びる低丘陵上の二ヶ所に曲輪【一つは後正寺城・も一つは後正寺古墓と市遺跡情報<分布地図に記されるが城跡と推察されている>】があり大内城を改修して孫次郎が拠ったと推察されます。
土塁主曲輪内から北東面(道路公団管理道側)

北近畿舞鶴若狭自動車道の六人部PA付近、 六人部の大内と宮地区間の低丘陵上を舞鶴若狭道が走るが、其の丘陵部北末端が城ノ尾城館の麓に鎮まる一宮神社に落ちる。舞鶴若狭道は高架橋梁を北へ・土師川とR9号(山陰道)を越え多保市城域を割った丘陵部を特大の切通し道を福知山IC・綾部方面へと抜け出て行く。一宮神社から先に城ノ尾城館に寄って舞鶴若狭道が走る丘陵上に出ると、
仁田城:北面の空堀と主郭土塁曲輪

道路公団六人部PAへの専用林道?に出て、200m程?で林道の峠状に着く。 其処に北行(綾部方面)側の六人部PAがある。大内側の野間 ・仁田へ降り始める林道右手(西)側斜面がなんとも急な切岸 ・其の南東コーナー部が空堀状・・!!?。少し戻った北面:城ノ尾城館との間を空堀 (幅3-5m程)は鋭角に落とした切岸下をL字状に(堀底から高さ約4‐6m)西に廻り、藪の中に竪掘となって落とす。
土塁主曲輪北東面切岸(道路公団管理道側)

北面の空堀の沿っては高い土塁が延び、 中程に”地神さん?”を祀る小祠がある。「丹波志」に古城主仁田和泉守と云い子孫無しとも・・記され、また和泉守は長田村の高橋氏 (高橋屋敷)に討たれた?か、今に墓有りと云い:土塁を背にした祠は城主:仁田氏が地神として祀られたものか?。
西面切岸と栗林から中央奥の土塁虎口?に進む大手道!!?

土塁線は西へ延び・更に高さは低くなるが北へと曲輪の三方を囲む。 福知山市遺跡情報の分布地図位置を見るかぎり仁田城は広範囲のケシケ谷遺跡内を分断する北近畿自動車道(舞鶴若狭道 )と六人部PAの建設予定敷地内・完成する自動車道の幹線道路・上下線から六人部PAへの導入線上にドップリ収まっており、完全消滅したものと諦めていた。遺跡情報には1985年発掘調査され・
西面:土塁虎口!!

確認された遺構状況では、単郭の城で土塁 ・空堀が確認され、出土した陶器・瓦器・磁器等から室町時代 (南北朝が合一した明徳期<1390->から始まる足利幕府の時代)とされる。遺跡調査報告書を見ていないが、情報内のコメントに壊滅 ・消滅の文字を見ない事・単郭で土塁・空堀も確認できたので、分布地図のポイントが誤りと思い・此処を仁田城としてレポートした。
土塁囲みの主曲輪:祠の東側の堀切側土塁に入る上り土塁

なを仁田城からは尾根続きに約800m程南方に堀氏の大内城・後正寺城が在る。城ノ尾城館や仁田城はともに六人部郷の大内城 ・後正寺城の支城として機能したものと思われますが、仁田氏と掘氏の関係・高橋氏との闘争の件をはじめ、城史は未調査のため不明です。

(福知山市遺跡分布図/丹波志 を参照)

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