1.芦田均  2.出口王仁三郎 3.春木一夫 4.多田繁次 5. 大野唯四郎
6. 田 艇吉 7. 中井権次 8.安藤広太郎



芦田 均 明治20年(1887.11月15日)〜昭和34年(1959.6月20日 71歳 ) 政治家

竹田川と土師川の合流地点近く・天田郡(福知山市)中六人部(むとべ)村宮の村長:鹿之助の次男として出生。明治44年東京帝国大学卒業、元代議士・鹿之助の子で大正元年 (1912)外務省に入り大正3年・ロシア、大正3年結婚しフランスへ、昭和7年までトルコ・ベルギーの各大使館の書記官、参事官を歴任し昭和7年(1932)衆議院議員となり ジャパン・タイムス社長、慶応大学講師となる。
芦田均生誕地・夏雲荘

戦後:鳩山一郎と日本自由党の結成に参加し22年自由党創設に関与、後に民主党を結成して犬養健の後を受けて総裁となり片山内閣の外相兼副総理となり昭和23年(1948)3月社会党と連立内閣を組織して首相 (第47代・内閣総理大臣)に就任したが10月には昭和電工疑獄事件の責任をとって内閣は総辞職する。昭和33年3月まで衆議院議員として25年勤務され昭和34年6月71歳で死去。戦後日本の復興に大きな功績を残された。日本の満州進出を批判し大衆の政治参加を当然と考えるリベラリスト(自由主義者!)であり又、小説家に憧れ夏目漱石に 師事した文化人でも有りました。生涯・職業欄に「文筆業」と書き、尋ねられれば「議員で飯は食っていない。議員で飯を食うようになったらお終いだ」と応えたといいます。元総理は職業欄に”文筆業”と書き 「議員では飯を食っていない。議員で飯を食うようになったらお終いだ」と言われています。
丹波市国領の足立家(中足立家)

芦田均氏は柏原中学(現:柏原高等学校)への通学には丹波市春日町国領(国領城近く)にある親戚の本家:足立家に下宿していた事があり外交官になるのが夢であったと云う。下宿先が写真の中足立家かどうかは知らないが流泉寺の直ぐ側に有る立派な屋敷です。流泉寺が国領城(三尾山城主:赤井幸家の下屋敷)なので訪ねた際、寺への細い車道(昔は篠山から瓶割峠を越え国領から福知山方面や丹後の成相寺への西国霊場に向う 遍路道として栄えた要衝でした)を挟む立派な屋敷側を通ります。望楼の様な一部三階建ての中足立家と車道向の東足立家は”ほんや”本足立家の分家です。

(現地:生誕地看板等案内板を参照)


出口王仁三郎
 明治4年(   )〜   年(   )  宗教家(大本教)

南桑田郡穴太生まれ。幼名を喜三郎と呼び上田主水すなわち円山応挙7世の孫である。
大本教教祖・出口直の末娘  澄子の養子となり大本教教主となる。


 
春木一夫
大正7年(1918)〜昭和57年(1982)

氷上郡山南町和田で生まれる。
昭和34年(1959)42才のとき兵庫県警察を警部補で退職して作家生活に入る。昭和57年12月(享年64歳)
平成2年10月山南町和田の薬草薬樹公園に春木一夫文学碑が建立される。
小説の他「兵庫史探訪」「謎の丹波路」「兵庫史の謎」「兵庫史を歩く」等々



多田繁次
  明治39年(1906)〜 年(19 )   登山家(氷ノ山の自然を守る会会長)

氷上郡春日町で生まれる
兵庫県自然保護協会神戸支部長
著書に「兵庫の山々」 「兵庫ふるさと散歩北神戸の山々」「低山遍歴神戸近郊の山々」




大野唯四郎
  天保10年(1839)〜明治17年(1884)

R175号の旧市島町役場に「自然と文化とこころ豊かな愛育の里」の看板が立つ。福知山市境の下竹田石原地区の車道側に「愛育大野唯四郎翁xxx」の顕彰碑(案内説明板)が 地区自治振興会によって立てられている。児童福祉の先覚者で愛育社を設立し孤児救済に尽くした大野唯四郎の名や「愛育」の言葉について丹波市民でも福祉や教育関係者・地元市島町の人たちを除けば知る人も少ない!!。
愛育堂跡碑(養子として入った大野家の跡:下竹田石原)

此の顕彰碑から溝谷沿いに石原地区内へ入って直ぐの地区道傍に「史跡愛育堂址」の碑が建てられています。もとの顕彰碑(大野唯四郎翁の説明・略歴板)まで戻ってくると、竹田平野の田園風景が拡がる北方の低丘陵には唯四郎慈善碑(明治44年2月建立)が参道の山門内に建てられる法楽寺の大きな屋根が見える。石原より少し西の森地区から竹田川を北に進んだ田圃の畦には明新校址の石標柱が埋まる。幕末の天保10年(1839)氷上郡葛野村(氷上町)上新庄の豪農 :土倉平右衛門の五男として 生まれた八太郎は幼年期より受けた学問:儒教精神(万物に対する愛念)を身につけた。文久3年(1863)市島町石原の豪農:大野三郎兵衛の養子となり 唯四郎と改名します。幕末〜明治維新を迎えての激動の時期。維新後も浮浪児童は多く子供達は外国の宣教師達の世話を受けていた。自国の人々が放置して現状に手を差しのべなければと痛感し事業に 私財を投じて共鳴していた。治4年:廃藩置県の施行で 新政府の基礎が確立されても政情は定まらず庶民の生活は逼迫し、その日の生活にも喘いでおり浮浪弧児も多かった。
明新校跡(下竹田)

予てより情勢を憂えていた大野唯四郎は時の太政大臣:三条実美卿に棄児・弧児愛育救済事業の緊要を進言し採択され博愛・仁慈の協力と共に明治8年愛育社の前身となった 収容施設により事業を開始する。明治元年(1868)28歳の頃より孤児を引き受け養育し、貧民の子への米や金の救済にも力を尽くす。当時は幕末の動乱期で農民の生活は苦しく各地で一揆騒動が頻発していた。明治5年(1872)豊岡県より其の行いが認められ表彰を受ける。明治8年(1875)頃からは私財を投じて本格的な弧児救済活動を初め資金援助・協力を得る為各地へ救援活動行脚を行い捨て子には身元調査をして 養育の手筈を整え大坂島ノ内にも弧児の収容施設「愛育舎」を設立します。此れは更に三条実美の助言を得て・明治19年には 唯四郎の意思を継いだ井上三豊治(旧岸和田藩の武士)により篤志家の賛同を得て堺市妙国寺境内に児童養護施設「大阪愛育社堺支社」が開設され昭和27年には
=人を愛する心:育つ心:社会に貢献する心を育てる=社会福祉法人愛育社(堺市中区八田南之町)として 組織変更され存続しています。
唯四郎の慈善碑(下竹田樽井の法楽寺)

明治11年(1878)明治文化の先覚者:岸田吟香より下竹田の育児所を「愛育堂」と命名され長三洲の書になる「愛育」の木額を受け翌明治12年には下竹田の施設が公に認可されました。いま此の木額は竹田小学校玄関に掲げられています。明治13年には大阪島ノ内の育児施設も 公認開設の許可を得て「愛育社」としてスタートする。唯四郎の事業が:ようやく軌道にのり始めた明治17年(1884)越前永平寺に於いて不慮の死により、近代国家への鼓動を聞きながら45歳で其の生涯を閉じた。
(大野唯四郎:市島町史実研究会 現地:大野唯四郎顕彰碑説明板  等参照)


田 艇吉 嘉永5年(1852)9月6日 - 昭和13年(1938)11月17日

丹波市山南町側から笹場峠を越えると下小倉の大部谷(大部谷城の麓を)に降りてくる。田艇吉は嘉永5年(1852)9月6日氷上郡柏原藩領(現:丹波市柏原町下小倉)田文平季胤
(田家系図には先祖忠助の長子 :季繁以後に諱〈いなみ:一族のみに許される呼び名で実名を避ける習慣からか !?”季”が冠せられており艇吉は季剛>)の長男として生まれた。代々大庄屋を務めた豪農で安政6年:8歳で村医の長沢順方に師事し読み書きを学び文久3年(1863)12歳で小島省斎に入門するが翌・元治元年には柏原藩儒となった省斎に随して柏原に移り学問を修めた後明治2年 (1869)18際で病弱の父に代り村の自治等に関与するようになり、明治5年:21歳のとき豊岡県福知山支庁に勤務。
磯尾柏里作成の田艇吉翁顕彰碑とJR柏原駅舎

明治10年 (1877)26歳で家督を相続し田家11代当主となり明治12年:28歳のとき3月に第一期県会議員に当選・7月には氷上郡書記・10月には氷上郡長を歴任します。明治17年柏原銀行設立(明治17-昭和3年)に関与し・県道改修の鐘ヶ坂トンネル開通に奔走し工事の発起・計画促進(明治13年)に始まり明治16年(1883)に 竣工を迎える。旧氷上郡と阪神地区を結ぶ鉄道誘致にも尽力され 阪鶴鉄道(大阪-軍都・軍港の舞鶴を結び 30-37年にかけて敷設され、明治28年に阪鶴鉄道株式会社を創立し取締役に就任<明治35年迄に三選>。明治32年に柏原-福知山間が開通し・明治37年(1904)同社の取締役社長に就任された。現:福知山線の前身)、其の間にも明治24年(1891)衆議院議員に当選し第一回帝国議会に参列。 その後明治27年(1894)迄に当選4回・自由党)。
磯尾柏里作「関西氷上郷友会」(贈:傘寿記念)の達磨像

明治28年に衆議院議員を辞し住友財閥の銀行部支配人・常務代理人となり、翌29年本店支配人兼銀行監査役に就いている。明治32年には大阪氷上郷友会の発起人となり明治35年(1902)東京・京阪神・氷上郡在住の有志による「氷上郷友会」を結成。明治40年九州炭鉱汽船<株>を設立。明治42年(1909)大阪市会議員に当選。翌43年には帝国電灯・明治45年-大正元年に掛けては由良電灯・千日土地・柏原電灯・関西信託銀行を次々と創立。<”松藾鶴影の”田艇吉翁年譜から>
松藾鶴影は 艇吉翁の法名「…松藾鶴影居士」からの命名だが、号を松鶴とも称した艇吉の南画が有名。郷士の書画の一つとして織田神社内にも掲げてあった様な?。丹波地方の開発・発展に捧げられた大先覚者で会社創立・経営・政治(氷上郡長・県会議員 ・衆議院議員)にと多大な業績を残された田艇吉翁は昭和13年(1938)11月17日永眠享年87歳。
山南町:日吉神社(彫刻師初代・中井言次君音)

前年の昭和12年6月6日艇吉氏の銅像が入船山(柏原八幡神社)麓に建立されたが戦中の金属類供出により昭和18年取り壊されていたが地元柏原町の彫塑家:磯尾柏里氏(石造に柏原八幡社の狛犬・田すて女<木彫>他に多くの作品がある)により昭和41年(1966)11月3日田艇吉翁寿像がJR福知山線柏原駅(駅西から駅東側に移されているが)に再建されました。
(Wikipedia及び 松藾鶴影<艇吉翁寿像再建記念(昭和43年版)>編集者:松井孝禎は
 松井挙堂<郷土史家で氷上郡史編纂や著書に丹波人物史・丹波史年表 …>の実弟 を参照)



中井権次 丹波柏原住人・彫刻師:中井一党

丹波市山南町日吉神社本殿西側の脇障子 には二十四孝か?中国故事の一を表わしているらしい彫刻が施された裏板面には”柏原町住人 中井言次君音”の彫刻師名が刻まれている。本殿建築や各所の彫刻が中井家一統の手に成るものなら少なくとも 町指定文化財級なのだが未調査の様子(レポート2009年11月)。
山南町日吉神社本殿向拝虹梁西:舐め獅子?・中井言次君音

中井家は丹波柏原の地に在って ・江戸時代後期から昭和初期に掛けて社寺彫刻師として活躍し近在に名声を博し、其の多くの彫刻作品は兵庫丹波・三丹(京都丹波・丹後・但馬)・播磨等:近畿一円の寺社に遺されているが中井家の初代から3代までは大工職だった。
大護神社:中井権次正貞の波兎

初代中井(橘)正清は宮大工の棟梁として中井一党を率いて柏原八幡社の造営等に携わり、徳川家康に仕えて江戸幕府の京都大工頭の地位に あった名工・名門で法隆寺の修理・江戸城・日光東照宮・大坂城の築城等にも関わっている。この時期の社寺彫刻が中井家・一党の誰の手になるのか知らないが中井家4代目(彫刻師としての初代)中井言次(君音)定忠 <享保7年(1722)-天明7年(1787没)・正清とも!?>、
大護神社脇障子:中井正貞の獅子咬

2代目中井丈五郎正忠<文政元年(1818没)>、3代目中井権次正貞<本名:丈吉 安政2年(1855没)>からは子孫が中井権次を襲名。4代目中井権次正次<文政5-明治 16年(1823-82)、5代目中井権次正胤<安政元年-昭和3年 1854-1928>と続くが6代目中井喜一郎<明治5年-昭和33年 (1872-1958)>のとき柏原から丹後宮津に移転して彫刻師:中井家一統の丹波柏原町の時代を終えます。
柏原八幡宮三重の塔:2代目中井丈五郎正忠と3代目権次正貞か?

JR柏原駅前から丹波新聞社・田ステ女誕生地・柏原八幡社に通じる石田本通り(太鼓櫓のある通り)には小さな町の短い通りに本屋が二軒もあった。其の一軒が通りの中央付近に中井一党6代目が宮津に移転された後も中井家親族の方による中井書店で昭和の中頃?まで残っていた。閉店されてしまったが子供の頃”貸し本”のマンガを借りるのが楽しみだったが。中井一党の残した社寺造営と 彫刻作品では冒頭に記した丹波市山南町の日吉神社に彫刻師としての中井家初代中井言次君音(中井権次<橘>定忠)。
大護神社:本殿天井の龍:中井正貞

地元:丹波市柏原町室谷(柏原病院の南方の集落で室谷坂を石戸・奥野々に繋がる間道 坊ノ奥?丹波の森公苑へ続く 山南町との境界尾根北麓)の氏神として稲荷神社が祀られている。覆屋に架かる扁額・なかに鎮まる稲荷神社社殿正面欄間には小さな社殿を圧倒する量感で迫力ある竜の彫刻が施されている。 稲荷神社はもと柏原藩織田家の藩邸に祀られていた社殿が明治10年廃藩置県により織田家が東京に移住の際此の地に遷されたという。
室谷の稲荷神社:3代目正貞?

運び込まれた手水石には(奉納xxxx元文4年(1739)巳…)とあり、扁額は織田信?【<のぶより>後期織田家4代目藩主在任(天明3年−文政10年)】による文化11年(1814)の揮毫。扁額と共に社殿欄間の”竜の彫刻”も移遷の際に 新しく彫られたものなら中井権次は3代目中井権次正貞による作品か?。稲荷社が藩邸に祀られた当初からのものなら竜の彫刻は初代中井言次の手になるものか?。綾部市の高津八幡宮本殿には2 代目中井丈五郎正忠、柏原町:柏原八幡神社の三重の塔や神崎郡市川町の岩戸神社、笠形神社には2代目:中井丈五郎正忠と3代目:中井権次正貞。
新井神社の神猿:3代目正貞

丹波市氷上町大護<おおもり>神社・柏原町新井神社の神猿や篠山市味間の文保寺に 中井権次(橘)正貞篠山市本郷の春日神社には 中井清次良橘正用(権次正貞の弟)≪地元:中井工務店主樣より報告を受け、春日神社祭禮の際・本殿内部に入ったが刻名は草山村史(再編復刻版)で確認。建築に関わり同姓でも有り今後も調査を続けられる事でしょう≫。


安藤広太郎 明治4年(1871.8.1)-昭和33年(1958.10.14)

JR柏原駅前右手(中央)から北方の丹波新聞社側へ通じる石田通りには織田藩の”つつじ太鼓櫓”が移築されているが藩政時代からの商家が遺っていた地区だが田舎町の商店筋に二軒もの本屋があった。子供の頃・親戚の叔父宅 (通りの中程に在った)に遊びに行く度・貸本のマンガを読み漁ったのが通りに出て直ぐの中井書店(寺社彫刻で有名な中井家一党が若狭に拠点を移した後も 残った中井氏の親戚)だったが奥谷川を渡る手前にも谷書店が在って此方は 安藤広太郎の親戚(氏の伯父方)筋。
柏原藩陣屋前に設置されていた農学者・農学博士の安藤広太郎氏【作造は磯尾柏里の手に成る】 胸像が陣屋調査復元工事により数年前(4-5年前か?)石田通りの自治会所有地(生家跡?)の一角に移設された。
胸に文化勲章を飾る安藤翁の胸像:磯尾柏里作

安藤広太郎は明治28年東京帝国大学農科大学農学科を卒業後・明治31年には日本の風土に則した農業技術の開発研究を目的に設置された国立農事試験場技師として寒さに強い稲を作り出し、冷害に苦しむ東北地方で米の収穫量を増やす等、農業近代化の先駆者として技術の改良・発展と稲の研究に尽くされた。農学者加藤茂苞(しげもと)【山形県鶴岡市出身】とは水稲の品種改良に共同で取組み、世界で初めて”イネ”の人為交配による新種の作成に成功。これ等・農学の第一人者としての功績が認められ 昭和28年には文化功労賞・昭和31年(1956)11月3日文化勲章を授与されたことから其の功績と栄誉を讃え胸に勲章を飾る 磯尾柏里による胸像が昭和32年建立された。
(現地案内板・Wikipedia・文化財散歩…を参照)
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