夜久野町V:下夜久野駅周辺 鳴岩城・荒神城・井田城・日置谷城・関垣城 ・高内城他
福知山市 (五万図=福知山・但馬竹田)
佐治街道から山陰道へ・千原峠越えの間道から 2010年04月04〜24日
近畿の山城 : 鳴岩城 荒神城 荒神東城 : 井田城(谷城)
       日置谷城 高内城  関垣城 神谷城・日置城 

額田川を挟んで望む月輪山東光寺と鳴岩城

丹波市から福知山市夜久野へ向かうのに、R427号(遠坂峠越え)かR483号(北近畿豊岡自動車道 )遠阪トンネルを抜けて朝来市側からR9号線を東に向うか?、福知山市街地からR9号を牧川沿いに走ったが、府道527号線の「ゆずりトンネル 」貫通で便利となり、早速利用したレポートは千原の山城(千原城・扇山城等)を夜久野町Tで紹介しています。夜久野町千原からは北へ約1km程で R9号線額田で山陰線踏切りと交差点に出る。
月輪山東光寺参道から望む荒神城

JR下夜久野駅へは約 150m程の地点で井田・額田・旦(だん)へ国道筋北の狭い地区道が通じていますが旧山陰国道で、その北(山側)には、 211m峰から南へ延び出す多くの枝尾根先に城跡・寺跡の遺構を残しています。額田交差点北正面の丘陵端に井田城(谷城)。西へは船岡山長福寺(夜久野郷随一の真言宗名刹だったと云う)本堂跡を妙龍寺へ通じる細い簡易舗装の墓参道が 旧山陰街道で、此の広大な高台の地形は南側に、
鳴岩城南側:断崖状上部の土塁線

文殊院跡・西之野(西之坊跡地一帯は墓地)となっているが、旧山陰道を足下に見る崖状急斜面上に在って居館・近世陣屋跡とも見えるシチュエーションです。西端の所化谷に降り此処に在る妙龍寺側から 旧山陰国道筋に出るが、西之坊跡地(墓地)の所化谷側も20m程の激斜面で、古墓地は・そのまま段曲輪の様?。
舟岡山長福寺遺跡昔の山陰街道から尾崎ノ坊跡をみる

此処からの西面は足下に見る妙龍寺の屋根の並びには、丘陵末端部が寺に迫る尾根先台地が山城曲輪そのもの。長福寺が在った頃・妙龍寺は他所に在ったと云い、丘陵上の遺構は地図上には福知山市遺跡情報に・何の表示も無いが、岸を切る数段の曲輪 ・曲輪を繋ぐ上り土塁虎口らしいものや、背後の尾根続きには自然地形かも知れないが、
荒神城土橋付き堀切

土橋・土塁道状が長く延びてその先には大きな堀切(方堀切)が東の急斜面を所化谷に落とす。旧長福寺の寺院堂宇跡なのかもしれません?・・が、 旧山陰街道が現 :妙龍寺東側・所化谷の細く深い谷間を抜けて、街道の面影を遺す旧山陰国道に出てくる逆 Z字地形の一角を占めて、此れ以上無い・街道の通行監視の適地でもあり、城郭遺構とも思われ妙龍寺城とも仮称してみたい!!??。
荒神東城(仮)妙龍寺:平坦地形は長福寺遺跡か?・城砦遺構か?

西隣に荒神城が在り ・大油子地区に向う極狭の地区道が鳴岩城麓の東光寺からも通じます。此の三城が共に呼応する位置にあって、 荒神東城の呼称の方が関連付け出来て判り易いかも。此のあと紹介予定のR9号線沿いに日置谷城・関垣城・高内城を訪ねたあと、
井田城登城口は賀茂神社から

高内城の西麓を牧川沿いの府道56号に右折します。大油子地区の山城レポートは夜久野町Uで大油子玄武岩・秋葉城・熊野城・段城等を紹介していますが、日置谷城の東麓から山道が、奥山城からの尾根筋を越えて通じています。
日置谷城谷底まで落ちる高い切岸

大油子地区に在ったという大油子城と居館は、段城が居館、 単郭ながら土塁囲みの主曲輪をもつ熊野城か菅谷城が大油子城ではないかと推察できるのですが、此の三城の立地位置が、下夜久野の R9号線沿いに築かれている鳴岩城からと日置谷城の麓が南からの玄関(侵入)口ともなっています。特に旧山陰街道筋を考えると井田からは下町・上町を抜け鳴岩城麓の旦(だん)に出て現R9号
日置谷城谷底まで落ちる高い切岸
主郭西端の大土塁から一気に落ち込む崖は自然地形の高切岸 ・麓を捲く谷も濠として取り込む

(山陰街道)と合流する。上夜久野方面へは基幹山陰街道についで、大油子へ通じる此の2本の間道が一般道としてよく利用された裏街道 ?だったのでしょうか?。鳴岩城とは牧川を挟んで南側の 「向」には神谷城(未訪)が在る。日置城(未訪)も山陰道・牧川沿い南の丘陵上に在り、山越えの間道(山道)が中千原から上夜久野へ通じる府道 56号の「末」に出る。末と千原からは千原峠(遠阪峠)越えて丹波市にも通じます。
関垣城採石場の頂部に遺構が残る

北方へは大油子との南玄関口となる井田城〜鳴岩城と日置谷城〜高内城の城砦群は、南方へは日置谷城等から末を経て遠阪峠(千原峠)または、 井田城等からは千原に抜けて千原峠(遠阪峠)を越える。此処に紹介する諸城は京都丹波と但馬を結ぶ山陰街道を無論のこと・兵庫丹波の氷上郡(丹波市)への北玄関口を警護・守備する位置にあたり、
高内城:自然地形でも城遺構とも思えない大空掘!!?

黒井城主赤井氏のとっては天田郡を領した統治に、 天田郡を制圧し丹波黒井城攻めの明智光秀の援軍・羽柴秀長等にとっても、天正7年(1579)5月:但馬側からは末を、福知山・宮津・舞鶴方面からは、わざわざ朝来市山東町側から遠回りして遠阪峠 (R427)を越えたとは思えず、中千原から千原峠 (遠阪峠)を越えて<現在:R427の遠阪地区・R483号の遠阪IC>侵攻する為の軍を整えるに恰好の位置に在るように思えます。



鳴岩城 荒神城 荒神東城: 井田城(谷城) 日置谷城
 高内城  関垣城 神谷城・日置城


鳴岩城(月輪城・旦ノ上・額田城)  月輪山 Ca160m  福知山市夜久野町額田字鳴岩・中舶

鳴岩城は牧川沿いに並走していたJR山陰線とR9号(山陰道)と分かれて、府道56号沿いに流れを変える地点。大油子〜奥から旦へ出てくる峠越えの山間道と、高内・日置のR9号沿山陰道に挟まれて300〜200m程の低丘陵の東先端部が落込み、額田川が牧川に流れ出る地点は、 二つの川が丘陵麓を削り落とした河川段丘の崖状を呈しています。
月輪城(鳴岩城)の居館跡か?・・宝楼閣の建つ広い平坦地

川瀬の音が岩壁に反響して岩が鳴る・・ところから鳴岩と呼ばれたと云う。旧山陰街道を抜け出た旦(だん)の西正面には、額田川と南側には牧川を外濠として、高い崖上の台地に建つ東光寺と其の背山の月輪山が、 其のまま居館と”詰め城”セットの山城の姿を彷彿とさせます。下夜久野村誌に額田・旦・月輪山頂付近一帯に月輪城が在るとされ、 「丹波志」には古城旦ノ上とある。”旦(だん)や段”の地名や字名は、在地城主の居館を示す場合は多い(殆どそうではないかと思える程)。
居館跡?と主郭間の鞍部曲輪の土塁線

額田川に架かる月輪橋を渡り、東光寺山門前を通る狭い?地区道は大油子に通じるが、其の谷間の出口が字名:段で段城(居館)がある 。”旦ノ上”とは詰めの山城で、旦の居館と旦ノ上の月輪城とがセットで構成された城郭と推測出来ます。月輪城(保険センターや月輪山 <ガチリンサン>東光寺の建つ旦(だん)や、其の下方「馬場」の地名が残る一帯が居館跡と思われますが、寺の開基・創建・由緒等は
鳴岩城主郭と堀切側土塁

未調査なので不詳ですが、寺裏手から幾段も続く集合墓地の平坦地は、南の山陰道・東には旧山陰街道や 大油子に通じる出入口を正面に監視出来る。家臣団屋敷としても良さそうです。墓地群を抜けた丘陵尾根部には、 R9号からも目立つ中国寺院の塔の様なコンクリート製!?の建造物(宝楼閣)が建つ。塔入口から階段が塔に上に通じ最上階は展望所になっている様だが既に「危険につき・・・」の注意書がある。
鳴岩城主郭土塁の西下部:尾根続きにある土橋付堀切

周辺に点在する観音霊場八十八ヶ所の創設記念に築かれた記念塔の様です。集合墓地から続くミニ観音霊場の最奥が此処が?。北端に祠が祀られ南端に記念塔が建つ長い平坦地形は(幅約15X45m程)ひろく、整地され旧状不明ですが月輪城 (鳴岩城)の出曲輪というより・此処が居館ではなかったかと思えます。
鳴岩城:主郭北の空掘状土塁虎口

発起人の荻野氏・衣川氏の銘からは、夜久野の多くの城砦が城史不詳・不明ながら、丹波守護:仁木氏に付いて丹波守護代を務め、南朝に味方し守護代を解かれ、山名氏に付いて再度守護代に・・・丹波氷上郡葛野荘(氷上町)の実在人物らしいが謎も多い人として、鎌倉期〜南北朝期:龍ヶ城の荻野朝忠や、中世後期!?の千原城主衣川氏との関連が、此の地・此の城にも関連有りそうに思えてもきます。
鳴岩城:主郭北の空掘状土塁虎口

室町末期:足利13代将軍義輝 :天文15〜永禄8年 (1546‐65)頃には武蔵国からの来住を伝える夜久相模守の居城と云われますが城史不明。仁の乱【応仁2年(1468〜)】に丹波守護 :細川勝元と但馬守護:山名持豊(宗全)の間に起きた「夜久野ヶ原での合戦」以降・国境の夜久野に内藤氏・山名氏の狭間に立つ在地領主土豪の中にいた夜久氏の動向は不詳ですが、
鳴岩城主郭北面の帯曲輪見る切岸

天田郡(現福知山市)を領した黒井城主赤井氏配下の城砦として 、京・兵庫丹波を攻略後丹波守護:明智光秀の所領となって以後の夜久野の諸城にあっても、廃城・改修して使用されたか等城史に関する情報は少なく不明部分が多い。八十八ヶ所霊場廻り記念の望楼?:宝楼閣の塔側から尾根伝いに進むと、河川段丘の断崖を形成する天然の要害に建つ鳴岩城の城郭遺構が見えてきます。僅かに下がって・激急斜面となる小規模単郭の主曲輪 (幅約15m<広い部分で 20m程か!?>X30m程)への登り手前鞍部の、南側端を土塁で固めた曲輪を抜ける。

荒神城:南曲輪からの竪堀!!?


急斜面を登ると月輪山頂の鳴岩城で北方の角に土塁虎口を儲け西方の尾根続きに土塁を積み、其の下方に土橋付堀切を設けている。 残存遺構に竪堀も確認されているようですが、土橋付空掘を越えた西尾根続きに緩衝帯の様な尾根の南側に竪堀らしい溝が有ったが・・?。どうも最近は竪堀症候アレルギー?、北面の尾根や斜面に堀切等防護施設が無いのに、 天然の要害となる南側激斜面の竪堀など、自然崩壊に思えてくる!!。
(下夜久野村誌 を参照)



荒神城(額田由利城・荒神山城・殿奥)  荒神山 Ca120m  夜久野町額田字由利・北天井

千原の山城(千原城・扇山城等)を訪ねた後、中千原集落から北へ小峠を越えるとJR下夜久野駅も近いR9号の額田交差点に出る。一つ北の筋に入ると、狭いが両側には整然と宅地が軒を連ねる通りがある。井田から西方の旦へと続き、 牧川との合流地点も近い枝流の額田川に行き当る旧山陰国道筋で、南へ100m程で現:R9号に北は奥集落を過ぎ、 額田川沿いに大油子地区に通じる間道?があります。旧山陰国道は幾度か基幹・山陰街道とは離合しながらも併走し此処で合流している要衝監視の重要地点だったのでしょう。
荒神城:主郭部北の土橋付堀切

額田川を挟んで西正面の河川段丘の崖状上の台地と丘陵頂部には鳴岩城(月輪城・額田城)が在り、北には直ぐ 50m程先の民家脇から金属製梯子で取付く丘陵上には荒神城が在りました。荒神城は、額田・奥・旦(だん)地区を境する尾根の先端部に位置して、 主郭部(南端曲輪〜北尾根側土橋付堀切まで)は東西におよそ100m程・幅広い中央付近で40m程か。城域は南の額田から2〜3の削平段を越えて主郭部に入る。
荒神城:主郭部の櫓台状は円墳のマウンドか!!?

主郭部は東へ突き出し、北方への尾根続きに少し拡がりを見せて底辺の長い三角型をしている。・・が中央と左右角近くには ・ほぼ同規模のマウンドがあり土壇は櫓台を思わせる。径15m前後・高さ5m前後(横穴式石室を持つものはも少し大きい!?ものが多い )の古墳時代後期の円墳は木棺直葬が多い。 此の城に限らず土壇のマウンドは、古墳の墳丘を利用されているものと思えます。
荒神東城(仮称)所化谷に落とす断崖状東壁(中央右手に片堀切)

福知山市遺跡地図情報には荒神城の位置がズレて、城砦遺構のある丘陵の東側谷間を荒神城域として記されているようですが、併せて天井古墳群として 4基程の古墳群が記されています。これ等が主郭内の古墳なのかj確認 ・確証はしていませんが山城の施設として土塁 ・櫓台等に有効利用されている例は多い様ですね。主郭部から北に続く尾根筋には、土橋を伴う堀切・曲輪の間を区切る空掘が尾根端まで堀切られている箱濠か?、または別の用途の削平段か?が有る。
荒神東城(仮称)尾根を斜めカットして落ちる片堀切

さらに北の大堀切も自然崩壊や山林作業道として破壊されたものか判然としないが、 此処までを城域として確保していたものか?。牧川上流の夜久郷(夜久野町)に荘名は不明(残っていない)ですが、南北朝期より安国寺(綾部市・足利尊氏の母堂を祀る)領・建仁寺領となっていました。官吏や城史等は不明ですが、 鳴岩城同様に室町末期武蔵国からの来住した夜久氏一族とおもえる夜久道蘊(どううん)が城主として居城していた様です。


荒神東城(仮称)  xxxx山 Ca90m  夜久野町額田字本堂   長福寺跡!?

JR山陰線の額田踏切りを渡るとR9号 ・其処から一筋北側へ入っていく幅狭い額田集落内の道は、郷愁さを感じる嘗ての街道筋だが、此処は未だ旧山陰国道筋。北東へ進む集落内の地区道は井田城への取付点 ・賀茂神社への参道下を通ってR9号に出る。直進する地区道の右手には丘陵先端が車道端にまで迫まり、車道沿いに西へは10m程の高さで200m程続き丘陵端が南と西端に落込むところに妙龍寺があります。
額田川を望む西面の帯曲輪から南端曲輪を廻り主郭に入る

此の間の丘陵上は広い台地が拡がっており、東半分の文殊院跡は長福寺遺跡として空地が拡がる。西半分の西之坊跡は大部分が集合墓地となり、 細い通路を隔てて北には長福寺本堂跡とあり、石鳥居から続く石段参道の先には八幡社が祀られ、石鳥居側には菩提樹の巨木が立つ。
荒神東城(仮称):妙龍寺に迫り出す広い南曲輪

旧山陰国道筋から崖状上の台地に上り本堂前を抜ける細い道が基幹道の山陰街道で、西之坊の集合墓地北を通り所化谷に出る。谷筋を避けて鋭角に南へ折れて妙龍寺と西之坊跡(墓地)西の崖状裾を抜け旧山陰国道の街道筋に出る。所化谷は谷幅一杯に拡がる平坦地形だが河原ではなく沼田池の様で、 谷は深くないが谷に迫る両斜面は急峻で、とりわけ西側は崖状の高い天然の切岸。
荒神東城(仮称 )主郭の尾根続きに土塁道と大きな片堀切(竪堀)を見る

尾根上は高低差少なく、尾根続き城域端?部からは 竪堀状の大きな溝が所化谷下まで落込んでいる。自然地形としては出来過ぎの城郭遺構は尾根に登ってみて更に強まり、西に突き出す台状の丘陵先端部が妙龍寺の屋根に覆い被さる程に切岸を立てて迫って見える。荒神城の東約400m程 ・共に幹道の山陰街道を見下ろす位置に並び、呼応した城か?。
荒神東城(仮称)土塁道の西面に崩れ埋まってか?数段の不整地がある

妙龍寺背後の台地に残る遺構は、片堀切・細い土橋状の尾根筋はそのまま少し幅広となる土塁道となって続く・数段の曲輪・・・等々城遺構?と思えるが、唯一:主郭西北端に石積も残る。 西の緩斜面は広く、数段の曲輪が在ったが土砂による崩壊で曲輪の判別が難しくなっているのかも?。 それなら主曲輪の切岸と土留めを兼ねた石積 ・石列なのかもしれませんが、夜久野T・夜久野Uと今回の諸城を見ても城遺構と断定できる加工石積は殆ど無い。
荒神東城(仮称)主郭西北端切岸の石積!!?

船岡山長福寺は夜久野郷随一の真言宗の名刹だったと云われ、現在:妙龍寺の建つ地所字名が本堂と呼ばれ、長福寺の在った場所として 「丹波志」や東光寺(鳴岩城のある月輪山の!!?)の古文書等により確認されています。旧長福寺の堂宇跡だったのでしょか?。応仁の乱以後の山名氏 ・内藤氏との抗争や、黒井城主:赤井氏や・赤井氏を滅ぼし丹波を領した明智氏に翻弄され、
井田城(谷城)主郭内の石塁は谷城経塚の盗掘孔

どちらかに付いての攻守・敗走した抗争の記録もなく、城史に関しての伝承さえ乏しい夜久郷(夜久野町)の城砦群です。永禄〜天正年中(1558−79)天田郡(福知山市)や何鹿郡(綾部市)は氷上郡(丹波市 )三郡は黒井城主赤井氏が領しており、永禄年中:織田方につく事で三郡を安堵されており、赤井忠家(高見城主:黒井城主赤井<荻野>直正は叔父 )による夜久野の商家 (酒屋等!?)に対して賦役や徳政令免除の免状を出している。信長の「丹波攻め」には総大将:明智光秀や羽柴秀吉等の援軍に天田・何鹿を失ない黒井城も落城した天正年中。
輪郭状の曲輪を積む井田城(谷城)

奥丹波一帯を制した明智光秀が福知山城主として此の地を領していたが、 伝承によると羽柴秀吉が当地に兵をすすめた際・長福寺を陣屋にする事を、領主光秀の後難を畏れ意に従わなかった為、秀吉政権下で寺は滅亡の悲運を辿った・・と歴史的真相が不明であるが・・。ならが旧長福寺(現:妙龍寺の位置 )に街道要所の砦が築かれ、光秀や秀吉の頃は山陰街道が境内を抜ける :遺跡碑の立つ現在:長福寺跡の高台に移っていたのでしょう?。

(下夜久野村誌 を参照)


井田城(谷城・白首)   城山 166m   福知山市夜久野町井田字谷

福知山市街地から下夜久野へは R9号線一本で来れるが、丹波市青垣町から穴裏峠か狭い榎峠越えで和久川沿いのR429に出て、府道526号「ゆずりトンネル」を抜けて夜久野町千原経由、千原からは北へ約1km程でR9号線の山陰線額田踏切りと交差点に出る。
井田城(谷城)空掘土塁と切岸

正面の丘陵部先端部が東北方 :牧川沿いのR9号線と、 牧川に流れ出る畑川沿いに北上する府道707号との分岐点へ落込む地点で、明正小学校・井田公民館の西方約200m程。賀茂神社 (神社へは麓の集落から徒歩で参道<山道>を登る事になります)裏山山上への登城ルートです。此の尾根先のピーク166mは城山と呼ばれ、山頂部の広い円形(約30u)の主郭を軸として、
井田城(谷城)主郭下段:空掘土塁と切岸

東南へ延び出す尾根筋に同心円状の段曲輪(各曲輪幅は約 4〜5m程の小曲輪)を廻す井田城(谷城)が在りました。井田城山麓の北から東へは今西川が流れ畑川に合流し、 三つの川に三方を自然の濠に囲まれ、北西へ延びる尾根筋を除けば比較的急斜だが、賀茂神社付近が平坦地形だが、境内に入る付近は虎口かと思える片堀切状と3m程の切岸を見る。
自然地形の大空掘を挟んで加茂神社の対岸にも平坦地がある

社殿との間に大きな空掘り状を見て対岸にも広い2〜3段の平坦地は山城セットの居館跡さえ 感じさせる。 尾根筋の先に屋根と外郭だけが残り内装も壁もない”奥の院”風の廃墟が木戸・番小屋に見える。急斜面をひたすらに登ると、 山頂部主郭下部を半周する土塁囲みの空掘(横濠)が有る。小規模山城遺構の中に有っては圧倒的に自己主張している様!!。神社から此処まで結構急斜面だったが最初の曲輪!?の、
賀茂神社参道上部に虎口を思わせる空掘状・土橋・上り土塁状!!?

輪郭状最下段?は高い土塁 (1.5m程だが崩れて低くなっているものか!?)と傾斜は急でもないが 切岸高い曲輪を背にした小曲輪が有る。単郭・梯郭式や連郭式の多い山城遺構にあっては、此の様な輪郭状の山城遺構が有る事に驚きですが、 他には堀切や竪堀を見ない天然自然の要害地形。築城時期や目的・城主等の城史は不明ですが、曲輪に切岸を落とさず、土塁空掘を廻す近在の夜久野町には無い縄張りには、陣城では無いかとの疑問を感じます!!。
井田城(谷城):最下段の切岸は高く傾斜も急!!

山頂主郭部中央付近には土壇!!?ではなく中央が窪んだ石塁!!?を見る。 山頂に炭焼き窯もないだろう?・・・葺き石で覆われた古墳か・・とも?。竪穴式石室にしては石材が小さ過ぎるし、木棺直葬にしては窪地の中まで 散在する石材が多過ぎる!!?。下夜久野村誌には城史についても、此の石塁に付いても触れられていなかったが、後日調べ谷城経塚である事、盗掘孔が有り半壊状態で有る事を福知山市遺跡地図で知った。
井田城(谷城)主郭下段:空掘土塁

なお府道707号線沿いの畑川上流:畑には建武の頃と文和1〜2年(1352-3)丹波守護代を務め、 山名氏家臣ともなっていた荻野朝忠(氷上郡葛野<かどの>荘 (丹波市氷上町)の龍ヶ城が在って、 夜久野町の歴史に欠かすことの出来ない城と人物なので上記鳴岩城にも触れています。
日置谷城主郭西端の櫓台 ・土塁の先は崖となる自然地形の大切岸

応永年間(1394-1428)夜久郷を押妨していた荻野出羽入道常義は、荻野朝忠の嗣子で丹波葛野荘から移住していたようです!。 延徳年間(1489-1492)頃の下夜久野は夜久豊後守重種が知行していたと云う。人物像も何処に居城したかも不明ですが・・!!?。
(下夜久野村誌 を参照)


日置谷城   xx山 Ca150m   福知山市夜久野町日置字日置谷・関垣

JR夜久野駅周辺の井田城〜鳴岩城の諸城も小規模で、この地に武蔵国から来住した夜久氏が、どの城を本拠城としていたのか?、支城と区別出来そうな規模や縄張りをもつ城砦が無い?。南北朝以降:夜久郷(夜久野町)は足利尊氏母堂を祀る安国寺(綾部市)領や建仁寺の寺領で、荘園領主等の領地を巡る争奪の記録も無さそう?。
日置谷城・主郭に入る土塁虎口を望む

文明年間 (1469-87)細川氏に付いて、西軍の山名氏方を勝竜寺城 (京都府長岡京市)や倉橋(椋橋)城(豊中市)・中嶋城(大阪市淀川区)等に攻撃した丹波国人衆の中に、 負傷しながらも活躍した夜久氏の活躍があり、細川勝元や勝家の感状に夜久主計充・夜久出雲守の名がみえる。
日置谷城:主郭東から北斜面に落ちる竪堀

応仁・文明の戦乱期に、細川氏に参戦従軍した夜久氏ですが、山名氏の但馬国と境する・此の夜久野の領地を守備した一族の本拠城は高内城か?此の日置谷城に在ったか?、未訪だが更に南方の山城 :日置城だったか?。牧川沿いのR9号線(山陰道)JR夜久野駅を通り、先日訪城した荒神城・鳴岩城を右(北方)に見送って西走、R9号線の道路標識 「夜久野町日置(へき)」を見る車道
自然地形の切岸上?に築かれた土塁

北側の民家近くに迫る独立低丘陵上に日置谷城がありました。R9号南側に出光GSがあり行先チエックの目印にはなるが、 土地勘なく勝手を知らず通り過ぎたが直ぐ先には”いねむりパーキング”が有り絶好の駐車スペース。 しかも北側に有る採石場の掘削フエースの頂部には関垣城が在る。駐車場を探して無駄なタイムロスをするよりは、
自然地形の切岸上?に築かれた土塁

此処から日置谷城を往復して効率よく関垣城へも登城出来る。道路標識「日置」の先・GS付近で国道一つ北側の地区道に向うと、斜上する車道林道入口に大師堂か?、お堂が建ち此の付近や先にも駐車スペースは有りそうです。西向いの丘陵裾には燈篭・顕彰碑?と思える石碑が建ち、転用されているのか?珍しいレンガ造りの祠に地蔵尊が祀られ、 祠に傍らには一基の五輪塔も立つ。
東尾根上の段曲輪を繋ぐ上り土塁

これ等については何の詮索もせず、丘陵上方に向う細く急な踏み跡を辿ったが、梯郭式に続く段曲輪からの北斜面下には、墓地が散在し、一部の曲輪内も墓地になっており、北面の墓地参道からも取付き点は多そうですが、流石に主郭を置く西面は山裾には溝谷があり、溝谷を越えても断崖状から激斜面、其の斜面に迫出すほどに築かれた幅広い櫓台土塁が応戦・防備を固めています。
日置谷城:段曲輪の中にも墓地が・・・


山上部を城域として築かれた日置谷城の半独立丘陵裾を、 東〜北〜西へ半周して墓地が点在し、西北端から南へは自然地形の深い溝谷が天然の濠を刻み、 幅広い櫓台土塁を築く日置谷城の主郭が、此の谷に落ち込む崖状の激急斜面上に在る。主郭部の規模・縄張りからみて単郭の高内城は居館か館城で、 梯郭式で守備籠城兵の確保要員数も多く必要・高内地区の4城を見る限りでは日置谷城の方が本拠城 ?として分がありそうに思えた。


高内城(長者屋敷)    xx山 Ca190m     福知山市夜久野町高内

牧川に併走していたR9号と分かれ、 牧川沿いに府道56号が大油子地区に向う。此の分岐北東丘陵尾根端の高台に育英小学校(旧中夜久野小学校)が建つ。武蔵国入間郡(埼玉県)の部将:河越重頼の子:重時を先祖とする夜久郷の地頭:夜久氏の本拠地は中夜久野の高内地区に有ったものか?夜久氏の居館 ・長者屋敷の位置や遺構について不詳ですが、育英小学校正門の正面と校舎の間に塚が有る。
高内城:祠 (秋葉社?)は南曲輪!?

中丹地区でも最大級の長者森古墳(直径約23メートル・高さ約 5メートルの横穴式石室をもつ円墳で、古墳時代後期の築造と推定されます)が在る。明治37年:現 ・育英小学校の建設工事中に発見されたもので、 長者森の名からも小学校一帯の高台の夜久氏居館が在ったのではないかと思えます。小学校裏手から続く背後の丘陵の尾根端のピーク標高約190mに高内城が在りました。
高内城:大空掘 !!?下の小曲輪は木戸・番小屋か?

R9号線を小倉方面から降ってくると、裾を流れる牧川、大油子へ向う川沿いの街道筋 ・高台の校舎や丘陵上の高内城を想定すると、山陰街道の要衝監視・居館と詰めの山城セットの築城目的や構図が想定出来ます。応仁の乱【応仁2年(1468〜)】に丹波守護:細川勝元と但馬守護 :山名持豊(宗全)の間に起きた「夜久野ヶ原での合戦」以降・国境の夜久郷に内藤氏・山名氏の狭間に立つ在地領主土豪の中にいた 夜久氏の動向は不詳ですが文明年間(1469-87)細川氏に付いて、西軍の山名氏方を勝竜寺城 (京都府長岡京市)や倉橋(椋橋)城(豊中市)・
高内城:腰曲輪から主郭に入る上り土塁と空掘!?

中嶋城(大阪市淀川区)等に攻撃した丹波国人衆の中に、 負傷しながらも活躍した夜久氏の活躍があり、 細川勝元や勝家の感状に夜久主計充・夜久出雲守の名がみえる。応仁・文明の戦乱期に、細川氏に参戦従軍した夜久氏ですが、 山名氏の但馬国と境する夜久郷の領地を守備した一族の本拠城は 高内城だったのでしょうか?、日置谷城だったか?。それとも・・・??、延徳年間 (1489-1492)頃の下夜久野は夜久豊後守重種が知行していたと云う。
高内城主郭に建つ排水施設

人物像も何処に居城したか不詳ですが、 中夜久野や上夜久野の夜久氏も不明!!?。天正年中:奥丹波一帯を制した明智光秀が福知山城主として此の地を領していたが、伝承によると(荒神東城参照 )羽柴秀吉が当地に兵をすすめた際 ・長福寺を陣屋にする事を、領主光秀の後難を畏れ意に従わなかった為、秀吉政権下で寺は滅亡の悲運を辿った・・と歴史的真相が不明であるが・・。 秀吉が表立って此の様な行動は無かったと思えますが、秀吉が播磨・但馬・丹波から京への連絡・通路を確保するため、高内城主と思われる夜久主計頭に其の協力を依頼するための文書を羽柴秀長 (秀吉の弟)が送っている。
高内城尾根続きを遮断する大堀切

天正7年黒井城攻めの際 :秀長軍は但馬から遠阪峠を越えて東芦田城・山垣城等を其の日のうちに落として迫りますが、遠阪峠は朝来市山東町からではなく?、但馬から夜久氏の領内に入り、氷上郡(丹波市)以外の領主は殆ど黒井城主赤井氏から離れ ・また秀吉方に降りていた筈。 夜久氏も明智に付きついで秀吉に付いたものでしょう。夜久野町日置から末に向い此処から千原峠(遠阪峠)を越えたと思えます。衣川氏の千原からも此の峠を越える。5000人程の軍事行動なので、無駄な時間と労力の消費は極力避ける必要が有るはずです。R9号側の高内郵便局から北に直進すると育英小学校東側に出るが、
”いねむりパーキングの上が関垣城

北側の地区道を東に進み二つ目か三つ目?の角を北に折れて宅地内を進むと、 田圃の東北に神社の鳥居が見えるが、平行するように西の宅地側を山麓に向うと、土留め垂木を渡した木階段の参道が祠(秋葉社か?)まで続く。広い曲輪に出たと思ったが面積のほぼ半分程はクレーター、人為的にしては大き過ぎる空掘りであり武者隠し・・?、水の抜けた灌漑池とも思えない。西方の小倉や北西方には大油子玄武岩、東方約800mの関垣城も東斜面は採石場跡があるが、 此処に採石場跡の痕跡は無く?石材が散積している様子も無い。

関垣城主郭下の腰曲輪:急斜面足下が R9号線

崖上に祠の屋根が見える。更に上方に向うと単郭の主曲輪 (22mX18m程の小規模な郭)に入る。腰曲輪を廻し2m程の切岸上にはフエンスに囲まれた配水施設が建つ。主郭背後の尾根続き斜面下には大堀切が城域を遮断する。 主郭南の腰曲輪からは急斜面でもなく、曲輪・堀切・竪堀等施設さえ見ないまま 育英小学校裏に降り立った。


関垣城  xx山 161m  福知山市夜久野町日置字関垣

福知山市街地を北上し、牧川を渡ると直ぐ大江町から宮津市、 天橋立から丹後半島へと向うR175号・R176号線分岐点の牧。由良川河口へ約2km程の地点です。此れよりは牧川・JR山陰線に併走してR9号線を走りますが、 此処のところ立て続けに訪れたJR下夜久野駅周辺の山城を思い起こしながら通り過ぎ、道路標識に日置(へき)の名を見る。
関垣城:帯曲輪と低い段差の主郭

此処に日置谷城が在るが狭い地区内に駐車スペースを見つける土地感無く、通り過ぎた先の「いねむりパーキング」に車を寄せたら、其処が関垣城への取付き点。日置谷城も遠くない距離なので此処より往復してから、いねむりパーキング西端のフェンスの間jから、小さな溝に渡された板橋を渡る。墓石が一基祀られているが中世期以降の墓碑の様だが、
関垣城主郭:北面の土塁囲み曲輪

山裾の藪の中に古墓でもあるのだろうか?。 採石場跡の削り取られた岩斜面との境・リッジ沿いに登るのが、苦労無しに登れそうに思えたが、脆く崩れそうな不安定な状態の様なんで、植林された斜面に廻り込んで倒木を越え、リッジ通しの頂部付近を目指して急斜面を詰め上がる。無理して直上せずとも・取付き点から西面の尾根上を目指せば、山裾の2〜3段の曲輪から主郭西〜南下の腰曲輪、4等三角点標石の埋まる土塁曲輪に登り着く。
関垣城主郭南面:三角点標石の埋まる土塁(左端)と堀切を挟む主郭部(右上)


土塁背後は堀切 ・8m程の切岸上に帯曲輪と2m程の段差で主曲輪が有る。主曲輪(約20X40m程)は削平 ・土塁も崩れ荒れているが区画したものか?低土塁の痕跡を見る!!?。東端へも段曲輪があり、少し下部の曲輪で採石場跡の断崖となる。城域は更に消えてしまった東の空間に延びていたと思えますが、下夜久野・中夜久野の諸城の規模から考えれば、此処も小規模な単郭の城で、 東端の物見の出曲輪でもあっ有ったものか?。
関垣城主曲輪:低土塁による区画跡か?

西〜南〜東の城域南面は急斜面で主曲輪下部に僅かに段曲輪を見るだけですが、西〜北〜東の北面は尾根続きへは緩斜面で鞍部の到達出来る様で、堀切からも北へ長く延びて落ちる竪堀、他にも2本ばかり?の竪堀や、 高い切岸と土塁曲輪で防備を固めている様です。東方約400mには日置谷城が在り、西に約1km地点には高内城が在る。築城時期や城主等の城史は不明ですが、共に山陰道警護で呼応する夜久氏の城だったのでしょう。


神谷城と日置城
神谷城  xx山 Ca120m  福知山市夜久野町額田神谷・鴨峠

JR下夜久野駅周辺の山城群は、昨年も同時期に井田城・荒神城・鳴岩城を訪ねているが神谷城は牧川を挟んで南に位置し、北方正面にはR9号(山陰道)と分かれて、府道56号が旦(だん)から奥?大油子へと上夜久野方面に向かう。 此の街道分岐付近・府道沿いの谷川を挟んで東に荒神城・西に鳴岩城が在る。
神谷城取付点(左手奥)

神谷城が対岸の此れ等の城塞群と呼応しあった夜久氏関連の城かは、城主・築城時期や目的等の城史不明ですが、神谷城の西方・日置山 (329m)山頂一帯の尾根に大規模な縄張り遺構を展開する日置城との関わり深いものと思われます。
石段道側から落ちる竪堀(片堀切)

城砦群の連絡ルートがあったとは思えないが、神谷城から293m峰に出て、314m(3等三角点・点名:矢原 )から日置城(329m)へと尾根が通じてはいます。殆んど知られることもない無名?の山城をライフワークとし、山を観れば山城が判ると豪語され周辺の城砦群を隈無く攻めている城フアンの方でも、
切岸段側を抜ける階段道と谷間の細い通路は虎口?

此の山城を見過されているようです。 山城としては里からは余りにも遠く・峻険な山上に在る日置城ですが、標高でも劣る無名の峰々は登山対象としても魅力がないのか?、 「山あそ」さんの数年前の登山レポートを見るだけです。日置城(後述)の位置からみて、
大堀切と主郭北面の土塁を積む切岸

東北方の要衝・山陰道を守備の諸城の旗城か?。東方は榎峠を越えて丹波市へ抜ける・和久川沿いのR429号線から、府道526号で 「ゆずりトンネル」を抜け夜久野町下千原へ降りてくる。R9号線下夜久野へは中千原から約1km程の距離で、千原川沿いに上千原を経て夜久野町末に至る。
主郭南側の堀切と土塁を越えて延びる長い平坦地形

此のルートは天正期の信長による「丹波攻め」に明智光秀と其の援軍が、 黒井城主:赤井直正の領内・氷上郡(丹波市)に大軍で侵攻した際、遠阪峠(R427号線)を越えて攻め込んだとされていますが、 若狭方面からの軍と合流して福知山方面から進攻したルートとするには遠く・また高く急斜です。遠阪峠越えは但馬方面から侵攻。
主郭南:尾根続きの堀切と長く延びる平坦地形

大隊はR9号(山陰道)から千原川沿いを末に至り、末から千原峠を越えて遠阪(現:北近畿豊岡自動車道の遠阪トンネル南入口<遠阪IC>)に出たと思えます。国境越えの千原峠は近年までよく利用されていた間道で、明治期:花嫁が越えた道でもあり丹波市側と末地区に ・いく組みかの縁籍関係も有る様です。
夜久野町きらめき館前の公園から神谷城(正面上?右手上)

当初は日置城への取付きを南側の”末”からと考えていたが、神谷城に寄った後だけに地図を見ると北からは、少し牧川沿い西に進み、 JR架橋が牧川を渡る手前から”末”へ峠越えの破線ルートを辿ってみる。先走り過ぎたので神谷城への登城ルートに話を戻します。
神谷城を後に牧川沿い・・JRとの交差付近南に日置山城を望む

R9号「下夜久野駅」の西300m程で左折し、牧川を渡って直進すれば稲茶山善照寺(本願寺派)に着く。集落内を西へ進むと額田児童館裏手・真南側から南へ石垣積みの段差に畑地と民家が建ち、直上する急な石段道は、 右手に2?3段の墓地跡?らしい平坦地を見るが
日置城:南郭(主郭)南の切岸と南曲輪

2m程の切岸段の脇を通る虎口状?を抜ける。墓地跡?向いの石段の端から切り落された急斜な深い竪堀状(片堀切)は自然崩壊によるものか?。 福知山市遺跡情報による遺構に土塁・竪堀・堀切とあるが、竪堀や片堀切状を、ほぼ直線的に延びる幅狭い尾根幅一杯を削平して並べた曲輪の左右斜面下に曲輪・帯曲輪は付属せず、尾根筋に見かけないので北の取付き付近の足下から落ちる 深く長い崩壊状が竪堀なのでしょう。竪堀の7?8m先にある虎口?までの左手は谷なので、遺構と見れば技巧的縄張り!!?。
日置城南郭(主郭)

少し登ると藪の平坦地に配水施設跡が残る。尾根側への登り口が、施設拡張跡とも思えない土塁道 ・尾根幅いっぱいの削平・三方の切岸は曲輪跡だった様子。細長い緩斜面の先で、尾根筋が少し幅広くなると低い段差の二曲輪の先に堀切と土塁を積んだ高い切岸を見せる主郭
日置城北郭 (副郭):マウンド(櫓台!?)から左右の尾根にも曲輪群が続く

(幅15mX長さ約30m程)が有る。尾根続きの南側に浅くなった堀切 ・崩れ殆んど高さも失われているが僅かに遺る土塁跡からは、細長い緩衝地形の平坦な尾根が南に向かう。先述しているが、尾根続を日置城へも繋げられるが未トレース。神谷城と日置城の城史・関連が解れば、 連絡ルートとして途中に城塞遺構が在るのかもしれませんが!!?。
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日置城  日置山 329m  福知山市夜久野町額田・日置・末字矢原(男島)

福知山市遺跡情報による分布地図上の夜久野町末には日置城の他・城遺構は記されていないが、末には位置不明ながら末城と末居館が有る様です!!?。末には府道526号「ゆずりトンネル」を抜け下千原に下り、中千原から小峠を越えて下夜久野の額田へ出る。神谷城へは此のコースで R9号線額田に出る出前・牧川を渡らず左岸を”向”の善照寺にむかったが、
日置城南郭(主郭から北面帯曲輪)

中千原から千原川沿いに上千原?末に向かう。末城と末居館は此処に在った様?です。 千原城(愛宕城)は「丹波志」天田郡の章に:奥州(岩手県)衣川より入封した衣川越中守が築き後に衣川下総守が居城して、 江戸時代寛文5年(1665)12月に卒したという。
南郭(主郭)帯曲輪から尾根北へ回り込む曲輪下に堀切が

家老に加藤氏が居り共に子孫・等村に在り・・という。日置城は衣川氏来住以前の中世期の城だが、遺跡地図に記載の無い末城の地区城主も、 千原城の衣川越中守で、衣川下総守も居城した様です?。日置山(日置城)の主稜線西に点名:鉢ケ谷(三等三角点 288m)が有り、
北郭(副郭)側平坦段から切岸高い南郭(主郭)<下段に堀切>

山頂北側斜面付近は市の遺跡地図にも”日置銅山跡・鉱山精錬所跡” とある。宝暦年間(1751-64)頃に開設され、採鉱・精錬が行なわれていた数段の石垣積・ズリや鉱滓が見られる。精錬跡や位置からは疑問だが、 採石場が南面に有れば千原川の名からも、血の様な赤い水が流れ出た血原(千原)が語彙なのかも?。
北郭(副郭)から西へ折れる主尾根側には二重堀切が

衣川氏が銅山監理・守護の為・末城を築き、居館や其の監吏・監督所を置いたのかも・・!!?。末城=日置城かとも思えたが、城史の詳細は不明で・・そのうえ下夜久野村誌に、四方を山に囲まれた此の地は城を築くには不適で、塁等の山城遺構は無く・城では無い・・と千原城を解説されるようですが、 領地支配するにはあまりに奥深く、
北郭(副郭):櫓台か方形土壇

高所に位置する日置城の存在は知られていなかったのでしょう?。日置城を挟んで主稜線上の西に点名:鉢ケ谷(3等 288m)、 東には点名:矢原(3等 314m)がある。此の矢原や千原(血原)の名からは合戦場を想像するが、一帯の歴史を知らない。
北郭(副郭)から北尾根曲輪群へ土塁道を下る

ただ南方へ続く山道をとり丘陵尾根を越える二本の千原峠が丹波市側のR427号線遠阪に出て佐治宿に向かう。神谷城レポートにも記した様に、天正7年(1579)明知光秀の”丹波黒井城攻め”援軍として駆けつけた羽柴秀長の大軍が、若狭・方面から福知山市経由・夜久野から但馬朝来市側から遠阪峠を越えて侵攻するには、 あまりに遠廻りの上・高く険しい峠越えです。
南郭(主郭)から北へ延びる尾根末端曲輪と手前左下へ竪堀が一条落ちる

牧川沿いから下夜久野井田・額から下千原経由で”末”に至り千原峠越が使用されたと考える方が、 比高も高くなく・近道のうえ道幅も比較的広くて石積みも見える緩斜な山道は、近世まで地域の生活道でもあって、 大軍で一挙に侵攻出来る事からも充分に考えられます。この際には千原の諸城や日置城は、千原川沿いに氷上郡へ侵攻する羽柴秀長軍の先導を果たしたものか!!?。
北郭からの枝尾根直下の段曲輪と中央右に土塁道(上り土塁)

千原峠は朱銀の奥山433m東鞍部・時代は不明だが 手掘りトンネル(”やまあそ”さんHPに画像有り)が遺る)を越え遠阪峠下の南入口(北近畿自動車道遠阪IC)付近に出る。 ”鉢ケ谷”山頂付近に”日置銅山跡・鉱山精錬所跡があるが、千原峠近くの”朱銀の奥山”の名からも鉱山だったか?。 丹波市側青垣町の遺跡地図のは数ヶ所に精錬跡が有り鉱滓等が発見されている様で関連があるのかも?。
北郭からの枝尾根曲輪群内の堀切

神谷城から額田児童館裏手に降りてきて、地区内の「夜久野きらめき館」前から西へ牧川沿いに日置城への取付き点に向かう。地図上には対岸のJR山陰線が牧川を渡る架橋付近の南から 夜久野町末に峠越えの破線(山道)が抜ける。此の丘陵尾根の峠の尾根北方400m程に329m峰も日置山が有る。此の山頂部の東西主尾根と、 南郭(主郭)から北への枝尾根上・北郭(副郭)から北への枝尾根上に大小・合計30程の曲輪群を置き、其々は主尾根から高い切岸(5?10m程)を下った先に、
南郭?北郭の長い連絡曲輪群

北郭枝尾根には城域の中程に堀切・南郭枝尾根の先端部には竪掘、副郭(北郭)から西へ折れる主稜線尾根の段曲輪間に二重堀切と一本の堀切を見る。 城史不明・訪城レポートもWebでは未だ見ない大規模城郭を素人が推察するには痴がましいが、南郭・北郭から北へ延びる枝尾根からは牧川沿いR9号を望むが、在地の一領主の築ける城では無さそうで、今後の調査を待ちたい。


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