夜久野町T:千原の山城  千原城・東シ千原城(仮称)・扇山城
福知山市 (五万図=福知山・但馬竹田)
佐治街道から山陰道へ・千原峠越えの間道から 2010年04月03日
近畿の山城 : 千原城 扇山城 東シ千原城(仮称)
府道526号(深山川に架かる日之出橋)から千原城

旧加佐郡大江町に千原(せんばら)城があり、旧天田郡夜久野町にも千原(ちはら)城が有る。 旧加佐郡と福知山市を中に挟んで東に旧天田郡三和町・西には旧天田郡夜久野町があり、加佐郡と二つの天田郡??が近年共に 福知山市に統合合併されたが、福知山市も元々は天田郡のなかの一町村。
東シ千原城から扇山城(取付きは山裾の無線中継アンテナ施設)

丹波市と境する東播磨側の旧多可郡黒田庄町が西脇市に統合されたが、西脇市も元は多可郡の一町村で、 多可郡中町・八千代町 (現:多可郡多可町)・黒田庄町に挟まれていました。丹波市から西の(旧天田郡)福知山市夜久野町の上夜久野方面へは、R427号で遠阪トンネルを抜け朝来市山東町からR9号を東に走る方が無難?。 R175号の塩津峠越え福知山市街地からR9号か、県道109号線で穴裏峠を越えて、
千原城から東シ千原城 (左手丘陵尾根末端部)山裾を府道526号が通る

榎原に出てR429号から府道526号を小牧 (烏帽子山城への登山口)までは行けたが、千原峠で途切れていた車道も、開通成った”ゆずりトンネル”を抜け下夜久野・上夜久野へ通じる様になったので、R526号を利用するが、 林道よりも狭く折曲するR429号榎峠越えでR526号線の「談」に合流する車道を走ってみた。このルートは以前:烏帽子山城訪城の際に法用集落から徒歩で丹波市へ戻った道。”ゆずりトンネル”を北に抜け降り切った下千原集落には 福知山市遺跡地図に記載されている千原城・扇山城、及び東シ経塚跡には未掲載だが城砦遺構が残る東シ千原城(仮称)を訪ねてみる。



千原城 扇山城 東シ千原城(仮称)


千原城(愛古城・愛宕城)  城山 Ca110m   福知山市夜久野町千原下千原

基幹街道の山陰街道(R9号)の下夜久野駅からは、間に低丘陵を挟んで約1km内に有り、 佐治街道(丹波市青垣町〜福知山市を抜けて丹後・若狭方面に通じた街道筋)から小牧経由で千原に入るにも 烏帽子山から延びる尾根上の千原峠(注:後述の千原峠とは別【近年やっと・ゆずりトンネルの開通で車道が通じた府道526号線】の千原峠を越える。
千原城:主曲輪を囲む大土塁(足元)から二ノ丸まで延びる土塁

R9号からはJR下夜久野駅東の「額田交差点」で南へ踏切りを渡り、 小峠を越えると526号に合流します。千原城跡は北に千原川・南に深山川(奥山川?)と、二つの谷川に挟まれた丘陵の尾根先に位置した比高 40m程の丘陵上に在って526号側の公民館前から深山川(下夜久野町誌には奥山川とある)沿いに進むと、谷川を挟んで集落内の車道が二本に分かれる橋の直ぐ手前から北(右手)に入ると、車庫側の路地の先に、
千原城:城内最大規模の広い曲輪:三ノ丸

巡視路の様なガード付き階段が崖状の斜面に架けられており、丘陵上の城跡に通じており、 果樹園かと思える程に広い平坦地形の三ノ丸に着く。「丹波志」の天田郡の章には:奥州(岩手県)衣川より<中世末期 :関ヶ原合戦前後と思われますが!!>来住した愛古城主(千原城・愛宕城!?)衣川下総守が居城して寛文5年(1665)12月に卒したという。
三ノ丸(正面)と二ノ丸(手前)を完全に分ける幅広の大空掘

家老に加藤氏が居り共に子孫・等村に在り・・という。城史の詳細は不明ですが、龍ヶ城の金鶏伝説に似て ・柿ノ木のもと金の鳥が・xxx?・・とか、廃された荒城となった城跡には歳長けた白まだらのキツネが住みつき、 一夜のうちに福知山城に走った・・・xxx等の伝承が残されています。下夜久野村誌には・四方を山に囲まれた此の地は城を築くには不適で、塁等の山城遺構は無く・城では無い。
千原城 :主曲輪の切岸をさらに切立てる大土塁と大堀切

そうであれば居館跡としか受けとれない・・・と!!?。 しかし山間や谷間を抜けて丹波市青垣町遠阪に越える千原峠道。千原川沿いに西へは中千原でJR下夜久野駅・額田・上千原を通りR9号上夜久野へ、 東へは旧天田郡境を越えて福知山市梅谷でR9号線の基幹街道山陰道に出る。南へは此処も千原峠ですが「ゆずりトンネル」で下戸・小牧へと福知山市に通じる四つの間道が交差する要衝とも云える地点。
千原城:三ノ丸に入る北東下の土塁虎口

千原城の低丘陵尾根続き西の鞍部に屏田(へいだ)・城跡とは深山川向かいの畑地は殿堂(とのんど)屋敷・公民館から 扇山城に向かうと、千原川に架かる門田橋を渡る。526号沿い東シ千原城 (仮称)北の田圃の地は殿田の小字名が残る・・果たして・・・。千原城は他にも在ったのだろうか?。
千原城三ノ丸(最上段)の西北に切岸高く規模の大きな帯曲輪が二段

此の城の大空掘・大堀切・主郭の南面:大堀切側には櫓台可能の幅広(2〜2.5m程)の大土塁が在り西端土塁は途中で切れるが、 東端は切岸上部を二ノ丸側迄延ばしています。北の尾根先側 (衣川下総守の供養碑が建てられていたらしい・・)が大手筋らしく、城中最大規模の曲輪(35mX25m程)三ノ丸へは、北東側に上り土塁から溝状の土塁を通って入る虎口もある。 北側は二ノ丸・大空掘・三ノ丸にかけて、高い切岸下に長く広い帯曲輪が二段並ぶ。
主郭堀切外のピークから北へ馬蹄形に延びる尾根上にも段曲輪が!?。

武家団の屋敷跡か?、いずれも北端へ先窄まりで大手筋に延びていて、三ノ丸に入る虎口か虎口受け曲輪に入る様です。 主郭部の主曲輪と二ノ丸を大堀切で遮断・三ノ丸と二ノ丸間を・これまた7〜8mと幅広い空掘で分けられています。二ノ丸は此の空掘り端から本丸側まで一段の石列が延び、低い段差で二ノ丸を二区に分けています。 果樹・畑なら溝状の筈なので城の遺構と思われますが・・?不明。主郭大堀切から外(西南)へ延びる円状の尾根から南へは低丘陵を下って、屏田(へいだ)とよばれた鞍部の 平坦地形へ。西北へは緩やかな馬蹄形の自然地形ですが、 尾根上に数段・曲輪を載せている様に思え、尾根先を千原川に落としています。地元でも城山と呼ばれており、残存状態は良く・ほぼ完存する城遺構だけに「下夜久野村誌」の解説文が気懸かりです。
千原城上り土塁から土塁虎口を抜けて三ノ丸に通じる

中世の千原城の他にも、衣川氏による江戸時代初期の藩邸 ・陣屋が造営されていたものか・・? 天正期の頃の城史は不明ですが、丹波黒井城攻めにおいて、天正7年(1579)5月:但馬から遠阪峠を越えてきたとされる羽柴秀長軍ですが、宮津方面からの侵攻でも有り、 福知山方面からは下夜久野の額田辺りから千原に入り、 千原城麓を奥山川沿いに千原峠を越えたと思えます。但馬へ繋ぐ遠坂峠は要衝ですが、千原峠も兵庫丹波を結ぶ往来も有り、 明治末頃までは花嫁も越えた道とか!!。人一人が通れる手掘りの小さなトンネルも残る峠には石仏道標も残る。
扇山城登城ルートにある薬師寺跡:最下段に御堂の礎石が残る

遠坂峠へ遠廻りして嶮路を辿るよりは、短絡で比較的楽な千原峠越えにより、其の日のうちに遠坂城・山垣城 栗住野城 小室城(東芦田城)を攻め落とし氷上城を攻めた大軍勢は但馬側からは遠阪峠を、京都府側からの本隊?は千原城下を抜け・千原峠を越えて侵攻した道ではなかったか!?と推定します。
(下夜久野村誌(1961年)・丹波志(天田郡)史福知山市遺跡地図Web を参照)


扇山城   扇山 225m   福知山市夜久野町井田・千原扇山

千原城から深山川側の公民館前に戻り、府道526号を東に渡り直進すると、 千原川に架かる門田橋を渡ってT字辻に着く。右手直ぐにDoCoMo夜久野千原無線中継施設の無線塔が建つ。此処は深山川が千原川に合流する地点でもあり、二つの川に挟まれた千原城の低丘陵と、 丘陵が集合墓地となっている東シ千原城(仮称)が在る。
主郭北尾根:急斜面下にも二段程の中規模曲輪・更に下には土塁小堀切もある

此処も城砦の遺構が残るが、市遺跡分布地図等に標記はされていないので、 東シ千原城(仮称)としするが、東シ経塚の石積が残る。さて扇山城へは山側に高石垣が残る八幡神社跡から、 薬師寺跡への荒れた山道を辿れば、広い2〜3段の曲輪に着くと堂宇の礎石が残る。後は此の南尾根を辿れば、途中:土塁堀切を見るが土塁に比して堀は浅い。主郭までの間にある曲輪の尾根筋左右には、浅い竪堀状をみる。
扇山城:主郭東下NHKパラボナ・アンテナ(中央上左)と土橋

遺跡分布の扇山城備考欄に遺構として堀切・竪堀が記されているが、此処以外に竪堀らしい遺構を発見出来なかったので、 薄いが此れが確認されている竪堀と思えます!!。扇山山頂(4等三角点225m石標が埋まる)に主郭を置く扇山城へは迷うことも無いが、山頂付近は矢竹・篠竹が密生して、遺構の全容確認は無理っぽいが、 急斜面の北面を除き三方を幅狭いが曲輪が帯状に巻き、東への尾根続には小曲輪が二段程有る。
主郭東尾根曲輪に残る丸い拳大の石材?は手投げの石礫か!!?

しかも小曲輪には付近に見かけない丸味を持った拳大の小石が数多く散在し、崩れ落ちたものか尾根筋下方にも見かける。 山岳戦闘で使用する石礫を集積していたものだろうか?。更に東尾根は急斜面だが、尾根筋左右は崖状の激急斜面となって、 南側には急斜面に・しがみ付く様にNHK(KBS京都)TV中継用のパラボナアンテナが設置されている。
扇山城:主郭東下NHKパラボナ・アンテナと断崖上激斜面

尾根上の幅狭い土橋道を抜けると其の先は、比較的平坦な緩斜面だが、南北の斜面は相変らずの崖状激急斜面が続く。山頂主郭から北西への急斜な尾根筋にも平坦地が残り、激斜面下方にも二段程の曲輪(5mX10m程)を見て、塹壕程度?の小さく浅い土塁堀切までが城域なのだろう。 主郭から二方向に延びる尾根筋はいずれも北面山麓を流れる牧川へ崖状斜面を落とし込む様です。
主郭東尾根・三段程の曲輪最上部が主郭

千原城が中世戦国時代:既に築かれていた城なら、 扇山城・東シ千原城の三城が互いに呼応しながら、福知山方面からの山陰道を、下夜久野の額田や・梅谷からは千原川沿いに千原に入り、 千原城麓を奥山川沿いに千原峠が兵庫丹波市側へ通じ、山陰道の間道としても利用できる。其の監視に当った城ではなかったか?。
主郭東尾根に曲輪遺構か?平坦地形が延びる

山陰道側の北斜面も嶮しい天然の要害地。監視にあたっては旧天田郡の夜久野と福知山側の梅田とを境する位置にもあって、山陰道・牧川を隔てて井田城が在り、 呼応か?対峙する関係にあったものか?。城史については詳細不明ですが、丹波は黒井城主:赤井氏の氷上郡(丹波市)を除き、 京都丹波地方は織田方に落ち、天田郡(福知山市)は天正7年丹波守護;明智光秀の所領となり、地の利を周知している明智方の留守兵の先導でもあれば・井田から額田を千原へ牧川を渡り、
扇山城:薬師寺跡からに南尾根側にも土塁堀切を見る

または扇山城の東から南へと千原川沿いに千原峠(遠坂峠とも呼ばれた )を越え丹波市青垣町へは楽に侵攻出来たのではないだろうか!!。秀吉の但馬攻めは完了していなかった但馬側:山東町からの遠阪峠越えではなく、 此の此の遠坂峠(千原峠)越えではなかったかと思えてきます。
深山川と千原川出合:扇山城取付から東シ城(左の階段道上部)と千原城(右)

扇山城は関ヶ原合戦前後に来住たと推察される衣川下総守(寛文5年)卒した)の千原城とは無縁の城砦と思えます。其れだけに千原城を基城・本城として、山城を支城・出城・物見・通信の城とした中世千原の諸城主等に関する城史 情報は古文書の焼失等で皆無・推察出来ないのが残念です。
(福知山市史 何鹿郡誌・天田郡誌等を参照)


東シ城(東シ千原城)<仮称>    xxx山 Ca100m   福知山市夜久野町千原下千原

夜久野町千原の東シ城は、深山川が千原川に合流する位置から約150m程上流の千原橋?南詰めの地点に在って、烏帽子山(芦田氏・黒井城主荻野 ・赤井氏配下の烏帽子城が在った)から延びる尾根が小牧・千原を分けていた府道526号が「ゆずりトンネル」の開通で繋がったが、此のトンネルを北に1km程下って最初!?の集落が千原、
東シ城:南西端し:鞍部の空掘は幅広い竪堀となり北の谷に落ちる

府道沿い左手(西側)の切立つ丘陵尾根先が突然切れると、 丘陵に挟まれた溝谷の深山川(奥山川)沿いの狭い谷間に民家が建ち並ぶ。谷の入口に公民館とバス停があるが、 細い集落内の道に入っていくとは思えないので、府道から10m程入った公民館のコミュニテー広場?が終点のバス停で転回場でも有るようです。
東シ城:墓地地蔵堂北側の土塁と竪堀

谷沿い直ぐ北側の丘陵部には千原城があり 公民館からは約200m程で三ノ丸広場に着く。東シ城(東シ千原城)と仮称するが、Web公開されている福知山市遺跡分布地図等には 東シ経塚(発掘調査により須恵器の甕・古銭が出土)の遺跡が記されているだけですが城砦遺構が残る。
東シ城:東シ経塚(方形石積)から丘陵先端部を望む

公民館からは100m足らず。深山川を挟んで対岸にあり、丘陵先端部は崩壊防止対策の治山事業により三方が丘陵上部まで、高い切岸を見せて大きく改変されて いるので千原川と交差する街道筋や千原城・扇山城を望み・領内防備や通信等互いに呼応する位置の尾根先西・北・東面に設けられていた筈 ?の曲輪遺構は、削り落とされている可能性が高く、丘陵上の集合墓地へと延びる墓参の長いスロープと階段道・主郭部は削平されて墓地内の西斜面の端まで延びる細長い台地になっています。
東シ城:東シ経塚跡の石積

しかし墓地の丘陵部東北先端部や西南の鞍部に城遺構の土塁・堀切・竪堀が有る。 「東シ」経塚がある事から東シ千原城と仮称するが、名称:東シの「シ」意味が不明!!?。下夜久野村誌には千原城も城では無いと解されているので、 此処に城砦呼称は無さそうで、千原城に対する東方の支城の意味とも思えない。衣川氏が千原城に居城する以前の中世期・既に千原城・東シ千原城が存在し、深山川(奥山川)沿いに兵庫丹波の遠阪へ通じる千原峠(遠阪峠)の入口と、 福知山市側からは佐治街道経由で小牧を越えて千原に降る間道・
東シ城:南西端し:鞍部の土橋?状(右端)と大空掘((竪堀)

旧天田郡:上夜久野から千原川沿いに扇山城の山麓を基幹要衝の山陰街道の 旧福知山市梅谷へ抜ける街道の交差点監視に就いた城砦だったのでしょう。 地方史誌や古文書にも城史の情報は不明ですが、東シ経塚の方形石積遺構が櫓台なら、眺望の良い切立つ断崖状の丘陵先端部にあって、これ以上好条件の見張台もないだろうと・・・思える。調査により出土した甕・古銭の時代によっては、 経塚のマウンドが利用されたか?、古城(応仁の乱頃〜?)の曲輪跡に築かれたものか・・・?

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