夜久野町U:大油子玄武岩の里の山城 西山城・秋葉城・熊野城・段城・菅谷城〜奥山城
福知山市 (五万図=福知山・但馬竹田・出石)
山陰街道から舞鶴・出石・宮津道へ狭間の街道筋!! 2010年04月17〜24日
近畿の山城: 西山城 秋葉城 熊野城: 段城 菅谷城〜奥山城
 大油子玄武岩 広瀬橋の石仏(大日如来!!?) 清海寺の六地蔵石幢と宝筐印塔
西山城から牧川上流 (直見川):右上は居母山か?

JR山陰本線は福知山駅を出ると由良川沿いに、大江町・宮津市へ向う北近畿タンゴ鉄道宮福線と分かれ、牧川沿いにR9号(山陰街道)・JR山陰本線が並走し、下夜久野駅・上夜久野駅を経て・夜久野トンネルを抜けると兵庫県朝来市に入る。丹波市側から車
でなら福知山市の上夜久野方面へは R427号かR483号で遠阪峠か遠阪トンネルを朝来市に抜けて山東町からR9号を東に走る方が近い?。
西山城主郭東面の切岸

下夜久野ならR175号の塩津峠越えで福知山市街地からR9号か、県道109号線で穴裏峠を越えて、 榎原に出てR429号から府道526号を辿る。丹波市と福知山市・天田郡 (現:福知山市に統合)の三国境の烏帽子山城(小牧城:芦田氏の山城で天正期:黒井城主赤井氏の持ち城となった・・)への登山口のある小牧の先で 途切れていた526号線も、千原峠を”ゆずりトンネル”が開通して、下夜久野・上夜久野へも通じる様になった。
秋葉城:緩斜な平坦尾根筋を断ち切る土橋付堀切

下夜久野千原の山城関連は夜久野町T で紹介しています。夜久野町千原の中千原からは北へ約1kmで、JR下夜久野駅も近いR9号線に出る。R9号線沿いの井田・額田・旦(だん)へと、北の丘陵上には井田城・荒神東城・荒神城・月輪城(東光寺域が 城跡か?・・・月輪山頂の鳴岩城の出城か居館!!?)・鳴岩城、鳴岩城とは牧川を挟んで南方の「向」には神谷城(未訪)が有るが、 更にR9号を西にとり日置谷城・関垣城・高内城の在る日置(へき)や高内地区を抜ける。
熊野城へは熊野神社から・・

日置城(未訪)も山陰道・牧川沿い南の丘陵上に在り、山越えの間道(山道)が中千原から 上夜久野へ通じる府道56号の「末」に出る。末は作陶に通じる土地柄の様ですが、これ等は別として ・末と千原からは千原峠(遠阪峠)越えて丹波市にも通じます。 天正7年(1579)5月 :丹波黒井城攻めの明智光秀の援軍として、宮津方面から遠阪峠を越えて侵攻したとされる羽柴秀長軍は、現在ではR483(北近畿豊岡自動車道)で遠阪トンネルを抜けるが、R427が越える遠阪峠もある。
段城(居館)手前城麓の道が峠越えで高内へ向う

千原峠(遠阪峠)はR483がトンネル (有料)へ向う入口近く R427が峠に向う遠阪集落の南端入口から、神社への参道かと思える程広い道が千原峠につづく。手掘りのトンネルが有り「末・千原」を示す道標石仏が残る。千原側も同様で石積等 ・近年まで使用されていた名残を残す。遠く・高く・厳しい大部隊での峠越えの進軍、其の日のうちに遠阪城 ・東芦田城(小室城)・山垣城等の芦田氏・足立氏本拠の城を落とした行動からも遠阪峠は千原峠(遠阪峠とも呼ばれた)の事かと思えてきます。
熊野城主郭

井田城・鳴岩城・関垣城・高内城等:先に訪れながら、まだまだレポートが進まず後廻しになっている夜久野町の諸処山城ですが、 鎌倉期〜南北朝期:龍ヶ城を持城にしていた荻野朝忠 【太平記・・等に登場するが実在人物か?・其の活躍時期が長過ぎる事からは同一人物なのかも疑問視されていますが、丹波守護:仁木頼章の下、建武4年〜康永2年(1337‐43)丹波守護代を務め、南朝方としては兵庫丹波では小島高徳等と 弘浪山の高山寺城に籠もり、また北朝として四条畷の合戦(正平3年1348)に高師直に属して楠正行と戦っている。】
段城:主郭部を区分する土塁

応仁の乱【応仁2年(1468〜)】では丹波守護:細川勝元と但馬守護:山名持豊(宗全)の間にも夜久野ヶ原で合戦となった。 国境の夜久野に荻野朝忠の陰、内藤氏・山名氏の狭間に立つ在地領主土豪の動き、其の後:天田郡(現福知山市)を領した黒井城主赤井氏配下の城砦・・等、何れかの時代や要因に関わるだろう諸城ではあっても、 城史の関する情報は少なく不明部分が多い。



西山城 秋葉城 熊野城: 段城  菅谷城〜奥山城


西山城と秋葉城
西山城  西山(向山!) Ca235m  福知山市夜久野町大油子字西山・平野

夜久野町高内の育英小学校・郵便局の先で上り坂にかかり 直進するR9号は、JR線高架下を小峠に向うが、牧川沿いにJR上夜久野駅や但東町に向う府道 56号線に入り夜久野町大油子(おゆご)に向う。 大油子を流れる牧川(由良川支流)と、地区内から流れ出る枝流沿いの、東西1.5km程の間には市の遺跡地図に 5つ程の城跡が記されています。いずれの城も築城時期や城主等の城史不明の小城ばかりですが、
西山城:尾根続き主郭北下の大堀切

遺構の残存状態が良く植林帯の中 ・訪城時期(4月上〜中旬)も良くて雑木・藪に悩まされること無く観察出来た。 府道56号が左へカーブする地点(バス停)から大油子集落内へと、 直進する地区道正面の丘陵に秋葉城が在る。地区道は直ぐ(約150m程!?)左右へ分岐するT字辻に出る。
西山城:主郭西側の切岸

東に進めば熊野城・段城・菅谷城から尾根続きには奥山城等があるが、 集落内に入らず府道56号の 200m程西に駐車空きスペースも有り、其処からは左右に長く枝尾根を延ばし富士型の優美な姿を 浮き出している西山城のある西山(向山!?)の山容を北に望むが、尾根南端から取り付くには長距離に思え、西へ廻ってみようと府道沿いに歩き始めて山麓の丘陵斜面にブロックを積上げた様な大油子玄武岩を見る。
西山城:南尾根側段曲輪から主郭

大油子地区の西端:牧川に架かる広瀬橋を渡ると JR上夜久野駅は近く一帯は旧火山:宝山(田倉山)裾に拡がる夜久野ヶ原高地。玄武岩の柱状節理が観察できる 小倉玄武岩公園がよく知られたいるのですが、其処から1.5〜2km程の直近の大油子・府道56号車道側にも大油子玄武岩の柱状節理が露呈しています。
西山城 :空掘状に沿って湾曲する上り土塁虎口!!?

広瀬橋の側には奇妙?・奇怪なツノのある石仏【結ばれる印相が智拳印の様で、 大油子の地名が真言宗の寺の山号とも伝わり、真言密教の教主:金剛界大日如来と推察するほうは無難 広瀬橋の石仏(大日如来!!?)】を祀る小祠がある。夜久野周辺の山に宝山(田倉山)<タタラ>、鉄鈷山<カナトコ>、居母(いも)山<鋳物>や、字名に製鉄に関る名もおおく、 大油子(おゆご)も湯に通じ火・水・風・・等製鉄・製鋼に関連する名の様ですが「下夜久野村誌」に:
西山城 :主郭と南一段下の福郭

中世前・真言宗の高油山大日寺(大山観音)と大遊山清海寺(下記の清海寺の六地蔵石幢と宝筐印塔 を参照 )の二つの山号から付けられた地名ともされている事を蒐集した。牧川の架かる広瀬橋の南詰めに石仏の小祠と、 ○○禁止の注意板かと思える程に 小さな赤い鳥居は扁額に「広牧水神」とあり、牧川の鎮めの水神か?。鳥居側を廻り込んで牧川沿いと山に入る踏み跡があり、山への踏み跡を辿り西山城への尾根筋鞍部に向かう。
西山城:墓地最奥の広い削平段に祀られる小祠(秋葉社か?)

西山(向山!?)最高所 (標高Ca235m程・近距離だが比高約110mは、細い尾根筋だけに傾斜もきつく感じる)に主郭を置く西山城への尾根左右の激急斜面は 本ページのプロローグに添付した写真で想像できるかも。西山城主郭(35x12m程)は尾根幅一杯に削平することで、断崖状の激急斜面は岸を切り落とさなくても、自然の切岸高い曲輪が形成される。
西山城南東尾根末端・墓地入口付近の土塁・土橋状・空掘状

労力が大きく削減された分だけ?主郭と南側の曲輪は 丁寧に削平されています。主郭北の尾根続きには高低差をもつ鞍部に大堀切と小曲輪を挟んで一つ:二重堀切で防備を固めている様です。 主郭から南尾根を下ると段曲輪下で土橋付堀切状を見るが、土橋は下段曲輪から上り土塁状に空掘に沿って!?カーブし上段曲輪に入る土橋というより上り土塁虎口です。
秋葉城
緩斜な 平坦尾根筋を断ち切る土橋付堀切


南尾根の下降は墓地上部の小祠までは途中・特に何も遺構は無さそう。
緩斜な北から東へ延びる尾根筋から、南へ舌状に延び出す丘陵先端部の秋葉城へも通じますが、二城とも小規模の城郭で・間に防塁等は無さそうです。…しかし大油子集落の北に入り込む小さな谷を挟んで東西に、西山城と秋葉城が囲んでおり、西山城側からは、更に東南へ延び出す枝尾根の、長い自然地形の平坦地が続く先端付近の斜面は 墓地になっていますが、集落内地区道から急斜面を入り、墓所との間には、土塁と空掘状に間に土橋状も有り木戸門でも有ったよう?。
秋葉城緩斜な平坦尾根筋を断ち切る土橋付堀切(主郭側土塁上から)

段曲輪の様な墓地の最奥には小祠も有り、西山城とセットの居館の様です。秋葉城との関連は不明だが、 室町時代初期の応永年間(1394‐1428)大遊山清海寺(真言宗)があり、其の門前町か!!?・市が立ち其の警護・監視も兼ねての城砦があったものか?熊野・段・菅谷等の城が1kmと離れずに築かれおり、 当地を領した一族の城なのでしょうが詳細は不明です。


秋葉城  xxxx山 Ca180m  夜久野町大油子字青海寺・家の奥

417m三角点峰から西南へ延びる 尾根の粗中央が標高265m、更に西への尾根中央が標高200m、此処から 真南へ舌状に延び出す尾根の先端部が、大油子集落の北背後に迫る。此の丘陵尾根に秋葉城が在る。西へ延びる主尾根の 先端付近Ca235m峰に主郭を置くのが西山城で、其の末端を牧川に架かる広瀬橋〜大油子玄武岩の柱状節理を露呈して衝立する府道56号側の断崖に落として消える。
秋葉城主郭から堀切側大土塁

共に登路は秋葉城と西山城の間にある谷間の大油子地区南正面からが正当な訪城 スタイルなのかも知れませんが!!?、秋葉城も正面から直登せず、西山城訪城の際・下降路を東枝尾根に採って、墓地に降りて来た。 短い谷を囲い込む東西の丘陵上に二城が呼応するように在り、山陰街道(R9号)高内への通行監視と、 峠越えで鳴岩城・荒神城が出入口を固める下夜久野町の旦(だん)・
秋葉城の土橋付堀切

額田を繋ぐ間道の、 もう一方の出入口に位置して、此れだけでとらえると一領主の城よりは中世後期;守護代クラスの勢力下にあった家臣団の城砦群の感もする !!?地区道からは谷筋を少し上方に向かいながら適当に、対面する丘陵上に在る秋葉城へと向う斜面に取り付いたのでよくは覚えていないが、 訪城後は喜代見神社に降りてきた。喜代見神社こそ”大油子"の名の所縁となった二寺のうちの一:
秋葉城:浅いが三条程の畦状竪堀?を見る

大遊山清海寺(真言宗)の廃寺跡に建てられたものか。清海寺の六地蔵石幢・宝篋印塔の遺されている位置は寺跡(喜代見神社の境内?)の南西200m程。往時の門前に当たり、 喜代見神社(きよみ⇒きようみ)が清海寺跡と考えられます。此の喜代見神社の右背後から、急斜面ながら・秋葉城へ尾根筋を忠実に向えば行きつく。 植林帯だけに藪に悩まされることも、 下草に覆われた遺構探しに苦労させられることも無い。
秋葉城西面:長い竪堀は堀底道か?

秋葉城へも谷筋を奥に深く入り過ぎたものか?主郭背後に続く、長く緩斜な平坦地形の尾根筋から逆侵入することになったが、其れだけに突然・前方に堀切と 土橋で繋いで主郭に入る大土塁が現われ、ほぼ完存する遺構は感動もの。幅広い土塁は櫓台が設けられていたものか!!、下段の主曲輪 (幅20X25m程)に続いて低土塁と曲輪の間を3〜4段の石積が残る。下夜久野の山城に石積を遺す城は無さそうで、 東シ千原城に見た石積も経塚の跡、此処も城名の示す秋葉神社が祀られていた礎壇の跡なのかも知れません。
秋葉城:秋葉社を祀った祠の礎壇か?

石積礎壇の前の小曲輪が境内なら左手(西側)の虎口とも見える空掘状は、 麓から続く参道か堀底道で、最後の切岸部は境内か曲輪に入る階段でも有ったものか?。祠は守護神として大手虎口に祀られていたものか…?
関西圏とりわけ丹波(京都・兵庫)の”火伏せ神”は愛宕社なので… 鎌倉幕府が開かれて以後・建武中興の成る南北朝期の頃 ?・・地頭職を得て関東から来住した領主により、守護神として秋葉社が祀られ、 此処も他国から移ってきた名主一族の城だったか?。
石塁の残る曲輪(秋葉社祠跡?)に上がる空掘状は参道か虎口か?

一帯の山城に石積・石垣は他に無さそうなので、山上の城跡に残る石積礎壇が守護神として祀られた秋葉社のものだろうか?小さな単郭の城だが尾根続きの山側を堀切で遮断・一本の土橋で繋ぐ遺構が 確認できただけでも、訪城した甲斐があった…というもの。城史の詳細は不明です。城域は此処で終り、北端を土橋付堀切と・自然の切岸となる急斜面の主郭下部の三方を囲む様に細い曲輪と廊下状の通路(犬走り?)が囲む単郭の城。南北に延びる尾根筋の東西斜面に数条の竪堀状や南への尾根筋にも長い竪堀状を見るが、最近どうも竪堀の判断が難しく思えてきた。 浅く埋もれかけた竪堀・広く大き過ぎる・また長過ぎる竪堀も…。
熊野城堀切土橋状の両サイドにある 落とし穴は・・??この先にも10個程見る!!

尾根筋の場合は山道の可能性・深く長い場合は木橇等による「木ズラシ道」、広く大きい場合は自然災害による溝かも…判断喪失気味です。 Web福知山市遺跡地図の秋葉城には遺構に土塁・堀切・竪堀とある。主郭下部の斜面の西と東には、浅い竪堀状2〜3条が並行に走り畦状にも見える…此れを指しているものなのかもしれません?。


熊野城・段城・菅谷城〜奥山城
熊野城   xx山 230m   福知山市夜久野町大油子水谷・山谷

大油子地区に訪ねた諸城のうち、西山城と秋葉城は、牧川沿いに上夜久野と下夜久野を結ぶ基幹街道山陰道を監視する位置にあり、築城目的を推察出来ますが、大油子地区内の僅か2.5〜3km程の短い枝川が牧川に流れ出る狭い山間に在る熊野城と 枝川を挟んで南に正対する位置に段城が、其の東の丘陵上には菅谷城の三城が4〜500mの近距離で呼応しあう形で存在しています。
熊野城:主郭北西側の切岸

地区内には大油子城とその居館跡が在ったとされますが、山城はいずれも小さな単郭の城。丘城として 居館としては段城が有り、其の詰め城として大油子城が在ったとすると、熊野城と菅谷城が考えられます。どちらも主郭を土塁で廻し、背後を堀切で遮断して防備するよく似た縄張りですが、大油子城が一城だけなら!!・菅谷城のほうに分が有りそうです!。
熊野城;主郭を囲む土塁

段城(居館)から熊野城へは溝谷を渡らないと行けないが、 菅谷城へは地区道(下夜久野の鳴岩城麓の旦(だん)・額田方面へ抜け出る間道)を隔てた向かいの丘陵上にあり、牧川枝流の北斜面には途中の岩をも削った竪堀 ・土塁も高く城域も広く大きい。さらに尾根続きは奥山城へ通じ、此処は見張りの砦か菅谷城の出城か曲輪。
熊野城:主郭北の堀切

菅谷城jから二段階に設定された逃げの城か?詰め城が奥山城で、尾根筋南西に下った地区道を北西へ戻れば段城に戻る。いずれにしても山路に向う集落奥に熊野・段・菅谷の三城が対角線上に交差する位置は、行き止まりとなる領地内ではなく、R9号(山陰街道)沿いの高内から大油子・下夜久野駅付近の額田・旦から山越えで大油子に通じ、山陰道に繋がる間道?が交わる地点に在って、 谷筋の間道通行の監視・守備のあたった城砦でしょう。
熊野城;土塁囲み主郭南の一部に虎口が開く

菅谷城から奥山城(砦)への尾根筋が此の両谷筋を分けており、奥山城から南西へ延び出す尾根筋は261mピークの西300m程で、 高内から大油子に越える山道も通じる鞍部に出る。府道56号線から大油子地区に入って直ぐの三叉路を東に進む狭い地区道は、大油子公民館の東隣側に熊野神社の鳥居がある。
熊野城土塁囲みの主郭

熊野城へは勿論:熊野神社からスタート・拝殿右手より背後に廻ると急斜面だが、此処も雑木藪の倒木や、藪漕ぎの悩まされることも無く、丘陵尾根が比高約90m・標高230m峰上に位置する熊野城跡へと続く。急斜面の尾根筋を辿るとそのまま幅広い土塁の開口部を主郭に入る。 平入りの土塁虎口で主郭の(南北60mX東西30m程の小規模な単郭ながら周囲を土塁が廻る。
段城西斜面途中にも小曲輪が有る

主郭内は幾つかに区画されていたと思われますが、内部を区分する土塁?・曲輪の削平や低い段差は埋もれ崩れてか?判別出来ないが、 幅広い土塁や土壇部は櫓台だったのかも?。主郭北端の土塁を越えると直ぐ堀切とはならず・・・少し下っていく北の尾根沿い斜面の先に堀切を見る。堀切には幅1.5m程の丸い穴が二つ並び、土橋付堀切に見える。
段城(居館)の北・主曲輪は果樹園か畑地跡だが空掘が残る

尾根筋を下る先にも更に二つ、また二つ・・・と付近に10個余り見るが ・いずれも径1,5m〜2.3m程で、深さも2mは有りそう。中には水を溜めている穴も有るが、狭い尾根筋だけに見るが獣の落とし穴とも思えず、 植林帯に松も見ず・枝振りの良い松等を園芸・造園用に取り出した?跡とも思えない・・??。此れが防備の”落とし穴”なら敵の戦意喪失には効果が有りそうです。京都府内の 美山町の島城には曲輪端の切岸下や竪堀上部の曲輪、船井郡京丹波町の 中畑城にも大手の尾根筋側に、綾部市の姥ヶ城では堀切の中にも2〜3ヶ所落とし穴らしい跡(窪地)を見る。
段城城域中央付近にある曲輪を区分する?土塁

同様の穴を最初に訪れた西山城にも一つは有ったが天水受けの井戸とも思えず・・!!?。主郭の尾根側背後に土塁を積み ・堀切で遮断して防備する縄張りは変わらないが、西山城・秋葉城には顕著では無かったが、土塁囲みの曲輪を持つ熊野城と菅谷城が、同じ規模の山城ながら同じ領主一族による、同時代に築かれた城郭かどうかは疑問は残る。 当地域の城史不明の城砦については、今後の地元郷土史家・中世城郭研究家により研究成果・報告を待ちたいところです。


段城   xx山 140m   夜久野町大油子段

下夜久野村誌には近隣の中夜久野には末・日置城と居館跡、 大油子城と居館跡の存在を認められているようですが、其の詳細等一切不明です。大油子地区に大油子城の固有名や其の所在は判らないが、 大油子城の居館は熊野神社の斜向いに見える比高20m足らずの台形の丘陵上に存在する段城の事だとは推察できます。しかし大油子城は段城の真北・直線距離では約300m程の丘陵に在る熊野城の事か、
段城;中央土塁から大油子地区中央付近を望む

真東約400mの 山上部に位置する菅谷城なのか?。城史の詳細は不明ですが、大油子城主と思える藤岡兵部(藤岡兵庫)の名がみえる。段城を居館とする人物?の様ですが、羽白城が字”段・段ノ奥”に在り藤本段治郎左ヱ門の名もある?。 こうなると段ノ奥が羽白城(菅谷城?)で段城が段治郎左ヱ門の居館・大油子城が熊野城・・・!!?とも思えてくる。
段城中央土塁と主曲輪

居館・城館の在った地名に段・旦・垣・垣内・土居等の字名を見るが此処も同様。此処が別名:羽白城かは確認していないが居城主が・・段治郎・・・なので”段城”の名が残るのかも?。 推論はさておき:地区道沿いの大油子公民館並らび東側に熊野神社の鳥居がある。熊野城への登山口ですが・此処からも牧川へ流れ出る枝流沿い、 前方には耕地が広がり、東南の丘陵麓に数軒の宅地が有る。一本の車道が集落に向う東側に比高15m程の低丘陵があり、樹木が伐採されている先端頂部を見るだけで、何か有る・城跡らしいと思える。
段城の中央区分土塁(奥)・;空掘状曲輪?(手前)と中曲輪(右)

熊野城とは枝川を挟んで真南に位置する其処が段城(居館)でした。 居館というより:削平された広い丘陵頂部の城域の中央部が土塁で仕切られ、北に熊野城・東の丘陵上の菅谷城と呼応するかの様な北半分を主曲輪 (60X30m程)が占め、中央土塁の南側に中曲輪(約30u東西に二段の曲輪)・南曲輪(広く浅い空掘状窪地の曲輪と一段上には広いが畑地になっていた様?な平坦地。東側には大油子から高内の日置谷城の側に抜ける間道監視の櫓台だったか?半円形状の地形が有る。
菅谷城の竪堀(北斜面下方から)

南端にも低い段差だが方形のマウンドが有り、 向かいの尾根続き広い鞍部だが、集落北西から上がってくる道が堀底道として城域に通じるようで、主郭部からは遠くなり・館城への大手道で、此処には木戸門でも有ったものか?。城域の比高は15〜20m足らずだが東西は切岸高い急傾斜で、 主曲輪に取付く北西側には急斜面途中に小曲輪の在って、広大な削平地形は居館だが、主曲輪を取巻く縄張りは丘城(館城)の様相です。
(下夜久野村誌 を参照)
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菅谷城〜奥山城
菅谷城  xx山 220m  夜久野町大油子奥殿・菅谷
奥山城 xx山 320m  夜久野町大油子釜谷・日置字奥山

但馬:和田山町へ向う R9号(山陰街道)や、但馬:但東町からは府県境の鉄鈷(かなとこ)山の東・天谷峠を越えて、富岡山との谷間を板生川沿いに、 また富岡川と居母山に挟まれた直見川沿いは小坂峠を介して、但東町や福知山市大江町・加悦町へ・・・丹後宮津へも繋がる街道筋とも、JR上夜久野で繋がります。板生川と直見川が合流して牧川となり、JR山陰線沿い府道 56号が夜久野町大油子から高内へ抜けてR9号線(山陰街道)に合流します。
菅谷城の竪堀(北斜面途中から)

基幹街道を控え、いくつもの要衝街道や間道が交差する・・・要筋にあたる大油子集落西入口なら、街道筋や領内通行の監視の城砦群が有るのは判ります。 西山城や秋葉城がその機能をもった砦城とは思えますが、さらに大油子地区の奥に向って築かれている熊野城・段城・菅谷城〜奥山城について、より深く考察する必要があるのですが、地方誌に大油子城と其の居館が在ったとされますが、 城史や位置の情報は殆ど不明。
段城北の溝谷側から望む菅谷城(左奥の峰)

大油子城の固有名や其の所在は判らないが、大油子城の居館は熊野神社の斜向いに見える比高20m足らずの台形の丘陵上に存在する段城の事だとは推察できます。しかし大油子城は段城の真北・直線距離では 約300m程の丘陵に在る熊野城の事か、 それとも真東約400mの山上部に位置する菅谷城なのか?。城史の詳細は不明ですが、大油子城主には藤岡兵部(藤岡兵庫)の名がみえる。 段城を居館とする人物?の様ですが、段城は羽白城の事か?、 字”段・段ノ奥”に在り藤本段治郎左ヱ門の名もある?。こうなると段ノ奥が羽白城(菅谷城?)で段城が段治郎左ヱ門の居館・大油子城は熊野城か菅谷城の事か・・・!!?とも思えてくる。
菅谷城:主郭切岸と堀切

近距離内に在る単郭の大油子の城砦群の中で、 先の西山城と秋葉城とは・其の位置と城の縄張りにから段城・熊野城・菅谷城の三城が少し違って考えられる。城史不詳でもあり情報不足から大油子城・羽白城の詮索は止め、福知山市遺跡情報の分布地図上の位置と名称から菅谷城〜奥山城をレポートします。 直見川・板生川を併せて牧川沿いに走る府道56号が大油子を通りR9号(山陰道)へ向うが、牧川に流れ出る大油子地区内の谷沿いに、 街道筋から外れ川上に向かい進む谷間の地区道は 丘陵尾根を越える峠道に向うだけ?。・・此の三城が呼応する形で立地する交差位置は、 段城と熊野城が谷筋を挟んで南北に築かれており、熊野城と菅谷城も同様に斜東西に約500m程の距離で呼応しています。

菅谷城の主郭を囲む土塁:一段西下の曲輪から

菅谷城から 東南へ延びる尾根上に奥山城があり、 丘陵尾根末端部はR9号線の下夜久野駅近い日置・額田へ延びていきますが、奥山城が日置や額田方面監視の砦とは思えません?。大油子の谷筋を詰める長い地区道は菅谷城の北山麓を通り、奥山城への尾根続きの峠を越えて、 下夜久野町井田・額田・旦(ダン)に出る。R9号線沿いの牧川と合流する側に東光寺があり、段と同様に此処:旦(だん)にも月輪城が在ったといい、 東光寺か其の集合墓地群の上方に建てられている記念塔の広い平坦地付近は居館跡だったのかも知れないが、一帯は観音霊場・塔建設等改変され遺構は無さどうです?。
菅谷城の堀切

眼下の車道を挟んで荒神城が在り、居館と思える月輪城と此の丘陵上に鳴岩城が在り、詰め城とセットの城郭を形成していたのかも。また菅谷城〜奥山城間の丘陵尾根西南下の短い谷中の道は、 奥山城から南へ延びる尾根上261mの西下方350m程で峠を越えてR9号線高内に降りてくる。奥山城が此の高内との峠越え間道監視なら峠に近い261m峰か、 尾根筋西側の峰ピーク上が有効で、現:奥山城の位置では峠道やR9号(山陰道)を監視するには遠く、菅谷城との尾根筋に城遺構らしいものも無い。
菅谷城堀切東にも緩衝帯の様な平坦地形が続く!?

菅谷城の出曲輪か?。菅谷城〜奥山城尾根を挟む高内から・または下夜久野の額田 ・旦に通じる二つの間道監視に当ったものか?。 段城と菅谷城間の谷道は大油子への、 峠越え道の出入口にあたり高内・日置には日置谷城が在る。段城から菅谷城へは高内へ抜ける谷入口から尾根筋最西端から・・・と思うが、 畑地の畦道から山麓の猪鹿除けネットかフエンスを越える憂鬱さを避け、谷筋沿いの丘陵北の激急斜面から取付き、上方の露岩部をも切崩して直線的に落ちる長い竪堀沿いに尾根に向う。
奥山城の堀切

尾根南北の急斜面に比し 緩やかな尾根筋は直ぐ二段程の曲輪で構成される単郭の菅谷城 :尾根筋曲輪の南北には大油子地区の山城では此処だけ?の竪堀をみて主郭に入る。正面奥に大土塁(幅2m程で櫓台だったか!?)を見る。一連の大油子地区の城同様に主郭背後に土塁を積み、その先・尾根筋を堀切で遮断する。熊野城程顕著では無いが東面の大土塁は曲輪左右に低土塁を延ばして主郭を囲んでいる様です。主郭東の切岸は高いが、堀切から先に顕著な城遺構を見ないまま、 長い尾根先をとlレースして、藪っぽい急斜面の前に出た。
奥山城:主郭か?平坦地形

浅い堀切と高く急斜な切岸上に荒れた平坦地形を遺す奥山城の主郭に入る。不整地の狭い丘陵上に数段の平坦地を見るだけの奥山城から、西南尾根へは自然地形の切岸高く広い斜面を下る。261mピークへは広い尾根筋に緩急傾斜を織り交ぜて続くが、城遺構は無く、高内の峠越えから尾根通しに攻めるに難くは無さそうですが、 防備の塹壕を兼ねた浅い堀切は菅谷城からの尾根筋に有り?其の上方に位置する。
奥山城西南の平坦尾根?

菅谷城の”逃げの城”か?。 砦規模としか見えない奥山城が、下夜久野と上夜久野を最短距離で繋ぐ間道監視を兼ねた、も少し規模の大きな城なのかもしれないが、主郭部から東尾根や、南西261mへの尾根筋を未踏のままで、勝手に推察してみるのですが、果たして真相はどうなのか・・・不明。 熱心な郷土史家・地元歴史研究者の調査・報告に期待したい・・・。


大油子玄武岩
R9号線沿いの夜久野町高内に日置谷城・関垣城・高内城を訪ね牧川沿いに府道56号に入り、夜久野町大油子(おゆご)地区に向う。 R9号を約2Km程走れば農匠の郷やくの・夜久野温泉が有る。北方近くが上夜久野駅。旧朝来郡(朝来市)和田山町境に有り一帯は宝山(田倉山:京都府下に唯一!!?残る旧火山遺跡)を背にして南・東に黒土の目立つ夜久野高地が拡がっています。
大油子玄武岩

田倉山が30数万年前に噴火した際(第四紀火山)の溶岩が冷え固まって出来た火成岩の一種 玄武岩の垂直に立つ柱状節理とその上面の平行節理、溶岩流表面の発泡状態を観察することが出来る夜久野玄武岩公園が小倉に在り、案内板も有るがR9号沿い道の駅直ぐ手前(東)と・トンネル手前から通じており、 よく知られていますが、夜久野玄武岩公園から直線距離で約1.5km程の此処:大油子にも大油子玄武岩の岩のブロックを積上げた様な柱状節理が露呈している様子が、県道56号線直ぐ側に観察出来ます。
(現地:大油子玄武岩の案内・解説板を参照)

奇怪な石仏
府道56号沿いの大油子玄武岩を見て北に直ぐ、 牧川に架かる広瀬橋を渡るが、橋の南詰めの親・柱の側・東の丘陵が崖状に迫る麓に小祠が建つ。夜久野町近在には種子(梵字)ではなく石刻された青面金剛像が三猿を刻む楚壇部の上に立つ庚申塚が沿道近くにも有りあり、結構多く残されている地域ですが、祠の内に鎮座する丸味のある自然石(石材は手近に利用出来る玄武岩か?)に彫られた石仏の奇異な御姿は、磨耗していて細部・表情まで拝見出来ないが、 青面金剛等の多くの武器や法具を手に持つ姿でも、 天邪鬼等を足下に踏みつける立ち姿でもない。二本のツノを生やした石仏が印をむすんで座す姿。掘り込まれた舟形周縁の頭部が火焔の様にも見える。結ばれる印相は智拳(智剣)印の様で、 密教の教主:金剛界大日如来の智恵を示したもので、地・水・火・風・空の五輪を示す他、多くに意味を持つという。
大日如来?石仏

智拳印とみえたのが大元帥明王印なら・・!!ツノの見えるのは憤怒に逆立つ髪・火焔を表す舟形?、座した姿は不明だが背後に迫る丘陵上部約300m(比高100m程の激急斜面)には西山城が有る。 山城探索の際に遭遇した奇怪な石仏は、戦いの神でもあり、城主の守護神として加護・武運長久・子孫繁栄を祈念したものと・・思いたいところです!!??。大元帥明王は国土を護り敵や悪霊降伏に絶大な功徳を発揮すると云われ必勝祈願 ・敵国粉砕・国土防衛の祈願として、宮中では古くから盛んに厳修されてきたもので、軍組織における元帥・天皇を指す大元帥の呼称は、五大明王をも凌ぐ威力を持ち、数ある明王の総師:大元帥明王からきているとも云われます。
丹波市には:法力によって悪玉菌の鬼が教化され善玉菌となり、人々の悪魔・災難を追っ払い、里人を守る仏の化身ともなる常勝寺の「鬼こそ」追儺式・鬼追い式がありますが、此の大元帥明王も元々は古代インド神話の「夜叉神」で、 林に住み「広野鬼神・森林鬼神」と訳され、弱者・子供を食う悪鬼神が仏に教化され、密教では大日如来の功徳によって善神となり、国土を守護し衆生を擁護する明王となったとされます。祠の隣に赤い鳥居が有る。よくある立小便禁止マークかと (失礼!!)思える小さな鳥居は「広牧水神」とあり、牧川の鎮めの水神か?。鳥居側を廻り込んで山に入る踏み跡を辿り西山城に向った。
(ウィキペディア及び 密教曼荼羅「新紀元社」 を参照)


清海寺の六地蔵石幢/宝筐印塔 福知山市夜久野町大油子

R9号線沿いの夜久野町高内から府道56号にとって大油子地区に入る。56号線は集落入口で左へカーブして行く先で大油子玄武岩を見て、 牧川に架かる広瀬橋を渡るが、集落へ直進する地区道が100m程先で三叉路になる。正面の丘陵上には秋葉城、北西方の丘陵奥には西山城が在り、府道56号線からは富士型に左右に裾を延ばす秀嶺だが尾根筋の緩やかさに比して、左右に落とす斜面は急峻で、
六地蔵石幢と宝筐印塔印:城山(秋葉城)を望んで

自然の要害に囲まれた山城としての適地。 二つの山城に挟まれた谷間の出口にあたる三叉路近くの耕作地の中に、隅飾りの様式からみても古い時代の宝筐印塔印と、玄武岩の柱状を思わせる六角柱が立つ。 側に寄ると六角柱の夫々の面には地蔵像が彫られています。六地蔵石幢(せきどう)は篠山市の味間南城の裾近くの古墓に小さな(高さ3〜40cm程)のものを見かけた。五輪塔様式をもつものか?稀少なものの様で、 此の六地蔵石幢も旧夜久野町内唯一のもので六角柱の幢身。
六地蔵石幢と宝筐印塔印:奥の高い峰が西山城!?

南北朝期以来続く乱世の時代に、人々は来世は弥陀の浄土へと・阿弥陀三尊を刻み、梵字を彫って生前供養の板碑まで立てられるようになりました。浄土信仰は現在:殆どの?墓所参道・入口に建てられている六地蔵信仰で、 浄土に導く六地蔵と・七体目の一体が浄土へ導かれる故人を祀るもの。龕部の各面に一体の地蔵尊像を半肉彫した幢身の上に笠・請花・宝珠を乗せる浄土信仰の遺品が完存しており、室町時代初期のものと推定され極めて貴重なものとされます。宝筐印塔は旧夜久野町に現存するもののうち最古のもので「応永元年(1394)甲戌」の紀年銘(金石文字)があり、石幢と共に市文化財指定を受け ・玄武岩製・建造時期も同じ頃のものと推定されます。
秋葉城への取付は喜代見神社(秋葉神社!?)から

説明板には大遊山清海寺(真言宗)は応永年間(1394‐1428)修行者が開基したと云われ、当初塔頭は六坊あったが、其の後寺跡に三間四方の薬師堂が建てられていた。石幢・宝篋印塔の位置は寺跡(喜代見神社の境内か?)の南西200m程。 喜代見神社の背後から秋葉城へ向った。往時の門前に当たり、喜代見神社(きよみ⇒きようみ)が清海寺跡と考えられます。清海寺が真言宗であったことからは、上記:奇怪な石仏が本尊:大日如来であっても大元帥明王であっても、 真言密教との関わりが強く感じられます。
(現地:清海寺の石幢と宝筐印塔印案内板を参照)
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