山名氏VS赤松氏因縁の攻防  但馬・播磨国境の真弓峠(生野峠)
近畿の山城:大山城(太尾氏城) 大山城南小城

「県の中世城館・荘園遺跡」の解説に”大山城”大尾(おおお)山城”主は 大尾兵庫頭興次?で赤松麾下・天正(1573-92)の頃落城したという”…とあり 織田信長命に羽柴秀吉軍による「播磨攻略」の際のこととされる…が 城史の「大尾」氏に補足?なく不詳だが大尾姓は非常に希有な姓・太尾氏では…?。
旧大山小学校校舎跡地から大山城遠望

「赤松家播備作城記」には後藤氏とされる。後藤氏勢力地域と思える姫路市(神南区)豊富町太尾に太尾城がある。太尾は姫路市豊富町が発祥の地ト云い…天明元年(1469)頃より後藤伊勢守基信が居城…天正の落城時も後藤氏が三木城別所氏に付き落城したと云うが「播磨鑑」には城主:太尾兵庫頭與次が天正の三木合戦では別所氏に付き落城したとある…
大空堀から段曲輪群を副郭?へ

大尾(おおお)氏・太尾氏の名は他の文献による出自を未確認…。城山麓に太尾城主一族を祀る太尾祖霊社(太尾神社)がある。太尾城築城主は赤松氏麾下の太尾兵庫頭輿次。赤松氏が創築した神崎郡神河町の大山城も”銀の馬車道”の幟旗を見掛ける生野?街道筋にあり文献に出自のない謎!?の「大尾氏…か太尾氏一族」が守将として在城したものか…?。


 大山城(太尾氏城) 大山城南小城

大山城(太尾城)  神崎郡神河町杉大山字城  2024.3.20

大山城(標高487m 比高260m)は国道を挟む”大山旧小学校前バス停”から仰ぎ見る丘陵山頂に位置して猪篠川に落込む激急斜面・登路を探すに難渋するが「大山城跡」案内板の立つ「旧大山小学校(廃校)」を起点に北面から取付かれている。近年:南側から導標・固定ロープも張られた
大山城主郭から北方(生野峠・真弓峠)を望む

ダイレクト新ルートが整備された…が登城当日は運悪く駐車スペース直ぐ目前の川が前日まで降り続いた雨の増水・木橋もなく?水流も早く・渡渉・飛び石伝いも難しいので諦めR312号に戻り北上して大山旧小学校グラウンド前から作業林道伝いに杣道や獣道に取付点を探すことにした。峻険な激急斜面が突然・緩斜面となると大山城北西末端部で数段の曲輪群の切岸に沿う様に
大山城主郭から南方(但馬街道:鶴居・市川方面)を望む

途中に折れを伴う大堀切(堀切というより堀底幅広く長く延びる大空堀)。堀外側を覆う土塁線が北西尾根筋から緩斜面に攻め上る敵兵を狙う塹壕を兼務?。峻険な山上部に大堀切・空堀・高い切岸の要害堅固な施設の重要性も主郭に立つと感じる。北方に但馬境の真弓峠(生野峠)に向かう播但連絡道路とR312号但馬街道。南方には山間を鶴居・市川町・福崎町への市川沿いを一望に望める但馬街道の要衝が一望の下に望む。
南尾根筋から堀切を主郭に…

川筋に突出す小山は全山岩山の飯盛山城(屋形城)だろうか。大山城が但馬山名氏に対する播磨赤松氏最前線の重要な監視に充たり砦規模から守備・堅固な基地として大規模な築造を施された山城と感じる。主郭(凡そ25x12m)四方を6-8m以上の高い切岸で要害性を高めている。但馬側の北斜面にある
 
副郭から北西へ延びる広い段曲輪群

二つばかり曲輪は伐採された木々が高い切岸下に積み上げられ堀切かと思えたが主郭直下とはいえ単独の小腰曲輪に堀切を設ける用はなさそう。主郭東の障子場(城地場885m)へ延びる尾根筋曲輪の下方にも堀切があり数個の石塊を見ると崩落による自然地形の様!?。西切岸下に堀切を設け向かう10x20m程の副郭からは北に延びる尾根筋に8段ばかり曲輪を連ねるが 此の曲輪群北端曲輪に添って折れを伴う長さ50数mの横堀(大空堀)は圧巻で当城の最大見所。
南郭・主郭の堀切から竪堀で落ちる

両端は幅広く長い竪堀となり落ちる。西先端部には石積も残る炭焼窯跡の為”木材溜め”が土橋状になっているが幅(5m程)広い大堀切とも云える!。大空堀外側に土塁を積み北・北西尾根からの侵攻防禦を重点とした縄張り。大山城は播磨・但馬の国境:大山越の道「真弓峠(生野峠)」を眼下に監視出来る位置にある。但馬山名氏は度々播磨への侵攻を
大堀切:北西端・林業作業用の土橋状と炭焼窯跡(右手)

繰返し正平6年(1351)山名時氏が大山越を播磨へ侵攻・赤松則祐と大河内城(寺前城・神河町寺前)の 攻防では赤松則村の家臣本郷伊豆守が居城したが嘉吉の乱後:播磨侵攻の山名氏により落城。正平8年(1353)にも丹波市青垣から播州峠越か?・多可町加美区から高坂峠?を越え越知川沿いに神河町に入る丹波南朝方と大山越え(R312号)の猪篠川が越知川に流れ出る「粟賀」「中村」に侵攻した
北西段曲輪群に沿う堀切稜上岸の土塁線

但馬山名氏連合が北朝の赤松勢と法楽寺(神河町中村)で合戦におよぶ…大山城(太尾山城)の築城主は貞治元年(1360)赤松掃部助直頼と云う。康安元年(正平16年 1361)7月には美作国の倉懸城を攻めた山名時氏勢に救援に赴いたが敗退した。赤松貞範を追放・貞治3年(1364)美作国守護は時氏二男山名義理に任じられている。播磨赤松氏が但馬山名氏の侵攻に備えた最前線の城で貞治元年(1362)頃:赤松(円心)則村の嫡男範資の子掃部助直による 創築を伝え・
大空堀の堀底幅が広過ぎるが切岸は結構高い

足利尊氏の弟:直義から直の字を賜っている。赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱(1441年)後:山名持豊追討軍が赤松勢を大山城北山麓七宝寺を攻め撃破。また文安1年(1444)播磨奪回を企てる赤松満政と山名軍が 真弓峠の合戦に及び:翌年には持豊が陣所としていた!?七宝寺を満政が攻撃する…等、大山城を中心に粟賀から真弓峠(生野峠)にかけて幾度か戦いが繰返されている。
大堀切:北端:東西両稜に土塁線が延びる虎口状だが此方も竪堀で落ちる

大山城の攻撃は北の七宝寺側・北西の旧大山小学校側からの 尾根直登が侵攻口となったものか?。嘉吉の乱(1444年)に滅亡した赤松氏は長禄の変(1457年:長禄元年12月)に再興したが再度:生野峠(真弓峠)に山名軍と激突した 文明15年(1483)12月赤松政則VS山名政豊の合戦頃の大山城には赤松氏幕下の太尾氏を入れたものか?、赤松軍は大敗し政則への不信感から赤松家は分裂していたが・山名氏に勝利し播磨国を回復した太尾城に戻ったものか?。
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」(昭和57年県教育委員会)・現地案内板・Wikipedia 参考

大山城南小城    神崎郡神河町杉字小城垣内   2024.4.07

丹波市から神河町へ県道86号:小野尻トンネルを抜け、西脇市方面からのR427号に合流し寺内交差点で県道8号(加美宍粟線)に左折し
大山城南小城に向かう猪篠川から大山城を望む

高坂トンネルを抜け越知川沿いの集落内を通り県道8号(バイパス新道)は神崎総合病院前でR312号に出るが、越知川沿いの県道8号(旧道)に入る分岐付近・ 県民グラウンド・体育センター背後の丘陵中腹に見える寺院が法楽寺(播州犬寺)…旧道直進でR312号「粟賀」交差点に出る…が交差点手前200m越知川に架かる観音橋前の交差点に北角に「丹波・京都」への石仏道標があり観音橋を南北に走るのが明治9年(1878)に開通し
大山城南小城に向かう猪篠川から大山城を望む

・生野鉱山から飾磨港まで49kmを繋いだ生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)専用道路だが播磨・但馬を結び生野峠(真弓峠)に通じる生野街道。南北朝期:正平6年(1351)山名時氏が大山越を播磨へ侵攻・赤松則祐と大河内城(寺前城)の攻防に・赤松則村の家臣本郷伊豆守が居城していたが嘉吉の乱(1441年)後:播磨侵攻の山名持豊追討軍が赤松勢を大山城北山麓七宝寺を
主郭北面切岸下の帯曲輪

攻め撃破。また文安1年(1444)播磨奪回を企てる赤松満政と山名軍が真弓峠の合戦に及び:翌年にも持豊が陣所としていた?七宝寺を満政が攻撃している。正平8年(1353)には(加美区市原峠を越知川沿い県道367号に侵入してきたものか?…神河町に入った丹波南朝方と大山越え(R312号)で猪篠川が越知川に流れ出る「粟賀」「中村」に侵攻した但馬山名氏連合が、北朝方の赤松勢を挟み打ちするかたち?で法楽寺(播州犬寺)合戦
大山城南小城:土塁を挟む二重堀切

に及んでいる。…さて:大山城南山麓から大山城へのダイレクト新ルートが近年:案内板・固定ロープも張られ整備された。此の大山城登山口の猪垣フエンス手前から圃場を抜け南正面の丘陵部に向かう。七宝寺周辺同様に広い棚田が拡がる地形は赤松氏方が陣所としていたか?。嘉吉の乱含め大山城・大山城南小城ともに城史等詳細不明だが
主郭と背後の大土塁の先に二重堀切がある

赤松氏麾下の太尾兵庫頭輿次が城主の天正期(1573-92)信長命の”播磨平定”羽柴秀吉軍により播磨から但馬侵攻へと進む…と姫路市神南区(豊富町)の太尾城主太尾兵庫頭輿次は時期も同じく大山城(太尾山城)共に落城したものか?…大山城南小城は東西尾根筋に沿って凡そ幅30mー長さ120m程を城域に4-5段の曲輪を並べる梯郭式・主郭背後の
北帯曲輪から西面の副郭と主郭

大土塁から尾根続きを二重堀切で遮断している。杉地区自治会によるものか!?整備された登山道は大山城南小城から堀切を経る尾根筋は登り一辺倒だが大山城展望所まで続いているよう…(未確認)。登り口から城趾に向かう尾根筋を離れ西へ少し下った先端部付近の平坦地形に埋れ浅くなっているが塹壕状凹部?を見る。真下に「銀の馬車道(生野街道)」を監視出来る位置にある

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