加西市の歴史散策 2 赤松浪人と南帝塚/中野構居・千歳山城・土器山城・山下構
兵庫 東播磨(五万図=北条)
播磨の忠臣:赤穂浪士(忠臣蔵)と赤松氏遺臣(長禄の変) H18年09月16日
近畿の山城 中野構居 千歳山城  土器山城 山下城
清慶寺の南帝塚・板碑・宝筐印塔
田原城(千歳山城)

「加古川流域の城館分布図(小野市立好古館」の小さな地図上に黒点で示されたポイントを頼り、満足に位置確認もできないまま加東市の滝野 ・社を訪れた。滝野町の穂積城が赤穂藩領の浅野氏陣屋となっていた元禄時代に 吉田忠左衛門が郡代として在番していた。滝野から社へ出て自衛隊青野ヶ原の駐屯地側を抜けてR372号線を加西市に入ります。
田原城(高森神社)

加西市中野のJA近くに来て中野構居を探してみたがよくは判らず、其れよりも清慶寺の大きな案内看板の中に南帝塚の文字が目に付き立寄った。此処へは小野市の 金鑵城 が東方約3km地点にあり昨日寄った河高構居の城主とも関わりのある南帝塚ではありました。
穂積陣屋の長屋門【赤穂浪士の一人吉田忠左衛門が居た】

穂積陣屋に代官として在番した吉田忠左衛門は 赤穂城主浅野氏の刃傷事件により改易された浅野家再興を願い、吉良邸に討ち入った赤穂義士の一人。此の忠臣蔵より250年前にも同じ播磨に忠臣の武士団?がありました。赤穂浪士達が吉良の屋敷に討ち入った様に、嘉吉の乱で滅亡した赤松家復興を願う赤松氏の遺臣等が 吉野南朝の皇居に攻め入ります。
山下城

敵の吉良の首を討取った赤穂浪士と違い、 赤松浪人は罪無き皇子を手に懸けてしまい、其の首を祀るのが清慶寺の南帝塚です。気を取り直して再度中村城(中村構居)を探索して R372号を南下して法華口の交差点を左折して土器山城田原城(千歳山城)、此処で引き返して 牛居構居に向います。


清慶寺の南帝塚 /板碑/宝筐印塔

加西市の中村構居を探したが判らないまま近くの南帝山清慶寺(浄土宗)に立ち寄り、嘉吉の乱(1441)により一次滅亡した赤松家再興の為、室町時代中期の長禄元年 (1457)没落した赤松家再興の為・遺臣の赤松浪人:間島彦太郎(三郎?・雅元か?)をはじめ 河高治部少輔と又三郎(河高構居の 当初の城主?)・垂井次郎右衛門尉・中村小四郎助直 (金鑵城主中村小四郎正満の子)・石見太郎助( 雅助か?)・村上源三郎(蟲生城)丹生屋帯刀・上月満吉等の名がみえ、奈良県吉野郡上北山村か川上村に 本拠を置いていた吉野後南朝の皇居を襲って皇子の首と、南朝方に奪われていた三種の神璽の争奪戦に 神器の鏡だったか神剣か勾玉を奪回した【長禄の変】。
南帝御首塚【仁享親王御陵・清慶寺(加西市中野町)】

此処に登場する吉野に潜入した赤松浪人の中に 金鑵城の中村小四郎助直の家臣小谷与次が中村城の城主だったという。この後も神器争奪が繰り返され長禄元年 (1457)から2年をかけて起こった長禄の変は南朝の再興を装って後南朝に臣従すると 偽っても真意を疑われる事なく吉野の御所に潜入出来た事でしょう。後南朝勢力を襲い、小倉宮実仁親王(第99代後亀山天皇)の孫である自天王・忠義王【北山宮・河野宮】兄弟を殺害して神璽を奪い返した事件です。 (南帝塚の碑名には仁享親王御陵となっている)神璽を奪った赤松家遺臣の一部は 後南朝勢力の追手に討たれてはいますが、 後南朝への潜入も赤穂浪士が疑われず江戸に潜入してきた時と似た様な策謀(!!計画)があり上記プロローグで忠臣蔵と比較してみました。ただ敵でもなく罪の無い二人の皇子を殺めた事を 詫び霊を弔った南帝塚にも詣った。 清慶寺には重要文化財の板碑や宝筐印塔も有るので、加西市編に紹介します。
清慶寺板碑

なを:神器を奪った赤松浪人たちは赤穂市坂越の港に帰ってきて、此処に皇子の墓を立て祀ったもいわれ大避神社近くに「小倉宮の墓」が残っている。 嘉吉の乱の発端となった将軍足利義教の赤松満祐への対応と、吉良上野介の浅野内匠頭に対する態度とがダブって映る。

清慶寺板碑
加西地方には山伏峠の石棺石仏をはじめ、石棺蓋石の内面に仏像や種子 (仏や 菩薩を表わす梵字)を刻んで石仏や板碑としたものが多く、此の板碑も凝灰岩製の家型石棺蓋石を用いた高さ180cm・幅79cm・厚さ15cmで、背部が扁平で板碑として転用するのに格好の形状をしています。 上半分の阿弥陀三尊の種子を V字形の薬研彫りで刻み、其の上に三面の宝珠が刻まれています。向って左方の下半部に「正和3年(1314)2月29日の紀年銘が彫られ、鎌倉時代末期の製作年代が明らかな遺品として県指定(昭和51年3月23日 )重要文化財になっています。
清慶寺の石造宝筐印塔

凝灰岩製の 宝筐印塔は宝珠を欠失しているが高さ1.54mを測る…上端反花座付き 二重の基壇上に台石を置き、この台石南面右寄りの刻銘から嘉暦2年(1327)に建立されたことがわかる。 塔身は各面に仏座像(南面 弥陀・東面 観音・西面 釈迦・北面薬師)が肉厚な浮彫りにして刻まれています。此の四方仏の彫法は他に例を見ない珍しい手法であり、且・造立時期が明確で鎌倉時代末期の技法を知るうえで 貴重な石造物だといわれます。各部には破損も有るが全体的に良く保存され姿勢も整っており、県指定 (昭和50年3月18日)重要文化財になっています。
(現地:清慶寺板碑・石造宝筐印塔の 県教育委員会案内板を参照)



中野構居 千歳山城 土器山城 山下城


中野構居(中野城)
    加西市中野町(中野山城と共に!! 比定地も未確認ですが?)

中国自動車道・滝野社インタ出口南で社総合庁舎前交差点でR175号からR372号線に入って加古川 ・姫路方面へ走っていくと、小野市内からの県道23号線と「加西中野」で合流する。中野に在った構居:中野城を 「加古川流域の城館…」分布図にある小さな地図上におおまかな表示ポイントでは国道筋から其れほど離れていない。 小野市からの23号は此処へ緩やかな登りだが国道筋は平坦な地形が続き、だいぶ先で法華口へと下っていく。 加西中野の交差点北側・車道を挟んで小学校向いに稲荷社の森が在って、周辺では構居・城館の適所に思えたが、 位置は南側の西方。
清慶寺の真西100m程は平地だが此処で高台となるが…?

車道を南下していくと郵便局とJAが有り途中に南帝塚のある清慶寺がある。清慶寺から車道を挟んだ西へ民家の間から細い車道や路地が3本程有り、田畑の先の 50m程に 2-5m段差の高台が北方に向って150m程ほぼ真直ぐに続き、此の台地上には亀○会社と配送センタや、清慶寺の真西にあたる南端部には民家となっているが、其の民家の門前への私有地の車道は、台地へ続く切岸 ・南側には土塁の残欠か ?盛り上がった土盛の間に斜上して行きます。位置からは少し西過ぎるかなとも思えるが、分布図のポイントと思える位置が平坦な宅地に囲まれた田畑では…!!城館跡の推定と同様、中野構居(中野城)の築城時期や同期・城主についても不明です。 小谷高之等の城主名がみえる中野城ですが、小谷与次の居館であったといいます。与次は金鑵城 中村小四郎助直の家臣として、赤松総領家を失った赤松の遺臣達が南朝方を襲って、二人の皇子の首を打ち三種の神器の神璽を奪回した 「長禄の変」に加わります。与次は僧侶を装い ”私は善坊山城主赤松則繁の子で南朝方の手を借りて 足利幕府を討ちたい”と臣従の意を説得して仕え、与次の手引きで吉野御所を襲ったといいます。
清慶寺の西方に拡がる農耕地は?

其の際討たれ持ち帰られた皇子の首を洗い葬ったのが清慶寺の南帝塚ですが、何故此処なのか?はわかりません…(^^ゞ判らない事といえば此処・中野町には高田氏の中野山城が在ったといいます。 位置や遺構も築城時期も不明ですが、嘉吉年間:高田采女正信が、天正期:高田丹波守政光の時に落城したとされます。中野構居比定地の北方に赤い鳥居が続く稲荷社?の低丘陵が見える。きっと其処なのでしょう?が城館サイトでは 地元播磨の城情報に詳しい「城めぐ」の本岡さんならご存知かな?


千歳山城(田原城)
    加西市田原町字城ヶ辻  高森神社

加東市社からR372号線沿いの南帝塚・中野構居(中野城)の寄って?北条鉄道法華駅近くの善坊交差点を 左折して、 広域農道は南への坂を登っていくが、峠左手の藪の丘陵上には土器山城が有りました。以前は北側から試登し 深い藪に城址の感触を得られないまま撤退しているので、南側から攻めて見るつもりですが此れも後ほど。先に北条線沿いの 県道81号線で東に向います。田原駅の東約500m程、南端が県道81号に延び出した低丘陵があり、 車道から直ぐ赤い鳥居が丘陵の高台へ続くのが見える。
千歳山城(田原城)のあった高森神社

田原町の最東端で前方には田園風景が拡がり、普光寺川に架かる橋が見えるだけなので判り易い。城址の東を南北に流れる普光寺川が、南側には東西に万願寺川が天然の外堀を形成する内側に位置し、 万願寺川は4km程下流で加古川に流れ出ます。此の高台に建つ高森神社の境内一帯が田原城(千歳山城)でした。字城ヶ辻周辺の城郭部と、字かまいを中心とする居館部で構成される典型的な在地土豪の中世城 館だったと思われます。万願寺川を望む南側の県道から鳥居を潜り上る石段参道が3段ばかりの削平地の切岸を越えて稲荷社本殿に出る。 更に背後に続く藪の中にも2段程の低いが広い段差の曲輪が在る様です。田原城西側・登城口の土橋が内陣(郭内部)に通じる

北西側には 1.5m~2m程の切岸をもってグルリと帯曲輪が捲き、主郭側へは土橋を斜上して入るようになっていまが、土橋部は切岸を 高くするために浅い空堀となっていたのかも ?土橋は2本有ったようで稲荷社側のは湾曲する土塁に沿った 細い溝状空堀を抜けて出る虎口になっている様に見えます。帯曲輪の西面から北面にかけて端は更に段差を付けて、 民家への地区内道や田畑への農道に降り、 実際の城域が何処までなのか判りません。南面や東側には水路も走る急斜面で要害となっています。 斜面は急斜で藪も深く様子は窺えないが、途中に腰曲輪が有る様に思える。宅地のある西面から 帯曲輪に入り土橋を渡って本郭に入るのが登城口だったのでしょう。そして北面に拡がる田圃は武士団の住居地だったか。
田原城北側から西面に延びる帯曲輪と高さ2m程の切岸

千歳山城(田原城)の城主は、 伝承によると平将門の末裔と称し其の7世の後胤:相馬小三郎実有が鎌倉幕府二代目執権・北条義時の子重時に従い、その戦功により印南郡小松原(高砂市)と揖西郡中津浦を賜ります。 其の子の相馬民部少輔秀能の七男相馬小七郎民部少輔秀政の代に賀茂郡(加西市)河合西郷竹原村に来住したとされ、嘉吉の乱(1441)以前に築城されていた様です。秀能の二男相馬小一郎大学助政由が 千歳山城の西約1kmの同・田原町内の瓦ヶ山に土器(かわらけ)山城を構えていたと云います。
田原城と土器山城は善坊山城の支城だったのか? 秀政には実子が無く、隣村の網引に住む高田采女正信兼の子・兼清を養子として迎えます。赤松氏が滅亡する嘉吉の乱に秀政は揖西郡(現・龍野市)の水田城主:赤松左馬介に従って、 赤松一族と水田城に籠もるが山名勢に攻められ落城し秀政は消息不明となります。 善坊山城主:赤松則繁に従って脱出し、朝鮮に逃れたとも云われます。相馬兼清は元の高田姓を名乗って赤松家再興を図り”長禄の変”に名を連ねた忠臣だったのかも…?!
稲荷社の石碑背後:折れの土塁囲み虎口?(通路は高1m:幅約2m)

嘉吉の乱により衰退していた赤松氏も応仁の乱 (1467-77)には勢力を回復し、別所城(三木城)の別所則治や芥城の世良田氏・加西の赤松氏所縁の武士達と共に、細川方に付いた赤松政則に従って明徳の乱(1391)・嘉吉の乱(1441)と、因縁の宿敵:山名宗全の軍と戦い、 其の軍功により政則から「政」の一字を賜り政久と改めたと云われます。文明7年(1475)頃:山名氏と室津で交戦し政久の子:大膳亮政利も天文3年(1634)揖東郡福井荘の朝日山で三好軍と戦って討死したといい、 その後:政利の子新介政顕が入り三木城別所氏方について三好長慶と戦って戦死、子の相馬(高田)新兵衛政弘まで5代続いたが政弘が城を開城して、先代の里:網引に退去して帰農したものか城は其のまま廃城となった様です。

(加西郡誌 を参照)


土器山城(瓦ヶ山城)   瓦ヶ山 xxxm  加西市田原町字瓦ヶ山

法華口交差点で北条鉄道を越え ・万願寺川を渡る登り坂が峠に差し掛かる左手の低丘陵(鬱蒼とした雑木藪)の中に土器山城が有りました。 比高を測る程でもない高さですが東側の公民館側に抜ける北側の車道側からは結構急斜面。ただ其れ以上に猛烈な藪と遺構の無さそうな様相に撤退させられます。しかし南面からは此の丘の上部付近に民家さえ見え、緩やかな斜面の尾根筋は藪に隠れていますが嘗ては山上の祇園社への参道だったのか踏み跡が続くようです。田原城と違って築城以降に修築されることもなく 消えた古城なのでしょうか?。
法華口交差点側から土器山城を望む

東麓の民家で様子を聞こうとしたが怪訝な顔で 「山と名の付くものは此の辺りには無い・まして古城址など・」知る由も無さそう。丘陵南西部の土取り場跡付近から竹薮に入る道を見つけて侵入したが 上部西方は民家や耕作地となっている。 コースを尾根筋にとって藪中を突いて山頂部の不整地な平坦地に出た。祇園社の祠が祀られていた場所だろうか?雑木藪の山頂から東北側の尾根筋は荒れた谷筋に入り込む様な斜面。西北へ下り始めると数段の平坦地が現れる。 やはりR372号沿いの姫路方面や善坊山城を望み、法華口から網引町を経て 小野や加古川への街道筋に面する要衝監視の為、西面に曲輪を連ねているのかな? 平坦地以外は土塁らしい・堀らしいと思うだけで遺構に乏しい!。緩やかな南からの尾根筋に遺構は何も無かった様。北の裾野付近も帯状の平坦地や石片を見るが人出により捨てられた瓦礫も有って、畑地の跡か古墓地だったのか ?一部を除いては藪に覆われ歩行も困難です。
平坦地以外に明確な遺構は見当たらない?

土器山(瓦ヶ山)に城が築城された時期は不詳ですが応永年間(1394-1428)以降嘉吉(1441-)以前で、平将門の末裔と称する相馬民部少輔秀能の次男小一郎大学助政由だとされています。政由は嘉吉の乱(1441)に息子大膳亮政茂とともに細川氏 ・山名氏両軍を迎え,加東郡の三草山合戦に父子共に戦死しています。嘉吉年間以前に築城されていたものと考えられており其の後 :再建・修築された伝承は有りません。そうだろうか?田原城に比しても、西方に平野部を隔てて本城となったと思える善坊山城や、善坊山城を詰め城とした牛居構居を間近に望み加古川・姫路・福崎・小野や滝野方面からの街道筋が交差する 重要な要衝監視の位置に在って田原城の相馬氏・善防山城の孝橋氏や赤松則繁が拠った頃には物見の砦として機能していた様に思え、田原城(千歳山城)の築城と同じ南北朝期初め応永年間‐嘉吉の頃(1394-1444)迄には築城されていたと考えます。
(加西郡誌 を参照)


山下城(山下構)  城山 Ca95m    加西市山下町

加西市北条町の「イオンモール」前を抜けて一つ西の笠屋交差点を左折し県道117号を姫路市との境界近く山下町に向かう。県の遺跡分布図にも位置が示される山下城ですが、 発掘調査され平成22-23年住民参画の「里山ふれあい森つくり」事業により、城址一帯が”ふれあいの森山下城跡”として案内板・遊歩道等が整備され、 史跡公園化されるまでは、雑木藪に埋もれた標高100m足らず・比高35m程の独立低丘陵(僅か250㎡)の山城遺構は市史等に城名も見当たらなかった?。
賀茂川を南堀とした山下城

只:天守?があった場所に”あづま屋”を作ったというニュースは現地の現状を見て気になる。造成された平坦地?。天守があったとは思えないが幅広の土塁か土檀に櫓台があったとして、 主に北?西方を監視 出来る位置に在ったと思えます。荒れるに任せ放置・忘れ去られる遺構が 郷土の誇りとして遺され”憩いの場”であれ提供されるは幸いですが、 城砦遺構が不用意に手を加えらる事は慎みたいもの!!。
東〜北斜面の畝状竪堀群

城史は不詳ですが 城主は播磨・備前 ・美作守護職に在った赤松氏の守護代として備前から播磨西部にかけて勢力を張っていた浦上氏。天文元年(1532)頃の居城主は三木城:別所長治の幕下浦上久松で、別所方の城砦群として野上城・別府城・牛居城等が在り、山下城も永禄9年(1566)三木城の支城として改修されたものらしいが、天正6年三木合戦開戦時には別所長治に付き、 逸早く隣城の野上城(中西構居)の岩崎源兵衛
主曲輪東〜西面下部を廻る帯曲輪(二段上に主曲輪)

牛居城(牛居構居)の中村(前田)牛居之祐等と 三木城に籠った加西の武将として紹介されているので、実戦に使用される事はなかった様です。 【山下城に程近い東剣坂町の剣坂城(上代構居)は立ち寄ったが圃場や宅地造成・整備により比定地に 遺構なく?城史・城主等も不明:未調査】岩崎・浦上等は三木城支城の鷹の尾城から討って出て奮戦 ・城に引き揚げて自刃したと云う。
主郭虎口から二ノ丸虎口

しかし一般には? 浦上久松丸<後述>は浦上政宗の孫として天正3年(1575)備前の浦上宗景【政宗の二男で久松丸の父:備前最大規模の山城<和気郡>天神山城主で誠宗を暗殺した】を滅亡させた宇喜多直家(浦上家臣団の一)の策謀<父の敵・宗景を討つ旗頭として>に利用されたうえ母とともに毒殺されている?ので同一人物の伝承としても矛盾する。内紛もあったが 播磨に留まった理由の詳細は不詳ですが謎の多い人物です。
広い平坦地形だけが残される山下城主郭

父:浦上誠宗が 宗景に暗殺された後に生まれた久松丸の母は小寺政職に仕えた黒田職隆(小寺<黒田>官兵衛孝高の父)の娘で、黒田職隆・孝高父子の庇護を受け、黒田氏が筑前国移封に際して随行して福岡に 没したとも、赤松氏の本拠が置塩城で在って此処に住んだともされます。 山麓の田富山常行院(田福寺塔頭の一)から東面の丘陵上に在る山下城へと大手道と思われる散策道が延びている。
手口の横堀望む山下城

田富(たずみ)山田福寺(天台宗山門派・本尊:薬師如来)は加西西国二十八番札所で用明天皇の御代:西暦590年?頃・聖徳太子を開基の霊場で白雉元年(650)法道仙人が伽藍を造営し 十一面観音像を刻んで中興開山の祖と伝えます。田福寺由緒は現地案内板による「播磨鑑」や「田福寺記」等に 記述は異なる様ですが凡そ:天武天皇:白鳳年中(673-686)に田富山田福寺の号を賜り寺院十二坊を造立。 加茂郡余田の庄の領地(水田七十余町)を賜ったとある。
大手道?を挟んで屋敷跡?(手前)と主郭(左)の高い切岸と二ノ丸(右)

後醍醐天皇の鎌倉時代末・南北朝初期(1319-40)赤松則祐の家臣浦上太郎左衛門 <浦上七郎左衛門正久(行景?:同一人物か?)>が寺領・田畑を押領し 坊舎を焼き払って城館を構えて居所としたとある。観応2年 (1351)の光明寺合戦には則祐に従って、足利直義の軍と戦かった播磨浦上氏代々の居城。常行院東南の丘陵には居館南面を守備し、東丘陵部の山下城を含め常行院墓地から大手北側に拡がり、 北条町市街地を望む独立丘陵(標高110?120m)側にも城砦遺構がある可能性は否めない。
登城口に建つ常行院(浦上氏居館!)

宝徳年間(1449-52)太郎左衛門の私財により堂舎を再建、本堂は奥村氏により建立されたが、安永年間(1772-81)火災により堂宇・寺宝や古文書等を悉く焼失したという。北条町から県道117号を南下、姫路方面からの県道81号(小野香寺線)合流点の東方5-600m程・比高25m程の丘陵南面を賀茂川に落して濠とする山下城が在りました。 ”ふれあいの森:山下城跡”として城西北の常行院(旧田福寺の一院)から遊歩道が整備され 川縁に城跡看板が建つ。
主郭から西北下部の帯曲輪<五ノ丸?>(北から東への帯曲輪とは段差あり)

南東面の田圃から北方丘陵部との狭間の耕作地!!空地側を抜けると 山裾沿いに大手道までの空堀跡!!?を通り地蔵堂から常行院へと独立小山塊の山下城域を半週する。東-北面の短い斜面に 幾条もの畝状竪堀を見て、城址調査・整備のため伐採された樹木が、主郭を囲む高い切岸下の帯曲輪端に堆く寄せられ積まれた中を抜け出して、
郭西切岸:二ノ丸側帯曲輪

幅広い帯曲輪を西に廻り込んだ二ノ丸(ニノ丸西斜面沿いに上ってくる大手道と合流)からの虎口を広過ぎる平坦地形の主郭に入る。 姫路市山田町から加西市山下町に入る西面・西北方の神崎郡福崎町方面を望む位置に展望休憩所の東屋が建つ。天守台があったか?は兎も角・ 櫓台土塁・主曲輪を区分する一画が此の位置にあっても当然と思える。二段の曲輪が主郭に取り囲む単郭式城郭と思えたが、城址を降り常行院前の案内絵図を見ると二ノ丸の丘陵尾根続きに六の丸や土塁が示されている。
南西方の出曲輪?(未走破だが大城砦の片鱗を窺わせる)

小城ながら横堀・竪掘・切岸高く虎口を備え、 曲輪切岸沿いに急斜面に付けられた大手道はニノ丸や対角の帯曲輪から横矢も掛かる縄張りからは、主郭の虎口部や西面にも 土塁が築かれていたと推察するのですが!!?。山下城を後に東隣りの剣坂町へ約1kmばかり、交差点を越えた東剣坂町には剣坂城(上代構居)が在ったと云い、所在に土矢倉の他、
二ノ丸から大手虎口を主郭に入る

上の馬場・堀の尻等の字名が有るが、三方を一般車道に囲まれた周囲は田圃と民家が点在する平坦地形。 濠や櫓台遺構が有ったと思われる田や畦も圃場整備で壊滅したか・造成地に埋もれ消滅してしまったのかも?。城史も不明ながら剣坂神社や野辺の石仏に伝承を追えば何かが見えてくるのかも…?。
(現地<播磨鑑による>田福寺由来記 Wikipedia…参照)
 本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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