篠山市 No2          伝説「負け嫌い稲荷」…等

櫛岩窓神社(延喜式名神大社)    篠山市福井

細工所の交差点からR173号線を北上し篠見四十八滝への分岐 ・丹波東雲のバス停を過ぎると、右手に露岩を抱く宮山(岩倉山)が見えます。この小山(高離約30m)背にして建つ社殿が 「丹波の国大芋(おくも)の大宮」と呼ばれ、祭神に櫛岩窓命・豊岩窓命・大宮比売命ほかを祀る櫛岩窓神社で兵庫丹波唯一の延喜式名神大社です。
櫛岩窓神社・拝殿

宮山は神奈備であり社殿からも見える巨岩は岩座(いわくら=神が鎮座されるという 古代信仰を伝える)で、御神体の櫛岩窓命・豊岩窓命・大宮比売命の各坐像は国の重要文化財に指定されています。 天照大神が素戔嗚尊の乱暴を怒り、天の岩屋戸に籠もられ神々の願いによって再びこの世に出られたのち新殿にお移りになった。
のりちゃんず提供の櫛岩窓神社本殿・H17.1.23オフ会より

そこで御門を守ったのが櫛岩窓命豊岩窓命であり女官として仕えたのが大宮比売命である『古語拾遺』。また天孫降臨の時には瓊瓊杵尊に従ったと伝えられる「古事記」。それで災厄神を追い払い、 皇居の御門を守護する神として朝廷や領主の信仰も厚く、大同元年(806)に平城天皇が封戸5戸を贈られている『新抄格勅符抄』。中世には大芋荘等、荘内48ヶ村の総社でした。社殿は1952年に再建されています。
(丹波篠山五十三次ガイド) 参照



【負け嫌い稲荷 の伝説】

○ 王地山平左衛門稲荷神社 篠山市河原町 (大関)
○ 小田中清五郎稲荷神社   篠山市小田中 (前頭xx)
○ 飛の山三四郎稲荷神社   篠山市西岡屋 (小結)
○ 曽地山左近稲荷神社    篠山市曽地中 (前頭xx)
○ 頼尊又四郎稲荷神社    篠山市東新町 (前頭xx)
○ 黒田山兵衛稲荷神社    篠山市黒田  (前頭xx)
○ 高城市松稲荷神社     篠山市八上内  (頭取)
清五郎稲荷に掲げられている伝説の力士絵馬
★伝承の詳細!!?は 「清五郎稲荷神社」を参照してください★
未掲載 (関脇)波賀野山源之丞 (前頭 )須知山道観 (行司)金山源吾

負け嫌い稲荷(●王地山平左衛門稲荷神社)が祀られる王地山は飛の山城と共に篠山城築城の候補地となったところです。城下町篠山市街地の東端に有り R372から篠山川を渡って南バイパスに出たところ、小高い丘陵上に国民宿舎が建ち 辺り一帯が市立王地山公園となり、東に八上城、眼下に篠山城を望むところに位置し、篠山小唄に「七尾七谷時雨 して モミジ色増す王地山」と謳われ紅葉や山桜の名所ともなっています。
王地山公園:王地山砦は此処だったかと思える様相ですが!!

奈良時代末期には平安遷都の候補地として選ばれ、藤原黒智麻呂が下検分に来たことから「王地」の名が生まれたと伝えます。元和5年(1619)第2代篠山城主松平信吉が常陸国土浦から移して勧進した王地山稲荷社の本殿に相対して小さな厨子に祀られる王地山平左衛門稲荷神社の祠があり其の足元:台座は土俵の形をしていますよ!!。
王地山公園王地山砦は此処だったかと思える様相ですが!!

王地山焼の窯があり・温泉もあり・山裾には商家群が並ぶ篠山城・武家屋敷群・大正ロマン館からも 散策に足を延ばせる市内観光エリアです。負け嫌い稲荷稲荷の登場する力士として、王地山稲荷にある王地山平左衛門から紹介するのが本筋ですが !!最初に登山の篠見四十八滝 〜八ヶ尾山や豊林寺城及び櫛岩窓神社や古墳等を探索ついでの小田中清五郎稲荷や飛ノ山城(篠山・西岡屋)等から順次訪ねます。
王地山公園:平左衛門稲荷

●清五郎稲荷神社

R173号線・篠見四十八滝への分岐・丹波東雲のバス停 「チルドレン・ミュージアム」の東・国道と並行に旧街道の面影を残す小田中集落内の道を歩いていると小さな神社の前に出ます。此れが小田中山清五郎を祀る清五郎稲荷だが名前だけで素性を知る人は少ないでしょうね!。篠山市内の王地山公園内に負け嫌い稲荷として祀られる王地山平左衛門等8名の力士が江戸での将軍上覧・大相撲で活躍した話です。
櫛岩窓神社・拝殿

文政年間(1818〜30)篠山藩主青山下野守忠裕(ただやす)が 江戸幕府老中を務めていた頃、江戸両国の回向院広場では例年・春と夏に催される将軍御上覧(将軍:徳川家斉)の大相撲があったが、篠山藩お抱えの力士達はいつも成績が悪く、例年真っ先に負け続けるので「篠山藩は家康公以来徳川家に仕える譜代大名、それが新参の外様大名に毎年負けるとは不甲斐のないこと…」相撲のこととなると負け嫌いな藩主は不機嫌であった。金に飽かして本物の力士を 雇って出す他藩に田舎の草相撲力士では歯がたたないのも無理はなかった。ところが文政3年(1820)の春場所・将軍上覧大相撲が近付いてきたとき、青山家のいつも負け続けるお抱え力士に代わって「国もとり参りました」…と小田中清五郎ら8名の力士(大関:王地山平左衛門・
王地山:負け嫌い稲荷参道

関脇:波賀野山源之丞・小結:飛の山三四郎・前頭 :黒田山兵衛・小田中清五郎・曽地山左近・須知山道観・頼尊又四郎)と行司の金山源吾、並びに頭取の高城市松が現れ、相撲が始まるといつもなら真っ先に負けて帰るのが常の篠山藩の力士だったが、その強いこと・強いこと最初から全員が勝ち続け、忠裕公は大いに面目をほどこすことが出来ました。藩主・忠裕は大変喜び慰労の宴を催して褒美をやろうとされたのですが姿が見当たりません。調べてみると、なんと力士達の名が国もとの篠山領内に散在する、お稲荷さん地名であったという。 藩主・忠裕は早速、化神力士として活躍したそれぞれの稲荷社に幟や絵馬を奉納し感謝したという。これが「負け嫌い稲荷」の起こりと伝えられている。以来・大勝利守護の稲荷として今は五穀豊穣・招福除災・商売繁盛勝利守護、それに合格成就の神として広く信仰され遠近を問わず信仰参拝者が多い。
王地山:負け嫌い稲荷参道

丹波富士の高城山(八上城)への登山口・春日神社にも、この話の案内板があって御覧になった方もいらっしゃるでしょう。拝殿に8名の化神力士の絵馬が奉納されています。なを伝説では青山氏になっているが、既に松平氏が亀岡に転封の際・この伝説も運ばれ城内に祠を祀り10人の力士の絵馬が掲げてあったともいわれます。力士の一人(前頭)須知山道観は亀岡領の京都府船井郡京丹波町の須知に在るらしい?<稲荷社は未訪>。

■諏訪神社と飛の山三四郎稲荷      篠山市西岡屋

飛の山城(東岡屋城・岡谷城・富ノ山城)のある飛の山(富ノ山)の西山麓から兵庫県立新たんば荘 ・県立丹波総合スポーツセンターの案内板を見て石鳥居を潜ると諏訪神社がある。諏訪神社は天平勝宝(749-57)頃、 飛の山を神霊が鎮座されるところと定めて信濃国(長野県)諏訪大社から御分霊を勧請したものと伝えられ、祭神に建御名方神(たけみなかたのかみ ・男神)・八坂刀売神(やさかとめのかみ・妃神)及び八重事代主神(やえことしろぬしのかみ・兄神)を祀る。
諏訪山古墳群に囲まれて三白稲荷神社(三四郎稲荷)が建つ

これらの諸神は父神大国主神を助けて出雲の国造りをした後、 信濃に入り開拓に尽力され、肥沃な耕地を造られたという。諏訪大社は古くから国家安泰・武運長久・五穀豊穣・生業繁栄を祈り、近来は生命の根源、生活の源を司る神として”負け嫌い稲荷”は商売繁盛は勿論のこと勝利守護 ・合格成就等の神として崇敬されています。当地域も沼沢を干拓し農業を拡大していった状況がよく似ていることから農業神、軍神及び妃神にあやかり、 安産の神として祭ったのだと考えられます。ご祭神の刀売神のご分霊をお迎えしたことについて、次のような話が伝わっている。大昔のあるとき、古佐(丹南町)の与佐九郎という者が信州の諏訪大社にお参りしての帰途、丹波に行くという娘さんと道連れとなった。
諏訪神社・飛びの山三四郎稲荷

吹(丹南町)の雲岡山付近まで帰ってきたので「あんたは一体どこまで行くのか 」と尋ねると娘は身を翻して大川の淵に飛び込んでしまった。与佐九郎が驚いて助けようとすると、娘の姿は大蛇となって「我は諏訪明神なり五穀豊穣・武運長久・安産さそう」と言って岡屋の山を7巻半して、この地に鎮まられたとのことである。往古より山中の大杉を神奈備として祀ってきたが1906年に初めて社殿が建てられました。境内には三光稲荷神社・白神神社・春日神社・大歳神社・八幡神社・災除神社などがある。富の山とは、刀売神からで、飛の山・刀美の山ともいい東の小川を富の川と呼ばれています。飛の山山頂近くに三四郎稲荷神社があるというが
三白稲荷神社(三四郎稲荷)と諏訪山古墳4号墳

飛ノ山に嘗て白山権現社が祀られていたが山麓の諏訪神社へ移転合祀されたものか(絵馬と当日の番付が保存されているという!!)。諏訪神社は山を御神体としたものか社殿を設けず、山中の大杉を神木として祀られたといい、現在地が遥拝所となっていたものか?。諏訪神社西側から【登り口に神号額に正一位三白大明神とあり、三白は:すなわち三四郎の事か!?】「諏訪奥之院(大膳寺=諏訪神社の神宮寺!!)への道」赤い鳥居が並び、三白稲荷神社へ ・諏訪古墳群を廻って飛の山(銀現山)へも行ける散策コースがあり稲荷社の傍に諏訪山2〜4号墳が並んでいます。
諏訪神社の案内板及び「丹波篠山五十三次ガイド」等を参考


本経寺
篠山川を望む王地山南山麓に総本山を 身延山久遠寺におく妙長山本経寺(日蓮宗)の境内に「負け嫌い稲荷」イメージの化粧回しを着けた狐の像がある。慶長6年(1601)常陸国(茨城県)土浦城主 【元和3年(1617)上野高崎城に移封された】(藤井)松平安房守信吉が実母(徳川家康の異父妹)の菩提を弔うため家臣:都築和泉に奉行を命じ土浦に建立した本門寺の末寺となった。松平信吉が二代目篠山藩城主として、
本経寺にある力士の狐像

元和5年(1619)篠山の地の転封の際、現在地に移築建立され山号寺号は其のままとして、京都大本山妙顕寺の末寺となります。松平伊豆守の代より土浦の城中に祀られていた稲荷大明神像も移築の際・篠山に移され王地山に奥の院として勧請されます。病弱だった信吉は翌年京都で病死し、其の子忠国に継がれ慶安2年 (1649)明石城に転封されます。
王地山公園:負け嫌い稲荷参道

その際、本経寺と守護神 :王地山稲荷社とも篠山の現在地に留まる事を許され、次代の(形原)松平康信から5代、さらに青山氏へと歴代篠山藩主の帰依を受けて現在に至っています。「負け嫌い稲荷」の伝説は12代篠山藩主青山氏4代目:青山下野守忠裕(就任:天明元年〜天明5年 )の話として伝えられます。
(現地:本経寺案内板 等を参考)

頼尊又四郎稲荷   東新町

篠山城東馬出遺構の傍・杜氏会館と篠山保育所間の小路道を、もう一つの篠山市内観光スポット:商家群や古陶館等の有る東に向かって進んでいくと、篠山城の自然の外堀ともなる黒岡川にさしかかる。川底や川の両側に護岸工事の石積みをみると、ホンとに濠であったと思えてきます。橋を渡らず川沿いを北に50m程には乙姫龍王:又四郎稲荷大神二つの小さな祠が祀られています。篠山藩主第4代松平(形原)若狭守(又七郎)康信の甥に松平又四郎という青年がいた。身を寄せている藩主:松平家の威信を笠に着て奔放無頼の生活を送っていた。周囲の者の忠告も藩主:康信により直接・間接に意見をしても改まらず家中一同からも大変恐れられ嫌われていました。
又四郎稲荷大神(左)と乙姫龍王社(右)

不憫ながら止む無し…と藩主康信は万治2年(1659)10月の或る日:波々伯部神社へ代参を命じ途中:家臣達に命じて暗殺させました。其の場所がハダカガヤで知られる日置の東方・R372号の車道脇に上宿公民館が有る付近。其の西端には赤い布で囲われた小さな祠に(形原)松平又四郎と血寄地蔵が祀られています。その後、城下の町民達が若くして惨死した又四郎ではあったが、豪勇闊達さと溢れるような生気を称え稲荷神として習合し、乙姫龍王神と共に篠山城の鬼門に在って除災と繁栄を祈ったものとされます。そして忘れ去られようとしていた又四郎の名は篠山藩主12代目:青山氏に代わって4代目の青山下野守忠裕のとき。江戸両国の回向院広場での上覧大相撲で大活躍し、ときの老中・篠山城主青山忠裕を大喜びさせたという。稲荷神の化身である王地山平左衛門ら一行八名の力士と頭取・行司のなかに唯一人間の松平又四郎は頼尊又四郎として登場してきます。
現地の「丹波篠山五十三次ガイド」による頼尊又四郎稲荷神社の案内板を参考

黒田の稲荷神社     篠山市黒田

丹波市側からR176号で鐘ヶ坂を降ってくる大山や…長安寺分岐を県道140号に入って木之部の峠付近に至るまでの間…、また県道77号を篠山川沿いに川代峡谷を抜け大山下交差点でR176号を渡り直進すると宮田川に架かる新栄橋東詰めで県道97号”黒田交差点”に出るが、車道に面した東北角に5基ばかり相撲力士【荒鹿・瀧の山?・駒勇…までは何度も前を通り過ぎる度に、
黒田稲荷社と旧西紀南小学校跡石碑

彫られている四股名が見えるが…】墓碑を見る。丹波・播磨に限らず随所に見掛ける石碑だが、旧西紀町界隈は特別に多い様で思う!!。黒田交差点からの県道77号は極端に道幅が狭くなる約500m程を抜けて諏訪神社・飛ノ山三四郎稲荷の在る西岡屋から 飛ノ山城西南山麓の東岡屋に出る…が、力士碑の並ぶ南側角から左折する短い登り坂の車道が黒田地区内の西紀南小学校前を通るが、正門前とは車道を挟んだ北側に「旧校舎の運動場跡地石碑」と朱色の鳥居が続く参道。
黒田稲荷社:本殿背後にも二社?の合祀祭神祠

負け嫌い稲荷伝説に登場する稲荷神の化身力士の一人:前頭黒田山兵衛を祀る黒田の稲荷神社ですが、祭神に4柱【須佐之男命:其の子宇迦之御魂神が主祭神か?・大己貴命(大国主神)・大山咋神】を祀る。本殿と背後の丘陵部を廻る二社の小祠があるが、何れも祭神名の扁額がないので本殿内陣に二祭神と”黒田山兵衛稲荷”が祀られているのかな…?。

●曽地山左近稲荷神社     篠山市・曽地中

日置東交差点から後川へ抜ける県道12号に入り曽地川に沿って”ホタルの里”曽地中地区へ分岐する地点に厄除八幡社の鳥居がある。この神社本殿の向かいの尾根筋に洞中砦があり寄道ついでに地区内の左近稲荷にも寄ってみます。もとは此の宮山中腹にある厄除八幡神社に合祀されていたのを昭和初期に元の場所に祠を建てて祀ったといわれます。県道の厄神前バス停の三叉路を300m程入った左手に曽地山左近稲荷神社があり篠山市の案内板が立っているのが見えます。
曽地山左近稲荷

篠山・王地山稲荷は王地山平左衛門の”負け嫌い稲荷”の伝説で良く知られ、過去の山行途中で寄った小田中山清五郎を祀る 清五郎稲荷神社や飛の山三四郎、高城山(八上城)への登山口 ・春日神社に伝説の案内があり、拝殿には8名の力士の絵馬が奉納されています。
(現地「丹波篠山五十三次ガイド」案内板を参照)

●高城市松稲荷神社      篠山市八上内
高城市松稲荷神社・春日神社と前田主膳屋敷

織田信長に抗した丹波の覇者・八上城主の波多野秀治は明智光秀に捕らえられ、秀治の義弟:二階堂秀香が籠城する山城も兵糧攻めに落城する。井上靖「戦国無頼」に描かれる山城は丹波富士の名もある高城山(朝路山)への登山口に高城市松稲荷神社がある。とは云っても春日神社だけが目立ち稲荷社は何処に?…赤い鳥居が並ぶ稲荷社の光景が此処には無い。神社山側の広い平坦地には秀吉五奉行の一人だったが 関ヶ原の合戦に徳川に付いた前田玄以が慶長7年(1602)病没・三男茂勝が同年5万石で八上城に入ります。
元渋谷家屋敷の土塀 ?と春日神社(正面)

官位が主膳正であったことから主膳屋敷と呼ばれ、その三男小田中館主前田氏14代による供養碑が屋敷跡の登山道側に建つ。負け嫌い稲荷伝説は篠山藩第12代(篠山青山氏4代目)の青山下野守忠裕が幕府老中にあった文政年間(1818-30)江戸両国の回向院広場で催される御上覧(将軍:徳川家斉)相撲に、篠山から頭取高城市松が力士八名を連れて現われ全員勝ち続け、負け嫌いの忠裕は面目を施し、褒美をとらせようとしたが何処にも見当たらず、調べてみると 皆が篠山領内八つの稲荷神社の名前であった事がわかり、忠裕は各所の稲荷社それぞれに 絵馬を奉納して感謝したという。元は長亀山石心寺(八上上:阿弥陀寺の東方)の裏に祠があったのを春日神社内に移されています。
春日神社:梁を支える蟇股?(肘木か!?)は力士の様な?

赤い鳥居が立つが合祀されてか三社の祠が並んでおり 市松稲荷がどれなのかは判らない?。狛犬が護る春日神社の上部を見ると軒の荷重を支える為、蟇股というのか?斗と肘木を組み合わせた部分に彫られて装飾を兼ねている図柄が、裸で目をむいて頑張り支えている力士の様です。春日神社は渋谷家の「地神さん」として屋敷内にあったが5代目修理允久親が建てたものとされます。境内の南北に延びる広大な地域を 主膳屋敷と呼ばれているが、さらに山側高い切岸上にも竪堀状の深い堀底を抜け出て御前屋敷があり、さらに一段の平坦地上部には貯水池跡があるが土塁囲みの曲輪は、谷筋側の土塁を欠いて 水をぬかれているが深く掘り下げられることも無く、そのまま使用されていたのでしょうか?。八上城主前田主膳正茂勝の供養碑も大手側に立てられ、土塁や隅櫓の曲輪から少し張り出す遺構が見られます。

主膳屋敷西端部の土塁と隅櫓台(付近には屋敷跡の大小曲輪が多数残る)


この大手道?を挟む左右にも山の斜面に沿って切岸や低土塁の残欠を残した曲輪等・大小多数の曲輪群が残ります。登山者は勿論城フアンではあっても、時間的な余裕が無い為か・こんな場所へ足を踏み入れる人も稀なようです…。じっくり観察して廻れば慶長年間・中世末期から近世初期に懸けて築造・改修された城郭遺構が残されていそうです。主膳屋敷の北方・旧街道沿いには堀が廻っていたとされますので、大手道は此の供養碑側に登ってくる堀底道がその様なので、虎口や大手道に沿う西側を主に残される、多くの大小曲輪群の中にも見所は残っていそうです。
(現地「丹波篠山五十三次ガイド」案内板を参照)

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