篠山市 3   波々伯部神社:丹波の祇園さん

波々伯部神社”丹波の祇園さん”
丹波の話 山窩弥十郎洞窟 血寄地蔵
丹波の自然四本杉 西光寺のムロの木


波々伯部(ほおかべ)神社・丹波の祇園さん
波々伯部神社:青銅の鳥居とキュウリヤマ(曳山)
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波々伯部神社は古くから京都の祇園社との関係が深く、祭神はもと祇園天神 ・牛頭天王を祀る事から祇園さんと称され、現在は素盞男尊ほか二神が祀られます。篠山市の三大祭の一つ:波々伯部神社の夏の例祭は丹波の祇園さんで親しまれ創建には諸説あるようですが、貞観年間 (859〜877)創建され承徳2年(1098)堀河天皇が波々伯部村の田を京都の祇園社(八坂神社)へ寄進しされ八坂神社の荘園・波々伯部保となり 祇園社の分霊を勧進したともされ、波々伯部氏が荘園の下司職を代々相伝し、
次々と宮入のチンチキヤマ(山車ヤマ)

南北朝期:建武4年(1337)地頭職に任じられた 波々伯部次郎左衛門尉為光が神社の東約800m・辻の淀山に淀山城を築いて 波々伯部氏の本拠城としています。最初に潜る青銅の鳥居【天下泰平・武運長久・諸民安穏・五穀豊穣】は 室町末期 ・延徳2年 (1490)銘があり、篠山町指定 (平成2年1990/11月20日)文化財です。鳥居右手の杉並木の入口の枯死したケヤキの巨木が日置の一里塚です。
淀山城主郭に立つ波々伯部氏顕彰碑

現状R372号線(デカンショ街道・京街道)は 波々伯部神社の南をバイパスで抜ける上宿と辻交差点間の旧街道筋を8集落から宮入する山車が青銅の鳥居を潜る。”お山の神事”が行われる年には鳥居の左右には キュウリヤマ(曳山)が造られ本宮の最後の締めを飾る デコノボウの出番”人形操り”を待つ。徳川秀多忠が慶長9年(1604)江戸に日本橋を基点にして東海・東山・北陸三道の道路の両側に 1里ごとに榎や松を植え道程の目標としたのが始めで篠山藩では築城の際に、
神社紋は波々伯部氏家紋と同じ!!松喰い対鶴丸

京街道に沿って 大手門から1里ごとに土を盛り松を植え八上城下に最初の塚があり、 次が波々伯部神社の日置の一里塚で、三番目が宿場町・福住宿 の水無川に架かる橋の西詰め有る一里松。 白鳳時代・白雉年間頃?創建を伝え本地薬師如来を勧請したといわれる本来は寺でもあり、石碑の横には釣鐘こそ外されて無いが鐘楼や本殿と社務所の間には護摩堂が建ち奇異な感じです。
宮入:宮司よりお払いを受ける

祇園社と祇園寺に 神仏混合で社僧により神事が行われていました。 本殿には神社紋であり波々伯部氏の家紋とも同じ?
松喰い対鶴丸を染め抜いた幕が張られていますが、此の紋には多田満仲が波々伯部神社の立寄った際の伝承があります。
稚児は最後にキュウリヤマの”迎え太鼓”を打つ大役を務める!!が

波々伯部氏が波多野氏傘下にあって 八上城の東口を守備していたが、天正7年(1579)織田信長の”丹波攻略”による光秀の八上城攻めの兵火により社殿を焼失したが天正17年 (1589)豊臣秀勝によって再建されています。「丹波の祇園さん」の祭礼(8月第一土日)では氏子である八集落から8台の山車【船山2台、 チンチキ山<ダンジリヤマ>とよばれるもの6台】の宮入や2台の
御旅所(大歳神社)への渡御に参列

キュウリヤマ(その円錐形が胡瓜に似ている事から呼ばれているのか? :古来・魔除けとお祓い神事の用具とされる 稲穂を干して編んだ藁縄・笹の付いたままの真竹・松等の手持ち材料で組み上げられる高さ約7-8mに達する曳山。 木製輪切りの車輪は二本ばかり予備はあるが一本?十万円とは…!!。京・祇園祭の山鉾の中世の形ではないかとも推定されています)が7年毎
渡御の先導は祭神:猿田彦と獅子頭:後方に神社を出発したばかりの山車が続く

(ごく最近3年ごとの変わった)に造られ、 此の山の中央部に設営される舞台では12体のデコノボウと呼ばれる、一本の柄を持って操つられる素朴な人形(木偶)の奉納(神事)があります。人形の裾から手を入れて幕の間から出して地謡(大会謡とよばれる謡曲)により、仏教説話を題材とした愛宕山等、現在:八曲が残されている 1-2分程度の人形繰りが奉納されるのが お山の神事でデコノボウ(木偶の棒)も此処では神となり、曲に合わせて演じられます。
田園風景の中を大歳神社へ進む8基の山車

これは中世:室町時代末期〜慶長年間頃の、文楽人形浄瑠璃と結びつく以前の原型(祖型)として民俗芸能史上大変貴重なもので享保4年(1719)の製作年を記したものも残っています。 社務所に蔵められているとおもわれる”デコノボウ”は御神体でもあり拝観は叶わないが、黒線に朱色でなどったふじ(藤)たい(鯛)の絵が置かれていた。江戸時代中庸期(1700年代?)頃より、神社の宮年寄と呼ばれる 役付きの方のみにより描かれ、「よろず 最悪 封じ たい」という言葉の”封じたい ”を捩った「封うじ〈藤> たい<鯛>」の 絵を玄関口の上に飾り、此れからの一年間「萬<よろず>の厄<わざわい>」からのがれられる事を願うオマジナイ(御札?)と云う。 今回(H25.8)折角の機会に”お山神事”の デコノボウ人形繰りが見学できなかった。
”藤鯛”の縁起札!?
嘗ては先導を務めた神輿鉾

なを:田園風景の中に溶け込む様に長閑に、 しかし厳粛に近くの(約700m程離れた)大歳神社<御旅所ともなるが>への渡御には猿田彦 ・獅子頭を先導に稚児や8基の山車が続くが、嘗ては道中を先導する重要な神具として三基の神輿鉾【一番鉾御祭神 :二番鉾妃神:三番鉾御子神達】が三名の男衆に奉持され・徒歩で神輿の先頭を行ったが、一基50kgの重量が原因で何時しか中止され納庫されたままだったが、平成10年(鎮座900年)以降、 社殿と社務所の間に置かれ披露されています。

(現地・春日神社の案内説明板 篠山市資料等篠山市教育委員会 参照)



弥十郎洞窟  血寄地蔵


山窩弥十郎洞窟    篠山市畑市

弥十郎ヶ嶽 多紀アルプスの三嶽〜小金ヶ岳に次ぐ高山で、山頂から西に延びる尾根の山頂近くには海石(海見岩)が在り、遠く明石海峡が見える事も有るといわれます。 この尾根の北方に弥十郎ヶ嶽北峰があり、雑木藪が切開かれて畑市へハイキング道が整備されてるが、道標を外れて西へ延びる尾根を辿り中世の城:波々伯部平内が拠った 畑市城(平内丸)が今回の目的ですが序でに弥十郎ヶ嶽を目指します。畑市 集落の薬師野ヶ原キャンプ場から一般登山道を採ると”海石”の尾根と、山城のある2つの尾根を分けるコマン谷を遡るルートですが、稜線も近くなった辺りではフイックス・ロープで大滝を捲き岩場の谷を越します。 するとポッカリと大きな口を開ける洞穴が頭上に見えてきます。
山窩・弥十郎洞窟

”山窩 (サンカ)弥十郎洞窟”と呼ばれています。”山窩”という言葉が差別用語かどうかは知りませんが現在使用される事も無くなり、その詳細な意味までは分かりません…。定義が有るかどうかも知りませんが、 狩猟を生業としてきた”マタギ”と呼ばれる 技術や組織を持った人達がいたが、そんな中・定定住することなく戸籍を持たず、山の恵みの(狩猟や山菜)採取や竹細工等を生業として、人目を避けるような生活をして 時折は人家近くにあらわれて、穀物や野菜と交換しながら 季節により場所を移動しながら生活していた人もありました。その様な人達の中で此の岩窟に弥十郎という又鬼(猟師)が住んでいたといわれ、 獲物の肉を畑市の市場に持って来ては米や野菜と交換し山へ持ち帰っていきます。やがて誰が言い出したのか此の山を弥十郎と呼ぶようになったと云う事です。


松平又四郎と血寄地蔵     篠山市上宿

R372号沿い上宿公民館西端の赤い布で囲われた小さな地蔵堂に血寄地蔵が祀られています。第四代篠山城 城主形原(松平)若狭守康信(慶安2年〜寛文9年)のもとに身を寄せていた甥の 松平又四郎という若者がいました。 品行方正な藩主とは裏腹に又四郎は日頃より 不行状な生活を続け家中一同からも恐れられ、周囲の者の忠告にも一向に改まりません。止む終えないと考えた藩主・信康は万治2年(1659)10月の或る日 ・波々伯部神社へ代参を命じ途中此の辺りで家臣により惨殺させました。
血寄地蔵

家名を守る為とはいえ人命を奪った過ちに、遺体は八上上の阿弥陀寺に手厚く葬られましたが、その死を哀れんだ村人達が現場の路面を清めて、道端に地蔵尊を安置して祀ったのが血寄地蔵です。その後・形原松平家は 亀山(現・亀岡市)藩主青山家【9代藩主・青山忠朝より・・明治の廃藩まで】と交代となり、菩提寺の光忠寺も移築されたが、その墓地の入口の一隅に血寄地蔵の分身の小さな地蔵尊が 北向きに祀られているそうです。
(現地・丹波篠山五十三次 案内板 参照)


薬王山西光寺    篠山市畑市

波々伯部神社の少し手前・井ノ上バス停を少し過ぎたところで 弥十郎ヶ岳の北側からの登山口となる「薬師野ヶ原キャンプ場」の標識を見て右折し、 辻川を渡り狭い車道を畑市集落に入って来ると薬王山西光寺(曹洞宗)があります。築地の奥に薬師堂の様な西光寺仏像収蔵庫が昭和 42年(1967)建造され平安期(延暦13年・794-建久3年・1192)の秀作として国や篠山市の 重要文化財に指定されています。本尊・薬師如来坐像 (開創者・行基が自ら刻んだという )と脇侍の四天王像等が安置されています。元は集落を抜けキャンプ場への林道となる入口辺りに西光寺跡地があり此処から移されたといわれ、奈良時代の高僧・行基が弥十郎ヶ岳山中に四十九院を建てたといわれ、西光寺も其の西山麓に天平3年(731)創建されたものと伝えられます。
西光寺跡地

中世の動乱期に堂宇は全て焼失したが元禄年間 (1688-1704)洞光寺二十一世万国春輝和尚により西光寺は復興され、兵火から難を逃れた諸仏像は護持されていたが現在は、 もと市場跡に収蔵庫が建てられ移されています。西光寺本尊・木造薬師如来座像は国指定(明治44年-1911 4月17日 )重要文化財で、大きな髪部や顎を突き出したように見える 頭部の深い奥行き等に特色があり像高157.5cmの桂材による一木造り、膝と両腕は寄木となっており内刳を施してあり、平安時代の円満な重厚さがある作品です。西光寺跡のネズ (ヒノキ科)は郷土記念物に指定(昭和63年3月25日)されています。ムロの木とも呼ばれ普通樹高2〜3mのものが樹高21m・幹回り 3.1mで県下有数の巨木で、地域の信仰の木ともなっているようです。
(丹波篠山五十三次現地案内板及びガイド誌 及び篠山市教育委員会現地説明板 参照)


四本杉  篠山市辻字鶴沢

R372号線(デカンショ街道)から秀麗な飛曾山 (辻冨士)の姿を望みながら辻集落内の道を採って南山裾に向います。鶴沢の出合いに四本杉案内板が有るので寄ってみます。ホントは鶴沢を詰め登って波々伯部氏のもう一つの城・南山城を探したのですが,沢を詰め過ぎて 別の尾根に乗ってしまい今回はリタイヤ。
辻の四本杉

正一位稲荷大明神が祀られる ”稲荷の森”には推定樹齢700〜800年、 幹が途中(2m位のところからは )四本に分かれた四本杉が在ります。幹(胸高周り!、目通り)8.9m、各々の幹は樹高約30mもあって枝張り東西約33.2m・南北約18.5mの巨木です。樹形も珍しい 老樹巨幹だが樹勢も旺盛です。御神木として古くから「稲荷の森」とか「鎮守の森」として地域住民から親しまれている大杉です。
(現地:四本杉 説明板参照 兵庫県告示第334号 【昭和54年(1979)2月13日】指定記念物)

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