篠山城近くに中世城館探索… 茶屋敷・吹出城・渋谷氏館・酒井監物館
篠山市 (五万図=篠山)
近畿の山城 : 茶屋敷吹出城 :渋谷伯耆守居館  酒井監物館
 前川館  王地山砦 井根山館 奥ノ谷館
丹波のお話(落城悲話) 朝路池 女畷(縄手)、乙女塚
酒井監物館:医王寺西面の堀跡?館跡の水田?

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に勝利して天下の実権を握った徳川家康にとって降伏したとはいえ 豊臣方の家臣だった大名達の動向や、豊臣方の残る大阪城(秀吉の子・秀頼や淀君)に対する牽制と、その包囲態勢を整える為に名古屋・彦根・膳所・丹波亀山・伊賀上野・越後高田等の諸城を修築するとともに、京都から山陰・山陽・大坂へと通じる 交通の要衝・篠山に西国の外様大名を牽制する (主に山陰方面の守り)抑えの拠点として慶長14年(1609)築城させた天下普請の篠山城を丹波篠山の観光シンボルともなっています。
茶屋敷(井関三之丞居館): 亀の山頂部の平坦地(主郭)

丹波富士と呼ばれる秀麗な山容を見せる朝路山(高城山)に山城を築き、 丹波一円から攝津の一部をも支配していた波多野氏の本拠城:八上城が織田信長”天下布武”の号令のもと明智光秀による 「丹波攻略」により城主:波多野秀治・秀尚の兄弟は謀略により 本陣としていた本目城 (亀岡・神尾山城)に招き入れて捕え安土城に送られ、其処で殺害されます。 残った波多野氏将兵を指揮した義弟の若き闘将:二階堂秀香の立て籠もる八上城も2ヶ月余りの包囲網による 飢餓作戦に天正7年(1579)落城。其の後:八上城は幾度か改修されたが、 初代篠山城主:松平康重の時、
茶屋敷:四方に2〜3段の曲輪が捲くが下段は墓地として改修されているかも知れない?

富の山・王地山とともに候補地となっていた笹山【 八上城波多野氏配下の篠山利右衛門が守備する篠山砦が在った所】に新城が築かれ、八上城下の町家や神社・寺院を篠山へ移転して城下町が整えられます。富の山の飛ノ山城には貯水施設が出来て遺構も残らないとされ、国民宿舎が建ち遺構も不明・城史に其の存在も知られず不詳の王地山砦、 篠山城の築城で王地山砦と同様に旧遺構も城主?篠山氏の名が見られるが 城史等の内容は不詳の篠山砦ですが中世:
西禅寺側の?神社:落葉イチョウの絨毯

八上城を本城とした波多野氏配下の家臣達の城が篠山市内各所に点在し僅かにでも遺構を残す山城・居館 ・八上城向城を探し出掛けていますが、平野部に伝わる城館跡は酒井党の初田館(酒井勘四郎館)の様に環濠屋敷として、比較的良好に残る遺構も圃場整備により、調査後に消滅して碑・案内板もなく 所在さえ不明?、小さな地区内の歴史からも忘れ去られていく遺跡は少なくないようです。
市内歴史散歩⇒ 篠山藩校「振徳堂」/武家屋敷/ 誓願寺/玉水等も併せてご覧下さい


酒井監物館 渋谷伯耆守居館  茶屋敷吹出城
前川館  王地山砦 井根山館   奥ノ谷館



酒井監物館     医王寺周囲   篠山市北字殿垣

篠山城の東濠と「東馬出」の間の車道を南に抜け、篠山川に架かる監物橋を渡りR372号(デカンショ街道・京街道)に延びる県道49号線に出ます。 監物橋の欄干に篠山をPRする・手振り足さばきも優雅な踊り手の「デカンショ節」像が飾られているが 「監物」の橋名にも所縁は有りそうです。橋の南詰めで鋭角に右折する細い旧道(元々の旧堅物橋から続く道)が有り100m程で県指定天然記念物 医王寺のラッパイチョウの木が有る医王寺に出ます。
公民館北のコーナーから医王寺西面へ屈曲する堀跡?

直進すると篠山川の枝流:尾根川を渡り野中集落を抜けR372号小枕交差点から、 日本画家小川芋銭 院展に出品した「丹波霧海」によって朝霧が知られるようになった美濃坂峠を摂津三田市へ抜ける道です。 野中集落内には女畷・乙女碑があり 八上落城の悲話が残るが、伊勢路へ向う石道標や大きな常夜燈も有って京街道や摂津に向う重要な道が通じ、其の通行監視も兼ねた館跡が在った でしょうか?。地元の方に訪ねても田畑となっている一帯等、地籍調査図でもなければ旧字名や小字名 :古い通称名等を尋ねても殆ど回答を得られないのが常ですが、幸いご存知の方がおられて位置は確認できたが史跡としての遺構状況は此の上なく悲惨!!。
墓地南西角から水田を廻り込む堀跡?:宅地付近が”字殿垣”だが!!

医王寺の南側に地区内車道が通り宅地がある。 「尾根橋北詰」交差点に近い辺りが”殿垣”だが、道路と宅地・田圃となり、殆ど高低差も無く拡がる平坦地ですが北側に水田があり、医王寺と隣接の公民館・監物橋からの旧道側には10uばかりの 狭い区画に竹林を残す小さな稲荷社の祠が建つ。車道から此の稲荷社のある東北側から北側を公民館裏手の西北側隅コーナーを経て、医王寺と墓地の西を濠が廻り、更に墓地と一段高くなった水田を 囲むようにカギ状に屈曲して西から南へ延びて”字殿垣”を区分する?車道へ続きます。現状からは字殿垣は無論・北へ続く水田。墓地と医王寺境内を含む一帯が酒井監物居館跡と推定します。 圃場整備で河川・溝の流れや位置も変えられたかも知れないが、寺や墓地まで変わったとは思えないし、 水田下の溝も圃場整備で 手が加えられたわけでもなく、旧態のままの様です。また医王寺前の旧道の東北側には篠山藩時代からと思える尼寺が在ったとも聞く。
酒井監物館:北東隅の稲荷社から公民館への北面の堀跡?

現状からは元の地形が不明ですが東面を篠山川に尾根川が流れ出る狭間に在って、 両川を外堀として環濠としたか、東面には高土塁と空掘で防備した酒井監物の館が建てられたのでしょう?。 其れが何時の頃か、丹南町史等未調査の為不詳ですが、承久の乱(1221)後に関東から来住してきて大山荘 :大山城の中沢氏、佐治荘:山垣城の 足立氏らと同じく酒井氏も荘園の地頭職を得て 丹波に移ってきた歴史は古い様です。JR古市駅からR372号沿いに油井・波賀野・栗栖野 ・真南条や矢代一帯に勢力を持つxxx酒井党が、波々伯部氏の様に?・波多野氏が八上に来住して殿町に蕪丸(八上城の前身)を築く以前から新補地頭として小枕から此の領地まで勢力を拡大していたのでしょうか?。
酒井監物館:医王寺西面から墓地南西角を西へ屈曲する堀跡?

丹波市 :穂壷城が天文2年(1533)細川晴国方に付いた多紀郡(現・篠山市)の波多野晴通(はるみち)が、細川晴元方の部将・赤井伊賀守忠家を攻め落とし、一時期:波多野氏が氷上郡(現丹波市)を領した時、 此処に拠ったのが西波多野氏の宗長(氷上城主)配下として酒井佐渡守重貞が守備したとされています?。ただ伝承に残る波多野宗長の史実を記す資料はなく、資料は有っても其の氷上城・久下城 :久下重氏(丹波市山南町)や福知山城:小野木縫殿助・山家城の谷大善(綾部市)等を波多野七頭・七組・先鋒衆が守る八上城の支城として記されてもいるので、時代背景や関連をも掌握していないと 思わぬ誤解を生じてしまいそうです…。永禄年間(1558〜70)波多野氏の傘下に組み入れられていった酒井一党が、明智軍の丹波侵攻により・八上城落城前に没落するが、矢代・来栖野に多い酒井姓は、 此の地にも其の姓を残す家が、渋谷氏と共に多い様です。
【多紀郡埋蔵文化財調査委員会・分布調査報告書 昭和47年を参照】


渋谷伯耆守居館       篠山市北字塚の上

字名をお尋ねした方も酒井姓ですが墓地には渋谷姓が多い。波多野氏の家老:岡谷の砦(飛ノ山)城主:渋谷伯耆の居館の比定地(圃場整備で遺構は勿論位置も不明?!!)も、 近くにあるので歩いて其処に向かいます。R372(デカンショ街道)八上へ向うバイパス道側「池上」には 権現堂が建ち神社名は知らないが社紋と思える”左三つ巴”が掲げてある。丹波市でなら建武年間:播磨と丹波春日部庄を領した赤松貞範が黒井に城(砦)を築いているので此の紋を見るが 篠山市側では?…鎌倉から来住した酒井氏の家紋でもある。医王寺(酒井監物館)の墓地には渋谷姓の墓碑が多い。
尾根川沿いに天満宮の杜の向こうに丹波富士(八上城・高城山)を望む

字名の殿垣を教えていただいた方は鎌倉から 墓参帰省中で姓も酒井、監物の名には渋谷監物の名も有り篠山川沿いに居館が在ったといい、所在不明の「北村館」がどちらかの居館なのか?共通点が多くて混乱する。なを権現堂に祀られる 「銅造りの蔵王権現立像」一体は、県指定(昭和62年3月24日)重要文化財で元・修験道場であった御嶽 (多紀アルプスの主峰)に在ったと伝えられ、鎌倉時代に鋳造された像は「雨乞いの霊験とマムシ除け」の神として信仰をあつめているという。 (篠山市教育委員会 現地説明板参照)
「池上」の権現堂

此の近くには 渋谷伯耆守の居館があり、持城の飛ノ山城には少し遠いが、近い位置に先ほど寄った酒井監物の館が有る。 渋谷伯耆守の居館は東吹きの飛ノ山城南麓・篠山川近くにも在ったのですが所在不詳・東吹では岡本病院近くの独立低丘陵上に、吹城(瓢箪丸)城主井関氏の拠る 茶屋敷が在って、此の後:帰路の途中に立寄る事にする。永禄・天正年間(1558-92)頃、八上城主波多野秀治の重臣で飛ノ山城(岡谷城)城主:渋谷伯耆守氏秀がいて、 平林大膳秀衛・渋谷播磨守宗貞と共に家老職にあり、飛ノ山城には弟の氏昌・昌時・重則とともに 居城していたといいます。比高も60m程さして要害と云えるほどの急峻な山城でもなく、独立丘陵の南端部を城域として取り込んだで、篠山盆地や街道筋を眺望する位置的には要所に在って、 篠山城築城の際の候補地ともなっています。
田圃の中にポツンと残る天満宮が居館跡を彷彿させる!!?

城主渋谷伯耆守氏秀の平常時の居館は城山の南麓・東岡屋の篠山川沿いに父・監物が築いた惣構えの構居に一族が住んでいたという。 監物が上記:酒井監物館を指すものか?・渋谷氏が酒井氏から改姓して独立したものか?同じ篠山川沿いで近場ではあっても場所が東岡谷と北地区では 約2km近くの隔たりがあり、 監物は同名と思えますが・・?。南へと車道を野中地区の中に進んで行くと、大きな常夜燈籠が建ち、 伊勢講が盛んだった頃は此処から伊勢路を指して講の人々が出立して行ったのでしょうか。地区の人たちが当番制で火を燈したといいます。「右京・伊勢路 左 篠山道」の古い道標が立てられていたが、 いまは西禅寺の山門柱前に移され置かれています。摂津三田を結ぶ要衝でもあったのでしょうか。
王地山砦(下記参照):竹林の尾根に小曲輪?が数段続く

此処から東方へは正面に八上城の在った高城山・右手南側には義経が不来坂を越え今田から三草山へと走った京街道(R372号)と 四季山(四季山城)が、左(北方)は篠山川を経て勝山や般若寺付近に低丘陵があるだけで、一面に平野が拡がります。そんな中・明智の「丹波攻め」では八上城西の防衛拠点として激しく防戦した渋谷氏の 飛ノ山城も天正6年(1578)6月に落城しています。それ以前:渋田氏が波多野氏家老職にあった頃は、目前に八上城を臨み八上城の落城寸前に城を逃れ出ても、追っ手が掛かれば逃げ場も無く ・弱い老若男女を襲う明智方の雑兵等との間では、阿鼻叫喚の修羅場が展開された事でしょう。 今も悲話を伝える女塚を望み、深い谷川となる尾根川沿いの此処に、登城の為の別宅的な居館を構えていたのでしょうか。 ただ一面に圃場整備された耕作地が拡がり居館跡の遺構はもとより 其の位置され判りません。
王地山の南麓の商家群

川を堀としていた事は想像できますが、残っていたとされる五輪塔も堀跡や土塁跡を田圃となっている部分に 見出す事は出来ません。推定地はだだの田圃の中だが位置をズラした直ぐ先 ・川沿い50m程東に天満宮がポツンと田に挟まれた中に小さな杜を形成しています。学問の神:天神さんが川を隔てて橋も無く、周囲に宅地も無い立地の不思議さ?と周囲の灌漑用溝や方形の水田の土手に堀跡 ・土塁跡に渋谷伯耆守氏秀の館跡を彷彿とするだけです!!。
【多紀郡埋蔵文化財調査委員会・分布調査報告書 昭和47年を参照】


王地山砦   東山? Ca235m      篠山市東沢田字東山ノ坪
王地山砦と王地山東山古墳
篠山川沿いの川代渓谷(峡谷)を抜けR176号線大山下を直進する県道77号線が、西脇方面から味間を通る県道36号線と合流地点、 東側の丘陵:権現山【飛ノ山城(岡谷城)】の裾を通る。 交差点を左折すると篠山市街地に入り篠山観光の中心地国指定史跡【篠山城】も近い。 直進する県道77号も此の篠山城の直ぐ南側を通る。南新町交差点を左折すれば篠山城、右折すれば監物橋を渡って 酒井監物館渋谷伯耆守居館渋も近い。此処も県道77号線を直進すると 「まけきらい稲荷」や「温泉・ホテルのささやま荘」が建ち、桜・紅葉の名所ともなっている【王地山】がある。
高城山(丹波富士:八上城)と王地山砦(右丘陵の末端部)

ささやま荘横の最高所の 南面は断崖上で眼下は篠山川に面し、遮るものなく南西に約2.5km八上城を望み、京街道を監視出来る要衝と天然の要害の立地条件からも八上城城砦群の一つが有ったと考えられます。 王地山最高所の平坦地や段差がどうにも城砦の遺構に思えるが遺跡分布地図には此処に城砦・居館のマークは見当たらない…。
南山麓の河原町に並ぶ妻入り商家群の家並み、伝統の王地山焼【範領だった王地山に地江戸時代末期:文政元年 (1818)篠山藩主だった青山忠裕が、此れより以前に三田藩の「三田青磁」成功を知り同様に・京焼の陶工欽古堂亀祐を篠山に招き始めた藩窯が王地山焼開窯の起源といわれます。中国風の青磁、染め付け、 赤絵を主とした磁器窯です】を伝える王地山陶器所や其の王地山焼・
王地山の南麓:丹波古陶館

日本六古陶の一・古丹波(立杭焼き)の創世期【平安時代末期小野原荘(旧今田町)に築窯されて以来】から江戸時代末期に至る700年余にわたる作品が年代 ・形状・文様等に分類展示され、蔵品中の312点が県文化財に指定されている丹波古陶館、其の隣(郵便局を挟んで)建つ能楽資料館は全国に唯一のもの。藩政時代から篠山地方に伝わる 能面に関する資料や、面・装束・楽器など鎌倉時代からの能や狂言に使用される貴重な品々を全国的に蒐集し、歴史的工芸的視点から分類展示されています。全国でも最も早く(元旦に)演能が催されるのも此処 ・篠山の春日神社の「春日能」です。春日神社能楽殿は篠山藩第13代藩主:青山下野守忠良の寄進により、 江戸時代末期の文久元年(1861)に建立されたもので、国重要文化財に指定されています。 (現地 丹波古陶館:能楽資料館案内板を参照) 音響効果の為・床下に配置されている7個の丹波焼大甕は、微妙に方向を違えて斜に配置されていて、秋祭りでは舞台下にセットされている甕を 覗き見ることが出来ますよ。
王地山砦:王地山東山古墳(東北方向から)

慶長14年(1609)徳川家康の命により天下普請の篠山城築城の候補地となったのが、独立丘陵上に笹山砦の在った現在の篠山城で、其の西の岡谷に飛ノ山城 ・東方にも同様の独立丘陵王地山の三箇所です。王地山の地は奈良時代末期には平安遷都の候補地として選ばれ、藤原黒智麻呂が下検分に来たことから「王地」の名が生まれたと伝えられる程に城砦 ・居館としても最適地。しかし篠山城から見れば東北の沢田城や東の王地山・西の飛ノ山城の各独立丘陵を土塁、南を流れる篠山川と三嶽・西ヶ嶽から篠山川の流れ出る黒岡川と藤岡川が城の東西を濠として三方を囲み強固な要害を形成しています。王地山麓に商家を、飛ノ山城麓を寺町を集めての城下町が形成されているようです。 県道77号線は王地山裾を南へと篠山川に架かる京口橋を渡り R372号(京街道・デカンショ街道)に出て八上城下を抜けて亀岡方面に進みます。
王地山砦:王地山東山古墳(南方の尾根側から)

以前より要衝・要害の王地山の地に城砦の存在を捨てきれなかったが、 王地山砦の文字を此処に見つけました。但し王地山最高地点ではなく山頂部から東へ延び出す小尾根の先端部付近です。場所は京口橋を渡らず篠山川と並走する北側の県道702号線に入って直ぐ。 左手の住宅地に迫り落ちる丘陵南側の急崖が見えます。取付き点も見出せず駐車場所も無いので、北方の篠山中学校・体育館側から圃場の中の道を進み篠山市共同墓地側から尾根先に竹林に向かいます。
平坦地や高い切岸状の段差に曲輪を感じさせる事の多い竹林の中の削平地には何時もながら、 城砦遺構への思い込みから判断できませんが、古墳の墳丘部についても同様です…。此処にも墓地下の果樹園?、一段上がった先:竹林へ入った途端の削平地、斜面を上り切った狭いが平坦な尾根筋。
王地山砦:同上地点から東方の土塁(右手は崖)と曲輪?

尾根の南端は崖となり 直ぐ15m程真下に民家の屋根・しかも南端に沿っては土塁状の盛り上がりが王地山側の尾根に延びています。南側の民家は県道702号と県道77号が分岐する篠山川沿いに建ち並ぶ、京口橋北の街道要衝にある。 東尾根先に向っては竹林の中に何段もの曲輪を並べているようですが、末端尾根先部に独立丘状に周濠らしい堀を廻らしているらしい円墳があり、これを土橋付空掘として先端の円墳上を見張り所とした砦跡を感じさせます。古墳は直径 25m程の円墳で味間: 三里山1号墳と同様に上方部を2段に築造されていて、遺跡分布地図上には王地山東山古墳の名が見えますが、王地山砦と同じく遺跡・遺構についての資料を知らず、 これ以上は何もわかりません。
王地山砦:東山?最高所付近から 王地山側への土塁(南側は崖)

王地山山頂部に城砦があったと解釈しての城跡遺構の推察は、歴史史実や古文書解析もせず思い込みだけでは・お叱りを受けるだけでしょうが、 短い尾根状に堀切等の城域を分断するようなものは無さそうなので、篠山城から見れば王地山砦の出丸的存在だったかとも思え、八上城から考えれば県道702号線を東に約1kmには 野間砦・塚ノ山砦・勝山堡・般若寺城等々の八上城包囲の付城が、 篠山川沿いの対岸(北方一帯)に八上城と対峙しています。東山?から東側の尾根に曲輪を並べ、北裾に広い平坦地も在って沢田城をはじめ波多野氏方周辺の城を次々と落とした後に 八上城に迫る明智方の付城となり、また八上包囲網の西端にあたり将兵の駐屯基地ともなったとは考えられないだろうかと…?


井根山館  xxx山   xxxm  篠山市野間字井根山
井根山館と井根山古墳群

兵庫県の埋蔵文化財保護の手引きWeb版の行政地区マップに 館名と位置が記載されているが、「小規模な館跡」とのコメントを見る以外、此の城館遺構については、其の館跡(別名が有るかも?)についての名を市町村史等に記載されているのを、未だ見たり聞いたりした事もなく、 城史一切が不明です。明智光秀が八上城攻めの為に篠山川を挟んだ、真北の川沿いに勝山城・野間砦・塚ノ山砦等 を設けて対峙しています。
北西から井根山館と市指定のヤマザクラ(右端)

野間砦の在る丘陵部の頂が井根山Ca220m(比高40m程)ですが、勝山城の東・篠山川沿いに有って、明智の陣城として知られる般若寺城も山名が同じ井根山Ca255mです。 上記の砦群内には悉く丘陵城域内に幾つかの古墳が数基か存在しており、今日向った井根山館も古墳群の在る 丘陵部最西北端部に位置して、高く急な崖状の斜面となった西面を除く三方を土塁で囲った曲輪が存在します。
北方から井根山館の在る超低丘陵越に八上城を見る

居館跡と思える曲輪から最高所にかけては栗林のなっており改変されているかも知れません。 2段ばかりの削平の粗い平坦地があり、井根山館の在る丘陵部から西方へは沢田城と・篠山城築城候補地の一つになっていた王地山(東北裾の端に王山砦があり、此処にも二段構成の円墳がある)まで 約2km程の平地が拓けて井根山の山名からも一帯は、穀倉地帯として荘園管理の代官:領主の、 荘園監視を兼ねての居館であったと考えられます。居館から南へ延びる緩やかな低丘陵尾根は栗林の先で、急斜面の藪と下草の蔽われた円形の最高所に着く。
幅広い土塁に囲まれた井根山館

直径25m?・高さ3mの規模から此れが 井根山古墳群1号墳の様で、南隅に下草に覆われ 隠されている石造五輪塔を見つけ、周辺の草を刈り込んでみたが、五輪塔の時代的特徴を見分ける知識も無いが、荘園時代の居館主を祀ったものだろうか? 井根山館は篠山川沿いに、野間地区の集落南口を挟んで東に塚ノ山砦・西に野間砦があり、約1.5km程:野間砦沿いの低丘陵沿いに野間集落内を北に進むと青山台ゴルフ倶楽部?敷地に入る。 塚ノ山砦から北へ延びる丘陵が此処に至る。野間砦からの比高僅か20m程度の丘陵沿いに進むと、 僅かに窓の様に狭く開いた・両丘陵の間の平地」を抜けて王地山や沢田城を望む平野部に抜ける。抜け出る丘陵末端部に井根山館があり、北から西裾を南へと溝谷が流れ、田や民家が建つ西面は 急斜な崖・北側も2段ばかりの小曲輪の切岸?、
丘陵西北角の館下にヤマザクラと溝谷が廻る

尾根端を幅の広い土塁(高さ約1.5m)が囲む。最高所の古墳のマウンドは物見の櫓跡か?、南へは急斜面を下るが尾根続きの緩く長い鞍部は空掘が走る。 ほかに防御施設は無さそうですが、これ等の遺構は中世・八上城攻め向城の付随施設や、其の前の沢田城や八百里城攻めに、明智勢が利用したものかも知れないと思えてきます。井根山館は 野間地区を北へ抜け出たところ、北西端にはヤマザクラの古木があり市指定の案内標柱が立てられているのが 目印になるでしょう。また比高20m足らず・丘陵尾根上も短く(800m程)縦走路は無いが、東・北・南への横断遊歩道(余り利用されていないようです?。
藪中の井根山古墳群1号墳?:マウンド上に祀られる五輪塔

野間の地区民によって鎮守の森公園を基点のしたものか、 遊歩道が整備されています)。「鎮守の森」とは篠山川の中洲にある神社の建つ杜のことか?。いま歩いてきた野間地区内の道に東谷登山口があり、直ぐ上に輪切の木のイスやテーブルが置かれた休憩所があり、東側に二基の円墳が並ぶ。どの位置に有るのが何号墳なのかは知らないが井根山古墳群5〜6号墳にあたるのか ?直径8〜10m・高さはいずれも約1.5m程の2基が並んでいます。
 同 井根山1号墳南急斜面下には空掘?が廻る


登山コースは数10mで館跡・1号墳から下ってきた空掘のある、中程にはサイレン塔の建つ平坦な尾根に出る。 戻って車道?に降りて50mも行かないうちに「たわ峠」(たわも峠の意味だが、峠とも気付かない丘陵裾と田圃が続く道、)」、更に50m程で松の下登山口、北側から館跡へ、南へ横断して車道へ降りると 公民館に近い藤ノ森登山口。幼児でも可能と整備された道標は立派ですが、肝心のコースは藪っぽい。井根山館についての城史等一切は不明です。古書や調査報告書等の情報が掴めれば、 追加・修正更新したい。(H20年8月)


茶屋敷と吹出城
茶屋敷   亀の山 Ca80m   篠山市東吹上字亀の山

舞鶴自動車道篠山 ICから篠山市街地へ向って吹新の交差点を左折する。直進する直線道路が R372号(デカンショ街道・京街道)へのバイパス道で八上城下に向う。上記の酒井監物館・渋谷伯耆守居館も 此のルート上の「尾根橋北詰交差点 」と次の篠山城東堀側を南下して 監物橋を渡るバイパス道から合流する「北交差点」付近にある。篠山城へは此のルートが時間的にも便利で早く着けそうです。
岡本病院側から赤池を隔てた亀の山(茶屋敷跡)

しかし目指す茶屋敷は吹新の交差点で左折し市街地へ入るルートです。直ぐ右手に迫る丘陵上には八上城主・波多野氏の被官井関五郎左衛門秀次が享禄年間(1528〜32)に築城し八上城の西の守りを固めていた 吹城(瓢箪丸・東吹城)が在る。竪堀を多用して深い堀切・土塁で防備を強めた戦国末期の縄張りを残す吹城の出城だったと思えるが、
茶屋敷:北側の腰曲輪?から主郭の切岸

西方の商店の続く車道を隔てた奥に「お菓子の里」があり、 其の背後の低丘陵上には網掛城が 在りました。天正5年(1577)織田信長の「天下布武」 命により明智光秀・細川藤孝らの軍が「丹波侵攻」を開始します。 翌天正6年には波多野秀治の 八上城を包囲して長期戦を構える一方で、八上城周辺の支城・城砦群を一つ一つ落としていきます。
茶屋敷:西の帯曲輪から主郭切岸

300mにも満たない低山(比高約90m)ですが富士型の美しい山容を見せる東城山に築かれ、井関秀次の子: 井関三之丞の拠る吹城にも迫り、城を攻める為に明智光秀が築城した同心円状に曲輪を重ねる網掛城です。 大軍に包囲され援軍も頼れず・孤軍奮闘しても 2日を経ずして落城を迎えたことでしょう?。城山へは西の民家裏手から貯水槽のフエンス越えで
茶屋敷 :東側墓地への道から1段上の帯曲輪と2段目の曲輪

西郭端の土塁付き空堀を土塁曲輪へ、また小さな稲荷社横から 幾本目かの竪堀を主郭に登り詰めたが、北側の尾根通しが最も緩やかで取り付きも分かりやすい…。 半独立丘陵状の東城山東側の鞍部には、軽トラでなら・南北を行き来出来る程度の車幅の道が通じて、其の北方の延長線上には池を挟んで「亀の山」と呼ぶ極小で円形の低丘陵が見える。
茶屋敷:西の帯曲輪(主郭から)

南面と西面は急斜な城山へは 此の北東側からの 尾根伝いの道が大手道だったのかも!!。 其の大手道と吹城(瓢箪丸)を正面に見る「亀の山」の頂部(…といっても比高 10数m程)には城主井関三之丞の居館が在ったと云う。低いが四方は切り崩されてか壁状の切岸。
茶屋敷:丘陵頂部の平坦地

下段は古墓や新墓に囲まれていて其のため改修・改変 ・拡張と手が入っている様ですが2〜3段目と上に向う曲輪状の削平地は墓所跡か植林・竹林・畑地として 利用されていたとも思えない。そして最上部には広い平坦地(約30x20m程か?)がある。丘陵北側下方には小さいが溝状に深い川が有り石積改修されているが濠を思わせ、城を望む南の池とともに防御施設として 利用されたのかもしれない?。
(岡本病院から)左の丘に茶屋敷 ・右手丘陵北末端部が吹出城
 ←オオアカウキクサ

明智軍が吹城の向城として改修した 網掛城と同様に、丘陵頂部の主郭部を除いて土塁等は無さそうですが、同心円状に数段の曲輪を並べて捲いている。 籠城で主無き居館が向城に使用されたかは、城に近過ぎて不明ですが勝敗の決着も早く、取り立てて陣を置く必要は無かったかも。
吹出城は地区道から見える ・民家すぐ上

落城後に他の城館攻撃等で軍兵の駐屯地として利用されたかも知れないが ?一切・資料を知らず不詳です。網掛城・東吹城の他にも東北1kmの権現山(富の山289m)には、波多野氏の重臣:渋谷伯耆守氏秀氏の 飛ノ山城(岡谷城)があり、西方2kmには難波氏の西吹城 等があって、此れ等の各城砦群が八上城西方の防衛を固めていたのでしょう。
【多紀郡埋蔵文化財調査委員会・分布調査報告書 昭和47年を参照】


吹出城  xxx  Ca85m   篠山市東吹上

東吹地区内の独立丘陵上に在る 吹城(瓢箪丸・東吹城)の山頂289mから東峰278mへ続く稜線鞍部付近から北へ延び出す低い枝尾根が、東吹の岡本病院北側から吹上へ抜ける地区道に落とす丘陵末端部に 吹出城が在りました。
主郭西側の切岸と帯曲輪

吹城の出城と云うより尾根筋東西に1〜2段・切岸を落として帯曲輪が付属するが広く平坦な主郭と、 段差の小さな尾根筋の曲輪段には城砦よりは居館の様です。末端部は地区道拡張や、造園用地として造成・削り取られた段差が曲輪を並べている様 ですが地区道を挟んだ向には 茶屋敷が在り吹出城と同規模の居館跡!!。
主郭西側と帯曲輪の切岸

吹出城北末端部の地区道北側宅地内への路地入口部の片側には高い土塁状が続く。路地!!?を抜ければ篠山川を前方に ・正面には渡瀬橋が見えるが、其の北側間近の丘陵には 飛ノ山城(岡谷城)が在る。篠山ICを出てR372号線(デカンショ街道)を東方に向かい、JR篠山口方面との「吹新交差点」を左折し、
主郭南端:土塁は西側から南側へL字に囲い延びる

篠山市街地へと北上すると東吹下交差点 ・岡持病院が分かり易い目印ですが、病院北側から吹上(篠山城の西南方の篠山川端)に抜ける地区道がある。病院と茶屋敷・吹出城は赤池を廻る三方に位置しています。1〜3月頃の低水温期には名の通りの 赤池となります。正体は オオアカウキクサ国と県の絶滅危惧類に指定されている浮遊性シダ植物が繁殖して、池面は隙間なく赤一色となります。
主郭南端:土塁虎口

排水の悪い水田・小さな池や運河・潅漑路などに分布しますが、化学肥料の使用が無く、 水も汚染されていない綺麗な池なのでしょう。 吹出城が縄張りから見ても・単に吹城(東吹城)の出城の意味とも思えない。築城・城史については不明ながら、茶屋敷とともに八上城主・波多野氏の被官井関五郎左衛門秀次と其の子(最後の城主!?)井関三之丞の拠る詰め城の吹城と居館だったと思えます。
主郭南端から東面帯曲輪南端へ延びて外部を仕切る土塁線

しかし丘陵南北の先端部かけて尾根筋の曲輪段差は小さい(開墾によるものにしては範囲が狭い!!?)が、尾根左右(東西)斜面に削平された帯曲輪と其の切岸の高さ、城域の吹城側(南端)は土塁が築かれ下段の曲輪・土塁下東側に空堀状から主郭に入る土塁虎口が開く。此の土塁は東面の帯曲輪端まで傾斜しながらも 延びて南側に続く平坦地形と 方形の主郭部を仕切る土塁ともなっています。
主郭東面帯曲輪と主郭切岸

比高20mにも満たない低丘陵上の居館が深い堀切・高い切岸や土塁にと防御に万全を備えているとは云えず、北方からの防備手薄をみると、天正期・丹波攻めに八上城波多野氏を攻める明智勢が、周辺の支城を攻めで井関氏の吹城を包囲した際、 籠城で空となった茶屋敷・吹出城を陣城とした可能性を推察出来ます。
主郭東面帯曲輪の高い切岸東下に広い帯曲輪と・その下が民家・田圃

吹城の西方・約500mに網掛城が在り、吹城の城塞群だったかも知れないが同心円状に段曲輪を廻す明智方の陣城として知られています。 吹出城も吹城からの尾根続きとはいえ、赤池から真南へ・低い丘陵鞍部を抜けてR372号線(デカンショ街道)へ軽トラでも抜けられる山道がある。 断された尾根から 更に北に延びる尾根先付に位置して吹出城の西面・茶屋敷の南面が吹城を包囲して正対し、
主郭東面の主郭・帯曲輪2段

遮吹城落城後の吹出城の東面が八上城包囲の向城として、篠山市街地の京口辺りを監視、茶屋敷の北面は飛ノ山城(岡谷城)側を望み、 鼓峠や佐仲峠を越えてくる西紀方面・丹波市(氷上郡)側からの、 八上城・波多野氏援軍に備えた監視の向城として、改修使用されたのではないだろうかと・・推察します。
【兵庫県埋蔵文化財・行政地区マップ図2007.5 を参照】


前川館   xxxx  篠山市東吹字道の坪

舞鶴自動車道篠山ICから篠山市街地へ向って「吹新」の交差点を左折する。 直進する直線道路がR372号(デカンショ街道・京街道)へのバイパス道で八上城下に向うと、上記の酒井監物館・渋谷伯耆守居館も此のルート上の「尾根橋北詰交差点 」北側と南東方に在ります。以前に「北村館」を?資料で見つけ 篠山市編の城リストに追加していますが、渋谷監物の居館とされており、所在も篠山市北だけなので未だに確認出来ていませんが、此の酒井監物館と渋谷伯耆守居館の事かも不明です・・・?
環濠住宅:前川館(北西から南方・一段高い宅地から南側が範囲か?)

「吹新交差点」の東北側に標高 280m程の2つの峰を乗せる独立小丘陵上には、八上城主:波多野氏の臣:井関三之丞の 東吹城(瓢箪丸)があり、篠山川に架かる渡瀬橋(欄干の親柱には猪の置物が乗っている)・飛ノ山城 (権現山:篠山城築城時の候補地となった城跡)へ向う車道を挟んで、西方に「お菓子の里」が有り独立小山塊の南端丘陵上には、 明智光秀の「八上城攻略」時の前哨戦で、東吹城を攻める明智軍の向城となり更に八上城向城となった網掛城が有りました。 東吹城主:井関三之丞の居館 「茶屋敷」は城跡の北方に有り、二つの小丘陵間に何の変哲も無く拡がる平坦な田圃と車道
沿いに、東面を除いて三方が濠で囲われていたと思える様な一角が有り、 下記参考資料には「環濠住宅としての前川館」が記されています。
環濠住宅:前川館(南西から北方・右手道路沿いも溝:工場から北が範囲か?)


車道東側:東吹城山麓には池・湿地が有り、現在は一段高くJA丹波ささやま・味土里館(農産物直売所・農業資材館)の施設が有ります。以前は広大な空地?其の奥から直接東吹城へ、又は○○病院側の南面から 城域へ入れましたので、 井関氏の武家屋敷跡だったのかも知れません。車道と側溝沿いに延びる農道兼地区道に挟まれた、東西約40m・南北に約100m程の範囲ですがコメントに環濠住宅と有るだけの前川館は、前川氏(?)の事か字名なのか?、 環濠住宅が城を背にして三方を濠囲みの居館は、詰め城セットの遺構か個人的に記録・資料を知らず不明です。何か分かってくれば此処に情報を更新していきます。
【多紀郡埋蔵文化財調査委員会 ・分布調査報告書 昭和47年を参照】


奥ノ谷館
   xxxxxxx 篠山市西本庄字奥ノ谷

篠山城の東濠沿いの車道を南に抜けていくと 県道77号線と交差する「南新町」に出る。左折して篠山川沿いに走ると王地山山麓南端で77号線 は篠山川を渡って八上方面に向かい、R372号(デカンショ街道・京街道)に出る。
平坦地形が数箇所


橋を渡らす直進する県道702号線は塚ノ山砦 ・勝山砦の裾を通って般若寺城等の八上城付城群を抜けて泉交差点へ。 大概・私は篠山城北方の県道 301号を利用して八百里城裾を通って泉交差点に出ます。此処から東方のR173号へ向うと、 泉工業団地から小峠を越え丘陵裾を廻り込んで緩やかに下り、左へ大きくカーブしてほぼ直進して、兵庫県下では2番目に大きい前方後円墳雲部車塚古墳 が有る東本庄地区に入ります。
谷沿いの畦道は竹藪を挟んで居館?を囲む土塁状…

此のカーブするコーナの外側に雲部小学校が建つ。県道を外れて学校前から丘陵裾に沿って西本庄地区道がある。住職が買い求めた蔵書整理に寺院に会館かとも思えた立派な私設図書館があり最近: 「整理後は一般開放したい…}との地方版新聞記事が載っていた慈眼寺が建つ。山側に古墳も3基が確認されている様だが藪山へ、 断りの古墳に対する知識の持ち合わせがないので、かってには一寸入っては行けそうにない。
左は竹藪・右手下方へは1.5m程の段差で平坦地(田畑)が続く

寺の東側が奥ノ谷で前方に高い堰提が見える。谷に沿った東側の棚田が一様に整地された圃場とは違う。奥ノ谷の傍に在って・水の殆ど残らない4x5m程の小さな池も灌漑用にしては用を成さない。 上方にある棚田と池の間に竹藪が残る。此処が宅地跡なら其の食器・洗濯等の用途に使われた池か?。車塚古墳から北方の山間に入っていく道は 低丘陵に囲まれた袋小路のような盆地で、山道をやっと抜け出ても多紀アルプスの大峠へ通じる火打岩へ出るだけ。 要衝でも・間道でもない此の谷筋と丘陵上には口県守城・東本庄市谷城・車塚の展望台直ぐ上部には 城山城の在る衣笠山484mへ登った事があった。
谷沿いの道:土塁状の畦は幅が広い

この衣笠山の南側谷筋を下った処に城館跡があり、篠山市埋蔵文化財分布図にも奥ノ谷館と記されている。居館がこれ等山城を詰め城とした中世の城館で、福知山や綾部方面から八上城下へ入る 東の玄関口の要衝監視をした荒木城(細工所城)配下の家臣のものか?、荘園時代の荘園領内の監視・管理した代官の居館だったか?…は不明です。分布図概要には「100mX 50m範囲に平坦地が6箇所」…とあるだけ!!。



 朝路姫伝説 女畷(縄手)、乙女塚


高城山(八上城)伝説への序説
八上城址は高城山・朝路山・八上山・丹波富士とも呼ばれるが 山頂からの眺めは樹木に阻まれて残念ながら余り眺望には恵まれません。本丸を中心に山全体が攻めにくく守り易い模範的戦国時代の山城で丹波最強の要塞です。登山口は家臣たちが住んでいた殿町、藤ノ坂口、首塚のある弓月神社、西荘口、野々垣、市の谷等から道があり夫々に各所に砦跡平地、 掘割等の城施設や 朝路姫伝説の池があります。
朝路池西の尾根上にある”西の番所” H17.4.17

十兵衛茶屋から城主・波多野秀治の創建といわれる春日神社境内から、広い主膳屋敷跡(植林により面影なし)を経て九十九折の大手道を登ると鴻ノ巣の平地(本丸への最初の防御施設)・下の茶屋丸から上の茶屋丸・右衛門丸の曲輪 (階段状)、急坂を登りつめれば三の丸、二の丸跡に続き、目の前が最高所の本丸跡で 波多野秀治の表忠碑(昭和7年建立)と顕彰碑が建っています。本丸の下の眺望の良い岡田丸から掘割の残る九十九折を馬見所から磔松 (落城の際、人質となっていた光秀の母が磔にされた)根株も朽ちてしまいました。ここから血洗池(磔槍の血を洗ったとの伝説の池・今は埋もれて無い)への急な谷筋の道は出来れば避けて茶屋の壇・馬駈場・芥丸と 史跡・展望を楽しみながら三本杉へ出て藤之坂登山口へのコースがお勧めです。

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朝路池の怪魚

天正期・明智光秀の丹波攻めにまつわる八上城落城の悲話、哀話があり丹波富士の中腹にある 円形の小さな池に残されています。不思議な池で旱魃の時でも水が枯れる事は無く水面は青く澄んでいるが 水底は薄い朱の色が淀んでいる。 これは幾年もの木の葉の堆積のためか、あるいはこの池にまつわる伝承の哀しみなのか …波多野秀治の従弟に弥兵衛という 若者がいた。八上城の麓・曾地の村の治安をつかさどる内藤備中の守の娘、朝路と恋仲となり、祝言の日を楽しみにしていた。
朝路池”西の番所”の大堀切 H17.4.17

折りしも落城の悲運に見舞われ波多野一族郎党と共に最後の出陣 ・負け戦と分かっていて出ていく弥兵衛を思い、自らこの池に身を投げた。その後村人はこの池を「朝路池」と呼んだ。「一人で朝路池を覗くと水面にスッと美しい女の顔が現れる。それを見た人はその年の内に命が無くなる」とか 「朝路池には 不思議な魚が住んでいて一人で見に行くとその魚が現れ、やがて美女になり手招きして水底に引きずっていく 」はたまた「水底よりむせび泣くような 女の声が聞こえる」とか「水底のあかく淀んだものは血の色である」とかいろいろと言い伝えが残っていて、この山は別名:朝路山とも呼ばれます。
八上城の朝路池 H15.6.22

** もう一つの朝路姫伝説
城主・波多野秀治には三人の娘がおり、長女は黒井の保月城主 ・赤井悪右衛門の奥方に、次女は播磨三木城主・別所長治の奥方になっていました。三女は朝路姫というたいへん美しい!!姫でした。城主・秀治、秀尚兄弟が安土で自刃したことが城内に伝わると城に籠っていた女や子供達は 敵の目をくらませて、落ち延びることになったが朝路姫は城を離れず城内の池に身を投げて果てました。女や子供達が城下から落ち延びた西への畷道が下記のお話・女畷です。


女畷(縄手)之碑と乙女塚と半夏生(はげっしょう)

国道372号線の小枕中から、真北の篠山城跡に向かうと 城南小学校の先で野中地区を通ります。野中バス停の直ぐ南側から東方に八上城を望みながら進む農道が有ります。 「右京・伊勢路 左 篠山道」の石柱 (古い道標)が西方向きに立てられていたが近年:永久山西禅寺の山門柱前に移設されているが東向きのため、
忠節乙女塚から女畷と八上城

苔生した石標は設置位置を違えて左右逆方向を示す単に無縁仏の様な石柱となって立っているだけです。 さて天正7年8月・八上城主 :波多野秀治を明智光秀の掠計で喪ってなを八上城の立て篭もった波多野氏勢の守将 :二階堂秀香によって、勝算なく落城も間近に迫った城中から、生き延びよ…と秀治の遺児:甚蔵を抱いた乳母や腰元・侍女達、波多野一族の婦女子は山城を下り出て行きます。

女畷の「忠節乙女塚」:遮るもの無い東方には八上城が


明智方の軍勢に追われながら逃れた ・この道は「女畷」とか「乳母畷 」と呼ばれる様になりました。敗戦により落ち延びたこの道は縁起が悪いと、嫁入り行列は絶対に通さなかったともいいます。また落城の時・西の方へ落ちていく者を 明智方が追ってきて女縄手あたりは戦場となり多くの死者を出した。 ここを落ち延びた乳母"波多野秀治の末っ子:甚蔵を抱いて逃げたという"や腰元達は、燃え上がる我が城を振り返り、主亡き城と運命を共にする数多くの勇者達のいることに耐え切れず、腰元や侍女達の中には逃げるに偲びず・その場で焼け落ちる八上城に向って 正座し懐剣で自害したものもいた。
野中バス停 (左手の旧家)と女畷之碑(右手の石碑)

南荘(野中村)の里人等が八上城に向かい南北に六基の塚を造り、彼女達を弔った乙女塚(下記:小谷城〜法光寺山城〜奥谷城のプロローグに画像添付)も 現存するものは2基のみとなった様です。 「女畷之碑」より東約300mには腰元達の「忠節乙女塚の碑」があって非情を哀れむ人の訪れがあるといいます。 (乙女塚と碑は未確認)波多野秀治に遺児:甚蔵は後に名を快祐と改め文保寺(丹南味間南)に入門、 31歳の時・波多野源左衛門尉定吉と名のり時の篠山藩主・松平山城守忠国の代官になったということです。
女畷之碑(此処から東に乙女塚)がある


野中の里人たちは八上城が落ち、戦い止んだのは丁度六月の
半夏生の日 (植付けが済んだ百姓がまあやれやれと、その日は朝のうちに牛に喰わす草を刈ったら家に帰ったらその日は一日仕事をせず骨休めする日) 昼も過ぎ辺りも静かになって来て戸を開けゆっくり休もうかと思っているところへ明智方の御達しで、野中の百姓は縄手に集められ戦死者等の後始末をさせられる。苦労して苗を植えた田圃は踏み荒らされ、 その中には死体が転がっている。不断は静かな村でこんなことがあってからは、他所では半夏生に骨休めしていても、野中の村人は半夏生でも田圃へ出て行くようになったということです。
(現地:女畷之碑 案内板等を参照)


 本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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