丹波市柏原町 譲葉山城・譲葉山西城(仮称)・東奥・見長城(仮称)
丹波市氷上町 (五万図=篠山)
近畿の山城: 譲葉山城(東郭と西郭) 譲葉山西城(仮称)・東奥・見長城(仮称)


譲葉山植林帯の中を歩く暗くて展望も望めず三角点もない山頂は人気薄く、此の譲葉山だけを登山対象とする人は少なく普通は
譲葉山城(東郭)虎口より西面?北面に廻る土塁線

春日・石生・柏原町を境する主稜線の縦走を計画され、北方の向山連山から始まり日本一低い谷中分水界で知られ、整備されている水分公園から向山の峰々をトレースし譲葉山を目指して縦走するか其の逆コース。少し長丁場!!?で地形も複雑・読図によるルートファンデイングも必要な鐘ヶ坂・金山(明智光秀の黒井城・八上城攻めの本陣として築かれ た金山城が在る)や佐仲三山の夏栗山(明智軍の三尾城監視と思える夏栗砦がある)黒頭峰や三尾山(黒井城主:荻野直正の弟幸家の三尾城
譲葉山城(西郭)北面の折れを伴い延びる土塁線

あった)から譲葉山を目指すコースが考えられます。主稜線完全制覇を目指すトレッカーなら栗柄峠 (明智軍の黒井城攻めの際、荻野直正と明智方として参軍していた八上城主:波 多野秀治による共同戦略!!?で明智軍を撃退し光秀が命辛々この栗柄峠から鼓峠を越えて京都園部〜亀岡へと逃れた栗柄峠には栗柄砦が在り赤井幸家の砦とも、
譲葉山西城:主郭東の土橋付堀切とUノ曲輪

縄張りからは明智方の砦とも推察されている)〜御在所〜堂の峰〜鋸山〜鏡峠〜三尾山へ鋸歯の様に多くの岩尾根ピークを辿る丹波修験の道をトレースしてみるのも意義あることかも知れません!!。柏原藩(後期)織田家廟所奥村城(東奥城)の南山麓から大安寺跡(観音堂が建っている)を辿る 地元:東奥自治会により整備された道や、 いくつかのコースが参考になれば幸いです。 →譲葉山


 譲葉山城 譲葉山西城(仮称)・東奥・見長城(仮称)


譲葉山城   譲葉山 594m  丹波市柏原町東奥
譲葉山城(東郭)   (譲葉山:権現堂 594m)

篠山市からR176号で鐘ヶ坂を丹波市柏原町へ抜けるトンネル上の名勝「鬼の架け橋」は:安藤広重の浮世絵「日本六十余州名所絵図 (天保5年1834)」の一つでも知られる。此処に天正3‐7年(1575-1579)明智光秀が丹波攻略を指揮し黒井城八上城の連絡を断つため其の山上に築いた金山城がある。
譲葉山城(東郭):権現堂と西北角の土塁曲輪

鬼の架け橋から北方を望む正面に柏原の町を睥睨するかのように雄大な山容を見せる譲葉山594mは三角点もなく山上は植林の中の暗く広い平坦地で展望も無く不人気?な山だが、向山連山から瓶割峠・鐘ヶ坂・金山縦走途中の通過ポイントだが譲葉山の曲輪 ・土塁・空堀の城砦遺構が城サイト・登山サイトのレポートに皆無の様です。山頂には氷上郡(丹波市)三権現の一つ譲葉権現の祠が建つだけだが権現堂を囲む30u四方の平坦地に土塁を廻し西南隅には
東郭より主郭の権現堂

左右に土塁が開き虎口が形成されています。丹波市内の城砦には一辺以上に土塁が築かれている例を殆んど観ない?。明確に虎口構造が見られる遺構も少ない。譲葉山の西尾根山麓には柏原八幡山城(篠山市境の鐘ヶ坂に築かれた金山城と共に 丹波攻略の重要な拠点の陣城)があり、北に黒井城、東は荻野直正の弟:幸家の三尾山城を監視する明智光秀の陣城と考えられます。高低差の少ない参道を祠へは直接向わず僅かな段差に沿うように一折して進む!!。譲葉権現とはいえ護摩壇等の施設・スペース確保にしては手が込み過ぎている様!!。
東郭:西面の土塁虎口


小社にしては不似合いな平坦地の広さと削平され少し高くなった方形台地の内部は不整地ながら周囲は切岸加工され土塁上部迄1m程の高さをもつ。 権現堂の背後(東側)から北西へと低土塁が延び更に南端のコーナーまで切れ目無くコの字形に土塁が廻り、丘陵上の祠によく見かける・崖側や尾根側を削平の際に削り残され土塁状に残ったものでもない!!?。祠の東と南に段差を持った広い平坦地形もある。明智光秀が鐘ヶ坂の金山城を築き本陣とした場合・春日町国領へは敵味方ともに重要な佐仲峠越えの要衝と共に瓶割峠を長谷大池に下り抜ける間道があって街道と三尾城を監視する夏栗山の砦があった。
東郭:東面の土塁囲みと切岸

南へは尾根続きの金山城から西尾根筋山麓の 柏原八幡山城に本陣を移した光秀が三尾山城に対峙する譲葉山に監視砦を置いたものか?。西方には眼下に小南山城・穗壷城・高見山城・金山城さえ望める”遠見の城”としても築城価値はありそう。向山連山へ向かう平坦な北尾根の僅か5〜60m先にも譲葉山城西郭の遺構がありは此の城域の北端から東に向う尾根筋に権現山(譲権現 541m)があり登山レポートでは岩尾と呼ばれるピークがある。
譲葉山城(東郭)主郭の東南下段の広い曲輪

向山への縦走コースを外れて東への尾根筋を鞍部から下降すると長谷大池に出て国領へ、緩斜な尾根筋は三尾山城支城高尾城(長谷城)を経て岩戸神社城に降り立つ。また鞍部付近の尾根筋からは黒井城と其の支城群が点在する黒井盆地の諸城や三尾城、明智方の陣城としてはよく知られる多利の春日小富士城も眺望出来ます。

譲葉山城(西郭) (譲葉山頂部西北端 Ca590m 4等3角点)

明智光秀が黒井城攻略に築いた付城は12〜13ヶ所あったと云われるが、それら陣城が何処にあったか城砦名称や、どのような人物が其処の守将の任にあたっていたか等不明部分もあるが 落城した在地城館を明智に降りた丹波の将兵が改修し更に多くの黒井城包囲の付城が築かれていたと思われます。
譲葉山城(西郭)北面の折れを伴う切岸と低土塁線


黒井城向城については中世史・城郭研究家のT氏やM氏によって不明部分の向城の存在について調査されている。さらに此れ等以外にも未確認の陣城が在るだろうと其の発見に努められており此のタイミングに遺構が気になる譲葉山権現堂周辺の 簡単な縄張り図と画像をメールしたら陣城の可能性を指摘され、日を空けず譲葉山を調査された。権現堂の東郭とは西僅か約60m程の地点に西郭もあった。 向山連山への登山コースは 此の西郭土塁曲輪内を通り西端の低土塁を抜けて北へ登山道を下る。山道沿いに観察すれば折れを伴って屈曲する曲輪と低土塁線が見える。
西郭:東端の空堀と北面に折れを伴う土塁線が延びる

東郭・西郭にみる中世丹波の山城には稀な土塁囲み・且つ折れを伴う土塁曲輪等、段差の曲輪・曲輪区分程度の浅い堀切・単郭とはいえ低土塁が三方を囲む。平坦地形の尾根上に権現堂の建つ東郭に正対して西郭があり尾根を仕切る浅い堀切・土塁から 曲輪を囲って北側へ低土塁線が延びているが2ケ所に屏風折れが入る。丹波の山城には虎口の枡形等を除けば土塁線に横矢を意識した折れを持つ類例は殆どない?。 築城位置・縄張り・目的から推意して明智の「黒井城攻略」の陣城と考えられる。
西郭:主郭部と西端曲輪を分ける仕切り土塁

丹波市の陣城名に「向城・付城・塁・構」等の名は付記した例もなく 黒井城に対しては山岳戦ではあっても長期戦に備えたものではないので馴染みも薄い?。さらに発見のニ城が外れ峰にもあり城名の所在と異なる縄張りを考えながら 仮称とはいえ城名をどうしょうか?一寸思案する。地形図に記される譲葉山は「日本山嶽志」に譲葉権現山と記されている雨乞いの山。三角点峰の方が権現山(点名:譲権現)だがR176号小倉の円成寺(鐘ヶ坂を降ってきた最初の地区)からも 獅子山〜高杖山〜譲葉山への尾根を辿が獅子山(348m)の点名も譲権現の為新発見?の城郭遺構は 明智の陣城と判る名を考えたいが山名の「譲葉山」を冠し譲葉山城(東郭・西郭)・譲葉山西城とする。なお伝承の高尾城(長谷城)落城が八上城主波多野氏によるものか
譲葉山城(西郭):西先端の南面を回り込む通路<虎口!!>


明智方によって攻め落とされたかはともかく長谷大池から岩尾(541m)との鞍部を越えて攻め入ったと考えられさらには八幡山城の本陣から黒井の本城に向った一手も此の鞍部を下り、春日町棚原から野村へ出て茶臼山城(陣城)や火山城 (陣城?と思われる)麓に合流し黒井城南正面で対峙したとも考えられそうです!!?。譲葉山城(西郭)の西北末端からは谷を挟んで 清水山〜八幡山城への稜線を望み高八山(八幡山城の尾根続き出城 ?が在ったと思われる平坦地がある )へは指呼の間にある。

譲葉山西城 城山 467m(4等)  丹波市柏原町
譲葉山西城(仮称)  城山 467m(4等) 丹波市柏原町東奥
東奥・見長城(仮称)   Ca350m   柏原町東奥・見長

柏原藩後期織田家廟所前から谷通しの大安寺ー無線中継所(反射板)跡展望台から460m等高線沿いの譲葉山登山コースは柏原新町・見長方面:大内山(崇広小学校裏山)から 南尾根筋の登山コースと合流するT字辻分岐点で合流する。T字辻からは460m等高線沿いの快適な登山道を進むが、
譲葉山西城主郭:4等三角点設置されていた(2014)

左手の藪の尾根筋沿いを巻くように進む。登山道があるので踏み跡もない藪を突いて尾根筋に出る人もいないだろう!!。…が見過ごして通り過ぎてしまうが此処に譲葉山西城(仮称)がある。 譲葉山側から下るときも、西へ延び出す緩やかな水平尾根(三角点があるので!?微かな踏み跡はある)だが登行・下行の登山道が明確なのでコースを外れて入り込む人はなさそうだが山麓の東奥では「城山」と呼ばれていたようだ?、尾根筋に境界ポールや赤・黄のテープを目にするが 営林・作業用で登山者が利用し・通過の際に目に触れるとは思えない。
浅くなった堀切・主曲輪の切岸

再々訪れて(2014年)には主郭に4等三角点標柱が立てられていた。此処も遺跡分布等の記載はなく未報告・未発見の城砦遺構で”城山”と呼ばれているだけに郷土史誌等に何らかの手懸かりが得られる資料があるのかも知れない?。登山道とは反対の西方行に向かい幅7〜8m程の緩衝帯の様な水平尾根筋の基部・城址を掠めて明確な登山道を進むだけでは
腰曲輪西端:竪土塁?から主郭に入る

高低差僅か15m程上部をある城趾に気付く事もなく通り過ぎるだけ。登山コースがわの南下5‐8m程を横堀?状の溝が走り最初の堀切手前で10数m下方の登山道へと南へ折れる。山道として繋がっていない様で 自然地形の溝なら其のまま山道に落ちる筈? 急傾斜でもなく堀底道として利用され尾根筋から折れ戻って内へと進んだものか?程なく 前方に高さ1.8m程の高低差で連続する二段の曲輪を見る。其々の曲輪東面切岸下は浅い堀切がある。
主曲輪の切岸と空堀)

一段目曲輪下は土橋付き堀切なので譲葉山城に付随し其の連絡等関連の砦と思えます。1段目曲輪は2段目曲輪(主郭)東の空堀を南へ少し廻り込み、南側から直線的に主郭へ入る上り土塁状 (土塁面の西に2‐3段の腰曲輪が鬱蒼として雑木と密生する矢竹の藪に阻まれて推定するだけだが、腰曲輪からの通路)と東側からの侵攻を防ぐ竪土塁を兼ねている様?。 主郭北は急斜で一部崖状の崩壊をみる。主郭南面は数段小曲輪が並び上り土塁兼竪土塁を利用する様になっている?。
譲葉山西城:南側の空掘状?は堀切下で竪堀状?となり登山道側近くに落ちる

西への尾根筋は緩傾斜を旧電々公社の反射板(無線中継)施設跡に降りるが途中・曲輪や防備施設は無さそう。余り広くはない主郭から谷を隔て向かいの丘陵尾根に清水山が見えている。 柏原八幡山城へは狼煙でなくても即:鐘・法螺・太鼓・手旗信号でも通じそう。譲葉山西城は山頂部の東郭・西郭にみる顕著な低土塁囲みの陣城的な特徴はなく、 中世山城の縄張りだが防備に堅固さは見られず!?譲葉山城に附属する出城的存在だが主郭南斜面の防禦を竪堀ではなく竪土塁を使用している事で明智軍の改修と考えられます。
主郭南面切岸

東奥・見長城(仮称) 譲葉山西城(仮称)ふくめ譲葉山山上部周辺の城塞群は何れも文化財遺構として未調査・未確認!!?。10数年前譲葉権現山頂部に築かれた城趾発見後 譲葉山城の名が少しは知られるようになったので(仮称)を外すことにした。譲葉山城(東郭・西郭)は織豊系縄張りが見られることからも明智光秀による
登山道は右手:正面に埋もれかけた浅い堀切と曲輪切岸

黒井城攻略の陣城・付城として築かれ金山城・八幡山城との連絡も密に夏栗山砦に代わり黒井城に通じる国領方面(荻野直正の実弟赤井幸家 の三尾山城)監視を兼ねた付城・向城でもあったか?。譲葉山登山コース一般的な奥谷コースのほか円成寺(円成寺館・円成寺城)ー獅子山(円成寺上<獅子山城>)-高杖山420m-譲葉山コースも考えられるが柏原新町・見長方面からは見長天満宮から新町城を経由しても柏原藩陣屋ー大内山(崇広小学校裏山で校歌にも謳われる)ー譲葉山…(10年以上前の記録)コースがあり、東奥天満宮からの道も途中合流し351m峰ヲ経て・見長側に幾条かの自然の竪堀状溝谷を見て急登となる先・尾根筋を捲くが360m峰尾根上に6-7段の曲輪を直列に並べる東奥・見長城<仮称>がある。この南尾根筋コースも一般的な奥谷コースとT字分岐点で合流。譲葉山に進む460m等高線沿いに譲葉山西城<仮称>があるが T字辻から南尾根筋を大内山(崇広小学校裏山)経由・見長へ下る快適な登山道が、
登山道と南尾根先端に露岩を切岸の曲輪

いよいよ急斜面下降となる辺り。譲葉山西城<仮称>共に高低差は10mもないが快適な登山道をどんどん進むと城趾に気付く事もなく通り過ぎるだけ。何れもが譲葉山城に付属する前衛?の出城的存在!?で、 大安寺からの大手!?西尾根筋の西口を「譲葉山西城(仮称)>」が押え、標高差も大差ない「東奥・見長城<仮称>」が柏原新町・見長方面からの南尾根筋監視で 西南口を押え侵入に備えたものか?。小規模な城域や空堀・曲輪状態からは天正3‐6年頃迄の丹波攻略に落城し
右手に登山道

明智方に降りた京都・兵庫丹波の将兵による築城と思えます。それだけに山麓に柏原八幡山城・山頂の譲葉山と両陣城に挟まれて動向を監視される位置に在る!!。…丹波市氷上町の鴨内城(仮称)とともに・いつの日にか 中世史や城郭研究家T氏やM氏等の歴史・研究調査により築城時期や真の目的・城主等の城史が解明される事を期待しています。

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