天空の城:竹田城 市御堂城 白岩山 青倉山 古城山 三国岳/立雲峡〜朝来山
但馬・播磨(五万図=但馬竹田・生野)
春まだ遠き朝来市の四山巡り 2000年03月25日 一日中 雪中行軍
T白岩山(973m)  猪篠〜(林道)〜白岩山往復(裏兵庫の50山?)
U青倉山(811m)  青倉神社〜青倉山往復(兵庫の50山です)
竹田城南千畳 :平御殿(東)から

V古城山(竹田城 354m) 城山駐車場側〜竹田城 +H18年10.16日
W三国岳(855m) 三国荘〜三国峠〜三国岳往復(兵庫の50山)
天空の城と落城悲話の金梨山 ・と桜の名所へ
立雲峡〜朝来山〜迫間〜金梨山・古城山 2006年04月19日
近畿の山城: 竹田城(虎臥城) 
観音寺山城 市御堂城 糸井陣屋
但馬のお話  青倉山の水
校歌・故郷の山
和田山中学校
♪虎臥山の城址に 晴れて明るい空がある…♪
和田山高等学校 ♪遥かに花の朝来山 昔をしのぶ虎臥城址…♪
竹田小学校 ♪虎臥山に年ふりて その名も高き赤松の…♪
        ♪朝来の山に咲き満ちて 朝日に匂う山桜…♪
和田山町音頭♪虎臥城に 春風吹けば 桜吹雪の立雲峡…♪
和田山養護学校♪竹田 の城の麓に集う のびゆく力にxxx…♪
       ♪朝来の山が 微笑かける…♪
映画「天と地と」ロケで有名 長水城と同じく黒田官兵衛・蜂須賀小六等に攻められ落城。


T白岩山 2000年03月25日
以前この近くへは熊野神社の霊水をいただくついでに、越ガ峰林道を走っていて峠から白岩山への 縦走を考えたが、コース未確認と今の時期に雪の峠に向かうこと…それに何時もの地図無し山行では…312号線の生野の手前・猪篠集落の奥、林道入り口のスペースに駐車(AM6:50)して歩き出します。貯水池を過ぎ登山口 (AM7:10)まではシーズン中だと林道終点の広場まで乗り着けられます。先の越が峰林道は此処へ峠を越して降りてくるが、峠から猪篠へは随分荒れたダートな路だったように思います。雪の丸太橋を渡り鹿除けゲートをくぐり、 暗い植林の中を抜ければ露岩が目立ち始めます。山頂近くでは積雪20cm位。せっかくの山頂岩場からは展望ゼロ。(AM7:45)高畑山は何処?大きな岩が点在する山頂から先の広い尾根道に踏み込みますが、 下降が続くのみ見通しの効かない急な下降点で引き返します。高畑山に続くのかなァ?
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U青倉山 2000年03月25日
10数年前には多々良木ダムから林道を辿りました。今もダムサイトに立つとダムの案内ガイドが流れるのでしょうか? 一時期トンネル落盤で工事中が続き以降今まで 入ったことはなかったのですが、今回は312号線での継投登山ですので道の駅を過ぎ川村からです。大きな石の鳥居が目印です。 青倉神社の手前1.5km辺りかはチェーン装着となります。林道は工事中でしたが多々良木ダム方面へも舗装の道が伸びています。以前ダートなこの道を普通車で登ってきたことを思い出します。神社入り口から先へも黒川ダムへ 向う道でしょうか工事が進んでいるようです。神社下の鳥居の駐車場(AM10:40)〜新雪が15cm程ですが残雪もあり 山頂手前ピーク辺りでは 随分深くもぐり込みます。山頂まで同じコースで大柿氏の赤い布が続きます。(AM10:40)青倉神社へ戻れば本堂にむかって石段を登ります。 神社は「眼の神様」として但馬・丹波 ・播磨からも参拝者があり、霊岩が御神体のお堂の横に滝があり、滝の水が霊水として眼病に効くと昔からいわれており、私も以前息子と夏のドライブがてら多々良木ダムから 此処に寄り白内障の母の為にと、二人で霊水を戴いて帰ったこともあり天然の硼酸が微量ながら含まれているとのことで眼病治癒の体験者も多いと云われます。
ここには>「養老の水」に似たお話がありますので、山行記録の下段・欄外に記しておきます。
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V古城山(虎臥山) 天空の城:竹田城(虎臥城)

312号線竹田の町に入って勇壮な石垣の山城の姿を車窓に眺めず素通りする人など殆ど無いと思う。天守台に三角点標の埋まる古城山(竹田城・虎臥城4等 353.7m)は映画「天と地と」のロケ地として話題になった竹田城は 我国でも数少ない石垣積みの山城遺構が残り。円山川を挟むように両側から山が迫り今の時期 ・霧が発生しやすく、
本丸から三の丸・北千畳 H18.4.19


霧に浮かぶ天空の城を見たいと思っていた。以前:古城山へは播磨/但馬の四山(H12年3月25日)を廻った時は一日中雪中行軍でした。山以外には目が向いていなかった頃なので、朝来山に登る心算だったが入口分岐のホテル先で 工事中の為に引き返す途中・雪の竹田城を見て足が向きました。城址駐車場への林道は春の桜祭り準備?中で入れず手前の空き地に駐車して 古城山を目指したが現在:林道は路肩の崩壊や決壊で閉鎖状態が続いています(H16.10現在)。
竹田城 ・天守より南二の丸と南千畳


集合時間までに念願の”天空 の城”を見る為・早朝出発して竹田城へ。山上の最高所付近一帯に壮大な総石垣造りの竹田城址です。本丸の天主閣跡には梯子が架かり四等三角点がある山頂部からは 花屋敷・北千畳・南千畳へと三方の尾根上に延びる縄張りが良く判る。 前回は駐車場から登り詰めた花屋敷・南千畳・北千畳・本丸〜三の丸にかけて一面の雪化粧。雪面上には何の足跡も残らず、 たった一人での贅沢な景観を堪能した。
寺の白壁に鉄砲狭間とは!!?

今日は先着の数名のカメラマン等と2時間ばかりの”雲海ロードショー”を見てから 竹田駅裏の法樹寺に降りてきます。ここは四軒のお寺が並んでおり 通称「寺町通り」と呼ばれていますが平成5年に虎臥城公園として整備され休憩所・トイレ・公園周囲は白壁で通りの溝には鯉が泳ぐ観光歴史散策道路になっている。寺の白壁に鉄砲狭間があって緊急時には砦ともなり、 鉄砲の弾痕も残っているというのですが!!。
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W 三国岳

生野からは銀山湖経由で生野峠を氷上郡青垣町(小名草)に越えて帰るが、次いでなので長野集落の三国荘(PM2:10)前から三国岳へ向いました。三国荘までは車道両脇に雪が残り、狭い道がますます狭くなります。三国荘から先の林道は 目の前の橋を渡るともう雪の中。古い先行者の跡は大きな穴となって続きます。林道終点の左の谷筋に丸木橋は壊れたか流されたかもうありません。正面の広い林道側から巻いて沢を渡り三国峠への道を辿ります。峠は加美町側からは 数時間前の単独登山者の往復した足跡を追います。”播磨の踊り場”って何でしょう。名称の気になる場所を通過して山頂に立つ(PM2:50)と3〜40cmの雪積です。足を取られながら帰り道をいそぎます。

但馬のお話 青倉山の水「養老の水」に似た孝行息子のお話です、 お酒になったかもわかりませんよ…

農耕の片手間に近くの山に登り山菜を採り生活の糧としていたお爺さん。ある日:野生のウドを採っていて遅くなって心配させてはと、明るいうちに帰ろうと急いでいて 倒れその拍子に自分の刈り取ったウドの木で誤って目を刺してしまいました。医者とて無い所で、水で冷やすやら近所の人の知恵を借りるやら、いろいろ手を尽くしてみたが爺さんは痛がって仕方がありません。 手のほどこしようも無く一心に神仏に願うより方法がありません。息子の夢枕に白衣の行者が立ち「山を越えて高い山の滝のあるところの 水を取って来てつけよ」といわれ、あちこちの山を探し回り、とある小さな祠を見つけます。 祠の上には滝があり「これに違いない」と大喜びで水を持ち帰りす。その水で爺さんの目を一心に洗ってやりますと、目の痛みも嘘のようにとれ薄っすらと見えるようにさえなり、息子の喜びはいうまでもなく伝え聞いた人々も 続々山へ登り、その水で目を洗い次々と直って山を降りていったそうです。青倉山のこの滝にはホウ酸が含まれており、そのことからも、たんなる昔話で片付けられない逸話(伝説)ですネ。
(余談)このことから青倉山の氏子はウドを食べなくなりました…とサ


竹田城落城と姫様伝説の悲しい山(金梨山)を望む朝来山〜金梨山/竹田城 H18.4.19

遠阪トンネルを抜け和田山・豊岡へ延びる自動車道工事中の高架を潜り、粟鹿山北山麓沿いの農免道路 (県道277に昇格した?)を但馬竹田へ向う。与布土川を渡ると、出作川沿いにR312号線・竹田に出る中間点 にある迫間(はさま)の集落に入ってくる。名の示す通り・竹田城(虎臥山 )の東口を護る関所の様に、与布土の谷間を挟んで立つ朝来山と金梨山を左右に見て二つの山を廻り、城址の桜見物に竹田城にも登ってみます。
迫間の古墳群:上部が石積双室古墳

与布土温泉を過ぎ「南但馬自然学校」の看板を見て迫間集落に入って来ると、山裾の民家側に車窓からも 幾つもの墳丘が確認出来る。其の内の一基が珍しい胴長円墳で、墳丘には二つの横穴式石室が並んで築造された石積双室古墳があり山東町(現・朝来市)指定文化財となっています。”双室古墳”の案内標識を見て少し西へ行き過ぎて停車した場所は朝来山から「南但馬自然学校」を経由して、 其のまま地区内の道を真北に降りてきた処でした。
立雲峡側の愛宕神社

其の西2〜30m程・ 出作川に架かる佃橋側にある大師堂から北の金梨山裾を縫う境界道へは、此処へも金梨山山頂から突き出す南端のピークから一気(ほぼ一直線)に降ってきた処です。大師堂から車道を更に西へ100m程が立雲峡への入口です。朝来山への登山ルートの紹介では多くが「南但馬自然学校」をスタートするが、何処へ向うのか・動物や花の名を冠した園内専用散策ルートでは判らない。
立雲峡(第一展望所)からの竹田城

今日の最初は”但馬の吉野”とも呼ばれる山桜の名所:朝来山の中腹に在る 立雲峡からです。登山口から立雲峡の駐車場までは展望の無さと到着後の期待が勝って結構長く感じる林道を歩かされる。しかし駐車場からは、淡いピンクの山桜の群生につつまれた景観が一気に拡がります。 眼下には円山川が流れ・眼前には天空の城・竹田城が石垣積みの壮大な姿を浮かべています。アチコチに露岩が目立つ 朝来山へ向う山の斜面に沿っては山桜のほか椿やツツジも多くて庭園を散歩している様。 最奥部の東屋展望所からは 大路山を背景にした竹田城や大倉部山、真近かには山頂付近に権現を祀る岩窟が見える金梨山の展望が拡がります。 東屋休憩展望所手前に龍神滝へ向う道が有ったが東屋の山側に愛宕神社の鳥居が有り、鳥居を潜って桜花咲く明るい立雲峡から一挙に薄暗い杉木立の中に続く長い参道を辿ります。
朝来山山頂

随所に黒っぽい岩が目立ち山道が二手に分かれる右手直ぐの処に岩を背にした小祠の愛宕神社が建ちます。 朝来山は愛宕山とも呼ばれており・此の愛宕が転訛したとも云われる様です。愛宕神社前の岩場で一休みして先程の分岐を直進する広い山道を採ろうか?と思いながらも露岩の多い遊歩道を 選んだが立雲峡からの 別コースの様で、 山側へ廻り込んでいくと大成池に出て木橋を渡ると対岸に此処迄通じる林道が有る。林道を道なりに進むと、先程思案した愛宕神社手前の分岐道に合う様だが ?其の前に広い水平の林道分岐が有って西方に向っている。
朝来山山頂にて・ミスミソウ?

「南但馬自然学校 」から朝来山への一般コース?とは随分外れていく様だが、 自然学校へ下降する予定なので 朝来山へは西方からの尾根を詰めてみようと、此の水平林道を終点に向ってみた。林道終点からは伐採され折り重なった倒木帯の バリケードとなって、しかも一挙に急な境界の尾根筋を辿り、 ネット沿いに登るのかと思ったが踏み跡はネット沿いを外れ其の上部に達した。 林道終点から赤や黄のテープを頼りに 倒木帯を通過すると 快適な自然林の尾根筋となるが、延々と続く急登に辟易してきた頃、急斜面は緩やかになると朝来山山頂からの人声が近くなるがマーキングテープは相変わらず多い?。 落ち葉の影から茎を伸び出して、
藤和峠から望む竹田城跡

小さな白っぽい花がアチコチ顔を出している。 花の名は良く解らないがミスミソウだろうか?同じようだが花弁の数が 7〜8枚から10数枚と多いのもある!。自然学校からの登山者が多い山頂側に踏み跡も稀な尾根上に咲く花も運命は長くはないかも知れない。数m先に朝来山山頂(2等三角点757m)の山名標が見え、其処に飛び出す手前に「これより先は未整備のため行き止まり…」の立看板がある。 立雲峡や自然学校を結ぶ周回コースが整備計画されているのでしょうか。
東尾根・展望台との中程から朝来山

展望の無い山頂からは 南但馬自然学校から小学生も登ってくる緩やかな遊歩道の 尾根筋を 朝来山展望台(720m)へ降りて来て、丸木のベンチに座ると北方に展望が拡がり竹田城・大路山・大倉部山・金梨山から東方の粟鹿山、 尾根続きの南方に青倉山が望まれます。山名方位盤に記されている山を同定しながら暫し休憩して尾根を外れ北の自然学校へ”むささびコース”を採った。むささび展望所 〜水晶沢〜旧道分岐点からは旧道を下ってみた。立雲峡へ戻るのなら此のコースでも良いが?、急斜面のうえ道は荒れているうえ、林道へ降り立っても正規?の遊歩道とは余り離れていない。
むささび展望台との中程から竹田城と金梨山

其のうえ短い道中なのに長いモノには二匹も遭遇してしまう。 林道からはウサギ ・鹿・猪・狐等々のコースが目まぐるしく交錯するが、いずれも自然学校のキャンプ場へ降るのでしょう。自然学校キャンプ場内を抜け出て、眼下の県道277号沿い迫間地区を望むと、最初に立ち寄った石積双室古墳が目前に見える。金梨山への取付を探してみるが南裾からの明確な登路は無さそうです出作川沿い県道277号に出て西に佃橋があり傍らに数体の 石仏を祀る大師堂が建つ。
竹田城:大手門からの金梨山

其処から北へ向う農道が金梨山裾を捲いているので 山道を探しながら川沿いに辿ってみたが、数段の石垣が残された畑地跡やバラバラになって 散らばる鹿の骨。 最後に墓地跡らしい処を抜けて集落・xxx団地に出た。此処からは重度障害者養護施設の恵生園や和田山養護学校が建ち、真上に金梨山岩谷大権現の岩が見えているが 入って行ける処は無く、送電線鉄塔No29を確認して県道へ戻った。 国道に沿うように送電線が走っている。R312号沿いに竹田城の櫓・門を模したミニ石垣や説明案内が建てられ、駐車場さえある小公園の向かいから
金梨山:岩谷大権現の岩窟

送電線鉄塔No31への山道があり、其の鉄塔側まで来て「金梨山大権現」の距離を示した標識が立つ。朝来山への急登が響いてか金梨山へも僅か 700m程だが尾根の出るまでの急登には疲れ何度も休憩を余儀なくされる。尾根に出ると背後の朝来山が迫り、今の時期だけは山腹を満開の桜で飾る立雲峡が良くわかる。やがて露岩を捲き上がるように尾根筋を左手に廻り込むと 岩のテラスが有り、其処からは山頂直下に有って遠目にも目立っていた岩壁が目前に現れる。テラスから西に開ける眺望は素晴らしく 眼下に円山川と竹田の町並み・竹田城址と大路山・更に大倉部山が峰を並べています。二つの山間を抜ける藤和地区から藤和峠〜与布土を経て粟鹿山を越え、丹波の若者に逢いに通った お杉地蔵の話が 丹波市に残ります。
金梨山岩谷大権現の岩窟

正面の岩壁には2枚の垂直の岩が立ち、数個の大岩が其の間に落ち込むように挟さかって(覆いかぶさって)岩窟状になっている。 岩窟の奥に権現社の祠が祀られていて岩窟内から南の開く岩窓のフレームにトリミングされた朝来山と立雲峡の姿に期待していたが、どうも位置に少し不満が・で窟の入口側に有る枯れた古木を木枠にしての”但馬吉野”も眺めてみた…絶景です。 斜に倒れそうな三本の木を組んだだけの、簡易鳥居を潜り、此の岩の入口にかかると「金梨山岩谷大権現」の表札が掲げてあるが、ものごとの繁栄を願っての”木花咲耶姫”が祀られているようです。大きな岩窟 は身ごもった木花咲耶姫の「神の産屋」と見立てての信仰も残っているのかも…? 金梨山の南 〜西麓や東山麓に石積みの 小さな棚田状を見かけますが、桑畑であれば「養蚕の守り神」でもあった”木花咲耶姫”が祭神であっても道理ですネ。テラス下まで戻って金梨山山頂へは、急斜面の岩場に足場を探しながら岩窟上部の平坦地形に出る。 山頂こそ展望は無いが周辺に大展望地が有り、攻めるに堅く守るに易い天然の要害なので、竹田城の”見張り所”が有ったのでは?と思わせる雰囲気ですが果たして真相は。平坦地の末端が尾根筋で、小鞍部の先の狭いピークが金梨山山頂 (4等三角点 463m)で国土地理院No.110106の基準点標が埋まります。「かなしやま」と呼び天正5年(1577)豊臣秀吉の但馬征伐に、竹田城が落城の際 ・此の山にかかる月を眺め 「落ち行く身の憐れさよ 春の月は かなし(金梨)の山の峯に残れる」と詠んだ事から、金梨山の名が起こったとも、 また此処に逃れてきた姫様が、焼け落ちていく竹田城の姿を思い 悲しんだ事から、此の山を”悲しい山”と呼ばれるようになったとの伝承が残ります。それにしても山は低いながら巨岩に囲まれた”険しい山”です。尾根続きの先にもオベリスクの様に突き出た岩塔がある。更に北への尾根筋は眺望も開け、 展望の岩場もあるが帰点は正反対に南側の迫間なので、早々に引き返し岩谷権現の分岐からは登ってきたR312号への下降路を見送り、南へ延びる尾根の末端ピークに向った。此処までは踏み跡も有ったが、急斜面の下降が続くうち段々と薄くなる。 しかし藪漕ぎする事も無く立雲峡入口と石積双室古墳の中間付近、金梨山取付きを探しながらスタートした佃橋(大師堂)北向いに降り立った。


石積双室古墳  朝来市山東町迫間字金梨山

迫間古墳群というのか?金梨山古墳群と云うのか名称は知らないが金梨山から南に延びる尾根が落込む山東町西端境・迫間地区の、山裾の傾斜面には周辺に6〜7基の墳丘が見えており、 中には横穴式石室を覗かせているものもある古墳が点在しています。
石積双室古墳(危険立入禁止)の為入口フエンスから玄室部

これ等小さな古墳群を前衛に置いて一番後ろの高みに、目立つ胴長の大きな円墳が一基見えています。此の円墳は一つの墳丘に二つの横穴式石室が南に開口し、隣接して並んだ珍しい円墳です。仲の良い一族のものか、戦闘か天災で同時に無くなった夫婦や 家族のものなのか?古墳については!!
迫間の古墳群:上部が石積双室古墳

詳しく無いので調べていませんが、 墳丘の表面には扁平石で覆われた石積みでが露出しており、他に余り例を見ない貴重な古墳で規模は広さ約160u直径約15m、古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀)の築造とされます。昭和42年(1967)4月20日:山東町指定文化財

(現地 石積双室古墳 山東町教育委員会案内板を参照)


竹田城 観音寺山城 市御堂城  糸井陣屋


竹田城(虎臥城) 虎臥山(古城山 ) 354m  朝来市和田山町竹田字古城山
        昭和18年(1943)9月8日国指定史跡・全国屈指の山城遺構

竹田城は南を頭にして北方に長々と伏せている 虎の姿から虎臥(こが)城も呼ばれます。但馬の朝来郡西部に位置し、西に播磨・宍粟郡、北部を丹波・天田郡東部を丹波市、南部には播磨 ・多可郡や神崎郡に接していて、 播磨守護・赤松氏や丹波守護・細川氏に対抗する為、但馬への要衝の地であり軍事的基地としても重要な
三の丸から二の丸と本丸・天守

此処に但馬守護・ 山名氏が築いたもので天守台・天守曲輪・二の丸 ・三の丸・北千畳・見付櫓・平殿・花屋敷・東の丸・南千畳など石垣を連ねる壮大な規模の山城があります。今に残る総石垣の城だけが 竹田城ではないのですが、太田垣氏の頃の旧遺構についての調査報告が表舞台に出てくることも無く、 舞台裏に隠された賦役に借り出された人々の姿は更に見えてこないが、
竹田城・天守より二の丸虎口門

林道終点付近には車道を分断して 長々と真っ直ぐに東の谷底へ向う大竪掘が当時の遺構を留めているようです。最初に城が築かれた位置や規模は分かりません。但馬守護・山名持時熈(ときひろ)【山名持豊の父】の家臣太田垣通泰が明徳の乱 (1391)や応永の乱 (1399)での功績により備後と朝来郡守護代を務めた 応永6年(1399)に築いた城とされており、 完成までに13年もかかったという壮大な計画と実行の中で駆り出された多くの人々の労役(苦役)に村中が皆・夜逃げするところもあったといいます。

南千畳から天守と平御殿(帯曲輪)

そのため「夜逃げするものは一家一族死罪にする」とのふれ札が立てられたとか、百姓も出来ず田に木が生えた話等がいまに残っているようです。 山名の四天王 太田垣氏(朝来郡)/八木氏(養父郡)/垣屋氏(美含郡=現・城崎郡竹野や香住方面)/田結庄氏 (たいのしょう・城崎郡)がいる。永享3年(1431)から嘉吉3年(1443)にかけて但馬守護山名持豊(宗全)が、 出石の本城・比隅山城の守り(出城)として築城したが政務で京を離れる事ができず
主郭奥殿から花屋敷

嘉吉の乱で幕府から赤松氏追討の命を受け 白旗城攻めでの功の有った家臣太田垣光景を 初代城主にして護らせたのが竹田城で、播磨の実質的な初代守護代となった太田垣通泰が天正年間に築いた城とも考えられています。 文明5年(1473)3月山名宗全が70歳で病死、後を追うように細川勝元も没します。 宗全の死に先立ち寛正6年(1465)5月に太田垣光景も没したと伝えられます。
北千畳からの観音寺山(観音寺山城)

応仁元年(1467)から11年間に渡る応仁の乱(山名宗全は西軍の大将)は文明9年(1477)終り、山名氏の家督を政豊が継いだが但馬の山名氏の内部(近臣・有力国人達 )で自立化の動きが起こり、その隙に播磨・備前・美作の三国を赤松政則に奪回され備後だけが守護国として残る。天正5年(1577)羽柴(後の豊臣)秀吉は 「播磨侵攻」の際、但馬にも兵を入れて竹田城も秀吉の弟・木下小一郎秀長によって攻め落とされます。
大手門と北千畳の東下方に観音寺山城が見える


秀吉は但馬攻略の功により但馬を預け翌天正6年、木下秀長が竹田城の城主となっています。其の後・秀長は出石の有子山城主となり、天正10年(1582)次の城主として豊臣秀吉の家臣(出石の有子山城主) 桑山修理太夫重晴が、しばらくで太田垣朝延を攻め滅ぼし太田垣氏は光景・景近・宗朝・宗寿・五代目朝延で滅びます。桑山重晴が天正13年(1585)紀伊 ・和歌山城代に転じると再び赤松広(廣)秀【龍野城主赤松政秀の子】が所領 22,000石で竹田城最後の城主となると文禄年間(1592〜1595)から廃城となる慶長5年 (1600)にかけて城域の南北約400m・東西約100m・最高所に本丸を置き古城山(虎臥山)三角点標のある最高点に天守台・北西の花屋敷郭には鉄砲用の石狭間を設けた稀有な改修築がなされます。
南千畳(搦手口)正門から天守台への石積

南尾根上に南二の丸と 搦め手口の守備のあたる南千畳、東北の大手門は大手口を守備する北千畳へと、 山頂から三方に広がる尾根上に豪壮な 穴太積みの石垣(安土城・姫路城と同じ)と縄張りが残り、其の美しさ(平面構成)では全国でも指折りの 見事な城郭となっていきます。慶長5年(1600)関が原の合戦では西軍に属して丹後 ・田辺城の細川幽斎(藤孝)を攻めているが、軍敗戦後は東軍に降りて亀井武蔵守慈矩を助けて鳥取城の宮部兵部省輔を攻めたが、
寺の白壁に鉄砲狭間とは!

城下に火を放ち延焼させたという理由で 徳川家康から詰問を受け、 亀井氏は責任を広秀にかぶせ、手落ちを言い立てられて同年10月28日鳥取の真教寺で切腹し赤松氏は滅び竹田城は廃城となります。竹田城への登城コースは幾つか有り、中腹まで車道が通じ駐車場脇・登山口に「山名氏・赤松氏の 両軍供養塔」が祀られるコースは ”花屋敷”に15分ほどで登り着くラクチンコースです。観応の撹乱(1350〜)頃から始まる両氏の対立は 嘉吉の乱(1441)を経て共に没落するまで続く攻防戦は宿命のライバルとして知られます。
本丸から二の丸・三の丸・北千畳

供養塔は山名・赤松両氏の子孫が 和睦を結んで建立したもので、私と同郷で今日一緒のYORIさんの兄君の名も記されており同町からも赤松氏側に10名程の賛同者名が刻まれていました。【竹田駅・観光案内センタからは 土砂崩れ・道路決壊で以前から通行止(H16.10現在)】駅裏の寺町通り!法樹寺【竹田城最後の城主・赤松広秀の供養塔がある】から武家屋敷跡を通る大手門コースが有るが、寺町通りの公園南とJR踏切との中程付近から神社を経て車道終点の大手門下へ出るコースも有り、今日のオフ帰路は車道で 分断されているが太田垣氏の竹田城の旧・遺構として残る長大な竪堀や、 壮大な石垣の石を切出した石取り場を見ながら利用者の少ないこのコースで降ります。
山名氏・赤松氏両軍供養塔

山城でなくても水源確保は第一。竹田城の西裏にあたる大路山の滝谷に湧き水を見つけ、2kmに及ぶ長い管をひいて城に水を送ったといわれ、八木城や上月城、丹波では黒井城・誉田城にもサイフオン式に水を引いた 話はあり、水源を隠すための目隠しとして香華院千眼寺を建てたと云われ今も寺跡は残っています。また
「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり 又七廻り七戻り 三つ葉ウツギのその下の六三がやどの下にある」何か良くわかりませんね。
法樹寺・赤松広秀の墓

水源や導管の有り場所を暗号で伝えたものと考えるのが本筋の話のようです。城の生命線・存亡に掛かるものですから黄金千両 ・万両であってもかえることの出来ない水源であり導管でもあったわけですから…この歌の三つ葉ウツギ??有りそうで無さそうな三ッ…は、丹波の高見城や金山城他全国にも多くの落城伝説のなかに埋蔵金伝説としても残ります。
(現地 竹田城跡案内板とパンフ 兵庫の城紀行等を参照)


観音寺山城 観音寺山 313m   朝来市和田山町竹田

全国屈指の壮大な総石垣の竹田城の影に隠れ、 殆ど知られることのない山城が竹田城北千畳からの尾根続きの直ぐ北東方・観音寺山にあって、城主や城史は不明ですが竹田城と一体となった山城遺構。僅かに覗かせる石垣は 竹田城と同じ穴太積み。高い切岸を持つ主曲輪下部の案内板と、其の下方に在る石垣付近を探索しただけなので、2本ばかりの竪堀を見ただけだが、
観音寺山城から竹田城・北千畳の石垣

北東方から尾根続に竹田城へ侵攻してくる敵兵を見張り・押さえる出城だった様で、竹田城と同時代・時期の築城と思われます。雲海の竹田城へは 前回も訪城しているが2004年(台風23号)の豪雨の被害甚大で、此処・竹田城への山上部の駐車場への林道も南側はズタズタ、北側からの林道も崩壊していたが 復旧した今年(H18.4)、桜花見の立雲峡から朝来山〜迫間〜金梨山を登った後 ・最後に桜満開を迎え た竹田城へも出掛けて来ました。
観音寺山城主郭の下方にある石垣

円山川を挟んで三山からは其々に他の二山の展望台でもあります。 駐車場から花屋敷を経て本丸の天守へ・其処から二の丸・武の門を抜けて三の丸・大手門を北千畳に出れば東側の石垣下に山道が東北へ延びていきます。吊尾根状の緩やかな鞍部の登りに掛かる頃には 城域に入っている様で、登ってくる道等が無い筈の南側の谷道状は大きな竪堀だったのかも ?
観音寺山城:主郭東切岸上の石積み残欠

竹田城側からは北千畳下の北端から降り始める短い急斜面を除けば粗水平の道、 緩やかな登りの先に最高所の曲輪が有った。此処から・高い切岸の沿った急斜面を降ると二段目の曲輪に出て、此処に簡単な説明板”観音寺山”が立っていた。 此の曲輪の南東端の一部に 穴太積みの石垣が見られた。尾根上に堀切は無さそうですが ?「竹田小学校へ」のコースに沿って、曲輪を回り込むように進むと放射状に3〜4本の竪堀がある。
観音寺山城南斜面:足元から長大な竪堀が落ちる

見忘れたが!!主曲輪や2段目曲輪北面やコース沿いの南面にも竪堀や小曲輪が有るのかも?石垣積みは此処一箇所で 確認しただけなので良く判りませんが、城域がもっと東西に長く延びているようだと、当然東方には曲輪や石積み・石垣で防備した遺構が有りそうです。


市御堂城 城山(ジョウヤマ) 152m  朝来市和田山町御堂字城山

早朝に竹田城の雲海ショーを見てから和田山駅に向う R312号線に”比治山城跡 2km”の標識を見て200m程先には”市御堂(いちみど)城跡”標識が農道の入口に立つ。田圃に囲まれた独立小丘陵は国道側から 急傾斜をみせて雑木藪で鬱蒼とした小山は、山裾を南方から西面を囲うようにして北方へと抜けて円山川へ流れ 出る小川が流れています。小川に架かる橋を渡ると二つばかり小さな墓地が有りますが、 取付きから(道は有りません )山側は見た目以上の急斜面で小山の外周全てを、高い切岸で囲った巨大な曲輪の感じです。
R312から見る市御堂城

市御堂城の城主等城史は不明ですが竹田城の北東3.5kmの位置に在って枚田(ひらた)城とは竹田街道を挟んで呼応し、要衝の監視にあたった砦です。枚田郷の地頭で夜久野合戦に功のあった太田垣光景の重臣・枚田光季(みつすえ )の砦だったのかもしれませんが、共に旧・山名氏の土の城!竹田城築城の頃には支城群の一つとなったのでしょうが、位置的には播磨からの侵入に対するよりは、丹波から遠阪峠を超えて但馬へ侵入する街道筋の間道の監視か、 山名氏四天王同士の身内の抗争による北面からの侵入を意識した戦国期のものとも思えます。応仁2年(1468)山名氏と細川氏の夜久野合戦では東方 ・丹波から攻め入る内藤氏や芦田氏に対抗して活躍した太田垣氏が 市御堂城の東約2.5kmに陣を敷いているので、応仁の乱前後には細川勝元に対する備えとして丹波国境に築かれ、 山名持豊(宗全)方の太田垣氏や枚田氏の砦城として機能していたのかもしれません。
僅かな曲輪の先はクマ笹薮の密生地

城史も縄張りも知らず、激登りで墓地から取付いた南面には山上まで堀切・曲輪等は無く、足の踏み場も無い密生したクマザサと雑木の藪を抜けながら2〜3段の平坦地であることが感蝕で判る程度。南〜東側へは中程から竹薮になっているようなので 下方に居住空間があるかもしれません。”兵庫の城紀行”リストには尾根上に三郭があって小規模な竪堀群あると記されてはいるのですが、一箇所だけ藪が切れた南面に曲輪の遺構と、西面には自然地形だろうが切岸加工されたような露岩の角があった。 また西から北面にかけては竪堀が何本かは有るようですが、浅く短いものなのか浅学で専門知識も無いのでよく判りません。西北角にはコの字状に稜上を跨ぐ様に堀り切られた溝が左右に分かれて急な斜面に落ち込む竪堀もあったようだが …!!?竪堀群と呼ばれる程の畝状竪堀等は確認出来なかったが、この遺構だけでも室町期以降のものであることは判りますが、改修され使用されたかは城史も不明です。戦国期の石の城!としての竹田城だけが陽を浴びて一人歩きしているようで、 もっと山名氏と四天王の城、巨大化し過ぎた山名氏王国が衰退し始め、四天王が覇を競い合って 但馬内においても 自滅の道を歩き始めた歴史も含め、荒れるがままに藪の中に眠る小さな城にも目を向けていきたいものです。
判り難いでしょうが !尾根をコの字状に遮断する堀切・竪堀

本城としての土の城・竹田城に、 領地を守る山名氏本拠の城の意気込みを僅かに残る遺構の・深く長い竪堀に見るとき、ライバルの敵陣を押さえて此処に築かれた壮大な石の城・竹田城は、 再構築した赤松氏の長年の怨念を集結させたものか反撃に対応する為の過剰な防衛が成させたものか?。総石垣造りの重厚な縄張りの美しさと、天空の城からの美しい景観の陰に隠れて、築城の賦役で借り出された領民達の悲惨さを語られる事は 観光=史跡の中で語られる事は無さそうです・・。


糸井京極陣屋   朝来市和田山町寺内

竹田城から出石城に向かうのに、床尾三山の登山口で国の天然記念物”大カツラ”で知られる 糸井渓谷へ向う県道10号を利用して、奥山渓谷沿いの峠超えで出石町に出る。円山川と並走する R9号で和田山トンネルを過ぎ「宮田」の三叉路で円山川を渡って 直進する県道10号線。 案内標にある「和田山町立郷土資料館」に向かうと、寺内集落に入って北側に明治維新まで続いた糸井京極陣屋がある。・・と云っても高石垣の陣屋の門は寺の山門の様で、狭い(5〜6台程度の)駐車場も寺専用のものかと思えた。
糸井京極陣屋表門

坂道を高石垣上へ向うと保育所の敷地に入る。 右手の旧役所然とした建物が有る。陣屋は明治維新後 :旧寺内小学校用地として払い下げられ、其の敷地跡に保育所・園児専用古墳広場?(小さな前方後円墳を模した?芝生の遊び場!!)や資料館が建つ。郷土文化財館:歴史民俗資料館には但馬の城砦関連資料は余り無さそうです。 玄関入口部を見た限りでは養蚕農家での使用用具や、此の周辺にある古墳の発掘資料が主な展示内容の様なので入館はやめて、古墳の石棺出土状況が復元展示されている中を通り、石垣の上に白壁塀に囲まれて現存する糸井陣屋門に向う。 糸井陣屋は、寛文8年(1668)3万5千石を領していた丹後田辺城主(舞鶴市)京極伊勢守高盛が、但馬豊岡に移封された際高盛の弟兵部高門が豊岡より2千石で分家して 糸井京極陣屋を造営したもの。糸井・京極氏は旗本として目付役や奉行などを勤めており、其の8代:京極能登守高朗は文久2年(1862)第一回遣欧使節の一員として 監察(大目付)を勤め、帰朝後は神奈川奉行や長崎奉行を勤めています。
京極陣屋は古墳公園の中に!

明治維新のとき 9代目京極要之助が東京に移住、陣屋は旧寺内小学校(現在:寺内保育所)の用地として払い下げられ、跡地には和田山町立郷土資料館・歴史館も建てられています。資料館と保育所間の広い空間には方形の壇が有り、庭の造型かと思ったら 遺物出土状況を示す、竪穴式石室の古墳復元展示で方墳か前方後円墳だった様です。芝生の空地は格好の遊び場ともなっています。整地された台地に陣屋遺構は何も無さそうですが、此の外周の南端に糸井陣屋の現存する遺構・陣屋門が有って、 南側から表門への石段と高石垣には白壁塀が周り、江戸時代から明治維新まで続いた糸井京極陣屋の有った往時を偲ばせます。
(現地 糸井陣屋跡案内板 及び”但馬の城”を参照)

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