与布土川沿いの城館廻り諏訪城・与布土氏館・衣笠城
但馬:朝来市山東町 (五万図=但馬竹田)
近畿の山城 :大月城ノ越遺跡と諏訪城  与布土氏館 衣笠城
諏訪城西切岸下部の空堀と大土塁側から落ちる竪堀(手前左)

丹波市青垣町佐治から大箕山 (丹波富士)東山裾を北上し、遠阪川沿いに全国:足立姓の祖・足立遠政の山垣城を川東にに望みながら遠阪峠を越えるR427号線は、但馬側:朝来市山東町に下りてくる。春日和田山自動車道(R487号 )の遠阪トンネル料金所を右に見て左側 ・柴城の丘陵裾(柴の集落)を過ぎ、粟鹿神社方面への案内標識を見て南方へ進み、 自動車道(R487号 )山東IC側から併走する広域農道を走ると「但馬まほろば”道の駅”」を春日和田山自動車道の前方丘陵上に見て
諏訪新橋<与布土川>から望む 諏訪城南郭(左)と主郭:北郭

与布土川に架かる諏訪新橋を渡った正面の低丘陵上に諏訪城が在る。 地図上なら大きな”城ノ越池”西の丘陵なので 判り易い・・!!?。交差する県道276号を直進するセレモニーホール 「やすらぎ」への入口直ぐ、小屋の間のカーブ地点に鹿猪除けフエンスの開閉口が城への取付き点。自動車道高架沿いに県道276号線を北へ250m程進むと比高15‐20mの低い岡が見える。
諏訪城前から大月城ノ越遺跡(大月城?)の丘陵を望む

丘陵県道寄り南面に 「大月城ノ越霊園」がある。墓所前を北へ回り込む通路は深い堀切で、現状は北側の圃場へ抜ける 切通し道になっています。 此の墓所上に遺跡分布地図に城ノ越遺跡の城塞らしい遺構が遺ります。諏訪城から諏訪新橋を東へ戻り、道路標識に従い与布土川沿いに、与布土温泉極楽湯への車道を南下する。
衣笠城登山口:森区から与布土氏館を遠望

県道 277号に出て東へ走ると直ぐ 小峠に差し掛かる口の神社背後に布土氏館が、西手前を南へ直進する山東町森地区の幅狭い車道の先には 衣笠城への地元自治会の手による登山口標識が立てられています。此の150m程?手前(北)の車道側溝に兵庫県指定(昭和43年3月28日)重要有形文化財
森石造九重塔 ・虎御前の供養塔の標識を見る。県の遺跡分布図(県立考古博物館の行政地区マップ)には記載されていない?が、
虎御前の供養塔とされる石造九重塔

民家の前庭を抜けた奥・丘陵裾に方形土檀の一画に当家?所有・管理で、高さ4m・石英粗面岩製で 三重基檀の上に立つ石造九重塔一基が祀られ、虎御前の供養塔と伝えられ古来より女人の信仰が篤いと云う。虎御前は平安時代末期:安元元年(1175)富士の裾野の巻狩り(周囲を囲んで獲物を狩る)に、曽我兄弟が父の仇を討った「曽我物語」で有名ですが、仇討ちの後の殺された兄弟の兄・十郎の恋人 :虎女は出家し (尼となり)兄弟を供養し、
森地区から衣笠城への登山口

信濃の善光寺や紀伊熊野や吉野、 天王寺にも滞留する等・諸国を巡歴し各地に其の伝承を伝えています。山東町森地区にも虎女が足を患い此の地に没したと伝えられ、其の供養塔が立つ。「トラ」は本来、石の傍らで修法する巫女の呼び名であったとも考えられ、石占(いしうら!!)などを職掌とする回国の巫女の活躍が各地に残されたものと推定され、 若狭・但馬・丹波みも残る比丘尼の伝説とも符合してくる様です。
衣笠城主郭西尾根上(西郭?)の展望

曽我兄弟の仇討ちより250年を経た南北朝期の建立とされ、台石の左右二方に格狭間を彫り、正面のものは月輪内に・他は粗中央に種子を刻み、軸石に四方仏 【東:薬師如来・西:阿弥陀如来・南:観音菩薩・北:釈迦如来】が刻まれています。

(現地:森石造九重塔案内板 及びWikipedia・人名事典等参照)



 大月城ノ越遺跡と諏訪城 与布土氏館 衣笠城


大月城ノ越遺跡と諏訪城
大月城ノ越遺跡   xxxCa120m   朝来市山東町大月城ノ越
城ノ越遺跡:堀切(現:切通道)
上記プロローグに示した道順は国道利用の場合判りにくいかも・・?。円山川沿いR312号は和田山ICから県道 136号を東走し茶臼山古墳側を通りへ「大月西交差点」で県道276号へ右折して自動車高架沿い約300mで比高15‐ 20m程の丘陵東北先端部に大月城ノ越遺跡が在る。此処から更に県道276号沿いを300m程・目前の圃場の先の丘陵部に諏訪城が在ります。丹波市から遠阪トンネルを抜けるR487号(春日和田山自動車道)は山東ICで降り、
城ノ越遺跡:曲輪間の空堀!?

粟鹿川沿い南側広域農道を西走すれば 北近畿自動車道(春日和田山自動車道)高架との交差地点で、新諏訪橋を渡りR275号線と合流すると右手目前の丘陵 (比高僅か25‐30m足らず)が諏訪城です。丹波市側から遠阪峠を越えてくるR427号なら山東町一品の交差点から山東ICの高架を潜るか、少し先で粟鹿神社への案内標識を見て県道275号を南へ走り、 自動車専用道の高架を南側へ潜って
城ノ越遺跡:段曲輪

広域農道を西へ走る。 R427号は更に矢名瀬(朝来市役所山東支所)前まで進んで左折し県道136号に入る。福知山方面からの R9号なら大垣交差点でR427号に入り矢名瀬から県道136に入るか、R9号”梁瀬”でヒメハナ公園・楽音寺”案内標識に沿い南下すれば県道136号「大月西交差点」に出る。
城ノ越遺跡:空堀(竪堀?)

県道276号を南下して約300m程走ると車道右手に最初の丘陵裾。 此の丘陵県道寄り南面に「大月城ノ越霊園」へ入る道がある。墓所前を西に回り込む通路は 深い堀切で現状は、北側の圃場へ抜ける切通し道になっています。此の墓所上に遺跡分布地図に城ノ越遺跡とあり城塞らしい遺構が遺ります。当地の確認調査(発掘調査によって一部消滅ともある遺跡ですが ・・!!))結果の報告等・
古墳群と其の周溝?よりは曲輪段?

資料を知らず不詳です。諏訪城西に城ノ越池を挟み、大月城ノ越霊園の西の谷間に拡がる圃場を挟んだ低丘陵部は ”山東カントリークラブ”。一帯は”城ノ越古墳群”で30数基の古墳が点在しているが、切通し道から霊園上部を緩やかな丘陵の先端部が県道276号へ落ち込むところ・
城ノ越遺跡:西斜面上の土塁線・・?

段差をもった幅15‐20m程の多くの曲輪が有り、堀切状 ・横掘状が 古墳の周溝の様にも見える。 中小規模の古墳群とも思えるが分布図には此の位置と隣接する範囲に 古墳が集中するが 此処に古墳は記されていない?。 横穴式石室を持つ円墳か・木棺直葬であっても墳頂部等に盗掘跡の窪地も無く、掘切の他・土塁や竪堀状も観る?。発掘調査時のトレンチ溝跡によるものかは知らないが、
城ノ越遺跡:曲輪と空堀?

低丘陵尾根を切通道となっている南側の堀切から 比高こそ約20m足らずだが幅広く緩斜な尾根筋の 三方は急斜面となって裾を圃場・車道まで落としている。平安期?から中世にかけて、築造期や城主等一切不明の諏訪城といい、此処もまた不詳 ・不明ながら諏訪城に付随する家臣団の居住区だったか?。西面の一段低い広い 平坦地形は曲輪というより中世墓の跡とも思えます?。
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諏訪城(諏訪館)  xxxCa140m   朝来市山東町諏訪字東南山・大月

地道が高架下を与布土川に架かる 新諏訪橋を渡る分岐点(交差点)の西側は”セレモニーホール「やすらぎ」”への入口。 直ぐ目前の小屋の間のカーブ地点に有る鹿猪除けフエンスの開閉口から直上すると 直ぐ南方へ長く延びる二段程の平坦地形(帯曲輪)の北端部分?の縦堀沿いに上段に向かう。北側に”私有地につき・・・”の立札を見て、 切岸上段の諏訪城主郭【北郭部】に入る。
諏訪城主郭(北郭)の北西面に廻す土塁線

個人所有地の城址ながら主郭東端?北端部付近は、殊に無断立入り禁止区域なので藪地の主郭部斜面への 許可無し侵入は、控えた方が無難です。深い藪と雑木の覆われた急斜面上の 小曲輪や北郭(主郭)切岸下の帯曲輪に土塁を遺し竪堀(北角の竪堀は自然地形かも知れないが
主郭西切岸下の横堀(空堀)と大土塁・手前は竪堀

突出す左右の曲輪面に抱き囲まれる間を落ちる大竪堀)を観る。 比高25m程の丘陵上から街道筋(県道276号)を直接足元に望む位置だけに、南郭(副郭)西面の技巧に富む防備施設等の 遺構が期待出来そうに思えますが、現状:主防衛施設は比高15‐20m程の西面の城ノ越池側に集中している様!?なので、池は近年の溜め池として造成されたものか?。
諏訪城南郭:北端の低土塁と高い切岸

”やすらぎ”への専用道は少し西で土取り場跡か?崩壊地形の右寄りに、 此処にも鹿猪除けフエンスの開閉扉部が有る。低丘陵尾根の鞍部か!!?。抜ければ地図上の城ノ越池に通じる様だが、 右寄りの斜面は直ぐ小曲輪に ・其処から上り土塁状の幅狭い尾根筋?を伝い上部の曲輪【幅狭いが南郭の切岸下部西面を捲く帯曲輪で、諏訪城最大の見所となる横堀(空堀)と縦堀群が土塁を介して組み合された 技巧に富んだ縄張りが妙味を魅せる。
南郭から西切岸下部の土塁の両袖から落ちる竪堀

帯曲輪は南郭を囲い込み北郭まで延びるが、その中間部には更に二つの曲輪(土壇・土塁?)があり、両端に藪深いが空堀(堀切)が二本あるが、東西帯曲輪を繋ぐ通路のよう】に付く。諏訪城は大きく南郭(副郭部:幅 20mX40m程の楕円形で、西・西北角の低土塁が、縦堀・横堀が組み合された 西面切岸下部の帯曲輪を警戒・防備している)と北郭
諏訪城南郭 ・北郭の空堀に挟まれた低位置の中央郭?

(主郭部:一遍が約50-60m程の 三角形状で此処も西面には低土塁が廻っている。 登り着く東側は下草藪混じりで小さな起伏程度の表面観察は 見過ごしてしまいそうですが、長さ約 30m程の大土塁が築かれ西切岸下部は横堀状・・・南北に延びる大土塁の端から ・また竪土塁の沿い4本程の竪堀を畝状・並行に落としている )の二郭で構成されています。
中央郭の主郭寄り堀切側へも廻す石垣積曲輪・・・!!?

両郭部の中央低部の二曲輪?についての機能 ・目的はよく判らないが、堀切で分ける北郭(主郭)側切岸下の平坦段(曲輪)だけは2m程の石垣 積。東下方に現:墓地が見えるが個人墓地跡か?、旧墓地跡とも思えないが近辺に石積み城館は無さそうで?、 中世以後:最後の城主となった小山氏に関する遺構だろうか?。
主郭西面の大土塁から中郭の堀切 ・南郭へ延びる横堀・竪堀・土塁・・・と
   諏訪城の技巧的縄張りの妙が此の一帯に終結・・・


諏訪城の城史に築城時期・城主について諸説があり明らかではないが、平安末期 :源平騒乱の寿永・文治 (1182-90)年中領主釘貫氏が居館を構え此の地にあって 代々権勢を誇っていた様です。 また山名氏の臣で応仁の乱時:夜久野合戦に武功をたてた中路新右衛門以降・・応永年間(1394-1428)には此の地を領したものか?中路氏が居城したとも云い、中路氏もまた此の時期:此の地の豪族であったか?。
南郭:池に通じる尾根端鞍部?から南下段曲輪への上り土塁?と竪堀(右下)

諏訪城の土塁囲みの主郭・副郭や技工的な竪堀 ・横堀や大土塁や少し突出す様な竪土塁状から畝状に竪堀を落とす等遺構は、中路氏か以降中世後期にかけての居城主(不明)により大改修されている様です。 江戸時代の始めには因幡の湖山から釘貫の里に来住した小山氏先祖の小山耕雲斎の居館であったとも云われるが、城史として各氏の来住や衰退・交代等の推移は、徳川政権下(近代)の小山氏についてさえも詳細は一切不明。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)

与布土氏館(長者屋敷)  山根山? 190m   朝来市山東町溝黒字上山才・溝黒字長者屋敷

北近畿豊岡自動車道山東ICから 立雲峡を過ぎ正面に竹田城を望みながら下る「竹田交差点」でR312号線に合流する県道277号線沿い、与布土川沿いに県道276号との交差点から277号を東へ、前方に低丘陵の間を小峠を越える右手(北側):溝黒集落東の山歳八幡神社裏手の尾根続き、標高約190mの独立丘陵上に築かれた南北に約120m規模の城館跡与布土館 (ようどしやかた)は長者屋敷とも呼ばれており、
八幡神社側から与布土氏館取付鞍部の堀切道?

土豪与布土(習田・山崎)氏<後に山崎氏を名乗る>の居館で南北朝期末の嘉慶年中(1387‐89)には此の地に館を構えていたものと考えられます。「朝来志」に明徳年中 (1390‐93)山崎五郎左衛門尉 与布土庄の地頭職に付き30石を領していた・・・将軍継承をめぐる山名宗全と細川勝元の 京の都で始まった争いは戦国時代の幕開きとなる 10年戦争の応仁の乱の応仁元年 (1467)8月:山田持豊(宗全)の将与布土又三郎は「村雲の合戦」京都山崎:上京区今出川通り・
主郭:中央部の空堀状と北堀切側の大土塁(櫓台?)

二条城の北方付近?の戦いらしいが、同時期には 旧多紀郡村雲合戦
【篠山市東雲付近・守護:細川勝元の守護代内藤氏等が但馬から出撃した山名氏勢を迎え撃つが、細川方の内藤勢主力は上京しており、体制を立て直す事が出来ないまま、全滅に近い大打撃を受けた】もある。いずれの村雲合戦にも山名氏は勝利したようですが、此の戦功により翌:応仁2年 (1468)3月宗全よりの感状<山崎文書>を受け、播磨宍粟郡三方東(随心院領内の五分の一)を与えられたが但馬山名氏が衰退していくなか、
主郭・副郭(北郭)を分ける大堀切(西面から)

天正年中(1573‐92)羽柴秀吉の但馬侵攻(山名氏攻略 )に際に帰農し、子孫は元々の姓であった山崎氏を称して喜多垣の地 (R277号沿い溝黒の北方・喜多垣区公民館や郷士資料館 「喜古里」【茅葺古民家は旧山崎家屋敷】が在る)に移り住んだものと推察されています。取付き点は丘陵部の間を抜けるR277号線:八幡神社の東側(小峠上の山東町三保境)から円光墓地入口の墓参用駐車スペースから、
土塁を挟んで主郭・北郭を分ける堀切と空堀

北正面に玉垣に囲まれた 石碑が 立ち背後に墓地管理関連施設?らしい一棟が建つが、石碑横から神社裏に延びる丘陵側へ斜上する山道?をとると、尾根続き鞍部に着く。 深い堀切道は居館への堀底道だったか?。此処から山歳八幡神社へは尾根筋を南へ6‐70m程の距離だが深い藪と細い尾根筋は倒木にも阻まれ通過困難。神社敷地まで曲輪地形も無さそうです。
主郭南東下部の帯曲輪南端で空堀が屈曲する

堀切から北へは踏み固められ、 低土塁線の様に残る尾根筋を伝い大土塁曲輪に着く。正面に主郭部が高い切岸を立てゝ東西に掘切が走るが、東方へは深さが失われた浅い溝だが主郭切岸裾を横堀となって捲き、幅広く長い帯曲輪(南部の主郭と北郭部を大堀切と土塁を挟んで空堀の二本で区分する。帯曲輪は此の二郭<北郭部の先端部まで 延びて主郭と北郭>の東面切岸下部に有って主要郭を守備している)の南端部の岸を切って、ほぼ直角に横堀を東下方へ落とす。

主郭切岸下南東〜南西へ廻る空堀(横堀)は西端から竪堀で落ちる

主郭(幅約12mX長さ南北に約40m程)内部の中央付近を空堀状窪地が 区分して北側に少し盛り上がる櫓台土檀は約7‐8㎡程の小規模な円墳の墳頂部を削平してマウンドを利用したものか?。城址最高地点の櫓台状から東帯曲輪下方への斜面(県道277号の三保地区の峠下付近へ丘陵裾を延ばす枝尾根 ?)上に三保向山古墳<分布調査(調査年は不詳)で新発見された 1‐5基程が点在>が在り、 其のうち一基は城址の可能性もあると云う。位置的には重なる部分があり主郭櫓台が古墳である事も、此の枝尾根?斜面が与布土氏館の関連の城館施設であった可能性は否定できない。主郭側切岸は共に高い(6‐7m程)。
主郭南面切岸と空堀(堀切?)・土塁

主郭南の堀切は西下方へ長く落としているが、 主郭西面下部にも北郭を分ける堀切下部まで帯曲輪があり1‐2状の竪堀を落としている。帯曲輪北端は大堀切を ・東面の帯曲輪への連絡通路として利用されていたのかも・・?。防御面では与布土川沿いを望みR276号街道筋からの侵攻に備えている様子。東面の帯曲輪は主郭から北郭まで延びるが東斜面は自然地形のまま?の急斜面。
主郭東面切岸(土塁を挟む大堀切・空堀)下部の帯曲輪

北郭の中央付近には東面の帯曲輪から入る 虎口と思われる方形の窪地がある。ただ主曲輪内部を除いて、殊に北郭部や東面の帯曲輪は下草・羊歯類・笹薮に覆われ足元も見えず半ば藪漕ぎ状態で進むほど。小さな高低差等は表面観察出来ず縄張り遺構詳細は 確認出来ない。
(兵庫県の中世城館・荘園遺跡 県教育委員会 を参照)


衣笠城  衣笠山・奥山 431m(3等三角点)   朝来市山東町与布土字衣笠山

城史については其の創築目的や築城時代 ・築城主等についての詳細は不明ですが、口碑や伝承によると但馬竹田城の見張り所等・出城として築かれた 城砦群の一つとされています。城址の西山麓 ・与布土川沿いの県道276号は古来 :但馬丹波を結ぶ間道として利用されてきたものか お杉地蔵の悲恋伝承を残す粟鹿山 (粟鹿峰とも呼び丹波市側の最高峰)山塊西尾根の峠を越えて、丹波市青垣町大名草へ出てR427号を丹波市紅葉三山 高源寺へ通じます。
位置的に愛宕社等に思えず!!地神として衣笠城主を祀る祠か?

また直ぐ西の青倉山側から黒川ダム(ダム南下に黒川温泉や大明寺がある)に通じる山道も、 東へは生野峠を越えて大名草へ下るR429号線(国道とはいえ幅狭く急斜な林道)。R429号を西へと市川源流を下ると銀山湖沿いに R312号・JR播但線生野に出る。竹田城主太田垣氏は生野鉱山(銀山)を支配し、播磨・丹波国境一帯に大きな勢力を持っており、 衣笠城や与布土氏館・諏訪城をはじめとして
衣笠山中腹部の土橋!!

与布土川沿いに点在する城砦群が、丹波市青垣町に通じる但馬の国境を監視・守備していたのでしょう。与布土氏館 から県道277号を与布土温泉側(西)へ一つ戻って左折して山に向かう幅狭い車道が一直線に南へ延びていく。 数回繰り返さないとUターン出来ない程の車道だが、西側には与布土川を挟んで県道276号が川沿いを山に向かうので、 此の道を往路・復路に利用して周回出来る。
土橋を渡りきる側から落ちる竪堀(片堀切)は登城の堀底道?

車道脇には当ページのプロローグに記している虎御前の 供養塔と伝わる県指定重文の森石造九重塔が有る。県指定だが遺跡分布図(県立考古博物館の行政地区マップ )には記載されていない。何か欠格事項があって指定が 取り消されているのかは知らないが、直線車道の直ぐ先に地元自治会により整備され「衣笠城址登山口」を示す標識が立てられている。
土橋・片堀切の先:中腹曲輪の櫓台曲輪!?

鹿猪除フエンスの扉を開閉して入山。 谷間沿いの山道に入って直ぐ・山道は正面奥に延びていくが、左手も藪下草に隠れる様に溝谷に掛かる朽ちかけの丸木橋を渡り斜面に取り付いた。自治会整備の登山道では無さそう?ですが、朽ちかけた祠を祀る曲輪?迄は続いている。二方に分かれる薄い踏み跡の何れかを追って尾根に出る。北へ下る尾根筋は直ぐ何処から何処へ通じるのか 林道が上がってきている。
中腹曲輪群南端の大堀切

南へは傾斜を強める尾根を辿ると堀切道状を進む「衣笠城址」道標を見て急斜面を過ぎると長い土橋を渡り、西下方からの 幅広い片堀切道?と合流する。登山口取付部で谷筋を直進すれば、此処へ詰め上がってくるかは わからないが?、比較的長く広い中腹部の城郭遺構を見る。 櫓台土塁状からは低い段差で二曲輪ほど・・段差不明の緩斜な平坦地形の先にも櫓台らしい土檀と堀切(幅約4m・高さ約4‐5程)記憶定かで無いが結構大規模・・緩斜面を下り・
衣笠城主尾根北曲輪:与布土の谷間を俯瞰する北端部の露岩は櫓台か?

上り直して衣笠城主郭への主尾根筋西北端の広い削平段 (此処に道標有り)に入る。西端部の数多くの大石が累積している一画がある。与布土川沿い山麓集落から山道が通じている様。虎口を兼ねた木戸番所施設でも在ったか?。段々と傾斜を増すにつれ下草・笹藪・雑木が遮る尾根筋は更に急斜となる露岩部を捲き上がると一気に 眺望が開ける露岩の展望台。眼下に与布土温泉をはじめ与布土川流域の 平野部が北に拡がる。
衣笠城主郭と3等三角点

西北方には金梨山と 其の直ぐ西には総石垣の竹田城が望まれる衣笠城主郭群の西端部。15m程先の露岩混じりの櫓台と思えるマウンド(3x6m程 )を越えると細い尾根筋を抜けて、最後の急登で三段程の小曲輪を越えると幅広い主郭に着く。曲輪内部に3等三角点(431m)石標柱が埋まるが、曲輪内に観るべき遺構は無さそうだが、北面・南面・尾根続きの東面には 7‐8mと高い切岸を落として堅固な防備としている。
主郭東端から見下ろす三重堀切

此の主郭の東側尾根に衣笠城最大の見所となる三重堀切の遺構を観る。「朝来志」に室町時代後期:天文・永禄年間(1532‐70)に松岡盛祐が居城した。西山麓の玉林寺が菩提寺で盛祐の位牌(永禄3年11月死去)や、盛祐より1年早く(永禄2年3月)死没した内室の施餓鬼料とした田地の寄進状が遺り、 出石の山名氏が竹田城の太田垣氏に属し・・天正年間秀吉の但馬攻めに落城したとある。
衣笠城主郭東面・北面切岸と三重堀切

出石は但馬守護:山名氏本拠地で此隅山城と落城後に再興を期して築かれた有子山城・出石城が在る。織田信長の天下布武の脅威には、 毛利VS織田との代理戦争と云われる野田合戦等に於いても・・権威を大きく失墜していく山名氏が、山名四天王の一:守護代の太田垣氏勢力下に身を置く主客顛倒も、生野鉱山の占有権を巡っての太田垣氏の主張は、 食指をうごかす信長の前では虚しく、結局は毛利に付き天正8年には竹田城を支配した太田垣氏は終焉を迎える。

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