京都・亀岡市 二人の反逆者 亀岡城 / 篠村八幡宮
京都・亀岡市 (五万図=京都西北部)
JR亀岡駅には40数年ぶりに寄る。山陰線じたい数年前・地区の行楽に天橋立に行く際に兵庫丹波を発って福知山経由で綾部駅を通過しただけ。亀岡駅を出て正面に見える緑の丘を目指します。
近畿の山城: 亀岡城
篠八幡宮「足利高氏旗上げの地」


この亀岡に至るコースの範囲内に二つの聖地と聖人・二人の武将に関連する地名と歴史がありました。丘一帯は天恩郷と呼ばれる大本教の聖地で、聖師(当時教主輔)出口王仁三郎が土地を買い取り整備した。福知山に生まれ大本教開祖となった出口なおの聖地が綾部市の梅松苑。大本教の神教宣布の大道場として整備された天恩郷内が明智光秀築城の亀岡城で「丹波攻略」成って後は丹波守護となった 光秀が福知山城等を改修し家臣を置く。丹波統治は「福知山音頭」に謳われる様に善政を布いていたようです。昔年の恨み:巨大な組織に勝ち目はなくとも主君に反逆・多紀:八上城の波多野氏・氷上:黒井城の赤井氏・三木城の別所氏と一時服従していたが反旗を翻し滅亡の道を進んだ領主はいたが最後・本能寺に織田信長を討った明智光秀も頼りの武将からの支援も受けられず反逆者の汚名を担った悲運な武将でした。
教学碑前から見る亀岡城本ノ丸

JR亀岡駅の次:JR馬堀駅・嵐山からの保津峡下りとトロッコ列車で人気の「トロッコかめおか」観光で知られる最寄の駅から歩くには 少し遠いが!!?篠八幡宮がある。元弘3年(1333)六波羅探題(京都)から鎌倉幕府の命を受け後醍醐天皇討伐の為に山陰道を進む足利高氏は高氏の祖:八幡太郎義家を祭神に祀る此処:篠村八幡に陣を張り、既に後醍醐天皇よりの綸旨を受け準備を整えていた高氏は此処において尊王討幕を宣言した六波羅の北条氏討伐の挙兵地。建武の中奥なり南北朝統一成った室町〜安土桃山へと将軍足利氏の時代が続く。六波羅を討ち、後醍醐天皇(尊治親王)から尊の字を賜った高(尊)氏も天皇に反旗を翻す。この時新田義貞に京都を追われた高氏は 再び篠八幡に寄り丹波石龕寺にも再度入って嫡子義詮を残して九州に逃れます。九州で体制を建て直し東上する足利氏には鎌倉幕府に・後醍醐天皇にと反逆者の汚名が付き纏います。



 亀岡城

亀岡城(亀山城,亀宝城,霞城)   荒塚山!xxxm   亀岡市古世町・荒塚町内丸

亀岡城の北側を外濠とした雑水川が東へ流れ出て、北方を東西に流れる一級河川の桂川(保津川)に合流します。西方には曽我谷川が・東には年谷川と三方を外堀とし、この両河川を結ぶ広範囲な城下の南側は地図で見ると塩屋町・京町・西堅町・東堅町・三宅町へと配置された寺院や、車で通ると良く判る細く入り組んだ迷路の様な道・街道筋の面影を残す旅篭町・塩屋町。
亀山城本ノ丸の石垣(下部2段目付近が当時のものと云われる)

呉服町の名からは城を主体として外堀等施設は城下町を取りこんで整備されてきた「惣構え」の城塞都市であった防御配置が感じられます。ブラリ散歩してみたい小路・町屋の並ぶ一角が 城址からR9号に出る途中にも見かける。亀岡城の建築遺構は諸所に 移転保存されているようだが八木城に寄った際には 千代川小学校校門となっている移築の新御殿門(長屋門)があった。多紀郡(篠山市)八上城落城後に 入った前田玄以以降…松平氏・青山氏へと藩政後の篠山城と亀山城(現:亀岡城)の藩主は、
万祥池(内掘)

領地を境した篠山⇔亀山藩主へと互いに入封される例が続く。共に徳川政権時の築城や大幅改修が大阪城に対する監視備え丹波〜山陰路の要衝監視と共通点の多いところ。 坂本城に居た光秀なら亀山城築城の石垣は穴太衆による工事が考えられるが…?本丸の石積にも穴太積ではタブー視される「八つ巻ま風のもの・重ね石・石を縦に乗せた突き石」や、万祥殿への橋下の石垣には四つ目・抱き石…」とおよそ穴太積には例の少なくタブーとされる石積のオンパレード。
万祥殿・本丸へは内掘と此の通j路に架かる橋 (右端)を渡って繋がる

明智光秀が織田信長の命による”丹波平定”を開始した天正3年(1575)京都から丹波に入る最初の丹波口・亀岡の盆地に軍事拠点を確保する為、近藤秀政の居館【荒塚城(亀山砦とも?<城史等詳細不詳 >)】を天正5年(1577)頃から、ほぼ全面的な改修に取り掛かり、村越三十郎等に普請を命じ丸岡城 (余部城)や近在の社寺を破却して用材を調達して築城され城下町も整備されます。丹波平定の拠点として・平定後は丹波国統治の拠点として明智光秀は亀山城を本居城として築き、福知山城に明智秀満・黒井城には斎藤利三・八上城に並河飛騨守、さらに周山城には明智光忠を配していた。
南郷池傍の広大な西ノ丸曲輪跡?

本能寺の変の天正10年(1582)明智光忠が亀山城主として居城していたが愛宕山での戦勝祈願のあと軍備をととのえた光秀は 6月1日夜1万3千の軍勢を率いて亀山城から出陣し老ノ坂を越え京都本能寺に向かった。本能寺の変後:光秀の死により諸城は廃城となったり、秀吉支配の城となり亀山城には天正14年(1586)羽柴秀勝(織田信長の四男)が文禄2年(1593)羽柴秀俊秀吉の養子で関が原合戦の際西軍から東軍に寝返った
同 土塁状?は城壁が廻らされていたか?

小早川秀秋で改名や別名が多い)・城代に石田三成前田玄以などが入城して光秀以後も城や城下町の整備が続けられた。天守は慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が伊予今治・伊賀・伊勢国を与えられて三重の津城に転封した際に今治城の5層天守を移したともいわれます。慶長14年(1609)亀山藩主岡部長盛が入封し篠山城と共に山陰道の要衝を抑え、大阪城の包囲網として天守・大手門・外堀等、これまでの最大規模の整備工事は天下普請として藤堂高虎の縄張りにより西国諸大名に賦役させての大改修。本丸には2重の小天守と当時としては珍しい(我が国初!!)層塔型の5重5階大天守を持つ、唐様等の破風が無い複合式の天守が上がった。長盛在封時に殆ど完了し京都に近い要地として松平、菅沼などの譜代大名が置かれ以後おおきな修造もなく明治維新を迎えます。
亀山城天守:吹田市立博物館No15 ペーパークラフト

また伊勢国亀山(三重県)と此のち亀山との混同をさけるため亀岡と改められました。明治5年 (1872)政府は城郭が反政府活動の拠点にされる事を恐れての廃城令を受け、明治11年(1878)天守閣は解体され建物の一部は払い下げられ、石垣も鉄道施設の用材となったり、京都東本願寺再建の修復資材として石垣も買い取られます。 土地は官有地となり払い下げられるが当時の亀岡町に購入する財力はなく、管理する人もなく荒れる城址大正8年(1919)宗教法人大本教(当時教団の責任・指導の位置にあった教主輔 出口王仁三郎氏によって 天守閣・二ノ丸付近が買い取られ )の所有 となった。出口王仁三郎(穴太の木幡神社を参照ください)は亀岡市の穴太寺付近の出身だったか?)昔の面影を再現しようと 築城時の残石等を使って石垣を積み直され整備されたが、
朝陽館前の道を隔てた空地の仕切りは土塁!!?

大正10年(1921)第一次大本事件(不敬罪と新聞紙法違反)・昭和10年(1935)第二次大本事件 (結社禁止命令による弾圧と徹底した施設破壊)で大きな被害を受けたが太平洋戦争後には再び同教団の所有となり、其の後再建されて現在に至っているという 。大本教開祖出口なおは福知山市に生まれ綾部市の出口家養女になり57歳の時に帰神(霊感)されたという。大本教発祥の地:綾部市に開祖の梅松苑と亀岡市に聖師 :王仁三郎氏の天恩郷という二大聖地が在ると云うことか!!。
朝陽館の玄関口の石垣:積方はともかく築城時の石材を利用か?


40数年以前:社会人になる前に精神修養のつもりで 学生時代最後の夏休みに信者ではないが修行道場のある此処天恩郷に来た事があった。参拝者駐車場の奥に道場が有るようだが、すっかり記憶からは消え 思い出せないが其の道場も老朽化・近いうちに新道場に移るようです。日課の祝詞唱和にまごついたり万祥殿(新築されて間もない頃?)の畳を乾拭きしたり、庭を掃いたり…修行最終日の午後・綾部市の梅松苑への参拝は北海道から来られた人と二人だけだったが今も大本神教宣布の聖地・聖域となっている城域は美しく保たれています。
天守台前 ・首の欠けた伊都能売観音坐像??

ただ往時の縄張りや遺構がどこまで忠実に残されているかとなると、廃城令後の処置・二度にわたる宗教弾圧のよる建造物等の破壊・教団の熱意と 努力による石垣修復や樹木を植えて現在の美しい景観が整っているが各所の曲輪配置等が何処まで忠実に再現されたかは不明。天守台付近に往時の石垣一部が残るだけ。天守台には月宮宝座や樹齢推定400年といわれ明智光秀手植えを伝える大公孫樹がある銀杏台は、聖域中でも最神聖な場所で禁足地として登拝も出来ません。此処:石段上部の両サイドや石垣上には首の無い石像が置かれていて城を訪れる人は 奇異に感じられるようだが天恩郷への西入口(外堀の南郷池)西端に懐古歌碑や教歌碑が立つ曲輪にも、壊れた石の門柱らしいものも残されており、
天恩郷西入口近くの曲輪?傍に有る壊れた石碑か門柱?

日本政府が行なってきた社寺仏閣・城址等遺産の統廃合とともに、此処には宗教弾圧の忌まわしい遺跡としても残されています。国宝とまではいかなくとも 重要文化財価値の有る遺構は国の手で壊滅された事、縄張り容は変わっても更地として消滅せず教団本部敷地内の聖地としてではあっても城址の雰囲気が残されていることには感謝ですね。
【天恩郷参拝マップ・京都新聞H7年6月28日付丹波版・大本70年史(S42年版) ウィキペディアフリー百科を参照】

篠八幡宮  亀岡市篠町篠

篠八幡宮は 御祭神に誉田別命(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を祀り、摂末社に乾疫神社・稲荷神社・祖霊社・祓戸社・小宮社四社がある。創祀は平安時代:延久3年(1071)後三條天皇の勅宣により、奥州鎮守府将軍:源頼義が河内国(羽曳野市)の応神天皇陵に 鎮座の誉田八幡宮より、 ご祭神を勧請し創建されたと伝え、部兼延が奉行を務めます。 翌・延久4年頼義により篠村庄(もとは藤原氏の荘園だった)を社領として寄進されています。
篠八幡宮

<足利高氏挙兵の地>頼義から十代末裔の足利高氏は、元弘3年(1333)4月27日篠村八幡宮一帯に陣を張り 11日間?滞在して 「軍勢催促状」の密使を、近国はもとより全国の有力武将に派遣して参軍を求めます。4月29日に社前で戦勝祈願の「願文」を奉納して旗挙げを行って以後、旧山陰街道(横にある小道)に面して一際高く聳え立つ楊の木に、足利家の「二引両」印の家紋が入った源氏の白旗を掲げて、高氏の元へ駆けつけて来る武将達に本営の所在を明らかとした(梅松論)。
「足利高氏旗あげの地」碑と八幡宮社殿

5月7日までの間に久下時重(玉巻城)を初め、 長澤・志宇知・山内・葦田・余田 ・酒井・波賀野・小山・波々伯部等が馳せ参じ、軍勢2万3千騎となり5月7日を期して京都 ・六波羅探題に北条仲時を攻め滅ぼして、建武中興の魁ともなっています。また後醍醐天皇と決別後の建武3年(1336)1月:南北朝の騒乱では一旦占拠した京都攻防戦に破れ京都を追われた時にも、 篠村八幡社に敗残の兵を集めるとともに社領を寄進し再起を祈願して九州に逃れます。
旗立楊

敗走後一ヶ月で九州全土を平定、 5月の湊川合戦に決定的な勝利を得て室町幕府開幕のきっかけを掴んだ。高氏にとって二度の重大な岐路にあたって八幡宮に祈願を込めて大願成就しており貞和5年(1349)8月高氏自身戦勝の御礼に参拝しており、其の後:歴代足利将軍家の崇敬をあつめ、多くの荘園の寄進を受け室町時代を通じて大いに繁栄します。後:応仁の乱や明智光秀の「丹波平定」による戦火により 社殿や社領の多くを失います。寛永年間(1624-44)亀山城主:菅沼定芳によって本殿改修がなされ源姓亀山城主の直轄神社として歴代藩主の井上氏・青山氏・松平氏等の手厚い庇護を受けています。篠八幡宮には足利高氏旗挙げの「願文」や「寄進状」が伝わり、
矢塚

境内には玉串に添えて高氏以下諸将の 差し出した鏑矢を奉納した矢塚、本営の所在を示すため・源氏の大白旗を掲げた楊の木旗立楊が残っています。亀山城を出陣した明智光秀も戦勝祈願して 本能寺に向ったという。楊は柳とは樹種が異なり樹命は百年程度しかない。此の楊は昭和初期:足利高氏の時代より6〜7代を経て引き継がれてきたものといわれています。現社殿は江戸時代中期:延宝5年(1677)亀山城主松平忠昭により 建造されたものが維持改修されています。
(現地:篠八幡宮の史跡説明板を参照)
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