福知山市と綾部市の狭間で! 石原(いさ)の館城と山城
福知山市 (五万図=福知山)
石原駅周辺の史跡巡り 石原城〜大師山(ヌクモ山) 2007年05月06日
近畿の山城 : 石原城(居館) ヌクモ城(i石原上城) 私市城
 高蓮寺城
石原城の空堀と土塁の「横矢掛り」

山陰線の福知山駅と綾部駅の丁度中間点に石原 (いさ)駅が有って、 丹波市から綾部の親戚に行く時は大概・福知山市六人部(むとべ)に出て、暫くR9号を走り長田野工業団地から舞鶴自動車道沿いに下ってくると、左手高台に府立工業高等学校を見て府道 8号線の丁字辻に降りてくると 府道の北側に石原駅が見える。北方1.5kmには東西に由良川が流れ、福知山市〜綾部市を繋ぐ其の中間点にあり、丹波市や京都・亀岡方面からR9号線を経由すれば此処に合流する街道の要衝ともなっています。 だいぶ以前に此の直ぐ近くに 八幡山城(高津城)や甲ヶ岳城(鴻ヶ嶽城)が有り寄った事があり、この辺りは福知山市か綾部市かと迷う前に旧何鹿(いかるが)郡との意識が強い・・(^_-)-☆
工業高校門側への東面段差:曲輪が続いていたと思える!!

何鹿(いかるが)郡=綾部市と思っていたが 地図では確り福知山市ですね。いつも通り過ぎるだけだった石原にも城館が有り、市の文化財史跡から漏れているのが?疑問にさえ思える程に其の土塁と空掘遺構や、城主についても古文書・古城の絵地図等が 残されている事が判り出かけてみた。訪城した三ヶ月後の2007年8月10日付両丹日日新聞によると、福知山市文化財史跡に指定されました。



石原城ヌクモ城(石原上城) 私市城 高蓮寺城


石原城(居館)とヌクモ城(上城)
石原城(洞玄寺城)  xxxxx 43m   福知山市石原1256  洞玄寺

R9号線長田野工業団地から舞鶴自動車道の高架を抜け、府道8号線石原駅に下りてくる直前:左手の分岐する地区内の 道路沿いに府立工業高等学校と洞玄寺が並んで建つ台地がある。何度も通っていながら特に注意して見ていたわけではなかったのですが、長田野丘陵から北方の平野町〜石原へと 緩やかに延び出す段丘の北先端部・府立工業高校建設等で大きく改変されている様ですが、
石原城址(洞玄寺):府道側北東角

府道に接する付近一帯・洞源寺の建つ(主郭部と思われる!!?)位置は、南側を除き三方が比高10m程の 高く急な段丘崖を呈しています。丘陵続きの南側には東端から西側へと深さ約1m・幅約3m程の空堀廻る。寺側には高い土塁が(1.5〜3m)が築かれています。其処が石原城跡と最近:福知山市文化財調査報告書を閲覧する 機会を得てわかってきた。空堀と土塁を廻らせた「お土居」内に在る石原城 (居館)に比定されるのが金光山洞玄寺(曹洞宗)です。
洞玄寺の牡丹園

牡丹寺として親しまれ、詩歌の会でも催されているのか境内のお堂には参詣者の「ぼたん」を大題にした句が掲げてあった。訪れた時は僅か数日遅かった様ですが、 境内の牡丹園には夏日の陽気の下に赤や白の大輪を躍らせています・・・少し元気は無いが(^^ゞ。 此の洞玄寺の南側から西面にかけては空堀が廻りますが、工業高校のグラウンド側とは高低差無しで隣接しているので、東側の急斜な高い段差を切岸とした曲輪が土塁等遺構を伴って、 いくつか区画された城域だったと思われますが、

石原城大手虎口の堀と大土塁


学校施設の建設整備拡張工事で大きく改変されていて現状から推測は出来ません。調査報告書第46集には「源家大槻安藝守隠居城トシテ築之縄張之図面也」とした文化年間 (1804-18)作成の古城址見取図絵巻が載せて有るが、寺域南側の空堀外(高校側)が記されていません。 もちろん・今も道路拡張や周囲の宅地開発が続き、往時の地形や様子を想像も出来ないが、東の低丘陵側へも曲輪を連ねて大谷川へ続き、此れを堀として現在の遷喬小学校へ。
秋葉社から[詰城]のヌクモ城を望む

更に東に延びる低丘陵の大師山(ヌクモ山)への尾根筋にも曲輪を連ねて、石原上城 (石原城の詰め城としてヌクモ城)が描かれています。洞玄寺境内の秋葉宮から山城のヌクモ城(石原上城)を望みながらトレースは後程として、居館の石原城に戻ります。ただ調査報告書にもヌクモ城についての記述は、古墳発掘調査で1号・2号墳のマウンドから中世の掘立て柱の建物跡が検出されたことで「古城址見取図絵巻」との信憑性を高めて、 城との関連遺構と推定されてはいますが、石原城との同期性について追求されていません。さすがに!慎重ですね。
石原城東面を地区道から見上げる

絵図にあるように初めに山城有り,後に大槻安藝守の隠居城として石原城が築かれたとしても遺構の大きな差異に疑問は感じます。 「丹波志」による古城の部には大槻氏の古城があり、四面に沢堀有り今は洞玄寺境内であること、スクモ山の頂に地所が有って上城と云い、古城主を大槻安藝守政治としています。 北参道石段下に「洞玄寺誌」の石碑があり、洞玄寺が石原城主:大槻安芸守政治の城跡に桃山時代:天正15年 (1587)に創建され、城主の戒名:霊雲院殿幽嶽洞玄大居士・奥方の戒名:金光院殿禅林妙現大姉とあり、金光山洞玄寺の寺郭を主郭とした城遺構は、南から北に延び出す低丘陵上野北末端部は、 府道8号(福知山綾部線)・由良川に臨んで高い断崖状の高台にあり、南・東・西の三方を土塁(一部欠損?しているが、高さ4〜5m)と空掘(幅約5〜7m)で囲われた遺構が残されています。
南面:一品神社をコの字に囲む「横矢掛りは自然地形か?

天文年間(1532-55)安芸国(広島県西部)から大槻安芸守光頼(辰高?)が来住して館と城を築き、やがて隠居して法名「洞玄」を名乗り草庵を営んだが弘治元年(1555)逝去後は廃墟となっていた。 城主:安芸守政治の弟:与門尉友高?が石原の僧:華翁栄公和尚を開基として創建し、安芸守の法名から洞玄寺と呼称したと丹波志・福知山市史・寺縁起書等には記されています。突然の様に移封された城史としての経緯が判りませんが、奥丹波には塩見姓・大槻姓が多い。しかも東へ約3km(綾部市)には 高津城(八幡山城)があり、瑞亀山・隠龍寺(曹洞宗 綾部西国第 11番)には大槻氏の先祖大槻(安芸守)長高が祀られています。八幡山城は高津八幡宮南東の標高150mの山頂にあって、
洞玄寺境内西:空堀延長上に有る土塁の残欠

戦国時代・丹波何鹿(いかるが)郡の土豪:大槻氏の居城であり、築城時期は貞和5年(正平4年1349)という。 何鹿郡内の石原山城のスクモ城は高津城の西口を守備する支城として、既に存在していたとも思えてきます。 安芸国から来住して突然領主として治まった?大槻安芸守と土豪として先住の大槻安芸守の関係は・・?。領地について小競り合いは無かったのか? 高津城が大槻氏の本拠城かは分かりませんが、 土豪:大槻氏一族の安芸守を称する政治が石原城に移ったと考える方が妥当かと・・・?(^^ゞ
石原城南西面:南面中央に突き出して「横矢掛り」がみられる

丹波市(旧氷上郡)にも天文年間に突然現れて城を築いた、波多野氏がいて多紀郡(篠山市) 八上城の波多野氏に対し、西の波多野と呼ばれた 霧山城主:波多野宗高がいて同様、此処に領地を得て城まで築いた経緯は伝承のみで謎です。安芸守政治が安芸国からの来住かどうかは別として、周辺が大きく改変され整地されていくなか、 空堀を廻らし高い土塁で防備する縄張りを良好に残す石原城は、辛うじて寺域として残された福知山市の数少ない中世城館遺構だけに、今後も環境保全に留意し保存維持して欲しいものです。
(福知山市文化財調査報告書第46集・第49集等資料を参照)
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ヌクモ城(石原上城・石原古城・腰越城)    大師山(ヌクモ山) Ca140m   福知山市石原

「古城址見取図絵巻」には居館の石原城から東へ曲輪が延びて、 石原上城に比定される東側の丘陵:ヌクモ山への尾根上には、点々と小曲輪(古墳のマウンドか、 巡視路による整地?かも知れない)を連ねてヌクモ城が築かれています。R9号線長田野団地から石原へ降ってくると、舞鶴自動車道がヌクモ山の南側中腹を捲いて北に向かっていきます。
ヌクモ城への西取付:真下に川筋を見る崖状から・・。朽ちた橋も有るが!!?

登城口が見つからなければ自動車道高架下の山麓北側を縫う様に進む地道があり、溜め池も有るので ・其の辺りからと考えていたが、洞玄寺へ参詣に来られた地元の方に尋ねると、ミニ霊場巡りの山道が小学校近くに建つ3〜4軒の新しい住宅地から続いているという。
2〜3箇所で見かける土橋状の尾根道

府道の南側にほぼ平行に走る地道が洞玄寺北参道を下った処から真直ぐ東に伸びている。 大谷川向かいに遷喬小学校があり、川向の新興住宅地に新しい家が建っているので、川沿いに進みながら橋を渡り山に入っていく道が見えるのでグラウンド横を丘陵先端部に向かった。 (ホントの道は小学校を右に見て直進・車道の橋を渡って道路拡張工事中?の先にある妙見宮からだが、 ヌクモ城訪城は逆走して此処に降りてきた)平凡な谷川と思っていたが丘陵の尾根西端付近は7〜8mの断崖となり、其の岸に境界標柱が打ち込まれている。当初予定の地道へは朽ちかけた木が渡された鉄梯子が残っていたが、 最近通った形跡は勿論無い・・・(^^ゞ
主郭北端と一段下の曲輪と虎口部!!?

山道は南へ捲いて降る様だったので踏み跡を辿って尾根筋をトレースすることにしたが、直ぐ階段もある山道となった。尾根通しに長田野線の送電線巡視路でNo.38鉄塔に着く。曲輪とも思える平坦地は有ったが周辺には古墳も分布している様で、其れと意識出切る遺構は無かった。広く削平されている鉄塔No 37も同様で5〜6m上部の尾根も広くは無く急斜面の上下も無い。石仏が現れたかと思うと一折れして広く長い平坦地に出た。
主郭南端部の霊場観音と石仏

此処が大師山でヌクモ城の主郭部なのでしょう。北端しに一段低い曲輪があり其の西角部が凹角に開けている。 主郭に入る平入り虎口?らしい。其の虎口を抜けると尾根北端に伐採されている為 :突然展望の良い場所に出る。 鉄塔No38が建ち・尾根中央が巡礼道か、大師像と並ぶ観音霊場巡りの石仏が祀られています。
主郭部北の曲輪から位田城・栗城・甲ヶ岳(鴻ヶ嶽城)を望む

左右に盛り上りを見せる平坦地が発掘調査された古墳のマウンドなのでしょうか?。此処からの展望は良く、由良川沿い東に位田城 ・栗城や甲ヶ岳(鴻ヶ嶽城)を望みます。 少し下った巡視路との分岐からは北正面に私市丸山古墳が西下方には石原城の城域全体が見渡せます。 中世の堀立て柱建造物の跡が検出されているので街道筋・由良川沿いの監視の物見小屋や、櫓台が建っていたのでしょう。

主郭帯曲輪下方の二重堀切(外側の堀切と土塁)


三段ばかりの曲輪が並ぶ主郭から東へ延びる尾根に向かって降り始めると、 最高所と中曲輪にかけて2〜3m程の狭幅の帯曲輪が走り、斜面下の狭い鞍部に二重堀切が有ります。 此れが城域を分けているのかと思ったが堀切を越え斜面を登った先の頂部に平坦地、其の先に尾根を降り始めると土橋付きの堀切状が有った。
二重堀切の先:平坦地を越えた下方に土橋付堀切?

ヌクモ城のレポートはWeb上での紹介例は無さそうで、 当概文化財調査報告書にも文化年間の「古城址見取図絵巻」に信憑性が高い旨の記載はあるだけ。 見取図の曲輪群を地形図に合わせた推定配置図も、主郭部で既に送電線鉄塔と外れているが、確かに二本の堀切があった。しかも隣接した二重堀切です。素人判断での此れ以上の詳細報告は避けておきましょう。
最高所にある広い主郭部

主郭部北の鉄塔No36からはミニ霊場巡りの大師道を下り「妙見宮」の社に着く。 手摺り付きの急斜な石段を降り遷喬小学校北側の車道(拡張工事中?)に出て大谷川を渡り返して洞玄寺に戻った。 大谷川に架かる橋名は市場大橋。嘗ての街道筋は府道の南・山裾のこの道だったか、市が立ち物流や通行に税を徴収したものか・・・!!
主郭部東の細長い帯曲輪・この下方に堀切

ヌクモ城と石原城は其の城下・市場警護の機能も備えたものか。大槻安藝守政治前後の石原城とヌクモ城の城史や、 周辺の城との関連や城下の変遷等は、教育委員会の調査や熱心な地元郷土史研究家の報告を待ち、ヌクモ城についても陽の当たる日が近いことを期待したいところです。石原古城・腰越城とも呼ばれるようで、城名には追加した。


私市城
  xxxxx 71m   福知山市私市

府道74号線が舞鶴自動車道の高架を潜るところに 私市丸山古墳公園が有る。古墳へは何度か訪れ墳丘上からの展望を楽しんだが、 今回は丸山古墳の北方にある点標名:西四文字山171mピークから北西方へ延びる丘陵が佐須我(賀)神社東側に貯水池に其の末端を落とす尾根筋にある私市城跡の探訪です。 観音寺〜鬼ヶ城と報恩寺城を訪ね、 東に約1.2km程の地点にある私市城へと府道74号線に戻る手前の分岐を左折して私市集落へ向う。
福知山市側:郵便局横の坂を上る

狭い車道(府道私市大江線)に駐車スペースも見い出せず・・・(^^ゞ
福知山市から綾部市の市境界を越えて府道74号線と合流して、直ぐ先の古墳公園駐車場に入れて、私市集落へ引き返すことにした。此の私市地区が福知山市か綾部市なのかよくは判らず !!私市丸山古墳は綾部市に私市城は住所が示す福知山市として石原城と同じく、 綾部市と福知山市の一部がふくまれていた嘗ての何鹿(いかるが)郡に在って此のページに含めておきます。

福知山市・綾部市境界標識を福知山市側に入って直ぐ私市地区の中程にある郵便局東北横からの坂を登始めます。嶺松山:長圓寺(曹洞宗で大志万家の菩提寺)の北方へ廻り、集落内を西へと地区道・宅地に平行して森が見える。 地区道を西に抜けると田圃が広がっており、見覚えの式内社佐須我(賀)神社に着く。先の報恩寺側からは佐須我神社(地図等では佐須賀神社と記載あり)が高台に建つ居館を想わせます。
佐須我(賀)神社側から私市城全景

城域の西麓には宮内殿・殿村・大門の地名が有るといい、 やはり居館跡か荘園(六人部(むとべ)新荘)管理・監守等の任にあたった建物が在ったと考えられます。 報恩寺城にも記した古書「佐賀村社寺旧跡史考(明治42年:古来の伝承・資料をまとめたもの)」によると、城主は永享年間(1429-41)大志万宮内大輔が 私市・戸田・大志万・友淵・淵垣等の数ヶ村を領して近郷に勢力を張っおり、天文-文禄年間(1532-96):には大志万長秀がいたという。福知山市史の資料編【「大志万家文書」による大志万一族知行目録写(天文19年 1550)】によっても伝承がある程度・裏付けできるとされています。 天正・文禄の頃?【黒井城は天正7年落城・赤井氏は室町時代末期には氷上 ・天田・何鹿三郡を領しており、元亀元年(1570)荻野(赤井)直正は上洛して織田信長に服命したことで、此の三郡の所領を安堵されています。
西郭と主郭を区分する堀切と西郭東縁の土塁

翌・元亀2年但馬の山名氏を侵攻し、信長が明智光秀に丹波黒井城攻略を命じ、 奥丹波:黒井城落城への戦いが展開されることになります】と記されているが、大志万氏は氷上郡黒井城:赤井悪右ヱ門尉直正の攻撃を受けて滅亡し、遺族は尽く帰農(民家に落ちる)したと口碑に残る ・・・と云う。この地に来住してきたと考えられる大志万氏と其の祖について、 近在の位田城に氷上郡の荻野氏が位田氏や須知氏等が籠もって、管領:細川政元や守護代:上原氏に抵抗した 「位田の乱」には、どの様な関わりが有ったか?
主郭付属の曲輪西側・堀切を見下ろす位置に祀られる一石五輪塔

其の後の大志万氏の動向や、氷上・何鹿・天田を領した荻野氏が大志万氏を攻め落とした後、誰を城主として入れ続いたのか ・・・そのまま廃城となったのか? 期待をもって歴史・古書調査を専門家にお任せしておきましょう。大江町や天田郡等が編入され地域拡大された「新福知山市史」が編纂されれば、旧福知山市は勿論多くの埋もれた古城の歴史が浮かび上がってくることでしょう。さて:南側民家から直接取り付く地点が判らない為、 西端の佐須我(賀)神社まで来てしまったが、初めから判っていれば、わざわざ側を通り過ぎて古墳公園まで行く必要など無かったのに・・・(^^ゞ 佐須賀神社の東側から上部の貯水池へ廻り堤防を伝って丘陵部に入る。
私市城主郭中央部:低い台状は矢倉台跡か?

神社の東・私市地区背山の低丘陵部(標高71m・比高32m)の尾根上に、東西140m・南北に約30mを城域とする私市城がありました。中央部に主曲輪(東西に約25m・南北で約18m)を置き、私市集落の墓地となっている東曲輪と、 佐須我(賀)神社側の池へ降りる尾根末端の西曲輪へと、堀底部約2m・深さ約3mの二つの堀切が主郭を区切って、連郭式に三っつの曲輪群が形成されて、丘陵尾根筋を東から北西方に並びます。 集落墓地となっている東曲輪の遺構は壊されている様ですが、細く急斜でもない墓参道は直ぐ民家前に出る。写真で見る長圓寺も居館跡の佇まいをしているので、墓地となっている曲輪へ通じる道が大手なのかも知れません。東曲輪と主曲輪の間は堀切、其の主郭東端には上辺2m・高さ1mの土塁が築造されていて、 此の曲輪の西北方の中央部付近には高さ60cm程・広さ4uで盛土されていて矢倉台らしい。其の西側に1m程低い段差で長さ15m程の曲輪が付属しており、曲輪の西縁は堀切で仕切られています。
私市城東曲輪から堀切と土塁付主曲輪の切岸

此の主郭に付属する曲輪には桃山時代末期:慶長15年 (1610)銘記の小さな一石五輪塔が二基、石造り厨子の中に納められていて、其の廻りにも数多くの小さな石仏群が、厨子を護ってか・陣を組んでの作戦会議中なのか !!?並んで祀られています。丘陵尾根西端部の曲輪もまた、堀切側の東縁には上辺1m・高さ1m程の土塁が設けられており、西北方に一段低く付属の削平されているが緩斜面の曲輪(約20m)が続くが、 曲輪の先も池に降りるまで左程急斜面でもなく城の防備施設等の遺構はなく緩衝地の様です?
(福知山市史 を参照)


高蓮寺城
  高龍寺山(高蓮寺山・高林寺山 ) 195m    福知山市川北・私市・報恩寺

福知山市字戸田の北方、由良川を隔てて川北・私市・報恩寺にまたがる標高195m(比高160m)の高龍寺山の最高所に主郭を置く高連寺城が在りました。 南東の私市では高蓮寺山・北東の報恩寺では高龍寺山・西麓の川北では高林寺山と呼ばれ明治の頃まで高林寺 (廃寺)が在ったと云われています!!。府道8号から由良川に架かる戸田橋を渡って府道74号線に入るが、高龍寺山への取付き地点を決めかねて《谷間を杣道が通じているらしが・・》、大江町へ抜ける道 ・観音寺から鬼ヶ城へ向かう492号線を報恩寺地区に入る。
高蓮寺城東端の堀切

今日は逆に位田城・一尾城に立ち寄った後、戸田橋を渡って石原 (いさ)からR9号に出て帰るだけ。・・・なので府道74号から492号線に入って私市城前を通り、西に高龍寺山頂部を望みながら報恩寺地区に入る。 此処は”報恩寺(ほおじ)のタケノコ”で有名なところなので、此の時期(3月末)集落端の一角 :竹林の中にある報恩寺城を再訪するには気が惹ける。しかし報恩寺城の手前南西の谷間の奥に、周辺の丘陵を抑えて聳え立つ高龍寺山が、福知山市史や遺跡分布図にも記載されていて、気にはなっていた。
三の丸?(帯曲輪)に向う東南の虎口状凹部を入る

しかし登山対象としては藪山のうえ、 谷や尾根続きの峰を繋ぐ縦走の楽しみも無さそうだと登頂を延ばしていた。時間の余裕は有るが訪城4城目なので、デジカメの画像容量の余力も無さそうなので、取付き探しとロケハンの心算で、よく利用する報恩寺公民館前から南下して、相長川<此処に架かる相良橋>を渡らす、山麓に向かう農道を進む。 後で気付いたが川の手前(北すぐ前方)には南部公民館があり駐車スペースも有った。
三の丸から主郭に<切岸6〜7m>

公民館・バス停のところには板碑と墓碑が祀ってある。板碑には「桶伏・・・」の刑により、時の福知山藩主に処刑された庄屋夫婦?だったかの由緒が書かれている。 人目に晒されながら死に至るまで放置される苦しい刑。苦境に喘ぐ民衆の代表として直訴、直訴の内容が叶っても・叶わなくても訴訟したものは死罪となった、各地に多く残る藩政時代の話の様だが、石碑をよく読んでいないので、期をみて此処か別項にでも経緯・内容を紹介できれば載せたいと思います。 また地形図の山名が高龍寺山なのに山城は高蓮寺城と呼ばれ・・?
主郭内の空掘

何故違うの詳細を知りませんが・・・?、昔:高蓮寺という寺が有ったというが遺構は残っていない?・・・と云われます。しかし山頂部に主郭を置く高蓮寺城の城遺構は市史等には東西約180m ・南北に約40mの城域に、曲輪9〜10を数え福知山地方(旧福知山市)では比較的規模が大きく、 代表的な中世山城であると紹介されています。北尾根を踏み跡伝い・緩斜面から山頂も近くなる急斜面に瘤(土塁だった!)を越えると堀切があり、此の東端の土塁・堀切から西端の空掘・大土塁まで、 間を空けず並ぶ梯郭式山城です。
三の丸(帯曲輪)から主郭と副郭(二ノ丸)間の空掘

始に現れた高い(7〜8m程)切岸から、広い曲輪に出る。大手道と思われる南方<縄張り図には此処に至る南へ延びる尾根先にも物見と思える出曲輪跡が有る>からは・此の曲輪に乗り、 虎口状の斜上する凹部を抜けると、更に6m程の切岸を見て大きな帯曲輪に入る。最高地点の主郭とは土橋付空掘で繋ぐ、西側の二ノ丸曲輪をも高さ3〜5mの段差で、馬蹄状の大堀切(二ノ丸の曲輪端から堀底まで約 12m程!!の高低差を持つ)が、西面を除く三方を、幅15m程の帯曲輪で囲い込んでいます。 主郭部(25mX20m程)には曲輪を東西に二分する様な深さ・幅ともに1.5m程の空掘りが有り、下段帯曲輪から主郭に入る虎口・通路とも推察されているようです!!。
高蓮寺城西連郭部(高低差のある切岸下部堀切!!は空掘だった↓)
<更に浅い空掘先の土塁が城域西末端部?>

主郭から西に向う此処の曲輪群の遺構の残存状態は、驚くほどに良好で切岸は高く、曲輪毎に現れる堀切や空掘は、 小曲輪ほどに分厚い土塁で区切られ整然と続く。城史詳細は不明ですが、「丹波志」に大坂の陣(?大坂城の冬・夏の陣は1614〜15年なので、堺に起きた大内氏の応永の乱1399年等を指すものか ?)後に内田河内守が来住し、寺の在った高隆寺ヶ岳に城を構えたと伝えられます。内田氏は 雀部荘の荘園関係文書に散見される名で、中世末には在地土豪としての勢力を持っていたと思われますが、曲輪ごとに6〜10mの高い切岸や深く大きな堀切・竪堀・空掘・・・これらの技巧を伴う縄張りと土木工事に、 内田氏が築いた城とするには疑問が残り、築城年代にしても・猪崎城や新庄城等に較べて遺構はやゝ古風なものと思われるようです。
上記画像の南部分:空掘両端は土橋と竪堀

立地条件や其の規模・様式から推定して、延徳〜明応年間(1489〜93)に起こった奥丹波の国人衆による一揆 「位田の乱」の際、守護:細川政元・守護代 :上原元秀(物部城主)方の陣城となったのかも!!更に位田の乱が終結し、上原氏壊滅!!後は塩見氏勢力下に使用されたものだろうか? 城主・築城時期等城史は不明ですが、 文化年間に描かれた「古城址見取図絵巻」の高蓮寺城図が遺構の現状と非常に近似しており、城図の信憑性と残存状態の良さを今に伝えます。
(福知山市史 何鹿郡誌 ・天田郡誌等を参照)

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