| 福知山市と綾部市の狭間で! 石原(いさ)の館城と山城 |
らは北正面に私市丸山古墳が西下方には石原城の城域全体が見渡せます。中世の堀立て柱建造物の跡が検出されているので街道筋・由良川沿いの監視の物見小屋や、櫓台が建っていたのでしょう。
望を楽しんだが、今回は丸山古墳の北方にある点標名:西四文字山171mピークから北西方へ延びる丘陵が佐須我(賀)神社東側に貯水池に其の末端を落とす尾根筋にある私市城跡の探訪です。
先の観音寺〜鬼ヶ城と報恩寺城を訪ねて、
東に約1.2km程の地点にある私市城へと府道74号線に戻る手前の分岐を左折して私市集落へ向う。
ある郵便局東北横からの坂を登始めます。
嶺松山:長圓寺(曹洞宗で大志万家の菩提寺)の北方へ廻り、集落内を西へと地区道・宅地に平行して森が見える。地区道を西に抜けると田圃が広がっており、見覚えの式内社佐須我(賀)神社に着く。
先の報恩寺側からは佐須我神社(地図等では佐須賀神社と記載あり)が高台に建つ居館を想わせます。
・裏付けできるとされています。天正・文禄の頃?【黒井城は天正7年落城
・赤井氏は室町時代末期には氷上・天田・何鹿三郡を領しており、元亀元年(1570)荻野(赤井)直正は上洛して織田信長に服命したことで、此の三郡の所領を安堵されています。
・・・と云う。この地に来住してきたと考えられる大志万氏と其の祖について、近在の位田城に氷上郡の荻野氏が位田氏や須知氏等が籠もって、
管領:細川政元や守護代:上原氏に抵抗した「位田の乱」には、
どの様な関わりが有ったか?
ば、
わざわざ側を通り過ぎて古墳公園まで行く必要など無かったのに ・・・(^^ゞ 佐須賀神社の東側から上部の貯水池へ廻り堤防を伝って丘陵部に入る。
東曲輪と主曲輪の間は堀切、
其の主郭東端には上辺2m・高さ1mの土塁が築造されていて、此の曲輪の西北方の中央部付近には高さ60cm程・広さ4uで盛土されていて矢倉台らしい。其の西側に1m程低い段差で長さ15m程の曲輪が付属しており、
曲輪の西縁は堀切で仕切られています。
の頃まで高林寺(廃寺)が在ったと云われています!!。府道8号から由良川に架かる戸田橋を渡って府道74号線に入るが、高龍寺山への取付き地点を決めかねて
《谷間を杣道が通じているらしが・・》、大江町へ抜ける道・観音寺から鬼ヶ城へ向かう492号線を報恩寺地区に入る。今日は逆に位田城・一尾城に立ち寄った後、戸田橋を渡って石原 (いさ)からR9号に出て帰るだけ。
するには気が惹ける。しかし報恩寺城の手前南西の谷間の奥に、周辺の丘陵を抑えて聳え立つ高龍寺山が、福知山市史や遺跡分布図にも記載されていて、気にはなっていた。
しかし登山対象としては藪山のうえ、谷や尾根続きの峰を繋ぐ縦走の楽しみも無さそうだと登頂を延ばしていた。
とロケハンの心算で、よく利用する報恩寺公民館前から南下して、相長川<此処に架かる相良橋>を渡らす、山麓に向かう農道を進む。
後で気付いたが川の手前(北すぐ前方)には南部公民館があり駐車スペースも有った。
夫婦?だったかの由緒が書かれている。人目に晒されながら死に至るまで放置される苦しい刑。苦境に喘ぐ民衆の代表として直訴、
直訴の内容が叶っても・叶わなくても訴訟したものは死罪となった、各地に多く残る藩政時代の話の様だが、
何故違うの詳細を知りませんが・・・?、昔:高蓮寺という寺が有ったというが遺構は残っていない?・・・と云われます。
しかし山頂部に主郭を置く高蓮寺城の城遺構は市史等には東西約180m・南北に約40mの城域に、曲輪9〜10を数え福知山地方(旧福知山市)では比較的規模が大きく、代表的な中世山城であると紹介されています。
から西端の空掘
・大土塁まで、 間を空けず並ぶ梯郭式山城です。始に現れた高い(7〜8m程)切岸から、広い曲輪に出る。大手道と思われる南方<縄張り図には此処に至る南へ延びる尾根先にも物見と思える出曲輪跡が有る>からは
・此の曲輪に乗り、虎口状の斜上する凹部を抜けると、更に6m程の切岸を見て大きな帯曲輪に入る。
ものか?)後に内田河内守が来住し、
寺の在った高隆寺ヶ岳に城を構えたと伝えられます。内田氏は雀部荘の荘園関係文書に散見される名で、中世末には在地土豪としての勢力を持っていたと思われますが、曲輪ごとに6〜10mの高い切岸や深く大きな堀切・竪堀
・空掘・・・これらの技巧を伴う縄張りと土木工事に、内田氏が築いた城とするには疑問が残り、築城年代にしても・猪崎城や新庄城等に較べて遺構はやゝ古風なものと思われるようです。| 別冊 |
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