綾部市創造の森の山城 私市丸山古墳と四文字山城 ・小貝城・石原城 他
京都:綾部市(五万図=福知山)
近畿の山城:四文字山城  小貝城  石原城 石原居館(未訪)
    私市丸山古墳公園


舞鶴若狭 自動車道の福知山インターを過ぎると石原(いさ)トンネルを抜けて由良川を渡る。その前方:私市丸山トンネルの上方に ドーム状の建造物?が見えてきますが、由良川流域では最大?の円墳私市丸山古墳です。
私市丸山古墳:「造り出し」部から 墳頂部を望む

中国自動車道が抜ける三木市の有安古墳が、N.T.Pトンネル工法により破壊を免れ保存されているが自動車道建設計画で発掘された丸山古墳も・その保存のためトンネル工事の工法が切り土からトンネルへと設計変更されたといいます。丸山古墳の在る綾部市私市町は西隣の福知山市私市と境する位置にあり、以前は何鹿(いかるが)郡【綾部市と福知山市の一部】だったところ。何鹿郡にあって一時期は丹波守護代ともなった物部城主上原氏関連の城か?、由良川を挟んで一大勢力を持っていた国人領主:大槻氏傘下にあったか城なのか?、未だ資料も無く不詳ですが、近在に点在の幾つかの城を訪ねてみます。
石原城:主郭の大土塁 (北西コーナー部は幅広く櫓台跡か?)

紹介予定の石原城は福知山市側の石原(いさ)城からは、直線距離で約3km程北東・私市丸山古墳からは東へ 直線距離で約1km東に位置する石原(いしはら)町に在る石原城の事。兵庫丹波〜京都丹波へ・更に此処から大江町・丹後宮津へ、また舞鶴・田辺へ通じる街道筋に展開する中世の勢力図や、地元にも存在が余り知られていない 小さな城の変遷等は、余程の資料・情報が無ければ推察すら無理っぽい。



 四文字山城 小貝城 石原城 

四文字山城  西四文字山(4等 171m)   私市町東四文字山・西四文字山・桜谷

舞鶴・若狭自動車道の福知山ICを降りるかR9号線六人部(むとべ)から舞鶴・若狭自動車道の高架沿いにJR 石原駅前に出て府道8号を綾部市に向かい、高架を潜る辺りで北方を見ると舞鶴・若狭自動車道の私市丸山トンネルの上部:丘陵の頂部が半円状となった山肌を見せているところがある。
私市丸山古墳公園から望む西四文字山(中央)

自動車道建設工事に伴う事前調査により、昭和63年(1988)発見された私市丸山古墳は祭祀場としての方形 ”造り出し”を持つ全長80m・高さ10mという前方後円墳を含めても・京都府下最大級の円墳と云われ翌:昭和 64年には国指定史跡となっています。福知山市と綾部市の境界近くにあって丘陵からは由良川を見下ろし、西に福知山・東に綾部の両市を眺望出来る、城砦としても絶好の位置に在ります。
尾根筋に最初に現れた曲輪!!?

福知山・綾部の 両市民ならずとも!!知らない人はいない?有名な丸山古墳から北に延びる丘陵尾根上に、中世山城が在ることを知る人…??また訪れた人は?稀有な四文字山城へ、此の丸山古墳を北側に回り込んで尾根筋を外さないように、微かな踏み跡を辿って向かう。
堀切手前(東)の広い三段曲輪

この日:麓で周辺に”熊出没”の話を聞いたばかりだった。今年(2010)は例年にない記録的な猛暑が続き、危機的な食糧不足で 頻繁に里まで降りてくる熊の目撃情報も多くなった。”止め山”で入山出来なくなる松茸山を回避しての山城回峰に ・また一つ難題が出来た・・・。食糧難と・冷え込みが遅れると冬眠時期も先延ばし‥!!?。しかも松茸山が解禁になると同時に今度は狩猟期で登山・山城巡りの絶好の時期を忍耐しなければならないとは ・・口惜しいですね。
西四文字山:山頂の主曲輪

に向かい薮っぽい斜面を登り尾根筋が明確になる最初の平坦地形、 段差は高くないが尾根先三方の岸を切った小曲輪(5x7m程)がある。然程急でもない斜面の先で南下へ落ちる竪堀?状を見て、今度は段差の小さな三段曲輪(約幅12mX40m)が続く。少し降った所で小さな堀切(幅・高さ共2m程)を見る。此処から西四文字山(4等三角点 171m)の主曲輪にかけては尾根筋から南西の斜面に5段程の曲輪・帯曲輪を見る。長いもので20m程だが幅は3〜5m程。此の尾根筋の曲輪を過ぎると点標石柱が埋まる西四文字山の山頂。
四文字山城北西末端部の帯曲輪

主曲輪(15X35m程)と低い段差で副曲輪が二段(併せて15X35m程)で続く。此の下に副曲輪の尾根先三方を囲む帯曲輪があり、下降する尾根先に一本の短く浅い竪堀?状を見る。幅10〜15m程の尾根筋に土塁や切岸を持たない曲輪を単純に並べ、僅かに小さな一本の堀切を見るだけだが、堀切と主曲輪間の南斜面に幅狭ながら並ぶ段曲輪が簡素な城域の遺構に花を添えてくれる。主郭の先を進めば福知山・綾部市境の尾根ピーク。中世後期の勢力を持った国人領主の城砦遺構が存在する可能性は?改修されていない状態の山城遺構状況からみて期待薄。城主等城史は皆無・不明の四文字山城は此処までと私市丸山古墳へと引き揚げた。
唯一明確な城遺構の堀切なのに・・・(-_-;)

墳頂部からは由良川の流れ、綾部市のランドマーク・四つ尾山、高津町付近の城砦群(鴻ヶ嶽城…高岳城・高津城・将監城・段山城・・等)が存在する山蔭を望み暫し休憩。それにしても帰宅して・またもTVでは熊出没のニュース…!!.。ただただ…”熊は臆病な動物”の定説が覆される事がないように…を祈るばかりですネ(ノ∀`)
(綾部市遺跡地図 1998.3市教育委員会 を参照)

小貝城   小貝山・城山(4等 116m)   綾部市小貝町城山・岩ケ端

福知山市から由良川沿いに走る府道 74号線が舞鶴若狭自動車道の、高架を潜ったところが私市丸山古墳 公園の入口。100m先には何時もガランとしているので広々といた公園駐車場がある。四文字山城から古墳公園に戻り、府道74号線を東へ約1kmで、 由良川に流れ出る犀川の河口部に位置して小貝町がある。丸山古墳からは東正面間近・小貝の集落が背にする半独立の低丘陵が犀川の河口部に先端を落とす。
丸山古墳の”造り出し”から小貝城(最高所)を望む

この丘陵頂部に城郭遺構を遺す小貝(おがい)城が在りました。城史詳細は不詳ですが、室町末期:川北石見守が居城したという。此処までの経緯は一切不明だが天正年間(1573-92)に落城したといい、氷上郡黒井城主:赤井直正が天田郡・何鹿郡をも領していた頃で、其の傘下に加わり明智光秀の”丹波攻略”に抗して陥落したものか?。犀川に架かる橋の「西詰め」で分岐する府道は、橋を渡ると綾部市街地に向かう。 犀川沿いに北上する府道489号線に入ると石原町。
三ノ丸とニノ丸間の空堀に架かる危険な朽ちた橋

小西町・鍛冶屋町へと小城址が点在するが此の犀川を遡れば名付親:丹波守護代ともなった上原氏の物部城もある。小貝城の在る城山一帯は広域自然公園綾部市創造の森として、林道が延びる石原口からの入口先には駐車場まで完備され、私市丸山古墳公園を結ぶ2.5m幅遊歩道が整備されていた様です。府道488号線の石原バス停から北方の丘陵沿いの集落内の道を、
ニノ丸から主郭へ上り口は堀切?(遊歩道整備で均されたか箱堀状だったか?)

三柱神社【神社の北西方の丘陵上には石原城が在る】前を抜け、集落内の宅地西端から正一位稲荷神社 (石原居館が在ったのはこの北付近か?)前を山に向かう林道を詰めれば、石原入り口からの広い道と合流する茶畑に着く。私市丸山古墳公園からの遊歩道(狭い車幅いっぱいの簡易舗装林道)も此処に合流する。案内板に従い茶畑沿いの道を 尾根伝いに南へ進むと、広い平坦地形となり、近在の小学校植樹記念柱が其処此処に立つ。
小貝城の広い主郭 :先端の東面〜南面(右)を深い空堀で囲む

屋敷跡だろうか?城域に入った気配を感じて直ぐ、緩斜面だが段差のある三ノ丸とも呼べそうな平坦地を通過する。私は小貝集落の八坂神社からの 登山口を辿ったが、歩き始めて間無しに荒れた・雑木や倒木で寸断される歩道を採って、幅広い遊歩道なのに最後は薮漕ぎ状態で飛び出してきたのが此の三ノ丸でした。山頂部の主郭へ直接通じる階段道も 八坂神社からのコースにある筈だが見当たらなかった。これ程に荒れた遊歩道の最期の止めが三ノ丸とニノ丸間の空堀 (雑木と薮に覆われ、
主郭東北端部:空堀と天水井戸跡?の間を渡る土橋

笹薮を刈り込んでやっと堀と確認出来るが、 尾根幅一杯に掘られた幅約6m・深さ3m)両サイドの土塁?は土橋か。朽ちて崩壊寸前の危険な木橋の状況からは「創造の森」が何を創り出したのか?。城主名さえ伝わる小貝城は広い主郭(長さ約50mX幅30m程)の周囲を【北面を確認していないが、同様の空堀は有ると思える。なを東北端には井戸跡らしい深い窪地?がある】空堀が囲み(幅3〜5m程・深さも3m程)、 3ヶ所ばかり空堀外側の土塁?(帯曲輪)に繋がる。
主郭:東屋休憩所の前(南側)の空堀(幅5m・高さ2.5m程)

南側下は高い切岸状で、更に幅広い帯曲輪を廻している様子ですが、この時期(10月)でも周囲に空堀を廻している事を見逃してしまいそうな程の猛烈な薮。市遺跡地図のコメントに 帯曲輪は記されているが先の堀切や此の規模の大きな空堀の記載は無い?。主曲輪の中央部に休憩用東屋が建ち・傍らに4等三角点 116m石標の埋まる 城山の山名や点名を知らないが、
城域を出たと思えた三ノ丸外にも広い平坦地(地元小学生の卒業記念植樹が目立つ)

此処が故郷自慢と 歴史の証人ともなる城址の案内・説明板も無い。東屋から丸山古墳や、犀川・由良川の流れ、四つ尾山や栗城・位田城方面の展望を期待したいがそれも望めない。遺構保存にはむしろ何も無い方が良いのかも知れないと思うが、 主郭をニノ丸へ降るところには、左右の薮の斜面に落ち込む竪堀状を見る。尾根幅10m程の浅い堀切が遊歩道整備で埋められたものとは思いたくないのですが。
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八坂神社と小貝北向地蔵尊
綾部市創造の森の登山道:小貝入口の案内標柱が立つ府道との間の広い空地(八坂神社祭礼用か?)の中に 北向地蔵尊はあった。延宝元年(1673)翌2年・貞享4年(1687)・宝永4年(1707)等、 相続く大水害や度重なる飢餓・疫病・・・の苦難を免れる為、享保11年(1726)・由良川と小貝山の岼の狭間・交通の難所に建立されましたが、 その後も寛延・天明・寛政・文政・嘉永・明治・昭和と、水害の度に流失・埋没掘り出し‥昭和28年水害で流された地蔵尊の首は発見できず新しい首に継ぎ替えられています。
小貝の北向地蔵尊

地蔵尊の歴史が小貝の水害の歴史を語る。小貝城への登城口とした小貝町の八坂神社は由良川北岸の城山南山麓に鎮座され、 御祭神に須佐之男命(すさのおのみこと)を、末社の一つには日本神話の水の神:市杵嶌姫命いちきしまひめのみこと)がまつられています。南丹市から大野ダムを経由して下る由良川との、水害や水難との戦いの歴史は綾部・福知山 ・大江町へと流域全域に刻まれていますね!!。
(現地:北向地蔵尊由来等・・を参照)

石原城   xxx  Ca100m   綾部市石原町坊ヶ谷

舞鶴若狭自動車道が抜ける福地山市側には石原トンネル上にヌクモ城(石原古城)が在り、 西山麓に建つ府立工業高校と洞玄寺の一帯を城域に石原城が在り、トンネルを抜けた先、 由良川を渡った先で綾部市に入り私市丸山トンネルに入る。トンネル上には府下最大規模の私市丸山古墳がある。こ 石原(いさ)城からは直線距離で約3km程北東の綾部市側にも石原城が在りました。
石原城副郭(ニノ丸)内側の低土塁東北コーナー部

由良川沿いに走る府道74号が舞鶴自動車道の高架を潜るところに丸山古墳公園が有る。小貝城の在る城山の丘陵裾を回り込むと 由良川に流れ出る犀川河口を渡る府道74号線の橋手前から、犀川沿いに北へ入る府道489号を進めば、 田園地帯の中を突っ切る車道は、左手前方に見える丘陵先端にむかう。
緩衝帯の様な緩斜面から浅くなった 空堀と低土塁囲みのニノ丸(左手)に入る

此処に石原バス停が有り、丘陵南裾沿いの集落内に集会所と三柱神社が在る。先の小貝城への取り付き点とした 八坂神社の末社にも三柱神社 が奉られていたが、同様に火産霊命(ほむすびのみこと)・沖津彦命(おきつひこのみこと )・沖津姫命(おきつひめのみこと)を祭神とするかは確認していない。
石原城主郭の空堀(横堀)と大土塁

石原城へは西南方から送電線巡視路を辿ろうとも考えたが、集落背山が迫る三柱神社の一つ西から民家の間を北へ入ると、二軒の民家の間から・正面に山道を見つけて取付いた。松は殆ど無く”止め山”標示も無く、入山禁止のテープ類も無いが、 城址の奥は松茸山なのかも知れないので、麓で確認する必要があったかも?知れません。 ・・・が取付きから1〜2分で分岐する山道の上が既に城域!!。左手の直上する道は主郭の南虎口か?、 二ノ丸東虎口に行着く様?ですが、右手へ斜上する道を採ってみた。
二ノ丸の横堀と主郭の切岸土塁(5〜6mは高く”横矢掛”の折れを伴う!!

緩斜面だが薮の尾根筋を北側の谷寄りに捲いて進む道は、副郭(二ノ丸)の切岸を左上に見て通り過ぎる。 慌てて急斜面を駆け上ると二ノ丸の土塁の上。 北面から尾根筋の東面を南面にかけて低土塁が廻わり、浅くなった空堀が土塁線に沿って延びる。中央東側に土塁の切目があり、低土塁だが幅のある虎口が設けられてている。二ノ丸から西に進むと高い切岸(約5〜6m)と空堀を廻す主郭を見る。遺構としての圧巻は折れを伴う空堀・高い切岸上には頂部幅1〜1.5m程の幅広く ・主郭内側からも高さ3m程の大土塁を廻し、 土塁上には”横矢掛”を充分意識した”折れ”が伴う。
主郭の切岸土塁は5〜6mと高く”横矢掛”の折れを持つ

北へ延び其のまま西隅コーナーの広い土塁(櫓台と思われる)端へと主郭を包み込む大土塁は西端で切れるが、西南端にも土塁を積む。此処は南西から回り込んで、一折れして主郭に入る虎口沿いに、 土塁内側端も主郭側に折れている。二ノ丸側の折れを持つ大土塁は主郭東南端(此処にも櫓台はあったのかも!!)で折れ、 南側で切れる土塁端は下方からの通路があり、 此処へは二ノ丸の空堀が土塁さえ伴って回り込んでいる虎口がある。城主・城史については不明ですが、石原城の南約800mの丘陵上には天正年中の落城した川北氏の小貝城が在る。
主郭西南端土塁は内側に折れ西からの虎口をつくる

広い主郭を防備する深い空堀が回るが 土塁や虎口は見当たらない・遊歩道整備で破壊されたとも思えないが特異な縄張りだった。また東北方約 1.7kmには よく似た感じの館(たち)城もある。此処も城域に空堀を廻し空堀内には仕切り土塁や高い段差で 移動を妨げる設備と高い切岸で防備を高めています。曲輪内に高土塁を備えているが三方を囲い込むほどでもない。
二ノ丸東を囲む低土塁の南寄りに、一折れ?して入る虎口が開く

曲輪の三方・四方を土塁で囲む縄張りは兵庫・京都丹波地方でも少ないかも知れないが、 比高30m程の丘城なので、 居館としてみれば珍しくはないのかも?。石原城の西南約300m程には石原居館(未訪・小貝城と石原城を結ぶ 丘陵線の中央付近か!!?)が在る。石原城の居館よりは小貝城側の居館と山城セットと思える位置です。土塁と堀遺構が残る様ですが、未訪なので縄張りも・関連も判りません。
横堀と高い切岸の主郭側には、折れを持つ大土塁が廻る

織田氏勢力による”丹波攻略”時の陣城か?と考えても、 小貝城ではなく此処に築かれた位置や、縄張りの大型土塁囲みに織豊系とするには、虎口形状の工夫が簡素なのが気になるが、影響は考えられます。此処は犀川沿いに上原氏の物部城を通って大江町から宮津市や舞鶴市へ通じる要衝。 信長が横山城(福知山城)の塩見氏を押さえるため、上原氏が築いたものか?、関ヶ原合戦後の田辺藩細川氏・福知山城の小野木氏いずれかの築城なのか?


石原居館(未訪)   xxxx  xxxm   石原町栗ヶ谷
 正一位稲荷社の北!!?




私市円山古墳     綾部市私市町円山

舞鶴若狭自動車道建設工事に伴う事前調査により、 昭和63年(1988)新たに発見された私市円山古墳(墳丘は直径70m・全長(造り出部を含めると)80m・高さ10m)。埋葬儀礼に伴う祭祀用として区画された方形造り出しを持つ大型のもので、此処からは家型・短甲形等の形象埴輪や土師器が出土しています。京都府下でも古墳群の多い由良川流域に有ってなお、 前方後円墳を含めても最大規模の大型円墳です。「造り出し」部は住宅地に囲まれた伊丹市内の御願塚古墳でも、 平成10年の調査で発見されています。
私市丸山古墳公園の案内図から

古墳の存在さえ 建設工事で初めて発見されているので、崩れたり埋まった状態の「造り出し」は、伝承も残らない小さな山城の土塁や空堀と同じ運命にあったのかも ・・・?この円山古墳の発見により現地保存の為、当初の切土工法からトンネル工法に変更されました。三木市の有安古墳も中国自動車道の真上にあったのを思い出します。
私市丸山古墳公園の遠望

墳丘の頂部には由良川中流域を支配していた王が葬られていた木棺直葬の埋葬施設が二基有り、 王の埋葬も二人分あった。名前も其の二基が親子か兄弟のものかは不明ですが、 築造時期は出土した多数の副葬品(武具の甲・冑や鉄剣、農具・銅鏡・勾玉等)から、古墳時代中期(5世紀中)頃とみられます。其の築造規模や内容からみても 由良川中流域最大の首長墓と考えられます。出土した円筒や朝顔型埴輪のレプリカ・約900基が 3列に配置されて凡そ1500年前の状況が復元され「私市円山古墳公園」として整備・平成5年(1993)5月に開園、翌平成6年国指定史跡となっています。
私市丸山古墳「造り出し」部から墳頂部を望む

出土品は綾部市資料館(綾部市里町久田・中丹文化会館隣)に展示されていますが、なかでも金箔が貼られた胡ろくと呼ばれるベルト付きの矢袋は 国内でも初期段階での製品と考えられる大変貴重な物とされています。築造規模や副葬された出土品からは 葬られた王の高い政治面や軍事面での地位や権力を持っていたことは明確で、他の王との(死してもなを優位を保ち権力を誇示する為の?)交渉が想像されます。
墳頂から「造り出し」部と由良川を望む

但馬方面へは北近畿(和田山・豊岡)自動車道がH18年(2006)7月に和田山ICまで開通し、山東PAには道の駅「但馬まほろば」が出来たが、 此処には西日本最大規模の円墳茶すり山古墳が有り、併設されている朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」には茶すり山・若水(わかす)・池田 ・船宮 ・岡田等近在の古墳が紹介され出土品が展示されています。此処の案内説明にもあった様に、被葬者たちの畿内政権との密接な結びつきが 指摘されています。「造り出し」から上部にかけての墳丘部は三段構成で、 由良川の河原石・約6万個を敷き詰め葺石として覆われた斜面には二列の埴輪列が廻る。
埋葬施設(奥が第一主体部・手前が第二主体部)

墳頂部にある埋葬施設は三基有って北側と南側、 及び南側より南北にある小さな一基の主体部から成り、 北側の第一主体部は、中央の主体部が造られた後に、北側に隣り在って造られたもの。組合式の木棺を安置してあり、棺内からは短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・頸甲・肩甲 ・草摺の武具一式、帯金具・38本の矢が胡ろく(ベルト付きの矢袋)に納められた状態で出土したほか、 鉄剣・鉄鏃・鏡や玉類(勾玉・管玉・小玉・棗玉)等の副葬品が出土しています。 棺の幅や副葬品(冑や鉄剣等)の配置等から、被葬者は頭を東に向けて埋葬されたことが窺えます。
古墳公園の直下を抜ける自動車道

南側の主体部(第2主体部)からは、鉄鏃と農工具がそれぞれまとめられた状態で出土しています。 この二基の他に小さな主体部が有り、中央第二主体部の首長に従属した人が埋葬されたのではないかと考えられます。空山からの市境界尾根が南方へ延び出した丘陵の突端部に立地する私市円山古墳は由良川を見下ろす 展望の良いロケーションに有って、由良川流域に君臨した権者の埋葬場所には相応しい場所の思えます。

(現地丸山古墳案内板・綾部市資料館資料等を参照)
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