綾部市奥上林地区  山内城・長野城・有安城…神子谷城…予定
綾部市 (五万図=綾部・舞鶴)
近畿の山城 :山内城  長野城 有安城

綾部市街地からR27号線に出て 由良川沿い。 山家交差点で府道1号線に入って山沿いに上林川を遡る。上林川に沿った長い流域の谷合いに三上林がある。すなわち:口上林地区から上林城 (生貫山城)のある中央部に中上林地区)、 更に舞鶴方面への府道51号(舞鶴和知線)を分けると、府道一号(小浜綾部線)は”あやべ温泉<二王の湯>・光明寺へと、君尾山東麓を上林川上流に向かう奥上林地区。
3等三角点の埋まる長野城主郭

京都丹波と若狭を繋ぐ上林街道は古来より通行・物資輸送、若狭一色氏を攻めた細川氏にとっても、東舞鶴経由の丹後街道より直接若狭高浜や 小浜に通じるので軍道としてもより有効な街道。 綾部市遺跡地図 (1998年)による奥上林地区には山内城・有安城・長野城とさらに上流 ・福井県との府県境近くには神子谷城が載せてある。府道1号は三国峠を越えて若狭おおい町や高浜の町に下っていく。長大過ぎる?上林荘なので 荘園領内の領域や領主について不詳だが、 平安時代には石清水八幡宮領?・鎌倉時代には
坂尾呂神社の丘西正面に望む長野城

高雄神護寺領?、時代を経て享禄4年(1531)には現:南丹市の島城・今宮城の川勝氏が侵攻して一時期:一部を領有し 天文年間(1532‐55)には相国寺領や仁木氏領(丹波仁木荘?にいて仁木氏を名乗った土豪 :伊勢氏一族らしい)が混在していたのでしょう?。中上林の八津合町・五津合町境に市場で舞鶴・ 丹後宮津方面への府道51号を分けるが、府道51号側直ぐに比丘尼城と姥ヶ城が、府道1号を睦寄町側へと奥上林地区に入ると(五津合町・八津合町の 一部山城が奥上林地区に入るかは知らないが瀬尾谷城や弓削城(上林川沿いの城Tや比久尼城 ・姥ヶ城・日置谷城・
坂尾呂神社:鳥垣へは 上林川に架かる橋(左上)を渡る

片山砦・真野城等)の諸城も参照願います)等が上林川右岸にあり弓削城の東南・谷筋に長野城がある。長野城の北向 ・府道1号から[あやべ温泉」や光明寺二王門(仁王門なのか?・光明寺に関しては 殆ど二王門とされているので此処では二王門に準拠 !!?)前に至る 車道に入って直ぐの”二王公園”向い(間近か)の丘陵上には山内城が東向かい・府道1号と上林川を挟んだ丘陵尾根の西先端の峰頂部には有安城(砦)がある。 府道1号から有安城への入口(府道51号)が上市場。
長野城:尾根左右に分ける空堀(堀切)

長野城麓”坂尾呂の里”から坂尾呂神社下を東約500m程で府道51号に出て上市場バス停前。有安城への取り付き点。”此処も”市”が開かれていた要所か!!。此処から併合していた府道51号(舞鶴和知線)は途中で府道34号を分け、府道34号は頭巾山〜長老ヶ岳稜線中央付近の洞峠を越えて 南丹市側の府道34号に繋がり、R162(周山街道)に合流して美山町静原へ出る。今宮・中村・島城等・川勝氏の領地。
草壁川が上林川に流れ出る付近:丘陵先端に位置する有安城(砦)

府道51号も 仏主の峠を越えて南丹市側:長老ヶ岳西麓の上和知川沿い府道51号に出る。一方府道51号も睦寄町側から京丹波町上粟野の仏主【ほとす:長老ヶ岳北面からの登山口】へと、いずれも山腹で途切れるが境界尾根を越えて繋がり、 由良川上流との合流地点から府道12号をとれば大野ダムを経由して、美山町静原に至る。享禄4年上林荘へ侵攻してきた勝川氏は 洞峠越えで攻め込んできたものか?。



山内城 長野城  有安城

山内城  xxx Ca255m  綾部市睦寄町山内(在ノ向)

むかし!!(2002.1)施福寺(高野山真言宗)から蓮ヶ峰経由で弥仙山(丹波富士)へと 修験回峰のコースを歩いた際、舞鶴市境尾根を弥仙山にとる571mジャンクションピークから市境尾根を反対に東へ辿れば、 一旦は東舞鶴に至る畑口川沿いの 府道51号(舞鶴和知線)五津合町に降り、登り直して今は広域林道を光明寺 (真言宗醍醐派)や君尾山に至る。
二王公園から:左丘陵上が山内城

君尾山・弥仙山共に修験の道場。 役小角が開いた君尾山なら弥仙山に至る修験の道が施福寺を宿坊として通じていたのかも?。蓮ヶ峰からは君尾山へも尾根続きなので 一度トレースを考えてみたことがあった。君尾山の丘陵部南中腹に光明寺があり、 鎌倉時代の宝治2年(1248)に建立されたという朱塗りの二王門が創建当初の姿を留め国宝に指定されています。 上林庄は「大永の乱」大永6年(1526)に細川高国方についた赤井氏の侵攻に光明寺をはじめ多くの寺院が焼亡した。上林庄に入封し上林城(生貫山城)を居城としていた上林氏は永正年間(1504-20)頃?山城国宇治に移っているが、
山内城:堀切北側の外郭頂部

此の地に残った 庶流の上林氏一族が居たものか?。 赤井氏に交戦したかも不詳ですが、天文2年(1533)細川高国は弟:晴国に君尾山光明寺の再建を命じ ・勧進を許され、 上林丹波守?が此れに充たり寄進・尽力しており土豪として上林一部を領して残留した一族がいたものか?。府道1号線から光明寺・あやべ温泉[二王ノ湯」への案内標識を見て(注意”二王の湯”への分岐点手前に 幅狭い直線車道があり「光明寺・君尾山」への案内標識があるが、君尾山への林道です)左折すると、直ぐにミニ道の駅風の[二王公園」パターゴルフ場前の駐車場に入る。
最上部の低土塁の主郭・小曲輪段下に堀切

奥に進んでゆく車道を挟んだ西向かいに迫る急斜な丘陵上に 山内城はあった。初期の山内城城主や築城時期等は一切不明だが上林城(生貫山城)の支城だったか、府道1号から山内城への入口は下市場。約500m程には上市場で有安城への入口。長野城から 府道1号に戻らず東へ「坂尾呂神社」下を抜け府道51号に出て左折すれば約250m程が有安城入口部の上市場。自ずと若狭街道の要衝・川勝氏が侵攻してきた美山町(南丹市)からの峠越え間道と要所監視の城砦であったことは推測できるが、史実?(記録的)による山内城主は時代を下がり、永禄3年(1560)高田豊後守治忠が 織田信長に付いて生貫山城の上林氏を攻略、
山内城:南1郭から主郭の切岸

天正10年(1582)本能寺の変に斃れた明智光秀が領していた上林荘は其の支配を離れ、豊臣秀吉の武将となっていた高田治忠が領して山内城を築き、生貫山城を上林晴国に譲ったとされます…。 あやべ温泉に向かう車道をパターゴルフ場に沿って進むと、山側道路際(ぎわ)に山上(山内城堀切)から真っ直ぐ落ち込む谷状(水流はないが倒木の多い急斜面・上部に近づくにつれ捨て置かれた間伐材の枯れた倒木と枝木で、埋もれた谷筋は進み難いが左右の尾根に逃れても激急登は強いられるので、 下降用ルートとして、登城ルートを100m程先の薬草公園への道を利用するのが便利。
主郭から南に二段の綺麗な曲輪が続く

あやべ温泉への標識を右手に見て直進。終点部から左手階段を登る遊歩道を進み、山内城の堀切北側曲輪(谷ルート左側尾根上部)から 北へ延びる緩斜な尾根先が遊歩道に合流する。城の規模は全長100程で中央部の鞍部を堀切で遮断する。北側の副郭は段差もないほぼ自然地形の平坦地。堀切から南へは一段小曲輪の上に浅い土塁痕を遺す主郭 (7x7m程)から2m程の切岸を持ち、幅15x20m程の綺麗に削平された曲輪が2段続く。さらに下(南)方へ続く幅狭い尾根筋の断崖状に切立つ東面真下に、二王公園(駐車場)向かいの民家の屋根が見える。

長野城と有安城

長野城   泉山? 312m(3等)  綾部市睦寄町泉山
有安城  xxx Ca290m  綾部市睦寄町高風呂

長野城:上記の山内城を後にして 二王公園から府道1号に戻って直ぐ、上林川を南へと幅狭い橋を渡り鳥垣集落内に入ってゆく正面丘陵部山頂に長野城が在る。 登頂ルートを検討する前に、桜花満開の綺麗な独立小丘陵(Ca180m:比高は約20m足らず)に寄ってみる。 最初の民家側のT字辻から東へ折れる車道の先約150m程には北麓に鳥居が見え、見上げる急な参道石段を登りつめると、
坂尾呂の里公園からの長野城(右端)・左手端付近が鳥垣渓谷登山口

其処から下り気味に二本の土塁状の切岸道が延びて 坂尾呂神社本殿に着く。大型古墳かと思える独立する丘陵部全体が”坂尾呂の里”として 公園化された一帯は「馬場先」と呼ばれている。神社の創起は不明だが鳥垣・山内・有安・草壁の氏神といい、 天正年中に焼失・寛政11年:若狭の人により社殿等改築されている。府道は若狭街道(丹波−若狭間)の要衝でもあったか。低丘陵だが周辺の展望は良好で、
堀切から小曲輪を越え主郭に入る

西に小野田川(鳥垣川)を挟んだ集落目前には長野城があり、西山麓の集落を挟んだ西側の舌状に延び出す低丘陵の 北先端が上林川・府道1号側へ落ち込む所に弓削城・北正面に山内城、東側の草壁川を渡り 府道54号(舞鶴・和知線)・34号(綾部美山線)に出て左折すると直ぐに府道1号に合流する。その北側・山内城とは ”あやべ温泉−光明寺へ向かう谷を挟んだ東側には呼応する位置に有安城を望む。府道54号・34号は南の市境界尾根に向かう途中で消えるが、
長野城主郭の切岸

長老ヶ岳−頭巾山間の洞峠等・境界尾根を越え京丹波町和知 ・南丹市美山町に抜け出た山麓で再び繋がる。享禄4年(1531)美山町の川勝氏が上林荘の侵攻・一時上林荘の一部を領有しているが、府道34号から洞峠越え等を軍道として直接奥上林荘へ侵入したものか?。 大栄の乱(1526)の赤井氏や元亀元年(1572)明智光秀の侵攻に光明寺を攻略・川勝氏は此の戦いに落城し
U郭(副郭)側の馬の背状尾根と土塁

自刃・若狭へ敗走したとも。府道1号から有安城・山内城への入口に上市場・下市場の名が有ることからも、交通の要衝・市が立つ時の物資輸送や、 光明寺や上林城攻略の際の赤井氏・川勝氏・明智氏らにより軍道を攻め登ってきた兵と軍馬を繋ぎ休ませところか!!。 また丘陵上部は鳥垣北古墳群1−4号の小円墳群(経7−8m程)は 6-7世紀末頃のものと思われますが古墳情報は割愛。坂呂神社から集落T字辻に戻り、 小野田川の谷筋沿いに並ぶ長野集落先に墓地があり、
長野城副郭:尾根続き北側の切岸

坂尾呂神社から見る限り:この谷筋の墓地から続く 尾根筋を鞍部に至り丘陵上最高所に位置する長野城に向かうのが良さそうです。長野城へは鳥垣渓谷入口から引返した墓地から取付いたが、谷通しは最初の堰堤越えまでが泥濘んでおり、墓地背後から最低鞍部までトレースし、北の最高所・城山山頂の主郭へ辿った。 緩衝帯の様な緩斜面に愈々城域に入ったと思ったら 目の前に堀切が現れ2段ばかりの小曲輪を越えると主曲輪(3等三角点312mが埋まる)で、低段差ながら岸は切られている。
U郭(副郭)の帯曲輪

此の先・幅狭い馬の背状の尾根の先に低土塁を見て、曲輪の西・北・東三方を帯曲輪で囲む副郭?に着く。此れより北へは緩斜な尾根が下っていくだけ !?の自然地形に見るべき遺構はなさそうなので引返した。城史や城域の全容は不明瞭ながら、縄張りの大手筋は北方・上林川から尾根筋を詰め副郭・主郭、其の尾根側を堀切で遮断する構成のよう!!?。集落内墓地前の前方100m程が鳥垣渓谷入口で4-5台の駐車スペースがあり【水源の里 鳥垣】と鳥垣渓谷からシデの山 へのポイントを滝等写真付登山ルート案内や、裏面には山頂へのコース整備や過去の山の記録が写真付きで記されている。
有安城:山上部より府道1号(若狭街道)と 君尾山を望む

有安城: ”シデの山”は山名からもシデ類等雑木灌木の山の様子ですが、昔は茅葺き屋根の葺替え等に 使用する茅狩場だったようです。「水源の里鳥垣」とあるが、綾部市は全国初[水源の里条例]が平成18年に 制定され、翌年には【全国水源の里連絡協議会=(過疎集落・高齢化の問題を国民運動として展開・地域再生活動を 支援する団体)】が設立された。事務局は勿論!!?綾部市に。各集落ごとに有る!?”あやべ水源の里”鳥垣があり、
有安城:山上部は主郭?・狼煙台?

此の一環で小野田川を遡る鳥垣渓谷からシデ山への登山路が整備されたようです。 市境界尾根に位置する”シデ山”西肩の上粟野峠 (府道51号線側:京丹波町和知)を北に下れば上林川合流地点に弓削城・鳥垣渓谷を下る小野田川に長野城、上林荘を一時は領有していた川勝氏の本拠 (南丹市美山町)を繋ぐ府道34号線は、草壁川沿いに下り府道51号に合流:坂尾呂神社の北東で上林川に流れ出る。合流点の上市場を望む丘陵尾根先のピーク上には 有安城があり、上林川(府道1号線)を挟んで長野 ・有安・山内の三城がトライアングル構成で呼応し合う。
有安城の腰曲輪西端:空堀の落口

有安城についても城史は不詳。府道1号から府道51号に右折し約250m程で有安(プロローグ最下段画像を参照)への入口に着く。 右側角に近畿自然歩道”鳥垣渓谷”への案内標識があり 坂尾呂神社側を長野城のある鳥垣へ向かう。 府道直進は草壁川を詰め美山町へ山越えの道。幅狭い集落内に駐車スペースは少ないが、春なら桜木が多いので目立つ公民館そばにあり、
埋れかけの空堀:画像では分り辛いか?

南側民家との中程・畑地を抜けて西の尾根先に取付く直登の急斜面だが藪漕ぎがない。 集落入口から2-3軒目の 民家の庭先から裏へ廻り込み「自神さん」の祠から谷状を詰めるのがスッキリしたコースなのだが、勝手が分かっていても断りなく入ってはいけないルート。折角訪れても僅か 10x5m程の丘陵頂部が主曲輪なのか?、其処から西下方へは自然地形なのか?、遺構なら切岸の曖昧で極小過ぎるが ・僅かに曲輪段を感じさせるものもある程度?。 此れ等の山頂曲輪(群?)に直結していない南面下方6-7mの腰曲輪と、腰曲輪の西端から・其の延長線上の激斜面に落ち込む空堀は
主曲輪6-7m下(此処が狼煙台なら腰曲輪が寧ろ主郭!!)

登城ルートではない?ので片堀切でもない。 縄張り全体からも戦闘の防備の設備機能としては弱い。奥上林荘の最東北端にある神子谷城が未訪だが、神子谷城が前線基地?だったか、また若狭方面からの敵軍侵攻を此の城が数時間持ち堪えれば、山内・長野…上林城からの援軍が到着!!。 有安城は其の[知らせの城]山頂部は狼煙台・腰曲輪は薪等の積置場・竪堀は見張り将兵が山内や長野城へ向けての脱出シューターだったのでは…?と、ひとり合点してみるが。

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