綾部市・上林川沿いの城T   比久尼城・姥ヶ城・瀬尾谷城・弓削城・日置谷城・片山砦・真野城
京都:綾部市 (五万図=綾部)
綾部市上林地区の城巡り 2010年05月09・29日
近畿の山城: 比久尼城と姥ヶ城  瀬尾谷城と弓削城 片山砦と日置谷城 真野城

片山砦と上林寺間に在るXXX?寺から望む上林城(奥中央右端)

R173号線(綾部街道)の須知山トンネルを抜ける質山峠を降って綾部市に入ってくると野田城のある井根山を右に見て新綾部大橋を渡ると R27号線に出る。和知・南丹市方面へ右折して由良川沿いに東走する。山家陣屋と山家城のある 山家交差点で府道1号線に入る。
畑口川沿いに比久尼城(右手前)と姥ヶ城(其の奥!左手丘陵も姥ヶ城別郭か?)

上林川に沿って走る道は以前:綾部温泉・二王の湯から光明寺を経て君尾山や、養老山を目指したが 工事中の林道で車がスタックして敗退した事・小浜市へ越える福井県境の峠から三国岳へと登山で走った小浜綾部線で、 城巡りでは光明寺〜君尾山の際・途中には十倉陣屋や 位田城や栗城を攻めた高田豊後守の山内城があるのですが所在知らず、素通りして「城山とホタルの里」国土地理院の五万図に古城山とある八津合町の 上林城(生貫山城)へ向った事がある。
府道1号(畑口川側)から瀬尾谷城(右)への丘陵北東端と弓削城(左端円錐形の山)

山城に興味をもつ以前・車道脇に 地区内の城跡案内標柱を見て、三角点峰の一つでもあり立寄っただけだが、府道1号沿い「綾部観光センタ」に駐車し、 正面に見える丸く盛り上がった独立丘陵に向かう。平山城だが城主上林氏こそ、宇治に茶園を経営し・豊臣秀吉からは宇治茶頭取として宇治茶の総支配を命じられ、徳川家光の代には宇治茶師を務めた一族です。
上林中学校部活倉庫?(右端)北西の低丘陵上に在る片山砦

郷土の小さな城の城史にも ・驚きや意外性に興味尽きないものがありますが、 周辺の殆どの山城廻りでは・たとえ紹介しても訪ねる人も少なく、超マイナーな城砦に及ぶに 従って築城時期や城主等の城史は不明。一地方の書籍 ・蔵書の数も少ない図書館を頼りの情報収集だけでは、調査報告等専門書誌も数少なく ・限られるうえ、知り得たい情報が有っても大概は館内閲覧のみでは、県中央や該当地の図書館利用に時間の余裕も無く ・まゝならない。
日置谷城主郭周囲を数多くの竪堀と畦状竪堀群が防備する

市町村史等 ・入手できる僅かに限られた当地情報だけでは不詳・不明のままとなることが多く、郷土史家 ・研究者の発表等に期待するところです。しかし上林地区に 限ってみても:小規模ながら土塁・空掘が主郭部外周を廻るもの ・ 単郭ながら中央部を幅の有る空掘(箱堀!・横掘)と大土塁で曲輪を分けるもの、単郭の砦クラスながら四方を土塁で囲み尾根筋を堀切で絶つもの、上林一帯で良く知られる上林城(生貫山城)は
比久尼城:最西端の大土塁は皿田古墳群の一つか?

規模の大きな輪郭式の城、 その北・府道1号線を挟む日置谷城も小城ながら、 郭を防備するハリネズミの様な竪堀と畦状竪堀群が土塁囲みの主郭を護る凄い縄張遺構が見られます。静かな明るい田園風景が拡がる 里山に隠された小城群にも、兵庫丹波の山城群に例の少ない畦状竪堀群・曲輪の一面以上を囲む土塁 ・幅広い横掘(箱堀)等、一見の価値有る城郭遺構が見られた。
上林(かんばやし)は京都府の中北部に位置して、 上林川の長い谷間に沿って奥・中・口の三上林地区に分かれる様ですが、住宅地図等で確認していないのでよくは分かりませんが、今日訪ねた八津合(やつあい)町・五津合(いつあい)町が中上林地区なのでしょう?。
姥ヶ谷砦の大堀切

五津合町の比久尼城から府道1号に戻って200m程で光明寺から君尾山の (広域!?)林道に向う分岐を見る。 更に100m程崎の分岐を南へとって弓削城へ向かったが、 府道1号線は綾部温泉:仁王ノ湯や光明寺方面に向かう睦寄や故屋岡町付近が奥上林か?。十倉xxx町・佃町等は口上林地区と、 各地区公民館所在地で推測してみますが、上林は近畿地方でも5番目!!・綾部市の約三分 の二を占める広大な田園地域を有する地帯。 何鹿(いかるが)郡 【綾部市と福知山市の一部 】の上林荘は:八津合町の神谷に郷社の八幡宮が在り、 平安時代末頃:岩清水八幡宮領ではなかったかと推察されています。
瀬尾谷城 :主郭から小曲輪群と細長い平坦尾根を北郭に向う

鎌倉時代には高雄神護寺領だった様!?で、寛喜元年 (1229)の同寺文書に鎌倉幕府が 上林荘内に守護所使の入部を停止している。室町時代には相国寺領となり、長禄3年(1459)熊岡某の横領を相国寺は幕府に訴えている。 寛正2年(1461)や天文8年(1539)文書には上林地域が相国寺と ・上林荘の代官を務める仁木氏の 荘園になっていたものと思われます。
弓削城北西の二重大堀切

仁木氏は丹波守護職として建武〜観応の頃、南朝に付き一度は守護を退いているが 丹波守護職に在った仁木頼章らの子孫ではなく、応仁年中 (1467-69)幕府命で丹波仁木荘に入った伊勢貞知が仁木を称しており、その一族と考えられています。戦国時代に入ると上林荘は、足利尊氏に従って上林荘の地頭となった上林秀家の末裔、口上林地域の渡辺氏ら・在地土豪の横領等により私領化され、複雑に分割されていった様です。「丹波の荘園」に光明寺の寺領の解説は無く不詳!!?ですが、推古天皇の7年 (599)聖徳太子創建を伝え、平安〜鎌倉期に隆盛していた古刹:光明寺が、
片山砦:土塁囲みの主郭北端は堀切となり土塁も高い

上林荘の一部を寺領としていた事は充分考えられます。戦国時代:室町期中庸の文明16年(1484)には牟礼六郎左衛門尉が上林荘内に違乱し、幕府は訴えにより丹波守護:細川政元に停止を命じています。 享禄4年 (1531)郡境を越えて北桑田郡美山町・ 今宮城主川勝豊前守光照が侵攻して上林の一部を領有していたことがある。
日置谷城:土塁曲輪側から南へ落ちる竪堀

細川高國の後見者覇権を巡る晴国・晴元の内乱時期?に上林氏と川勝氏との関連や、上林氏とは同族(清和源氏)という赤井氏(丹波市)との関連は不詳 ?(未調査のまま)ですが赤井忠家が何鹿郡に進出して 一部を支配していた様で、 子の時家は永禄5〜8年頃(1562〜65) 国人十倉九郎左衛門尉に代官職を安堵している。大永の乱(大永2年 1526小西城<綾部市>等 を参照下さい)に赤井氏が上林に侵入した際の兵火に焼失していた光明寺は、川勝光照が上林荘に侵入し一部を領した其の翌:天文2年(1533)在地豪族の上羽丹波守がを再建している。
日置谷城:曲輪側から落ちる畦状竪堀群

元亀元年(1572)何鹿郡に侵攻してきた明智光秀によって光明寺を攻略し、僧達は今宮城(美山町 )に退いて防戦したが落城し、川勝光照は自刃・子の大膳亮継氏!?等は若狭へ逃れたと云われます。天正7年(1579)再び光秀は光明寺を攻め、火を放ち諸堂伽藍は悉く焼失し衰微していったが、慶長6年(1601)上林6000石の領主 :藤懸永勝の庇護を受けた光明寺は、慶安2年(1649)棟雲和尚によって現在地に中興されました。
(丹波の荘園・綾部市史 綾部市遺跡地図を参照)



 比久尼城と姥ヶ城  瀬尾谷城と弓削城 片山砦と日置谷城 真野城


比久尼城と姥ヶ城
比久尼城
  xxx山 Ca170m   綾部市五津合町(弓削)皿田

新綾部大橋を渡りR27号線に出て由良川沿いに東走して 山家陣屋と山家城のある山家交差点で府道1号線に入る。 上林川の長い谷間に沿って拡がる上林地区は口・中・奥の三地区に分かれる様ですが、小浜市へと福井県境尾根に向う中程の地・八津合(やつあい)町・五津合(いつあい)町が中上林地区なのでしょう?。 随分と以前に訪れた上山山荘の建つ 上林城(生貫山城)を遠望しながら片山の上林中学校前を過ぎると府道51号(舞鶴和知線 )を左に見送り畑口川を渡る。
比久尼城:主郭部を分ける幅の広い横掘(箱堀)と大土塁

川沿い左(北方)に低丘陵の西端部を畑口川に突き出す比高10m程・高低差の少ない長さ約300m程の台地が集落内に延びだしています。この丘陵上に比久尼城が在り、 集落内を抜けて君尾山光明寺への旧参詣道を監視する位置にあります。 一大寺院として隆盛し上林荘の一部を寺領として有していた光明寺とは上林中と上林奥の地区を分ける境界にあり、 領地・勢力共に相対する関係に在った城と推定します。
比久尼城主郭(大土塁?上から):土塁は既掘抗を残す古墳?か

丘陵の北側にも湿田・沼田池?を挟んで同様に低い尾根先を西に延ばして畑口川に突き出しています。此処にも姥ヶ城が在って、共に城史は不明ですが平安時代:保元年間(1156-59)頃蔵持丹波守の 築城を伝える古城ですが、 小規模ながら城域を囲む土塁・空掘は中世戦国時代〜近世にまで 改修されながら使用されてきた遺構と思われます。 比久尼城へは畑口川を渡って直ぐ丘陵裾に並ぶ10軒程の集落内に向う地区道を進むと、宅地の間から城域中程の曲輪に入っていく畑地の畦道の先に小さな墓地を見る。
比久尼城:主郭北の帯曲輪

左右は藪地だが平坦地形が続くようで、 西側の藪に進んでみると 10m程先に直線的な盛り上がりを見せる土塁線。 単郭曲輪を幅広い横堀が二分して西側主曲輪側を大土塁が捲く。横掘北側は城域の西〜北側〜東から南へと帯曲輪が廻り込み、 其の東末端部は途中に墓地のある堀切道で、先ほど途中から取り付いたが、 集落内を直進する地区道は此の墓地への参道なのか?。
比久尼城主郭:空掘からの土塁虎口部

堀切道は北に抜けるが池・沼田濠跡か?下草藪の、谷間の湿地帯の対岸に姥ヶ城が在る。比久尼城の城域というより ・丘陵部全体の西〜北面を包み込んだ鉄壁の防御線の 突破口は限られてくる。満水時の喫水線を想定しながら東から北へ向う 丘陵部の藪斜面通しにトラバースして谷筋の細くなった溝谷を越えて対岸の尾根の取付いて尾根を目指し姥ヶ城域最北部の堀切に出た。
比久尼城東曲輪部:東末端に少し高くなった櫓台?状三段曲輪と内側の平坦地形

居館・館城の比久尼城と其の詰め城としての 姥ヶ城の関連も考えられるが …?(姥ヶ城については後編レポートで…)城域中央部の空掘と土塁を越えて比久尼城の主郭に入ると、西北と西端に三ヶ所ばかり同じ様な高さ・大きさの土塁壇が有る。これ等西側の土壇下から北側を延びてきた帯曲輪の東端上部にも櫓台状に三段の曲輪が並ぶが、 円墳頂部マウンドを均して使用したものか?。
比久尼城東郭部末端と空掘状地形

高さ3〜4m・径10m前後の標準的な?中規模円墳と思え、墳丘部にある大きな溝状は既堀抗なのか?。 綾部市遺跡地図には郭内に”皿田古墳群”として5〜6基の古墳存在を記してある。低丘陵部鞍部の大空掘地形を堀底道として、 城域東端を抜ける山道は集落内の墓地へ通じているが、 抜け出ても沼地で行き止まり。此の自然の堀切道を見下ろし監視出来る位置に比久尼城東郭の曲輪が並ぶ。土塁を積み横掘を掘る縄張り技術を有して、中上林 ・奥上林が地区が分ける境界近くに有りながら、
姥ヶ谷砦の大堀切

侵入側となる東には 自然地形の堀切が在るだけ。防御に適した急斜面でも・切岸が高いわけでもない。改めて姥ヶ城を”詰め城”とした居館か?。それとも近在の城郭を未だ知らないが、小城とはいえ城域全体に帯曲輪や空掘・土塁を廻らす縄張りは少ないと思う。 他勢力が光明寺等を攻めた際の陣城として、改修しながら使用されたものだろうか・・・?


姥ヶ城  XXX山  Ca190m    綾部市五津合町(遊里)向上山

城史は不明ですが平安時代:保元年間(1156-59)頃 蔵持丹波守による築城を伝える比久尼城とは、 沼田・湿地帯の小さな谷間を挟んで呼応する姥ヶ城も以来、寺社・幕府の代官職や 在地土豪の持城として、代・城主は換わっても中世戦国時代にかけて改修を重ねながら使用されてきた遺構と思われます。
姥ヶ城:主郭東面の帯曲輪

平安期の寺社代官?:蔵持氏の居館・居城も、中世戦乱期になると 荘園領地の横領等侵攻に備えて比久尼城を防備補強すると同時期に、山城・詰めの城として尾根筋を堀切で遮断して城域を確保し、 いつの時代にか小規模ながらも城域を囲む空掘、空掘を越えて 曲輪内に入る土橋となるのか ?仕切り土塁を設けた姥ヶ城 が築かれています。比久尼城とは谷を挟んで北方約200m程・向い側丘陵上に姥ヶ城があるのですが、此の谷間が”くせもの”で易々とは向う岸へ行き着けません。
姥ヶ城:主郭西面を巡る空掘と仕切土塁(中央上)

谷間出口の下方は 川筋を下草雑草で覆い尽くされた荒れた田圃跡 地?、上流側も沼田・泥田の湿地帯。 丘陵部斜面裾は高さこそ4〜6m程だが崖状の上、鬱蒼とした雑木藪を突いて進むのもヤッとのおもい。どうにか足がとられず ・ズリ込まない程度の地表を見つけ、倒木を利用しながら向い側丘陵裾の細い溝を飛び越え、 急斜面に取り付いて目指した尾根部に堀切があった。
姥ヶ城:主郭から:西へ低段差の曲輪が続く

北末端に城域を分ける唯一の堀切で・高離5m程を越えて僅かに低土塁跡の残欠を残す主郭に達するが、堀切内には二ヶ所・1m程の間を空けて穴が有る?。 わざわざ此んな場所に獣用の落とし穴だろうか?。 福知山市夜久野の城にも似た様な穴が堀切土橋を挟んで掘られていたが・・・?。 堀切は北西へ抜けると・其の北端から西〜南 〜東へと尾根上の主郭群を一巡して廻る空掘に繋がる片堀切。主郭に入ると堀切側の北端から西を低土塁が囲っている様だが、土塁痕?は一部に残るだけ。
姥ヶ城:主郭側から鞍部(中曲輪)の平坦地形と南曲輪と土塁(最奥)

郭内地形は 南に緩やかな傾斜で下っていくだけで、切岸は消え?途中の曲輪も段差が分からないほど崩れてか、境は曖昧になっています。もっとも削平してまで曲輪を 確保する造成がされていたのかも不明ですが!!。 主曲輪から約50m西下方の鞍部が尾根全体に約20u程の方形平坦地形を保ち、一段曲輪(緩斜面上)の先(城域南末端)に分厚い櫓台土塁を設けている。
姥ヶ城:南曲輪と先端の櫓台土塁

南下へ続く踏み跡を伝うが谷中の湿地帯に向う様なので、密生する矢竹 ・篠竹を掻き分けトラバース気味に下降しながら急斜面を滑り降りたら谷奥に延びる山道に出た。素直に踏み跡を辿ればよかったのですが、此れも初見参の骨折り損(無駄)で、湿地帯の谷間を抜け出て、畑口川堤防沿いに府道 1号線に戻る途中、田に水が張られ・代掻きを終えたらしい田圃の先には、正面に瀬尾谷城・東(左)方には一つ置いて、三角推形状の山容を見せる弓削城が望まれる。


瀬尾谷城と弓削城
瀬尾谷城
  弓削西山!!(4等 )  268m   綾部市八津合町(瀬尾谷)後ヶ谷・(大町)兵衛ヶ迫・(弓削)西山

先に畑口川寄りの比久尼城と姥ヶ城を訪ねて府道1号線 (綾部小浜線 )に戻ってくる。南側の正面にテレビ中継所施設の建つピークに 4等三角点 268m(点名は瀬尾谷か?)標石柱を埋める丘陵上に瀬尾谷城が在りました。 長閑で広々とした田園風景が拡がる丘陵の北山裾を東西に上林川が流れ、東方に比高4〜50m程の独立する小山と並ぶ東側には比高6〜70m程の三角推状の綺麗な山容を見せる山が見える。
瀬尾谷城主郭(最高所)の南側に低土塁の残欠

標高253m峰から北西に延び出してくる尾根先部が少し盛り上がった此の位置には弓削城が在ります。 上林川を境にして八津合(やつあい)町と五津合 (いつあい)町に 分かれるのか!?、二つに城は共に築城時期・城主等の城史は不明ですが、 上林川・府道1号線を挟んで北に位置する比久尼城・姥ヶ城の丘城とは好対照というより、縄張り自体も大きく異なる素朴な?中世山城。
瀬尾谷城主郭から南尾根側の堀切(竪堀)を望む

瀬尾谷城・弓削城へ北方から向う場合、 府道1号線を東へ進み、君尾山林道・キャンプ場への分岐を見送り【君尾山光明寺・綾部温泉二王の湯へはさらに府道1号線を進むが 】ガソリンスタンド東角を右折すると、 上林川に架かる弓削橋を渡ると右手に急斜面を落として迫る丘陵尾根上の瀬尾谷城へ、 取付き点を探すが山道は無さそう。 山頂部のテレビ中継所への巡視路も西延びる尾根に付けられている様?で、東からの急峻な枝尾根部には山道も無さそうです!。
瀬尾谷城:北郭(北出曲輪)の尾根南の段曲輪

弓削橋を渡った先に造成された広い空地があり丘陵裾部を小溝が廻っている。 藪・下草で足場も見えぬが”ぬかるむ”荒れた浅い谷筋に僅かな水流をみて、溝を越え谷筋を少し詰めてみようと思ったが、数m先の斜面に踏み跡を見つけて激急斜面に取り付いた。
瀬尾谷城:北郭(北出曲輪)の尾根北面の段曲輪とテレビ中継施設

急斜面に城遺構らしいものを何も見ないまま尾根筋に着いたら、 其処は20x25m程の平坦地形の丘陵部最高地点。藪っぽいが北へ延びる尾根筋に三段程の曲輪を下ると、 細長いダラダラした鞍部の平坦部を過ぎた緩斜な上りも細長い尾根が続いて、2〜3段の小曲輪先に”NHK綾部八津合テレビ中継所”施設が建ち、側に4等三角点268m(点名は瀬尾谷か ?)標石柱が埋まる瀬尾谷城の北郭(約15u)は北に下る尾根続きにも 2段程の小曲輪が並ぶ。
瀬尾谷城:南郭(南出曲輪)へ向う平坦尾根

テレビ中継施設の建つ北曲輪の南北に続く小さな2〜3段の曲輪だけが 1〜1.5m程と高さは無いが切岸加工を見る。瀬尾谷城は丘陵最高所に主郭を置き、 東西に細長い羽根を伸ばした羽先に、北郭と南郭を置く縄張りだが 単なる物見の出曲輪なのか?。主郭とは細長い平坦地形で結ばれているだけで、僅かに主郭の南郭側に堀切が有るが途中に固有の曲輪も無く、両:南北の郭も其の郭を防備する為の堀切・縦堀も、 南郭を護る曲輪さえ無さそうです?。
瀬尾谷城:南郭の先にも鞍部を越え土橋状の尾根先にも主郭と同規模の平坦地が有る!!
(下山は此の鞍部に引き返して谷筋に下った)


南側端には薄くなってはいるが低土塁残欠の盛り上がりを見る。土塁は南へ延びる尾根上に少し開かれて虎口状を呈しています。 緩やかな傾斜を降る先に埋もれて尾根上に浅い窪地程度が認められ程度だが堀切が有る。 もっとも狭い尾根筋を土橋として、両サイドを竪堀にしているのかも?。東側斜面に落ち込む竪堀だけが顕著に残るが、この先 :細く延びる尾根端に大きな露岩を見る程度で、 南先端部の平坦地形(10x15m程の曲輪)に着く。
弓削城 :西郭の二重堀切

南へは更に平坦地形の尾根筋を延ばして最高所の主郭と同程度の曲輪(平坦地形)までは云ってみたが、城の縄張りとしては精彩を欠き城域としても判然としない。これ以上南へ曲輪が延びていても、 自領地監視には不適・此処までの遺構からしても平坦地形以外・曲輪の切岸・堀切・土塁等の防備施設が施されている可能性は無いだろうと思い、少し戻って谷筋に降る踏み跡を辿り、集落内の地区道に降り立った。


弓削城    弓削東山!! Ca230m    綾部市五津合町(弓削)東山

弓削城へは其のまま地区道を東へ向えばよかったが弓削橋
【上林中学校先の分岐で府道1号線には入り、畑口川を渡り君尾山(光明寺の上を抜ける)への広域林道を左手に見送って直ぐ、ガソリンスタンドの東角を右折すると、
西郭部 :大土塁を挟む二重堀切

上林川に架かる弓削橋に着く・右手の急斜面丘陵上の稜線に瀬尾谷城在る】
まで戻り、上林川沿いに目前の 神社記号の有る極小独立山塊の北裾を東へ捲いて抜け出て、田圃の先を更に東へ向うと上林川側に建つ”上林簡易水道浄水場 ”施設前で、道は行止まり・此処から弓削城を目指して登城開始。
弓削城主郭

当ページのプロローグに 載せている画像で想像出切る通り、遠目には富士型の美しい山容・浄水場の在る 北から取付く尾根筋は不明確なうえ・広くて急な斜面が続く為、どこから取付いても同じか!?。 西から北へ山裾は田圃で用水溝が廻り、猪垣フエンスが有って・浸入可能と思えるところも ?雑木藪に覆われている様だが一端侵入すれば直ぐ植林帯・比高も7〜80m程度で藪漕ぎも無く暫らく我慢すれば 城域北端の二重堀切に着く。
主郭(西郭)と東郭を分ける中央大堀切

堀切に挟まれる形の大土塁、 大土塁から望む主郭側は、深く広い堀切と高い切岸をもつ主郭
(四方を急斜な自然の切岸に囲まれた主郭部は約70cm程の低い段差で二区画に区分され、切岸を越えて西曲輪に入り、続いて広い主曲輪内にも一部に低い方形の土壇状をみる)の先へも、深い谷底に降りていくような 大堀切を越えた曲輪の先には幅広い横掘(箱堀)と、切岸を突き立てる東郭部の主曲輪が迎えてくれる。
中曲輪から見る幅広い横掘(箱堀)と東郭の切岸

細長く北方へ延び出す尾根先端部は小丘陵ながら急峻で、其の稜上を削平して築かれた 150〜200m程を城域とした小規模な縄張りは、 唯一:横掘から東曲輪を捲いて東下方の曲輪へ繋ぐ帯曲輪をもつだけで、梯郭式に尾根上に曲輪を並べただけの単純構造ですが、 二重堀切と大土塁・城域中央部の大堀切・東曲輪の切岸と横掘は、 遺構の残状態も良く中世山城の雰囲気は充分楽しめます。
東南麓の土塁!!?

東郭部から尾根筋を 東下へ降りてゆくと自然地形か?山林作業用なのか深い竪堀状をみる。山麓まで土塁道を伝い 畑地か果樹園跡地の広い平坦地に出た。土塁は更に其の一方へ延びていくが、谷水排水等の堤防?では無さそうです。

土塁の一方は土居状に平坦地を囲む

弓削城を詰め城とした居館跡ならBESTとも思えますが、瀬尾谷城と弓削城の間に位置して 神社マークの独立小丘陵も、北側を流れる上林川を濠としての 居館があったとしても不思議でもなんでもない!!。瀬尾谷城・弓削城ともに築城時期や城主等の城史は不明なので、郷土史家・研究者の現地遺跡調査や、市史・古文書等の発見や研究発表等に期待するところです。


片山砦と日置谷城
日置谷城   xxx山 Ca245m    綾部市八津合町(日置谷)本城・(片山)村奥

R27号の山家から府道1号 (小浜綾部線)に入ると、上林川流域に沿って何処までも ?拡がる広大な田園風景は口・中・奥の三地区で、綾部市の約三分の二を占め・近畿地方でも5番目!!と云われる田園地帯。上林荘の荘園領主には、 平安時代末頃には岩清水八幡宮が、鎌倉時代には高雄神護寺が一部を領していたと推定されています。室町時代には相国寺領となり、寛正2年(1461)や天文8年(1539)文書には上林地域が相国寺と
日置谷城(東出郭)の土橋付堀切

・上林荘の代官を務める仁木氏の荘園になっていたものと思われますが、上林荘内各所では在地土豪等による荘園の横領 ・私領化、 複雑に分割されていった様ですが、伝承も少なく殆どの城砦に築城時期や城主を伝える記録は無さそうです。綾部市遺跡地図 (1998年)によると口上林地区に沼ヶ谷城・赤道城・折山城・梨子ヶ岡城等8城。
日置谷城(東出郭)の竪堀

中上林地区には 上林城(生貫山城)・日置谷城・比久尼城等10城。奥上林地区には山内城 ・神子谷城等4城の存在が確認されていますが、 地区住民に古くより・よく知られているのは上林城だけか?。生貫山城(上林城)とは上林川を挟んで真北・約800m程に位置する日置谷城本城を目指しての 登路を上林禅寺からと思ったが、境内本堂前から西へ延びる丘稜へ入っていくのに躊躇して府道1号線沿いの集落内民家側からは、
日置谷城主郭:東出郭からの尾根は此の竪堀と大土塁(竪土塁)に阻まれる

白い鉄梯子付きフエンスが見える丘稜裾の 山林管理道から取り付いて、 急斜面を稜上目指し東 ・東へ斜上して 東郭の城域北端にある土橋付堀切に着いた。足利尊氏に従って武功の有った上林氏が室町幕府命で 上林荘に地頭として入部し、天文年間の光明寺再建に在地の有力土豪としての勢力を示している。
日置谷城(主郭部):土塁囲いの南曲輪と空掘

・・・が上林氏は山城(京都)宇治に移って茶園を経営し・豊臣秀吉からは宇治茶頭取として 宇治茶の総支配を命じられ、徳川家光の代には宇治茶師を 務め、宇治と上林の 両地を管轄していた一族で、上林城を其の居城としており ・輪郭状の頂部に広い主郭を置く縄張りながら、府道1号 ・上林川を望む北面に高い切岸をもつ以外、堀切や竪堀・土塁囲みの曲輪は無い。ところが現状にみる日置谷城
上林小学校北東:標高約Ca245mに主郭部を置き、
主郭:『字状空掘と土橋(仕切土塁)・竪堀・虎口受曲輪へと複雑?(技巧的 )な遺構が集中

東へ延びる尾根上へも縄張りを延ばし竪堀・土橋付堀切を備えた東郭部をもつ。西の主郭群と東郭を分ける堀切等は無く、 緩衝帯状の平坦地形は直ぐ東郭部の曲輪と末端部の土橋付堀切になり出曲輪とするか、縄張り特徴が極端な程に異なり一城別郭と見るかは知らないが尾根先は 上林禅寺にまで続く】の主郭群は曲輪の両サイトの尾根端に大土塁を積み、
日置谷城(主郭部 ):南曲輪を囲む大土塁は竪堀沿いの竪土塁ともなっている!?

土塁線沿い(曲輪を囲むが竪土塁にもなっている!!?)の外側を 何条かの竪堀と、畦状竪堀群
<竪堀というより枝尾根筋を割ってU字状・フォーク形状をして傾斜も緩やかな 空掘もある?・堀切・空掘・竪堀の定義?を知らないが ・・分けて考えることは無用なのかも?、 堀切は左右の延びて大概は竪堀となっている様に!!??>を設けて防備している。更に主郭を分ける 二ノ丸とも呼べる曲輪を仕切る大土塁がそのまま主郭周囲を土塁で囲い込む。
日置谷城:主郭を囲む長い土塁線

南中央部と左右に虎口が開く。右(東)側からは廻り込んで 入る”喰い違土塁虎口”状を呈する。 上林荘内の多くの城を未だ見て廻っていないが、尾根筋等一部に土塁を積んで切岸を高くしたものはあるが、土塁囲みの曲輪と竪堀群や畦状竪堀群を駆使した 縄張りの城は他に未だ無い。
日置谷城:主郭北端の大堀切

上林中学校の北丘陵に片山砦があり曲輪四方を土塁が囲み尾根側に 堀切を設けている例はあるが、 日置谷城の出曲輪・砦として既存の山城と砦を同時期に改修されたものか?。日置谷城・片山砦ともに 城主等の城史は不明ですが、藤懸(藤掛)氏の築城・または改修であれば織豊系特徴を持つ縄張りと推定できる要因はありました。
片山砦:山裾の曲輪切岸(屋敷跡か?)

藤懸永勝は織田氏の一族で ・秀吉の養子となった信長の子秀勝に随(したが)い補佐して、丹波に 6000石の所領を得ていたようです。秀勝の死後(天正13年<1585>)秀吉に仕えて文禄の役 (朝鮮出兵)等に従軍し、関ヶ原合戦までは上林荘に 13000石を領する大名となっていました。関ヶ原合戦(慶長8年<1603>)には西軍に付き・丹後田辺城(舞鶴市)を攻め、 戦後・6000石に減封されるが旧領を安堵されたという。
片山砦:屋敷跡?から 東へ廻り込む帯曲輪(山裾左は中学校資材倉庫付近)

永勝は元和3年(1617)に没し、子の永重は家康に仕え・子孫も徳川旗本として存続したが、 子孫への分封に依るものか?最後は4000石だったという(資料不詳)。藤懸氏は上林城の西南麓に藤懸陣屋を構えているが、上林城(上林氏は居ないので?生貫山城と呼ぶべきか?)と日置谷城(字名が本城でもあり !!?)を居館とも居城ともしていたものか。



片山砦   片山!?Ca205m  綾部市八津合町(片山)片山

日置谷城西郭群は遺構残存状態の良さに加えて、 近在の城跡に見ない特異な縄張りに圧倒されます。其れだけに丹波 の土豪:上原氏等の城というより、 中世末期の光秀 「丹波攻め」以降〜信長・秀吉に仕え、関ヶ原合戦後は家康に仕え・此の上林郷に陣屋を構えた藤懸氏による織豊系に改修された縄張りとも思われます。 主郭部の主曲輪周囲を囲む土塁・土塁を割って 主曲輪に入る”喰い違土塁虎口”状や『字状空掘りのコーナー部を仕切る(土橋)土塁
片山砦北土塁虎口

・此の空掘が南側の続く曲輪を横掘として区切り、更に南斜面に竪堀となって落ちる。空掘部は東郭部の駐屯兵が各曲輪守備位置に就くための移動ルート兼用か?。 主曲輪の南側曲輪も背後は切岸・左右は大土塁。 外側を竪堀、西側斜面には畝と溝を等間隔に幾条もの畝状竪堀群と竪堀が設けられ、上段曲輪への上り大土塁は竪土塁を兼ね、 これ等の空掘群から侵入する敵を狙う。
土塁囲みの主郭:北端堀切側土塁

縄張りと遺構に興奮覚めやらぬまま、 南曲輪竪堀から西よりに斜面を下り、 山麓の白いフエンス沿いに鉄梯子を見つけて、民家裏手から府道1号線に出たところが日置谷バス停の側。 府道1号線沿いか・起点とした上林禅寺前を通る地区道を上林中学校に向う。学校の西側を山裾に向う奥に運動用具等に資材倉庫が在り、地図上の貯水池 !?に向う道を挟んだ西丘稜端の踏み跡から 取付いてみると藪の平坦地。
主郭北端の大土塁と堀切

正面に切岸を立てるもう一段曲輪が有る。山上の城砦を護る守将等の屋敷跡とも思えます。 段曲輪から山上片山砦主郭まで・然程急上ではないが雑木藪を漕いで登る と、四方を土塁で囲まれた主郭(35mX50m程の一曲輪だけの単
<主郭内は荒れて雑木等で覆われてもいるが、傾斜部分もあり区画されていたのかも?>)の一端が開かれた平入り虎口に至る。正面奥(尾根側北端)の土塁が分厚く ・特に大きく見えたのも当然で、
土塁囲みの主郭:虎口から南側の土塁線

大堀切が尾根を遮断している。 空掘は無い様子だが主郭部だけは日置谷城縄張りに似て、土塁を四方に廻し、北尾根続きを大堀切で遮断しており、上林川(府道1号線)と畑口川(府道51号線)合流地点を監視出来る位置に在って、日置谷城の砦・出曲輪となっていた感は強い。 地図を見ていて後で気付いたが、堀切を越えた先203mの尾根上から南西の尾根先に寺院が在り【寺・院の名を忘れたがプロローグ最初の画像は此の寺前から上林城方面を撮ったもの】城域が展開されていた様に思えた。


真野城
  xxx山 274m(4等 )    綾部市睦合町(真野)三ツ口・丸山

府道1号(小浜綾部線)を上林川沿いに口上林地区の赤坂城・沼ヶ谷城・赤道城 ・梨子ヶ岡城・井根城・東中山城・佃城、中上林地区と境する折山城を訪城しレポート済みですが、府道1号線から折山城の在る忠町への分岐「大宮バス停」側に「延喜式内社河(珂)牟奈備神社 (旧郷社で祭神は天下春命)が鎮まる。
真野城曲輪群南端部の土塁囲みの虎口状は祠への参道遺構か?

和銅2年 (709)創建で綾部市<何鹿郡>最古の歴史をもつ式内社。小峠を越え東へ下り、井根町(井根城が在る)への分岐を過ぎると中上林地区の睦合町に入ってくる。睦合町真野には第一区の丘陵頂部に大谷城・府道1号線側に突出す丘陵部に城主:温井又三郎の土野(肘野)城が有るが、所在位置等未確認で次回に訪ねる事にする。今回は真野の○○工業所・JA倉庫とは府道を挟んで北上の集落に
曲輪群内の祠跡

斜上して向かう地区道をとって、集落内で大きく左折する狭い車道を西端の墓地前に進む。 真野城へは車道の東北側墓地側から4等三角点峰に主郭を置く真野城迄は尾根伝いの山道を辿る。荒れてはいるが杣道にしては幅広く歩き易い。 緩斜面が続く為、平坦地形が自然地形か曲輪跡か判断出来ないまま進むと、単調な雑木藪地の尾根筋が幅広くなり(約3-4m幅)の左右が低土塁・正面を曲輪の段差で、三方を囲む長方形のコの字状地形に着く。
真野城主郭の土塁

高低差こそ小さいが平入り土塁虎口の様?。此れより曲輪4?5段が連続して最高所となる主郭尾根側には堀切ではなく横一文字:東西尾根幅一杯に高さ1m程の低土塁が城域を確保?・区分している。虎口状からの上段は先ず急に幅広くなった曲輪(幅約25-30mX奥行も約 20mと大きい)に入る。
主郭:土塁外(尾根側)の曲輪とは思えない?緩斜な平坦地形

其の上段は少し狭くなるが石組の 礎檀に崩れ落ち埋もれるトタン屋根は社殿跡か・祠の覆屋か?。尾根上の山道や先程の虎口状や二段続いた平坦地形は此の社殿への参道と施設だったのでしょうか? 祠跡地の削平段の背後にも同規模の曲輪が二段続く。最後の削平段の尾根続き北端には曲輪側(内側:主郭約25u四方)約1m・北尾根続き(外側)に約1.5-2m程の段差で曲輪の東西を一文字の仕切り土塁を築いて城域を確保しています。
真野城主郭(尾根側外から)の土塁

此の土塁上に4等三角点(点名不詳:274m)石標柱が埋まる。 土塁の外:北東端に一本の竪堀が落ちる。指して堅固とも云えない低土塁だけが唯一の防備施設?。城遺構は此処だけに顕著の様だが、 主郭南側は切岸も曖昧な4-5段の曲輪が、北の尾根続きも期待に反して単調な、幅広いがただの緩斜面が鞍部?に降って延びていくだけ?。城址の尾根筋南方は綾部市・京丹波町境の「山家」から福井県大飯・高浜?小浜へ通じる
主郭内()北端の土塁

上林川沿いの要衝若狭街道が通じ、その監視防備の城砦群の一と思えますが、 尾根筋南方に堀・土塁等の防備施設は見落としたか?一切見掛けない?。居館と山城セットを考えると未訪だが直ぐ南西の土野城(居館?)と大谷城 (山城)を推定すると、真野城の築城目的や縄張りからは祠による改変を考慮しても中世後期(天正期頃)まで使用された城では無さそう?。
真野城主郭土塁外側東端の竪堀

城史詳細は不明ながら杉山和泉守が城主と伝えられます。綾部市有岡町の 有岡御領城の城主が杉山和泉守政国と云う。同一市内・同一姓ながら関連も不詳。城主が伝えられる中規模の城砦ながら、一本の低土塁と竪堀の遺構以外には縄張りに観るべきものは無さそうです。
(綾部市遺跡地図を参照)


永龍山上林禅寺(臨済宗南禅寺派)    八津合町村中(中上林地区)

府道1号(綾部小浜線)沿い・上林小学校と上林中学校のほぼ中央付近の北側に位置して、綾部(旧:何鹿郡)西国三十三所観音霊場の第31番札所上林禅寺が在る。鎌倉時代:永仁元年 (1293)天月窓白和尚の開創による天地山大了寺(後に乾坤山大龍寺)と、寛永5年(1628)上林城主藤懸永重が父永勝の菩提を弔うため 八津合町馬場に建立し、藤懸氏代々の菩提寺永勝寺を昭和42年(1967)合寺されたもので本堂は永勝寺から移築された。
日置谷城東南麓の上林禅寺

境内の”枝垂れ桜”や公孫樹の大木は「綾部の古木・名木100選」で、枝垂桜は御詠歌に謳い込まれています。堂内の襖絵は江戸時代の画家:狩野派の吉田(法眼)元陳により、寛政3年(1791)本殿や 客殿に描かれた唐獅子・淡彩四季・花鳥・竹林七賢人・寒山十得など水墨画の34面が綾部市指定文化財に登録されています。
(現地:上林善寺案内説明板 綾部市教育委員会(平成5年3月1日) を参照)
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