綾部市・由良川北方の山城探訪T  丸山城・六反城・物部城・高槻城・浅根山城・北野城・東野城
京都:綾部市 (五万図=福知山・綾部・舞鶴・大江山)
福知山し境界から舞鶴自動車道北方の城巡り 2008年09月20日
近畿の山城 丸山城 六反城  物部城 高槻城
  浅根山城 北野城(志賀城) 東野城

綾部の伝説 志賀の里七不思議 諏訪神社の御用柿他
物部城南郭に建つ、物部神社・鳥居前に竪堀がはしる

由良川左岸(北側)府道74号の栗町交差点を北へ、 R9号線は舞鶴自動車道を潜った館町から大畠町に向かい丘陵を廻り込んだ集落最初の民家側に丸山城がある。此処は府道74号の下位田から府立農大を抜けて大畠町地区道に合流する地点で丘陵南端にある城で、単純に曲輪を重ねた遺構ながら 広い主曲輪は居住性の高い館城の趣・堀切・高い切岸・土塁の遺構残存状態も良好な城です。
大畠町に入る西口を押さえる丸山城

府道9号線の館町に戻り、北へ少し進むと今田町を示す看板が犀川傍の公民館側に見える。正面丘陵部に六反城。 大江町方面へと北に向うと物部町。府道から犀川を隔てて 物部城(高屋城)のある丸味を持った独立丘陵が見え、丘陵裾に鎮座する諏訪神社か物部小学校が目標。
六反城への取付きとした一宮神社

物部から東へ農免道路の様?な車道がR27号に連絡しており、 何度か弥仙山や舞鶴市に向かったR27号線・足利尊氏ゆかりの安国寺の案内標識を見てJR梅迫駅を目指す。 通信施設の建つ高城山は麓の梅迫駅前から直接高城へ行くつもりだったが 駅前付近に車を止められそうな所も無さそう…次回に機会を待・駅前通り?の狭い集落内を北に抜け、東方に綾部市の総合運動公園側から 舞鶴自動車道を潜って物部へ向う道路?と交差する。 随分と遠回りした様ですが、交差点の正面に広がる田圃と民家の奥に独立丘陵の低い丘が見える。
高槻城(テデカ城)の在る小さな丘陵を囲む様な高槻集落

直進する地区道は此の丘陵東裾を更にその奥に連なる山懐に向かい袋小路の様な北へ廻り込んで行く様で、 丘陵部手前の地区公民館前に止めさせてもらう。公民館向かいの民家の人もこんな所へ…と怪訝そうだったが城址探索の旨を伝えると納得?だが此の城も登城口は墓地。半分は下草で蔽われた雑木林。 半分は二方に広がる尾根の曲輪遺構はそのまま・末端部まで墓地に転用されている様子。此処も大きな土塁と土橋を伴う大堀切、主郭側の切岸も高い。



 丸山城 六反城  物部城 高槻城 浅根山城  北野城 東野城

丸山城 丸山 89m  綾部市大畠町丸山

府道9号線(綾部・大江・宮津線)で館町から東へ一本道、 送電線鉄塔が建つ三角点峰(148.8m)から東方へ延びる尾根が谷を挟んで 一端切れ、小さく盛り上がる半独立丘陵が 大畠町に入る車道に被さるように 落ち込む。其の東角に大畠町最初の民家が建ち、その間から丸山城に入る東山裾を北方へと山側の道を進みます。府道74号線からは栗町から案内標識の有る府立農大・
丸山城主郭の土塁

畜産研究所の建つ 丘陵を抜けて下って来る直線道路の正面で館町からの道と合流する。大畠町集落最西端の半独立丘陵上にあり集落入口を見張り警護を固めているようだが、集落自体は丘陵に周囲を囲まれた盆地の中に耕地が広がる 長閑な風景を見るだけです。ただ突き当りの丘陵上を越える山道が 丹波守護代ともなった上原氏の本拠城 :物部城のある物部町に抜ける。物部城の丹波守護代:上原氏に抵抗した 位田の乱荻野氏等と共に籠城した大槻氏の城砦群の一つです。
丸山城主郭の土塁

縄張りは小さな独立丘陵丸山の頂部に 主曲輪を置き、南への急斜面に沿って3〜4段の腰曲輪・帯曲輪を廻すだけの単純な単郭式ですが 主曲輪の背後を大土塁と見事な大堀切で城域を完全に遮断しています。 主曲輪も約30X40mと広く下草・藪に覆われてはいるが丁寧に削平されている居住性の高いもの。丸山城の城主は 大槻山城守遂重(道重とも?)で大槻佐渡守時晴が栗城(一尾城)を築城した永禄元年(1558)頃、 同時期に築城されたものと考えられます。一尾城は永禄3年(1560)若狭の高浜城主・逸見駿河守宗近と高田豊後守等に攻められ
丸山城の大堀切

客将・村上蜂之助義近が奮戦して逸見宗近を討死させている。綾部・何鹿・天田郡と丹後地方の豪族との関わりは不勉強でわかりません。 丸山城と同様に低丘陵の尾根全体を城域として居住性を持たせた大槻氏の館城には、この日訪ねた高槻城も主曲輪は同程度に広く、 深い大きな堀切と高い土塁、よく似た形態の城でした。

(福知山市史を参照)

六反城
  城山(ジョウヤマ) Ca160m  綾部市鍛冶屋町六反城山

小西城〜空山登山口とした鍛冶屋町への途中にある一宮神社から踏み跡薄い藪尾根を最高地点(4等三角点165.4m)まで行ってみた。曲輪一段下に帯曲輪を廻しているが尾根南端は私市・栗町側から大江町 (旧加佐郡)や舞鶴市への分岐点・物部城の南口の一端を守備する要衝に 位置しているように思え、要衝の通行監視なら最高所より尾根を南に下がった位置に目的に沿った城遺構がありそうだが肝心の主郭部遺構を確認できず消化不良のまま藪山を後に敗退。
六反城遠望:左端付近に一宮神社

以前六反城を探して豊里西小学校(廃校)下に 綾部の民話「ポイの餅」の説明板の立つバス停まで来たことがある。此処から空山への登山が主目的でしたが途中に 小西城がある事も知った。小西城は享禄年間(1528〜32)頃 ・丹波守護職:細川稙国の死去により、隠居していた細川高国の丹波侵出(再び丹波守護となった大永5〜享禄4年(1525-31)に伴って波々伯部(源内左衛門)義信が何鹿郡の荘園(木幡荘!!?)に築城した城という。 波々伯部氏は物部城の上原氏同様に神官の家系で、丹波多紀の豪族で八上城主波多野氏配下の重臣で知られます。足利尊氏の丹波篠村八幡宮での挙兵(旗上げ)に玉巻城の久下氏 ・高槻城の大槻氏等と共に、逸早く駆付け活躍しています。 以来京や京丹波に居て警護等に就いていたものか?。 波々伯部氏は・管領:丹波守護職となった細川氏の下で 常に細川氏の丹波守護代にあった八木城主の内藤氏に付いて行動していたものか?。
中央分岐ピークから南尾根上の曲輪群…b?
(北郭からの帰路に行く筈だったが…!!)
細川高国から稙国に代わった大永5年(1525)、 同年に死去すると再び隠居していた高国に代わる。翌年には守護代を放棄するが、さらに翌年には高国側に走ります。高国の死後の天文2年(1533)細川晴元の被官として復職しますが、再び内藤氏が丹波守護代に返り咲くのは 天文23年(1554)内藤貞勝の時!!?、その間の丹波守護代が誰だったか確認せず未調査ですが内藤氏等の守護代不在?時期の小西城の築城は高国直々の命か?。其の小西城前衛となる六反城は 何時頃誰により築城され、 誰が守備していたのか?。城史一切が不明ですが、城砦跡の遺構も明確に残されていない。曲輪の存在を示す切岸や土塁も無く?僅かな段差で・削平地を感じさせない自然地形に近い平坦地や、埋もれかかり浅くなって 唯の凹み状の見える堀切等々…あらためて再訪の山城が鍛冶屋町に (小西城と六反城)2つ出来てしまった。
分岐ピークと4等三角点ピーク鞍部の堀切!!


小西城へは鍛冶屋町へ向かう手前の奥小西バス停から西の集落を詰めて無住の 大永寺裏手の急坂を登り詰める。この城も位田城のように 東西二つの峰に 郭があって堀切や竪堀、腰曲輪を伴う本丸もあったのですが、六反城も今田町と鍛冶屋町に囲まれた独立丘陵上の4等三角点(点名?165.4m)と 南と東南に延び出す二つの尾根のジャンクションピーク Ca160m付近に郭を分けて 築造される縄張りかも知れない。主郭は三角点より南下部のピークが犀川に面する舞鶴街道と大江町への間道が合流して綾部・福知山方面へ由良川沿いに 通じる綾部街道を望む要衝監視の城で、尾根筋の南方ピークが主郭部のようだ未確認。駐車スペースを探しながら丘陵西を今田町から鍛冶屋町に向う中程にある一宮神社から 二つのピークの中央部に登り着く尾根に取付く。踏み跡は有ったが直ぐ消え藪漕ぎとなるが藪は薄い。直ぐ尾根伝いに中央稜に出た。
4等三角点ピークの北郭主曲輪と帯曲輪

自然地形の割りに広い平坦地形には大小2つばかりの曲輪になっている様。此処から最高地点に向かい、緩い下り坂から同様に 緩い登りとなる鞍部に浅い凹地を見せる堀切が有る。山頂部付近には低い段差が二つばかりあって山頂に石標柱の埋まる4等三角点に着く。一段下は帯曲輪が捲く北郭の主要曲輪だった。尾根伝いの南下方に曲輪は続きそうで、 帰路は此の尾根を辿ろうと思っていたが、何処を向いても同じホワイトアウト状態で踏み込む尾根筋を間違え、あらぬ方向に進んでしまい顕著な遺構も無さそうで再トライする気も薄れてゲーム・オーバー。


物部城(高屋城)    荒山 78m   綾部市物部町下市

上原(うえのはら)氏本拠の物部城に向う府道9号線沿い流れる犀川は関東御家人で丹波国何鹿郡の地頭職を得て、信濃国諏訪郡上原郷(茅野市)より来住した諏訪神社神官の家系の上原氏(物部氏)が、物部郷に流れる川に出身地諏訪にある犀川の名を付けています。府道側からは 物部小学校を目標に屈曲した集落内の道を進む。
上原氏が勧進した諏訪神社の背山に物部城跡が迫る

街道・城下町風情が感じられたが直ぐ目前に物部城の丘陵が迫る。常福寺と車道を挟んだ斜(はす)向かいに 物部公民館があり正面玄関前に丹波国何鹿(いかるが)郡の[従是北何鹿郡物部村」の石碑が立つ。何鹿郡は福知山市 (旧:市郡町村の合併統合で、荘や郷等の旧名でしか説明出来ない地名説明が益々難しくなってくるが、一部分を占めている綾部市の西部 ・物部町がその西北端に位置している。公民館傍が神社前。神社前から公民館横を進むと物部小学校の正門前?。上原氏により此の地に勧進された諏訪神社の背後の小さな独立丘陵全域が物部城ですが
土塁虎口前から諏訪神社へ落ちる竪堀

天然の要害と竪堀・曲輪を分ける大土塁・空掘・高い切岸・櫓台を持つ縄張り遺構を遠目には想像出来なかったが、 帯曲輪をデッキとした軍艦の様相で全山が 要塞化されています。神社には上原氏居城の物部城址・諏訪神社由緒の説明板が有り、城跡へは神社傍から民家裏へ進み、此処から見上げる崖状の急峻な斜面に階段道が続くいて上部に建ち 後甲板にあたる物部神社に至り郷土の誇り…城山登山の道かと思ったが神社参道のようです。 この曲輪か南正面・間下の民家裏へ竪堀が一本走る。 主郭へ進む道は三ノ丸!!?に入って薄くなるが此処へは諏訪神社の北側へも迫力を感じる大きな竪堀が落ち込み、いずれの竪堀も急斜面に大きく深く長く延びる。
物部神社前から民家裏手へ落ちる竪堀


神社側竪堀の落ち口側には土塁虎口が待ち受け、 主郭側に進入しても虎口の土塁から横矢が掛かる。此の土塁道から三ノ丸へ入ると入口右手にも土塁が有る。虎口を抜け北へ帯曲輪を進むと井戸跡らしい大きな窪地を見る。此処へ西北方から入ってくる踏み跡があり、 搦め手口となっていたのでしょう?。帯曲輪は更に北に延び、東急斜面上には主郭と大土塁と、薮蚊に悩まされる二ノ丸!!?、 その北先の土塁からは10m近い切岸を 下って北の郭部に着く。此処にも櫓台と思える低い台状の盛土部がある。平氏を滅ぼした源頼朝は建久3年(1192)征夷大将軍となり鎌倉幕府を開き、国々に守護地頭を任じて幕府の支配下に置いた。
二ノ丸北端の土塁から先約10mの切岸となって北郭に続く

上原氏主流として活躍する成政(景正)は、 鎌倉幕府の源行家【頼朝の父義朝の末弟・壇ノ浦の戦いの後、頼朝と不和となっていた義経と結ぶが、反頼朝に賛同の武士達は少なく、頼朝軍勢力に次第に追い込まれ、文治2年(1186)和泉国(大阪府貝塚市)の 在庁日向権守清実の屋敷<後の畠中城>に潜伏中に地元民により密告され捕らえられて斬首された】の追討軍に加わり警護のため京都に残ってもいます。建久4年(1193)富士山お狩場で手柄をたて 「物部 古事記」には此の年:功績により丹波国何鹿郡6万石の地頭職を得て、信濃信濃国諏訪郡上原郷(茅野市)諏訪神社神官の家系の 大祝氏族(神氏とも‥!!?)上原(かみのはら)九郎成政(上原氏由緒では右エ門丞景正)が物部郷に6万石の地頭職を得て来住しています。
主郭北面の大土塁と二ノ丸側へ延びる帯曲輪

上原氏は初め下市の高屋山に城を築いたが 後に(応仁・文明の頃)此処・城山 (荒山)の南麓に上原氏が故郷諏訪から勧進した氏神:諏訪神社が建ちますが其の背後の丘陵部に築城して本拠とし以来・在地豪族となり此の地に勢力を張ります。応仁の乱以後 :戦国時代に入ると上原氏は細川氏の 信任も厚く上原(物部)豊後守賢家も細川政元の家臣となって威を振るっていたが、子の上原紀伊守元秀も 文明14年(1482)内藤元貞に替って丹波守護代となり、上原家最盛期には足利義澄を第11代将軍に擁立する等の力があった。上原氏は管領細川氏の威をかりての傲慢な振る舞いが多く 延徳2年(1490)には位田城を拠点に大槻氏・荻野氏等の丹波国衆が籠もった反乱【位田の乱】が起こり 父賢家も其の鎮圧に派遣されます。
主郭北西大土塁直下:搦め手?からの虎口と井戸跡?

史実は不詳ですが:明応2年(1493)長塩弥六と争って殺し・元秀は負傷し、その傷がもとで遂に死去します。嫡子元秀の死により父」堅家は丹後(丹波?)守護代に就任します。【文献に見る丹波守護代は内藤元貞 (八木城主):文明8年…上原堅家:文明18年…上原豊前守:延徳元年・・再び内藤元貞:永享3年??で位田の乱前後の 年代に符合するように思えますが!!】…ところが明応4年(1495)には、堅家の被官人と赤沢朝径(宗益?)家臣の寄子(与力・同心)で今井某と殺傷j事件を起こし細川政元より咎められ・成敗をおそれて近江国坂本に逃れたが 其の年の末に死去したとされます。
南郭からの虎口を抜け三ノ丸?に入る土塁道!!

上原元秀が1495年に位田の乱の引責で守護代を罷免され内藤元貞が復任している。上記の事件は位田城に立つ「位田高城会」の現地案内板によると明応4年(1495)とあり長期にわたる位田城籠城からも上原氏政権に対する 丹波の地侍による抗議により「乱」に重ねて明応4年罷免されたのでしょう?永禄2年(1559)上原右衛門大輔報恩寺城の片岡近江守を滅ぼし、 何鹿郡西部の勢力を誇持していたようで天下布武「丹波攻略」に織田信長は天田郡に境して横山城(福知山城)の塩見氏を押さえる為、永禄11年(1568)頃のものと思われる下知状を上原氏に出し、信長の陣に下りて本領安堵を得た様です。
北郭群東側にある櫓台

元亀2年
(1571)上原右エ門少輔の時、氷上郡黒井城主:赤井直政に 攻められて落城した上原氏は 歴史の表舞台からは消え去ります。隠遁後は石原に住んだが子孫なく断絶したといいます。石原城主(洞玄寺)洞玄の弟:与門丞友高が上原氏の養子となっているが、この落城によって石原の戻って出家 (月輪山薬師寺宝珠院を開基「京都府下神社記録」)していますので石原氏を頼って上原氏が此処に住み着いたことは推察できそうです。
(何鹿郡誌 綾部市誌 現地:諏訪神社由来  案内板 フリー百科「ウィキペディア」を参照)

高槻城(テデカ城)  甲山 140m  綾部市高槻町甲山(東山?)

プロローグに記した様に物部城の次の訪城先としてJR梅迫駅から高城を 攻めることに決めていたが、初めての道にコースを誤りウロウロしていた。後で走ったコースを道路地図で追ってみたら此処 ・高槻城への分岐手前で R27号に出るため右折しJR渕垣駅付近でR27号に入った様だ。足利尊氏生誕の伝承地の一つとなっているゆかりの安国寺も近い。
民家に迫る丘陵上の高槻城 :高槻公民館前から

梅迫駅からの高城攻めは駐車場所が見当たらないまま諦め、そのまま府道74号を北方に抜け舞鶴自動車道高架を潜って、 直線道路の先には低丘陵を取巻く様に民家が集まる高槻町の集落が見える。何鹿郡の荘園の一つ:高槻保の此処・独立丘陵上に大槻氏の居城とされる高槻城(テデカ城)が在りました。足利尊氏生誕地伝承の安国寺にも近いだけに尊氏挙兵には早々と懸け付け、以後付き従った大槻清友がいるが城遺構の現状からは中世のもの。 高槻城に城史を語れる情報は少なく殆ど不明です。
墓地から主郭・南郭を分ける大堀切が見える

丘陵南東の裾に建つ民家を両尾根で挟み込み、覆い被さる様に急斜面を突き出してくる稜上には幾重にも自然地形ながら曲輪群と思える段差が頂部まで続きます。其の各段が各戸毎の墓地となっているようです!!??。 北に向う車道側に落ちる東端民家の傍からも簡易コンクリート歩道が丘陵部城域の墓地へ向う。車道を更に進むと谷間に数軒の集団墓地があり、 此処から取り付くと谷筋は南北に郭群を分ける土橋付きの大堀切でした。南側へは土塁傍の虎口を南郭主部に入る。低土塁を背にして墓石が建つ。
主郭:堀切側の大土塁

虎口を一段下の曲輪へ降りると 左右に分かれる尾根上の段差毎に 墓石の建つのが見える。大堀切は南郭と北側の主郭を分断し、土橋で繋ぐが主郭側は堀切で高くなった切岸を 更に大土塁を築いて堅牢にしています。土塁内は広い(幅約30mX長さ約40m程か? 2/3は 竹藪に覆われ地面も確認出来ない)主郭。 北1段下に土塁道で繋がれる腰曲輪が附属し・此の曲輪の高い切岸(10m程)で城域を終える。主郭へは北西方からは外側を土塁で堅めた大手道とも思える空掘となる堀底道が登ってきている。

大手道?の堀底道(空掘)


大槻氏は 足利尊氏が丹波篠村八幡宮で鎌倉幕府打倒の旗上げの際 【元弘の乱:久下氏一番旗でよく知られる!!?元弘3年(1333)の時か、建武の忠興:建武3年(1336)の二度目の挙兵の時か?】兵庫丹波:玉巻城の久下氏等と共に、逸早く駆付け活躍した高槻城主大槻清友がいて文和2年 (正平8 1353)頃に此の地を領有したものか?。丹波守護代クラスの勢力の様ですが丹波守護代には仁木頼章の後・観応年間 「大槻日記」によると大槻右馬頭清宗が足利尊氏の従い何鹿郡・天田郡の地頭となったとされる。物部城のレポートにも有るように内藤氏の間には文明18年(1486)上原賢家、延徳元年(1489)上原豊前守と父子が就任しているだけ。
民家に迫る丘陵上:高槻城(南郭)

戦国時代に兵庫丹波の多紀郡(篠山市)一円を制した波多野氏。 永正5年(1508)足利義稙の臣として大槻清虎が上洛したという。氷上郡(丹波市)一円から何鹿・天田・さらには但馬太田垣氏の 竹田城さえ落とし、織田信長の丹波攻略では其の総大将 :明智光秀を一度は敗走させ、其の名を知らしめた赤井氏さえ守護代にはなっていません。
大堀切主郭(北郭)側の切岸


京都丹波の大槻氏は在地土豪として荻野氏(赤井氏とは同族)の位田城に籠もって物部城主上原氏に反旗を翻してます。高槻城の大槻氏について 築城時期や城主等の城史は不明ですが、織田信長の丹波攻略にあたった明智光秀方に降りたと思える上原氏等を除き、明智軍に抗した塩見氏・大槻氏・牧氏等多くの丹波勢城砦群は攻め落とされて、高槻城の大槻氏一族は滅亡 ・城は廃城となったものと思われます。


浅根山城 (朝寝城.・成田城) 浅根山!! Ca105m  綾部市物部町岸田

上原(うえのはら)氏本拠:物部城の在った荒山を左手に見送って直ぐ 府道9号線を分けて右手に大きく曲がり、由良川支流犀川に沿って東へ向う府道490号は左側の高台に建つ何北中学校の木造校舎を見る。 黒板張も懐かしい母校の薫りを感じた。築60数年の歴史を持つと云う。学校は物部城と此れから向う浅根山城のほぼ中間付近で、直ぐ前方右手には490号線から南へ延び出す低丘陵が見える。
浅根山城主郭土塁からの堀切と西郭


490号線からは丘陵に沿って屈曲する犀川沿いに丘陵裾を縫う市道に入る。 道なりに進んで丘陵を南に捲いて進むとT字路に着く。市道から斜上して通じる車幅1台分の車道が「浅根山公園」と書かれた 案内板標の入口分岐から駐車場まで続く。途中に行き違えるスペースも無さそう…?で最悪・元まで戻る事になるのかも?…其処から階段遊歩道が…
西郭・主郭を分ける大堀切

西側の東屋展望台の建つ浅根山城の副郭(西郭)に通じ、木橋が渡された大堀切を渡ると主郭西端の切岸下部から南側を斜上して主郭上の大土塁に達します。 遊歩道は此処までで元来た道を戻るか、主郭大土塁から主郭北端に移り、藪っぽい一段下の曲輪から2.5m程の切岸下の広い曲輪 (現:配水場施設貯水槽)に降りて巡視路山道を下って丘陵東麓に建つ正念寺(浄土真宗本願寺派)へのコースも考えられるが、此の城随一の見所:主郭内部は潅木・下草に覆われ、 背高いススキには、折角の画像にも高い土塁に囲まれた曲輪の様子が判り難い。
浅根山城主郭:内側から南側土塁


其れだけに土塁を下りて主郭内に入る人も少ない様子で、更に先の曲輪から貯水施設まで足を運ぶのは 城フアンだけなのかも知れません?。…曲輪を2段下った貯水槽のある曲輪からは切岸も6〜7mと高くなった主郭北面から 西側へ踏み跡を辿って大堀切へ廻って、副郭(西郭部)の東屋展望所に戻る。
城址の遺構保存の為の特殊公園(風致区画でも動植物保護等では無さそうで歴史公園と思えるが …)として 平成13年公園化されて利用出来るようになったが、城址を示す説明板や案内標識類は一切有りません。城址公園化される程の城史や調査報告資料を拝見していないので詳細等一切不明です。
浅根山城主郭:西側大土塁から主郭内部と南から東へ延びる土塁

…しかし主郭の西面から 南面をコの字形に囲む大土塁は圧巻で、特に大堀切を見下ろす西側土塁は小曲輪程に幅広く当然?:櫓台等の施設があった事は想像出来ます。建久4年(1193)丹波国何鹿郡6万石の地頭職を得て、 信濃信濃国諏訪郡上原郷(茅野市)の上原(かみのはら)右衛門丞景正(九郎成政とも!!)が物部郷に来住して以来、在地豪族となって当地に勢力を張っていきます。物部郷内の浅根山城は城主や城史共に不詳だが 此の物部城の上原氏一族の居城 ・支城として同時期に築かれたものなのでしょうか?。


北野城(志賀城)  北野山!! Ca120m   綾部市仁和町岸田

浅根山城から府道490号線に戻り北上すること約2km・志賀郷町の志賀小学校前を過ぎ、犀川に架かる橋を渡ると 車道が左へカーブしていく橋の東詰め分岐の奥に「志賀郷運動ひろば」があり、狭い車道を進んで草地の駐車スペースに入る。中高年層のグループがゲートボールやグランドゴルフに興じる横を抜けて、鳥居前から真直ぐ延びる参道を通って 北野城登城口の諏訪神社前に着く。
北野城:突然?あらわれる土塁と堀切状?

「運動ひろば」前にも 案内看板に記されていた【志賀の里 七不思議】の一つ 「諏訪大明神の柿」が祠の参道左側の玉垣で囲われた中に立つ。北方の140m峰から南へ延び出した尾根の鞍部からは、大きく盛り上がるCa120mの小さな半独立の低丘陵が有り、 其の南端を諏訪神社の背後に落とす。諏訪神社祠と「御所柿」の北へ出て比高10m程上方の 丘陵尾根へは 直上するか、左方へ斜上する 踏み跡を辿れば、幅広く傾斜も緩やかで、長い(5〜60m程)自然地形の緩衝帯…?、領主志賀氏が城山の台地に菩提寺の養源寺を創建したと云う其の跡だろうか?。
北野城:主郭西の曲輪:北端部の上り土塁虎口?


平坦な尾根筋を北に進むと土塁がある。高く急斜な切岸(8〜9m程)を前にした尾根の肩にある平坦地は幅の広い 堀切の様にも見える?。高い切岸を越えると二ノ丸を経て主郭に到達するが尾根上は藪っぽい。神社からは比高僅か30m程の 南北に細長い丘陵尾根の北に位置する最高地点へは5分足らず…!!。明治百年植樹記念の石柱が立てられ潅 木と下草の覆われ藪の足下も荒れて小さな段差や土塁は在っても確認出来ないほどに、削平はされているが粗れた、 ほぼ円状の広い曲輪を主郭とした北野城が在りました。北方は急斜面が落ち込み、西側下方には藪の中に曲輪があり北端の土塁は主郭に入る上り虎口の様?。
城:主郭西の曲輪 :北端部は土塁は上り虎口?

丸味をもった主郭から南の二ノ丸側へ2〜3m程の切岸で帯曲輪が廻る。東下方には 低土塁を残す大きな曲輪(三の丸!!)があり、更に東切岸(7〜8m)下に堀切が見える。吾雀荘(あすずきしょう)志賀郷は、藤原時代の末期:永暦年間(1160-61)京都・新熊野社として勧進され、その荘園として寄進され、 其の後!!?天台宗の勢力下にあり、比叡山延暦寺荘園として寄進された直轄領となっていたようです。…其の後の吾雀荘志賀郷や志賀氏について不詳ですが、諏訪神社神官の家系にあった上原氏が建久年間(1190-99)物部郷に入封され、 此処に物部城が築かれ諏訪神社が建てられます。後発の志賀氏は 来住後・一帯に勢力を張った物部氏の傘下に組み入れられ、領内に諏訪神社を勧進したものか金丸親王(麻呂子親王)の鬼退治伝承では第31代:用明天皇(在位:敏達14年〜用明2年 585-587)の頃・既に諏訪大明神が 祀られていた事になっているのですが…?
北野城主郭の切岸:右手上の曲輪中央に石碑が立つ

志賀の里七不思議 諏訪神社の御用柿北野城は応永年間(1394-1428<応永25年 1418!!?>)志賀頼宗が初めて 何鹿郡の吾雀庄を賜り、志賀郷の領主として来住し、鎮守として諏訪神社を勧進し、城山の台地に菩提寺の北野山養源寺を創建し、山上に北野城や天王山城を築いて居城し志賀姓を名乗ったとされています。志賀氏は清和源氏頼政の流れと、 武内宿弥の流れとする二つの系図を伝え、共に吾雀(あすすぎ)荘に入った国人領主で, 一族には大永年中(1521-28)同じ志賀郷天王山城(?志賀郷町尾田?)にいた吾雀入道安盛や、次良左衛門尉が大永2年(1522)幕府管領で丹波国守護職:細川高国に仕え享禄2年(1529)丹後田辺郷(舞鶴市)の代官職になった者などがいる。
北野城:主郭部東端下の堀切と土塁


享禄4年(1531)尼崎の合戦に出陣・高国は敗れ、丹波の土豪:足立 ・波々伯部・細見・牧氏や志賀郷の志賀四郎兵衛尉等が討死します。頼宗9代の孫:政綱の時:明智光秀の丹波攻略(天正7年<1579>か?)に遭い、降伏してその配下となり、天正10年(1582)山崎の合戦に出陣して討死している様です。 政綱の子:頼久(3歳)は乳母の里・加佐郡桑飼村(綾部市境舞鶴市側)に逃れ、此処に隠れ住んだとされます。

(綾部市史 フリー百科Wikipediaを参照)


東野城  xxx山!! Ca70m  綾部市物部町東野

府道8号または府道74号線経由で栗町交差点を北へ左折し府道9号(綾部大江宮津線)に入る。直進する府道74号は栗城(一尾城)・位田城の南麓を走る。殊に室町時代後期 :延徳元年(1489)位田氏や荻野氏ら国人衆が6000の軍勢に対し・僅か200人足らずで位田城を舞台に籠城した[位田の乱]で知られる。乱は時の管領:細川政元の家臣:丹波守護代上原元秀と父子によって、
東野城

地頭職や代官職を奪われそうになった丹波の国人衆【須知氏・荻野氏・大槻氏等が守護細川氏 :守護代上原氏に対して激しく抵抗して位田城に拠って戦ったが、明応2年に落城し(正確には反乱鎮圧の為丹波・但馬 ・丹後・摂津等十三ヶ国の大軍が攻め立て鎮圧されたようだが、翌年には再発)4年間に渉る大規模な丹波国一揆です。元秀は細川政元傘下での驕慢な振る舞いが多く、
東野城主郭南面の土塁虎口

明応2年(1493)?には喧嘩の傷が元で死んだという。また父:賢家も丹後守護代になったといわれるが明応4年(1495)政元の馬廻りと 賢家の被官人の喧嘩により両人とも死んだが、政元の成敗を怖れ近江に逃れ同年大晦日に死亡したとも…。由良川に流れ出る犀川沿いの 府道9号は館町(館<たち>城や館砦がある)から今田町・新庄町を過ぎて物部町に入って犀川を9号線が渡る附近の 低丘陵上に
主郭西南端低土塁と虎口に廻込む帯曲輪?

上原氏本拠の 物部城(高屋城)がある。南手前約1km程地点・物部の城を前方の丘に望みながら、JA京都にのくに綾部西部営農経済センターの約 50m程北の辻を東へ折れ道なりに直進すると須波岐部中央公会堂前に着く。此処から道幅は更に狭くなる様だが200m程先に須波岐部神社のとりいが見える。平安時代初期:平城天皇の大同2年(807建立を伝える 「三代実録]に貞観11年(869)12月8日の条に
主郭東端:大堀切側の土塁

「授丹波国正六位上物部簀掃(すはき)神従五位下」の神階へ昇叙したことが見え、丹波における古大社。恐らく古代須波伎物部氏の氏神であろう…と。 【社頭掲示板による由緒書による】物部郷・物部氏に縁故の神が祀られていたと考えられます。 東野城<綾部市物部町東野>へは先程通り過ぎた須波岐部中央公会堂に戻ると、北方間近(約150m)に望む西先端部の丘陵上にある。城史一切・また物部城の上原氏(物部氏?)関連についてもが、不詳です承久の乱(1221)以後 ・関東後家人・上原氏が何鹿(いかるが)郡に入部し、
主郭・副郭を分ける大堀切

在地豪族として一帯に勢力を張り一時は八木城:内藤氏の代わり丹波守護代ともなった上原氏一族の支城群の一であったとは推測できます。取付点は城域内ともと思える 民家の庭先の駐車場横から続く山道だが私有地内へは進み辛い。 城域の丘陵西南端裾は南面切岸下を溝谷に落して濠として、西方の府道9号沿いの街道監視なら・自ずと主郭位置が推定できる。
副郭の大堀切側曲輪と櫓台!!(左端)

極低丘陵は北東方へt低い尾根筋を延ばしてはいるが、東北方へ進むほどに緩斜な谷筋や山道が複雑に交差、更には須波伎東古墳群の点在で城域の北限が分かり難い。 集落奥の寺参道からの林道も城址を離れていくだけ?だが、武家屋敷跡を思わせる土塁?削平段を見掛ける…が周辺は石塚?古墳群 (古墳に興味を持っていた以前なら少し調べても見たが??)なので、盗掘後放置の古墳跡なのかも…。大堀切を分けた東郭部は堀切側の櫓台土壇 ・曲輪から東へは広い緩斜な平坦地形が拡がる。
山道側に延びる大堀切

城砦以外を 遺跡地図確認していないので前方後円墳だったかのかも?、北面からの山道との段差も小さくなってゆくようで(未踏部)養蚕桑畑等に改変されていたのかも?。顕著な土塁虎口・切岸加工した曲輪段や大堀切側にも土塁を設け、 上原氏時代の頃なら小規模ながら砦規模を越えた城址遺構に思え、東郭は南方の大槻氏等同等勢力?をもつ国人領主との攻防に備えた兵溜まりとも勝手に推察してみた!!?。


【志賀の里 七不思議】

北野城(志賀城)への取付き点として選んだ諏訪神社参道の鳥居前に 【志賀の里 七不思議】の一つ「諏訪大明神の柿」の案内看板を見る。鳥居から続く真直ぐな参道が祠前に通じ、其の左側に玉垣で囲われた柿の古木が立つ。18世紀中頃に記された「神社仏閣七不思議縁起」によると、 第32代:崇峻天皇(在位:用明2年〜崇峻5年 587-592)【麻呂子親王は第31代:用明天皇(在位:敏達14年〜用明2年 585-587)の子で、厩戸皇子(聖徳太子)とは異母弟で、用明天皇の勅命と考える方が 順当ですが…!!】の時・大和朝廷は青葉山や山上ヶ嶽(大江山)の凶賊を討伐する為、 麻呂子親王を大将軍とする官軍を丹波国に派遣します。《大江山の鬼退治伝説には 麻呂子親王の伝説よりも、其の後の:源頼光”酒呑童子”がよく 知られていますが、丹波・丹後にかけては麻呂子親王の伝説が諸処に残されています》親王は自ら七体の薬師如来像を彫り 「鬼を討ち果たならば、此の薬師如来像を祀った七寺を開きます」と祈誓されたという。
志賀郷:諏訪神社の「御用柿」背山に北野城が在る


此の七薬師寺も伝承の寺が7ヶ所以上は有りそうです。現地:諏訪神社前の 志賀郷公民館説明板には、国の中心勢力を固めるため金丸親王(麻呂子親王)を遣わして、丹波の国々の地方豪族を「丹波鬼」として次々と征伐(滅ぼし)して 丹波国を平定する。妖術を使うと云われる丹波鬼達は水(水脈)を知り、火と風(製錬技術)の処理に長けた鉱山師で、溶鉱を赤い火を吹く赤鬼に見立てたものか!!。軍事的にも経済的にも金・銀・銅・鉄等の鉱山資源を確保する効果は大き く・重要で、朝廷勢力は地方豪族を滅ぼし領地や鉱山資源を奪取していったのでしょう。

平定後に金丸親王は此れ一重に神仏の御蔭のよるものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め・国家安泰を祈ったといいます 《自作と伝わる七仏薬師像は京都府教育委員会の調査で藤原時代(889-1190)後期の作と判明》。金丸親王(麻呂子親王)と薬師如来の伝承は兵庫・丹波竹田にも有り、京都福知山・綾部から京丹後市から宮津へと諸処の残ります。 金丸親王は志賀の里の五社を厚く信仰されたと云い、金丸親王の子孫金里宰相は此の五社に千日参りをされ、此れを記念して其々:藤波大明神の白藤・金宮大明神の茗荷・若宮大明神の白萩 ・白田(後の篠田)大明神の竹(筍)・諏訪大明神の柿の実を、お手植えされ国家安泰・子孫繁栄を祈願され、 この時以来・志賀の里に色々不思議な 奇瑞があらわれるようになったという。 季節外れの真冬に生える茗荷やタケノコ、同じく冬に花咲く藤や 萩や実をつける柿、此れに向田の里の ゆるき松・しずく松にも同時に不思議な霊験【風も吹かないのに揺れる松・雨も降らないのに雫が落ちる松】があらわれ、合わせて志賀の里の七不思議伝説として語り継がれてきました。
向田地区の志津久松

X:諏訪大明神「御用柿」の伝説は…毎年・旧暦の正月6日の朝、 神殿前の・お手植えの柿の木に花が咲き実が三つなり、日中になると色艶良く熟するという。御用柿は五色の柿・御所柿とも云われ、毎年箱に入れられ宮廷に献上する慣わしになっていました。 ところが鎌倉時代・白藤事件より13年後:花園天皇の正和元年(1312)飛脚が此の柿を持って京都に上る途中・咽喉が渇いたので、和知の民家に入りお茶を飲んだところ俄かに腹痛がおこり、其れと一緒に 柿の箱は北の空へ飛び去ってしまいました。これまで精進潔斎して・身と心を清めてきたのに、火を通したお茶を飲み”火の食い合わせ”の掟を破ったのがいけなかった。それ以来・この奇瑞は途絶えてしまったということです。 現在:境内に柿の木が残っていて、秋になるとたまに・渋柿がなるようです。
(現地:諏訪神社「御用柿」 志賀郷公民館の案内板参照)
Y:向田の里の 「しずく松」…向田に古松の大木があって、五社の霊験があらわれるようになったからは、 毎年正月六日の午前10時になると、雨も降らないのに松の葉から雫が雨の様にポタポタ落ちたと云う。 その雫の様子(多少)によって、その年の旱魃や水害などの災害を占い、里の人はこれを見て、その年の耕作を工夫したということです。”ゆるぎ松”は風もないのに枝を揺らした…都に吉事がある時は上の枝が揺れ、 凶事のある時は下の枝が揺れたと伝えられた。これ等の松は天正7年(1579)横山城を落とした明智光秀が、 福知山城として築城の際・占いに「川上に名木が有る、此れを棟木にしたら成就する」とでたので、向田・鎌倉の「しずく松とゆるぎ松」を探し、
志賀郷”しずく松”伝承地参道からの松原城跡


此れを伐採しようとしたが樵(きこり)がいくら切り倒しても、その切り材が夜中に集まって 元の木になっているので、樵は驚き恐れ切る事が出来なくなったと云う。光秀は怒って松の木を切っては燃やし、大幹だけを残して全部焼き捨てゝしまいました。「別所町・願成寺記録より」現在公民館には、 大木”しずく松の皮”と伝わる分厚い松の樹皮が保存され、現地:丘陵端の平坦地には中規模古墳の墳丘と思われる土壇のマウンド上に「志津久松」の石碑・しずく松・ゆるぎ松共に3代目と云われる松が植栽されています。
【参考】向田町小狭のゆるぎ松伝承地:小狭1号墳(墳径16m・高さ2.5m)、しずく松伝承地:小狭2号墳(墳径12.8m・高さ2.2m)
(現地:志津久松 志賀郷公民館の案内説明板 を参照)
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