沖縄の城  今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城・首里城
近畿の山城:番外(沖縄) 三山統一 阿麻和利・護佐丸の乱
 今帰仁城 座喜味城 勝連城 中城城  首里城

沖縄のリゾートホテルでの結婚披露宴に参席の為、両家親族のホテル泊(準団体?)のツアー!!で出掛けた。近畿圏以外での貴重な城廻り経験も…単に遊びで行くわけではない …と自由時間が余りとれず・しかも沖縄では珍しい!!?朝から深夜まで降り続く雨の一日を挟さみ、おまけに?車・道路等の 交通事情では時間ばかりとられて計画通りには捗らなかったが、
沖縄中部西海岸の東シナ海を臨む某ホテル側の教会

疲れ気味の妻君を騙し騙しそれでも…ユネスコ登録の世界遺産「琉球王国のグスク関連9資産」のうち沖縄の城(グ_スク)城5城と首里城公園に入れば自然と目前を通る 「園比屋武御嶽石門」を訪れたが、公園内の王陵・近隣の識名園に寄れなかったのが心残り…。グは石:スクは囲った場所を指す意味からも城郭だけを表わす言葉では 無かった様で、訪れた城:
今帰仁城 :平郎門側の大隅城壁

中城城を”なかグスクじょう”と読むのは ・むしろ正酷だと実感!!?。首里城公園の王陵も車道を走っていると見かける独特(沖縄県内殆ど全部!!?)の亀甲墓も 聖域としてのグ_スクなのでしょう。此処でのグスクは按司(アジ)【王族のうち王子の次に位置、王家の分家・日本の宮家の相当 :また地方豪族の首長等の称号:主(あるじ)からの転訛ともいわれる】 と呼ばれる領主
座喜未城:沖縄のグスク城では唯一・赤土の台地に築かれ(二の郭)

(地頭:支配者 ・指導者)の拠点として使用され石塁・石積み・土塁・堀切等で敵の攻撃を防禦する為に防備を固めた城郭 <グ_スク>を対象とします。沖縄県内に300余り在ると云われる城全てがグ_スクでは無いのかも 知れないが?中でも保存状態が良く、沖縄屈指の名城:首里城や同規模の今帰仁城、日本でも最古と云われるアーチ門の座喜味城・360度の眺望が 楽しめる勝連城…等、戦時中に破壊されたり、それ以前に壊滅状態・僅かに 石塁等を遺す小城も多い様です。
勝連城 :広い芝生と眺望の良い三の郭

三山統一:国内が統一される以前:琉球王国成立以前の13世紀末-14世紀に琉球王国は北部地域<今帰仁城>を北山 (国頭)・中部地域<浦添城から首里城>を 中山(中頭)・南部地域<島尻大里城>を南山(島尻)の三つの王統勢力が争った 三山鼎立時代が100年近く続いた。
中城城:三の曲輪と裏虎口のアーチ城門

其の中から中山の 察度王統武寧を<1405年>倒した尚巴志(しょうはし)王が勢力を増し1416年には北山の北山王【怕尼芝(はにじ)王統の攀安知<はんあんち>】を策謀による家臣の謀叛により滅ぼし 1429年には残る南山の大里王統(贅沢で遊び好きな国王他魯毎<たるみー>)も南山王を見限った家臣等は 中山王の傘下に下り、 場外に打って出た他魯毎に城門を閉じ退却路を断たれ捕らえら殺されて滅んだ。三山統一を成し遂げた尚巴志は父恩紹を王位に就けて立てたのが琉球王統(第一尚氏王統・尚巴志王統)で、
首里城:正殿内に展示のジオラマ

二代:尚巴志(初代琉球国王)・三代:尚巴志の次男<今帰仁城の北山監守>尚忠王へと七代 63年続き、 第一尚氏6代 :尚泰久王に仕えていた金丸(尚円)が7代:尚徳王没後に立てたのが第二尚氏王統・尚円王統で琉球処分(廃藩置県!!)まで19代409年続いた。

今帰仁城(北山城) xxx Ca100m  国頭郡今帰仁村今泊

今帰仁(なきじん)城は沖縄本島の北部:本部半島の今帰仁村西端 ・標高100m程の古生期石灰岩の丘陵上に築かれ、幾重にも複雑に連なった堅牢な城壁に囲まれ 当時の権勢を窺わせ今に遺る。昭和47年 (1972)5月国史跡に指定された別名:北山<ほくざん>城。平成22年(2010)2月国史跡地域が追加され史跡名も”今帰仁城跡附シイナ城跡”と改称された。
大隅の城壁と平郎門

築城年代や城主については不明ながら城の歴史は古く発掘調査により13世紀頃(掘立柱建物周囲に城柵を廻らす程度…?)から築城が始まったと推測されています。 14世紀中頃から15世紀にかけて沖縄北部一帯を支配していた北山王が 三代【中国の史書「明実録」の山北の王に 怕尼芝(はにじ)・(みん)・攀安知(はんあんち)の三王】に渡って居城し「山北今帰仁城」ともよばれ石垣積みの城壁・更に其の補強や城域を整備拡張し築かれていったのでしょう。
平郎門:内側から

南北350m・東西800m・面積37,000㎡に及ぶ沖縄県内最大級で首里城に匹敵する城としても知られます。 城域の北と東は70~80m落ち込んだ志慶真川の渓谷が天然の要害となり、古生期石灰岩を積み上げて造られた城壁の高さは3-8m・自然地形に沿って 曲線を描いて延びる百曲りの石垣は長さ1.5kmと”万里の長城”を想わせるに足るミニ版。駐車場から平郎門に向かう左手に 先ず延々延びる石垣が目に飛び込んでくる。
カーザフ(川迫)の岸にも露盤・露岩間に石積みを見る

本土(此の呼名が妥当かは知らないが…)では目にすることも無い”万里の長城”を彷彿とさせる城壁塁に圧倒される。 観光客は平郎門へ急ぐ様で、外郭や石塁に沿って崖沿いに場外へ抜ける?ハンタ道(説明板はあったが 記録に執らなかったが、 城域端を通る道の意味か?)の方へ降り向かう人の姿など見掛けない…が、案内板付近は馬車道だった様子からは集落でもあったか?今帰仁村から城に通じる大手道。
大庭(ウーミャ)と主郭

主要道なので石畳道や途中には通行監視の出郭が有ったことは推定出来ます。城内は8つの郭から成り城門から本丸までは石畳道が続いています。 正門(大手門?)の平郎門形状等が、此の後に廻った座喜味城・中城城等諸城のアーチ状の石門ではなく、天井は一枚岩で支えられ、 内側の左右には守衛室?、各二ヶ所には監視窓か?・矢を射掛ける矢狭間?が設けられており、他の城郭とは異なる様ですが、
平郎門から一段と高い大隅側に城壁を廻る

復元に当たっては昭和初期「神道 」浸透の推進時期でもあり、崩壊した遺構復元の正確性には疑問が残る様です。平郎門から一直線に伸びる七五三形式の階段道は 神社への参道として昭和の復元?。”七五三”の階段は疲れず登りやすい道。城なら寧ろ反対に登り難い不規則な段差に設定される筈!!?。 パンフレットにも旧道としての石畳道は平郎門の右側に、曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、
平郎門前付近から望む大隅の城壁

防衛機能上からも幅狭く急な登り道が発掘調査確認されています。階段参道の右手に大岩や石が散乱する谷があり、向かい側や城域の詰めの 大庭 (ウーミャ)側の切立つ谷間の岸に見える岩盤や露岩沿いは堅固に石積みされている。カーザフは川が迫る谷間の意味か?。七五三参道のカーザフ側を通り石塁の少し開く虎口状を大庭側に入る 石畳の旧道が本来の大手道!!?。
御内原から大隅の城壁と東シナ海を望む

平郎門を抜けた七五三参道の 左側の拡大な城壁内部は大隅(ウーシミ)と呼ばれ、参道直ぐ・兵郎門上から続く石塁が一端途切れる?辺り、大石の散存する露盤の中に 数個の浅いが丸い穴が開けられた箇所がある。掘立て柱跡かにしては 間隔が狭く多いので、矢来柵の様なものの跡か?。戦時に備え馬を飼育し、兵馬や城兵達の武闘訓練の場であったと伝えられ、
主郭から志摩真門郭(城主近臣の屋敷)

大量の馬の骨が発掘された場所とも…。城内でも最も高い石垣で築かれた堅牢な城郭です。 道を登りきって入った郭内の一段高い所が内原で城内でも神聖な場所で当地域(国)や城の守護神を祀る御嶽。 祭祀は女性のみで行なわれる為男子禁制の場所ともなる。 城に仕えた女官の生活の場所とも伝えられるが北端からの眺望に優れ大隅の石塁・今帰仁村全域や、
今帰仁城の主郭

嘗ての琉球王国・北部地域の北山(国頭)の山並・東シナ海を眼下に望むロケーションも素晴らしい。13世紀末 :琉球王国成立以前の三山時には北山を支配する按司の北山王が今帰仁城により北部地域と周辺の島・奄美群島を統治し 明国との交易を拡大し力を蓄えていった。1416年”中山”の察度王統の武寧王は尚巴志(しょうはし)により滅ぼされており、
今帰仁城の主郭

巴志王が率いる連合軍との戦いに・始めの三日間に渡る侵攻を撃退したが、続く攻撃には敗れ山北王国最後の王統:怕尼芝(はにじ)王統・国王3代目攀安知は滅ばされる。要害堅固で難攻不落の上攀安知は武勇に優れ、その軍もまた勇剛驍健・家臣本部平原(もとぶていばら)も力の強い有力武将。 攀安知と平原は中山を攻めることを計画し兵や馬を整えていた。
御内原から大隅の城壁と東シナ海を望む

その事を中山(桟敷に按司)尚思昭が知り、山北王に対して不満を募らせる国頭按司・名護按司・羽地按司ら連合して中山軍に組みし、子の巴志に命じて山北の今帰仁城を攻めさせたが容易に落ちず、 逆に攀安知は武勇の意気を示そうと先頭に立って城外に討って出るが、中山軍を深追いするうちに今帰仁城内から火の手が上がります。 腹心の武将:本部平原は勇者だが知恵浅く・貪欲で、中山王尚巴志の策略による賄賂で裏切り陥落したと落城伝説に云う。
主郭から志摩真門郭(城主近臣の屋敷)

旧北山統治の要所として首里王府からは北山監守が派遣されたが
(制圧5年後の1422年尚巴志は次男・尚忠を入れた事でも 今帰仁城の重要度が窺えます。1429年には山南王統を滅ぼしたが監守の設置はない)慶長14年(1609)薩摩藩の 琉球侵攻の際の攻撃目標ともなっています。尚円王が即位した第二尚氏王統後も、更に各地の按司を首里に集居させた(1526年)後も例外として康熈4年(寛文5_1665)に最後の北山監守が首里に引き揚げるまで引継がれた。
今帰仁城の外郭

城は廃されたが祭祀の拝所として残され本丸跡の「火の神の祠」前に立つ 「山北今帰仁城監守来歴碑記」乾隆14年(寛延2_1749)顕彰碑には北山時代の事績・統治から敗北後北部地域管理の監守制の歴史を知る上での貴重な資料となっています。


座喜味城(読谷山城) 読谷山 125m  中頭郡読谷村座喜味原

座喜味城跡は 沖縄本島の中部西海岸の名勝残波岬のある読谷村座喜味集落のほぼ中央部北側の読谷山:標高125mの丘陵地に在って曲線を描く高い城壁や、 此処から望む眼下に拡がる読谷村や 遠く那覇方面への海岸線・東シナ海やxx島影、残波岬から追ってゆけば泊まったxxホテルAxxも見える筈だが見忘れた。
二の郭アーチ石門と物見櫓台

沖縄の城独特のアーチ石門・積み上げられた精巧で優美な城壁は高さ14m程から低いところで3m程 ・城壁外周総延長は365m余り、 曲線を描きながら堅固で堂々とした構えをみせる。沖縄では唯一:地盤の弱い赤土の台地に建てられた グスク城。曲線を大きくし、 台地を堀り込んで幅広めに石垣を積む等、曲線により内から外に向かう多量の土砂の圧力を受止める為の強度を増す工夫がされており、グスク特有の城壁からの眺望も素晴らしい。
二の郭門から一の郭の石段と門:左手は城壁に囲まれた袋の鼠状態?行止道

中部西海岸に臨み・北方から侵攻してくる敵を監視・迎撃し、 琉球王国首里城の守備するのに適した立地に在る。15世紀初頭:武将であり名築城家としても名高い読谷山按司<読谷地域を統治する領主!!>護佐丸による築城と云われ、群雄割拠の三山時代尚巴志は 1416年中山の察度王統武寧王を滅ぼし、北山を支配した按司・北山王の 今帰仁城攻略にも護佐丸は 尚氏に付いて参戦し活躍した武将で三山統一・琉球王統成立に重要な役割を果たしている。北山王滅亡後の今帰仁城に北山監守(戦後処理も含め…)として居城して数年。
二の郭石門を入ると一の郭城壁間の通路<正面>は一折れした先で行止り!!

北山地域の旧勢力は未だ温存されているとして監視する目的から築城し・北山制圧後の1422年尚巴志が次男の尚忠を北山監守に任命して今帰仁城に入れ、護佐丸は座喜味城に移り 18年間居城したが 三山を統一して琉球王朝の第一尚氏王統の尚巴志は死去。翌1440年に巴志の次男尚忠が三代目を継ぐと首里王府を脅かす 勝連城の阿麻和里から首里城を護るため、
城壁上部も幅広い一の郭(主郭) :内部の四方形礎石は建物跡

座喜味城の護佐丸は首里王府命によって中城按司となり中城城に移封されるが…其の後も座喜味の按司に引継がれ、城が使用されていたことが発掘調査による 15-16世紀にかけての中国製陶磁器の出土品で確認されています。護佐丸は元は国頭郡恩納村<座喜味の北東約4km>に在る山田グスク (城)を築き居城した山田按司の三代目?で、北山監守となった1416年頃から始まったと思える座喜味城築城には、城を廃した山田グスクから石材を運び出し再利用したとも伝承されます。
内に外にと 曲り延びる城壁の不思議な造形美!!

主郭・副郭の連郭で成る縄張りは規模こそ小さな城だが高く積み上げられた堅牢な石灰岩の切石積み城壁や、 沖縄最古と云われるアーチ型の石造門等の建築技術の高さが特徴です。城壁の石積みは一様でなく・琉球石灰岩によるあいかた積み(亀甲積みの事 !!:自然石を利用しながら互いに噛み合うように削り併せて積むので力が均等に分散され崩れにくい)・野面積み(自然石を加工しないまま積み上げる)・布積み(アーチ石門の両脇等・方形に整形した 石の目地が横に通る様に積まれる )等の技法が採用されているようです。
突出す横矢掛けも曲面の城壁

一郭と二郭に設けられたアーチ門の天井部中央でかみ合う石と石の継ぎ目部分・門の表と裏の両側には”楔(くさび)石”がはめ込まれており他の城<グ_スク>に類例を見ないと云う。 一の郭(主郭)の広い内庭のほぼ中央には建物跡と思える13X15m程の方形範囲に礎石が並んでいるが発掘調査により瓦片出土は無く、 茅葺きか板葺き屋根の建物だった様です。沖縄戦では日本軍の高射砲陣地が置かれ、戦後は米軍の通信(レーダー)基地として使用されていたが、
厨子甕

戦後1956年琉球政府の重要文化財に指定され、沖縄が本土復帰した昭和47年(1972)国史跡に指定され ・平成12年(2000)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群 」の一つとしてユネスコの世界文化遺産に登録されました。世界遺産に指定される以前より 史跡公園として整備され現在に至る。座喜味城の駐車場上、城址へは向かいの石段道から琉球松の並木道を進むが、登城口との間・左手に弥生時代の様な?茅葺きの高床式高倉が移築か復元されている。 説明等未読で詳細は解らないが右手奥に読谷村立歴史民俗資料館がある。
護佐丸の好敵手:阿麻和利の勝連城ジオラマ(勝連城管理・休憩棟)

資料館前の一段高い芝地には サーターグルマという戦前まで使用されていたサトウキビ圧搾機が置かれ、資料館側には沖縄独特の厨子甕(ジーシガーミ:<ずしがめ>の方言!!)が陳べられている。風葬後に洗骨した遺骨を納める骨壷だが 沖縄陶器の一部類としてのデザインや造形美の芸術的、民俗学的価値が認められた工芸品で、石製やサンゴ石製が古く陶製では壷型が古く1600年代には読谷村喜名の喜名焼厨子甕が登場・御殿(うどぅん)厨子<屋形厨子>は 18世紀頃から盛んに造られていた(詳細は関連サイト等で…省略)


勝連城  xxx Ca97m  うるま市勝連南風原

勝連城跡は中部東海岸の勝連半島<与勝半島>【北は金武湾 ・南は中城湾に面し知念半島を望める・此の次に向かう:宿敵となった護佐丸盛春の中城城も其の中程に有るので確認出来るかも ?】南の付け根付近にある傾斜の急な独立丘陵上に在り、最高地点(標高約97m)の一の郭(主郭 )からは周囲360度の素晴らしい眺望は数多い沖縄の城の中でも他に得難い場所。
勝連城(西原御門・四の曲輪から)

南城・中間の内・北城で構成され肝高の<気高いの意>勝連城とも呼ばれるようです。県道16号線からは急峻な丘陵上の自然地形を 巧みに取込みながら更に高く突き上げる様に珊瑚質石灰岩の石垣を高く丸みを 持たせ座喜味城同様に野面積み・相方積み(亀甲積み)・切石整形した布積み等、沖縄の城独特の石積み技法により積み上げられた城壁を巡らして ・強烈で本州では見ることの無い雄壮な景観の正に肝高の城!!を望みながら城址に向かって走る。
四の曲輪から三の曲輪へは城壁・石塁沿いの階段道がある

12~13世紀頃:英租王統は初代(旧)英租<1260-99>に始まり2代目大成<1300-08>の五男が初代勝連按司となり勝連城築城が始まった !?らしい。沖縄本土復帰の昭和47年<1972>5月に国史跡に指定され世界遺産にも(平成12年<2000>12月)登録され首里城等沖縄の城でも 最古参の城。5代西威<1337-54>の後は継承理由不明だが6代・伊波按司、7-8代・浜川按司・9代・勝連按司茂知附 (もちづき)と続き築かれてきた城は、
四の曲輪の湧き水 <ウタミンガー>

三山時代:他国に先魁け中国・朝鮮等との海外交易を盛んに行ない阿麻和利が按司となった頃に最も勢力を拡大し、 三山統一後も王府から唯一王権を 脅かす存在となり、脅威を感じて懐柔を謀るため第一尚氏王統6代尚泰久は王女十踏揚 (百度踏揚とも表記される:ももとふみあがり <何時までも気高く美しい…の意味をもつ名>)を阿麻和利の妻にと政略結婚させている。伝承では茂知附按司が圧政を敷き家臣や領内の住民から信望を失なうなか、北谷間切屋良村 (嘉手納町)の百姓の子だった加那茂知附に仕えていた。
一の曲輪から二の曲輪の殿舎跡 ・三の曲輪中央右上に虎口門

加那の策謀に協力した家臣・住民等により茂知附は滅ぼされ・自ら阿麻和利を名乗り10代目勝連按司となったが勝連城最後の城主の居城として知られます。 五つの郭で構成された連郭式山城を訪れる殆どの人は県道16号線:勝連城管理 ・休憩棟<勝連城のジオラマ等が展示されている>や駐車場施設側から入る裏門?で、
一の曲輪の霊石:玉ノミウヂ御嶽

城址石碑が立ち側には井戸跡もある西原御門 (ウジョー)からだが、市教育委員会パンフレットに見る海岸線側から入る南風原御門(ハエバルウジョー)が大手虎口門<正門>だったの様で、城域鞍部に位置する広大な四の曲輪に入城する。五箇所に湧き水・井戸(カー)跡や建物跡もあり、農耕地を有した生活空間でもあったよう。どの城にも例外なく祭祀跡をみるが、四の曲輪には湧き水の量で 其の年の収穫の出来を占うウタミンガーや縁結びの井戸(ミートウガー・夫婦ガーとも!?)の神聖な場所がある。
二の曲輪の洞窟<ウシヌジガマ>肝高の御嶽!!

四の曲輪を挟んで北西方の最高所から主郭部の1-3曲輪が階段状に低くなり、南東側斜面上に突き出す高台に東の曲輪 (東グスクとも西原城とも呼ばれる五の曲輪)がある。 随所に石垣跡を見る東曲輪側は発掘調査中なのか?、真新しい石積み工事途中らしい 復元修復中の所?もある。時間の余裕も無いが・世界遺産では気軽に”行ってみようか”と入っていくわけにもいかず?諦める。主郭側に比べ四の曲輪・東の曲輪側は曲輪段 ・基礎部の石垣跡が多い割に谷側にも崩壊残石類を 殆ど見ないのはおかしい!!と思ったら、
三の曲輪から四の曲輪へ降る:左上手が駐車場・管理棟

城壁の大量な石材は昭和初期頃?の道路工事・護岸工事等に転用され持ち出され殆ど壊滅状態!!?。四の曲輪から石塁沿いの急斜面を登り、狭い石門の虎口を三の曲輪に入る。広い芝生公園内からの眺望に先ず目がいくが、 二の曲輪との高低差段差2m程を6段程の幅広い石階段が 3ヶ所?程設置されているが、石段は何れも少し傾斜して濡れていれば滑り易い 石灰岩だけに要注意!ですが施工の意図は不明?。古い時代の竪穴式住居跡や擂り鉢状遺構が下層からは発見されています。二の曲輪は大きな建物跡礎石が方形に並び殿舎跡(南北17mX東西14.5m)とされ、 近年の調査からは瓦葺きであった可能性が高いと云う。
四の曲輪から三の曲輪への石塁と城壁

曲輪北側の洞窟<ウシヌジガマ>には城の守護神を祀る霊力が高い場所肝高の御嶽(うたき)遺構・火の神が祀られる拝礼所がある。段差の小さな下段の三の曲輪とは一体で首里城の”御庭”の様に儀式等が行われる 広場の様な存在だったか?。二の曲輪から石段道を登り一折れして城壁一部が開く狭い一の曲輪の城門跡からは唐草模様の浮き彫りのついた アーチ石の一部が発見されており、装飾を施した豪壮なアーチ門であった可能性が推測されています。此の虎口門を抜けると最高所の主郭。
長い石段を一折れして主郭(一の曲輪)石門虎口を入る

流石に此処からは古瓦が大量に出土しており沖縄の城で瓦葺きの館があったのは首里城・浦添城と勝連城だけと云われる。 曲輪の周囲は四方を高い 城壁の上部2m程を石塁として囲む城内では狭い芝生広場だが
、政治の安定を願い・按司の威厳を維持する守護神 「コバツカサ神」「火の神」を祀った拝所がある。中央部には「コバツカサ神」を祀る玉ノミウヂ御嶽と呼ばれる露岩テーブル状の石灰岩の霊石があり有る。石組みの丸い穴は拝所としての柱穴?。豪壮な瓦葺き建築物の 礎石となっていたものか?。
勝連城の一〜三の曲輪城壁

三山時代から中城城の護佐丸・勝連城の阿麻和利の乱まで:尚巴志(しょうはし)は中山の察度王統武寧を<1405年>倒し、北山王攀安知(はんあんち)は<1416年>巴志の策謀による家臣の謀叛で滅ぼし、残る南山の大里王統他魯毎も<1429年>南山王を見限った家臣等が中山王巴志の傘下に下り、
勝連城三の曲輪の切立つ城壁

場外に打って出た魯毎に城門を閉じ退却路を断たれ捕らえら殺されて滅び 三山統一を成し遂げ、父恩紹を王位に就けて立てたのが琉球王統(第一尚氏王統・尚巴志王統)。各地の按司が首里の尚氏王統の軍門に降るなか、勝連城の阿麻和利は家臣や地域の領民からの人望も有り、盛んに海外貿易を行ない王府:首里に匹敵する程の勢力を持ち繁栄し独立を保って王府に最後まで対峙した 阿麻和利は反逆者なのか?
中城城二の郭の拝所:シライ富の御イベ
 
第一尚氏6代尚泰久による 更なる巧妙な画策だったか史実は不明。1454年には5代尚金福の死後・王子の志魯と王の弟府里が王位をめぐり争い双方が斃れた”志魯 ・布里の乱”で金福・布里等の弟にあたる泰久が王統を継いでいるが、後7代尚徳を滅ぼした金丸(尚円)が第二尚氏初代となる等、琉球王朝の中央政権でも勢力不安定な時期が続いていた様です。
中城城三の曲輪城壁と北の曲輪へ入る裏虎口(搦手のアーチ門)

阿麻和利・護佐丸の乱… 中城城の護佐丸との間には奄美の諸島との交易を巡る主導権争いが起き阿麻和利は1458年8月:第一尚氏王統6代尚泰久【<在位1454-60>正室は護佐丸の娘】の重臣 護佐丸盛春に叛意あり(阿麻和利ち対抗する為・兵馬を整えていた事を謀叛の動き有り)…との讒言を広め、首里城の抑えとして勝連城を警戒する為築かせた中城城を王府軍が攻めた。阿麻和利にとって最大の好敵手 :護佐丸は王府軍と聞いて反撃する事なく自決し滅ぼされます。尚氏王統を倒して沖縄全土支配を目論んでいたのでしょう。さらに同年:琉球王府の首里城尚泰久を攻める謀反の企ては百十踏揚 【(ももとふみあがり)阿麻和利の妻で尚泰久の長女・尚氏王統に対峙する勝連城主との政略結婚で、三山統一後も上記「志魯・布里の乱 」の内乱等不安定で失墜した王権の復興を図って有力按司への婚姻関係を結んで後ろ盾とした】と従臣大城賢雄<(鬼大城:おにうふぐすく)の名の方で知られる>が勝連城を脱出して王府に伝え
三の曲輪を望む東の芝生公園に有る 中城城ジオラマ

・鬼大城率いる王府軍により大敗して 阿麻和利も滅ぼされます。百十踏場妃は 「乱」後に阿麻和里討伐の功を得た鬼大城賢雄と再婚した。第一尚氏王統は一段と安定したかに見えたが泰久の後:1469年7代尚徳を滅ぼした金丸(第二尚氏王統初代で尚円を名乗る)のクーデターの際 :鬼大城も討ち滅ぼされている。


中城城  xxx167m  中頭郡北中城村大城・中城村泊

中城城(なかグ_スクくじょう)は沖縄東海岸中部の中城湾:嘗ての貿易港:屋宜港から約2km程離れた太平洋を望む東に中城湾 ・東シナ海を望む西に勝連半島や知念半島を見渡す標高167mの石灰岩丘陵の東崖縁を天然の要害として立地して、北東から南西へほぼ直線的に六っの郭を並べ琉球石灰岩の石垣積み <野面積み・あいかた積み・布積みについては上記
二の曲輪(一の曲輪のアーチ式石門から)

座喜味城(読谷山城)>技法により築かれた連郭式山城で第二次大戦の戦禍を免れ・沖縄県内 300余りの城の中でも最も遺構の旧状をよく留めていることで知られます。勝連城から中城城へはR329を走り県道146号の入ればよいが?、 R330の屋宜原?から住宅街の様な狭い道を県道81号に出て県道 146号に入ったら、現:19世紀初期の建築:豪農・中村家住宅(国重文)
チブガー(チブ井泉):北中城村

【中村家の先祖は豪農:賀氏は1440年読谷山按司:座喜味城主・護佐丸が中城城に移ると、共に此の地同行して移ったが 1458年:護佐丸が阿麻和利に滅ぼされると、中村家も離散したが1720年頃には家運を盛返し・大城安里(ウフグシクアサト)と称し此の地の地頭代 <庄屋>として復活する】
の手前でナビのガイドが何故か消えてしまう?。
中城城のウフガー(大井戸):別名を番所井戸

中城城は直ぐ近くだろう?と周辺を歩いてみた。正解はそのまま146号の坂を下っていけば城址案内標識が有った…が大城北中城村?の中村家からの散策途中の高台に上がる所に「チブ井和泉<ガー>」があった。大城地区で最も古い共同井和泉と云う。築造年代は不詳だが大城のウブガー<産井泉>で、新生児のウブミジ<産水>として、 また死者の身体を清める為の水も此のカーが利用された。
大井戸(ウフガー:中央右端下部)を取込む北の曲輪の城壁

水量も豊富で洗濯・野菜洗い・水浴び等生活用水としても利用され、多くの人が集まるコミュ二ティ(井戸端会議!!)の場ともなっていた様です。一帯は萩道大城湧水群で、中城城の城内にもウフガー(大井戸)がある。元は城外にあった水場は護佐丸によって城内に取り込む為・北の郭を増築し、バンジュガー(番所井戸)の別名からも、発掘調査による井戸の石組みから・
三の曲輪城壁と北の曲輪へ入る裏虎口(搦手のアーチ門)

番所が置かれていた頃に造られたと推察されています。 西の郭にもミートゥガー(夫婦井戸)があった。中城城の創築年代は定かでないが 14世紀中庸頃まで先中城按司(さちなかグ_スクあじ)【城主等資料もなく、此処では護佐丸以前の城主全てを指す】により基礎が築かれ、数世代にわたり按司の居城として、尚巴志の三山統一まで続き大手側の南郭・西郭・一郭・
二の曲輪:城壁の曲線が美しい(北面)

二郭の主要部が築かれていった。 勝連城の茂知附安司が勢力を拡大してくると、1430年尚巴志は中城の地を護佐丸に与えて築城を命じ、此の尚布里(後に王位をめぐる内乱志魯・布里の乱を起こし 共に斃れた)を江洲・尚泰久(後の第一尚氏王統第6代)を越来に置いて勝連城を牽制します。1440年尚忠が第3代国王となると王命により、 読谷山按司護佐丸は座喜味城から完成した中城城に居城を移し、
二の郭:一の郭城壁と未使用のまま廃墟となった中城高原ホテル

更に勝連城の攻撃に備え裏門側となる三の曲輪・北の曲輪の増築や、南郭側のアーチ式城門等の改修が進められた事が、あいかた積み(亀甲積み)の高度な石積み手法や技術から推定されます。沖縄戦国時代最期後の築城遺構を今に残す事でも貴重な史跡ですね。勝連城は茂知附を滅ぼした阿麻和利が対外交易等で勢力を蓄えていた頃か。
二の郭の布積城壁と城門(左手前に拝所<シライ富の御イベ>)

琉球首里の王府の備えとし・勝連城主 阿麻和利を牽制する為に築かれた城ですが1458年阿麻和利・護佐丸の乱に護佐丸は(通説?)では讒言により王府軍の主将となった阿麻和利に攻められた。謀反を疑われ戦わずして自害し忠節を全うした護佐丸盛春は、 今も人気が高い武人で・會祖父が城主であった 今帰仁城攀安知を討ち 北山王統を滅ぼし、
城内最広”一の郭<正殿があった>”と西の郭は発掘調査中

尚巴志から北山守護を任じられると北山監視の要所で良港を備えた 座喜味城を築き、勝連城の監視に 中城城へと世界遺産指定「琉球王国のグスク…」5城のうち3城を居城としている。 県道146号線に案内板を見て駐車場に入ると谷を隔てた 丘の上に望む西方へ続く城址へ管理事務所から向かう道は裏門に向かう。 正門は南側に在って先中城按司(護佐丸盛春が中城城に移封される以前の歴代?按司)による石積み【南郭は野面積・布積を併用、 一の郭・二の郭・西の郭は布積】、
三の郭の急な石段と櫓(手前)・二の郭の城壁

護佐丸によって拡張増築された 三の郭は新城(ミーグスク)とも呼ばれ、櫓台を含む北の郭等には力学的にも進んだ技法の亀甲積(あいかた積)やアーチ式石門の布積等<技法等 座喜味城を参照してください>】の城塁が見られます。ただ此の三の郭は急な石段の入郭路以外は四方石塁に囲まれ隣の郭等への連絡通路の無い独立した隔離部屋?の様。
西の郭から正門・南の郭にかけては発掘調査中

個々の曲輪詳細や位置は管理棟で入城チケットの購入で手渡される縄 張り付き案内パンフレットがあるので(?手にしたパンフを見開く事もなく・寸暇も惜しんで場内を駆け抜けたが、兵馬訓練場と云われる西の郭・正門 ・南郭一帯は発掘調査中で立入禁止!!)個々の曲輪遺構詳細は省略します。パンフは疎か現地案内板も無く、石垣・石積遺構を視ることさえ珍しい土の城・曲輪の切岸さえ曖昧で
西の郭:またしても写り込む廃墟の中城高原ホテル

低土塁も見極められず、地元でも存在が知られていないマイナーな山城廻りとは雲泥の差以上!!の。 観光の城ではあっても世界遺産に登録された歴史的意義等の理解と認識を深めたいもの。護佐丸の子孫は護佐丸の三男・盛親が乳母と共に城を逃れ、 後第二尚氏王統初代尚円に登用され豊見城親方盛親を名乗り、子孫の多くが首里王府の主要な役職に就き、琉球屈指の名門の一つとして栄えた…。
北の郭:正面木枠の門は楼門だったか?、 右手をウフガー(大井戸)に降る

中城城は其の後:琉球王府の天領(直轄領)として、※伝承では英祖王の子が此の地を与えられ中城王子となり…!!: 第二尚氏王統 10代尚質<在位1648->の王子時代以後の世子…を中城王子と称されるが、寧ろ其の前4代尚清<在位 1527->が王子時代に 中城を領しており7代尚寧<1589-1620>の頃までの王子のことなのだろうか?。慶長14年(1609)には薩摩藩主島津家久が琉球に侵攻して以後は番所として
三の郭:またしても写

1853年浦賀に黒船で来航したペリー提督の探検隊?は沖縄にも立寄り中城城を調査し、石造建築の構造<特にアーチ式の石門 >や技術水準の高さを賞賛している。明治12年(1879)沖縄処分<廃藩置県>後は中城村役場として戦前まで利用されてきた。 琉球処分(廃藩置県)により琉球王朝が消滅するまで王位継承されていくが 1609年以後も中城城に王子が居城したものか…?。
二の郭の拝所:シライ富の御イベ

第二次世界大戦の太平洋戦争末期 :沖縄の地上戦での被害も少なく城壁の石積み遺構が良好に遺されている。沖縄本土復帰の昭和47年(<1972)5月に国史跡指定・ 平成12年(2000)12月「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産に登録されました。


首里城(御城<ウグシク> xxx Ca130m   那覇市首里金城町

首里城は嘗て海外貿易の拠点:那覇港を見下ろす丘陵上に位置し、 三山時代尚巴志中山の察度王統の城主(首里城の前身)武寧を倒し北山・南山の 三山統一を成遂げ第一尚氏王統二代(実質は初代)巴志の1429年に琉球王国が成立しているが、慶長14年(1609)んの薩摩藩主島津家久の琉球侵攻により琉球王国は終焉?、 明治12年(1879)の琉球処分(廃藩置県)により、
「守禮之邦」扁額の守礼門

最後の国王:第二尚氏王統 19代尚泰が明治政府に明け渡し450年の渉る琉球王朝は廃絶し王城首里城は幕を閉じたが、縄県内最大規模のグ_スク城であり守礼門 ・正殿の”朱”で代表される琉球の政治・文化・経済(貿易等の外交含む)の歴史を包み見込む王都(沖縄県)のランドマークです。首里城は三山統一で安定化していた琉球王朝も5代金福(在位1450-53)の死により王位継承争いが起き
国比屋武御嶽石門<世界遺産>

志魯・布里の乱(1453年)で共に倒れたが其の際に城内は破壊され二度目 (1660年)の失火では再建までに11年を要し、1709年にも三度目の失火では正殿・北殿・南殿を失っている。明治12年(1879)の琉球処分(廃藩置県)により 正殿等の首里城の建物は日本陸軍の軍営として、其の後は学校等として利用され、王宮としての首里城は終焉を迎え・楼門等は取壊され 荒廃し老朽化も目立ってきた様ですが、
歓会門(首里城に入る第一の正門)

正殿の保存が決まり改修され”椿説弓張月<滝沢馬琴>”にみる源(鎮西八郎)為朝が初期琉球王朝の租としての伝説 【鳥羽天皇が法皇の時代!?:保元の乱(1156)前:為朝は太宰府に城を構え九州諸国を支配し鎮西xxと呼ばれる】があり、昭和14年(1925)正殿が国宝となり、 沖縄神社(県社)社殿には源為朝と歴代国王が祀られたが、昭和20年(1945)太平洋戦争における日本で唯一
瑞泉門<中程右横手に龍樋>

・地上戦となった沖縄戦でアメリカ軍の砲撃で多くが全壊し・戦禍を免れた宝物庫内の財宝はて米軍に略奪された、戦後一部が返還されている。 戦後:琉球大学が置かれたことで一部を除き・多くの遺構が撤去されたり埋められ破壊された。復旧事業が本格化し守礼門が再建され沖縄本土復帰の昭和47年(1972)国史跡指定を受け、
龍樋

歓会門や周囲の城郭が再建された。昭和54年(1979)琉球大学の西原町移転に伴い本格的な復元作業が始まり、平成5年(1993)正殿はじめ諸々の門等琉球王朝の姿が首里城公園内に復元されました。里城は本土(差別ではなく対比させる用語を知らない?が)とは異なり城塁・建築技術に中国の影響は大きい様で、
漏刻門<中程右横手に龍樋>

日本唯一の朱(あか)い城<天然の漆が塗られた工芸作品>、 屋根瓦も高麗瓦(後に琉球瓦)が使用され、金の鯱で代表される?鴟尾(しび)をはじめ・各部の装飾には国王の象徴とされる”龍”が多用される等、中国と日本の 築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的な価値があるとして2000年12月「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとしてユネスコの世界文化遺産に首里城[復元された建築物や城壁は除く]が登録された。
歓会門から久慶門前を瑞泉門への大手筋

三山統一 で安定化し1429年に琉球王国が成立し、後に王位継承を巡る内乱「志魯・布里の乱(1453年)」で焼失したが、戦乱後に再建された 首里城は軍事より政治・外交・文化の中心として設計されている様です。高さ6-15mもの城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ総延長は約1080mにおよぶ。外郭と内郭からなり、内郭の正殿は王の居住する中心部【1階と2階には御差床(うさすか)という
正殿

王座が設けられ、康熙帝<清第4代皇帝>が贈った「中山世土」・雍正帝<清第5代皇帝>が贈った 「輯瑞球陽」・乾隆帝<清第6代皇帝>が贈った「永祚瀛壖」(えいそえいぜん)の三つの扁額が本人の筆跡や落款を再現した上で 復元され飾られている】:正殿前には御庭(うなー)と呼ばれる【家臣らが謁見したり中国皇帝の使節
琉球のグスク城内で御嶽ではなく 庭園は此れが唯一!?

<冊封(さくほう)特使!!?を迎える等の】広場を囲むように御庭への入口となり行政施設も入っていた奉神門・行政施設の北殿・儀礼等に用いられた南殿【薩摩藩の接待に使用され・此処にのみ和風の意匠が 用いられていた】などの政治や外交上の重要建築物が集中し、中国の紫禁城との類似性が指摘されています。南殿の隣には 王の執務する書院や鎖(さす )之間があり、城内で唯一の本格的庭園と云われ石灰岩の岩盤を生かして蘇鉄などが配されている。沖縄の城内に設けられている御嶽(うたき)で祖先神を祀る拝所かと思えたが、首里城は元々:琉球有数の聖地で、城内には10ヶ所の御嶽がはあった場所。
正殿内御差床<復元された国王の椅子等>

国家の聖地であった重要な場所は琉球大学が移転されるまでは数ヶ所の 御嶽拝所への出入りは自由だったようですが、復元後の首里城内には「首里森御岳」等に一部を除き拝所は無くなったのか非公開なのか?、発掘・整備中なのかは未確認!!?。内郭には瑞泉門・漏刻門 (漏刻<水時計>や日時計で時間を計測していた )・司法や寺社宗廟関係の機関が入居していた楼閣・広福門(内側は家系図や城内の物品を管理する機関があった)等の門があり、外郭には歓会門、 久慶門など四つのアーチ門があった。
淑順門(御内原<さしずめ大奥?>への表門)

瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、 龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出している。ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の使臣が残した碑刻がある。正殿の東側一帯は御内原と呼ばれ、国王と其の親族・其処に務める多くの女性たちの暮らす男子禁制の場は、 さしずめ江戸将軍家の”大奥”!!?並み…で、女性が総てを取り仕切っていた。
(各グ_スク城内案内板・城址観光パンフレット・Wikipedia・新琉球王統史・琉球王朝<嶋岡晨> 等を参照)

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