滋賀:湖東の城 彦根城・佐和山城/姉川古戦場・小谷城〜大嶽城
滋賀:湖東 (五万図=彦根東部・長浜)
彦根城/佐和山公園〜佐和山城/姉川合戦場/小谷城(本丸・山王丸・大獄城)  H15年11月19日
校歌・故郷の山 城北小学校 
♪朝日夕日に輝きて聳えて立てる 金亀城・・♪
            小谷小学校 ♪山は高いよ 小谷山 高い誉れを受けついで・・・♪
近畿の山城: 彦根城  佐和山城 姉川古戦場 小谷城・大獄城


観光では昔・彦根城や長浜城に寄ったことはあったが、城サイト仲間との情報交換やオフ会の付き合いの中で、石垣や白壁・櫓が復元され天守が耀く壮大で美しい造形美を見せる”名城”と謡われ、 玉砂利踏んでの観光コースに乗った城からは遠ざかっています。戦国の乱世を生抜いた藩主の近世城はそれなりに魅力的なのですが。 その一つ前・二つ前、群雄割拠し下剋上の戦乱に近辺警護・一族さえ警戒した豪族・領主の中世の城にも興味は尽きません。
佐和山城

地元でも其の存在や場所も知られない小さな土の城にも、其の城と栄枯盛衰を共にした領主や家臣団の歴史を語る城遺構が残っているものです。 崩れ埋もれて僅かに形状を残す堀切や土塁、質素な建物が有ったと思われる平坦地、石垣・石積み等も無く、人の踏み跡も消えた藪中に城館遺構を探してみます。それにしても石田三成の佐和山の城から井伊家の彦根城を望むとき、これほどに其の対比・明暗をみせる城も少ないでしょう。天下を分けた「関ヶ原合戦」で立場が逆だったら 有名な人物の城と歴史は大きく変わっていたでしょう。彦根駅からも間近に望む低丘陵の佐和山城と彦根城の遺構を見るとき、彦根城は織田・豊臣の旧勢力地に在って、其れに代わる支配・権勢を誇示顕示する政策上にも 新城の彦根城を築城し、旧勢力下の城の用材を移して築城されます。
彦根城中濠・京橋側東南角

徹底的な”城割り”が行われた佐和山城”兵(つわもの)どもが夢の跡”には(尾根筋のハイキングコースを外れると)生い茂る雑木藪・竹薮を突き進んでまで各曲輪遺構を訪れる人は少ない様だ。 しかし此の城にはガイドをお願いしたばかりに、忙しいなか駆けつけていただいた。”三成さま”いのちと 「石田三成と佐和山の城」に情熱のサイトを運営されている心強い女神”びわこさん”に感謝。YORIさんの呼びかけで集まったKAIさん・迷の介さん・ひでサードさん・又兵衛さん達とは、 R8号線佐和山トンネル手前に有る佐和山歴史遊園 (一帯は建築許可が下りず金閣寺?や模擬天守閣風の建物は開園を迎えないまま廃城となった様です!?)には、
小谷城・中の丸から京極丸へ向かう

西陽を受けて耀く模造金閣と城山を背に、西軍の見方と信じ裏切られ敗将となった馬乗姿の三成像が、共に虚しく慟哭しているようです。 佐和山から藪を抜けて二の丸〜三の丸を経て大手口へ降りてきた。 R8号線の佐和山歩道トンネルを西へ抜けたところに「三成に過ぎたるものが二つあり・・」の石碑を見て【佐和山城・勇猛智将の家臣・沼地に架けた長大な百間橋】其の全てが失われ、歴史を僅かに伝える城の遺構さえ雑木藪と 下草に覆い隠された佐和山城を案内していただいた”びわこさん”とは此処で別れ、次の目的地 小谷城・大獄城を目指して移動した。

浅井長政自刃碑・赤尾屋敷

上杉謙信の春日山城(越後)・畠山氏の七尾城(能登)・尼子氏の月山富田城(出雲)そして近江に佐々木(六角)氏の 観音寺山城と此処・浅井氏三代で消えた小谷城が日本五大山城とされます。南に中仙道・西は琵琶湖沿岸に沿って北国街道を望む要衝に在って 佐和山城同様に近江境界を守備する重要な位置を占める小谷城は、自然地形を巧みに利用しながら防備・修築を続け、小谷山の尾根と谷を補強し全山要塞化した壮大な規模の山城は、幾度も此処を訪れている仲間にも都度 ・感動を呼び起こしているようです。小谷城を目前にして旧北国街道のを・・・長浜市の北東部を流れる・・姉川の古戦場に立ち寄りました。以降・今回の山レポートは下記「近畿の山城」を御覧下さい。



佐和山歴史公園?前〜佐和山城本丸〜二ノ丸〜馬洗池〜大手土居 2005年11月19日

彦根駅9:30集合の近江佐和山城・小谷城オフは、長期予想に反して悪天候・早朝の猛烈な雨でオフ欠行が危ぶまれる状態でしたが、丹波を暗い内に発って大津を過ぎた辺りで退き返すなんて出来ない・・・(^^ゞ 安ずる程の事も無く 時折小雨程度、待合せ1時間前に着いたので彦根城の中濠・内濠を半周して戻ってくる。駅前ロータリーに初代彦根藩主・井伊直政像を前にして、 用意して貰った資料を手に事前ミーティング・びわこさん先導でR8号線佐和山トンネル西側に開園されないまま放置されているという歴史公園から龍潭寺へかけて整備された佐和山城への登城ルート 「東山(城山一帯の呼称らしい!)ハイキングコース」を登ります。

二の丸 ・前方に櫓台が見えるのに・・・!

彦根駅改札口前から見える丘陵佐和山は北国街道・中山道を押える 要衝に有って、鎌倉期の建久年間(1190〜99)には既に佐保氏の砦が築かれ佐保城の名もあり、 幾度も城主の変遷を経て天正18年(1590)石田三成が領主となった佐和山城が在りました。関ヶ原の合戦後に井伊氏が入城し、直ぐに彦根城を築城して移り徹底破壊された佐和山城ですが適度な?雑木林と少し藪っぽい低山歩きと、 広い山頂広場での休憩と展望に少しは堀や曲輪・土塁にと城遺構が見られるハイカーにとっても楽しみの山なんです!!。緩やかな広い平坦地を進むが右手に突き出た尾根の斜面は高く、 手が加えられた切崩された断崖上の尾根先に法華丸の曲輪群がある。此の尾根沿いの山道が急坂にかかる分岐正面の藪道は石田屋敷に通じ、其の先からは太鼓丸〜本丸への主尾根に至る道が有ったという。 山道を登り詰めた尾根に堀切が有る。急斜面だが、此処は太鼓丸・法華丸分岐で且つ千畳敷へも通じる箇所なので、石田屋敷からも堀切道等を利用した登城道が有った様です。

分岐から本丸に向かう前に堀切から近い太鼓丸へ往復します。 藪っぽい曲輪の南面を土塁が囲む。下方に千畳敷はあるが引き返して本丸に向かう。本丸下部で右手には「女郎谷」の標柱の立つ平地が有る。 佐和山落城秘話として城中の多くの婦女子らが此処から谷に身を投げたところと伝えられています。左手に「千貫井戸」を見る。 低い山の山頂近くなのに信じられないほど保水の結構大きな池は非常に貴重な存在で、 千貫の名の由来も頷けます。しかし足を踏み入れればどこまで潜るのか?水深を測るメジャー柱があるが表示を見なかったが深そう!。
馬洗池の土橋に立つ

膝辺りか・胸辺りか・それとも潜ってしまうのか?・・・(^^ゞ本丸と井戸曲輪を護ったものか、 破却で崩されたものか!石垣と思われる石材が下方には散在しているようですが、佐和山城には殆ど残らないと思われる石積みの遺構は、千貫井戸からの急斜面をトラバースしていくと頭上に見られます。 びわこさん達熱心なグループの調査で近年発見された石垣は、新聞の特集連載記事の一つに取り上げられていたので、読まれた方もいらっしゃるでしょう。足場が不安定なので誰が撮ってもほぼ同じアングルになるかも?幅2m・高さ1m 強程度の残欠なので、地形や位置からも櫓を支えた石垣とは思えませんが、何らかの施設か狭い曲輪を広く使用する為の土止め石積みかは不明です。 本丸へは石積遺構からも千貫井戸からも直ぐ、 3〜40mX80m程の広い平坦地の東端に佐和山(点名:石ヶ崎 3等三角点233m)石標柱が埋り西方に城址案内板と城址碑が建っている。大きく北東面には伊吹山が、 鎌刃城や霊仙山の境界尾根が望め、西南面は多景島や竹生島が浮かぶ琵琶湖を背景の彦根城と市街地の眺望が開ける絶好の展望台です。
大手口から佐和山城本丸・三の丸(左尾根)中央左手奥に馬洗池がある

早速記念写真に納まって、ハイキング道を外れて二の丸へ向かう。 此処からはびわこさん案内無くして到達不可能。 竹薮の中・切岸状の尾根に沿って続く犬走り状を抜けて細長い平坦地を通って二の丸東下の虎口状に到達します。以前は藪も薄くて遺構が確認出来た場所はひどい藪となり、 二の丸曲輪に出ると昨年(H16年)の調査で切開かれている様です。6〜7mの切岸の下に曲輪が有り其の北端部は1m程の盛上がりを見せ櫓台跡を思わせます。其の先は10m程の傾斜で大堀切となって美濃殿丸との尾根を遮断しています。 退き返し二の丸から三の丸への尾根途中?から大手口の田圃へ降りたち、馬洗池へ拠り大手虎口の土居を出て、最後に佐和山を望み堀跡の川筋に沿って続く土塁の残欠を見ながら国道8号線。 和山トンネルに並行して歩行者専用となった旧佐和山歩道トンネルを抜ける。うっかり見過ごしたトンネルの片側には三成の故事・豊臣秀吉にお茶を差出す場面が、 反対側出口には佐和山城と百間橋が描かれています。
大手土居・畑地に残欠と堀に利用の川


佐秀吉 ・三成出会いのエピソードについては2年前の近江衆との合同八上城オフで”びわこさん”から差し入れの”三献茶の可愛いイラスト”を思い出しますね(^^♪ 此処の石碑に
「三成には 過ぎたるものが三つある・・・」と書かれていた。良く知られる佐和山の城・島左近に百間橋を加えたものなんですが、彦根古絵図や昭和初期の写真が残り、昭和初期までは沼地だった搦め手側 ・松原内湖にある小島を繋いで嶋左近が、長さ三百間(約540m)・幅3間の橋で繋いだ百間橋を架けたと伝えられるが、今や鳥人間コンテストやトライアスロンの開場としてしか知られないのかな?



彦根城(金亀城)  佐和山城(佐々木城) 姉川古戦場 小谷城・大獄城


彦根城(金亀城)    亀山(彦根山) 136m    彦根市金亀町 (国指定史跡)

彦根市は東海道・中山道・北国道を繋ぐ城下町として、昔も現在も湖東の文化・経済・交通の要衝です。井伊家35万石・彦根城(金亀城)で代表される城下町も”天下分け目”の戦いで明暗を分けた西軍 ・石田氏が勝っていれば、破却されながらも僅かに遺構を留める佐和山城が、鉄砲戦に備えた総石垣と伝説の5層天守を耀かせて 国宝文化遺産の指定を受けていたのかも?其の佐和山城に行こうと彦根駅で待合せに時間が有るので、彦根城中濠・内濠の大手側を歩いて見た。
彦根城中濠・京橋側

真っ先に表門橋が目につき”いろは松”を見る。2代目藩主となった井伊直孝により当初47本植えられたところから付けられたという。 正面に”二の丸佐和口多聞櫓”があり、左側のが佐和山城からの移築といわれるので、よく見ておこうます。多聞櫓と表門の間には、城内に現存するのは此処だけといわれる御馬屋がある。 内濠に沿って大手門から一寸古過ぎるか !映画”青い山脈”舞台となった彦根西中学校グラウンドの方へ、見え隠れする天守を眺めながら歩いてみる。中学校付近から広くて何もない更地の大手前公園には中濠側に高い土塁や隅櫓台跡らしい石段積みが残ります。 大手門から裁判所として使用されているという西郷屋敷の長屋門を京橋へ出て、 中濠沿いに駅に戻りオフ会メンバと合流した。デジカメでは此の後のメイン城巡りの為、 バッテリーや画像容量を考えると殆ど写真が撮れない・・・。
彦根城内濠の石垣・西中学校側

関ヶ原合戦(慶長5年 1600)に戦功のあった井伊直政は翌年:畿内北方の北国道・中山道を抑える要として、 徳川家康から石田三成の所領(近江国)と旧領併せて18万石で佐和山城に封ぜられ、佐和山城に変わる新城を計画しますが、関ヶ原合戦の鉄砲傷が原因で慶長7年(1602)病没。新城造営の意思を引継いだ弟の彦根藩2代目藩主:直孝と、 直政の嫡男直勝(直継?)によって翌年から約20年掛け元和8年(1622)に完成します。八上城から城下を山陰・山陽・大阪へ通じる要衝の地・篠山に移して新城 篠山城を築城し、西国の主に山陰の抑えとし豊臣方だった家臣の動向を監視・牽制したと同様に、彦根城築城に際しても公儀御奉行3名が付けられ7ヶ国【伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨 ・若狭・越前】12大名に助役普請を命じた天下普請で、両城共・豊臣秀頼の居る大阪城の押さえとしています。豊臣色を一掃し且つ支配権勢を誇示し交代を印象付ける政策上の効果を狙ってなのか、天守は大津城・・西の丸三重櫓 は浅井長政の小谷城天守・天秤櫓と山崎三重櫓(長浜城の天守)は秀吉の長浜城・太鼓門と佐和口多聞櫓は三成の佐和山城からの移築といわれ、 石材は安土城・大津城・長浜城から資材を寄せ集めて成り立った滋賀県内有名城博覧会の様なオムニバス城ですね。
佐和口多聞櫓

とりわけ佐和山城の太鼓丸・千貫井戸や 本丸・二の丸周辺に瓦片を見かけるが、建造物や石材の遺構を見かけないのは徹底して破却され、 彦根城の用材として転用されたからでしょう。以後・明治維新まで続いた井伊家の居城も廃藩後は政府の管轄となり、明治6年(1873年)の廃城令では数多くの城が姿を消していくなか、明治11年 (1878年)大隈重信による明治天皇への奏上が無ければ、彦根城も破却され、濠も無く城山さえ均されて、佐和山城とは比較にもならない程に遺構も残らない無味乾燥の更地になっている事でしょう?。佐和山城は遺構の再調査 ?が成される様ですので、改めて歴史と自然の風致地区として一帯の保存や、城遺構にも新たな発見に期待したいですね。
(現地各所の案内板 彦根市のガイドパンフ及び日本城郭大系 新人物往来社を参考)


佐和山城(佐々木城・佐保城)    佐和山 (佐保山 233m)    彦根市佐和山町(古沢町石ヶ崎)

JR彦根の駅舎は橋上に有り、 改札口を出ると正面の窓から佐和山城が見える。直ぐ真近に有りながら駅からストレートには登山口に行けず、一般登山ルートは龍潭寺からが分かり易いようです。しかし此処は地元・しかも佐和山城と三成の事は ・・・”びわこさん”にガイドお任せで、 R8号の佐和山トンネル西口付近から太鼓丸〜本丸〜二の丸〜馬洗池から大手道へと廻ります。
二の丸・櫓台北面の大堀切

(訪城記は上記山のコース・レポートを参照してください)藪に隠れた遺構探しは大変です。徹底的に破壊された城で、 石積・石垣等は何も残されていないと思われていた 佐和山城ですが、近年になって石垣が発見され、藪に埋もれた曲輪には開発や自然崩壊による破壊は少ない様なので、未発見の遺構が未だ眠っている可能性は捨て切れません。豊臣政権では前田玄以・浅野長政等五奉行の一人であった 石田三成の居城として知られる佐和山城は中山道と北国街道が分岐する交通の要衝あり軍用路としても古くから重要な位置に有って、 城の別名にもあるように鎌倉時代:建久年間(1190〜99)在地領主佐保時綱によって砦が築かれたのが 始まりといわれます。
佐和山城太鼓丸・曲輪東南部を土塁が囲む

その後・領主は佐々木六角氏と佐々木京極氏・浅井氏との領地争いが繰り広げられ“境目の城”として佐和山城の争奪戦が繰り返され都度:領主も代わります。 室町時代末期:大永年間(1521-28)には佐々木(六角)定綱の持城となり家臣:小川左右大輔が入城しています。その後、京極氏に代わって小谷城の浅井氏が台頭してくると、 浅井氏家臣:磯野伊予守員吉と子の員昌が入城しています。元亀元年(1570)6月姉川の戦いで敗れた磯野員昌は、敵中を突破して佐和山城に楯籠もっていますが、 攻める織田信長は周辺に向城を築いて佐和山城を孤立させます。浅井氏の劣勢をみて木下藤吉郎の勧告に従い織田家に投降したとも、磯野氏が浅井方を裏切ったと流布させて開城させたともいわれますが、 城が堅城であった事を窺わせるエピソードです。佐和山城の位置や山城としての良好な諸条件から”本能寺の変”後、 羽柴秀吉は有力武将を此処に配置し、天正11年(1583)堀秀政・天正13年(1583)丹波黒井城から移った堀尾吉晴 ・天正18年 (1590)には石田三成が194,000石で入封し城の補強・改修していきます。
千貫井戸<

関ヶ原の合戦 (慶長5年1600)で出陣していた三成は敗れ、城を留守した父:正継と兄:正澄等も徳川方に寝返った小早川秀秋等に包囲され開城します。 佐和山城には井伊直政が18万石を領して入り、新城の築城を計画するが鉄砲傷がもとで病死し、 翌年から直政の弟直政と直勝により着手されたのが彦根城で、各城から用材を調達しますが佐和山城は石田三成色を払拭する様に、徹底的な「城割り」により破壊し尽くされ、建築用材や石材は新城の彦根城に移され佐和山城は廃城となります。 「治部少(石田治部少輔三成)に過ぎたものが二つあり 島の左近に佐和山の城」 と謳われます。堅城・佐和山城の威容と、勇猛智将でもあった大和筒井氏の家臣:嶋左近を、近江水口4万石の岡山城主だった石田三成が、禄高の半分・2万石で家臣に迎えたことによる意味ですが、 三成に過ぎたるものがもう一つありました。

本丸南下部の急斜面に発見された石積み

良く知られる佐和山の城・島左近に百間橋を加えたもので、彦根古絵図や昭和初期の写真が残り、昭和初期までは沼地だった搦め手側・松原内湖にある小島を繋いで嶋左近が、 長さ三百間(約540m)・幅3間の橋で繋いだ百間橋を架けたと伝えられます。佐和山城の関する各種伝承等によると五層の天守が建っていたとも伝えられる様ですが、”俸禄が使い果たすべき・使い過ぎは愚かだが、 残す事は録盗人だ”と言ったという三成の言葉から流布されたものか?合理主義・三成の居城は質素で居間も多くは板張りだったとされます。しかし有望な武将を法外な高禄で召抱えた島左近の例も有名な話ですね。
(現地各所の案内板 彦根市のガイドパンフ及び日本城郭大系 新人物往来社を参考)


姉川古戦場   長浜市・東浅井郡浅井町野村 野村橋北詰めに戦死者の碑が建つ

午前中に周った佐和山城に見残しの未練と余韻を残しながら、R8号からR365号へ出て北に向かう旧北国街道を小谷城へと向かうと、 長浜市の北東部を流れる姉川を渡る。近江では”七本槍”で有名な賎ヶ岳古戦場・天下分け目の”関が原合戦”、そして元亀元年 (1570)6月28日小谷城主:浅井長政 (8,000)と越前:朝倉景健(10,000)連合軍が、織田信長・徳川家康連合軍(28,000)が姉川を挟んで対峙し、両軍に戦死者2,500とも3,000とも云われる大激戦の古戦場跡に立ち寄りました。 R8号線からは東側の地区道側・野村橋の北詰に姉川古戦場の大看板・標識・供養碑が建つ小公園が見えています。
姉川合戦・戦没者慰霊碑

戦いが最も激しかったのが野村橋一帯で、公園に建てられている姉川合戦各軍配陣図によっても、姉川を挟んで三田〜野村付近の朝倉軍対徳川軍・野村〜佐野付近の 浅井軍対織田軍の武将と記されている兵員数により、其の様子が想像できます。織田信長は永禄年間(1558-70)北近江を支配する浅井長政に、妹”お市”を娶らせて同盟を結んでいた。永禄11年(1568)信長は足利第15代将軍義昭を奉じ、 越前朝倉義景にも上洛するよう命じるが応じない為、元亀元年(1570)越前朝倉攻めを断行する。
【関連挿話!
盟友 丹波霧山城主:波多野宗高 (実在の人物かは疑問視されているが?)は織田信長に戦を挑むのを”軽挙するな”と諌めたが聞き入れられず、止む終えず近江に従軍し信長と対戦したが朝倉勢は敗退し、刀根峠の戦い(越前・刀根山)で討死したとの伝承と、 家臣の佐伯某が持ち帰ったという「首塚」も有るのですが・・・(^^ゞいよいよ朝倉氏発祥の地・但馬朝倉城攻めも近くなったか?】
姉川古戦場

浅井氏も亮政の代より朝倉氏とは親交が有り、信長との同盟には朝倉氏を攻めないこと、事を構えるにあたっては事前に通告する等を条件としていた。 信長の盟約違反に苦慮した様ですが朝倉氏救援を決断し、織田・浅井の同盟は決裂し・・姉川の合戦へと展開します。姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れ小谷城へ撤退して籠城。其の三年後・天正元年 (1573)8月清水谷から駆け上った織田軍によって最高所の大獄丸(小谷山495m)を最初に落とされ、有利な山上側から本丸へ一気に攻め下り要害堅固を誇った小谷城も落ち浅井氏の滅亡を迎えます。 姉川の合戦が信長の天下統一への足掛かりとなったともいわれます。
(現地説明板・合戦配陣図 および観光ガイドパンフ等を参考)


小谷城と大獄城
小谷城  小谷山(山王丸 395m 大嶽城 495m) 滋賀県東浅井郡湖北町小谷 ・伊部   国指定史跡

姉川古戦場跡からR365号に戻り、小谷城を目指し走っていると、 前方に緩やかな稜線を拡げる優美な山容の小谷山【日本五大山城の一:小谷城】を望む。手前の山の山肌を縫って 山頂近くまで林道が伸びているのが判る。小谷山の先達はKAIさん・山麓に駐車場は有るが当初から此の林道を 終点の中腹迄登り詰めて本の丸〜山王丸へ向かうという。足に自身の無いというYORIさんにとってはラッキーな計画です。
石積みの馬洗池

須賀谷温泉の道を分けると直ぐ伊部の小谷山大手道の登山口に着く。東方間近には時間が有れば寄りたかった虎御前山城があるが車窓からチラッと見ただけ。紅葉見物を兼ねたハイカーが次々下ってくる此処から続く細い林道は、結構利用者も多く、「出丸」のある望笙(ぼうしょう)峠付近の狭い駐車スペースにも 数台の車が止まる。
土居囲みの広い曲輪・お茶屋

滋賀県内に城砦は多く、 此処から望む丘陵や山の尾根には有名無名の城砦が「目白押し」だろうと想像しながらウネウネと上った終点には大きな小谷城説明絵図板が建ち、ボランティア・ガイドさんが訪城登山者に遺構の説明をされている。 本城へ向かう前に金吾丸を往復してくる。 佐和山城同様に中仙道と 北国街道の要衝にあり、南から見た姿からは想像出来ない要害となっていることは、この林道終点に立ち湖面から吹き上げてくる風にも・更に山王丸から望む大獄城 (小谷山)の切立つ岩壁は鎧武者の雄姿にも感じられます。
桜馬場から大広間への平入り虎口 ・黒金門

金吾丸は大永5年(1525)小谷城を近江守護観音寺城主 佐々木(六角)定頼が攻めた際、浅井亮政は越前朝倉崇滴教景に救援を要請し、この金吾丸(金吾嶽)に陣を敷いたと云われます。 此処の 曲輪だけを見て普通の山城と同じ・・・と思って入ると大きな誤りですよ。続く多くの曲輪群に次々と現れる広い曲輪・土塁・石垣・石積みの平入り虎口へと…全山要塞化した遺構の巧みさにも”息つく暇”を与え無い程の感動の連続です。
大広間から見る本丸の石垣・池・虎口


石垣・石積みや1mを超す土塁の城等は片手にも満たず、 遺構さえ定かでない丹波の城砦を比較する事自体が無意味ですね…何せ・近江を制する者は天下を制す…とさえ云われる城と 遺構に恵まれる城郭フアンの近江衆が羨ましい。小谷城絵看板に戻って車止め石杭を抜けると既に番所跡・発掘調査を思わせるブルーシートは猪等が、下草や落葉の積もった柔らかい曲輪を畠に変えてしまうのを防ぐため。
大堀切から本丸西側の石塁・右下方に局屋敷

大手口の出入りを監視した此の番所は、落城の際・城主浅井備前守長政の妻・お市(織田信長の妹)と三人の姫(茶々・初・督)が城を後にする姿を見送っていたことでしょう。
お市の方は信長の死後:柴田勝家と再婚するが賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉軍に敗れ勝家と共に果て、茶々は其の秀吉の側室となった淀君 ・初は京極高次(大津城主)に嫁ぎ、小督(お江与)は徳川2代将軍秀忠夫人となった家光(3代将軍)や千姫の母として知られます。旧知の朝倉氏との因縁で!姉川から小谷へと義兄・織田信長と戦うに至った事は 姉川古戦場で触れているので割愛します。
京極丸側から中の丸への曲輪群?

少し急坂を登ると御茶屋と呼ばれる広く長い土居囲みの曲輪を見て、更に広く高い土塁囲みの「お馬屋」と、尾根上の大きな池を石積みで二つに分けた 「馬洗池」がある。大広間北・本丸下の池同様に丁寧な石積み池が、山城での貴重な水源確保の重要性を窺わせます。 生命線である”水の手”を押さえられる事は致命的で、この為の落城は黒井城をの例を待つまでも有りませんね。 馬洗池上部への登城道に「首据石」が有り崖状の谷側には石積がされている。往時のものか危険な為に整備されたものかは確認も出来なかったが、通路にある岩の側を通らないと、
京極丸(中の丸だったかな?)への平入り虎口

先に行けない場所にあり、いやが上にも目立つ。 小谷城の築城は大永3年(1523)北近江の守護職:京極氏の被官で、湖北の国人領主浅井亮政が、 京極家の継嗣に絡む内紛に乗じて江北に実権を握っていた重臣の上坂信光を失脚させ、代わって実権を握った時には既に築城は着工していた様で翌年には、内紛で追放されていた京極高清・高延父子を「京極丸」に迎え入れ、 北近江支配の有力大名になっていく。
京極丸の虎口から高土塁

其の後・六角(佐々木)氏との戦には越前の朝倉氏と結んでこれに対峙したようです。六角氏とは翌大永5年(1525)や天文7年(1538)に因縁の?戦いが有った様で詳細は不詳ですが、天文2年(1533)には敵方の六角氏に内通した今井左衛門尉秀信の首を浅井亮政は此処 に晒したと言います。此の通路西側切岸上の「桜馬場」曲輪には玉垣を巡らした浅井氏一族及び 家臣の供養碑が建っています。大永4年(1524)頃の初代浅井亮政から久政へ、 そして義兄・織田信長と戦う事になります。
小丸・山王丸間の東にある大石垣<

姉川合戦に敗退して籠もった小谷の落城で天正元年(1573)久政・長政親子が自刃して滅亡するまで浅井氏三代約50年の居城は、 首据石と桜馬場の先で一挙に全山要塞と化したスケールの大きな連郭・石垣・高い土塁や堀切…が続き、日本五大中世山城の一つを堪能します。先ずは大広間への石段が見える平入り虎口。東端からは「赤尾屋敷」の標識を見て家臣:赤尾美作守清綱の屋敷跡へ。 姉川合戦の後も3年を此処で耐えた浅井備前守長政が信長の投降勧告には応ぜず、 本丸東下にある此処「赤尾屋敷」で自刃(享年29歳)したところです。赤尾屋敷から西へ切岸を詰めると、本丸(鐘ヶ丸)と「中の丸」間の大堀切に出てくる。
小丸・山王丸の間にある 虎口の崩れた石垣

余りに広い平坦地には堀切と云われても信じ難い程です。本丸背後を高みへと更に稜線沿いに続く曲輪群は、 此の大堀切を境のして様相が異なり石垣、石塁が多用されより防備も堅固 を極め京極丸・山王丸の郭周辺を護っています。小谷城最大規模の高石垣も最高所の山王丸付近にあり、本来は本丸周辺を強固に補強する山城の一般概念からは ちょっと外れており錯乱状態!?。もともとは最高所が小谷城本丸の山王丸だったのでしょう?大堀切を境に 区分けした一城別郭の城の様ですが、 此れより本丸下部を”主陣地帯”、上部の中の丸・京極丸・山王丸等を”絶対確保域”(此処の進入を許せば落城したと同じ)という「二段連郭式城郭」構造とも解説されている資料もあります。しかし尾根上部からの備えは弱い様で、 山崎丸〜大獄城の尾根通しや清水谷経由で六坊に達した 敵の攻撃には、どれほどに耐えられたものか。
山王丸の石垣と虎口

堀切?は本丸と「中の丸」の間にあって高さこそ有るが、幅が広く・大きく平坦で尾根を斜面まで堀切らず、まして本丸側への曲輪へは大きな段差もなく、西から斜上する通路には、 石積みの残る平入り虎口を「中の丸」に入る。本丸南の大広間(千畳敷)もそうだが、中の丸から京極丸〜小丸(此処は浅井長政の父:久政が落城の際の自刃した所)〜山王丸にかけて、周囲は一段と錦秋に染まり、 階段状に続く美しくも端整な曲輪は特別開園された庭園の中を歩いているようです。久政の隠居所だった「京極丸」には羽柴秀吉が侵入し、 本丸の長政との連絡を絶って占拠したところ。久政自刃の「小丸」を出ると小谷城最高所の山王丸に至る高い切岸を見る。
小谷城最高所(395m)の山王丸

付近に散乱する石も崩れかけの 野面積み石積みの残決も少し大きめで、往時は相当の威圧感をもって迫った事でしょう。其の片鱗が東へ周り込んだところに残されています。高さ約4m・長さ約 25m程の大石垣も下部に散乱・堆積している様子からは、もっと高かったのかも知れません!。”絶対確保域”として鉄壁の構えを見せ且つ比叡山延暦寺の守護神でもある日吉山王社を祀っていた最後の郭・山王丸からは、 更に西北に切り立つ岩壁の白い胴着を纏った険しい山容を覗かせ大獄(おおづく:小谷山 495m)が姿を現します。体力に自身の無い、しかし大獄へは是非行ってみたいYORIさんにとっては気力を振り絞って、案内のKAIさんからは是非:月所丸は見て欲しいPOINTだと・・・日没を考えれば余裕は無いが行けるところまで…行ってみましょう…(^^ゞ 山王丸を後にして 大獄への山道を「六坊」に向かって下ります。 山王丸から大嶽に至る途中に”←清水谷” 下降点の表示板と「六坊跡」説明板が立つ。此処は2代目城主:浅井久政の古文書に「當城搦手」とあり、清水谷を登ってくる搦め手道との合流点になっています。
月所丸の畝上竪堀

久政は江北支配を進める上で軍務や政務を司っていた六つの寺院が散在して、不便な為ここに集めたとも言われます。 信長に長年抵抗した一向宗徒や比叡山の僧兵も居たのでしょう。小谷城跡絵図には、六坊から発する山続きの道を「越前忍道」と記されます。元亀3年(1572)姉川合戦に敗退し小谷城に籠もった際、前:朝倉義景の援軍 20,000が清水谷西尾根上の山崎丸・福寿丸から大嶽城に至り城砦群を築き搦め手を守備したといいます。義景は一時・大獄から撤退した様で其の道を「越前忍道」と呼んだものか?再度援軍を小谷城に進めるが、 信長軍が虎御前山城に陣していて入城出来ず、朝倉勢留守部隊?が護る大獄が落とされると越前へと敗走するが、本拠地・一乗谷まで追撃した信長軍によって義景も自刃に追い込まれます。木の階段が続く急な山道から山腹を捲く細い分岐に着く。”KAIさん”が是非寄って欲しいと云う「月所丸」は危険な程の急斜面の犬走り状の細い道が続き、 今朝方の雨で滑りやすい上にアチコチ崩壊気味、持つに耐えない下草では手懸かりにも頼りにならない…(^^ゞ
月所丸の土塁囲みの曲輪

しかし其の甲斐あって畝状竪堀や綺麗に残る土塁囲みの曲輪が見られた。ゆっくり観察していきたいが時間も無い。先程の道を戻っても再度急な登りなら…と。 大獄(おおづく)への尾根に向かって急斜面を直登して尾根に出た。湖北平野と西陽に輝く琵琶湖上には竹生島のシルエット、賎ヶ岳〜山本山も見える。未だ山城探訪等思いもよらず登山オンリーだった頃、 奥琵琶湖パークウエイから賎ヶ岳トンネルを抜けたり、山本山からの縦走を考えて登山口?の朝日神社まで行ったが松茸山入山禁止の看板に(H11.10.30)引き返した事も今・残念な思いで眺めます・・(^_-)-☆


大嶽城 小谷城の最高所に位置して、出丸の一つがあった小谷山山頂 (大獄城 495m)は幅広い (約8m程)土塁が曲輪の三方を廻しているが、 雑木にも囲まれてフライパンの底の様な?(土塁が直角なので卵焼き器か!!)平坦 地が有る。中央付近に城址跡を示す標柱が立っているが、最高所とは云え雑木に囲まれた本丸周辺からの展望は望めません。大獄城は山王丸を最高所とする小谷城が築かれる以前に築かれており小谷古城と呼べるのかも!。 更には但馬八木城の様に土城・石城とも呼べるかも!
大獄城・空掘北の土塁を敷設した 二重の大堀切が有る

しかし遺構の縄張りからは、 主に西と南西方に長大な二本の竪堀に挟まれた小曲輪と三本の竪土塁が突き出す防備施設に、さらには焼尾に続く北西尾根には浅井方の浅見対馬守の陣所があり、 此処に大きな二本の堀切を設けて遮断するのは、連絡や撤退には逆効果の為、浅井氏が織田氏との合戦に改修したものではなく、 羽柴秀吉が北西〜南西方の北陸路を警戒し、敵(柴田勝家)を意識して築かれたもので、其の覇権を争そい天正11年(1583)賎ヶ岳合戦に至った頃に機能した陣城とも考察されています。天正元年(1573)小谷城の落城後 ・北近江に12万石を領して羽柴秀吉が小谷城に入るが、山城が有利だった時代は過去のもの。
小谷山三角点から大獄城本丸

戦術は変わり峻険な小谷城は廃されて琵琶湖の水運、北国街道の陸運を重視して天正3年(1585)城を長浜に移し、小谷城から建設用材や石材を多く移して長浜城を築城します。 丹波の赤鬼と呼ばれた黒井城荻野才丸(後・赤井悪右衛門直正)の様に若くして勇猛を馳せ、 最後は三木城の別所長治のように若き軍将として惜しまれ、ヒーローとして親しまれる長政像は何時の日にか 大河ドラマで復活するかも・・・・!!
(現地小谷城各郭内の所々案内板 及び日本城郭大系:新人物往来社を参考)

 本誌 丹波霧の里HOME 別冊 別冊丹波霧の里HOME
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